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般若心経マスターバイブル後篇第7章その2


【ステップ4】 全単語を正しく理解する (続き)

(空−七−六一)

(U)第二部
  (少々長いため、第二部を更に@〜Bの三つに分割して解説して行きます。)

(@) 舎利子 色不異空 空不異色。色即是空 空即是色。受想行識亦復如是。
(A) 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減。
(B) 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。
    無眼界 乃至無意識界。無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽。
    無苦集滅道。無智亦無得。
 
(空−七−六二)

第二部(U)−@

(イハ)  舎利子 色不異空 空不異色。色即是空 空即是色。受想行識亦復如是。
〔漢訳版の般若心経文の和訳〕
(ここでは)シャ−リプトラよ、
 (個我を形作っている)物質は「自性無きもの」と異ならないし、「自性無きもの」は(個我を形作っている)物質と異ならない。
 (個我を形作っている)物質はこれ即ち「自性無きもの」であるし、「自性無きもの」がこれ即ち(個我を形作っている)物質である。
 感官による印象の感受(の場合)も、観念思考力(の場合)も、(生体的・意欲的)造成力(の場合)も、個体意識(の場合)もまた、これと全く同じ(事)である。
  尚、「無自性」の用語を使わずに、解きほぐして訳出すると、次のようになります。
(ここでは)シャ−リ−プトラよ。
 (個我を形作っている)物質は、それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無いものと(寸毫も)異なるものではない。
 それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無いものは、(個我を形作っている)物質と(寸毫も)異なるものではない。
 (個我を形作っている)物質は、これ即ち、それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無いものである。また、それ自体単独では発生する力も存続する力も活動する力も全く無いものが、これ即ち、(個我を形作っている)物質である。
 感官による印象の感受(の場合)も、観念思考力(の場合)も、(生体的・意欲的)造成力(の場合)も、個体意識(の場合)もまた、これと全く同じ(事)である。
 
(空−七−六三)
 −−−以上が、漢訳経典からの和訳です。
 既に「語義解析9」(空−七−五四)で触れた通り、般若心経の漢訳者は「空に三義有り」とは認識しておらず、「空=自性無きもの」と、
一義的に解していた可能性が大です。
 それ故、梵語原文は、「空の三義」に対応した「三段の展開形」になっているのにも拘らず
、漢訳版では大胆にもそれを一段削って、@「色不異空/空不異色」 A「色即是空/空即是色」という「二段もの」にしてしまっているわけです。
しかし、「空には二又は三義が有る」のですから、
般若心経のこの部分は是非とも「三段の展開形」として理解する必要が有ります。
 そこで、梵語原文を次に挙げ、これを和訳して行きましょう。
 
梵語の正しい般若心経は「空の三義」に応じて「三段展開」になっています。
 
(空−七−六四)
〔梵語原文の三段展開形〕 (「空の三義」 空−七−四参照)
(第一段) ル−パム シュ−ニャタ−      −−−−−−−−−−− (色是性空)
       シュ−ニャタ−イヴァ ル−パム   −−−−−−−−−−− (性空是色)
(第二段) ル−パ−ン ナ プリタク シュ−ニャタ− −−−−−−−− (色不異空)
       シュ−ニャタ−ヤ− ナ プリタグ ル−パム −−−−−−− (空不異色)
(第三段) ヤド ル−パム サ− シュ−ニャタ− −−−−−−−−−− (色即是空)
       ヤ− シュ−ニャタ− タド ル−パム −−−−−−−−−− (空即是色)
〔正しい和訳〕
(第一段)
 ・(個我を形作っている)物質は「自性無きもの」である。  −−−−−(色是性空)
 ・「自性無きもの」が、実に(個我を形作っている)物質である。  −− (性空是色)

(第二段)                                   
 ・(個我を形作っている)物質は、「大日空王主」の相対界変化相と        
    異なるものではない。                −−−−−−  (色不異空)
 ・「大日空王主」の相対界変化相と異なるものではないものが、          
    (個我を形作っている)物質である。         −−−−−− (空不異色)

(第三段)                                   
 ・(個我を形作っている)物質は、「自性無きもの」でありながら同時に、     
    「(自性有る)大日空王主」の絶対界無相法身でもある。−−−− (色即是空)
 ・「自性無きもの」でありながら同時に                     
    「(自性有る)大日空王主」の絶対界無相法身でもあるものが、       
     (個我を形作っている)物質である。          −−−−− (空即是色)
 
 
(空−七−六五)

第二部(U)−@ 〔真髄和訳〕 (読誦用)

 シャ−リプトラよ。ここでは、
  (個我を形作っている)物質は「自性無きもの」である。「自性無きもの」が実に(個我を形作っている)物質である。(そしてまた)
 (個我を形作っている)物質は「大日空王主の相対界変化相」と異なるものではない。
 「大日空王主の相対界変化相」と(何ら)異ならないものが(個我を形作っている)物質である。(そしてまた)
 (個我を形作っている)物質は、「自性無きもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもある。「自性無きもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもあるものが、(個我を形作っている)物質である。
 感官による印象の感受(の場合)も、観念思考力(の場合)も、(生体的・意欲的)造成力(の場合)も、個体意識(の場合)も、全く同じ(事)である。
 
 
(空−七−六六)

<語義解析> 
第二部(U)−@

〔原文の〕イハ(11)  舎利子(12)  色(13)不異空  空不異色。 色即是空  空即是色。
             受(14) 想(15) 行(16) 識(17) 亦復如是(18)。
 
(空−七−六七)

