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般若心経マスターバイブル後篇第7章その4


【ステップ4】 全単語を正しく理解する (続き)

(空−七−百六)

第二部(U)−B

 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法。
 無眼界 乃至無意識界。 無無明
〔※註〕 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽。
 無苦集滅道。無智亦無得。

 
〔※註≫≫  梵語原文には、ここにもう一語有ります。語義解析30.参照〕 

 この「空中」の「空(シュ−ニャタ−)」は、「@無自性存在=大日空王主相対界変化相  A大日空王主絶対界空無相」という
二義の掛詞になっています。よって、「無色〜無得」までの文章は(前の「六不」同様)「空」の二義に対応した「二つの顔」を持っています。
 つまり、この間の否定辞「無〜」は、「空」の二義に対応して、<@「無自性」の意味/A(普通の)「無い」という意味>に適宜入れ替わります。
 但し、「無明」の「無」と「無〜尽」の「無」だけは、「無い(普通の意味)」一義です。何故なら、この「無」は「明」の否定、及び、「尽」の否定(尽きることが無い)に過ぎないからです。
 

第二部(U)−B 〔真髄和訳〕 (読誦用)  

<「空中」の「空」が「無自性存在」の意味の場合>
 シャ−リプトラよ。この故に、
 「自性無き大日空王主相対界変化相」においては−−−
 (個我を形作っている)物質にも自性は無いし、感官による印象の感受にも自性は無いし、観念思考力にも自性は無いし、(生体的・意欲的)造成力にも自性は無いし、個体意識にも自性は無い。(=五蘊無自性)
 視覚器官にも、聴覚器官にも、嗅覚器官にも、味覚器官にも、触覚器官にも、意識器官にも、自性は無い。(=六根無自性)
 可視的形象にも、音響にも、香気・臭気物質にも、有味物質にも、感触有るものにも、「(相対界の)存在や物事や理法」にも、自性は無い。(=六境無自性)
 視覚領域にも自性は無いし、そこから個体意識の領域に至るまで、(六識界総てに)自性は無い。(=六識界無自性)
 聡明博識にも自性は無いし、暗愚無知にも自性は無い。(よって)聡明博識は尽きないし、暗愚無知も尽きない。(また、暗愚無知から順次)老いと死に至るまで、(十二因縁の何れにも)自性は無い。(よって)老いと死に至るまで(十二因縁の何れも)尽きることがない。(=十二因縁無自性)
 「人生の業苦」にも「悪業累積現象」にも「業苦の止滅」にも「業累解脱の諸方法」にも、自性は無い。(=四諦無自性)
 「個人的に経験する働き」にも自性は無いし、(よって)「経験知の個人的獲得」にも自性は無い。
   〔※補足〕−−−「無自性」という専門用語を使わずに訳出する場合は、「無自性」を次の文言に置き換えれば良い。即ち
     
「それ自体単独では、発生する力も存続する力も活動する力も全く無い」 と。
  
<「空中」の「空」が「大日空王主絶対界空無相」の意味の場合>
 シャ−リプトラよ。この故に、
 「大日空王主絶対界空無相」においては−−−
 (個我を形作っている)物質も無いし、感官による印象の感受も無いし、観念思考力も無いし、(生体的・意欲的)造成力も無いし、個体意識も無い。(=五蘊絶無)
 視覚器官も、聴覚器官も、嗅覚器官も、味覚器官も、触覚器官も、意識器官も、無い。  (=六根絶無)
 可視的形象も、音響も、香気・臭気物質も、有味物質も、感触有るものも、「(相対界の)存在や物事や理法」も、無い。(=六境絶無)
 視覚領域も無いし、そこから個体意識の領域に至るまで、(六識界総て)無い。(=六識界絶無)
 聡明博識も無ければ暗愚無知も無い。(また、だからこそ、その反対に相対界レベルでは)聡明博識も尽きないし、暗愚無知も尽きない。
 (また、暗愚無知から順次)老いと死に至るまで、(十二因縁、どれも皆)無い。(また、だからこそ、その反対に相対界レベルでは)老いと死に至るまで(十二因縁、どれも皆)尽きない。(=十二因縁絶無)
 「人生の業苦」も「悪業累積現象」も「業苦止滅」も「業累解脱の諸方法」も、無い。(=四諦絶無)
 「個人的に経験する働き」も無いし、(よって)「経験知の個人的獲得」も無い。
 
