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般若心経マスターバイブル後篇第7章その3


【ステップ4】 全単語を正しく理解する (続き)

(空−七−九四)

第二部(U)−A

(梵語・イハ)   舎利子  是諸法空相  不生不滅  不垢不浄  不増不減。
 「諸法空相」の 「空(シュ−ニャタ−)」は、「@無自性存在 A空無(何も無い事)」という二義の掛詞になっているので、この文には二義に対応した「二つの顔」があります。

第二部(U)−A 〔真髄和訳〕 (読誦用)

<「空相」の「空」が「無自性存在」の意味の場合>    
  シャ−リプトラよ。ここでは、
 (相対界の)総ての「存在・物事・理法」(=諸法)は、「自性無きものという相」をしている。
 (即ち)発生することにも自性は無いし、消滅することにも自性は無い、汚(きたな)くなることにも自性は無いし、清潔(きれい)になることにも自性は無い、増大することにも自性は無いし、減少することにも自性は無い(という相をしている)。
<「空相」の「空」が「空無」の意味の場合> 
  シャ−リプトラよ。ここでは、
 (相対界の)総ての「存在・物事・理法」(=諸法)は、(本質的には)「無相」である。
(即ち)発生することも無いし、消滅することも無い、汚(きたな)くなることも無いし、清潔(きれい)になることも無い、増大することも無いし、減少することも無い(という相をしている)。
(空−七−九五)
 この「真髄和訳」を読めば分かる通り、「不生〜不減」までの「六不」の「不」は、「空」の二義に対応して、「無い/無自性」という二種の意味に適宜入れ替わります。ですから、漢文や日本語の感覚で
「単なる否定の言葉」と解釈すると間違ってしまうので注意を要します。原文は、「状態の変化を表す形容詞」「動詞の過去受動分詞の形容詞的用法」を合わせて六つ並べ(この六つとも、その後の「相」に掛かる)、それに否定を表す接頭辞「ア」が付いたものです。(詳細は「語義解析22〜24」参照)
 
この「梵語原文の否定辞」は、文字通りの「無い」という意味の他に、「自性の否定」の意味も含んでいるわけです。
 尚、「空相」の「空」が「無自性存在」の意味の場合、「不生〜不減」までの「六不」について、「無自性」という専門用語(テクニカル・タ−ム)を使わないようにして訳出する場合は、「無自性存在の三不能(無力)」について触れることは無用です。
 何故なら、この「六不」は「六様態の無自性」に絞って言及しているものだからです。よって、次のような和訳になります。

〔無自性を解きほぐした和訳〕
 シャ−リプトラよ。ここでは、
 (相対界の)総ての「存在・物事・理法」(=諸法)は、「自性無きものという相」をしている。
 (即ち、自性有る大日空王主の御力無しには)それ自体単独では発生する力も無いし、消滅する力も無い、それ自体単独では汚(きたな)くなる力も無いし、清潔(きれい)になる力も無い、それ自体単独では増加する力も無いし、減少する力も無い(という相をしている)。
(空−七−九六)

<語義解析>
第二部(U)−A

 〔イハ(11)〕   舎利子(12)   是(19)  諸法(20)  空相(21)
           不生不滅(22)    不垢不浄(23)    不増不減(24)
    (「イハ」 と 「舎利子」 については、既に解説済です。そちらを御覧下さい。)
 
(空−七−九七)