(11) イハ

 「此処では、此の世においては」の意味。原文では「イハ、シャ−リプトラ」と、舎利子の前に置かれています。岩波文庫版では「この世においては」と和訳されていますが、「色即是空」という普遍真理は地球上に限られた事ではありません! あの世でも、三千大千世界でも通用する真理なのです。
 よって、
「イハ」を「この世」に限定する訳文は妥当ではありません。死後、霊界で般若ヨ−ガの行をすることも十分可能なのですから、「イハ」は「行者の眼前の世界」の意味に解すべきです。従って、単純に「ここでは」と訳すべきでしょう。
 尚、「真髄和訳」では「シャ−リプトラよ。ここでは」として、梵語原文と順番が逆になっています。これは、朗誦重視の観点から、日本語の文型に合わせたためです。
 
(空−七−六八)

(12) 舎利子

 釈尊の弟子シャ−リプトラの漢訳です。シャ−リを音写して「舎利」。プトラは「子供」の意味なので「子」として、音写と翻訳を混合した漢訳です。
 釈尊の弟子中、
知恵第一と誉れ高いシャ−リプトラに、観自在菩薩が説法している設定です。シャ−リプトラは知恵第一でしたが、未だ「賊我」を超越してはいないが故に、大悟に到れないままで居ました。彼のように、知恵には長けてはいるものの、「賊我」を蠢かしてしまう場合、それは自ずと「小賢しい知恵=狡智」に堕してしまう危険を孕んでいます。
 それ故、シャ−リプトラが「賊我の枠内に留まっている小賢しい知恵を捨て去って『完全究極叡智』に結合・没入・帰入できるように」と、観自在菩薩が親しく「真の叡智」を授けている場面という舞台設定です。
 そもそも
、般若ヨ−ガは、上根の者、上級者のヨ−ガと位置付けられます。何故なら、このヨ−ガは霊性修行の中で、最も高度・精妙なものだからです。本当にこれを深く実践できれば、即身成仏(=ニルヴィカルパ・サマディへの入定)(前篇第五章参照)を達成できます。
 
−−−では、般若ヨ−ガを「中根の者」が実践することはできるでしょうか?
 勿論、中根の人が「般若心経」を読誦して悪いことは一つもありません。効果的な修行法になります。しかし、中根の人は、集中力が不充分であり、内的筋力(★一−十−三十★)が弱いので、どうしても煩悩によって意識が散乱してしまい、思うように般若ヨ−ガに集中できないはずです。とはいえ、自分の(霊的)集中力不足を自覚し、謙虚にその向上に努めるならば、浄化の速度も自ずと速まって行きます。方法は最高に正しいのですから。
 
−−−では、これを「下根の者」が実践することはできるでしょうか?
 下根の人は、
煩悩の快楽に心奪われており、「鈍重な波動」と「濁った意識」を持っているので、神聖な事柄に対して、基本的には「拒絶反応を抱く」ものです。よって、「般若心経」を読誦する気にならず、無理に読誦するならそれは苦痛に感じ、さっぱり頭に入らず、文章の中身を把握することも、その意味に集中することもできないでしょう。従って、苛立つばかりで、程なく「心経」を投げ捨てるしかないでしょう。従って、他の単純なマントラ行など、他の手段を講じるべきです。
 
空−七−六九)

(13) 色

 ル−パの漢訳語が「色」です。ル−パは、普通は「物質」を意味しますが、厳密には、もっと広い概念です。物質的と言える「有形なるもの全般」を含む概念です。
 別言すると
「物と形」を含めた概念です。映像も陽炎もオ−ロラも夢も「形有るもの」なので、ル−パに含まれます。また、「空気」は目に見えませんが、風の抵抗等の触感で「物が有る」と分かるので、ル−パに含まれます。(無論、法則などの理法は含まない。)
 
こう考えて行くと、「物」とは何か、問題となります。
 現代物理学では、「物質とは何か」という疑問を突き詰めて、「物質の素」まで辿り着こうとしています。最初は「原子」を発見してこれが「物質の素」だと思いましたが、左に非ず。これは「電子・陽子・中性子」に分解でき、これも更に分解でき、「陽子・中性子」は百種類以上のハドロン(強粒子族)に分解でき、「ハドロン」は更にバリオン(重粒子群)とメソン(中間子=軽粒子群)に分解でき、それも更に、アップ・ダウン・ストレンジなど数種類のクォ−クにまで分解できるし、その他、電子・ミュ−粒子・ニュ−トリノなどのレプトン(軽粒子族)も存在する、と分かって来ました。(急速な進歩です。)
 そればかりか、電磁力や重力や核力や弱い力などの「四つの力」を「媒介する粒子」として、光子、グラビトン、グ−ルオン、ウィ−クボソンなどの存在が語られます。
 つまり、「色」に入らないと思われていた重力などが、実は「色」に入る、と分かって来たわけです。
 
(空−七−七十)
 しかし、般若心経の解釈上、問題となるのは、物理学ではなく、ここで使われている「ル−パ(色)」を「五蘊の枠内」に限定して読むか否か、という国語上の問題です。
 
「五蘊の枠内限定説」を採るならば、「五蘊=個我=肉体身」なので「ここでのル−パ」は「肉体を形作っている物質全般」だけに限られることになります。
 「真髄和訳」(空−七−六五)では
−−−<(個我を形作っている)物質は>−−−と訳出しているように、この「五蘊の枠内限定説」が正解です。
  
