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 般若心経 完全マスター 
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典など  dい

般若心経マスターバイブル後篇第7章その1


第七章 般若心経 真義開陳


(空−七−一)
 いよいよ、「般若ヨ−ガの結晶」である「般若心経」を
徹底的に解き明かして行きます。
 般若心経は、ゼロから突如制作されたものではありません。一つ前の段階として、インドでは既に「プラジュニャ−(=般若)」に関するお経が山ほど創作され書き継がれて、多くの月日を経ていたので、そうした
「般若経典」は既に十万頌以上の大部の経典群に成長しておりました。そこで、この余りにも膨大な分量の般若経典群のエッセンス(精髄)だけをまとめようという意図【※註】の下(、「最少限の言葉で表現されたもの」こそが「般若心経」です。
  
【※註>>−−大部の般若経典群と、般若心経とは別の系統の流れで出来たものであり、「決して般若経典をまとめたものが般若心経なのではない」という主張をする人もいます。その理由としては、大真言などの呪能信仰などが混入している点などを挙げます。
しかし、重要なのは、「般若心経制作者が、空の奥義に精通していたかどうか」という点です。空の奥義に精通していれば、般若経典群にも精通していることになり、そのエッセンスを最小限の言葉で表現したならば、結果的に、おのずと大量の般若経典群の『要点要約をしたもの』になります。
従って、「別系統か否か」は、ここでは問題ではありません。
心経が、大量の般若経典群の『要点要約をしたもの』としての位置にあるか否か、が問題なのです。
そして、梵語の般若心経制作者は、『三段階の空観』を入れている点からして、実に『わかった人』であり、大量の般若経典群の『要点要約』に、見事に「なっている」、と評価できます。<<<註終了】
 
 さて、そうした「般若心経」には、大別して
次の 二種類が有ります。
 
A.般若心経「小本版」(状況設定も粗筋も分からないほど大胆な要約がなされているもの)
B.般若心経
「大本版」(状況設定と粗筋が分かるもの)
 
 文献学的には、大本版より小本版の方が古いと言われます。つまり、最初に思いっきり要約した「小本版」を作成したものの、要約し過ぎてスト−リ−すら分からない「小本版・心経」について、
スト−リ−ぐらいは分かるように補正して「大本版」が制作されたと理解すれば良いでしょう。日本で広く流布している般若心経は、スト−リ−の分からない「小本版」の方です。
 
(空−七−二)
 この僅か「二百六十二文字」の般若心経(小本版)には、仏教・密教の神髄が圧縮・凝縮されています。もっと言えば、
「全宇宙・全霊界の一大真理」が収められています。それ故に、般若心経は「お経の中のお経」とか「天下第一の経典」と讃えられて、古くから日本人に親しまれて来たのです。
 その
「般若心経(小本版)」を以下に挙げます。
(厳密には微妙に異なる原本・写本が多数有りますが、ここでは
岩波文庫「般若心経・金剛般若経」中村元・紀野一義訳注に拠る。
(尚、
「T・U・V」と数字を付して改行しているのは、説明の便宜のためです。)
 般若波羅蜜多心経             唐三蔵法師玄奘訳
 (T) 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空。度一切苦厄。
 (U) 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色。受想行識亦復如是。
     舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減。是故空中 無色 無受想行識
     無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法。無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至
     無老死 亦無老死尽。無苦集滅道 無智亦無得。
 (V) 以無所得故 菩提薩捶 依般若波羅蜜故 心無●礙 無●礙故 無有恐怖 遠離  
     〔一切〕顛倒夢想 究竟涅槃。三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三貘三菩提。
     故知般若波羅蜜多 是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真実
     不虚故。説般若波羅蜜多咒。即説咒曰
       掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎訶
     般若波羅蜜多心経
(空−七−三)
 般若心経は、本来、日本の僧侶が葬式の時によくやっているように(意味を意識しないで)口先だけで(漢字の音読みで)唱えるためにある経典ではありません。そうではなく、本来、般若心経は文言の意味を深く理解しながら
「般若ヨ−ガの実践行」を行じるための「基本テクスト(経典)」なのです。
 そこで、「般若心経」が完全に理解できるように、
次の五段階の順で解説して行きます。

【ステップ1】 「空」の三義を知る  
【ステップ2】 心経の「スト−リ−」を把握する
【ステップ3】 サンスクリット語の般若心経に馴染む
【ステップ4】 全単語を正しく理解する
【ステップ5】 「真髄和訳」を用いて読誦・瞑想する

 しっかりこの五段階を踏めば、誰でも「般若心経」に通暁できます。そして、本人の自覚次第で、正しい「般若ヨ−ガ」を日々行じることができるようになり、神の御守護が強烈に働くようになり、数々の奇跡も起きるようになり、悪魔に打ち勝つようになり、正法が立ち現れて来ます。そして、正しい「般若ヨ−ガ」の実践者が増えて行くほどに、地上の霊的光明と浄福はどんどん増進し、地上は浄土化・天国化して行きます。(但し、地上天国化が完成するとは言いません。「悪」も人を誘惑してそのレベルをテストするためには必要だからです。)
 
(空−七−四)

【ステップ1】 「空」の三義を知る 

 般若心経の鍵は勿論、「空」という概念に有ります。これまで、「空」の意味を正しく理解する人は極々少数でした。今こそ、「空」の十全な意味を明らかにしましょう。
 
「空」の原語サンスクリット語の「シュニヤ」は数字の「ゼロ」の意味です。よって、「空」には「ゼロ」の意味、及び、「何も無い(=空無)」の意味が有ります。しかし、この二義はあまりにもそのままの意味であり、当然の前提でしかありません。この当然の二義を前提にして、その上に、般若心経の「空」には次の二、又は三義が有りますが、この奥深い意味を、次のABC三段階ステップで表現してみます。
 最初に「A. 仏教的、霊的な意味での、
基本の二義」を明らかにし、次に「大日空王主」を B. マインドの中で二種類に識別した分け方を示し、最後に、実際の瞑想をしながら C. 「体験する空」の深まりを三種類で示します。
   
★(なぜ、こうしたABCになるのか、これ以降 すぐに説明します。)
A.<「空」の(基本的な)二義>         
   @「不生のアートマン=大日空王主」(の意味)  
   A「無自性存在」(の意味)       
 
B.<マインドで分割した「空」の三義>                    
   @「無自性存在」(の意味)                       
   A相対界レベルの「大日空王主」(の意味)=世俗諦客舎)(の意味)   
   B絶対界レベルの「大日空王主」(の意味)=勝義諦本居=本地)(の意味)
C.<実際の瞑想の深まりに合わせた「空」の三義>             
   @「無自性存在」(の意味)                     
   A相対界レベルの「大日空王主」(の意味)=世俗諦(客舎)(の意味) 
   B「無自性存在」にして(同時に)「不生のアートマン」(の意味) または 
    「不生のアートマン」にして(同時に)「無自性存在」(の意味)     
    もっと言うと−−−「無自性存在」にして「本地の勝義諦」 または  
             「世俗諦」にして「勝義諦」      または  
             「勝義諦」にして「無自性存在の世俗諦」(の意味)
               即ち 「大日空王主の絶対界本地身」にして「大日空王主の相対界変化身」(の意味) 
 −−−以上が、「空」の真義です!
  
(空−七−五)
 しかし、いきなり「正解」を言われても面食らってしまうでしょう。
そこで、
何故「空」にはこうした二、又は三義が有るのか??その理由を解説致しましょう。
 
 「シュニヤ(空)」とは、仏教で使用される言葉です。
古代インドで、「ゼロ」という数学概念が発見されたのは、西暦5世紀〜8世紀とされていますから、それ以前からあることばです。大乗仏教の信徒は、原始仏教時代から脈々と伝承されて来た仏陀の教えの神髄を
この−−−<シュ−ニヤ(空)>−−−という言葉で表現しました。
原語の「シュ−ニヤ(空)」は、「空っぽ・空虚」の意味ですが、それが後代、数字の「0(ゼロ・零)」を意味することばに転用されるようになりました。
従って、「空」と言うかわりに「ゼロ」とか「零」と言っても、現代では、全く同じです。
 では、大乗仏教の信徒は、「シューニヤ」という呼称で、何を表そうとしたのでしょうか?
 また、何故、「シューニヤ(後代の0)」が仏教の神髄を表す記号として採用されたのでしょうか?

 
 (空−七−六)
 そもそも、釈尊は、神とか梵(ブラフマン)、シヴァ神、カ−リ−女神などの「神の名」の使用を忌避しました。その理由は前篇第三章で既に解説済ですがもう一度言いますと、
釈尊の般若ヨ−ガは「仮の主体」を叡智の剣で裁断して「真の主体」に意識集中して行く手法です。よって、イメ−ジや名前など「表層的なもの」真っ先に斬り捨ての対象になります。そうして「活動の究極の根源」へと意識集中して行くのです。
 ところが、こういう厳格な般若ヨ−ガの手法を貫徹すると、根源存在としての「真の神」について、「神」と発語できず、「……」と沈黙するばかりになってしまいます(それ故、仏教は無神論であるという誤解さえ生まれました)。しかしこれでは、偉大な般若ヨ−ガを他者にうまく伝達することができません。
そこで、
「神の無名性(及び非限定性)」を残したまま、根源の「真の主体」を表す文字として、現代ではl「0」という数学上の記号になった「空っぽ」という意味のことば「シュニャー」を「虚空のごとき存在」として代用する知恵が生まれたのです。
 まことに、「シュニャー・空っぽ・空虚=後代のインドの数学の0の発見に繋がる」は
「神の非限定性」の表現記号としては恰好の呼称でした。
 ・・・・インドで「数学の0」が発見されたのは、西暦5世紀〜8世紀とされています。
 ・・・・つまり、仏教における「空(空っぽ・空無・虚空)シュニャー」という概念の方が、インドにおいては、先行していたわけです。

