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 般若心経 完全マスター 
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般若心経マスターバイブル後篇第5章


第五章 フォ−スとパワ−   
 
(空−五−一)
 「自性有る存在」こそが
真の主体です。それ以外の無数の「無自性の存在」は真の主体ではありません。「無自性存在」は、外見上、どんなに「活動する主体」に見えたとしても、深く洞察すればそれらは皆「仮の主体」に過ぎません。(また、「自性有る存在」が複数在ることは否定されます。空−二−二一)
 こうした真理を深く洞察すると、物凄く重要な霊的ヴィジョンが開けて来ます。これから、その深い霊的ヴィジョンの解説をして行きますが、
 
その前提として便宜上、「自性有る存在」を
 
−−−
<大日空王主 (だいにち くうおうしゅ)>−−−と呼ぶことにします。 
 
(空−五−二)
 「自性有る存在=大日空王主」は、真言密教の「大日如来」と同じ存在です。しかし、それならば、「大日如来」という呼称を使えば十分ではないか、という疑問も出るでしょう。
 
 しかし、「大日如来」と呼ぶのは
次の三つの点で 好ましくありません。
 
第一に、「〜如来」と呼ぶと、他の無数の「如来」と「大日如来」を「同種の存在」だと混同してしまう危険が有ります。実際、両者を「区別・峻別」できない人もいます。大日如来は「自性有る存在」ですが、他の無数の如来は「無自性存在」です。よって、両者は(厳格に)峻別する必要が有ります。
 
第二に、そもそも、「如来」という漢字自体が、「来る」という「有形物」での「具体的・具象的な変化(へんげ)身」を想定した言葉であり、「権化」と共通する言葉です。しかし、「自性有る存在」は、無形・無限・超時空的存在です。よって、「自性有る存在」に「如来」という漢字を使うのは言霊として不適切です。(「自性有る存在」を「〜の権化」とか「〜権現」と言ったら大間違いになります。)
 第三に、
本来、大日如来と「空」は密接不可分の関係にあります。しかし、大日如来と呼ぶと、「太陽神」が連想され、物質的な「有形の神」とイメ−ジしがちです。よって、これを避けるためには、「空」と「自性有る存在」を結び付ける名称の方が好ましいと言えます。
 −−−以上の三点の理由で、大日如来と呼ばず、「大日空王主」と呼ぶことにします。
 
(空−五−三)
 さて、「自性有る存在」である「大日空王主」こそが万教の帰一する根源の神です。そして、大日空王主こそが「宇宙の創造主」です。ただし、一部のキリスト者がイメ−ジするような、白く長い髭を生やした老人が豪華な玉座に座って魔法の杖で宇宙を創造し、創造した後は暇をもて余して居眠りしている、というような
物質的な創造主ではありません。飽く迄も、「大日空王主」自らがその「一部有形化現出力」(空−二−十八)を行使して、自己存在の一部を物質化・有形化させて「万物を創出・現出」し、今尚そうし続けている、という意味での「宇宙の創造主」です。ですから、創りっ放しというわけではありません。
〔厳密には「創る」というよりは「化(な)る」わけなので、「創造主」という呼称自体を仏教は好みません。〕
 
(空−五−四)
 よって、
大日空王主こそが、エロヒムでありヤハウェ−であり、アッラ−であり、ブラフマン(梵)です。
 また、「自性有る存在」を
天照大御神と呼ぶならば、大日空王主こそ天照大御神です。(神道では、密教の大日如来に対抗して、天照大御神のことを「太一」とも呼びました。太極の唯一なる存在、という意味でしょう。)
 また、「自性有る存在」を
天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)と呼ぶならば、大日空王主こそ天之御中主大神です。
 また、「自性有る存在」を
天之御親主大神(あめのみおやぬしのおおかみ)と呼ぶならば、大日空王主こそ天之御親主大神です。
 また、「自性有る存在」を
キリストとかメシアと呼ぶならば、大日空王主こそキリストでありメシアです。(但し、「自性有る存在」の直接的な反映である大聖者の事を、「神の化身(アヴァターラ)」としてキリストとかメシアと呼ぶならば、こうしたキリストやメシアは「大日空王主の変化身・権化」と解することになります。)〔※註@〕。
 また、「自性有る存在」を
「仏」と呼ぶならば、大日空王主こそ「仏」です。
 