(空−七−七一)
 一方、
「五蘊の枠を取り払った一般命題説」を採るならば、ここでの「ル−パ(色)」は全世界・全宇宙・三千大千世界の「物と形と映像」全部を射程に入れた概念と考えることになります。岩波文庫版ではここでの「ル−パ」を「およそ物質的現象は〜」と和訳しているので、まさしくここでの「色」を一般命題として解釈しています。
 しかし、「五蘊」の解説(「語義解析8」空−七−五十)でも明らかにした通り、先ず最初に−−−<「五蘊=個我」を形作っている物質群総ては無自性なり>−−−と看破するのが、正しい順序です。
この段階を踏まずに、いきなり「法無我=諸法無自性」を看破した、と宣言したら嘘になります。
 文脈を見ても、後に「受想行識」が来ているのだから、この「色」が「五蘊の一つ」として語られているのは、火を見るより明らかな事です。
 
では、仏教学者たちは、何故ここの「ル−パ(色)」を「一般命題」として訳すのでしょうか?
 それは、「色即是空」という一節だけが取り出されて、
この四文字が単独で用いられることが多いからです。確かに、「色即是空/空即是色」の対句だけ取り出すならば、「一般的真理命題」として、この「色」を一般化して解釈して良いし、そうすべきでしょう。
 しかし、ひと度「般若心経」の文脈の流れの中に組み込まれたならば、前後の文脈によって「意味が限定される」のは余りにも当然の事だと言えます。
 この一節だけ、「一般的真理命題」を述べている、と強弁して、肩に力を入れて訳すのは大間違いです。文脈を無視した異常行動と言えましょう。
 −−−以上、ここでの「色」は、「五蘊=個我」の枠内の「色」の意味です。
 従って、ここでの「色」は、「個我を形作っている物質」と訳すのが適切です。
 
(空−七−七二)

(14) 受

 ヴェ−ダナ−の漢訳です。個我(五蘊)の五つの感覚器官(=視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)(=感官)を通して、(苦・楽・不苦・不楽など諸種の)「印象」を受けること(=受ける作用の)ことです。岩波文庫版は「感覚」と和訳しています。
 しかし、(空−七−六五の)
「真髄和訳」では−−−<感官による印象の感受>−−−と訳しています。理由は次の通りです。
 単に「感覚」と訳すと、外界からの刺激を感じる働き全般を含む事になってしまいます。しかし、仏教は部派仏教以来、この辺に関しては微妙・精妙な区別をして、繊細なこだわりを見せています。
 具体的には、十二因縁の(第六支)
「触」を、「受」の一歩手前の段階と捉えて、感覚器官が外界と接触し、それを知覚することを「触」と呼んでいます。そして、次の十二因縁の(第七支)「受」を、「触」を原因とした「次の作用」即ち、感覚器官が外界と接触し、それを知覚したことで受ける印象の感受を「受」と呼んでいます。そして、その感受した印象を原因とした「次の作用」で、好き・嫌い等の好みが形成され、これを「愛」(第八支)と呼んでいるのです。(詳細は「語義解析31」空−七−★百六十四以下★)
 つまり、「刺激に対する好みの選別意識(=愛)」が働く以前の作用で、尚且つ、外界と感覚器官が接触する「単なる物理的・原初的な知覚作用(=触)」を含まずに、その後の作用を「受」と呼ぶわけです。
 よって、外界からの刺激全般を含む「感覚」という訳は広きに失している、と言えます。加えて、現代では「服のセンス(感覚)が良い」など言う用法も有るので、「感覚」の語を使うと、二重の意味で広きに失し、不適切です。
 従って、「感覚器官を通して印象を感受すること(作用)」、略して「感官による印象の感受(作用)」と訳すのが相当です。
 
(空−七−七三)
 尤も、「どの道、五蘊の全部を無自性」と斬り捨てるのだから、その「否定」は広い方が徹底的否定と言えるから、「感覚」という訳の方が良い、という意見もあるでしょう。
 しかし、重要なのは、般若ヨ−ガの実践です。「感覚には自性が無い」という場合と「感官による印象の感受には自性が無い」と言うのでは、言霊の点で効果が違います。
 
漠然とした否定よりも、絞り込んだ否定の方が強い効果が有ります。
 
 尚、「感官による印象の感受」は(少し砕いた表現で)
「『快/不快』の感受」と言っても意味的には大体同じです。よって−−−<「快/不快」の感受>−−−と言った方が如実にイメ−ジできる人は、この言い方を使って「行」じても大過ないでしょう。
 
(空−七−七四)

(15) 想

 サンジュニャ−の漢訳です。ジュニャ−(知る)という動詞にサンという接頭辞を付した女性名詞です。サンには「十全に」という意味もありますが、この場合は「合う」とか「一緒に・共に」という意味です。「名想」という漢訳が真義に近いでしょう。
 仏教辞典の『想』の項では、「意識、認識、理解、了知、観念、表象」などと説明されていますが、
「意識」と言ったら間違いです。(「語義解析17.識」空−七−★百七以下)
 
岩波文庫版では「表象」と和訳しています。しかし、(空−七−六五の)「真髄和訳」では−−−<観念思考力>−−−と訳出しています。理由は次の通りです。
 先ず、「表象」という
言葉自体が分かりにくいので、瞑想法で使用する言葉にそぐわない、という事が挙げられます。哲学用語を無理に理解しようとしても、結局成功せずに、マインドの戯論(けろん)に陥る危険性が極めて大だと言えます。また、「表象」には「外的なシンボル(象徴物)」の意味も有るので、こうした「別の意味」をも含む難解語を態々(わざわざ)使うには、それなりの「他に代わり得ない強い理由」が必要ですが、そんなものは一つもない、と言えます。
 よって、「心経」のサンジュニャ−を「表象」と訳すべきではありません。
 
(空−七−七五)
 