(19) 是

 この漢語には、「正しい、良い」の他に、「@これ Aこの Bこのように(如是と同じ意味)」の三種の意味があります。
 
では、「是諸法」の場合は、どの意味でしょうか?
 従来の通説、そして日本の慣習として、この「是」は「Aこの Bこのように(な)」の意味で読まれて来ました。つまり、前文が「五蘊」の話題なので
−−−
<「五蘊」を受けて、
この(こうした)諸法」と読んでしまうミステイク>−−−を皆が皆、犯して来たのです。
 けれども、しつこく繰り返して恐縮ですが
、「五蘊」と「諸法」では指し示す範囲が全然違うわけです。この事は語義解釈「五蘊」「色」「識」の項で詳説した通りです。
 とはいえ、少々「有学」の者は、大本版の梵語原文を引用してこう反論するでしょう。
「大本版の原文では、『イハ』の代わりに『エヴァ(このように)』が使われている。この点から見て、従来通り、『五蘊』を受けて
『この(こうした)諸法』と読むのが正しいはずである」と。
 しかし、大本版の原文で指摘された「エヴァ」の前文の最後の文言はシュ−ニャ−タ−です。即ち、大本版では『受想行識もまた空』という文の後に「エヴァ(このように)」と続くのです。という事は、
この「エヴァ」は「諸法」に掛かるのではなく、「空(相)」に掛かる言葉であることは明白です。つまり、「受想行識もまた空」→「このように(諸法もまた)空(相)」と説いているのであり、「五蘊を受けて」→「このような諸法」と言っているわけではありません!
 よって、「是」は「五蘊、このような諸法」の意味ではなく
、「(舎利子の眼前に有る)これ、(この)諸法は」の意味だと解してこそ、意味が正しく通じるのです。
 −−−従って、原文の「イハ(ここでは)」のニュアンスを出すために「是」が添付された、理解するのが正解です。
〔「真髄和訳」では「梵語原文のイハ」の記述の方を重視して、「ここでは」と訳出しています。また、
「“汝の眼前の”この諸法は」と意訳して訳せば、漢訳文のニュアンスに適合したものになります。梵語原文と漢訳文のどちらを採用するか、好みの問題でしょう。〕
 
(空−七−九八)
 以上の事が分かると、「是」の前の
「シャ−リ−プトラ」との呼びかけには、「一区切りを入れて、更なる範囲の拡大を準備する」という意義深い機能が有る事が見えて来ます。
 
第一回目の「シャ−リ−プトラ」の後「五蘊無自性」(=人無我)を説き、第二回目の「シュ−リ−プトラ」の後、「諸法無自性」(=法無我)にまで「無自性」の洞察範囲を拡大させているわけです。
 
従来の通説のように、「五蘊=諸法」説が正しいならば、二度目の「シャ−リ−プトラ」の呼びかけは全然無用になります。もしそうならば、簡潔を旨とする「心経」製作者は、そのまま続けていたはずです。
 こうした点からも、従来の通説は大間違い、と分かるでしょう。
 
(空−七−九九)

(20) 諸法

 サルヴァ・ダルマの漢訳語です。サルヴァは「一切の、総ての、あらゆる」という意味。ダルマは、「ダリ   (保持する)」の派生語で、「神が保持するもの」が原義です。即ち、梵語の「ダルマ」は本来「因縁起」全部を含む概念だと言えます。(ここでの「因縁起」は「因=自性有る存在」と「縁=無自性存在」との両者を含む概念の意味で使っています。詳細は、後編第三章参照)
 「ダルマ」は、古来より「法」と漢訳されて来ました。しかし、仏教の「ダルマ(法)」は、中国文化の「法」の概念(制度や刑罰や法律などの意味)とは勿論、全然一致しません。従って、
漢訳語としての「法」は、漢字文化圏の仏教の「特殊専門概念」と言えます。
 
仏教の「ダルマ(法)」は、(これまた漢字文化圏の仏教の「特殊専門概念」としての)「有為法」と「無為法」の両者を含む概念です。(但し、超宗教的立場からの、実践的な二分法としての「有為と無為」の概念はこれと異なります。前篇第二章の二参照)
 
「神が保持するもの」の第一は、物質的に不生の「虚空なる絶対身」です(無為法)
 