(空−五−五)
【※註@>>>−−−これまでの宗教界は、「自性有る存在」と「無自性存在」をゴチャゴチャに混同したままで、キリストとか仏という言葉を使用して来ました。故に、見解の相違が発生しました。しかし、ひとたび「自性/無自性」概念について深く学ぶならば、「有形物を絶対視する」という未熟なヴィジョンから脱却でき、何を「神」とか「仏」と呼び、何を「キリストとかメシア」と呼ぶべきかについて「定見」が出来上がります。>>>註終了】
 
(空−五−六)
 さて、前章までは「自性有る存在」を瞑想するために、
「活動主体」をキ−ワ−ドにして洞察を深めて来ましたが、「活動主体」である以上、そこに必ず「力」が働いているはずです。ということは−−<「力」に注目して「真の主体」を瞑想する>−−−こともできるはずですし、事実できるのです。それに、般若ヨ−ガを十全に機能させるためには、この見方も必要不可欠になります。
 そこで、
以下、<「力」に着目した般若ヨ−ガ>について、解説して行きます。
 
(空−五−七)
 そもそも、
「無自性存在」それ自体には、独自の「力」は全く存在しません。「縦横二重の依存」関係で洞察した通り、「無自性存在の力」もこの二局面に分けることができます。
 「横の依存」関係で見ると、「或る無自性存在」は「他の無自性存在」のエネルギ−の流入に依存した関係でのみ「力」を持ちます。他方、「縦の依存」関係で見ると、「或る無自性存在」は「自性有る存在」の「(自己存在)一部有形化現出力」に依存した関係でのみ「力」を持ちます。
 つまり、
万物万象の「力」も「因縁和合」(空−三−二一)によって、発生しているわけです。そして、「自性有る存在」に意識集中して行く般若ヨ−ガの性質上、「副次的依存=水平依存=縁」よりも「根幹依存=垂直依存=因」の方が(集中の対象としては)遙かに重要になるので、主にこの「縦の依存関係」に意識集中して瞑想して行きます。
 
(空−五−八)
 全宇宙の万物万象は常に活動しています。それらの
諸エネルギ−の総量は莫大で、如何なる想像をも絶したものです。「無量」という表現が適切でしょう。
 しかし、そうした「諸力」を「垂直的な根幹依存関係」で洞察すれば、「諸力」は
全部「同じ源」即ち「自性有る存在からの出力」として観想できます。
 この「自性有る存在の出力」は
−−−<ダムと水力>−−−に喩えられます。
 巨大なダムは、水を満々と湛えており、必要に応じて放水して水力発電を行います。この放水エネルギ−こそが「出力」です。また、放水を止めたダムは、寂々たる巨大水瓶ですが、勿論、この巨大水瓶のエネルギ−はゼロではありません。ダムは、巨大な水の
「位置エネルギ−(力)」を満々と湛えた存在です。
 この
「動かざる、静態の位置エネルギ−」便宜上−−−<置力(ちりょく)>−−−と呼ぶことにしましょう。(又は、「在力」とか「潜力」と呼んでも良いでしょう。)
 
