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般若心経マスターバイブル後篇第6章


第六章 聖イグナチオ・デ・ロヨラの観想法 
 
(空−六−一)
 フォ−スとパワ−の二分法で万物を観想する修錬を積む過程で、それを(外的レベルに留まらず)自分の内的レベルにまで浸透させるために、
カトリック教会で聖人とされているイグナチオ・デ・ロヨラの次の観想法を併用して実践すると、より一層「宗教の枠を越えた壮大な霊的ヴィジョン」が堅固なものになります。
 イグナチオ・デ・ロヨラは、信徒たちに
「正しく適切な修行法」を伝授する目的で、四週間プログラムの「霊性鍛練法」〔※註@〕を著しました。これは実に優れた書物であり、以来、彼の「霊性鍛練法」を実践するカトリック信徒や修道者は後を絶ちません。その中でも「その頂点」(=四週間プログラムの締め括り)に位置する観想法が、「愛に達するための観想法」です。
 
(空−六−二)
【※註@>>>−−−日本のカトリック教会には『霊操』という言葉が有ります。普通の日本人はこの日本語に「えっ?」と思うことでしょう。ですが実際、『霊操』という書物も出版されています。イグナチオ・デ・ロヨラ著、岩波文庫刊 門脇佳吉(上智大学教授・イエズス会神父)翻訳の本です。このように、日本のカトリック教会では、イグナチオ・デ・ロヨラの瞑想法を長らく「霊操」と翻訳してこの特殊造語をずっと使用しています。
 
「霊操」とは、イグナチオが「exercios spirituales」と称した言葉に対する日本語の翻訳語です。これは「情操(教育)」とか「体操」という言葉が有るから「霊操」という造語が有っても良いだろうというような「安直な訳語」で「悪い言霊」だと思われます。
 こんな事を言うと、
「違う。『霊性操練』の略語としての『霊操』である」−−−と反論されそうです。しかし、『霊性操練』の縮約形ならば、単純に<霊性鍛練>と言えば良いし、このように省略形を用いない方がずっと分かりやすく、馴染みやすいでしょう。
 「霊操」という語には、「聞き慣れない上、文法的にも奇っ怪な言葉」であるが故の「いかがわしさ」が付きまといます。
イグナチオ自身、もしも日本人だったならば、決して「霊操」という奇っ怪な造語は使わなかったであろうと推測されます。何故なら、彼自身、誰にでも分かるよう、端的に「exercios spirituales」と呼んでいたのですから。
 岩波文庫のイグナチオの本のタイトルも、
「霊操」ではなく「霊性鍛練法」であれば、売り上げ部数も遙かに多くなっていたかも知れませんし、この鍛練法を実践する人が今よりもっと沢山出たかも知れません。
 以上の理由から、
本書では、『霊操』という悪い言霊を忌避して、『霊性鍛練法』という呼称を使うことにします。(この呼称の方が日本のイエズス会のためにもなると思うからです。)
イグナチオ・デ・ロヨラの『霊性鍛練法=霊操』について学びたい人は
『こちらのサイトをどうぞ。』 >>>註終了】
 
 
(空−六−三)
 イグナチオ・デ・ロヨラが教示した
「愛に達するための観想法」は、次の四つのポイントで構成されています。
 
【要点1】 深謝から湧き出る「個我返上の祈り」
【要点2】 神の「内在性」の観想
【要点3】 神の「活動性」の観想
【要点4】 「神への全的依存性」の観想
              

 
 −−−以下、簡単に解説して行きます。
 
(空−六−四)

【要点1】 深謝から湧き出る 「個我返上の祈り」

 イグナチオは、神から受けた諸々の恵みを次の順番で観想するように、と指示します。
1)人間としての自分を創造して下さった恵みを深く思い、感謝の念を抱く。
2)主の「あがない」の恵みを深く思い、感謝の念を抱く。
3)自分個人に与えられた恵みを深く思い、感謝の念を抱く。
4)自分のために、主がどんなに多くの事をして下さったか、深く思い、感謝の念を抱く。
5)自分のために、主がどんなに多くのものを与えて下さったか、熟慮し感謝の念を抱く。
6)自分のために、主がどんなに御自分を与えたいと思っているか、主の恵み深き御心について 深慮する。
 