(空−七−百七)

<語義解析>
第二部(U)−B

  是故空中(25)
  無色 無受想行識(26)
  無眼耳鼻舌身意(27)  無色声香味触法(28)  無眼界 乃至 無意識界(29)
  無無明 亦無無明尽(30)  乃至無老死 亦無老死尽(31) 
  無苦集滅道(32)   無智亦無得(33)
 
(空−七−百八)

(25) 是故空中

 「この故に、空においては」の意味。
梵語では、「タスマ−チ(それ故)、チャ−リプトラ シュ−ニャタ−ヤ−ム」 とあり、シュ−ニャタ−に「ヤ−ム」という「処格」に変化させる語尾(女性単数処格)がついたもの。「処格」とは「場所」などを表すもので、「〜においては」という意味です。
 
(空−七−百九)

(26) 無色 無受想行識

 この「色」は、文脈上、個我の五蘊の枠内の意味です。(詳細は「語義解析8.五蘊」空−七−五十以下、及び「語義解析13.色」空−七−六九以下)
 「受想行識」については既に解説済です。「語義解析14〜17」(空−七−七二以下)を参照して下さい。
 尚、漢訳版では「無色」で一度切ってから、「受想行識」の前に「無」を一つ付けて、四つををまとめて「否定」しています。
しかし、梵語原文では、一々「無色、無受、無想、無行、無識」としています。このどちらが良いかという問題ですが、般若ヨ−ガの実践に即した文言としては、梵語原文のように具体的に数え上げながら否定して行った方が効果が有ります。よって、(空−七−百六の)「真髄和訳」では梵語原文方式で、一つ一つ否定しています。
 
(空−七−百十)

(27) 無眼耳鼻舌身意

 「眼耳鼻舌身意」を「六根」と言います。「根」はインドリア(感覚器官)の漢訳語です。普通、五官と言うと「眼耳鼻舌と皮膚」を指します。つまり、ここでの「身」は「触感を持つ皮膚を含めた身体」の意味になります。
 この
五官に「意(マナス)」を加えて「六根」とします。「マナス」とは、「マナ(考える)」から出来た言葉で、「知的作用を司る器官」の意味です。
(それぞれに「根」を付けて「眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根」とも言います。)
 問題は、この「意根(マナス)」をどう和訳するかです。
 
岩波文庫版は「心」と和訳しています。
 一方、(空−七−百六の
)「真髄和訳」では−−−<意識器官>−−−と訳出しています。何故なら、「心」と訳すと漠然となり過ぎて、「器官」なのか否か、分からなくなってしまうからです。
〔ここで、
「意識器官」とは何処に有る「何」なのか、問題となります。しかし、小乗仏教当時の分析を忠実に踏襲する必要はないので、現代感覚で「脳、及び、脳に繋がる全身の神経組織」と捉え直せばそれで充分です。「意識作用が働く器官」の意味です。従って、「六識界」の「意(根)(マナス)」は「五蘊の識」より狭い概念と言えます。〕
 
(空−七−百十一)

(28) 無色声香味触法

 「色声香味触法」を「六境」又は「六塵」と言います。「六境」とは、「六根(六つの感覚器官)」が認識・感受する「外的対象物」を指す言葉です。
「色」は「視覚の対象」を指すので、「可視的形象」の意味です。
「声」は「聴覚の対象」を指すので、「音響(全般)」を意味します。
「香」は「嗅覚の対象」を指すので、「におい物質」であり、「香気物質・臭気物質」両方の物質を含む意味です。(全然におわない物質は、嗅覚の対象になりません。)
「味」は「味覚の対象」を指すので、「有味物質」と訳出しました。無味なる物は、味覚の対象にはならないからです。
「触」は「(身体全体の)触覚の対象」を指すので、「感触有るもの」と訳出しました。触覚の対象には「物・者の形象・硬度・温度・湿度・振動・流動・重量」等々、色々あると言えます。
「法」は「マナス(意識器官)の対象の全般」を指すので、「(相対界の)存在・物事・理法」と訳出しました。(「語義解析20.諸法」空−七−九九以下)
 −−−尚、
岩波文庫版では、この一節の「色」を「かたち」、「声」を「声」、「香」を「香り」と訳していますが、この和訳は余りに不正確過ぎて、不適当です。何故なら、「外的な音響や外的なにおい物質」と「(身体の)聴覚器官・臭覚器官」との「出会い」によって初めて「音声や香り」が認識されるわけですから、外的な「六境」(という物状)そのものを指す訳語としては、「声」とか「香り」という言葉はズレているからです。
 