般若ヨ−ガでは「有形なる相対界」を超越した「絶対界の自性有る存在」を求めて意識集中して行きます。故に、「1、2、3…」という整数とは次元の異なる
「整数未満の究極的な根源存在」に眼を向ける意味で、「シュニャー(後代の0)」はピッタリの呼称だったのです。
<「0」を「虚空なるアートマン」を表す記号にする>−−−というアイデアは、まことに素晴らしい閃きでした。
整数(有形物)に成る以前の「不生なる大我」を「シュニャー(後代の0)」で象徴させる方法は、霊的実相に合致したまことに素晴らしいアイデアでした。
 ですから、
大乗仏教の「シュニャー(後代の0)」は「何もない=非存在」を表す記号ということ、だけではないのです。「一者」ならぬ「0者」即ち「(有形的存在としては)不生の実在」の意味なのです。
 −−−以上、「シュニャー(後代の0)」は 「虚空なるアートマン(=本書では大日空王主と呼ぶ)」を表す記号として、大乗仏教が借用した記号です。
 
(空−七−七)
 しかし、勿論、これだけではありません。
 「シューニヤ(空)」である「大日空王主」を瞑想しようとして、「真の主体」を求め求めて「仮の主体」を「これも無自性。あれも無自性…」と切り捨てながら瞑想して行くと、般若ヨ−ガの行者は次のことに気付かないではいられなくなります。即ち−−−
「無自性存在」は「真の主体」ではないから「空虚な存在」である。つまり、それ自体単独では「空虚」にして「0」に等しい存在に他ならない>−−−と。
 そして実際、
「無自性の三不能(無力)」の瞑想を深め深めて遂に「明けき寂莫状態」(空−四−二十以下)に突入すると、「無自性存在」はまことにそれ自体単独では「空無な存在」である、と完全に看破するレベルに到ります。
 こうなると、
「シュニャー(0)」は、釈尊が説いた「アナ−トマン(無我)=無自性」を表す記号としても最適である、との認識に到らざるをえません。
 −−−以上により
、「シュニャー(後代の0)」は「無自性存在」を表す記号としても使えることになります。
 
(空−七−八)
 こうして、大乗仏教では、
「シュニャー・空(0)」は 「@不生不滅のアートマン A無自性存在」 という二義を表す−−−<掛詞(かけことば)>−−−
として機能することになったわけです!
 まことに、
大乗仏教の「0」は「人類史上最高の掛詞」と言って良いです。
何故なら、
世界の本質である二大要素(「不生のアートマン」と「無自性存在」)をたった一語で表しているからです。(これを「芸術的!」と言わずして、何と言いましょう。)
 −−−ところで、
そうなると、「0」には三義有り、とも言えることになります。
 何故なら、「自性有る存在」は厳密に言うと、二つに分けられるからです。即ち、この世の真理を看破した人からすると、万物万象は<「自性有る存在」と「無自性存在」の混成体>です(空−三−十一)。(万物を「真と非真の混成体」と見る喩えは前篇第二章第二節参照)
 つまり、「自性有る存在」は「自己存在一部有形化現出力」(空−二−十八)を行使して、「無自性存在」として「相対界に変化(へんげ)」して
「世俗諦」〔※註@〕に成ります。
 従って、
「不生のアートマン」は、「相対界レベルの姿(相)」と「絶対界レベルの姿(相)」という「二つの顔」を持つことになります。この二相について、空海は「客舎と本居」と表現した事は既に解説した通りです。(空−五−二一)
 
(空−七−九)
【※註@>>>−−−「世俗諦」という仏教ジャ−ゴン(専門用語)は、狭い意味から広い意味まで色々な幅が有る概念です。最狭義では「釈尊の説いた真理」という意味ですが、空海などは、最広義の意味で使用します。即ち「相対界レベルの真理・真実」を世俗諦と解し、人為によらない森羅万象も世俗諦と観ます。
 実際、仏教では
「世俗諦/勝義諦」の二分法が用いられる事が有りますが、この場合、勝義諦(第一義諦とも言う)は「不生のアートマン=本居」を表すので、その対比から言って、世俗諦は「無自性存在全般」を表す(=最広義説)ことになります。本書もこれに従います。 >>>註終了】
 
(空−七−十)
 さて、「空の三義」と聞いて、
仏教の「三諦」を思い浮かべる人はかなり優秀です。
 仏教の「三諦」は、天台宗の智ギ(五三八〜五九七年)が確立した教義で、「空」を
「空・仮・中」の三つの角度から観想する見方(観法)です。
 この
「三諦」について概説しましょう。「空・仮・中」の「空」は「無自性存在」に関する見方で、「眼前に有る存在物の(実)相を<無い>」と否定する見方です。そして、「仮」も「無自性存在」に関する見方ですが、「一旦、無い」と否定した「存在物の相」について「やっぱり<仮になら>有る」と肯定する見方です。そして、「中」はそうした「無自性存在」に関する「否定/肯定」二つの見方を包含しつつ「絶対界の実在」(「自性有る存在」=本居)に意識を持って行き、無自性存在物との中間(中道・中観)の立場で「自性/無自性」両者を包括的に把握する見方と言えます。
 この「三諦」と、先程明らかにした「空の三義」との
対応関係を表にしてみましょう。
    〔対照表〕 
 「空」の三義        三諦    . 
@(相対界の)「無自性存在」
A「不生のアートマン」の相対界変化相=世俗諦(客舎) 
B「世俗諦(無自性存在)」と「勝義諦」の両義の掛詞  
 →→ 
 →→ 
 →→ 


    (注)絶対界は「具体的・有形的な姿」が無いという意味で「空無相」と言えます。〕
 
(空−七−十一)
 さて、この
「対照表」で一つ重大な注意点が有ります。この注意点は、そのまま「正しい中観」の奥義に直結していますから、しっかり理解して下さい。
 「三諦」の「中」は
「中道第一義諦」とも言われるため、従来、この「中」は「第一義諦=勝義諦=自性有る存在の絶対界空無相」だけを指す言葉と誤解されがちでした。
 勝義諦(本居・本地)と呼ばれる絶対界は「無相」です。(厳密には「光の大海、一相」とも言えます)。この「無相」に意識が定まって動かない(=サマディに入定する)ならば、それはニルヴィカルパ・サマディ(前篇第五章)で、大悟達成・到彼岸状態です。
 しかし、「三諦」の
「中」は、その上のサハジャ・サマディ(前篇第五章)を射程に入れた観法と見るべきで、「(絶対界の)無相」と「(相対界の)有相」の両方を同時に、融通無碍に自在に観想する観法を意味している、と解すべきです(これを海印三昧と呼ぶ表現も有ります)。つまり、全世界・全存在を−−−
<「有相にして無相」(又は逆に)「無相にして有相」>−−−と自在に観想するのが「中」即ち「正しい中観」なのです。
(詳細は「色即是空・空即是色」の解説を参照。空−七−●●以下)
 
(空−七−十二)

【ステップ2】 心経の「スト−リ−」を把握する

 般若心経が珠玉の宝典である所以は、「空」を二又は三義の「掛詞」として活用し切っている点にあります。即ち「心経」中の他の文言も、「空」の多義性に対応できる「可変性」を持っているのです。従って、般若心経は、「空」の二又は三義に対応して、色々な顔(内容)を持つお経、と理解する必要が有ります。
 ただし、「空」の三義を理解したとしても「小本版」だけでは状況設定が分からないので、その
「唐突な語り出し」には戸惑う人も多いでしょう。そこで、般若心経を十全に理解するには、「大本版の筋立て」も押さえておく必要が有ります。
 以下、般若心経
(大本版)の「スト−リ−部分」を確認しましょう。
 
<「大本版」の基本スト−リ−>   
@ 他の大乗仏典同様、「如是我聞」(このように私は聞いた)で始まる。
A 他の大乗仏典と同様、
世尊〔※註A〕は、多くの修道者と共に霊鷲山に居り、偉大なるサマディに入定する。
B 世尊の傍らで修行していたアヴァロ−キテ−シュヴァラ(観自在菩薩)は、世尊の高い瞑想力に助けられ、自身も高い瞑想に入定し、「五蘊は皆空」と看破する。
C この時、シャ−リ−プトラ(舎利子)がアヴァロ−キテ−シュヴァラに「ハンニャ−・ヨ−ガの実践法」について尋ねる。
D そこで、観自在菩薩の「シャ−リ−プトラよ」という説法が始まる。
  −−−以下、「舎利子」との呼びかけの後は、小本版と同じ内容になる−−−
E 観自在菩薩は、マハ−・マントラ(大神咒)を教示した後で「(般若ヨ−ガは)以上のように学ぶべきである」と言って、説法を終える。
F すると、世尊が「その通り、云々」と御墨付を与える。これを聞いた周囲の者たちは皆、世尊の御言葉に歓喜する。

  −−−これで「大本版」の心経は終了です。
       
(「大本版」については、岩波文庫 『般若心経・金剛般若経』中村元・紀野一義訳注 181頁以下参照)
 
(空−七−十三)
【※註A>>>−−−大乗仏典の重要なトリックの一つは、ゴ−タマ・ブッダという固有名詞を出さない点に有ります。「世尊(バガヴァット)」とだけ言うのです。バガヴァットとは大聖者の尊称です。よって、「バガヴァッド・ギ−タ」のクリシュナもバガヴァットと呼ばれます。つまり、この世尊をゴ−タマ・ブッダだと思い込むのは読者の勝手なのです。
従って、大乗仏典は「世尊」と言うことで、史実を曲げるという嘘をつかずに、「世尊や菩薩の説法」というフィクションを作り出し、
その巧妙な方便によって信者を信仰の世界に導くことに成功したわけです。 >>>註終了】
 
(空−七−十四)

【ステップ3】 サンスクリット語の般若心経に馴染む

 梵語原典と漢訳版とでは、表現と文言が微妙に異なります。そして、「この微妙な差異」が内容的には「相当に重大な差異」になっています。それ故に、やはり第一に学ぶべきは「梵語原典」と言えます。これを正しく理解した上で、漢訳版の解釈に入るのが「正しい順序」と言えましょう。以下、小本版のサンスクリット語とカタカナの読みと梵語の意味について、簡単にまとめます。
 
  ★★★サンスクリット語とカタカナの読みと意味。
(こちらをクリックして下さい。解説ページに行きます。)

                                                                                 
 
(空−七−十五)

【ステップ4】 全単語を正しく理解する

 梵語の心経を押さえたので、次に「小本版」の文言を逐一解説して行きましょう。
 説明の便宜上、「小本版」を
次の「三部」に分けることにします。

(T)第一部−−−「観自在菩薩 〜 度一切苦厄」−−(導入部)
(U)第二部−−−「舎利子 〜 無智亦無得」−−−−(般若ヨ−ガ実践部分)
(V)第三部−−−「以無所得故 〜 最後」−−−−−(効能と大真言)