「心経」のサンジュニャ−は、ヴェ−ダナ−(「受」=感官による印象の感受)の後に来るものです。つまり、五感で「触・受」したことを原因として、「それに合わせて、それと共に(=サン)知ること(=ジュニャ−)」を意味します。つまり、語源的には−−−
<「受」によって形作られた「観念」>−−−を意味するわけです。

(因みに、
三重苦のヘレン・ケラ−は、蝶々を見ないままに盲目になりましたが、蝶々の観念を持っていました。何故なら、幽体離脱して三重苦から解放され、お花畑の蝶々を実際に「見た」からです。これは彼女が自伝に記している事です。このように「受」は、肉体身のそれに限るものではありません。)
 しかし、「観念」は「外界との接触」による「情報のインプット(入力)」だけで成立するものとも言えません。そうした得た情報を「頭の中」で「捏ね繰り回す思考作用」の結果、新たに作られ高められた「思念」も「観念」と言えます。
 このように洞察して行くと、
そもそも「観念」とは何か、問題になります。
 
デカルトは「我思う。故に我有り」と言い、「自我の観念」は「思考の産物」である、と洞察しました。まことにその通りで、「観念」と「思考作用」は不可分のものです。
 よって、「サンジュニャ−」の本質を言い当てた和訳としては、「観念(思念)と思考作用(力)」を即座に想起できる言葉が良いと言えます。そこで−−−<観念思考力>−−−という言葉
(新しい造語)になったわけです。
般若ヨ−ガ瞑想行において、「観念思考力には自性が無い」という「言霊」は実に強力です。「表象に自性が無い」と百万遍唱えても殆ど何も起こらないのと比較すれば、この「和訳」が如何に核心を突いているか分かるでしょう。
 また、「観念思考力」と認識すると、サンジュニャ−の「サン」には、更に深い意味が隠されていたことを知ることになります。即ち、「観念思考力」は「無自性」なので「自力」で働くものではありません。大日空王主の御力が有って、始めて働く作用と言えます。
 「主の御力で、主と共に(サン)知ること(ジュニャ−)」−−−これぞ、サンジュニャ−(観念思考力)だとも言えるわけです。〕
 
(空−七−七六)

(16) 行

 サンスカ−ラの漢訳です。従来、「行」の訳としては「意志、形成力」などの訳語が提案されています。岩波文庫版は「意志」と和訳しています(尚、「意志的形成力」とすれば更に真義に近づくとの註が付されています)。
 しかし、(空−七−六五の)
「真髄和訳」では−−−
<(生体的・意欲的)造成力>−−−と訳出しています。理由は次の通りです。
 
サンは、「一緒に・立派(十全)に」などを意味する接頭辞。スカ−ラは「動詞カラ  (作る、為す、形成する、構成する、成就させる、実行・履行する、顕す、示す、等々)」の名詞形です。(接頭辞サンと結合すると、間に「ス」が入る)
 これで分かる通り、サンスカ−ラはとても多義的で広い概念ですが、この言葉が指し示す
その精髄は−−−<「或る種の完成形」に向かう「造成の動き」>−−−と言えます。
 例えば、植物を生長させるもの(力)も、花を咲かせ、実を成らせる力も、動物の産卵や出産や成長を司る力も、総てサンスカ−ラと言えます。
 また、般若心経の「五蘊(人間の個我)」の枠内に限定した意味のサンスカ−ラでも、人の身長を伸ばす力も、髪の毛を生やす力も、擦り傷を自然治癒させる力も皆、サンスカ−ラと言えます。
 また、運動選手が筋肉を付けようとして「筋トレ」する場合、「筋トレしよう」とする意志・意欲もサンスカ−ラであり、また、筋トレの刺激を受けて、損傷した筋肉繊維を前より「太くする」ように働く生体作用もサンスカ−ラです。また、女性が妊娠した際に、その胎児を日に日に成長させる作用もサンスカ−ラです。
 
このように具に見て来ると、サンスカ−ラを「意志」とか「意志的形成力」と訳すのは、狭きに失して不適切だと分かるでしょう。しかし、そうかと言って、「形成力」と言うだけでは抽象的過ぎて、何か漠然とし過ぎ、ピンと来ないでしょう。では、どう訳すか。
 今見た通り、サンスカ−ラの本質は、意欲面、及び、生体面での「或る種の成就、又は完成形に向かう造成の動き」です。
 よって−−−<(生体的・意欲的)造成力>−−−という訳語になるわけです。
 
(空−七−七七)
 これで分かる通り、
「サンスカ−ラ」の「サン」は「立派に、十全に」の意味であり、英語の「フル(full)」に当たる意味です。「一緒に、共に」の意味ではありません。
 そして、
成就(完成)したものが「崩壊」して行くことをサンスカ−ラとは言いません。「完成物の崩壊現象」は「サンスカ−ラの停止・消滅」を意味すると理解されます。
 
この点の認識は(後述する「諸行無常」を理解する上で)とても重要です。
 例えば、
禿げ頭になった人は、髪の毛を作る「毛根」で機能するサンスカ−ラ(生体的造成力)が、もはや無くなってしまったことを意味します。(或いは、体内のサンスカ−ラが毛根に伝わらなくなった、と見る事もできます。)
 また、
脳溢血で右半身が不随になってしまった場合、右半身の擦り傷は自然治癒するので、右半身にもサンスカ−ラ(生体的造成力)は働いていると言えます。しかし、右半身を自分の意志で動かして「何かを作る」ことはできないので、右半身には意志的な造成力(サンスカ−ラ)は伝達しない状態と言えます。
 
(空−七−七八)
 ところで、
意欲的造成力は「(個人的)創造力」と言い換えて認識することも可能です。また、生体的造成力は「(五蘊の範囲の)造化力」と言い換えて認識することも可能です。 よって、次のように言い換えても「核心」はしっかり押さえている事になります。
 
