【注意】≫≫≫≫ いきなり 「真髄和訳」 だけを お読みになる方々へ いきなり 「真髄和訳」だけを読むと、「真髄和訳」が理解できない可能性も有ります。 ですから、後篇第七章の「ステップ1〜ステップ4」 を合わせて、お読みになることを強くお勧めします。そこに書かれている「空」の二義または三義を押さえておくことは必要不可欠です。 また、本書および真髄和訳では、「根源究極の超越神」について「大日空王主(だいにちくうおうしゅ)」という呼称を使用しています。真言密教の大日如来と同じことです。何故、このような呼称を使うかについては後篇第五章「フォースとパワー」を御覧下さい。 (空−七−百五十八) 【ステップ5】 「真髄和訳」を用いて読誦・瞑想する 正確に和訳した般若心経を真剣に読誦することは、これ即ち、理知力で般若ヨ−ガを実践する事であり、それ即ち、最高度の礼拝観法だと言えます。 しかし、いきなり「真髄和訳の全文版」に触れても、般若ヨ−ガをうまく実践できない「初心者」も沢山居る事でしょう。 ですから、まとめとしての−−−− ★★★★ 「真髄和訳の全文版」は、このページの最後の方で紹介します ★★★★ 「般若ヨ−ガの空の瞑想法」、中でも、「無自性の瞑想法」としては、後篇第四章で詳説した通り、「二段階ステップ」で「さやけき寂まく状態」を瞑想して行く必要が有ります。 そこで、「自性が無い」というテクニカル・タ−ムがピンと来ない初学者のために、「無自性」を解きほぐし−−−「無自性の三無力」として言語化した訳文を最初に挙げましょう。 (その他に、「無自性」を 「それ固有の主体性が無い」とか「それ自体(に)真主体性がない」 と言い換えることもできます。この文言に言い換えた般若心経の日本語訳については、 −−−−こちら−−−− を御覧下さい。) (空−七−百五十九) 〔 「空」が「無自性」の意味の場合の「無自性の三無力」についての 徹底的な反芻版 〕 (この内容の瞑想で 「自分こそが自分のあるじだ」という「りきみ」を抜いて行きます) 存在本源の光輝を遍(あまね)く観照し、「相対/絶対」両界を自在に観想する(という)「悟り」への発心堅固な勇者、(即ち)観自在菩薩は、深甚霊妙なる完全究極叡智(への)帰入行を行じている時に、(自分の体を)「五要素の集合体」と看破し(た上)、それらには正に「自性が無い」 即ち「(自分の体の五要素の集合体はどれも)それ自体単独では、発生する力も存続する力も活動する力も全くない」と見極めた。 〔(そうして)一切の苦厄を超越した。〕 −−−(以下は「観自在菩薩」の説法) シャ−リプトラよ。ここでは、 (個我を形作っている)物質は「自性無きもの」即ち「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全くないもの」である。「自性無きもの」即ち「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全くないもの」が、実に(個我を形作っている)物質である。(そしてまた−−−) (個我を形作っている)物質は「大日空王主の相対界変化(へんげ)相」と異なるものではない。「大日空王主の相対界変化(へんげ)相」と(何ら)異ならないものが(個我を形作っている)物質である。(そしてまた−−−) (個我を形作っている)物質は、「自性無きもの」即ち「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全くないもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもある。「自性無きもの」即ち「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全くないもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもあるものが、(個我を形作っている)物質である。 感官による印象の感受(の場合)も、観念思考力(の場合)も、(生体的・意欲的)造成力(の場合)も、個体意識(の場合)も、全く同じ(事)である。 シャ−リプトラよ。ここでは、 (相対界の)総ての「存在・物事・理法」(=諸法)は、「自性無きものという相」即ち「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全くない、という相」をしている。即ち、(相対界の総ての「存在・物事・理法」は)それ自体単独では発生する力も全く無いし、それ自体単独では消滅する力も全くない。(また)それ自体単独では汚くなる力も全く無いし、それ自体単独では清潔(きれい)になる力も全く無い。(また)それ自体単独では増加する力も全くないし、それ自体単独では減少する力も全く無い(という相をしている)。 シャ−リプトラよ。