尚、老婆心ながら、理解のためのポイントを挙げます。
<ポイント>
 「第二部」が心臓部分、即ち「般若ヨ−ガ実践部分」です。ここでは
「諸法空相」という大真理を、六群に分けて自覚する作業をします。即ち−−−@個我の五蘊 A六不 B十八界 C十二因縁 D四諦 E智と得−−−について、一つ一つ「これは空なり」と自覚して行く瞑想法です。(空の「相対相・絶対相」の観想をします)
 また、「第三部」の「大真言」を無意味な呪文と考えてはいけません。真言の本当の意味を把握することこそが重要です。内容を理解しながら真言を唱えれば、効果絶大、必ずや「第二部」の
般若ヨ−ガ実践の原動力になり、悟りに向かう原動力になります。
 
(空−七−十六)
 では早速、
「第一部」すなわち 「観自在菩薩 〜 度一切苦災厄」 の一つ一つの語義を解析しながら、空の掛詞を見据えて和訳します。
 
(T)第一部(タイトル含む)
 般若波羅蜜多心経             唐三蔵法師玄奘訳    
       観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空。度一切苦厄。 
 〔準備的な仮の和訳〕
  掛     「完璧なる本地の叡智」という「心(唯心)」(について)のお経       
  詞     「完璧なる本地の叡智」の「心髄(精髄)」(について)のお経        
                          唐の三蔵法師玄奘の翻訳による 
    観自在菩薩は、
     深妙なるハンニャ−・ヨ−ガ(=「完璧なる本地の叡智」との結合行)を 
     行じている時に                             
    −−−−−−−−−−− 
  
1. 〔漢訳文に沿った和訳〕  
            <五蘊(五要素が集結した個我)はすべて「空」である>   
               と、照見(=光に照らされて正見) した。 
 
 2.〔梵語原文に沿った訳〕  
            <(自分の体を)五要素の集合体(五蘊)と看破し(た上)、 
               それらは正に「自性ゼロ」と見極めた。     
          −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           (そうして) 一切の苦厄(苦しみと厄禍)を超越した。
 〔「般若波羅蜜多」は従来は「知恵の完成」と訳されていましたが、正しく和訳すると、何故「完璧なる本地の叡智」になるのか、については「語義解析2〜3」(空−七−二五以下)を参照して下さい。〕
 
(空−七−十七)
 この訳に加えて、更に
 「観自在菩薩」の語 を解きほぐして訳出してみましょう。
 まず、
「菩薩」の意味を解きほぐして訳出すると、次のようになります。
    
 〔何故、次のような訳語になるのかについては「語義解析5」(空−七−三●以下)を御覧下さい。〕
 
         
 菩薩 = 悟りへの発心堅固な勇者        
 
 次に
、「観自在」の語 を解きほぐして訳出すると、次の 2通りの訳 が考えられます。
    
 〔何故、こうした訳語になるのかについては「語義解析5」(四−七−四●以下)を御覧下さい。〕
 
 
観自在 = @  「存在本源の光輝を遍く看取した菩薩」即ち「観普明(かんふみょう)  菩薩」は〜  
         A  「遍く(相対/絶対)両界を自在に観想することを渇望する菩薩」 即ち 「観自在菩薩」は〜

 
(空−七−十八)
 次に、漢訳版の一文
「照見五蘊皆空」について、<空の三義>を当てはめて訳出すると、次のようになります。
  @「五蘊」は皆(みな)「自性無きもの」、と照見した。             
  A「五蘊」は皆(みな)「自性有る存在=大日空王主」の「相対界変化(へんげ)相」と照見した。
      〔相対界変化相とは、大日空王主の相対界レベルの変化身のこと〕 
   B「五蘊」は皆(みな)「自性無きもの」にして、(同時に)「自性有る存在=大日空王主の
     絶対界本地身」とも別個のものではない、と照見した。         
      〔絶対界本地身とは、大日空王主の絶対界レベルの法身のこと〕 
〔アテンション1〕>>>                                
  (@の)「自性無きもの」と、(Aの)「大日空王主の相対界変化相」とは、
同じ事を意味しています。
   「自性無きもの」が「大日空王主の相対界変化相」であり、「大日空王主の相対界変化相」が
   「自性無きもの」です。        
〔アテンション2〕>>>                                
  
梵語原文では、「五蘊は 空(シュ−ニャタ−) なり」 とは言っていません!   
  わざわざ、
「スヴァバ−ヴァ・シュ−ニャ−ン(自性−ゼロの)」という表現法
  採っています。つまり、
「五蘊は 無自性 なり」 と、意識的に「空」を一義に絞り込んだ
  
「限定的な表現」を使っているのです。〔「語義解析9.皆空」の項(空−七−六●以下)参照〕
   以上の違いを、しっかりと押さえておいて下さい。         
 尚、「無自性」という専門用語(テクニカル・タ−ム)を使わないようにして訳出したい場合は、「無自性」部分を以下のようにして訳せば、適切な般若ヨ−ガの実践ができます。
「無自性」という言葉を−−−                          
 
≪それ自体単独では、発生する力も存続する力も活動する力も全く無い≫ 
 −−−という文言に 言い換え、置き換える。または、
 
≪それ固有の主体性が全く無い≫ または、
 
≪真主体性が無い≫
 −−−という文言に言い換え、置き換える。                   
(空−七−十九)
 以上に基づいて、改めて
「第一部(導入部)」を正式に翻訳すると、こうなります。

(T)第一部 〔真髄和訳〕 (読誦用) 

 存在本源の光輝を遍(あまね)く観照し、「相対/絶対」両界を自在に観想する(という)「悟り」への発心堅固な勇者、(即ち)観自在菩薩は、深甚霊妙なる完全究極叡智(への)帰入行を行じている時に、(自分の体を)「五要素の集合体」と看破し(た上)、それらには正に「自性が無い」と見極めた。 
 〔(そうして) 一切の苦厄を超越した。〕                  
〔この翻訳は、梵語原文に忠実でありつつ、漢訳版も考慮・加味したものです。また、「般若波羅蜜多」については先の「仮の和訳」では「完璧なる本地の叡智」と訳し、その更なる省略形として「完全究極叡智」と訳すのか、については 「語義解析2〜3」(空−七−二五以下)を参照して下さい。〕
 それでは、以上の「真髄和訳」を念頭に置きながら、
一語一語の意味を徹底的にマスターして行きましょう。
 (空−七−二十)

<語義解析> (数字を打った語彙の意義について解析して行きます。)

(T)第一部

〔 梵語の表題(1) 〕   般若(2) 波羅蜜多(3) 心(4)経     唐三蔵法師玄奘訳 
 観自在菩薩(5)   行深般若波羅蜜多時(6)     照見(7) 五蘊(8) 皆空(9)  
 度一切苦厄(10)                               
(空−七−二一)

(1) 梵語版のタイトル   

 サンスクリット原本のタイトルとしては、「般若波羅蜜多心経」という表題がありません。その代わりに
「ナマス サルヴァジュニャ−ヤ」 という帰命文 が置かれています。
 
岩波文庫版は 「全知者である覚った人に礼したてまつる」 と和訳しています。けれども
「サルヴァジュニャ−ヤ」を 「全知者である覚った人」と訳すのは妥当ではありません。

 一般的な「全知」の意味は「何でも知っていること、知らない事は何も無いこと」を意味し、一般に「全知全能の神」という慣用句が有るから、「全知」は「神」の特性の一つと理解されています。但し、「全知」には別の意味も有ります。(俗的用法ですが)少ないながらも自分の持っている「全部の智恵」という意味で使う場合などです。(例えば「我が全知全霊を傾けて〜する」など)
 ところで、
岩波文庫版では、「サルヴァジュニャ−ヤ」を単に「全知者」と訳してしまうと「全知全能の神」を指す言葉だと誤解されてしまう恐れが有ると考えたのか、敢えて「〜である覚った人」という言葉を補足して、「全知者」を「すべてを見極める聖見者」という「人間レベルの聖者」に限定しています。翻訳者としては−−−「サルヴァジュニャ−ヤ」は「神」の意味ではなく、飽く迄も「仏陀(覚者)」を指す言葉ですよ−−−と言いたいわけです。しかし、本当にそれで良いのか、という問題です。
 
(空−七−二二)
 
岩波文庫「般若心経・金剛般若経」(中村元・紀野一義訳注)の「巻頭」には、慈雲尊者の「梵語と漢訳対照の般若心経」の冒頭の写真が載っています。ここでは「ナマス サルヴァジュニャ−ヤ」が「帰命 一切智」と訳されています。このように、サルヴァジュニャ−ヤを「一切智そのもの」(つまり、人間レベルではない全知全能の神のレベル)と解釈する見方は、日中の仏教史の中では幾度も登場します。
 
文法的には「サルヴァジュニャ−」は形容詞形であり、これに為格(又は与格とも)を表す「ヤ」が付くと形容詞が名詞化して「知悉した→知悉した者に」という意味になります。〔「為格」とは、間接目的語や「〜に」という方向(英語のto)を表すもの。〕
 また、
「抽象的な一切智」を表す場合は「サルヴァジュニャ−」の後に接尾辞の「タ−」又は「ナ」を付けます。或いは、「プラジュニャ−(般若)」(女性名詞)と同じ用法で、(辞書には無いものの)変則的に「サルヴァジュニャ−」(女性名詞)と使うことも不可能ではありませんが、この場合、語尾は「ア( )からア−(  )」に変化します。よって、語尾が「ア−」の時の為格は「ヤイ」となり、「サルヴァジュニャ−ヤイ」という形を取る必要が有ります。しかし、梵語原題は「サルヴァジュニャ−ヤ」でしかありません。
 というわけで、もしも
「一切智に帰命する」という解釈を採る場合には、語尾になければならない「イ」が(聞き間違い等)何らかの事情で脱落してしまったに違いない、と推測することになります。(語尾の「イ」脱落説)
 
(空−七−二三)
 
