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 般若心経 完全マスター 
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般若心経マスターバイブル前篇第1章


【前篇】  百万人の不二一元哲学入門


第一章 神の夢 と 人間の夢

    第一節 2種類の夢の違い
    第二節 「完全」を観想する「叡智のヨーガ」
    第三節 不覚と本覚
    第四節 般若心経の全体像

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第一節 2種類の夢の違い

(前−1−1) 
 現代の大聖者シュリ・チンモイが弟子たちに教えている「最強のマントラ」の一つに「インヴォケーション・マントラ」が有ります。その中に、
≪ My journey’s Goal, Thy soulful Dream ≫  〔私の旅のゴールは、あなた(=主なる神)の霊的な夢〕
という一節が有ります。
 宇宙の創造主が夢見ることは、そのまま現実になります。宇宙の創造主が意志すれば、それは実現します。
 地上に生きる大聖者が 「私の旅」 という時には、それは「真理を人々に伝える旅」であり、「人々を真理に目覚めさせるための旅」 だと言えましょう。
 また、信徒がこのマントラを唱え、歌う時には、「私の旅」とは、「悟りというゴールに向かう修行の旅」という意味になります。
 そして、そのいずれもが、創造主がお望みになっておられる 「聖なる目標」 だと言えます。

 ところで、人間は、創造主がお持ちの ≪ 夢見る力 ≫ の一部を分け与えられています。そして、それを良い事に、人間は夢見る力を勝手気ままに使用して、好き勝手な夢を見ています。神のダルマ(理法)に反した≪ 悪い夢 ≫ も沢山見ています。
 そして、そうした一人一人の悪い夢が複雑に絡み合って、この地上世界において 「悪夢のような現実」 となって現れているのです。

 こうした ≪神の夢≫ と 「人間の夢」 との違いについて、深く深く洞察して行くならば、その人は「覚醒への道」を歩み始めていると言えるでしょう。



第二節 「完全」を観想する「叡智のヨーガ」

(前−1−2)
 インドのラ−マクリシュナ・ミッションを創設したスワミ・ヴィヴェ−カ−ナンダは、その講演の中で
「あらゆる進化(エボリュ−ション)は内包(インボリュ−ション)を前提としています」 (『ギャ−ナ・ヨ−ガ』日本ヴェ−ダ−ンタ協会刊 33頁)
と発言しましたが、「彼のこの洞察は正しい」と直観する人々は、ジェット機に乗って目的地に向かうようなスピ−ドで「宗教の奥義」に近づいて行くことができます。
 何故、こう言えるのでしょうか?
 そもそも、「進化するもの」の中に「進化の萌芽」が内包されていないなら、進化は不可能なはずです。この考えを突き詰めて行くと、宇宙を作り出したビッグバン以前の「元となる何らかの存在」には「この宇宙の存在すべての萌芽」が内包されていることになります。
 そして、この考え方に「もう一つの直観」をプラスすると、宗教の奥義が見えて来ます。
 即ち
−−−<絶対界という存在>−−−の直観です。
 我々は、「相対界と絶対界」という二つの次元の存在を観想し、「絶対界から相対界が派生(又は発生)した」と直観するならば、ここに
−−−<あらゆる相対界は、その根源の絶対界に既に内包されている>−−−という哲学になります。
 そして、もしも我々が相対界の中で「不完全から完全へ」と進化しているのであれば、「不完全な存在」が「完全」へと進化する、その「不完全な存在」のどこかに、既に「完全」が内包されていなければならない事になります。
 ここに宗教の奥義が有ります。

(前−1−3)
 面白い事に、
人は「不完全なもの」ばかり見詰めていると、意識がその「不完全なもの」から影響を受け、自分の中に「不完全さ」を取り込んで、自分の不完全さを拡大させてしまいます。
 しかし反対に、自分のどこかに内包されて眠っている「萌芽としての完全性」だけに集中してこれをじっと観続けるならば、人はジェット機のようなスピ−ドで「完全」に近づいて行き、やがて「完全」に成ることができます。
 インドには沢山の種類のヨ−ガが有りますが、今紹介した手法で「悟り」に到ろうとするヨ−ガは「叡智のヨ−ガ」と呼ばれます。ヨ−ガとは結合の意味ですが、
叡智の力で「完全」と結合しようとするヨ−ガであるわけです。

 我々人間は(各人でレベルの違いこそあれ)皆「不完全な叡智」を持っています。この「不完全な叡智」が進化し続け発展し続けるならば、やがて
「完全な叡智」に到達することが想定されます。そして、先程の「完全性内包哲学」から言えば、「不完全な叡智のどこかに、既に<完全な叡智>は(萌芽的に)内包されている」という思想になります。
 ですから、
魂から湧き出る強い渇望に衝き動かされるようにして、哲学的な思索活動に専心し、「完全なる究極の叡智」を徹底的に究明・観想し、そうやって「己れの叡智を全開にした洞察活動」を行うことを通して「完全に成る事を目指す」のが「叡智のヨ−ガ」である、と言えます。