 続いて、イグナチオは、
そのお返しとして何ができるか熟慮するように指示します。
1)主に何を捧げ、何を与えるのが当然で正当か、熟慮する。
2)自分の一切の持物を捧げるのが当然である、との思いに到るように内省する。
3)のみならず「自分自身」を主に捧げるのが当然、との思いに到るように内省する。 
 
(空−六−五)
−−−〔要点1に関する評価・コメント〕−−−
 イグナチオのこうした「指示」は、この後に続く「個我返上の祈り」の準備をさせるためのものと言えます。
 そもそも、「賊我」の「根本盗取」(前篇第四章)を抜本的に解消するためには、個我を大日空王主に全面的に返上する必要が有ります。しかし、
嫌々「返上」しようとしても、主はそれを受領しようとは決してなさりません。そのために、人間に「一定範囲の自由意志」を授与しているからです。つまり、自由意志による「人間の心変わり」も当然、大日空王主の計算の中に入っているからです。それ故、飽く迄も「個我の返上」は「偽りなき真心」それも「心変わりをしないほど熱心な真心」から出たものでなければ駄目です。そして、このような「真心」のためには、「神の恩寵に深謝する心」が不可欠の大前提になります。
 よって、「主への深謝」が湧いて来るように、これまで与えられた恩寵を数え挙げ、受けた祝福を思い出します。そうやって
「忘恩の念」を一掃します。そうして、深い感動と、活き活きとした感謝の念を呼び起こすのです。
 こうして、「真の全き献身の心」で「個我返上の祈り」ができるように自己制御します。
 
(空−六−六)
 さて、
イグナチオが示す「個我返上の祈り」は次の通りです。
 
「主よ、すべてを取ってお受け取り下さい。私の自由、私の記憶、私の知性、私の意志をすべてお取り下さい。私の持てるもの、私の所有すべてをお取り下さい。これらのものを御身は私に与えてくださいましたから、主よ、御身にお返し致します。すべては御身のものですから、どうぞ、御旨のままに、お取り計らいください。願わくは、御身の愛と恩寵をお与え下さい。私はそれだけで充分です。」
(門脇佳吉訳・岩波文庫 二○八、九頁より)

(但し、物質的イメ−ジを避けるため、
「御身」よりは「貴方」の方が良いでしょう。)
 
(空−六−七)
 この祈りのポイントは、「お受け取り下さい、と祈る献上の心」であり、「主の愛と恩寵」だけがあればそれだけで充分満足、と表明している処にあります。
 「あれもこれも欲しい」という祈りではありません。自分の個我総てを聖なる捧げ物として主に献上し、自分の個我を「どうか、主が自由自在に使って下さいますように」と願う祈りです。
 ここで重要なのは、先程も述べた通り、
こうした「献上の心」は移り気な、意志薄弱なものであってはならない、という点です。そうでなければ、祈りは主に決して受け入れられません。「やっぱり、や−めた」と直ぐに心変わりするような「弱い献上の心」では、心を全部見通してしまう「大日空王主」はその祈りを「正式な献上」とは見ません。
 飽く迄も、百%に近い真剣度で「個我返上の祈り」をする時にのみ、この祈りは受け入れられます。しかし、煩悩の河川を泳ぐ楽しさや、その肉的快楽は容易には捨てられないものですから、
普通は「個我返上の祈り」を真剣に捧げる気持ちには“到底なれない”でしょう。
 これで分かる通り、「個我返上の祈り」の中には、「イエズス・キリストの十字架=私心を磔にすること=煩悩に死すこと」即ち「(禅家で言う)大死」が含まれています。
 ですから、「個我返上の祈り」は「大死大活」「殺身成仁」の祈りと言えます。
 
(空−六−八)