 
 「(生体的・意欲的)造成力」  =  「(個人の範囲の)創造力と造化力」
 
 こうした理解をもとに、
「(個人的)創造力には自性が無い」と自覚する修錬は、「観念思考力に自性が無い」という自覚の修錬と並んで、否、それ以上に強烈な般若ヨ−ガになります。
 残念ながら、
大方の人間は−−−「創造力は自力である=自分の創造力には自性が有る」−−−ようなつもりになっているものです。それ故、自分の創造力を自分勝手に使用しているのです。
 「人志の独立騒動の喩え」(前篇第四章)の中では、人間の「四源罪」の「A根本盗取」は「石油の盗取」に喩える事ができました。
 
この「石油の盗取」は、根源的には「(個人の範囲の)創造力(サンスカ−ラ)の盗取」と言えます。
 岩波文庫版のように、サンスカ−ラを
「意志」と訳す(従来の通説)の立場に立つと、この「根本盗取」の本質が「意志の盗取」ということになってしまい、まことにトンチンカンな理解になってしまいます。「意志」は盗めないからです。(よって、この点からも、「意志」と訳す通説が如何に不適切であるかが分かるでしょう。)
 
(空−七−七九)
 真剣に、真剣に
−−−<「意欲的造成力=個人的創造力」は無自性なり>−−−と自覚する行に励むならば−−−<自分の中にそれでも流入している「サンスカ−ラ」は、大日空王主のものであって、自分のものではない>−−−という自覚に目覚め、その自覚の中に意識が留まる(住する)ようになるでしょう。
 そうすると、イグナチオ・デ・ロヨラの「霊性鍛練法」の頂点に位置する「愛に達する観想法」(空−六−一以下)の、その中の頂点に位置する「第四要点」の瞑想に直結して行きます。
 この点をロ−マ法皇に説明してあげれば、
ロ−マ法皇が仏教を「見下げること」は二度と無くなるでしょう。
〔嘗て、ロ−マ法皇ヨハネ・パウロ二世はイタリア人ジャ−ナリストの各種の本質的な質問に対して手紙で回答をした事が有ります。
「希望の扉を開く」(同朋舎)(曽野綾子・三浦朱門共訳)参照。その中で、仏教に対する一見解を披露しましたが、その見解が浅い仏教理解に基づくキリスト教優位観だったため、「仏教を見下げている」と世界の仏教界から批判されたことが有ります。
 
(空−七−八十)
 ところで、「真の仏教」であることを見分ける基準として、
「三宝印」(その教えが真理である事を表す三つの印)が一般に挙げらています。それが「@諸行無常 A諸法無我(=無自性) B涅槃寂静(涅槃は寂静・大平安境であるという事)」です。この三真理が正しく説法されている場合、その説法の「真の行為主体」は如来である(但し、如来より「自性有る大日空王主」と解した方が一層正確)、と言われます。まことに、その通りです。
 
この「@諸行無常」の「諸行」の「行」は「サンスカ−ラの漢訳」です。
 
では、この「諸行」とは、何を意味するのでしょうか?
 この「語義解析16.行」の冒頭から、通説を批判し「行(=サンスカ−ラ)を『意志』と和訳する事なかれ」と注意して来ました。そして、正しくは「(生体的・意欲的)造成力」又は「(個人の範囲の)創造力と造化力」と和訳すべき、と指摘して来ました。
 但し、この和訳は、飽く迄も「般若心経」内の「(前後の文脈によって意味の限定を受けた)サンスカ−ラ」の和訳です。
 それに較べ、「三宝印」の「諸行無常」の「サンスカ−ラ(行)」は
「一般的真理命題」なので、この場合、サンスカ−ラの意味は「五蘊(人間の個我)」の枠に制約されることは一切有りません。
 よって
、「諸行無常」の「サンスカ−ラ(行)」はシンプルに−−−<造化力>−−−と訳すべきです。誰の? 秘密主のです。
 すると、「諸行無常」の真義は−−−
≪≪≪≪ 「諸行無常」の真義 ≫≫≫≫
(相対界レベルの)すべての造化力は常ならず、いつか必ず消滅するものなり。
大日空王主の御力(造化力)無くして、万物無し。しかし、その御力も常ならず。
主は(万物維持の)労力を引き上げ、止めてしまう時も有る。その時、如何?
 −−−こうなります(★空−六−二十参照★)。
 これを公案化すると−−−<出力全消滅時、如何?>−−−となりましょう。(「出力」については後篇第五章参照)
 
釈尊は肉体の死を迎えるに当たり、自分の死すらも教えの題材にして「相対界、形而下レベル」の造化力(たる出力)が完全停止してしまった時の事を瞑想しなさい、そうして、本居の絶対界に住する大日空王主の位相(存在態様)にこそ意識を合わせなさい、と教えられたのです。
 まことに、
諸法(万物万象)を生み出し、下支えしている「造化力」が消滅すれば、諸法も消えます。フォ−スとパワ−の二分法(後篇第五章)で言えば、造化力はパワ−(出力)に当たるので、いつかは消滅し、フォ−ス(不生の置力)だけが残ります。
 このように深く洞察すると
−−−<「諸行無常」は、「諸法無自性」「涅槃寂静」の真理をも内包した「仏教の真髄中の真髄の真理」である>−−−と分かるでしょう。
 
(空−七−八一)
 