「置力と出力」−−−「力」を主題にした般若ヨ−ガでは、必然的にこの二分法に逢着します。
 
(空−五−九)
 今、便宜的に、「置力と出力」を 英語の 「フォ−スとパワ−」 に呼び替えてみましょう。
フォ−ス = 「自性有る存在」の「静態の置力」
パワ−  = 「自性有る存在」の「動態の(具体的な諸々無数の)出力」
 この視点で観ると、次のようになります。
 例えば、野球やバスケットなど、プロスポ−ツを見てみましょう。観客を魅了するス−パ−・プレ−の数々を見て我々は熱狂しますが、上辺だけを見るならば、
パワ−を発揮しているのは勿論「プレイヤ−一人一人」です。しかし、般若ヨ−ガの瞑想では、見せかけに惑わされずに、それらのプレイの中の個人個人のパワ−を、「自性有る存在」のフォ−ス(置力)からの「出力(パワ−)」だと観想することになります。
(この見地に立つと、
ジョ−ジ・ル−カスの創作神話「スタ−・ウォ−ズ」シリ−ズも良く分かります。「スタ−・ウォ−ズ」の日本語版では「フォ−ス」という言葉が「理力」と訳されていますが、「置力」とか「不生の置力」と呼んだ方がピンと来るでしょう。神の置力に繋がった時に、神憑かった凄いパワ−が出る、という設定です。)
 
(空−五−十)
 ここできっと、次のような質問が出るでしょう。
「スポ−ツの試合には乱闘もあるぞ。ひいては、世界中に存在する戦争や
おぞましい悪行も、大日空王主のパワ−(出力)と見るつもりなのか? それはおかしいのではないか?」と。
 しかし、「有為/無為」二分法(前篇第二章第一節参照)からすると、
「有為」は「無為」無しには存在できません。この事は、「無為」の力と流れが、人の自我が犯す「四源罪」によって「有為」と化しているのだという事を意味しています。つまり−−−
<「無為」が「有為」に“反転して逆走”し始める現象>−−−こそが、前篇第四章で解明した「罪悪発生原理」だったわけです。
 まことに、大日空王主のバワ−(出力)を逆手に取って
「盗取して私用する」のは「賊我」の方です。ですから、全体として見れば、総ての活動の諸パワ−は、大日空王主のフォ−ス(置力)からの出力ですが、一部のパワ−が「反転」して「混濁し、穢れている」と理解すべきです。
 従って、人が
「回心」によってこの「反転」を正すならば、即座に「荘厳なる無為」の神聖パワ−がそれなりに出現して来ることでしょう。
 
 
(空−五−十一)
 ここで
−−−<腕サック人形を操る青年と幼稚園児の喩え>−−−をお教えしましょう。
 
一人の青年が、腕に被(かぶ)せて使う人形(腕サック人形)を作って、幼稚園に行き、<腕サックによる人形芝居>を園児たちに見せようと思い立ちました。
そして実際に幼稚園に行き、舞台を設置して、この青年は
「右手にお姫様」の人形 を被(かぶ)せ、
「左手に王子様」の人形 を被(かぶ)せました。
 青年は
舞台の下に潜(もぐ)って自分の姿を隠しながら、
まずお姫様人形だけを舞台上に登場させ、女性の声色を出して演技をしました。その後で、王子様人形も登場させ、
二人の人形の掛け合いで芝居を演じ続けました。
 
 
園児たちはこの劇を見て、舞台の下には、おにいちゃんとおねえちゃんの二人が潜っているに違いない、と勘違いしてしまいました。
 
そのため、人形劇が終わり、両腕にお姫様と王子様の人形を被せた

たった一人の青年が挨拶に出てきた時には、

園児たちは、みんなびっくり仰天して、椅子からひっくりかえってしまいました(とさ)。
−−−−−−−(喩え おわり)
 
 
(空−五−十二)
 この青年の腕は勿論二本しかありませんが、
青年を「千手観音」に置き換えて観想してみましょう。すると、何が見えて来るでしょう?
 