この故に、 「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無い、大日空王主相対界変化相」においては−−− (個我を形作っている)物質にも「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無い」し、感官による印象の感受にも「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無い」し、観念思考力にも「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無い」し、(生体的・意欲的)造成力にも「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無い」し、個体意識にも「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無い」。(=五蘊無自性) 視覚器官にも、聴覚器官にも、嗅覚器官にも、味覚器官にも、触覚器官にも、意識器官にも、「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無い」。(=六根無自性) 可視的形象にも、音響にも、香気・臭気物質にも、有味物質にも、感触有るものにも、「(相対界の)存在や物事や理法」にも、「それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無い」。(=六境無自性) 視覚領域にも、それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無いし、そこから個体意識の領域に至るまで、(六識界総て)それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無い。(=六識界無自性) 聡明博識にもそれ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無いし、 暗愚無知にもそれ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無い。 (よって)聡明博識は尽きないし、暗愚無知も尽きない。(また、暗愚無知から順次)老いと死に至るまで、(十二因縁の何れも)それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無い。(よって)老いと死に至るまで(十二因縁の何れも)尽きることがない。(=十二因縁無自性) 「人生の業苦」にも「悪業累積現象」にも「業苦の止滅」にも「業累解脱の諸方法」にもそれ自体には発生する力も存続する力も活動する力も全く無い。(=四諦無自性) 「個人的に経験する働き」にもそれ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無いし、(よって)「経験知の個人的獲得」にもそれ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無い。 それ故に、「(個としての)獲得(一切)無し」(との一事)を以て、「悟りへの発心堅固な勇者」たる者、「完全究極叡智」に依拠して、「覆うもの無き心」に住むのである。 心を覆うもの、絶無となるが故に、(物事に)恐怖することも無く、転倒した謬見(一切)を超脱して、遂に涅槃に入定するのである。 (また、過去・現在・未来の)三世の何処(どこ)にでも御座(おわ)します諸々の仏陀たちも皆、「完全究極叡智」に依拠して(いるが故に)、「無上の真正・無欠・覚醒境」という正覚(さとり)を円(まど)かに現前させているのである。 故に、(人は)知るべきである−−−「完全究極叡智」の偉大な真言を。偉大な明智から出た真言を。無上の真言を。無比なる真言を。 総ての苦しみを鎮める(ことができる)、空虚に非(あら)ざるが故に真実の、「完全究極叡智」に関して説かれた真言を。 それは即ち−−− 求法 弘法 貫徹ぐ法 貫徹全ぐ法(時) 神覚あれ guho guho kantetsuguho kantetsuzenguho(ji) sinkakuare ここに、「完全究極叡智」の「心髄」(についてのお経)を終える。 ここに、「完全究極叡智」たる「心(=唯心法界)」(についてのお経)を終える。 (その他に、「無自性」を「それ固有の主体性が無い」とか「それ自体(に)真主体性がない」と言い換えることもできます。この文言に言い換えた般若心経の日本語訳については、−−−−こちら−−−− を御覧下さい。) (空−七−百六十) 以上、「無自性の三無力」を深く自覚するには、上記の文言を繰り返し読誦すべきです。 但し、「無自性」に絞った瞑想法は、鎮静力強大な分、暗黒の瞑想(空−四−十六)に落ちる危険も孕んでいます。 