宗教真理アカデミー

メールマガジン002号

「ソーハム瞑想法」について


 こんにちは。

今回は≪ソーハム瞑想法≫についてお話します 。
「ソーハム」は最高の部類の属するマントラの一つであることは、シュリ・サティア・サイババも仰っておられますが、そもそも、「マントラ」ですから、マントラは意味をちゃんと把握したうえで真心を込めて唱えることが必須条件です。
「マン」は「意念(マナス)」のマン。「トラ」は「器」の意味で、マントラは「意念の器」であり、それも、「神聖な意念 の器」です。
 つまり、「マントラ」という入れ物には、「神聖な思念」が入っているわけで、意味を分かりながら唱えることで、中身の神聖思念を「意識の前面に呼び出す」効果が、マントラには有ります。
 ですから、意味の分からない「呪文信仰」に堕して唱えるような真似はしないように、くれぐれも注意して下さい。
  以上が、マントラに関する一般論です。

■ 梵語に詳しい方にお聞きしましたところ、『ソーハム』には次のような意味があります。
 ソーハム(so'haM)は、分解するとサハ・アハム(saH aham)。saH が三人称代名詞主格単数の『彼が』。 aham が一人称代名詞主格単数の『我が』。
 この二つを並べると連声して so'ham という音になり『彼は我なり』 の意味になります。

 このように、「ソーハム」は『彼は我なり』が一番素直な和訳です。しかし、文型的には、次の点を押さえておくことが重要だということです。以下は、梵語に詳しい方のコメントです。
 −−−日本語で「彼は」と言えば、その文で主題となるものを特定していることが明白です。また、「我なり」と言えば、それに対する補語を断定していることが明白です。しかしながら、サンスクリットの「so 'ham(<saH aham)」を構成する「saH」も「aham」も、どちらも<単数主格>ということで立場が同じなのです。そして、述語動詞もありませんから、「saH」と「aham」のどちらが主語でどちらが述語(補語)なのかは、(ソーハムだけからは)確定できないのです。大事な単語は先に来ますから、『彼は私である』が最も素直な取り方ですが、『彼なのだ、私が(=私が彼なのだ)』でも全く構いません。そして、この同じ形(so 'ham)がそのまま、もっと長い文の主部になって、『<そういう者である私>は、〜』 或は 『<まさにその私>は、〜』 さらに 『<それゆえに私>は、〜』 という使い方もできるのです。最後に細かい点ですが、「saH」は人間等の理性的存在の男だけでなく、文法上で男性単数(でありそうな)のもの一般を指すことが可能なので、「彼が」の意味だけでなく、「それが」とか「その人が」の意味範囲にも重なっています。−−−
 ★ ★ ★ ★ ★
以上の、梵語に詳しい方の「語義解析」を踏まえて、空虚ではない本物の「ソーハム」真言の唱え方について 説明して行きたいと思います。

「彼は我なり」の意味でソーハムと唱えている人が殆ど全員でしょう。しかし、この意味で唱えると、この真言は死んでしまいます。「He is me」 この意味では「ミー」が肥大化してしまうのです。
「人を河川、神を大海」に譬える比喩があります。河川はやがて大海に融合します。この比喩えで言うと、「He is me」の意味で唱える「ソーハム」では、「河が海を呑み込もう」とする不純な動きのモードになってしまう可能性が99.99%です。
ある宗教教団が教えている「我即神也」マントラも同じです。「我」を最初に出していますね。これは「小我(または賊我)第一主義」で「無知で愚かな我」を初めに出しながら、これを「そのまま神だ」と思い込むことは、「河が海を呑み込もう」とする事であり、悪いエゴの肥大化に直結します。よって、このような意味で唱えるソーハム・マントラでは絶対に悟れません。

漫画で、男女が入れ替わってしまう青春コメディーがいくつかありました。この例が分かりやすいので、これで説明しましょう。
例えば、女子高生のアヤヤが突然、ボーイフレンドのタッキーの身体と入れ替わってしまったら、これに気付いて仰天したアヤヤは何と言うでしょうか?
「彼は私です」と言うでしょうか? これではおかしいでしょう?
そうではなくて、「彼なの? 私が!」 と自分の身体を触りながら叫ぶのではないでしょうか。そして、暫くして少し冷静になると、「彼なんだ! 私が!」 となるでしょう。

これと同様で、「ソーハム」は転倒した意識が元に戻る「悟り」の瞬間を表現した真言ですから、ソーハムの文型的な分析から明らかになった、もう一つの解釈の仕方、即ち−−−「彼なのだ、私が」−−−これでなければ駄目なのです。
この意味で唱える時だけ、ものすごーく強烈な効果が発揮されます。