 
千手観音が、自分の千本の腕に千種類の「腕サック人形」を被せて、壮大な人形劇を演じている光景を思い浮かべてみましょう。勿論、千手観音自身は舞台下に隠れていて、姿は見せません。千種類の「腕サック人形」一つ一つのパワ−(出力)をその人形固有のパワ−と見てしまうならば、その人は洞察力不足と言えます。(これでは、青年に騙された幼稚園児たちと同じレベルだと言われてしまうでしょう。)
 しかし、賢明なる般若ヨ−ガの行者は、有形なる個体のパワ−(出力)が全部「同じ源」即ち
「千手観音」、否「自性有る存在」の「不生の置力(フォ−ス)」から発生したものだと看破することでしょう。
 百足(むかで)は、全部の足を乱れ無く統一的に動かせます。ピアニストは、十指を乱れなく統一的に操れます。況んや、千手観音においてをや。況んや、大日空王主においてをや。
 実に、自性有る大日空王主は、
無数無限の「見えざる腕」を自在に操り、「全宇宙的な腕サック人形芝居」という「荘厳なる一場の夢芝居」を、今の今、開演し続けているのです!
 −−−これを、
大日空王主の「リ−ラ(遊戯)」と呼びます。
 
(空−五−十三)
 このように、大日空王主のフォ−スとパワ−の相関関係が洞察できると、現前する森羅万象の「無自性存在」(=偶像)に気を取られたり、それに意識が囚われたりすることはなくなって、「無自性存在=偶像」を見透かして、「力の本源=大日空王主の営為」を観想できるようになります。
 こうした霊的ヴィジョンが成熟して来ると、般若ヨ−ガの行者は−−−
<右を向いても左を向いても、何処を向いても、大日空王主のみが其処(そこ)におられる>−−−のを目(ま)の当たりにするようになります!
 
(空−五−十四)
 ところで、
万物を「大日空王主の腕サック人形芝居」の開演と見る時−−−
<その「腕サック人形」を「(布切れ一枚被せた)
布人形」に>−−−置き換えてみます。
 すると
−−−<「布人形」が「神の幕屋(テント)」に見えて来る>−−−でしょう。何故なら、被せた布切れは「神の宮居」と見る事ができるからです。
 この霊的ヴィジョンは極めて重要です。特に、ユダヤ・キリスト教やイスラム教を深く理解する上では欠かすことができません。
 「神殿」の前身は「テント」でした。神殿は最初から立派な建造物だったわけではありません。また、その必要もありませんでした。霊的象徴としては「幕屋(テント)」で十分だったからです。イエズスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と宣言しました。ヨハネは、この宣言を書物に記録した後、懇切丁寧に「イエズスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」と付言しています。(ヨハネによる福音書2章19〜21節)
 また、イエズスは
「私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである」と明言し、自分の個我は「神」の「操り人形」に過ぎない旨を明かしています。(ヨハネによる福音書14章10節)
 また、イエズスはこうも発言しています
−−−「(ユダヤ聖書に)こう書いてある。『私の家は祈りの家でなければならない』と。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」(ルカによる福音書19章46節)−−−と。
 この御言葉は、イエズスが
ユダヤの神殿の庭で「宮清め」のために鞭を振るった時のものです。従って、「上辺の浅い意味」は「石造りの神殿は商売する場ではない。神聖な祈りを捧げる場所であるから、直ちにここでの商売を止めよ」と人々を叱責している意味です。
 しかし、「人間の心身こそが神の生ける神殿」という事実を考慮すると、イエズスは
「霊的な深い意味」で次のように叱責していることになります。即ち−−−「心身は芳しい祈りを立ち昇らせる聖なる場であらねばならぬ。されど、汝等は 『祈りの家』 であるべき ≪心身という神殿≫ を、『賊我』 にしてしまっている。こうした霊的な盗取行為を直ちに止めよ」−−−と。
 