(空−七−百十二)
 また、更に補足すると、ここで「六境」を出して、その自性を否定する趣旨の一つは、次の点、即ち
−−−<人間は「六境の力」の故に「六境」を認識しているのではない>−−−という真理を認識させる点に有ります。
 従って、次のような文章で、般若ヨ−ガを行じても、かなり有効です。
 可視的形象それ自体に、見させる力が有るわけではない。
 音響それ自体に、聞かせる力が有るわけではない。  
 有味物質それ自体に、味を感じさせる力が有るわけではない。
 感触有るものそれ自体に、感触を伝える力が有るわけではない。
 相対界次元の存在や物事や理法それ自体に、それらを認知させる力が有るわけではない。
(空−七−百十三

(29) 無眼界 乃至無意識界

 「六根(眼耳鼻舌身意)」に「識」又は「界(ダ−トゥ)」の語を補足した「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識」を「六識(界)」と言います。
 「界(ダ−トゥ)」には「領域、要素」の意味が有ります。
 「六根」も「六境」も「界」の一つと数えます。よって、「六根」「六境「六根」を
合わせて「十八界」と言います。(「六根・六境」で「十二処」と言います。)
 「乃至(ないし)」は「〜」の意味。「○から△まで」の意味。
 漢訳文と梵語文の両方共、直訳すると−−−
「眼識界も無(自性)」から「意識界も無(自性)」まで−−−という言い方になっています。これを何とか日本語に引き写すと、(空−七−百六の)
「真髄和訳」の通り−−−<視覚領域にも自性は無いし、そこから個体意識の領域に至るまで自性は無い>−−−という表現になります。
 
(空−七−百十四)

(30) 無無明。亦無無明尽

ここから「十二因縁」が1つ1つ出され、順次、否定れさて行く。
「十二因縁説」の解説は、次項(31)を参照のこと 

「無(二義有り)無明」。亦「無 『無明』 尽」。
最初の「無」だけが二義(@無自性 A無い)を含み、他は「明と尽」の単なる否定に過ぎません。
 前述の
「真髄和訳」(空−七−百六)では−−−≪ @暗愚無知にも自性は無い。(よって)暗愚無知も尽きない。A暗愚無知も無い。(但し、と言うか、だからこそ、その反対に相対的な因果界レベルでは)暗愚無知も尽きない≫−−−と訳出しています。
 一般的に言って、キリスト教徒はここに表明されている
「論理」が中々理解できません。何故なら、イエズス・キリストが再臨すると、地上は天国化して浄土となり、暗愚無知(無信仰)は完全に駆逐される、と教会で教えられているからです。しかし、相対界とは、「相反するもの」が存在するから「相対界」なのです。「相反するもの」が少なくなって行くに連れ、「相対界の相対性」も希薄になって行きます。
  
(空−七−百十五)
 さて、「無無明。亦無無明尽」の一番の問題は、
梵語原文との違いです。
 梵語原文には、「無明(アヴィドヤ−)」の反対、即ち「明(ヴィドヤ−)」が入っています。岩波文庫版は、これを括弧書きで和訳して、「(さとりもなければ…/さとりがなくなることもなければ…)」と訳しています。加えて、註四四を付して、「明(…)をここに入れると十三(因縁)になってしまう」「法隆寺梵本その他、我が国の各梵本にこの句があるのは写し誤りであろう」との解説が有ります。
 しかし、「ヴィドヤ−」を入れても「十三因縁」と数える必要は全然有りません。
それに、これは断じて写し誤りではありません。「正しい梵語が正しい位置に入っている」のに、何をどう写し誤ったと言うのでしょう。
 