ところが、日本仏教界の通説は−−−<「諸行無常」とは「あらゆる現象は変化してやむことがないこと」を意味する>−−−という立場です。「バウッダ」(小学館)の中でも、三枝博士はロウソクの炎の比喩を出して、諸行無常とは、一瞬たりとも同じ炎は無いという真理を表すものと解したいと記しています。(文庫版「バウッダ」 180頁)
 何という悲しむべき現状か。主よ、日本の仏教界の惨状をどうかお救い下さい。
 尤も、「諸法(相対界の各種の存在)は一瞬たりとも同じものではない」と、
通説を善意に解するなら、「現代量子力学」における存在の揺らぎ等々を指している、と理解する事も不可能ではないでしょう。しかし、釈尊が弟子に教えようとしていた真理が、量子力学のそれでない事は明白です。釈尊が伝授したかったのは−−「自性有る存在への瞑想法」−−に他ならないはずだからです。
 再度確認すると−−−「サンスカ−ラ(行)」とは、「それ」を「それ」たらしめている「力(造化力)」を意味します。三枝博士の「ロウソクの炎の比喩」で言えば、蝋を蝋たらしめている力、酸素を酸素たらしめている力、燃焼作用を燃焼作用たらしめている力、炎を炎たらしめている力などが「サンスカ−ラ」なのです。炎それ自体を「サンスカ−ラ」の比喩にするのは、ですから妥当ではありません。
炎はサンスカ−ラが働いた結果の姿です。
(寧ろ、敢えて言うなら、「炎」に喩えるよりは、サンスカ−ラは恵みの根本としての「太陽の熱線・光線」に喩えた方が良いでしょう。)
 日本の仏教学者は、真の瞑想修行のために「百時間や千時間」を費やそうとする事は決してしません。何故なら、そんな暇が有ったら「本を読んで、学問し、知識を増やそう」とするからです。そうやって、
正しい瞑想力を錬成しないまま仏法を説くから、こういうインチキ解釈になるわけです。般若心経の「サンスカ−ラ」を「意志」と訳し、庶民を無知の大海で泳がせたまま、平気な顔で居るのは良い事ではありません。
 学者諸氏の猛省を望む所以です。(以上は、愛の鞭、警策と理解して下さい。)
 
(空−七−八二)
 仮に今、優秀な仏教徒がキリスト教徒に向かって、次のような質問をしたとします。
「神は天地を創造し人間を創造したと言いますが、神はその造化力を、永続的・恒久的に行使し続けて、決して止めることが無いと、あなた方はお考えですか? 神様も『お休み』することがあるとは考えませんか。安息日に『御業を休まれた』という聖書の記述は、全面的ではないにしろ、或る程度の 『神の造化力の停止』 の象徴と見ることもできるのではありませんか」 と。

 そして、イグナチオの「愛に達する観想法」(後篇第六章)について語り合い、そうして、仏教の「諸行無常」についての(ここで示した本当の)真義を伝えるならば、キリスト教徒は、仏教の奥深さに感嘆し、唖然となる事でしょう。
 けれども、従来の通説のように「諸行無常とはあらゆる現象は変化してやむことなし、という意味」という暗愚なる見解を掲げてキリスト者に語りかけるなら、「あっ、そう。それが『三宝印』なのですか」と返答されるだけで、見下され、哀れに思われるのがオチでしょう。
 
(空−七−八三)

(17) 識

  ヴィジュニャ−ナの漢訳です。ジュニャ−(知る)という動詞に 「ヴィ」という接頭辞を付した中性名詞です。この接頭辞「ヴィ」には 「分割して、個別に、ばらばらに」などの意味があります。
 よって、
「ヴィジュニャーナ」は一般的には「事理弁別意識」を指す言葉だと言えます。日本語の「分かる」に「分」の字を当てるのと共通の感覚です。つまり、ヴィジュニャ−ナは、「分かるもの(主体=意識)と、分かったもの(識別後の知識)」の両方を含めた概念です。
 この
「分かったもの(識別後の知識)」が「世俗知」です。よって、ヴィジュニャ−ナを沢山獲得すると、世知に長けた者となります。
 しかし、
世知に長けて行くその先に「悟り」があるわけではありません。この事は既に、「般若波羅蜜多」を「知恵の完成」と訳すことなかれ、と指摘した処で語った道理ですし、この後の「語義解析30」(空−七−★五十九以下)でも痛烈に指摘する予定です。
 
<世知に長けて行くその先に「悟り」があるわけではない>という道理は、既に昔から仏教では、ヴィジュニャ−ナを「分別智」と漢訳した上で−−−
<分別智を捨てて「無分別智」に到ることこそ「悟り」である>−−−と、繰り返し説かれていることです。
 
この「無分別智」こそ、接頭辞ヴィを削除した「ジュニャ−(動詞の名詞用法)」と呼ばれるものであり、また「プラジュニャ−(般若)」と呼ばれる「本地の叡智(究極叡智)」なのです。
 
(空−七−八四)
 以上が、
「ヴィジュニャ−ナについての一般論」であり、「識」を正しく理解する上での「基礎となる大前提」です。この点をしっかり押さえておけば、ヴィジュニャ−ナについてクリア−な理解が持てるはずです。
 とは言え、残念な事に、仏教界では昔から、「識(ヴィジュニャ−ナ)」の解釈を巡って諸説が乱立し、混乱した状況にあります。よって、その混乱の原因を抉(エグ)り出し、混乱を終息させて行きましょう。
 先程の「ヴィジュニャ−ナについての一般論」を踏まえつつ、般若心経の文脈中の「ヴィジュニャ−ナ」をどう捉え、どう和訳すべきか、考えてみましょう。
 岩波文庫版では、ヴィジュニャ−ナを「知識」と訳しています。
 しかし、(空−七−六五の)
「真髄和訳」では−−−<個体意識>−−−と訳出しています。
 
同じ「ヴィジュニャ−ナ」なのに、どうしてこうした大きな隔たりが生じるのでしょうか?
 
