般若心経 意味解説No.1サイト
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「J-カバラIW総研」 (近日、この表紙は変更します)
仏教は、ヴェーダンタ密教の中に包摂されると主張します。(SINCE 2003/12/12)
「般若心経の意味」、究極真理たる「空の意味」について、広く皆様に伝授し・普及させる目的があります
「空と般若心経」について、一歩一歩段階的に、
それも <無料で> 学習できます。
では、当ホームページで、心ゆくまでゆっくりと、深遠霊妙なる仏教教理を学習して下さい。
★ 「仏教の三法印は間違い」「本物の縁起の法」発表です
「自性/無自性」の意味をササッと解説しているページへ
★『因縁起』の深い意味はこちら
■般若心経の各「語義」を詳しく解説■
(ほんまもんの「本覚思想」を そして、般若心経の奥義 「アドヴァイタの一大曼陀羅観」をも紹介します。)
★ 「空」には、次の「2つの意味」があります−−−
(1)自性有る存在(=虚空梵我=神のこと)
(2)無自性という性質(我が無い、他に依存的する受動性)
わたしは、「空」をこの「2義の掛詞(カケコトバ)」だと主張します。
このように明確に主張するのは、日本人では初めて。
本場インドの研究者には、既に居ます。 |
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★ 上記の瞑想法については、詳しくは、こちらを御覧下さい。
★ 「無自性」という専門用語を 日常語レベルに「内容意訳」します。
そうした「内容意訳」を使って 「般若ヨーガ」を実践してみましょう。
★★★【般若心経・瞑想和訳】★★★
「存在本源の光輝」を遍(あまね)く観照することを得(え)、「相対/絶対」両界を自由自在に観想する、(という、こうした偉大なる)「大悟」(会得)のための発心(ほっしん)堅固な勇者(であるところの)、
<観自在菩薩>は、(まこと)深甚霊妙にして、「完璧なる太極叡智」(との結合ヨガであるところの)帰入行を行(ぎょう)じている時、
(まさに、その時である)
(他でもない「自分自身の体」を!)
「五要素の集合体(に過ぎない!)」と看破し(た上)、
そのいずれにも、(それら五要素を単体・単独で取り出して理性で分析すると)まさ(正)に(それら一つ一つには)
「実在的主体性など(全く)無い、受動的なものである!(=無自性という性質がある!)」
と見極めた(のである)。
<上記は、あくまでも、「梵語原文」に即して、 「空=無自性」という「一義に限定」した和訳です。
しかし、玄奘三蔵法師による中国語への翻訳文のニュアンスには、上記の「空」の意味のみならず、もう一つの意味、以下の三段階に進化する空観の「第二段」(自性)の意味(すなわち、根源仏・根源神)を含めた形で、次の「度一切苦厄」に続くと読むことになります。なぜなら、上記の一義だけでは、「度一切苦厄」にはならないからです。
つまり、身体の五要素すべてが、「根源活動仏の一変化相である」と悟るレベルのサマディーに達して初めて、「度一切苦厄」となります。>
〔(そうして)一切の苦厄を超越した。〕〔⇒純粋神聖・大歓喜体験〕
−−−(以下は「観自在菩薩」の説法)
シャ−リプトラよ。ここでは、
−(以下、梵語原本に書いてある ≪三段階に進化する空観≫ です)
●●第一段●●
(個我を形作っている)物質(それ自体)は「実在的主体性など無い受動的な存在」である。 「(それ自体に)実在的主体性など無い受動的な存在」 が実に(個我を形作っている)物質なのである。 (=諸法空相を「色」について述べたもの)
●●第二段●●
(そしてまた) (個我を形作っている)物質は「空相なる究極本仏の相対界(への)投射相」と異なるものではない。 「空相なる究極本仏の相対界(への)投射相」と(何ら)異ならないものが(個我を形作っている)物質なのである。 (=諸法実相を「色」について述べたもの)
●●第三段●●
(そしてまた) (個我を形作っている)物質は、「(それ自体)実在的主体性が無い受動的なもの」 でありながら同時に 「究極本仏の絶対界無相法身(ホッシン)(の一変化ヘンゲ相)」でもある。
「(それ自体)実在的主体性が無い受動的なもの」でありながら同時に「究極本仏の絶対界無相法身(の一変化ヘンゲ相)」でもあるものが、(個我を形作っている)物質なのである。
(=相反する「諸法空相/諸法実相」両者を止揚した統一ヴィジョンを述べたもの)
−−(以上で、≪三段階に進化する空観≫ 終了)
感官による印象の感受(の場合)も、観念思考力(の場合)も、(生体的・意欲的)造成力(の場合)も、個体意識(の場合)も、全く同じ(事)である。
シャ−リプトラよ。ここでは、
(相対界の)総ての「存在・物事・理法」(=諸法)は、「(それら自体、単体で取り出して分析すると)実在的主体性が(全く)無い受動的なもの、という相」をしている。
(即スナワチ・ち−−−)
「発生すること」(という動的現象それ自体を単体で取り出して分析すると)それ自体に実在的主体性がある故に「そうなる」わけではない(受動的なものである)し、
「消滅すること」(という動的現象それ自体を単体で取り出して分析すると)それ自体に実在的主体性がある故に「そうなる」わけではない(受動的なものである)。
「汚(きたな)くなること」(という動的現象それ自体を単体で取り出して分析すると)それ自体にも実在的主体性がある故に「そうなる」わけではない(受動的なものである)し、
「清潔(きれい)になること」(という動的現象それ自体を単体で取り出して分析すると)それ自体に実在的主体性がある故に「そうなる」わけでもない(受動的なものである)。
「増加すること」(という動的現象それ自体を単体で取り出して分析すると)それ自体に実在的主体性がある故に「そうなる」わけではない(受動的なものである)し、