【要点2】 神の「内在性」の観想

 イグナチオは、万物の中に「神の内在性」を次の順で観想するように、指示しています。
1)どのような形で「総ての被造物」に神が内在しているか、洞察する。
2)無生物に「存在」を賦与して、そこに内在して居られる主を洞察する。
3)植物に生長作用を賦与しながら、そこに内在して居られる主を洞察する。
4)動物に感覚作用を賦与しながら、そこに内在して居られる主を洞察する。
5)人間に思惟作用を賦与しながら、そこに内在して居られる主を洞察する。
6)自分に人間としての「存在」を賦与して下さり、今現在「生かして」下さり「感じさせて」 下さり「考えさせて」下さりながら、我が裡(ウチ)に内在して居られる主を洞察する。
7)自分の心身を「神殿(=客舎)」と見ながら、そこに内在して居られる主を洞察する。
8)
その他、「より良いと思われる方法」で「主の内在性」を観想する。
(「より良い方法」としては、これ迄見て来た通り、般若ヨ−ガの「無自性の瞑想」の実践こそが最も強力な方法と言えます。)
  
(空−六−九)
−−−〔要点2に関する評価・コメント〕−−−
 イグナチオが教える「神の内在性に関する観想法」は、
結局、「無自性存在」の三不能(無力)の観想に通じ、「縦横二重の依存」の観想に通じ、フォ−ス(置力)とパワ−(出力)の観想に通じるものと言えます。
 つまり、「内在性」という切り口で「主の置力(フォ−ス)」を洞察し、そこから発せられる「個別の出力(パワ−)」を観想することで、万物が「それ自身固有の力」を持たないことを観想するわけです。従って、
<要点2>は、イグナチオ流の「無自性の瞑想法」(の1バリエ−ション)と言って良いでしょう。
 
(空−六−十)

【要点3】 神の「活動性」の観想

 彼は、万物において「主が労働しておられる様子」を観想するように、と指示します。
1)全被造物を「存在」として「発生」させるべく「労働」して居られる神を洞察する。
2)それらの「存在」を「保持・維持」されるべく「労働」して居られる神を洞察する。
3)生けるもの総てを生長させ、感覚を与えるべく「労働」して居られる神を洞察する。
 
(空−六−十一)
−−−〔要点3に関する評価・コメント〕−−−
 この観想法は、要点2「神の内在性の観想」を
より一層深めたものと言えます。
 大日空王主のパワ−(出力)の観想を通して、万物の
「生住異滅」(=発生・存続・変異・消滅)の転変が、主のパワ−によって「今の今、下支えされている」事を観想するものです。 そしてこれは、裏から言うと、「主の下支えのパワ−」が無くなると、万物も即座に消えてしまう、という事を意味します。つまり、「無自性存在の三不能」における「縦の依存=根幹依存」を強く意識する観想法と言えます。
 
(空−六−十二)

【要点4】 「神への全的依存性」の観想

 彼は、善きものと賜物総てが「上から降って来る」様子を観想するように、と指示する。
1)自分の「有限な力」が、主の「無限力(=置力)」から降下して来る様子を観想する。
2)正義、善、慈悲、憐れみなどが、上から降り注ぐ様子を観想する。
 
(空−六−十三)
−−−〔要点4に関する評価・コメント〕−−−
 この観想法は、要点3「神の活動性の観想」を
より一層深めたものと言えます。
 「神の活動性の観想」が深まって行くと、
<「自力」のものは全く無い>という「全的依存性」の自覚に住するようになります。そうして「極無自性心」の境地になって行きます。
 この自覚が深まると、「一切の慢心」が混入する余地が無くなり、「吾我驕慢心」(前篇第四章)が止滅して行きます。すると、「全的依存性」の自覚の中で、「神の活動性」との「感応道交」状態が極めて密接になって行きます。そして、
個我の活動が「神の活動」と不可分のものになって行きます。そうして、密教で言う「入我我入(にゅうががにゅう)(=主が我の中に入り、我が主の中に入る)状態」に突入します。
 
神との密なるヨ−ガ(結合)状態の実現です。
 
(空−六−十四)
 −−−以上が、イグナチオが教示する「愛に達するための観想法」です。
 この観想法の本質を見抜く人は、これが
「諸宗教の枠組を越えたレベルの観想法」だと分かるでしょう。暗黒のドグマ(教義)にまみれていた中世のカトリック教会の中で、こうした素晴らしい内容を教示したイグナチオ・デ・ロヨラは、まことに本物の霊的体験(光明に包まれた体験)の持主であったと見て良いでしょう。〔※註A〕
 