「神が保持するもの」の第二は、「自己存在一部有形化現出力」(空−二−★★)によって生起させた「相対界の全存在」や相対界の(因果律などの)「諸法則」です(有為法)。また、宗教真理の教義(世俗諦の一つ)もこれに属します。(世俗諦の詳細は★★★)
 それ故、(空−七−九四の)
「真髄和訳」では、「諸法」を−−−<(相対界の)総ての「存在・物事・理法」>−−−と訳出しています。
 ここで
、「諸法」と「五蘊」の差異について確認しておきます。
 
差異の第一は、心経の中の「五蘊」が「瞑想者の個我」に限定されるのに対して「諸法」は全存在を含む概念であることです。つまり、「諸法」は「有為法」全部を含むばかりか、それ以上の広い概念です(無為法をも含みます)。
 
差異の第二は、「五蘊」は「無自性存在」ですが、「諸法」は机上の理論としては「自性有る存在」(無為法)を含む概念であること。(しかし、後述するように、正解では「無為法」を除外します。)
 
(空−七−百)
 従来の通説のように、「五蘊」にも「自性有る存在(心王)」をも含むと解すると、「正しい無自性の瞑想」は不可能になってしまいます。(ここは誤解多発地帯です)
 勿論、厳密に言えば、「無自性存在だけ」を単独で取り出す事は不可能な事です。何度も言うように、万物万象は「自性有る存在と無自性存在」の不可分の混成体だからです。
 この観点からすれば、「色」も両者の混成体ですし、「受想行識」も両者の混成体です。
 しかし、
そもそも、「無自性の概念」自体、瞑想技法上の概念ですから、この瞑想技法上の観点から、一便法として「真我と個我(五蘊)」を分けるわけです。「五蘊」を「相対界レベルの生起現象」と見て、「絶対界」の「第一義諦」と一旦分離した観想をするわけです。これが「無自性の瞑想法」です。
 従って、「五蘊」は「無自性存在」でなければならないのです。
 そして、ここが
重要ポイントなのですが、「諸法(=総てのダルマ)」といっても−−−<「相対界レベルの法」に限る>−−−という但書を付ければ、「絶対界レベルの無為法」が除外されて「無自性存在全般」だけを意味する言葉になるわけです。
 そして、「般若心経」の
文脈の中で登場する「諸法(総てのダルマ)」はこの意味、即ち「無自性存在全般」の意味と解さなければならないのです!!!
 従って、
「真髄和訳」のように<般若心経の文脈の中での「諸法」とは、(相対界の)総ての「存在・物事・理法」>という事になります。
〔般若ヨ−ガ技法は、万物の中から「無自性存在」を
一旦分離し、それを「三不能の観想」で消します。すると残るのは「自性有る存在」の大光明ばかり、という手順になります。〕
 
(空−七−百一)

(21) 空相

 シュ−ニャタ−・ラクシャナ−の漢訳です。ラクシャナ−には「相、姿、特徴、特性」などの意味が有ります。岩波文庫版は「実体がないという“特性”」と和訳しています。
 
しかし、(空−七−九四の)「真髄和訳」では−−−<シュ−ニャタ−(自性無きもの/空無)という“相”>−−−と訳出しています。
 では、
ラクシャナ−は、「相」と「特性」、どちらに訳すのが正しいのでしょうか?(シュ−ニャタ−を「実体が無い」と訳すべきでないことについては前篇第三章参照)
 「特性」という訳語を出す事自体、如何にもマインドの強い学者の所業と言えます。
 般若ヨ−ガを実践する行者は、否定の剣で「我見」を裁断して行くのですが、何故そうするのかと言えば、「存在の本質」即ち
「存在の実相」を照見するために他なりません。
 抽象的な「特性」について瞑想するわけではありません。
 尤も、「無自性」という特性にだけ注目して瞑想するのならば、(即ち「空」を「無自性存在」一義だけと捉えるのであれば)「特性」の訳語でも差し障りはありません。
 しかし、「空」には三義有りました。「正しい中観」を会得するには、「大日空王主の絶対界空無相」を観想する域に達する必要が有ります。そのためにこそ、「心経」は六不以下、「無」を連発しているのです。従って、
観想するのは、大日空王主の絶対界空無相そのものであって、その特性ではありません。それに、「空相」を「大日空王主という特性」と訳したら、正しい文章にならないでしょう。
 従って、
シュ−ニャタ−・ラクシャナ−は「空という“相”」と訳さねばなりません。
 最後に、
シュ−ニャタ−・ラクシャナ−を「空の(持つ)相」(属格の関係)と解し得るか、検討しておきましょう。
 「空」を「無自性存在」一義だけと捉えるのであれば、それでも差し障りはありません。 しかし、「空」には三義有るのです。「空」が「大日空王主」の意味の場合は、正しい文章になりません。従って、「空の(持つ)相」(属格の関係)と解することはできません。
 