「サルヴァ」には「一切の・総ての・完全な・諸々の」等の意味が有り、「漏れる処のない・欠ける処のない」といニュアンスが有ります。〔因みに、「プラジュニャ−(般若)」の「プラ」の原義は後述しますが(空−七−二五)、「プラ」には後世「全的な」という意味も出て来たので、この意味の「プラ」の言い換えが「サルヴァ」と見るのです。〕
 そこで、心経の梵語表題を−−−<(総ての智の元である)
「一切叡智」に帰命し奉る>−−−こう解すると、この帰命文が般若心経冒頭に置かれていることが、次の二点で実に意義深いものとなります。
 第一に、
「心経」がどんなに否定的言辞を重ねても、「方広道人」(前篇第三章)という「虚無の邪見」に落ちるような「否定のための否定」をしているわけではなく、これは飽く迄も「大日空王主の生ける大叡智」に帰命するための「目的的否定」である、との宣言文になること。
 第二に、般若ヨ−ガは、「帰命=礼拝」行為に直結する「ブッディ(理性)・ヨ−ガ」なので、この「理性的・目的的否定行為」自体が「崇高なる礼拝行為」に他ならない、と冒頭で明言していることになること。
 語尾に「イ」が有るか否か、
(ある意味)紙一重の差ですが、「全知者である覚った人に礼したてまつる」と「文字通り」に解すると、こうした霊妙で重大な意義が全部吹き飛んでしまうという欠点が出て来ます。
 
(空−七−二四)
 とは言え、大乗仏教も仏教なのですから、梵語表題は「釈尊=仏陀」への信仰告白であり「これは仏教である」旨を鮮明にした「帰命文」である、と解するのが、文字通りの解釈としては素直です。
 しかし、般若心経は「空」の理を宣布する経典なので、「仏陀への帰命」とい
う「偶像礼拝」的要素を含む帰命文としては見ない方が「より壮大な霊的ヴィジョン」の表明になります。それに、こうした形の帰命こそが釈尊自身の望みであり、彼の教えでした。
 従って、
これらの諸点を踏まえ、「偶像礼拝忌避」という「仏教の本旨」に則って、敢えて「語尾のイ脱落説」を取るのが「文字を超越した叡智」というものです。
 〔尚、
「ナマス」は、英語の I bow (アイ・バウ)に当たり、「額づく、礼拝する、帰依する」という意味です。古くから「南無」と音写されて、日本語化しています。
 「ナマス」の最深の意味は「個我の献上」(前章参照)です。よって、「帰命し奉る」と訳すのが一番良いでしょう。〕
 
(空−七−二五)

(2) 般若  

 サンスクリット語の「プラジュニャ−」がパ−リ語に訛ると「パンニャ」になります。(この訛りは自然な変移と言えます。「ジュニャ−」の「ジ」は無気音なので「ンニャ−」に近い発音です。よって、「プランニャ」と反復して「ラ」を軽く発音すると、容易に「パンニャ」になります。)
 この「パンニャ」を漢字に音写したのが「般若」です。
 この(パ−リ語訛りの
)「般若」即ち(梵語の)「プラジュニャ−」とは−−−
<根元智、太初の叡智、太極智、本地の叡智>−−−という意味です。
 従来、仏教界では「般若」に対して、「無分別智」とか「知慧」とか「無分別平等観の知慧」とか「直観智」とか「真実智」とか「根本智」などの説明が為されて来ました。しかし、何故そうなのか、語源からしっかりと押さえておくべきです。
 語源から解き明かすと、
(辞書には古語すぎて載っていませんが)〔※注3〕
「プラ」は「元の」とか「根っから」などの「起点」を表す接頭辞と解すべき
です。そして「ジュニャ−」は「叡智」の意味。よって、
プラジュニャ−とは−−−<(元の、根源の)「真主体」たる「叡智」>−−−という意味になります。
 つまり、「自性有る存在」そのものである(生ける)「大叡智」を意味します。
 そして、伝統的に、
この「プラ」にピタリと適合する仏教語が有ります。それが「本地」です!(本地垂迹説の本地です。)
 従って
−−−<プラジュニャ− = 本地の叡智>−−−という翻訳が適当です。
〔「マハ−(大)」が付いた時は「本地の大叡智」と訳すこともできます。〕
 ただ、「本地の叡智」について更に考察を深めると、仏教では「空」の事を「究極真理」と言いますから、こうした用法に従えば、「本地の叡智」は「究極叡智」と呼び替えることもできます。そして、霊性修行は「究極」を求めて求道して行くもの、という「実際の修行面」が重視されなければなりませんから、その意味では−−−
< プラジュニャ− = 究極叡智 >−−−という翻訳が最適だと言えましょう。

【※注3>>−−−『(梵語→英語辞典)Sir Monier Monier-Williams, A Sanskrit-English Dictionary, Oxford, 1899』には、ギリシア語やラテン語のpro-、ドイツ語のvor-、英語のfore-と同語源であることが明記されていると、梵語に詳しい或る方(匿名希望)から指摘を受けました。
「前進、始まり、上昇、遍在、優先性(第一性)、高名、生起、関与」と、この語の数々の意味の派生が書かれており、例として、pitaamaha(祖父) → prapitaamaha(曽祖父)、また、prathama(第一の)という序数詞は、praの最上級から生じたとされている、とのことです。この「モニエル」辞書を空王寺でも購入しましたら、もう少し突っ込んで紹介を致します。>>>註終了
 
(空−七−二六)
 尚、
梵語の「プラ」が「根・本源・起点」を表すという古義の存在を裏付ける言葉は、幾つか残っています。中でも、最も分かり易い言葉は「プラクリティ」でしょう。
 
「プラクリティ」は「始原的な形態(状態)物」の意味です。「プラクリティ」の反対語が「ヴィクリティ」で、「ヴィ」は「分かれる、派生する」意味の接頭語です空−七−八三 以下参照)。よって、「ヴィクリティ」は始原的な形態(プラクリティ)から派生した形態物を意味します。
 この梵語の「プラ」は、後世、英語の「プロ」に引き継がれます。
「プロヴィタミン」と言えば「ヴィタミンに成る前の物質」を意味しますが、プロヴィタミンの「プロ(前の)」は「変化・派生の(時間的な)川上」の意味、即ち「元の」という意味です。だから、「プロヴィタミン」で「ヴィタミンとなる、その元の物質」を意味するわけです。
 
(空−七−二七)
 最後に、
「中論」で有名なナ−ガアルジュナの弟子ア−リヤデ−ヴァの後継者、ラ−フラバドラの作とされる「讃般若波羅蜜偈」は、「般若=究極叡智」のことを「抽象的静態の叡智」としてではなく、「生ける真主体大叡智」として、擬人的な呼びかけをしていることに注目して下さい。(以下、一部抜粋します)
・思慮によって捉えることはできず、はかり知ることもできない、偉大な「般若波羅蜜多」 よ、あなたに帰命し奉る。何一つ欠点なきものよ。そのようにあなたは欠点なき人々によ って観られる。
・あなたは何処からも来ないし、何処へも行かない。どのような場所においても、あなたは 賢者によっても、捉えられない。
・何一つ特徴を持たず、けがれを離れたあなたを、この世の一体誰が讃えることができまし ょうか。一切の言葉の対象領域を超えているあなたは、何にも依存なさらない。

 −−−このように、「般若」を「(超越的根源神の別名としての)究極叡智」と解すると、先程の梵語表題の「ナマス サルヴァジュニャ−ヤ」についても
「語尾のイ脱落説」で統一的に解釈し、「サルヴァジュニャ−ヤ」を「(生ける)一切智」と解するのも、あながち無茶な事ではない、と納得してもらえることでしょう。
 
(空−七−二八)

(3) 波羅蜜多

 これは「パ−ラミタ−」の音写です。この意味については諸説有りますが、
@「到彼岸」と訳す説(伝統的中国仏教の流れ)
A「知慧の完成」と訳す説(中村元・紀野一義訳註参照) の二種類
が、一般的に流通している解釈です。 
 
 
@「パ−ラミタ−=到彼岸」と解するのは、正規のサンスクリット語文法からすると間違いであることが現在証明されています。この解釈は、丁度、「幸せ」を「(皺と皺を合わせて合掌)しわ+あわせ」と解釈するような方法と言えます。ですから、パ−ラミタ−に対する俗な解釈法なのですが、しかしながら「パ−ラミタ−」を「彼方に(=パ−ラム)達した(=イ)状態(=タ)」と分解して「到彼岸」の意味と解する読み方は、それなりに説得力が有るため、中国や日本では、歴史的に多くの僧侶・仏教徒が支持して来た解釈です。
 一方、
A「知慧の完成」という訳は、日本の最高学府出身の仏教研究の最高権威が提示した「新しい訳語」であり、戦後の日本仏教学界で不動の地位を得ている解釈です。
 しかし、たとえ立派な学者であっても(又は、たとえロ−マ法皇であっても)人間である以上、間違いを犯すことは有り得ることです。(「無謬性」の否定)
 
(空−七−二九)
 先に結論を言います。(日本の全仏教学者を敵に回す事ちなるとしても、はっきり言いましょう。) 
A「知慧の完成」という訳は「六波羅蜜行」に引っ張られた解釈であり、大間違いの解釈です。
 確かに、「六波羅蜜行」を「六つの完成行」と解するならば、その六番目に位置する「般若」の完成行は自ずと「知慧の完成」という訳語になるでしょう。
 −−−しかし、「完成」という訳語を使用した処に、如何にも最高学府の学者らしい、
マインドの強い思考パタ−ンが露呈している、と言えます。別言すると、「マインド停止」に近づくような、実際の深い瞑想修錬を怠った、口先ばかり先行する生臭仏教徒らしい言葉の使用法と言えます。
 「私は日本最高学府出身だ」とか「私は誰より頭が良い」とか「私はサンスクリット語も英語も漢語もできる」とか「そこらへんの僧侶よりもずっと仏教に精通している」とか「私は大学の学長も勤める一流の文化人だ」とか「私は毎日新たな知識を『獲得』して、どんどん物知りになっている」等々、こうした
「ニュ−ヨ−クの摩天楼」のごとき吾我驕慢心(あがきょうまんしん)をどんどん肥大化させて、「その先」に(人も見上げる)「完成」が有る、と思ったら、大間違いだと知らねばなりません。〔「僧医問題」(空−七−●●参照)もこれと軌を同じくする問題です。)−−−
 