そもそも、岩波文庫版のように、「ヴィドヤ−」を「さとり」と訳すのが大間違いなのです。確かに、或る意味、「無知」の反対は「さとり」だとも言えるでしょう。しかし、別の角度からの見方も有ります。
 「ヴィ」が「分離」の意味であることは、「五蘊の識」の項で詳しく見た通りです。
 よって
、「ヴィドヤ−」は、「ヴィ」が付く以上、語源からして「無分別智の悟り」は意味しない、と即座に識別できなければ駄目です。ですから、「ヴィドヤ−」は飽く迄も「識別・弁別」レベルの「明」を意味するに留まる、と理解するのが正解です。
 つまり、
「ヴィドヤ−」は「物事に博識になって通暁する聡明さ」を意味します。
 従って
、「真髄和訳」の通り−−−<聡明博識>−−−と訳すのが正しいのです。
 尤も、
聡明博識なエリ−ト学者たちは、ここで「聡明博識」の語を出す事を、恐らく半意識の内に嫌うはずです。長年に渡って「聡明博識」という「正しい訳語」が出て来なかった理由の一端はこんな処にも有るのではないでしょうか。
 聡明博識な仏教学者にとって、「聡明博識」の語をここに挿入することは
「自己否定に繋がる事」なので、おいそれとはできないのではないでしょうか。
 しかしだからこそ
、「すべての慢心」を裁断・粉砕する上で、「聡明博識」の語を入れた方が、真の般若ヨ−ガとしては“効き目が有る”のです!!
 
 
(空−七−百十六)
 この点に関して、次の
典型的な事例を「一つの教訓」として挙げましょう。
 嘗(かつ)て、若くして
臨済宗仏通寺派管長に抜擢された、京都大学文学部哲学科出身の一人の優秀な僧侶が、帝京大学医学部に入学し、「(人も羨む?)誉高き臨済宗一派の管長職」を辞職した事が有ります。(正確には、両立が認められなかったので、管長職の辞任を迫られ、やむなくそうしたという経緯が有ります。)
 彼の志望は
、「医者兼任の僧侶」即ち「僧医」となって「生老病死」に苦悶する衆生に医学的施術をして役立ちたい、という(一応それなりに立派で、世間的・社会的にも受けの良い)ものでした。(よって、彼を金銭的に支援し、暖かく見守る人々も多く居ました。)
 しかし、修行僧、取り分け
禅僧の本道は「プラジュニャ−(究極叡智)」に帰入することではないでしょうか。それを達成しないうちに、「ヴィジュニャ−」レベルの「ヴィドヤ−(博識)」を求めて努力精進する事は、「プラジュニャ−探究」に当てるべき貴重な時間を「ヴィドヤ−獲得の為」に費やす事を意味します。つまり、「将来の覚醒」を大幅に先送りする事を意味します。
 従って、厳しい言い方をすれば、
「博識になる欲望」に負けた故の一時的な「ドロップ・アウト」との評価が下せます。恋人が出来、結婚するために管長職を辞するのと、「遠回りする」という意味では大差ないと言えます。但し、結婚と違い、十年程度の遠回りで収まる可能性は残りますが…。
「釈尊の内弟子」が釈尊に医学を勉強したいと言ったら、釈尊はどう答えるでしょう? 百%確実に、「私が生きている間に寸暇を惜しんで瞑想修行に勤しみなさい、そんな回り道をしている暇がどこにあるのか」と答えたでしょう。近代の聖者シュリ・ラ−マクリシュナの場合も内弟子が医者になる事は許しませんでした。現代の大聖者シュリ・チンモイの場合も同様です。このように、聖者が地上に出現して、特訓する内弟子を採った場合には、どの聖者でも同様の対応になります。「ラ−マクリシュナの福音(全訳版)」日本ヴェ−ダ−ンタ協会 参照〕
 
(空−七−百十七)
 勿論、
複数回の輪廻転生という長いスパンで見るならば、「寄り道・廻り道」も悪いとは言えません。何であれ有効な人生経験になります。また、「真の大乗思想」からすれば、千弁の花を咲かせるために、諸種の才能を伸ばすことは好ましいことだと言えます。
 しかし今は、「寄り道もいいよ」という話をしているのではありません。ジェット機の如きスピ−ドで一直線に悟りに向かう「般若ヨ−ガの行」の実践、即ち
「世智の抛捨の話」をしているのです。
 「プラジュニャ−(本地の叡智)」と「ヴィジュニャ−(識別智)」枠内の「ヴィドヤ−(博識)」、この両者を比較するならば、言うまでもなく「プラジュニャ−」の方が遙かに深くて高くて、重要な叡智です。
(二者択一を迫られた場合は、どちらを取る? という問題です。)
 ですから、数有る仏教宗派の中でも、般若ヨ−ガを厳しく実践して行くために立てられた
「禅宗」、その「管長職を任された者」は、この「叡智の優劣」について的確に弁えて、自ら「本地の大叡智への帰入行」に率先垂範、勇猛果敢にぶつかって行くべき義務が有る、と言えるでしょう。よって、こうした正しい自覚を持たない未熟な者を、間違っても管長に選出してはいけません。これが正しい法です。
 知識欲や名誉欲が強いのか、究極叡智(般若)を渇望する菩提心が強いのか、という問題です。
 