イグナチオの「霊性鍛練法」は、現代カトリック教会が公式に承認している修行プログラムです。しかし、この「公式承認」は、カトリック教会が「一つの時限爆弾」を抱え込んでしまった事を意味します。何故なら、本当に真心から「愛に達する観想法」を実践したならば、その信徒は特定宗教としての「古きキリスト教」としてのカトリックの枠組みには留まっていられなくなってしまうからです。つまり、この観想法は、特定宗教としてのキリスト教のドグマ(教義)を全部木っ端微塵に爆破・粉砕してしまうだけの威力を含んでいるのです。
(この道理を裏から表現すると、イグナチオの観想法を十全に成就できていない信徒だけが、カトリックや特定宗教としてのキリスト教の枠組みに固執するレベルに住んでいる、ということになります。厳しい言い方で申し訳ありませんが。)
 
(空−六−十五)
【※註A>>>−−−彼の光明体験は、小さなサマディ(サヴィカルパ・サマディ)と言えます。イグナチオは存命中、ニルヴィカルパ・サマディ(前篇第五章)には入りませんでした。
 「入れなかった」と見るのは妥当ではないでしょう。大サマディに入る可能性は彼にも有ったと思います。しかし、神はそれを望まなかったのでしょう。
イグナチオはカトリック教会の枠組みの中で為すべき使命を持っていたからです。
 神は、イグナチオを用いて
カトリック教会を内部から浄化することを望まれたのでしょう。そして現に、イグナチオの残した「霊性鍛練法」により、カトリック教会は内側から浄化され続けています。実に彼の功績は多大だと言えます。 >>>註終了】
 
(空−六−十六)
 
イグナチオの「愛に達する観想法」では、「肉体身のイエズス・キリスト」が一度も登場しません。十字架も登場しません。まるで(この観想法では)、肉身のイエズスもその十字架も「無用」とでも言うかのように−−−。
 
そして、事実、「無用」なのです!(勿論、頑固なカトリック教徒は「必要だ」と強弁するでしょうが。)
 この観想法では、キリスト教特有の「道具立て」は総て捨象されています。故に、この観想法を、ユダヤ教徒が行っても全く差し支えないし、ヒンドゥ−教徒が行ってもイスラム教徒が行っても仏教徒が行っても全く問題有りません。また、真言密教徒が行なうならば、これは自分の宗派の観想法かと勘違いしてしまうかも知れません。
 
(空−六−十七)
 この事実は何を意味しているのでしょうか。
 この事実は
、超宗教的な ≪大乗仏教の方便観≫ こそが正しいものであることを意味しています。
 即ち、肉身のイエズス・キリストの存在も、十字架の受難のドラマも、洗礼も、日曜日毎に教会に通うことも、聖書を読むことも、主の祈りを欠かさないことも、その他の教えも、
全部が全部、信徒が「愛に達する」ための「一つの方便(便法)」に過ぎないということです。
 イエズスの十字架には、
「移殃(いおう)の儀」〔「殃(=わざわい)を移す」宗教儀式のこと〕の効力が有ります。しかし、そうした恩寵も結局は、総て「個我の献上」に人々を導くためのものと言えます。
 それに、
イエズスの十字架自体が「個我献上の象徴」です。よって、彼の十字架は、彼を信じ、彼の後を付き従う者たちの偉大な模範です。
 このように
、「個我献上」こそが「救いの鍵」です。よって、「個我献上」に導くことができるならば、キリストの十字架以外の手段でも全然構わないわけです。
 ユダヤ教の
「アブラハムがイサクを捧げたエピソ−ド」も、実は「個我献上」を信徒たちに教えるための「型」でした。この霊的意義を看破する人は幸いです。
 アブラハムにとって息子イサクは「自分の肉」に等しい存在です。故に、イサクを神に捧げる行為(儀式)は、
アブラハムが自分の個我(肉)を献上する「型」だったと解する時、この物語に含まれる霊的な象徴の意味を十全に理解したことになります。
 また、
モ−ゼが上に掲げた「青銅の蛇」についても、やはり「個我(この場合は賊我)の献上」の象徴と理解する時、この物語に含まれる霊的象徴の意味を十全に理解したことになります。
 −−以上で分かる通り、どんなに
「神への生贄」として鳥獣を沢山殺しても神は決して喜びませんし、そんな儀式では人の罪は消滅しません。人の罪が消え、神も喜ぶ行為とは、究極的には「個我の献上」行為だけだと言えます。つまり、真に神の喜ばれる、そして霊的に効果の有る「生贄」は「人間の個我」だけなのです。
<人は個我を生贄として神に捧げる時に救いに到る。「個我の献上」なくして救いはない。>−−−これが真理です。
 