真の仏教の修行は、何かを積み上げて「高い塔」を完成させるような「行」では断じてありません。その反対に、それら「吾我驕慢心という摩天楼」を悉く「叡智の利剣」で裁断し、そうして何も無い「平地」にして、遂には「本地」に到達しようとする「行」なのです。(これを「完成」と言うでしょうか。)
 真の仏教の修行とは
−−−泥土の中に埋もれた金塊を掘り起こしてその泥を除去し、中の金塊を露にして行くこと−−−に喩えられます。つまり、中の金塊は−−−<最初から「完全にして完璧」!>−−−なのです。別段、知識を積み上げて「完成」させて行く、というようなものではないのです。
 
(空−七−三十)
 従って、
「六波羅蜜行」とは、本来、「六局面での<完全性>顕現行」を意味します。
 「荘厳なる無為」(前篇第三章第二節)は最初から「完璧」です。人間の「有為」だけが「無明なる動き=不完全」なのです。よって、この「有為」を除去すれば当然−−−<完璧なる無為>−−−が現れる道理です。

 故に、
六波羅蜜行とは、六局面での「<完璧なる無為>との連動性」の達成を目的とする「行」を意味するのです。つまり−−−
@「完璧なる布施」 A「完璧なる持戒」 B「完璧なる忍辱」 C「完璧なる精進」 D「完璧なる禅定」 E「完璧なる究極叡智」
 −−−この六局面での「完璧」との「結合行=ヨ−ガ」こそが、「六波羅蜜行」なのです。

 −−−とすれば、これで明らかの通り、「プラジュニャ−・パ−ラミタ−」を
「知慧の完成」と訳すのは完全に「誤訳」だと言えます。
 
正しくは、「プラジュニャ−(=本地の叡智)・パ−ラミタ−(=完璧性)」→「完璧なる本地の叡智(=完全究極叡智)」と訳すべきです。
 つまり、サンスクリット文法からすると、前分「プラジュニャ−(名詞)」+後分「パ−ラミタ−(抽象名詞)」は「同格限定複合語」であり、ここでは「後分の名詞」が「前分の名詞」を修飾する形になっているのです。(普通、この形は、後分が前分を「尊敬・称賛」する形で修飾するものです。)
 ですから、「本地の叡智(プラジュニャ−)・完璧なる(パ−ラミタ−)」となり、後分が前分を称賛しながら修飾する形だと言えます。
 尚、パ−ラミタ−は、「パラマ(完全)」の抽象名詞形で「完全性・最高位・至高状態」の意味です。
 
(空−七−三一)

(4) 心

 「心」は「フリダヤ」の訳です。そして、フリダヤには三つの意味が有ります。それは、@肉体の「心臓」の意味 A「(心情的)内心」の意味 B物事の核心・心髄・精髄・エッセンスの意味 です。(Bは@から派生した意味です)
 フリダヤに
「心臓/内心」という物心両面の意味が有るのは英語のheart(ハ−ト)やフランス語のcoeur(ク−ル)と同じです。
 そして勿論、凝縮を旨とする般若心経では、「心(フリダヤ)」が
「AとBの掛詞」になっています。よって、「般若波羅蜜多心経」という漢訳表題には−−−
 
 「完璧なる本地の叡智 (=完全究極叡智)」という「心(唯心)」(について)のお経
 
 「完璧なる本地の叡智 (=完全究極叡智)」の「心髄(エッセンス)」(について)のお経
という二つの意味(顔)が有ります。
 
(空−七−三二)

(5) 観自在菩薩

 アヴァロ−キテ−シュヴァラ(観自在)ボ−ディサットヴァ(菩薩)の漢訳が「観自在菩薩」です。
 先ず、
「菩薩」の語義から解説しましょう。
 
何故、ボ−ディサットヴァで「菩薩」という訳になるのでしょうか?
 
「ボ−ディサットヴァ」のパ−リ語訛りが「ボ−ディサッタ」です。
 これをそのまま漢字に音写すると「菩提薩捶」となりますが、これを略して「菩薩」としました。(「国有鉄道」を「国鉄」と略して言うのと同じ省略法です)
 「菩薩」の意味には諸説あるも、その
本質をズバリ一言で表現すると−−−
 
<ボ−ディ(悟り)(に向かう)+サットヴァ(純心抱く勇者)>−−−の意味です。
 
では何故、こう言えるのでしょうか。
 ボ−ディは、ブドゥ    (目覚める)の派生語で「目覚め=本覚=悟り」の意味。
 サットヴァは多義的言葉です。語源的には、アス   (在る)の派生語で、第一に「存在」又は「生命有るもの=衆生・有情」の意味です。また、アス(在る)の派生語サット   が「善い、真の」という意味なので、サットヴァで「純真な心、変わらぬ心、決定心、堅固な心、大志、勇気」の意味にもなります。
 また、サトヴァン     には「勇者、戦士」の意味が有ります。
そこで、自分たちのことを「悟りに向かう勇者」としても位置付けることを願った大乗の信徒たちが、サトヴァンとの「掛詞」として「サットヴァ」(大志抱く存在)を使用したと解すべきです。
 従って、
ボ−ディサットヴァで「悟りに向かう純心(発心)堅固な勇者」即ち、簡略化して−−−<悟りへの発心堅固な勇者>(空−七−二六の和訳の通り)−−−となります。
 「発心」とは、
一念発起という言葉も有る通り、聖なるなる渇仰心の一念を発起させた心のことです。「発心」こそ純質なる心(サットヴァ)です。
 これで分かる通り、
サットヴァには「聖なる渇仰心」の意味も有ります。聖なる渇仰心を大乗仏教では「菩提心」と言います。「ボ−ディ(菩提)+チッタ(心)」で「悟りを求める心」の意味です。「発菩提心」略して「発心」とも言います。
 この「ボ−ディ・チッタ」(発心)を抱きつつ諸々の困難に立ち向かって行く「勇者」こそが「菩薩(ボ−ディサットヴァ)」です。
 
「発心=菩提心」を捨てることなく、発心の勇者として生活して行くならば、その先には必ず「悟り」というゴ−ルが待っています。(これは万人に当て嵌まる「法」です。)
 
(空−七−三三)
 ところで
、「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫 中村元・紀野一義訳注)では、ボ−ディサットヴァを単に「求道者」と訳しています。しかし、これでは弱過ぎて「ボ−ディサットヴァ」の真義が、誰の心にも全然響かないのではないでしょうか。
 また、
「バウッダ」(小学館 中村元・三枝充●著)の中で三枝博士は、ボ−ディサットヴァとは「智も徳も行も、すべてに傑出し、現在はまだ仏ではないけれども、必ず仏となることの確定している候補者」と定義しています。(三枝説)
 しかし、原初の大乗仏教徒たちは
自分たちを「菩薩と自称していた」事実を看過してはなりません。彼らは決して、三枝説のようなマインドの強い定義を念頭に置きながら「菩薩」と自称したわけではないはずです。(「単なる学者としての傍観者的見解」と「実際の使用者」との間には、言葉のニュアンスに重大なズレが有ると言うべきです。)
 従って、前述の通り
−−−<悟りへの発心堅固な勇者>−−−との訳が、語義に忠実であり、尚且つ、こう自称する人々の心にも響く「最も適切な解釈」と言えましょう。
 
(空−七−三四)
 次に
「観自在」の語義を解説します。
 
何故、「アヴァロ−キテ−シュヴァラ」で「観自在」という訳になるのでしょうか。
 アヴァは「遍く、及ばぬところのない」という意味。ロ−キタ lokita は、ロカ loka (注視する、看取する)の過去受動分詞で「隅々まで看取した」という意味。

 これに
「〜する能力の有る者、自在者、王」の意味イシュワラ isvara を結合させて「アヴァロ−キテ−シュヴァラ」になったのだろう、と解釈するならば、イシュワラを「自在」と訳して「観自在」という訳になります。
 一方
、「イシュワラはヒンドゥ−教で用いる言葉なので仏教では用いないだろう」と考えるならば、「アヴァロ−キタ+スヴァラ」の複合語と解することも可能です。
 
スヴァラ svara には「音声、響き、(群衆の)ざわめき」の意味がありますし、「ロカloka  」には「世界」の意味もあります。
 そこで、「観世音」略して「観音」という訳が出て来ます。世界の人々の憂悶の声やざわめきを遍く「看取=感取」した菩薩、という解釈です。
(しかし、この解釈からすると、ロカは過去受動分詞にする必然性はないし、寧ろ、そうしない方が良い、と言えます。)
 観音経は「人々の音声を看取する菩薩」という解釈で制作されたお経です。このお経の存在によって、観音菩薩が世の人々の「憂悶の声」を感取して、人々を救いに来て下さる、という信仰が確立しました。
 
(空−七−三五)
 
では、本当の処、最初に「アヴァロ−キテ−シュヴァラ」と命名した大乗仏教徒は、この名前にどんな意味を込めていたのでしょうか。
 思うに、
最初の命名者は「アヴァロ−キタ+スヴァ ル」の複合語として、この名を生み出したと解すべきでしょう。
 
スヴァ ル    とは、「光明・光輝」の意味です。この「光」とは、「存在の光輝=神の光=本地の叡智の光」の意味です。
 つまり−−−<(存在の本質の)光輝を遍く看取した菩薩>−−−これぞ、アヴァロ−キテ−シュヴァラ・ボ−ディサットヴァの本義だと言えます。
 元々
、動詞「ロカ(見る)」の中には、「光を求める」ニュアンスが入っています。何故なら、光無くして見ることはできないからです。ア−ロカ−ルティン      は「求光明」とも漢訳されます。
 「万物万象の存在の本質」即ち「自性在る存在」の光明を求め求めて「瞑想行」を実践し、「その光輝を遍く看破することを渇望する菩薩」−−−それが、アヴァロ−キテ−シュヴァラ・ボ−ディサットヴァなのです。
 従って、言葉の本義に基づいて、新たに漢訳し直すならば−−−
<観
“在光”菩薩、  観“遍光”菩薩、  観“普光”菩薩、  観“普明”菩薩>−−−等々ということになるでしょう。
 