すべてを捨て、最も小さき者になってまでも、飽く迄も究極叡智を求める、という気魄有る勇者こそが禅家では求められるのです。
 −−−以上、一切の慢心、特に「聡明博識になる欲望」を裁断して、「最も小さき者」となり、「無産者・無一物」となって修行するためにも、般若心経では、日本に伝わる梵語原文通りに、「ヴィドヤ−とアヴィドヤ−」を「聡明博識と暗愚無知」ときっちり対比的に和訳して並べ、それらをきっぱりと「否定(二義)」して行く修行法を採ることが推奨されるべきです。
 
(空−七−百十八)
 次に、
「ヴィドヤ−」の語が有ると「十三因縁」になってしまって不適切、という見解は正しいか、検討してみましょう。
 「聡明博識」の反対は「暗愚無知」です。
両者共「個体意識(ヴィジュニャ−ナ)」のレベルで生じるものです。「ヴィジュニャ−ナ」については、既に「五蘊の識」の項で詳しく検討済です。そして、「ヴィジュニャ−ナ」は「十二因縁」の第三支に当たります。
 以上から、梵語の般若心経に、「ヴィドヤ−(聡明博識)」の語が「アヴィドヤ−(暗愚無知)」と共に記されているのは、
第三支以下を省略するに当たって、「十二因縁は皆、ヴィジュニャ−ナ・レベルの事柄である」点を強調しようとしたからに他ならない、と理解すべきです。
 つまり、小乗の教義である「十二因縁」をそのまま無批判に受け入れることなく、その本質を看破した者が「正しい大乗的見解」の立場から、若干の注記・補正をした方が良いとの判断で「ヴィドヤ−(聡明博識)」の語を入れた、と見るべきです。(詳細は次項)
 従って、「十三因縁」と数えるならば、
そう数える方が悪い、というのが結論です。
(尚、「聡明博識」の語の
代わりに「開悟」の語を入れても意味は通じます。しかし、この場合は、「十二因縁+1」になってしまう、という点も押さえておきましょう。)
 
(空−七−百十九)

(31) 乃至無老死。亦無老死尽

 乃至は「〜」の意味です。「無知から老死まで」が「無」(無自性/無い)であり、また、「無知から老死まで」尽きることもない、という意味。
 「無知から老死まで」を「十二因縁」と言います。
十二因縁の各支は次の通りです。
1.無明 −−− (暗愚なる無知のこと。後の「部派仏教」最大勢力であった「説一切有部」は、これを「過去世の総ての煩悩を一括して指すもの」としました。つまり、輪廻転生の輪の中では、第十支以下を一括して「無明」と位置付けたのです。)
 
2.行−−− (無明を基盤・素材にして働く「一種の造化力」のこと。)
 
3.識−−− (無明に基づく行によって形成される「個体意識」のこと。「説一切有部」は、こ れを「受胎の一念」と位置付けました。しかし、受胎する前の霊界でも「個体意識」は持っているものです。「語義解析17.識」参照)
 
4.名色−−−(名色は「形態」の意味。「説一切有部」は、胎児としての形態を持つこと、と位置付けました。)
 
5.六入−−−(「六根」と同じ意味。「眼耳鼻舌身意」です。「説一切有部」は胎児が育って来 ると、六つの感覚器官が出来上がって来る、と位置付けました。)
 
6.触−−−(五官が外的対象物と「接触」することで、外界を知覚すること。「説一切有部」は、「触」を二〜三歳までの赤ちゃんの状態と位置付け、この状態では、まだ苦楽は区別できない、と考えました。けれども、実際には「苦楽」の区別が有るから「泣き笑い」するのです。尤も、認知の順序としては、苦楽の区別以前に、単なる外界の知覚があるとするのは正しい洞察と言えます。)
 
7.受−−− (感官による印象の感受、「快/不快」の感受を意味します。「触」の後、反射的・生理的に、苦又は楽という印象や、好き嫌いの印象を受けることです。「説一切有部」は、この状態を六〜七歳の子供の段階、と位置付けました。)
 