我々の「心身という神殿」を「強盗の巣」にしてはいけないのです。
 
(空−五−十五)
 宮清めの為に“鞭を振るった”イエズスの言葉を、このように理解すると、「心身浄化」を目的にした
<或る程度の苦行>は、当然肯定されることになります。〔※註A〕
 例えば、邪気払拭のための滝行、水垢離行をしたり、また、肉欲(煩悩)を打ち消すために
自分の肉体を叩くことも、それなりに有意義と言えます。
 但し、これらの苦行は飽く迄も「賊我の動きの抑制」に向けられる必要が有ります。
「苦行自慢」が目的になってしまうような「エゴイスティックな苦行」をすると、却って「賊我」を肥大化させてしまうこともあるので注意を要します。
 故に、
「外的苦行」は飽く迄“補助的なもの”に止(トド)め、「内的苦行」即ち「直接的に吾我驕慢心(●●●頁)を否定の剣で截断する般若ヨ−ガの実践」にこそ、励むべきです。その方が、遙かに効果が有り、間違いがありません。
 
(空−五−十六)
【※註A>>>−−−イグナチオ・デ・ロヨラの「霊性鍛練法」を熱心に実践する(カトリック教会内のイエズス会士は修行の課程で、嘗てイグナチオが行った通りに、縄で編んだ「専用の鞭」で自分の肉体を打ち叩きます。そうやって自分自身の宮清めを行います。
 現代の修道士たちの中には、こうした手法を中世ヨ−ロッパのおぞましい慣習の名残りと捉えて、快く思わない人もいるようです。しかし、これは
冷や水をかける寒垢離行と同一線上のものと言えます。冷や水の代わりに、それ程痛くない縄の鞭を使用するだけです。こうした外的苦行は適切に用いられる分には、それなりに効果があります。それに、肉欲と闘おうとする心意気は、実に尊いものです。
(但し「中道の修行」については前篇第二章第二節参照)
 −−>>>註A 終了】
 
 
(空−五−十七)
 また、イエズスは
「私の父の家には、住む処が沢山ある」(ヨハネによる福音書14章2節)という謎めいた発言をしていますが、この言葉の真義は、フォ−スとパワ−の二分法を観想する般若ヨ−ガの行者でなければ分からないでしょう。
 もしも、これが「御父は、住む家々を沢山持っている」という言葉であったならば、「住む家々」とは、「幕屋(テント)=宮居=人間の心身」を意味すると理解でき、「大日空王主の(無数の)腕サック人形」というヴィジョンが見えて来ますし、これが正解になります。
 しかし、
イエズスの言葉「父の家」は(和訳では分かりませんが)「単数形」なのです。
 つまり、
「<唯一の豪邸>の中には御父の住処(すみか)が沢山有る」という意味になります。これは、「一つの巨大な館」の中に、数えきれないほどの個別の部屋が有る、というニュアンスです。
 
(空−五−十八)
 とすると
「唯一の巨大マンション(単数形の英語では豪邸の意味)」 と 「その個別の部屋」とは何を意味するのか、問題になります。
 そもそも、「唯一の巨大マンション」も「その個別の部屋」も、神の居場所であることに変わりありません。つまり、両方共「幕屋(テント)=宮居」と言えます。
 という事は、
大小の差こそあれ、両方共「主の腕サック人形」と見る事ができます。
 ところで、この「腕サックの被せ物」は、別段
「人の形」に限る必要はありません。動物でも昆虫でも木造家屋でも超高層ビルディングでも、腕サックの造形は何でもよいはずです。これが分かれば、一つの奥義を明らかにできます。即ち−−−
<「腕サック人形」は(形而下の)「無自性存在」全般の象徴である>−−−と。
 