(空−六−十八)
 そして、
「個我の生贄」は「全焼の生け贄(犠牲)」でなければいけません。
 
「半焼では駄目」です。「全焼」の必要が有ります。何故なら、「全焼」とは、「肉」を余す所なく全部、聖火で燃やして「主に捧げ尽くす」という事の比喩だからです。
 従って、「個我(肉)の献上」は、部分的なものでは駄目。「完璧に全的なもの」でなけれはいけません。「勿体ない」と言って、留め置かれる部分が有ってはなりません。
 イグナチオは
「個我献上の祈り」の中で−−−@自分の自由 A自分の記憶 B自分の知性 C自分の意志 D自分の所有するもの全部−−−こうしたもの総てを献上する旨を表明しています。「全焼の捧げ物」のためには、このように徹底する必要が有ります。
 
(空−六−十九)
 ところが−−−!
 本当にこれらを全部献上してしまうと
、「私はキリスト教を信じる」とか「私はユダヤ教を信じる」などと言い立てる「分別や理性や自我意識」をも全部神に捧げることになります。つまり、必然的に「特定宗教の枠組みを超越したレベル」に突入してしまいます。
 (空−六−十四で触れた通り)この道理を裏から言い直すと、「イグナチオの観想法」には
「万教帰一、超宗教の不二一元哲学」が暗に組み込まれているのですが、にも拘らず、相も変わらず「古いキリスト教」という特定宗教の枠組みの中で「イエズスだけに救いが有る!」と強弁しているカトリック教徒、中でもイグナチオの弟子である「イエズス会士」が仮にいたとするならば、その人は中途半端にしか「個我献上」をしていない修道士、ということになります。つまり、この人には「賊我の意識=霊的盗性」が残っている、即ち「修行不足」ということになります。
 
(空−六−二十)
 とは言え、大聖者イエズス・キリストでさえ、極限状況にあっては、「個我の献上」には困難を感じて苦闘しました。ゲツセマネの園の葛藤がそれです。況んや、凡人においてをや。
 いかに勇猛果敢で(相対的には)偉大なイエズス会士であっても、自分の賊我を完全に主に献上し、これを完全に放棄するのは容易なことではありません。日々、霊性鍛練が必要な所以です。
 
パウロは「わたしたちは、いつもイエズスの死を体にまとっています。イエズスの命がこの体に現れるために」(新約聖書 第二コリント 4章10節)と言っています。(厳密には「キリストの命」又は「(天父である)主の命」と言った方が良いですが。)
 また、原始キリスト教会の管長と言える
ペテロは「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家(単数形。前章参照)に造り上げられるようにしなさい」(新約第一ペテロ 2章5節)と、サラリと言ってのけています。
 また、
バガヴァド・ギ−タでは、クリシュナ(を通しての大日空王主)が「汝は、唯(タダ)我のみの器具となれ」(11章33節 完訳版)と教示しています。
 まことに、こうした処にそ霊性修行の目標があります。こうした「入我我入」の感応道交状態に入れれば「救い」に到り、大悟・大覚の聖者になります。
 
(空−六−二一)
 先に、勇猛果敢なさすがのイエズス会士でも「賊我」を残存させた「個我返上の祈り」しかできないケ−スが有ることを指摘しましたが、もう少し一般的・大局的に言った方が分かりやすいかも知れません。即ち−−−
<全世界のキリスト教信徒たちの「最大の短所」は、仏教の「人我見」(前篇第三章第四節参照)を後生大事に保持していることである。>−−−
 このような指摘ができます。
(もの凄く厳しい修行を積んだキリスト教の修道士ですら、人我見を捨て切れていないと言えます。)
 つまり、「おお、イエズス様、キリスト様」と敬虔な顔で信仰していても、その実、
≪自分の中に『我』 (この場合『自性』の意味) が有る≫と思い込んで生活しているのです。つまり「根本錯誤」(前篇第三章第四節)を犯し続けたままの状態なのです。これ即ち、「神の活動性」と「自分独自の活動性」を分離して考えている、物質的思考パタ−ンに毒された見解と言えます。
 しかし、イグナチオが「愛に達するための観想法」で教示した通り、要点2)3)4)について能々(よくよく)洞察・観想するならば、自ずと
「個我無自性」の真理が洞察されて来て、「自分に対する人我見」が解消されて行きます。
 そうして、「根幹依存」(空−三−十六)の自覚が深まり、「個我無自性」「諸法無自性」という(仏教が指摘する)「一大真理」が看破できる境地が見えて来ます。
 