第三節 不覚と本覚

(前−1−4)
 我々人間は皆「不完全な叡智」を持っていますが、我々のどこかに既に萌芽として<完全な叡智>が内包されているとして、この目指すべき「完全な叡智」のことを−−−仏教用語では「本覚」と呼びます。同時に、「完全なる叡智」に覚醒する事もまた「本覚」と言い、別の言葉では「大覚」とか「正覚」とも言います。
 ですから、次のような説明も出来ます。即ち−−−
「叡智のヨ−ガ」とは、「我々の奥深くに眠っている本覚」を呼び覚ますために「完全なる究極の叡智」を求め求めてこれに集中・瞑想して行き、己れの覚醒の度合いを徐々に高めて行き、そうして遂に「大覚醒・本覚」に到るためのヨ−ガである−−−と。
 そして
、「完全なる究極叡智」に覚醒した「本覚の状態」の反対は、「不覚」の状態と言えます。「完全なる叡智」を意識しようとせずに、これに対して眠っている状態が「不覚」の状態です。日常用語の「不覚」は「油断すること」や「意識がはっきりしないこと」などを意味しますが、仏教用語の「不覚」は「無知(=無智)なる迷いの状態」を意味します。
 例えば、
どんなに頭脳明晰な一流の科学者であっても、自分の生と死の問題や、宗教的世界観について無知のまま、不幸な迷いの人生を送るという事も、往々にして有るでしょう。これは「不覚」の状態と言えます。

(前−1−5)
 さて、ここで、
「本覚思想」という言葉を覚えておきましょう。とても重要な言葉です。
 『岩波 仏教辞典』の「本覚思想」の項を見てみましょう。(全文ノーカットで 「特長7」 に掲載しています。
 
−−−日本天台を中心に発展して行った思想で、『大乗起信論』に初出する<本覚><本来の覚性>という術語ないし観念を軸として展開していったもの。(…)中国において、賢首法蔵(六四三〜七一二)が華厳経とともに『大乗起信論』を用いて華厳哲学を確立したとき、本覚思想は出発したが、日本に来て、空海が『起信論』の応用解釈である『釈摩訶衍論』を活用しつつ、密教の体系化に努めたとき、本覚思想は再出発する。(…)空海没後、密教に盛られた不二・本覚思想は叡山天台に移入し、いっそうの発展をとげ、鎌倉中期(13世紀半ば)近くになってクライマックスに達する。いま、定義づけを試みると、
1)二元相対の現実をこえた不二・絶対の世界の究明
2)そこから現実に戻り、二元相対の諸相を不二・本覚の現れとして肯定 
 ということになる。(…)維摩経入不二法門品では、<空>のいいかえとして不二が強調されている。(以下省略)−−−


 この「本覚思想」をしっかりと押さえさえすれば、「般若心経や空」の奥義について理解することは、それほど難しいことではありません。


第四節 般若心経の全体像

(前−1−6)
 
前項で見た「本覚思想」は、インドのウパニシャッド哲学の不二一元論と軌を同じくする、同流の思想と言えます。
 インドの
アドワイタ(不二一元)哲学では、
「不二の絶対界」の現れが「二元的な相対界」であると見ます。ですから、逆に、
「相対界」は「絶対界」から生じた「顕現物=マ−ヤ−(幻影)」だと見ます。
 
つまり、我々の住む相対的二元・物質世界を幻影(マ−ヤ−)と見て、だからこそ「それらには実体がない、片時の仮の物に過ぎない、無常なり」 と見ます(無常観)。
そして同時に、「実体がない、幻影だ、無常なり」 とは言っても、それらは実は尊貴なる「不二の絶対界の現れ」だと、深く実相を観想します。
 
        <★相対界を「幻影無常」と見る大局観が重要です!
         < 〜〜ここから『諸行無常』の真の意味が流出します!
         < 『諸行無常の意味(真義)』については、
         <  
 「語義解析16.行(サンスカーラ)」を御覧下さい。> 
 
 −−−これこそが、般若心経が語っている世界観であり、『般若心経の全体像』です!
 
 この点を押さえれば、全宗教の究極聖典と言われる「般若心経も恐れるに足りず」です。
 聖徳太子は 
『世間虚仮・唯仏是真』 と喝破し、
 般若心経は 
『諸法空相』 と教え、一方、その反対に、法華経は 『諸法実相』 と教えます。これらの言葉を無理なく整合性を保ちながら完璧に理解できる−−−
 それが上記の『般若心経の全体像』理解です。禅の思想の中にも、相対界の万物を「(神の)衣」と理解するヴィジョンがあります。

 但し、この全体像だけを押さえたからと言って、「分かった気になる」のはやめて下さい。(結構、多いです。そういう人は)

 あなたは「実体がないマ−ヤ−(幻影)」のその正体について、どれほど分かっているでしょうか。般若心経には、究極経典と評されるにふさわしい
「恐るべき真実」が隠されているのです。
 この「隠された恐るべき真実」について、
一つ一つ順番に解き明かして行くのが本書です。どうか、先を急がずに、ゆっくり一つ一つ熟考し、理解・納得しながら読み進んで行って下さい。
 そうして、本書最後の−−−<般若心経 読誦用・真髄和訳(全文版)>−−−に到達した時、あなたは、般若心経が教える
「究極真理」を「隅から隅まで」味わえる人物に変貌していることでしょう。

 (前篇 第一章 終わり)
                                                                        

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このページの最終更新日 2005/2/20

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