8.愛−−− (「受」で「快・不快」を区別すると、次に「苦・不快」を避けて「楽・快」を追求したいという個人的な愛着・欲望が明確化して来ます。その愛着・欲望の事。「説一切有部」はこの状態を十四〜五歳以降の大人の段階と位置付けました。)
 
9.取−−− (愛着するものに対して、強く執着すること。)
 
10.有−−− (この地上で自己存在が有る事。それも「愛・取」の生活、即ち「悪業累積生活」です。よって、「業苦有るライフ」です。)
 
11.生−−− (生まれる事。「説一切有部」では「次の転生」を意味します。それも「悪業累積生活」の末の転生なので、再び「業苦有るライフ」が繰り返される事になります。「説一切有部」的解釈を採らない場合には、10「有」という生活の中で、夫婦が赤ん坊を「生む」ことで、地上の人類が存続して行く、という意味にも解釈できます。)
 
12.老死−−−(老いる事と死ぬ事。「説一切有部」では「次の輪廻転生」の「業苦有るライフ」で、再び「老いと死」がやって来る事と解釈する。つまり、「老死」は「悪業累積生活の応報」と位置付けられています。「説一切有部」的解釈を採らない場合でも、生まれてから老いて死ぬという連鎖で理解することになります。) 
 
 
(空−七−百二十)
(注意)−−−釈尊入滅後、仏教教義は徐々に体系化されて行きますが、釈尊自身は「十二因縁」を体系立てて説くことはありませんでした。最初、各支は個別バラバラに説かれていたのです。
 後に部派仏教最大派閥「説一切有部」が「十二因縁」を「三世両重の因果」と位置付けました。「三世」とは「現在・過去・未来」のこと。「両重」とは「三世」それぞれが「結果であると同時に原因でもある」という二重の機能を持っていることです。即ち、「現在」は「@過去の結果」であると同時に「A未来の原因」でもあります。「他の二世」もこれと同じです。
 こうした
「説一切有部」の「十二因縁・三世両重」説を「不動・絶対」の真理と思ってはなりません。
 
そもそも、釈尊が説いた「無知」という言葉に、「説一切有部」の「三世両重」説のような意味が有ったわけではない、と見るべきです。むしろ釈尊は「四源罪」の「@根本過失」(前篇第四章参照)の意味で「無知」と言ったと見るべきです。(何故なら「根本過失」である「根本の偶像礼拝」を消すと、「無知」も完全に消えるからです。)
 「十二因縁説」では「無知」が出発点になっています。そして、多くの仏教徒がこれを(判断停止のまま)真に受けているのが現状です。
 しかし、真剣に熟慮し、真摯に脚下照顧するならば
、「無知」は「個体意識」の一形態であると分かるでしょう。これはまことに簡単な道理です。
 「個体意識」無しに「無知」も無し。
逆に、「大日空王主の道具となった我=具我」(真我瞑想実践スートラ「真−25−10」参照)のように、「個体意識」有っても「無知」が無い事は有り得ます。
しかし、「無知」有る時に「個体意識」が無いことは有りえません。
 ところで、「個体意識」を有らしめる「行(造化力)」の方が(因果の順番としては)先だと言えます。また、この「行(造化力)」よりも「大日空王主の本地の意識(純粋普遍識)」の方が先だと言えます。
 このように、存在論的な因果を遡れば、他の支が隠されています。この点が忘れられているという認識を持つことが大切です。それが分かれば、「輪廻転生思想」の中では、十二因縁説は、「消滅させるべき循環」として、無知を頭支にして分析された見解、だと正しく把握できます。
−−−注意、終わり
 
(空−七−百二十一)

(32) 無苦集滅道

 「苦集滅道」を四諦(又は四聖諦)と言います。釈尊の「初転法輪(最初の説法)」以来、脈々と伝承された来た「仏教の根本教説」です。(諦は真理の意味)
 