もう少し補足説明しましょう。
「ソー」 と、ながーく唱えます。このとき、「彼なんだ」と思うと「彼」の意味が抽象的で意味不明瞭になってしまい、マントラの効果が消失してしまいます。そこで、すかさず、「ソー」から無理なく連想できる「荘厳」という言葉を呼び出して、
「荘厳な超越神なんだ」 とか、「荘厳な超越意識なんだ」 と思念します。
(日本人バージョンです)

次に、「ハム」ですが、
この場合の「我」は、表面上の単なる物質の、五蘊の我ではなく、奥深いところに存在する−−「不生の我」−−−として「ハム」と発語しなければいけません。ここがポイントです。
この場合の「不生」は「物質として生起していない」という意味です。
よって、「ハーム」と長く言いつつ、物質的な「我」を吐息と共に吐き出しながら、ふかーいところの「不生の私」にまで潜って行くようにします。

このような意念を働かせながらの「ソーハム」だと、
「荘厳な超越神なんだ、(ふかーいところでの)不生の私は」
という認識内容の真言になります。

ソー で 「荘厳(壮大)なる超越神なんだ!!」
ア・ハーム で 「(ふかーいところでの)不生の私は!」

決してこじつけではなく、ソーハムには本来こういう意味があるのです。
ですから、正しい本来の意味を把握するということで、このような「神聖意念の呼び出しシステム」を定着させましょう。すると、ソーハムが「単純な言葉」であるだけに、そして呼吸の吸う息と吐く息に連動して「ソーハム」と言われる事から、呼吸と共に、いつでも、どこでも、簡単に呼び出せるメリットがあり、意識を瞬時に良い方向に変えることができ、これを持続させることができます。

ちなみに、空海は悟りの意識を「秘密荘厳心」と表現していますから、ソー音を「荘厳」に結びつける瞑想法は、空海もOKと言って下さることでしょう。

 再度申し上げますが、「ソーハム」は、悟りに入った時の「驚くべき事実の発見」の言語化であり、この悟りは「叡智のヨーガ」でしか会得できません。(詳しくは『般若心経完全マスター・バイブル』前篇第三章をお読み下さい。)
 本来的にバクティーヨーガ行者であったシュリ・ラーマクリシュナも、最後の一線を越えて「悟り」に入定するためには、カーリー女神がトータプリというジュニャーニ(=叡智のヨガ行者)を派遣して、信仰対象のカーリーの姿を切り裂くようにラーマクリシュナに命じさせ、命令通りにそれを実行した、シュリ・ラーマクリシュナは、それによって、初めてニルヴィカルパ・サマディーに没入し、神を悟りました。
 その後、本質的にバクタ(=バクティー・ヨーガ行者)であるシュリ・ラーマクリシュナは、
「砂糖になるより砂糖を嘗めていた方がいい」 という有名な名言を吐きました。
しかし、どっちが良いかは別として、悟りとはブラフマンへの没入であり、「砂糖になること」です。
ですから、ソーハムは「砂糖なんだ、私は。」という感じの真言だと理解しなければいけません。

 ですから、<叡智のヨーガのマントラがソーハム>であり、「叡智のヨガになっていないソーハムの唱え方」では全然話にならないばかりか、間違った唱え方だと、悪いエゴが肥大化して傲慢になるだけなので、そんなやり方なら、やらない方が良いといえます。

「ソー」で−−−「荘厳にして全能なる神なんだ」
「ハム」で−−−「甚だしく奥深い私は。」

このように意識しても良いと思います。「ハーム」で「不生の我」を想起するのが難しい場合は、「ハム」で「はなはだしく奥深い私は」と思念して、「奥深い私」に目を向けて集中すると良いでしょう。そうすると、その結果として、「表層の私」が徐々に意識されなくなり、「表面的な波立ち」が鎮静して行き、「表層の私」が「無我」の状態に近づき、透明になって行き、すがすがしい風が身体を通り抜けるようになるでしょう。

ここで、一つ注意点です。『般若心経完全マスター・バイブル』の前篇第三章でも指摘していますが、「梵我一如」という時の「我」である「アートマン」は「魂」の意味では断じてありません!!
ここは、「真我」の意味です。 「個体的魂」と「真我」は異なるものです。

 「梵我一如」は叡智のヨーガで到達する究極のゴールですが、叡智のヨーガは「引き算」と覚えておくと良いでしょう。無常なもの、かりそめのものを「否定して・斬り捨て」して、「真なる不滅のもの」に集中・一体化する技法だからです。
無常なるものはやがて塵となり灰になる。それらに囚われることなく、泥と塵の中に埋まっている「不滅の金塊」を見つけようとすること。
その「不滅の金塊」、それがアートマン(真我)です。
そして、それが何と、ブラフマンでもあった、というのです。
このことを、我々も実際に体験しよう、というのが叡智のヨーガです。