一言で言えば−−−<「ヴィ」を浅く取るか、深く取るか、の差>−−−と言えます。
 
従来の通説は、「ヴィ」を「浅く解釈」して、「物事を分別・弁別する意識」と理解しています。ここから「知識」という訳が出ます。何故なら、「知識」には「知覚意識」(動的意識)の意味もある、と辞書に載っているからです。
 しかし、一般人が日常的に「知識」と言う場合、「知覚意識」の意味で使うことは殆どないでしょう。普通、「知識」と言うと、「識別後の知識=記憶としての知識」(静態)しか意味しません。この点で、「知識」という訳語は不適切だと言えます。(「表象」と同じく、普段使わない言葉、それも
マインドの強い言葉を使って般若ヨ−ガをしようとしても、うまく行きません。
 
(空−七−八五)
 
では、「知識」と訳さず「知覚意識」と訳してはどうか。これならば、ヴィジュニャ−ナは、五感から入って来る刺激情報を「(弁別して)知覚する意識」と、直ぐ分かって良いのではないでしょうか。
 しかし、そうは問屋が下ろさないのです。
 「知覚意識」と訳してしまうと、「では、記憶などの獲得した知識は、五蘊のどれに属するのか?」という疑問に答えられなくなってしまうからです。
 
つまり、何としても「知識」と和訳して、「@知覚意識 A記憶などの(静態的)知識」、この二種類を共に含む言葉にする必要が有るわけです。
 そういうわけで、辞書に書いてある以上、「知識」には「知覚意識の意味もある」という論理を楯にして「ヴィジュニャ−ナ」を「知識」と訳しても、無知な庶民なら何とか騙せるでしょう。しかし、真剣に般若ヨ−ガを実践しようとする行者に対して、この訳語では全然通用しません。
 岩波文庫版のように、「想→表象」「識→知識」と訳してしまうと、「では、記憶などの静態的知識を引っ張り出して、捏ね繰り回し、抽象的・理念的思考をする作用は、五蘊の何処に属するのか?」 問題になってしまいます。
 もしも、
それは「想=表象」に属すると言うならば、「それなら、表象と訳さず、観念思考力と訳した方が良いではないか」ということになるでしょう。
 また、もしも、
それは「識=知識」に属すると言うならば、「では、@知覚意識 A記憶などの静態的知識 の意味しかない『知識』の訳語では狭過ぎるのではないか」ということになるわけです。
 
(空−七−八六)
 
では、どう訳せば正しいのでしょうか? 実は、多くの仏教学者もよく分からない処なのだと言えます。彼らは実の処、この問題には困惑し、混乱しながら、一応、一種の「逃げ」として「知識」と訳しているに過ぎない、と評せましょう。
 けれども、
インチキを放置して置くわけには行かないので、更に鋭く突っ込んで行きましょう。
 「五蘊」に関しては、日本の仏教学者の従来の通説は「万物万象」総てが「五蘊」(正しくは五衆)(=五つの要素)で構成されている、とする見方です(岩波文庫版もこの説を採ります)。こうした「謬見」を親切に図式化して下さったものが、「般若心経講義」(高神覚昇著 角川文庫)の二○五頁に記載されています(第二講の注2)。(但し、括弧付けの言葉は私の補足です。)
 
(「色」を最初から一般化しています)

 
 
(空−七−八七)
 
この図の何処が間違っているかが分かれば、「般若心経」の「五蘊の<識>」の真義を会得したと言えます。そして、それが分かれば、「識」を「知識」とは決して訳さず、「個体意識」と和訳することになるでしょう。
 この図で、正しく理解すべき
一番のポイントは、「色心不二」という言葉です。
 
天台宗第六祖の湛然(たんねん)は、「十不二門」の最初に「色心不二」を挙げ、「心を常住といふ事は、凡聖同体にして、色心不二なる一心法界をしめすなり」と説明しています。
 前々より、
万物万象は「無自性存在と自性有る存在との混成体」である、と切々と説いて来た通り、この道理が分かれば、「色心不二」の「色」は「無自性存在」の代表選手であり、「心」は「自性有る存在」を意味する、と容易に分かるはずです。
 
ここでの「心」は、「人間の個我の心」の意味では断じてありません。飽く迄も、「真我=梵=大我」の心を意味します。これは、湛然の「一心法界」の語でも分かるでしょう。
 とすると、心王(しんのう)は、(多義的な用法が有るけれどここでは)「真我」を意味する、と解すべきです。つまり、態々(わざわざザ)「心王」という用語を使うのは「心能」に通じるからであり、「所」は受動態、「能」は能動態を意味すると見るべきです。
 よって、
「心王(能)」は「心を動かす真の主体」を指し、「心所」は「心王によって動かされる心の働き(心の諸様相)」を指す、と解すべきです。
 
(空−七−八八)
 さて、そうすると
、「五蘊の識」と「六大の識」に 「大我=心王」を含めるか否か、という事が大問題となって来ます。
 
「万物万象は五蘊(の五要素)で出来ている」という(従来の権威有る)通説からすると、「五蘊の識」の中に「大我=真我=心王」を含めるしかありません。しかし、これは本当に本当に間抜けな見解だと言えます。
 「五蘊の識」の原語は「ヴィジュニャ−ナ」です。
それなのに従来の通説は、このヴィジュニャ−ナに「ジュニャ−(大我の意味)」を含めると主張している事になります。最早、狂気の沙汰でしょう。何のために、「分離」を意味する「ヴィ」が付いているのか、全然分かっていない証拠です。
(勿論、
「ヴィジュニャ−ナの一般論」で解説した通り、「大我=本地の叡智」と区別するために「ヴィ」が付けられているのです。)
 「五蘊は総て無自性」です。これは般若心経解説の第一部で詳説した通りです。
 万物同様、人間も「自性有る存在」と「無自性存在」の混成体です。つまり、人間は真我と個我(五蘊)の混成体です。(前篇第三章)
 これで「万物万象は五蘊で出来ている」という通説が、そもそも目茶苦茶であった事が、火を見るより明らかになったでしょう。(「語義解析8.五蘊」空−七−五十以下)
 