(空−七−三六)
 しかし、「観自在菩薩」という名称は既に余りにも浸透し切ったものなので−−−
<「存在本源の光輝を遍く看取することを渇望する菩薩」即ち「観普明菩薩」は〜>−−−(空−七−★★参照)という和訳を全面に持って来るならば、
多くの日本人がびっくり仰天して、拒絶反応を起こしてしまうでしょう。故に、本義に忠実な直訳は飽く迄も二次的・補完的和訳の位置に留まらざるを得ません。
 そこで、
「観自在」という言葉を活かしながら、本義を殺さないように翻訳する必要が出て来ますが、この作業は然程(さほど)困難なものではありません。何故なら−−−
<「(絶対/相対)両界を自在に観想することを渇望する菩薩」即ち「観自在菩薩」は〜>−−−とすれば良いからです。
 この和訳は「アヴァロ−キテ−シュヴァラ」の本義から自然に流出して来る訳だとも言えます。というのも、「『自性在る存在』(絶対界)の光輝を看取・観照する菩薩=観普明菩薩」は必ず「相対界/絶対界」両界を自在に観想する「中観の境地」に達するからです。
 
(空−七−三七)
 以上、アヴァロ−キテ−シュヴァラ・ボ−ディサットヴァを−−−
 
  「絶対/相対」両界を自在に観想する、という「悟り」への発心抱く勇者
  存在の本質の光輝を遍く看取する、という「悟り」への発心抱く勇者

 
 と理解するならば、この名称の内実をしっかり把握したことになります。
 
(空−七−三八)
 その他、「観自在菩薩」を巡っては、次の
二つのポイントが有ります。
 
(ア) バクティ・ヨ−ガ(特定対象の外観礼拝)からのアプロ−チ
(イ) ハンニャ−・ヨ−ガ(超対象の洞察礼拝)的なアプロ−チ

 
−−−以下、順番に解説して行きます。
 
(空−七−三九)
(ア) バクティ・ヨ−ガ(特定対象の外観礼拝)からのアプロ−チ
 本当に、衆生の救済のために日夜働いておられる「観世音菩薩」(や阿弥陀如来)は実在するのだろうか? という問題です。
日蓮は若い頃、こうした菩薩や如来を「作り物」だと言い、「天魔」とさえ呼びました。
 
国際的には、しばしば、キリスト教の人々から 「観自在菩薩や阿弥陀仏は実在するのか?」 という質問が出されます。
(科学が著しく進歩した21世紀初頭の段階でも、宗教対話の一貫として、キリスト教側と日本の浄土教系団体が対話をしていますが、ここでも、『阿弥陀仏はそもそも実在するのか?』 というキリスト教側からの素朴な質問に対して、日本側は的確な回答を与えることができませんでした。これは「情けないこと」ですが、浄土系の人は、密教的な『本地』について見識が浅いために、本地垂迹論的に、「一元論に立脚した深遠な回答」をすることができないでいる、と評価できるでしょう。)

 ですから、ここで、この問題に決着を付けましょう。
 
果たして、大乗の諸仏・諸菩薩は作り物(フィクション)なのか、実在なのか?
 この問題は、「仏教の基本」が出来ている者なら簡単に解ける問題なのです。
 「自性/無自性」概念を学んだ人からすると、答えは単純明解です。即ち、名前は何でも良いのですが(本書では仮に「大日空王主」と名付けている、そうした)「自性有る存在」は二つと存在しません。(本書の「自性」の定義参照)
 故に、「大日空王主」以外の、総ての有形なる存在(生物を含む)は「総て、無自性なる存在」でしかありません。
つまり、観世音菩薩や阿弥陀仏がフィクションであろうがなかろうが、どちらにしても結局「自性無きもの」でしかないのです。よって、虚構であれ、事実であれ、全くどちらでも良いのです。どの道、「活動の真実主体」は「自性有る存在(大日空王主)」以外には存在しないからです。
 これこそが、
「我見の無い見方」(=転倒しない見方)です。 (「我見」の意味については前篇第三章参照)
 
(空−七−四十)
 だからこそ、大乗仏教は、良心の咎めを感じることなく、無数の如来(仏)・無数の明王・無数の菩薩を
“どんどんと創作した”のです。
 また、だからこそ、それを真に受けて、その存在を堅く信じて、それらの仏や明王や菩薩を日々
信仰する者たちの眼前に、本当に如来や明王や菩薩が「有形なる姿」を身に纏って現れたし、これからも現れるのです。
 「自性有る存在=真の活動主体」は、限定が皆無なので
、変幻自在です。
 地上の肉体身を持つ者が、大日空王主に「個我を献上」し、主がそれを嘉納なさるならば、主はその者を御自分の媒体(腕サック人形)として使用し始めます。(そうした存在が諸仏・如来・聖者です。)
 また、「献上された肉体身」を用いずとも、
信仰者の信仰の念を因として、それに応える形で、主はどんな幻や示現や物質をも出すことができます。〔これは主の「自在な方便(便法)」即ち、主の「対機的方便」です。〕
 
(空−七−四一)
 大日空王主が
「幻・示現」を対機的方便として使用した具体例を次に挙げましょう。
 空海が「強い強い信仰」を持っていたことは、入唐や帰朝の際の「航海」が当時としては命懸けであったことからも分かりますし、また、二十年の滞在が義務付けられている遣唐使の研修学生の身分にありながら、僅か一年で帰朝すること自体、掟破りで死罪に相当したにも拘らず、それでも敢えて帰朝したことからも、充分に分かるでしょう。
 そんな彼が、唐に入って、「金剛/胎蔵」両密教を修した「とても貴重な人物」である恵果阿闍梨に会うことを得て、親しく「密教の秘法」を伝授され始めると、
恵果阿闍梨の二千人近い弟子たちの多くは、(人間の弱さの故に、悲しい哉)強い嫉妬心を起こして、不平不満を言い始めました。
 彼らの目からすれば、何処の馬の骨とも分からぬよそ者の空海は、
「泥棒猫」の如き存在に見えたことでしょう。
 そんな折、珍賀という高弟は
「ひどい悪夢」を見ます。珍賀は、外護を司る四天王から、殴る、蹴る、踏みつけるなどのお仕置をされる体験をしたのです。翌朝、珍賀は己れの非を認め、悔い改めて、他の者たちをも戒め、空海への嫉妬心を捨てる努力をしました。
 この夢は無論、究極的には大日空王主から来たものと言えます。この場合、主は外護の四天王という幻を登場させました。もしも、珍賀の夢にイエズス・キリストやパウロが登場して説法したならば、それは場違いなものとなり、ただ怪訝に思うだけになって効果がないでしょう。また、見知らぬ者から殴られたとなれば、お仕置きだとは理解しないかも知れません。だからこそ、大日空王主は珍賀が日頃から信仰している外護の四天王の幻を使用したのです。これが、
人の個性と偏見に応じた、主の対機的な導き方です。

(空−七−四二)
 また、
近代の大聖者シュリ・ラ−マクリシュナの場合(真−24−7、26)は、彼がヒンドゥ−教のカ−リ−女神を熱烈に信仰し、カ−リ−の出現を心待ちにしていたため、彼の熱烈な信仰に応える形で、大日空王主は、彼の眼前に「生きたカ−リ−神」を出現させ、彼と親しく会話させ、カ−リ−の口を通して彼に様々な導きを授けました。(カ−リ−女神のような“人間の形態をしていない”「異様な形態の生物」は「一種の霊的象徴」としてデザインされたものですから、実際に存在するはずがありません。にも拘らず、カ−リ−女神は出現したのです。)

 (空−七−四三)
 このように、大日空王主の
「対機的な救いの御業」は超宗教的なものです。
 阿弥陀仏を信仰する者には阿弥陀仏の姿を通して主は御業を為し給い、観世音菩薩を信仰する者には観世音菩薩の姿を通して主は御業を為し給い、聖母マリアを信仰する者には聖母マリアの姿をを通して主は御業を為し給い、シヴァ神を信仰する者にはシヴァ神の姿を通して主は御業を為し給ふのです。
 故に、
「玄奘法師が肉体身の観自在菩薩と遭遇した」と伝えられる「求法の旅」のエピソ−ドも単なる作り話だと軽々しく否定することはできません。
 
遙かなるインドを目指して長安を出立し、やっと空恵寺に到着した時のこと、玄奘は病で臥せっているインドの僧に出会い、彼を看病します。その際、「インドに行くのであれば、このお経を唱えて行きなさい、さすればどんな災難も切り抜けられる」と言われ、般若心経が伝授されます。
 そして、苦難の末、漸くインドのナ−ランダ寺に辿り着いた玄奘は、なんと、ここで般若心経を教えてくれた同じインド僧に迎えられます。「どうしてあなたがここに?」と驚嘆する玄奘に対し、彼は 「我はアヴァロ−キテ−シュヴァラ・ボ−ディサットヴァなり」 と言い残して姿を消してしまいます。

 
(空−七−四四)
 大日空王主は、実に無限の方便を用いて衆生を助け、導いておられます。
 
実に、大日空王主は、全宇宙の総ての動きを把握しておられます。如何なる小さな動きですら主の眼から見落とされるものはありません。雀一匹、てんとう虫一匹、蚊一匹、蚤一匹ですら、決して見落とされることはありません。そればかりか、人間の赤血球一つ、白血球一つ、そして遺伝子の塩基配列一つですら、決して見落とされることはありません!
 そうであれば、
大乗仏典が 「観世音菩薩は衆生が自分を呼ぶ声を決して聞き漏らさない」 旨の教示をしても、これを「作り話」と斬り捨てるべきではないのは当然です。そこには正しい真理が内包されているからです。
 故に、「観世音菩薩」に対して、バクティ・ヨ−ガ(特定対象の外観礼拝)からのアプロ−チで信仰しても、それはそれで正しい信仰と言えます。
 
(空−七−四五)
(イ) ハンニャ−・ヨ−ガ(超対象の洞察礼拝)的なアプロ−チ
 バクティ・ヨ−ガの信仰形態もそれなりに正しいという事を(ア)で見ました。しかし、
「有形なる形態」にこだわっているレベルでは「正しい空観」に達することはできません。つまり、本当に「般若ヨ−ガを実践したい」と願うならば、(有形なる形態の)「観世音菩薩」に助けに来て下さい、と祈る方法では駄目なのです。
 
 ★仏陀は偶像礼拝を禁止しました。『法と自己のみを中州(ディーパ)とせよ』というスタンスこそ、叡智のヨガのアプローチ法です。観音菩薩をスーパーマン的救世主と考えて礼拝すると、『我見 (中でも人我見)』  という邪見が混入する可能性が極めて高いのです。(詳細は、前篇第三章の2 を御覧下さい。)