(空−六−二二)
 ここまで深く「愛に達するための観想法」を熱心に実践するならば、この人は、
次のバガヴァッド・ギ−タの一節−−−
<われ、もし行為を為さざれば、この世は(即刻)消滅せん。>(3章24節、完訳版)−−−という(クリシュナを通しての)大日空王主の御言葉を完全に理解する境地に到達します。
 加えて、要点4)の「全的依存性の自覚」の故に、
次のバガヴァッド・ギ−タの一節−−−
<たとい行為に携わるも、何らの行為も為すことなし。>(4章20節 完訳版)−−−という「(個我独自の有為なる行為からの)解脱の境地」をも完全に理解できるようになります。
 
(空−六−二三)
 さて、このレベルに到達すると
、「金剛般若経」の、(一般人からすると)とても不可解なロジック(論理)をも、完全に理解できるようになります。即ち−−−
A 衆生を救いに導いたとしても、「自分」が救っているわけではない、という論理。
B 衆生を救いに導くと言っても、別段「何一つ救ってはいない」という論理。

 (何故なら、万物は「自性有る存在+無自性存在」の混成体と看破するので、「自性有る存在」を差し引くと、
残るのは「無自性存在=これだけを単独で見るならば無生物の如き存在」であるから「衆生を生き物と見ないで伝道する」わけです。)
C 仏国土を建設すると言っても、「自分」が建設するわけではない、という論理。
D 一所懸命「善行」をして功徳を積んでも、「自分」が善行しているわけでも、功徳を積んでいるわけでもない、という論理。

 −−−等々、こうした「金剛般若経」の内容を容易に理解できるレベルに到達します。
 従って、イグナチオ教示の「霊性鍛練法」の頂点に位置する「愛に達するための観想法」は(宗教・宗派を超越した)「無限定の<正覚>に達するための観想法」と換言できます。
 
(空−六−二四)
 最後に、
Bの「衆生を生き物と見ないで伝道する」ロジックについて、更に深い解説をしておきましょう。
 より厳密な表現をするなら、
「衆生を一個の独立した生命主体とは見ないで伝道する」という意味です。「人」を「五蘊(五つの集合体)」と見て「五蘊は無自性」と看破するなら、「色・受・想・行・識」の五要素のどこにも「根本の動因としての真の主体性」は存在しないことになります。ということは、どの要素も「腕と同じ」ような「道具としての器官」に過ぎないことになります。つまり、衆生を「自性有る存在」(大日空王主)の道具としての器官(又は媒体)」と観ながら伝道するわけです。足が痒ければそこを掻きますが、これと同様の行為ということになります。即ち、「足の痒みが衆生の求道心」「手で掻く行為が伝道救霊行為」ということになります。
 この見方で行くと、
伝道は「人という生き物」を救う事業ではなく、「(人の)媒体を変性させる事業」という意味で、ピアノなどの「楽器の修理」と同種のものと位置付けられることになります。それ故、救霊事業は、バガヴァッド・ギ−タでは「田畑を耕すこと」に喩えられ、キリスト教では「ブドウの栽培」に喩えられるわけです。
 現代で言えば、
コンピュ−タ−プログラムのバグ直しに喩えることもできるでしょう。
 こうした視座(不二一元哲学)の中にこそ、宗教の奥義が有ります。
 
(空−六−二五)
 最後に、本章を一つの詩頌に約します。曰く−−−
 
   寸毫も 「我が物」の無き「我」なれば 「入我我入」の愛にひた燃ゆ  
 
 (後篇 第六章 終わり)
 

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このページの最終更新日 2004/1/12

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