(空−七−八九)
 −−−以上、
目茶苦茶な通説は、「五蘊の識」を「知識」と和訳する一方で、この「識」に「心王=真我」という最深の意味をも含めてしまった「邪見」でしかありません。
 つまり、「ヴィジュニャ−ナ(識)」の「ヴィ」を「物事を分別する」という
浅い意味に解して、勢い、「ジュニャ−(真我)」を含めてしまう間違いを犯しています。
 
(空−七−九十)
 一方、「ヴィ」を本来的な
深い意味で捉える場合「五蘊の識」は、「真我」とは峻別されます。(この峻別のためにこそ「ヴィ」が付いているのですから。)
 つまり、
この「ヴィ」は、「真我とは分離した」という意味だと解します。
 
従って、ヴィジュニャ−ナは−−−<「真我と分離した意識」即ち「個体意識」>−−−の意味になります。
 では、理解の便宜のため、
「浅いヴィ説(通説)」と「深いヴィ説(真説)」との異同について、簡単に(飽く迄イメ−ジ的に)図示しておきましょう。
 
〜〜〜〜〔浅いヴィ説〕〜〜〜〜〜〜
                                         

 
  
※  マナ識は、眠っている時にも活動している深い思考意識のこと。
     アラヤ識は、過去世から引き継いだ薫習など、無意識内に所蔵されているもの。

 
 
〜〜〜〜〜〜〔深いヴィ説〕〜〜〜〜〜〜
 

  
 
(空−七−九一)
 
「浅いヴィ説」だと、「我の観念」や「四源罪」は、全部「識(ヴィジュニャ−ナ)」の働き、ということになります。
 一方
「深いヴィ説」では、敢えて無理にでも区分けするならば、「我(賊我)の観念」と「四源罪の内の三つ」(A根本錯誤 B根本我欲 C根本盗取)は、「観念思考力(想)」に属することになります。そして、「四源罪」の「@根本過失」のみが「個体意識(識)」が犯す過失と言えましょう。但し、「観念思考力(想)」と「個の意識(識)」の境界は不分明と言えます。
 また、
「浅いヴィ説」だと、「唯識派」の考えは出口無しの迷路に入り込んでしまいます。例えば、唯識派は「識(ヴィジュニャ−ナ)」の中に「見る者(主体)=見分」と「見られる物(対象)=相分」が混在している、と考えます。これだけならまだマシですが、それを更に細分化して、「見る者(主体)」を更に奥深くで「見る者」が居て、それを更に「見る者」が居る…と考え始めると、終わりが無くなってしまい、解決が付かない事態に陥ってしまいます。(無限鏡像現象のように)
 しかし、
「深いヴィ説」だと、「真に見る者(真主体)」は真我のみ、と分かります。これでおしまいです。
 また、
「浅いヴィ説」だと、「霊魂否定説」に傾いてしまいます。何故なら、無知なる仏教徒は「仏教は無我を説く。これは霊魂を否定した意味である」と平気で言ったり、或いは、少々マシな者でも、「釈尊は霊魂の存否について<無記(=答えないこと)>を通したので、真の仏教は霊魂の存在につき、肯定も否定もしない」と言うからです。(ところが、こう言う者に限って、内心では霊魂の存在を否定していることが多い。)
 しかし、
或る程度高い瞑想が出来るようになると、霊魂の存在は明確に知覚できるようになります。(例えば、白隠禅師などもそうであったように)幽体離脱も自覚できます。
 このように、正しい瞑想ヨ−ガに精進し、或る程度の達成を得た者は、必ず霊魂の存在を肯定します。
 「深いヴィ説」からすると、「個的な霊魂」も「自性有る存在と無自性存在」との混成体と観ます。従って−−−
<「個的な霊魂」の「個的部分」のみが「無自性=無我」>−−−という認識になります。これが「霊魂」の正しい実相・真理です。
 
(空−七−九二)
 最後に、仏教の十二因縁(空−七−★★★)の順番を押さえておくべきです。
 その第三支の「識(ヴィジュニャ−ナ)」は、第四支の「名色」(物質的・肉体的な個体身)
の前に置かれ、「個体身の原因」と位置付けられています。このことは、「識(ヴィジュニャ−ナ)」が「物質的個体身以前の存在=個体的な霊魂」(霊体としての個の意識)として有ることを想定したもの、と見ることができます。
 また、「識(ヴィジュニャ−ナ)」
の前に「行」が置かれている点も重要です。
 −−−以上の諸点から、「五蘊の識(ヴィジュニャ−ナ)」は、
「個体意識」と理解するのが最も適切と言えます。
 
(空−七−九三)

(18) 亦復如是

 エヴァム・エ−ヴァの漢訳語。エヴァムは 「このように、この如く、同様に」 の意味。漢訳の「如是」に当たります。
 
エ−ヴァは、「全く」 の意味。漢訳の「亦復」(〜もまた)に当たります。
  
(以上で 「心経の第二部の@」 の部分の解説を終了します。)
 
 
 

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このページの最終更新日 2005/2/18

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