心経の文言は重要ですが、徒(いたずら)に心経の文言に固執しては、心経の「空」の精神に反します。 むしろ、心経の内容を一度バラバラに解きほぐして、心経のスジのスジまで嘗め尽くすことが、極めて重要です。 そこで、次に挙げる一つ一つの文言に意識を集中しながら、ゆっくりと読誦・瞑想する方法を次に紹介します。 以下は、上級者に到らない人々のための 「二段階に分けた、般若ヨ−ガ実践文言集」 です。 一文毎によく味わい、その一文に留まり、その一文が五臓六腑に滲み渡るまで能々(よくよく)反復することが大切です。いたずらに先に進むのが偉いわけではありません。 (空−七−百六十一) 〔ABの二段階に分けた、般若ヨ−ガ 実践文言集〕 <A段階> 【「清(さや)けき寂寞(じゃくまく)状態」を瞑想する】 (この段階の目的) 以下の文言に意識集中して行くことにより、肉的欲望に向けていた意識を、「根源の主」に意識転換して集中して行きます。そうして、煩悩の炎を終息させて行きます。 ◆我が肉体を形作っている「物質」は皆、主の御力無しに、それ自体単独では、発生することも存続することも活動することも全くできない。深恩に深謝。 ◆我が肉体の「感官による印象の感受」即ち「<快/不快>の感受」についても、主の御力無しには「快・不快」等、諸々の印象を感受することは全くできない。神恩に深謝。 ◆我が「観念や思考力」についても、主の御力無しには、観念することも、思考することも(思いわずらうことすら)全くできない。(深恩に深謝) ◆我が肉体の新陳代謝など「生理維持の造成作用」についても、主の御力無しには、生理作用として働くことも、今現在働き続けていることも全くできない。深謝。 ◆我が精神的造成力、即ち「意欲や意志」についても、主の御力無しには、意欲や意志であることも、意欲や意志を保持し続けることも全くできない。(深恩に深謝) ◆我が個体意識についても、主の御力無しには、個体意識として有ることも、存続することも、個体意識として活動することも全くできない。深恩に深謝。 ◆我が視覚器官についても、主の御力無しには、視覚器官として有ることも、これを使って何かを見ることも、何かを見続けることも全くできない。深恩に深謝。 ◆我が聴覚器官についても、主の御力無しには、聴覚器官として有ることも、これを使って音を聴くことも、音を聴き続けることも全くできない。深恩に深謝。 ◆我が嗅覚器官についても、主の御力無しには、嗅覚器官として有ることも、これを使ってニオイを嗅ぐことも、ニオイを嗅き続けることも全くできない。深恩に深謝。 ◆我が味覚器官についても、主の御力無しには、味覚器官として有ることも、これを使って物の味を味わうことも、味を味わい続けることも全くできない。深恩に深謝。 ◆我が触覚器官についても、主の御力無しには、触覚器官として有ることも、これを使って物の触感を感じることも、その触感を感じ続けることも全くできない。深謝。 ◆我が意識器官についても、主の御力無しには、意識器官として有ることも、これを使って「何かを意識する」ことも、意識し続けることも全くできない。深恩に深謝。 ◆総ての可視的形象についても、主の御力無しには、可視的形象たることはできないし、可視的形象で有り続けたり、それが動き変化することも全くできない。 ◆総ての音響についても、主の御力無しには、音響たることはできないし、音響として鳴り続けることも、音波の波として「うねる」ことも全くできない。 ◆総ての香気・臭気物質についても、主の御力無しには、香気物質であることや、臭気物質であることはできないし、そうした物質で有り続けることも全くできない。 ◆総ての有味物質についても、主の御力無しには、有味物質であることはできないし、有味物質として有り続けることも全くできない。 ◆総ての感触有る物についても、主の御力無しには、感触有る物たることはできないし、感触有る物たり続けることも全くできない。 ◆総ての「相対界の存在」についても、主の御力無しには、「相対界の存在」であることはできないし、「相対界」で「生住異滅」することも全くできない。 ◆聡明とか博識、これらについても、主の御力無しに、聡明や博識でいることは決してできない。主の御力が無ければ「聡明や博識」が無い事は、「電源の切られたパソコン」に「聡明や博識」が無いのと同様である。 ◆暗愚とか無知、これらについても、主の御力無しに、暗愚や無知でいることは決してできない。確かに、暗愚や無知も主の御力の下支えが有って登場する。しかし、暗愚や無知を「主」が直接に作り出しているわけではない。「主の御力」を「盗取」した「個体意識」の「賊我」だけが暗愚や無知を産み出しているのである。 「主の大叡智」から乖離・違背・逆行した「賊我」だけが「有為」を産出し、暗愚や無知をいたずらに産出しているだけのことである。 ◆十二因縁の連鎖についても、主の御力無しには、十二因縁の「因果の流れ」たることはできない。確かに、十二因縁の「因果の流れ」は主の御力の下支えが有って初めて存在するものである。しかし、十二因縁の流れに含まれる「苦の連鎖」を「主」が直接に作り出しているわけではない。「主の御力」を「盗取」した「個体意識」の「賊我」だけがそうした「苦の連鎖」を産み出しているのである。 ◆ 「苦の連鎖」は、主の御力を盗取した「賊我の有為」の悪業の反作用として、発生するだけのものである。よって、「賊我の有為」を止滅させれば、苦厄発生の原因も消滅して行く。 ◆「個人的に経験を積む働き」についても、主の御力無しには、そうした経験・智見を持つ事はできない。但し、「見聞覚知」作用イコ−ル「主の働き」と即断してはならない。「賊我」による「盗取」を通しての「見聞覚知」は、一ひねり入ったものだからである。(★★★★一−二三−十八、十九「註G」参照。本書ではカットしています) ◆「経験知の個人的な獲得」についても、主の御力無しには、そうした私的な獲得をする ことは全くできない。主の御力無ければ「個人」も無く「私的な獲得」も有り得ない。そして、「本居の主」を求め求めて、「個人」としての「境界線」が希薄になればなるほど、「私的な獲得」など殆ど意味を成さなくなって行く。そうして、遂に、「身口意」の「三輪空性」を悟り、主の「器・媒体・器具」となって行く。 (空−七−百六十二) <B段階> 【「明(さや)けき寂莫(じゃくまく)状態」を瞑想する】 (この段階の目的) 個体意識を超脱して行くだけの高い瞑想の達成を目指します。 先ず、次のように唱えて、瞑想の目的を明確に定めます。 <心の準備> ◆私は、悪業や苦厄の悪い流れをスッパリ断ち切る」ための瞑想力を錬成するべく、これから般若ヨ−ガのハイレベルな瞑想行を行います。 @「悪業や苦厄や悪循環の消滅・解消」 (と復唱) A「個体意識の<暗黒の蠢き>を超脱」 (と復唱) B「個体意識の<狭い限定>を超脱」 (と復唱) C「個体意識の<悪いエゴ>を超脱」 (と復唱) D「小我を超脱、大我に没入」 (と復唱) E「最高無比の安息所・主の本居」 (と復唱) ★A〜Eが 「身心脱落」の真義です。 F「求法」の意味を、大日空王主の「絶対界無相法身」を求める意味に絞る。 そして 「求法貫徹・貫徹求法、解脱招来・神覚ありませ」 (と復唱) <実践開始> ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、個体を形作っている物質など無い。個体を形作っている物質など無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、個体の感官による印象作用も無い。個体の感官による印象作用も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、個的・限定的な観念思考力も無い。個的・限定的な観念思考力も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、個的・物的な生理・生体レベルでの造成力も無い。個的・物的な生理・生体レベルでの造成力も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、個体レベルの精神的造成力、即ち「個的で小我的な意欲や意志」もない。個体レベルの精神的造成力、即ち「個的で小我的な意欲や意志」もないものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、物的に限定された個体意識も無い。物的に限定された個体意識も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 〔注−−但し、無限定・超時空的な孤体意識は、大日空王主も具備しておられる。〕 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、物的・個体的な視覚器官も無い。物的・個体的な視覚器官も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、物的・個体的な聴覚器官も無い。物的・個体的な聴覚器官も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、物的・個体的な嗅覚器官も無い。物的・個体的な嗅覚器官も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、物的・個体的な味覚器官も無い。物的・個体的な味覚器官も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、物的・個体的な触覚器官も無い。