さて、そもそも、吸う息の時には、誰でもプラーナ(気・生命素)を体に取り込みます。そして、吐く息の時には、体に不要なもの(二酸化炭素など)を排出します。
つまり、<吐く息=不要なものの排出> という事実をはっきり認識して下さい。
−−−「純粋性を吸い込んで、不純性を吐きだす」瞑想法−−−が有りますが、ソーハム呼吸法は、この種の瞑想法のうち「最も強烈なもの」です。叡智のヨーガと合体しているからです。

<実践法の一例です>
「ソー」で長く息を吸い込みながら、「荘厳・大光明・全能神なり」と唱えます。
「ハーム」で長く息を吐きながら、「肉(欲を) 吐き捨てた、裸の私は」 と唱えます。(心の中で、です)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
肉体や魂などの「個体性」を全部脱ぎ捨てた「裸の私」こそが「真我」です。
<吐く息の時に肉を吐き出すようにして、これを呼吸毎に日夜実践する。>
これは、ものすごーい叡智のヨーガです。
しかし、このような「不生の我」に集中するのは、強烈な分、実践するのはとても難しいといえます。

そこで、もう少し、ソフトな形に薄めた、万人向けの、『純粋性』に焦点を絞った実践法を紹介しましょう。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「ソー」と言いながら、
−−荘厳で壮大な『愛と光と喜びと平安』以外のなにものでもない−−−−と想起します。
「ハーム」と言いながら、
−−半端で不純な、悪い感情や想念をぜーんぶ、ぜーんぶ、綺麗さっぱり排出したあとの、『純粋無垢なワタシ』という者は−−−−−と思念します。
  (「ハーム」の「ハ」に、「半端」と「排出」を掛けています。)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

上記のような、『純粋性』に焦点をあわせた『ソーハム瞑想法』を(細かい文言はどうでも良いですが)正しい意味内容を保持しながら実践するならば、徐々に、次のことがはっきり感じられるようになります。すなわち−−−−
≪感情は自分ではない≫ ということです。
 多くの人は、ついつい、≪感情を自分だと思い込んだまま≫、感情主導で論理を構築し、行動をしてしまいます。
しかし、『ダルマと感情』−−−どちらが上位かといえば、ダマルの方が上位に属します。
 
−−−半端で不純な、悪い感情や想念をぜーんぶ、ぜーんぶ、綺麗さっぱり排出したあとの、『純粋無垢な、ダルマと一体不可分の、真(マコト)のワタシ』は−−−
 
このように、ダルマと一体の真の私−−−に到達するためのマントラがソーハムです。
 
以上をまとめます。
ソーハム瞑想法には、
(ア)『浄化のための濾過フィルター』が装着・作動しているものと、
(イ)そうではないフィルター無しのもの
この2種類があるのです。私が皆様にお勧めするのは、(ア)のやり方です。これが正しいので、この方法でソーハム瞑想法を根気よく実践すれば、必ず効果が出てくることでしょう。

しかし、こうした正しいやり方を知らないで、ただ「彼は私なり」「神は私、私は神」という理解でソーハ瞑想法をやるならば、浄化の濾過フィルターが無いわけですから、悪い方向に行ってしまいます。濾過フィルター無しに「私は神だ」と思い込むマインド・コントロールを行うと、テキメンに、傲慢になって行きます。反省する心も生まれません。謝罪の心も生まれませんし、ましてや償いの心も生まれません。自分の犯している罪にも気づかなくなってしまいます。なにしろ、「神」なのですから、自分の罪のことなど、考える気持ちに全然ならないのです。

本屋の『三省堂』は、『我、日に三省する』という誰かの言葉から取った名称だそうですが、人間は不完全ですから、こうした反省心は必要不可欠です。どんな人でもよく反省すれば、一日に三点ぐらい反省点があるはずです。

『日々の三省』を忘れたソーハム瞑想法など、やらない方がマシです。いえ、もっといえば、そういう間違ったやり方のソーハム瞑想法は、白黒反転して『悪いマントラ化』したものなので、やってはいけません。


−−−このように、『ソーハム瞑想法』は、正しく実践すると強い効果が有る一方、間違った方法で実践する可能性が極めて高いマントラです。
 それゆえ、私としては、ソーハム瞑想は、やるなら、必ず、これまでお話したような「正しい形」で実践するように−−−と申し上げます。
 しかし、私が『般若心経完全マスター・バイブル』で明らかにした通り、『無自性の瞑想法』という般若ヨーガの強烈な瞑想法があるのですし、こちらの方が間違いがない『安全な実践法』であり、効果も保証できますから、私としては、ソーハム瞑想法をいい加減にやるぐらいなら、『無自性の瞑想法』を実践した方がずっと良い−−−と申し上げる次第です。

 とまれ、ソーハム瞑想法も、無自性の瞑想法も、共に、叡智のヨーガですから、叡智のヨーガを実践したいという人には、お勧めの瞑想法だと言えます。本気で正しく実践すれば、驚くほどの効果が有ります。
それでは、また。

碧海龍雨(あおみ りゅう)