 般若ヨ−ガの実践においては−−−
<「アヴァロ−キテ−シュヴァラ・ボ−ディサットヴァ」と「瞑想の実践者」が
一体化しなければならない>−−−と言えます。これが、必須の要諦です。
 そもそも、
大乗仏教や密教では、「礼拝対象への集中・同化・一体化」という瞑想技法が基本技法として採用されています。
 例えば
「仏説聖不動経」には「不動明王の無相の法身は(無辺の)虚空と同体なれば、衆生の心に住み給う」とあります。故に、修行者は「不動明王」を一心に瞑想することで、不動明王との完全なる一体化を願い、そうして「不動心」を会得しようとするのです。
 これと同じ事なので、「般若心経」の実践をする場合、修行者は「アヴァロ−キテ−シュヴァラ・ボ−ディサットヴァ」を一心に瞑想することで、
この菩薩との完全なる一体化を願い、そうして「正しい空観(中観)=悟りのヴィジョン」を会得しようと希求しなければならないのです。
 
(空−七−四六)
 故に、この場合「アヴァロ−キテ−シュヴァラ・ボ−ディサットヴァ」を
「観世音菩薩」という訳語で理解していては、いけません。
 だからこそ、「アヴァロ−キテ−シュヴァラ・ボ−ディサットヴァ」の内実を−−−
A.「遍く(絶対・相対)両界を自在に観想する(という)悟りへの発心堅固な勇者」 即ち 「観自在菩薩」
B.「存在本源の光輝を遍く看取・観照する悟りへの発心堅固な勇者」即ち「観普明菩薩」

  −−−と理解した上で、修行者自身が
@ 「悟りへの発心堅固な勇者」 と成るように強く願って、そのように努め、       
A 「遍く(絶対・相対)両界を自在に観想する」ことができるように強く願って、そのように努め、また、
B 「存在の本質の光輝を遍く看取する」ことができるように強く願って、そのように努めること

  −−−こうした態度が重要不可欠になるのです。
 
(空−七−四七)
 従って、
般若ヨ−ガの瞑想法においては、「アヴァロ−キテ−シュヴァラ・ボ−ディサットヴァ(観自在菩薩・観普明菩薩)」という存在は、一つの「雛型」だと言えます。
 この
「雛型の三条件」と真に一体化する者は、(悟りに入る以前であっても)誰でもアヴァロ−キテ−シュヴァラ・ボ−ディサットヴァである、と言って良いでしょう。
 チベット仏教の
ダライ・ラマの地位に就く者は「観自在菩薩の化身」と言われます。そして、現十四世ダライ・ラマの生活を見れば分かるように、彼は実に見事に、今挙げた「一体化のための基本姿勢(三要件)」@〜Bを充たしています。(実際に、悟ってしまえば「聖者」になりますが、観自在菩薩と呼ばれるためには「成仏の聖者」であることまでは必要ない、と言うべきでしょう。
 但し、
バクティ−・ヨ−ガの立場からは、観自在菩薩を衆生を救うス−パ−マンと考えてこれに助けを求めるのですから「成道の大聖者」と解することになるでしょう…。しかし、ここでは「叡智のヨ−ガ」の実践の立場からの話をしているわけです。)
 
(空−七−四八)

(6) 行深般若波羅蜜多時

 「行〜時」がチャルヤ−ム・チャラマ−ノ−の訳です。チャルヤ−(行)の対格(目的語形。業格とも言う)がチャリヤ−ムで「行を」の意味です。
 チャラマ−ノは「行ずる」という動詞の現在分詞。よって、チャルヤ−ム・チャラマ−ノ−で「(ヨ−ガ)行を行じている時に」の意味になります。
漢訳は単に「行〜時」としています。
 
梵語「ガンビ−ラ−ヤ−ム」は「深い・深遠な・深妙な」という意味の形容詞で、この漢訳が「深」です。これは「プラジュニャ−(般若)」に掛かる形容詞です。(初心者の中には、「行深」で「行を深く行ずる」意味だと誤解する人がいます。要注意です。)
 原語「ガンビ−ラ−ヤ−ム」は長い単語でその深みを表現しているので、短い「深」一語の漢訳よりも原語重視で、少々意訳気味でも「真髄決訳」(空−七−十九)のように「深甚霊妙なる」と訳すのが相当でしょう。深甚霊妙この上ないものが「般若」だからです。
 前述の通り、「波羅蜜多」は「完璧な」の意味なので、「行深般若波羅蜜多時」で ≪深甚霊妙で完璧なる般若、のヨ−ガ行(=結合行)を行じている時に≫ という意味になります。
 そして、
この場合のヨーガ行(結合行)は、完全究極叡智(般若)への「没入行・帰入行」の意味になります。
 
(空−七−四九)

(7) 照見

 原文では「ヴヤヴァロ−カヤティ スマ」(看破した)、及び 「パシャヤティ スマ」(見抜いた)という同種の動詞の過去形が二つ使われています。
 
梵語原文を直訳すると−−−<(観自在菩薩は)(個我を←省略されている)五つの集まりと看破し、それらが正に「自性ゼロ」と見抜いた>−−−という訳になります。
 つまり、
原文では、@個我が五蘊で出来ている と看破した後、Aその五蘊がすべて無自性 と看破したわけで、「二段階の洞察の深化」が表現されているわけです。
 しかし、
漢訳では「この二段階深化」を省略して「照見・五蘊皆空」と一発洞察の形になっています。
 尚、「照見」は「正見」に通じます。「正見」は自力では出来ず、光に照らされる体験を得て初めて達成されるもの、との認識が、漢訳者に有ったからでしょう。(イグナチオ・デ・ロヨラにも、「照明体験」と言われるものがあります。後篇第六章参照)
 こうした光明体験は、修行者の思い通りに得られるものではありません。修行生活中や瞑想中に、
盗人が来るように不意に突然向こうからやって来るものです。正に「照らされて見る」のですから、「照見」の訳語は(意訳ですが)実に適切な言葉と言えましょう。
 「真髄和訳」では、「照見」のニュアンスを殺さないように配慮しつつ、梵語原文通りの「洞察の二段階深化」をしっかり訳出しています。
 
(空−七−五十)

(8) 五蘊

 パンチャ・スカンダ−スの訳です。パンチャは数字の「五」の意味。スカンダ−スは「集まり」の意味。よって、集まりを意味する「蘊」の語が当てられています。
 ここで言う「五つ集まり」とは「色・受・想・行・識」を意味します。この事は、心経の後の文で具体的に示されています。
 さて、
ここで問題となるのは、「五蘊」の範囲です。
 既に示した「真髄和訳」(空−七−十九)では−−−
<(自分の体を)「五要素の集合体」と看破し>−−−としてあります。つまり、「個我の五蘊」に限定した理解です。この場合、観自在菩薩は、「人我見」(前篇第三章参照)を克服して「人無我」の真理を悟った、という意味になります。
 一方、
「般若心経・金剛般若経」(中村元・紀野一義訳注 岩波文庫)の和訳では−−−<存在するものには五つの構成要素があると見きわめた>−−−との訳になっています。つまり、人間の「個我」に限定せず「世界全体、総ての存在一般には〜」と最広義に広げて解釈しているのです。この場合、観自在菩薩は、「人我見」のみならず「法我見」をも克服して「人無我+法無我」の真理を悟った、という意味になります。
 
(空−七−五一)
 
高神覚昇氏も、「般若心経講義」(角川文庫)の第二講で次のように説いています。
「主観も客観も、一切の事々物々、みなことごとく、五蘊の集合によってできているというのが、仏教の根本的見方でありますから、いわゆる物心一如、または色心不二の見方が、最も正しい世界観、人生観である、ということになるわけであります」(34頁)と。
 このように、高神氏は「一切の事々物々、みなことごとく『五蘊=色受想行識』で出来ている」と説いています。

 
ひどい話です。目茶苦茶も甚だしい話です。
 
例えば、石ころに、「受」(感覚受容器官)があるのでしょうか。「想念」が有るのでしょうか。意志があるのでしょうか。
(尚、高神氏は、同じ第二講で
「度一切苦厄」の解釈についても、とんでもない解釈を開陳しています。尤も、日本の多くの僧侶、時に阿闍梨レベルでもこれと同じ解釈をしているので、一種の悪しき流行に乗った解釈と言えます。「語義解析10」空−七−●●参照)
 
(空−七−五二)
 これに較べ、
岩波文庫の和訳−−「存在するものには五つの構成要素がある」−−という言い回しは、これよりも思慮深い(悪く言えば、巧妙な官僚的言語遊戯に長けた)表現です。
 石ころに「受・想・行」などが有ることになってしまうような“ズボラな”表現はしないのです。そして、飽く迄も−−−存在一般を眺めると、一般的命題として、存在には「五つの構成要素」が数えられる−−−とだけ言うことで、
五要素の「どれか一つ」でも有ればそれで良い、という表現法をしているのです。だから「集合」とか「集まり」という訳し方は意図的に回避しているのです。(実に狡賢いワザを使っています)
 よって、
岩波文庫の和訳を逆に漢訳するならば「五蘊」にはなりません。「集まり」である事を回避しているので、「五衆」と訳すべきことになります。集まりではなくて、五つのメンバ−のどれか、という意味です。
 
(空−七−五三)
 
では何故、名だたる学者先生が、このような「変な和訳」をするのでしょうか。
 それは、観自在菩薩が悟った「その悟り」を「完全な悟り」即ち「我見全般(人我見+法我見)を超越した悟り」だと、“梃子(テコ)でも”位置付けたいからでしょう。
 実に、学者らしいマインドの強い態度です。
 しかし、真の般若ヨ−ガの実践者であるならば、原文のパンチャ・スカンダ−スを素直に「五蘊」と訳し、「五蘊」とは「人間の個我」のみを意味する、と(限定的に)解釈しても、恬淡としていられます。
 何故なら
、「真の悟り」とは、先ず「人我見」を克服して「人無我=個我無自性」を悟り、それ故に、その連鎖的拡張として、次に「法我見」を克服して「法無我=諸法無自性」を悟るに到るからです。
 