「減少すること」(という動的現象それ自体を取り出して分析すると)それ自体)に実在的主体性がある故に「そうなる」わけでもない(受動的なものである)、(という相をしている)。
(=上記の六つの動的現象を分析すると、六変化すべて、「自分から望んで自力でそのような変化を選択してしいるわけではない」、という当たり前の分析を述べたもの、でも内容は深遠です)
シャ−リプトラよ。この故に、
「究極本仏の、相対界投射相」においては−−−
(個我を形作っている)物質(それ自体)には実在的主体性は無い受動的なものであるし、感官による印象の感受(それ自体)にも実在的主体性は無い受動的なものであるし、観念思考力(それ自体)にも実在的主体性は無い受動的なものであるし、(生体的・意欲的)造成力(それ自体)にも実在的主体性は無い受動的なものであるし、個体意識(それ自体)にも実在的主体性は無い受動的なものである。(=五蘊無自性)
視覚器官にも、聴覚器官にも、嗅覚器官にも、味覚器官にも、触覚器官にも、意識器官にも、(それら自体には)実在的主体性全く無い受動的なものである。(=六根無自性)
可視的形象にも、音響にも、香気・臭気物質にも、有味物質にも、感触有るものにも、「(相対界の)存在や物事や理法」にも、(それら自体には)実在的主体性は全く無い受動的なものである。(=六境無自性)
視覚領域(それ自体)にも実在的主体性は全く無い受動的なものであるし、そこから個体意識の領域に至るまで、(六識界総て)(それら自体には)実在的主体性は全く無い受動的なものである。(=六識界無自性)
聡明博識(それ自体)にも実在的主体性は全く無い受動的なものであるし、暗愚無知(それ自体)にも実在的主体性は全く無い受動的なものである。
(よって)聡明博識は尽きないし、暗愚無知も尽きない。(また、暗愚無知から順次)老いと死に至るまで、(十二因縁の何れにも)(それら自体には) 実在的主体性は全く無い受動的なものである。(よって)老いと死に至るまで(十二因縁の何れも)尽きることがない。(=十二因縁無自性)
「人生の業苦」にも「悪業累積現象」にも「業苦の止滅」にも「業累解脱の諸方法」にも、(それら自体に) 実在的主体性は全く無い受動的なものである。(=四諦無自性)
「個人的に経験する働き」(それ自体)にも実在的主体性は全く無い受動的なものであるし、(よって)「経験知の個人的獲得」(それ自体)にも実在的主体性は全く無い受動的なものである。
それ故に、「(個としての)獲得(一切)無し」(との一事)を以て、「悟りへの発心堅固な勇者」たる者、「完璧なる太極叡智」に依拠して、「覆うもの無き心」に住むのである。
心を覆うもの、絶無となるが故に、(物事に)恐怖することも無く、転倒した謬見(一切)を超脱して、遂に涅槃に入定するのである。
(また、過去・現在・未来の)三世の何処(どこ)にでも御座(おわ)します諸々の仏陀たちも皆、「完璧なる太極叡智」に依拠して(いるが故に)、「無上の真正・無欠・覚醒境」という正覚(さとり)を円(まど)かに現前させているのである。
故に、(人は)知るべきである−−−「完璧なる太極叡智」の偉大な真言を。偉大な明智から出た真言を。無上の真言を。無比なる真言を。
総ての苦しみを鎮める(ことができる)、空虚に非(あら)ざるが故に真実の、「完璧なる太極叡智」に関して説かれた真言を。
それは即ち−−−
求法 弘法 貫徹ぐ法 貫徹全ぐ法(時) 神覚(本覚)あれ
guho guho kantetsuguho kantetsuzenguho(ji) sinkakuare
ここに、「完璧なる太極叡智」の「心髄」(についてのお経)を終える。
(下との掛詞)
ここに、「完璧なる太極叡智」たる「心(=唯心法界)」(についてのお経)を終える。
≪注意≫−−−上記の瞑想力養成和訳では「無自性」について「恣意的な選択活動自由性は無い」という和訳を当てましたが、これは入門篇における 『あくまでも仮設的な用語』 に過ぎません。この内容が理解できましたら、これを手がかりにして、更に深い意味へと入って行く必要が有ります。
そのためには、『無自性の三要件 及び 無自性存在の三無力』 についてちゃんと理解することが必要不可欠です。
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心経マスターバイブル 前篇 第一章 第四節 <般若心経の全体像>
(前−1−6)
前項で見た「本覚思想」は、インドのウパニシャッド哲学の不二一元論と軌を同じくする、同流の思想と言えます。
インドのアドワイタ(不二一元)哲学では、
●「不二の絶対界」の現れ(=顕現物)が「二元的な相対界」であると見ます。
ですから、逆に、
●「相対界」は、「絶対界」から発生した「顕現物=マ−ヤ−(幻影)」だと見ます。
つ我々の住む「相対的二元・物質世界」を 「幻影(マ−ヤ−)」 と見て、だからこそ、
「それらには実体がない、片時の仮の物(虚妄)に過ぎない、無常なり」 と見ます(=無常観)。
しかし、同時に、「実体がない・幻影・無常なり」 とは言いながらも、
深く洞察すれば、それらは実は尊貴なる「不二の絶対界の現れ」であると、
このように深く実相を観想します。
この両面性こそが最高に重大なポイントです!
★相対界の「この両面性」を見極める大局観を持てるかどうか!
〜〜ここから『諸行無常』の「本当の意味」が流出します!〜〜
< 『諸行無常の意味(真義)』については、 「語義解析16.行(サンスカーラ)」を御覧下さい。> |
「自性/無自性」の意味をさっと解説しているページへ
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このページの最終更新日 2012/9/2
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