(空−五−十九)
 この意味は次の通りです。即ち−−−
 「唯一の巨大な腕サック(の被せ物)」が存在した場合、
それを拡大して見ると、それは無数の細胞の如き「無数の小さな腕サック(の被せ物)」で出来ている。
 「唯一の巨大な腕サック(の被せ物)の一造形」を
「一つの国家」に見立てた場合、「沢山の小さな腕サック人形」は、国家を構成する人間一人一人に当たる。
 また、「唯一の巨大な腕サック(の被せ物)の一造形」を
「地球」に見立てた場合、無数の小さな人形」は地球上の沢山の国家に当たる。
 また、「唯一の巨大な腕サック(の被せ物)の一造形」を
「宇宙」に見立てた場合、「無数の小さな人形」は宇宙を構成する無数の星々や銀河に当たる。
 また、「唯一の巨大な腕サック(の被せ物)の一造形」を
「全霊界」に見立てた場合、「無数の小さな人形」は全霊界を構成する無数の「生物や事物」に当たる。
 
(空−五−二十)
 
何と壮大であることでしょう! 御父の「唯一の超巨大な館(マンション)」は!
 何と荘厳な事でしょう! 御父の「その個別の部屋」である無数の部屋という部屋は。
 
インマヌエル・スウェ−デンボルグは、その威容に感動しつつ、これを「神の御前の巨人」と呼びました。(これまで、彼のこの表現の意味を分かる人は殆どいませんでした。)
 勿論、「巨人」と言うよりも
「超巨大なる唯一の主の宮居」と言った方が良いです。
 しかし、この「唯一の超巨大な宮居」はパワ−を出して統一的に活動してます!
 よって、やはり、この動く巨大宮居は、神の巨大テントであり、神の唯一の
「超巨大な腕サックの被り物(被せ物)」なのです。従って、<全「無自性物」の総体>を指し示す表現としては−−−<神の御前の、唯一の超巨大なる、主の被り物>−−−こう言うのが、誤解を最小にする表現かも知れません。
 このように洞察すると、
「私の父の家(単数)には、住む処が沢山ある」という簡潔明瞭で美しいイエズスの比喩的な御言葉の真義が、心の奥底まで迫って来ることでしょう。
 
(空−五−二一)
 以上の通り、イエズスが使った
−−−<「父の家(単数)」とは、「唯一の超巨大マンション=無自性存在の総体」>−−−を意味する象徴的用語法です。
 そしてこれは、
「自性有る存在」(大日空王主=御父)と「無自性存在(=父の住処)」との相互関係を見事に洞察・看破した霊的ヴィジョンです。
 そして、いくら称賛してもし切れないぐらいですが、この両者の相互関係について、既に千二百年以上前に、日本で真言宗を開いた弘法大師空海はズバリ−−−
 三界は客舎の如し。一心はこれ本居なり。
 −−−と表現しています。(般若心経秘鍵 第五節 秘密真言分)
 
「三界」とは、欲界・色界・無色界の三つを指す言葉です。現実界・霊界全部を引っくるめた全世界の意味と理解して大過有りません。「三千大千世界」とも同義です。
 
「客舎」とは、旅館・宿屋の意味です。そしてここでの「客舎」は、「仮の庵」「仮の住まい」「仮の宮」「片時の聖なる宮居(=神殿)」の意味になります。
 また、
ここでの「一心」は、人間の個体意識の意味ではありません。最も深い意味での「一心」即ち「心源=不生の真我の一心」を指します。つまり、「一心」とは、「大日空王主の唯心(たる法界)」を指します。これは「真如・法身」とも言われます。
 「本居」とは、「本当の居処」の意味です。「自性有る存在」が「本居」であり「本地」です
 以上により
、「三界は客舎の如し。一心はこれ本居なり」の意味は−−−
 現実界・霊界全部を引っくるめた全世界の「無自性物」は(それがどんなに無数に存在したとしても、それらは皆)客舎と同じ。「不生の一心=自性有る存在」こそが本居なり−−
 ということです。