物的・個体的な触覚器官も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、物的・個体的な意識器官も無い。物的・個体的な意識器官も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、物的形象も無い。物的形象も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、物的音響・音波も無い。物的音響・音波も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、物的な香気分子・臭気分子、即ち「におい分子」も無い。物的な香気分子・臭気分子、即ち「におい分子」も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、有味物質も無い。有味物質も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、物的な感触も無い。物的な感触も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、相対界的な「存在や理法」も無ければ、如何なる相対的な物事も無い。相対界的な「存在や理法」も無ければ、如何なる相対的な物事も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、相対界的な聡明や博識も無い。相対界的な聡明や博識も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、相対界的な暗愚や無知も無い。相対界的な暗愚や無知も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、相対界的・個体的な「生老病死」も無ければ、十二因縁の連鎖も無い。相対界的・個体的な「生老病死」も無ければ、十二因縁の連鎖も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、「業苦も業苦の累積もその止滅」も無ければ、「業苦止滅の諸方法」という相対界的な道も無い。、「業苦も業苦の累積もその止滅」も無ければ、「業苦止滅の諸方法」という相対界的な道も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には「物的枠組内で個的に経験する働き」も無ければ、「経験知の個的・独占的な獲得」も無い。「物的枠組内で個的に経験する働き」も無ければ、「経験知の個的・独占的な獲得」も無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」には、「心を覆うもの」も全くない。恐怖も無ければ、本末転倒した見方から来る悲憂悩悶も全く無い。、「心を覆うもの」全くなく、恐怖も無ければ、本末転倒した見方から来る悲憂悩悶も全く無いものが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 ◆「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」は、相対界の苦厄一切を超越している。相対界の苦厄一切を超越しているのが「大日空王主 絶対界空無相 大光明意識」である。 従って、主を瞑想し、主の大海に没入する者は「一切の苦厄」を超越する。 (空−七−百六十三) 以上の二段階ステップの般若ヨ−ガの瞑想が或る程度会得できたならば、まとめとして、いよいよ本当に、、般若心経の「真髄和訳」で読誦瞑想します。 般若心経とは(本書の)前編第一章冒頭にある通り、宗教の究極真理の結論部分を言語化したものなので、「究極真理の、まとめス−トラ」として読誦すべきものです。 「まとめ」ですから、この段階では「無自性概念」を既にマスタ−しているものとし、「無自性の三無力」の内容を一々訳出することはしません。このレベルでは、「自性が無い」と言えば、その内容がピンと来る状態でなければいけません。 (空−七−百六十四) 〔真髄和訳 全文版 (その一)〕 (読誦用) < 「空」が 「無自性」 の意味の場合 > 存在本源の光輝を遍(あまね)く観照し、「相対/絶対」両界を自在に観想する(という)「悟り」への発心堅固な勇者、(即ち)観自在菩薩は、深甚霊妙なる完全究極叡智(への)帰入行を行じている時に、(自分の体を)「五要素の集合体」と看破し(た上)、それらには正に「自性が無い」と見極めた。 〔(そうして)一切の苦厄を超越した。〕 −−−(以下は「観自在菩薩」の説法) シャ−リプトラよ。ここでは、 (個我を形作っている)物質は「自性無きもの」である。「自性無きもの」が実に(個我を形作っている)物質である。