(空−七−百二)

(22) 不生不滅

 「アヌットパンナ−・アニルッダ−」の漢訳語です。ウットバッド(生じる)の過去受動分詞が「ウットパンナ−」で、その形容詞的用法です。語頭に否定辞「アン」を付けて「発生しない(不生)」という意味になります。
 ニルッダ−はその逆。「消滅した」という形容詞。語頭に否定辞「ア」を付けて「消滅しない(不滅)」という意味になります。
 「空相」の「空」が「無自性物」を意味する場合、その後の「不(梵語のア」は「自性の否定」の意味になるので、「発生することにも自性は無い、消滅することにも自性は無い」という意味になります。
 また、「空相」の「空」が「何も無い空無」を意味する場合、その後の「不(梵語のア」は「発生/消滅」という「様態面の変化」を否定する意味になるので、「発生することも無いし、消滅することも無い」という意味になります。
 
(空−七−百三)

(23) 不垢不浄

 「アマラ−ヴィマラ−」の漢訳語です。マラは「汚穢」の意味。それに否定の接頭辞「ア」が付いて「アマラ−」(形容詞)です。つまり、「汚穢の無い=無垢な」というのが原義。〔ラ−と語尾が伸びるのは、ラクシャナ−(相)が女性名詞なので、形容詞も女性形を取るためです。〕
 
ヴィマラ−(形容詞)の「ヴィ」は「分離した」という意味。よって、「汚穢を取り除いた=清潔になった=無垢な」というのが原義。
 これで分かる通り、
「アマラ−/ヴィマラ−」と解すると、「無垢/無垢」と同じ言葉が並ぶことになってしまうので注意を要します。サンスクリット語には、「連声」という音変化があります。
 以下、梵語に詳しい方(匿名希望)の解説を挿入します。
 前の単語が「〜a」や「〜aa」で終わっているとき、次の語に、否定の「a〜」で始まっていれば、(前後が)融合して長い「〜aa〜」になります。
 すなわち、ここは、
a-mala + a-vimalaa となっているのが隠れているだけで、否定辞の「a」が実は2つあるのです。テキストによっては、a-malaa na vimalaa と、後者をnaで否定していますが、その方が誤解の心配がなくてよい表現です。>
 よって、ここでは−−≪ア(否定辞)マラ−+ ア(否定辞)ヴィマラ−)≫−−と解読する必要があります。

 
次の論点です。さて、岩波文庫版は「汚れた“もの”でもなく、汚れを離れた“もの”でもなく」と訳されています。しかし、(空−七−九四)の「真髄和訳」では−−−
<汚(きたな)く“なる”ことも〜、清潔(きれいレ)に“なる”ことも〜>−−−と訳出しています。
 
こうした翻訳の差は、「名詞形」と解すか、「状態の変化を表す形容詞」と解すか、の問題と言えます。そして勿論、正解は後者です。他の「四不」の中に「状態の変化を表す動詞の過去受動分詞の形容詞的用法」が含まれていることを見ても分かりますが、「ア(マラ−/ヴィマラ−)」は「状態の変化」を表す形容詞です。名詞的に、即ち、静態的に捉えるべきではありません。
 