この「二段階深化」の順序は、決して逆にはできません。先ず、脚下を照顧して、それから外的な諸法の正見に到るのです。
 −−−例えば、ゴリラやチンパンジ−には、彼ら独自の五蘊(色受想行識)が有ります。しかし、般若ヨ−ガの実践者は、ゴリラを手で触ってゴリラの「色(物的肉体)を無自性なり」と看破するのではありません。般若ヨ−ガの実践者は、ゴリラでもないのに、ゴリラの受(感覚)や想(想念)が「無自性である」と、何故分かるのでしょうか。
 これで分かる通り、人は「(自分の)個我の無自性」を看破し切った時にだけ、外界の諸物・諸現象の無自性についても真の意味で「内的確証を得る」ことができるのです。
 これが「法」であり、不動の順序です。
 「個我の意識」を超越して「無限定の普遍純粋意識」に触れる(又は達した)した時にのみ、
その連鎖的効果によって初めて外界の諸物・諸現象の無自性も真に大悟するのです。
 従って−−−梵語原文で「スカンダ−ス(集まり)」と表現している以上、ここでは「人間の、それも“瞑想者自身”の個我の五蘊」を無自性と看破した、という解釈だけが正しい理解だと言えます。
 ですから、
こうした「人無我=個我無自性」に限定した解釈で、充分なのです。万物万象にまで拡大した「一般命題」 として訳すのは、大間違いです。
 
(空−七−五四)

(9) 皆空

 「五蘊をみな<空>と照見した」という一文の意味は、「空」の三義を当てはめた和訳(空−七−十八)で示した通りです。
 漢訳で「皆空」としている以上、「空」の三義(空−七−四)をそのまま当て嵌めた解釈も当然可能と言えます。これも立派な「真理命題」です。よって、「皆空」という漢訳が誤訳だと断じることはできません。
 しかし、
梵語原文と対照すれば分かる通り、原文では「五蘊をシュ−ニャタ−(空)」とはと言っていません。態々(わざわざ)「スヴァバ−ヴァ・シュ−ニャ−ン(自性がゼロの)」という言い回しを選択し、「空」の三義の掛詞を排除して、「五蘊は総て無自性なり」と、限定的な表現をしているのです。この点を、しっかり押さえて置かく必要が有ります。
 (この後の「色即是空」の漢訳で分かる通り)恐らく、漢訳者は「空に三義有る」とは認識していなかったのでしょう。多分、「空=無自性」と、一義的に解していたのです。だからこそ、この後の「色不異空〜空即是色」の処では、原文が「空の三義」に対応した「三段の展開形」になっているのに、平然と大胆にも、それを一段削ってしまい、漢訳では「二段物」にしてしまったのでしょう。
 一方、インド人の梵語原文制作者は「空に三義有り」と明確に認識しながら、何故、敢えてここでは「スヴァバ−ヴァ・シュ−ニャ−ン(無自性)」という一義に限定した表現を用いたのでしょうか。
 これには、インド独特の文化的背景が影響していると見るべきです。
 ヴェ−ダやウパニシャッド聖典など、多数の聖典を生み出して来た(霊性の先進国たる)インドでは、当時から現代に至るまで、「我は神なり。神は我なり」「梵(ブラフマン)は我なり。我は梵(ブラフマン)なり」と臆面もなく宣言する
「ニセのグル(聖者・導師)」が掃いて捨てるほど存在します。こうしたニセグルは自分を「神の化身(アヴァタ−ラ)」と称し、弟子たちに自分を礼拝させ、好い気になっています。
 こうした
「玉石混淆、聖俗混沌、味噌糞一緒」というインドの宗教文化の中にあっては、ニセのグルと真の大聖者とを明確に識別する事が、取り分け重要になります。
 そして
、「その識別の分水嶺」−−−それこそが「五蘊無自性」の自覚の有無なのです。この自覚の中に住する者は、煩悩を超越し、「自性有る存在」だけの「ニミッタ・マトラム」(単なる道具)(★一−二二−五二★)に成ります。
 
(空−七−五五)
 つまり、混沌としたインド文化の中で、漢訳文に有るような「空の三義」の掛詞のまま、「五蘊皆空」と経典で表現してしまっては、「我はブラフマン・大日空王主なり」という主張が「ニセのグル」によって、悪用・濫用されることは火を見るより明らかです。そこで、梵語原文では、敢えて「五蘊無自性」という表現を使ったのだと言えます。
 
最近の日本でも、ヒンドゥ−文化の流入と共に、その上辺だけを真似た「厚顔無恥なニセグル・ニセ釈尊」が何人も登場するようになって来ました。こうした状況を踏まえると、漢訳のように「五蘊皆空」と「空」の語を使うことを意識的に避け、梵語原文に沿って、「五蘊、これらには正に自性が無い」とか「五蘊、それらのいずれにも自性が無い」と訳して、これで読誦した方が誤解が起こる可能性が少なく、ずっと優れていると言えます。
 
(空−七−五六)

(10) 度一切苦厄 

 どの梵語原本にもありません。漢訳者の挿入です。読誦経典である「般若心経」に翻訳者独自の言葉を挿入するなど、まことに畏れ多いことです。清廉高潔な者ほど、こうした行動は慎み、躊躇するものです。
 にも拘らず、確信と勇気を持って、翻訳者自身の言葉を挿入している点に、
漢訳者の並々ならぬ「思い入れ」を見て取ることができるでしょう。
 
−−−「度」について。
 「度」は「渡」と同じ意味です。故に、「度=渡」という言葉は「渡す(他動詞)/渡る(自動詞)」の両義に解することが可能です。
 先ず、
「渡る(自動詞)」の意味に解する場合は「超越する」という意味になります。
 何故なら、実際に何処が「物質的な場所」を渡るのではなく、霊的な意味で彼岸へ渡ろうとする、即ち、古い自己を超越して行き、煩悩と邪見を超越して行き、「解脱〜成仏」という「完全なる超越」を達成しようとするのが、仏道修行だからです。
 そして、
この解釈こそが、漢訳者の意図に最も適合した「正しい解釈」です。
 尚、「一切の苦厄を超越した」との訳文を、「一切の苦厄を超越して
仕舞われた」というように「敬語化」して訳すべきではないし、こうした敬語で読誦・朗誦すべきではありません。何故なら、「観自在菩薩」と一体化しようとする般若ヨ−ガ(空−七−四五以下)の瞑想法を実践する場合、「観自在菩薩」に対して敬語を使って「自分と分離して扱う」と、観自在菩薩と一体化できなくなってしまうからです。
 
(空−七−五七)
 次に、
「渡す(他動詞)」の意味に解する場合は、(衆生を)「救済する」という意味になります。
 
高神覚昇氏は、「般若心経講義」(角川文庫)の第二講で、次のように説いています。
「『五蘊はみな空なりと照見せられて、ついに一切の苦厄を度せられた』というのであります。すなわち、一切の苦というものを滅して、この世に理想の平和な浄土を建設されたというのであります」(32頁)と。

 この見解は「アヴァロ−キテ−シュヴァラ・ボ−ディサットヴァ」を
バクティ−・ヨ−ガ(特定対象の外観礼拝)のアプロ−チで信仰している立場です(空−七−三九以下)。
 ス−パ−マンである観世音菩薩が衆生救済のために地上に降臨し、釈尊も成し得ず、イエズス・キリストも成し得なかった「地球全土の浄土化」をたった一人でやってしまった、という解釈です。(何たること! これを無批判に肯定する感覚は何でしょう!)
 
特定対象讃美(この場合、観音信仰)もここ迄来ると異常でしょう。異常なのですが、残念ながら、日本の僧侶には(感情に任せて)この見解を採る者が多いのです。般若ヨ−ガの本質や、「叡智による否定の利剣」が何たるものか、全然分かっていないのです。

(空−七−五八)
 真の仏教は、修行者の「行」と別次元の「他力」信仰を教えるものではありません。
 飽く迄も、修行者と不可分の「中力」(★一−十−八、九★)を教え、「中力による賊我の滅却」を教えるものです。これぞ、理性と叡智の道です。
 仏教の「四諦(苦・集・滅・道)」(空−七−★百六十八★以下)を正しく理解する者ならば、過去と現在の悪業(悪いカルマ)が「綺麗さっぱり精算」されない限り、苦と厄難から逃れることはできない、と分かるはずです。
〔それなのに、天から観世音菩薩が飛んで来ると、それらの「積み重ねた悪業(カルマ)」を全部吹き飛ばして、チャラにしてくれる、とでも言うのでしょうか。〕
 般若ヨ−ガの実践者は、「行」によって「個我(五蘊)の無自性」を自覚・会得して「四源罪」(前篇第四章)から離れ、それによって「悪業の生産停止」に到る、という手順を踏みます。この手順を省略することはできません。「そんなことしなくでも、観世音菩薩が何とかしてくれるし、インスタントな悟りをプレゼントしてくれる」−−−このようには、夢にも考えてはいけません。
 こうした考えは、安易で怠惰で自分勝手な「悪魔=邪心(賊我)」の考えです。
 
(空−七−五九)
 −−−以上、
「度一切苦厄」の「度」は(他動詞の)「救済した」という意味ではないので、「観自在菩薩が衆生の一切の苦厄をお救い下さった」と読んではいけません。
 飽く迄も
−−−般若ヨ−ガの修行者自身が、≪個我(五蘊)無自性≫ という真理を会得した暁にこそ−−−、身心脱落して「解脱」に到り、悪業の応報からも「超越」することを得るのです。この一文はそうして「法(ダルマ)」を教えるものです。
 この「正しき法」を念頭から離さないならば、困難があっても、途中で挫けそうになっても、ひたすら苦厄からの解脱(個人の救いの達成)を願い、更に一層の般若ヨ−ガに勤しむ「力の素」にはなることでしょう。
 
(空−七−六十)
 尚、
「苦厄」は、苦しみと厄難の意味です。両者とも、避けようとしても不可避的に振りかかって来るものです。因果応報の法則が厳然として存在する以上、「悪業」を為してしまったならば、その自動的反作用としての「苦厄の到来」は覚悟しなければなりません。
 覚悟した上で、これから以降の悪業を産出しないよう「有為の滅却」に努め、利他行に励み、また、過去の悪業の報いについても、「移殃の儀」(星−11−23)の「法理」を学んで、振りかかる苦厄を最低限度に留めるべく、神仏の御加護を願い求めるなどして、そうして順次、「苦厄」を乗り越えて行こうと精進するのが、修行者の正しい信仰のあり方だと言えます。
 
 
(以上で、漢訳版の心経の 第一部 までの 解説を終了します。)
 
 

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このページの最終更新日 2005/3/12

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