(そしてまた) (個我を形作っている)物質は「大日空王主の相対界変化相」と異なるものではない。「大日空王主の相対界変化相」と(何ら)異ならないものが(個我を形作っている)物質である。(そしてまた) (個我を形作っている)物質は、「自性無きもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもある。「自性無きもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもあるものが、(個我を形作っている)物質である。 感官による印象の感受(の場合)も、観念思考力(の場合)も、(生体的・意欲的)造成力(の場合)も、個体意識(の場合)も、全く同じ(事)である。 シャ−リプトラよ。ここでは、 (相対界の)総ての「存在・物事・理法」(=諸法)は、「自性無きものという相」をしている。 (即ち)発生することにも自性は無いし、消滅することにも自性は無い、汚(きたな)くなることにも自性は無いし、清潔(きれい)になることにも自性は無い、増加することにも自性は無いし、減少することにも自性は無い(という相をしている)。 シャ−リプトラよ。この故に、 「自性無き大日空王主相対界変化相」においては−−− (個我を形作っている)物質にも自性は無いし、感官による印象の感受にも自性は無いし、観念思考力にも自性は無いし、(生体的・意欲的)造成力にも自性は無いし、個体意識にも自性は無い。(=五蘊無自性) 視覚器官にも、聴覚器官にも、嗅覚器官にも、味覚器官にも、触覚器官にも、意識器官にも、自性は無い。(=六根無自性) 可視的形象にも、音響にも、香気・臭気物質にも、有味物質にも、感触有るものにも、「(相対界の)存在や物事や理法」にも、自性は無い。(=六境無自性) 視覚領域にも自性は無いし、そこから個体意識の領域に至るまで、(六識界総てに)自性は無い。(=六識界無自性) 聡明博識にも自性は無いし、暗愚無知にも自性は無い。(よって)聡明博識は尽きないし、暗愚無知も尽きない。(また、暗愚無知から順次)老いと死に至るまで、(十二因縁の何れにも)自性は無い。(よって)老いと死に至るまで(十二因縁の何れも)尽きることがない。(=十二因縁無自性) 「人生の業苦」にも「悪業累積現象」にも「業苦の止滅」にも「業累解脱の諸方法」にも、自性は無い。(=四諦無自性) 「個人的に経験する働き」にも自性は無いし、(よって)「経験知の個人的獲得」にも自性は無い。 それ故に、「(個としての)獲得(一切)無し」(との一事)を以て、「悟りへの発心堅固な勇者」たる者、「完全究極叡智」に依拠して、「覆うもの無き心」に住むのである。 心を覆うもの、絶無となるが故に、(物事に)恐怖することも無く、転倒した謬見(一切)を超脱して、遂に涅槃に入定するのである。 (また、過去・現在・未来の)三世の何処(どこ)にでも御座(おわ)します諸々の仏陀たちも皆、「完全究極叡智」に依拠して(いるが故に)、「無上の真正・無欠・覚醒境」という正覚(さとり)を円(まど)かに現前させているのである。 故に、(人は)知るべきである−−−「完全究極叡智」の偉大な真言を。偉大な明智から出た真言を。無上の真言を。無比なる真言を。 総ての苦しみを鎮める(ことができる)、空虚に非(あら)ざるが故に真実の、「完全究極叡智」に関して説かれた真言を。 それは即ち−−− 求法 弘法 貫徹ぐ法 貫徹全ぐ法(時) 神覚あれ guho guho kantetsuguho kantetsuzenguho(ji) sinkakuare ここに、「完全究極叡智」の「心髄」(についてのお経)を終える。 ここに、「完全究極叡智」たる「心(=唯心法界)」(についてのお経)を終える。 (空−七−百六十五) 〔真髄和訳 全文版 (その二)〕 (読誦用) ( 「空」が 「無相本地身、及び、空無」 の意味の場合) 存在本源の光輝を遍(あまね)く観照し、「相対/絶対」両界を自在に観想する(という)「悟り」への発心堅固な勇者、(即ち)観自在菩薩は、深甚霊妙なる完全究極叡智(への)帰入行を行じている時に、(自分の体を)「五要素の集合体」と看破し(た上)、それらには正に「自性が無い」と見極めた。 〔(そうして)一切の苦厄を超越した。〕 −−−(以下は「観自在菩薩」の説法) シャ−リプトラよ。ここでは、 (個我を形作っている)物質は「自性無きもの」である。「自性無きもの」が実に(個我を形作っている)物質である。(そしてまた) (個我を形作っている)物質は「大日空王主の相対界変化相」と異なるものではない。「大日空王主の相対界変化相」と(何ら)異ならないものが(個我を形作っている)物質である。(そしてまた) (個我を形作っている)物質は、「自性無きもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもある。「自性無きもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもあるものが、(個我を形作っている)物質である。 感官による印象の感受(の場合)も、観念思考力(の場合)も、(生体的・意欲的)造成力(の場合)も、個体意識(の場合)も、全く同じ(事)である。 シャ−リプトラよ。ここでは、 (相対界の)総ての「存在・物事・理法」(=諸法)は、(本質的には)「無相」である。 (即ち)発生することも無いし、消滅することも無い、汚(きたな)くなることも無いし清潔(きれい)になることも無い、増加することも無いし、減少することも無い(という相をしている)。 シャ−リプトラよ。この故に、 「大日空王主絶対界空無相」においては−−− (個我を形作っている)物質も無いし、感官による印象の感受も無いし、観念思考力も無いし、(生体的・意欲的)造成力も無いし、個体意識も無い。(=五蘊絶無) 視覚器官も、聴覚器官も、嗅覚器官も、味覚器官も、触覚器官も、意識器官も、無い。(=六根絶無) 可視的形象も、音響も、香気・臭気物質も、有味物質も、感触有るものも、「(相対界の)存在や物事や理法」も、無い。(=六境絶無) 視覚領域も無いし、そこから個体意識の領域に至るまで、(六識界総て)無い。(=六識界絶無) 聡明博識も無ければ暗愚無知も無い。(また、だからこそ、その反対の相対界レベルでは)聡明博識も尽きないし、暗愚無知も尽きない。 (また、暗愚無知から順次)老いと死に至るまで、(十二因縁、どれも皆)無い。(また、だからこそ、その反対の相対界レベルでは)老いと死に至るまで(十二因縁、どれも皆)尽きない。(=十二因縁絶無) 「人生の業苦」も「悪業累積現象」も「業苦止滅」も「業累解脱の諸方法」も、無い。(=四諦絶無) 「個人的に経験する働き」も無いし、(よって)「経験知の個人的獲得」も無い。 それ故に、「(個としての)獲得(一切)無し」(との一事)を以て、「悟りへの発心堅固な勇者」たる者、「完全究極叡智」に依拠して、「覆うもの無き心」に住むのである。 心を覆うもの、絶無となるが故に、(物事に)恐怖することも無く、転倒した謬見(一切)を超脱して、遂に涅槃に入定するのである。 (また、過去・現在・未来の)三世の何処(どこ)にでも御座(おわ)します諸々の仏陀たちも皆、「完全究極叡智」に依拠して(いるが故に)、「無上の真正・無欠・覚醒境」という正覚(さとり)を円(まど)かに現前させているのである。 故に、(人は)知るべきである−−−「完全究極叡智」の偉大な真言を。偉大な明智から出た真言を。無上の真言を。無比なる真言を。 総ての苦しみを鎮める(ことができる)、空虚に非(あら)ざるが故に真実の、「完全究極叡智」に関して説かれた真言を。 それは即ち−−− 求法 弘法 貫徹ぐ法 貫徹全ぐ法(時) 神覚あれ guho guho kantetsuguho kantetsuzenguho(ji) sinkakuare ここに、「完全究極叡智」の「心髄」(についてのお経)を終える。 ここに、「完全究極叡智」たる「心(=唯心法界)」(についてのお経)を終える。 (空−七−百六十六) 尚、これに続く第三の訳文として、「空」を「無自性×自性有る存在」の意味として−−−「自性無きもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもある−−−として訳出することもできます。しかし、複雑な文章になり過ぎて、読誦用の文章には適さないので、このパタ−ンは省略します。 −−−以上で、「ステップ5」の解説を終了します。 以上で後篇第七章を終わります。 ←←前ページに行く 次ページに行く→→ 般若心経完全マスター・バイブルの『目次』へGO このページの最終更新日 2005/5/8 著作権について ■ ■ ■ ■ Copyright (c) 2003〜2012 Aomi Ryu All Rights Reserved ■ ■ ■ ■
【注意】≫≫≫≫ いきなり 「真髄和訳」 だけを お読みになる方々へ いきなり 「真髄和訳」だけを読むと、「真髄和訳」が理解できない可能性も有ります。 ですから、後篇第七章の「ステップ1〜ステップ4」 を合わせて、お読みになることを強くお勧めします。そこに書かれている「空」の二義または三義を押さえておくことは必要不可欠です。 また、本書および真髄和訳では、「根源究極の超越神」について「大日空王主(だいにちくうおうしゅ)」という呼称を使用しています。真言密教の大日如来と同じことです。何故、このような呼称を使うかについては後篇第五章「フォースとパワー」を御覧下さい。
■ ■ ■ ■ Copyright (c) 2003〜2012 Aomi Ryu All Rights Reserved ■ ■ ■ ■