(空−七−百四)
 しかし、日本では長い歴史の中で、「梵語原文」を見ることなく、「不垢不浄」という漢語だけ見て「不浄でも無く、清浄でも無い」という
静態的解釈が定着してしまいました。
 それ故
−−−<何事も「不浄」と見てはいけない、「清浄」と見てもいけない>−−−という説法が出て来るのです。つまり、相対界の「正反対・両極端の見方」(善悪・聖凡・美醜・浄不浄などを区別する見方)を捨てて、「無分別智」を持ちなさい、という説法になるのです。
 しかし、
こうした「ズレた説法」をする者に限って、「有為」の「不潔なる生臭行為」を陰で行っているのが通常です。何故なら、こうした「無茶苦茶な無分別」を無理やり貫徹しようとすると、勢い「世俗諦」を無視して踏み躪ることに直結してしまうからです。(★一−十八−三三、三四★)
 
梵語原文は、飽く迄も「大日空王主の絶対界空無相には<相対的な状態の変化が無い>のですよ」と教えており、又同時に「相対界レベルにおいては『状態の変化』(ここでは「汚れる」とか「きれいになる」)が有るけれども、その変化には自性が無いのですよ」と教えているのです。
 「変化に自性無し」とは、「変化する
事物自体には、そうした変化を主宰する力は全く無い」と見ることです。
 この二つの角度から正しく般若ヨ−ガを行じる時に、飽く迄も
結果として、相対界の「正反対・両極端の見方」を捨てて、「無分別智」に没入することができるのです。「無茶苦茶な無分別」を無理やり押しつけて、「ウンコ(糞)も本来は汚くもなければ、きれいでもないのだ。よって、うんちも味噌と同一視して平気で舐めなさい。それが出来たら空が分かったことになる」−−みたいな説法をする人を信じてはいけません。シュリ・ラ−マクリシュナは、ハエのように脱糞を食べるのではなく、蜜蜂のように花の蜜だけを食べなさい、と教えましたが、こうした態度こそが正しいのです。
 
(空−七−百五)

(24) 不増不減

 「ノナ−/ナ・パリプ−ルナ−ハ」の漢語訳です。「ナ−シャ」(消耗する、損減する)の略語としの「ナ−」に「無・不」を意味する「ナ」の訛音である「ノ」を付けた「ノナ−」で「損減しない=不減」を意味します。
 「パリプ−ルナ−ハ」は「増大する」意味で、それに「無・不」を意味する「ナ」が付いて「増大しない=不増」を意味します。
 これで分かる通り、
梵語原文では、「不滅不増」という順番になっているのに、漢訳版においては、この順序が逆になっています。「減らない」という事は「不滅」に通じるので、梵語原文のように、不滅が先に来て強調された方が良い、と言えるでしょう。
 ところで、「空相」の「空」が「無自性物」を意味する場合、その後の「不」は「自性の否定」の意味になるので「増え行くことも無自性、減り行くことも無自性」という意味になります。
 また、「空相」の「空」が「何も無い空無」を意味する場合、その後の「不」は「増大/減少」という相対的な「様態の変化」を否定する意味になるので、「増え行くことも無いし、減り行くことも無い」という意味になります。
 世界を見ると、確かに相対相としては「増・減」が有るように見えます。しかし、絶対界の絶対相に「相対的な増減」はありません。この道理は、物理学の「質量不変の法則」を例に取って考えてみると分かりやすいでしょう。
 但し、
ここで注意すべき点は、「増減の無い絶対相」を停止した無活動の静態的なもの、と解してはいけない、という事です。従来、仏教の中で、「無為法」を「増減の無い完全に停止したもの」と解する見解が有って、この解釈が「正しい瞑想に入ることを妨げていた」という事は、前篇第二章の第二節で述べた通りです。
 相対的な比較を絶した
「絶対界の動態」という概念が「正しい瞑想」のためにはどうしても必要です。(★一−二五−十九以下★)
 
 (以上で 「心経の第二部のA」 の部分の解説を終了します。)


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このページの最終更新日 2005/5/8

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