 
(空−五−二二)
 さて、ヒンドゥ−教の
「シヴァ神を踏みつけて踊るカ−リ−神」という表現にも、「本居/客舎」の相互関係を発見する人は、とても優秀です。
屍の如く横たわるシヴァ神は、「置力(=フォ−ス)」の象徴 であり、その上で踊るカ−リ−女神は 「出力(=パワ−)」の象徴 です。
 カ−リ−女神の身体を 「無自性存在の総体」即ち「神の御前の、唯一の超巨大人形」 と観想することができますか? できれば素晴らしいです。
 豆粒をフライパンの上に置いて火に掛けると、
豆粒は飛び跳ねます。しかし、豆粒自体に飛び跳ねる力が備わっているわけではありません。豆自体に飛び跳ねる力は絶無ですが、フライパンの熱が伝導して、恰も生きているかのように跳ね踊ります。
 この豆と同じく、無自性物の象徴たるカ−リ−女神自身に
踊る力は絶無と見て、彼女はただシヴァ神の「フォ−ス(置力)からの出力」によって踊っている、と観ます。
 ヒンドゥ−教徒の多くは、カ−リ−女神を
万物の「根源造化力」の象徴と考えますが、この「根源造化力」こそが形而下世界に現れた出力(パワ−)です。
 
地面に寝そべるシヴァ神は「(密教用語の)本地」を象徴しています。とすれば、「形而上的な本地=シヴァ神」の「置力(フォ−ス)」が形而下的・具体的な顕現の形をとって、カ−リ−女神の造化力(パワ−)になる、という構図が見えてきます。このように捉えた時にこそ、シヴァ神とカ−リ−女神の夫婦愛に関する十全な理解が得られます。
 
(空−五−二三)
 このように、「シヴァとカ−リ−の夫婦愛」が看破できたならば、ヒンドゥ−教の中に息付く
「リンガム(男根/原義は標)礼拝」(又は道祖神礼拝やシヴァ神礼拝)についても、理解の目を向けることができます。
 
ユダヤ・キリスト教徒やイスラム教徒は、ヒンドゥ−のリンガム礼拝を低級な偶像礼拝として軽蔑し嫌悪します。しかし、シヴァ神をフォ−ス(置力)、カ−リ−神をパワ−(出力)と洞察する視座からすると、「カ−リ−女神の体内に男根を挿入するシヴァ神」という男女交合図は、陰陽一体を表す図となり、万物を<「自性有る存在」と「無自性存在」との混成体>と見る「中観のヴィジョン」を表す象徴にもなります。
 よって、
リンガム(男根)は、カ−リ−の「女体というサック」に挿入される「パワ−(出力)」の象徴と見ることになり、この「勃興する熱いパワ−」が(それ自体単独で見ると踊る力など持ち合わせていない)カ−リ−女神を踊らせている、と見ることになります。
 従って、こうした見方をする場合に限り、「リンガム礼拝」は、カ−リ−女神自体を「根源造化力」と観る見方よりも、よりダイレクト(直接的)に「世界の本質」を洞察・看破した見方になります。
(故に、軽蔑すべきものでも忌避すべきものでもありません)
(リンガムをシヴァ神そのものと観るインド習俗も、このように解すれば、無理なく理解できるでしょう。)
 
(空−五−二四)
 −−−以上の通り、
「マクロの視座」で全宇宙・全霊界・全存在物を鳥瞰し、「自性有る存在」を「本居」、「無自性存在」を「客舎」と洞察し、「フォ−ス(置力)」と「パワ−(出力)」という「二種の力」を正しく観想できるレベルに到達すると、その人はもはやどのような「特定宗教という小さな器」の中にも、自分を押し込めることができなくなります。
 こうして、特定宗教の枠に縛られない霊的ヴィジョンとしての
「無限大・絶大なる一大曼陀羅」を、般若ヨ−ガの行者も諸聖者・諸仏達と共に観想できるようになります。
 
  (後篇 第五章 終わり)
 
 
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このページの最終更新日 2003/12/23

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