★「苦諦」とは−−−「無知に基づく生存は苦しみに他ならないという真理」を指す言葉
です。
 人間は「真我と個我の混成体」なので、「真我(広大な無辺な意識)」を希求する「意識」が心の奥底からいつか必ず湧き上がって来ます。「無知」のまま真我とダルマを踏みにじって肉欲の生活を続ければ因果律の故に「罰としての受苦」を免れることはできません。
 「無知」は「苦しみをもたらす原因」です。何故なら、無知に基づく業深き
思念活動と、それに基づく業深き「言語活動や身体活動」、これら「三輪(身口意)の悪業」は皆、無知を基盤にした営為だからです。覚醒・正覚を求める者にとっては「無知それ自体が苦」だとさえ言えます。
 こうした事を全部引っくるめて「苦諦」と呼びます。
 よって、(空−七−百六の
)「真髄和訳」では−−−<人生の業苦>−−−と訳出しています。
 
★「集諦」とは−−−「無知なる生存」が産出する「悪業」は全部「集めて記録」され「累積して行く」という「ダルマ(主の法)の真理」を指す言葉
です。
 大日空王主の中で展開した事は、大日空王主の中に
記録されます。主が「メモリ−消去」の作業を行わない限り、その記録が消えることはありません。
 故に、
作った悪業は借金に喩えられます。借金が累積すると恐ろしい借金取りがやって来ます。これと同様に、悪業が累積すると「恐ろしい苦厄」がその人の身に巡って来ます。
 よって、「集諦」を
「真髄和訳」では−−−<悪業累積現象>−−−と訳出しました。
 
★「滅諦」とは−−−「人生の業苦(=苦諦)」も「悪業累積現象(=集諦)」も「滅する」ことが可能である、という真理を指す言葉
です。
 もしも、「滅することができない」ならば「救い」はない、と言えます。これでは、人生は悲劇となるばかりです。しかし、実際はそうではなく、
「出口は有る」のです。
 「出口」に向かって歩み、遂に「苦と集」から解脱できた場合、それが「涅槃寂静」(平安・安息)の地(境地)です。
 
(空−七−百二十二)
 
ここで、「滅諦」を表す「滅(ニロ−ダ)」は「止滅」の意味か、「制御」の意味か、が問題になります。
 チベット語では「ニロ−ダ」を「制する」と訳しています。
その上、古くはニロ−ダにも「制する」という意味が有りました。以上の点から、「ニロ−ダ」は「制諦」の事だと理解すべき、というの意見も有ります。この解釈は、「人間の弱さ」に配慮した見解であり、穏当な意見と言えないこともありません。
 確かに、中根・下根の未熟者が、狂信的に自分の煩悩を「完全に滅却」しようとして、限度を越えた「暗黒の苦行」に身を投じるが如き「異常に極端な修行」は、過去の歴史の中で度々起こった事です。その意味では、「ニロ−ダは滅諦ではなく制諦の意味」と教えて、修行の中道を説くことも
「それなりに有意義なアプロ−チ」と言えないこともありません。
 しかし、
「制御」だけでは「真の救い」は無い、と言えます。「制御」が正しく徹底されれば「煩悩の滅却」に到るはずです。「悪業の滅却」無しに、解脱は有り得ません。
 例えば、「邪気」を例に見てみましょう。
 「邪気を制する」、これだけで良いでしょうか。否、否、否。邪気は完全に止滅すべきものです
。邪気を滅したとしても死亡する者は一人もいません。
 健全な形での「邪気の滅却」は、益々、身心を健全・壮健にするのみです。何故なら、聖気で満ち溢れるからです。

 そして、「完全な邪気の滅却」というゴ−ルに入るには、「一時的な邪気の滅却」の「一時性」を徐々に延長して行けば良い、と言えます。ところが「制御」の名の下に“一時も”「邪気の滅却」に成功しないならば、その人は結局、「邪気」を制御しているとは言えません。
 これで分かる通り
、−−−飽く迄も「ニロ−ダ」を「止滅」の意味に取りつつ、実践面では<一時的滅却の段階的延長>という「修行の中道」を教えるのが正道だ−−−と言えます。
 よって、「滅諦」を
「真髄和訳」では−−−<業苦の止滅>(業苦が止滅すること、の意味)−−−と訳出しています。
 
(空−七−百二十三)
★「道諦」とは−−−「苦や集」を「滅する(という出口=救い)」に到る「具体的な道程・方法たる真理」を指す言葉です。
 一般には
「八正道」(大乗では六波羅蜜多行)が提示されますが、一言で言えば、「(煩悩滅却の)道」とは「三輪(身口意)の正業」(正しいカルマ=正しい営為)を追求して行く事だと言えます。
 
「三輪の正業」を追求して行くと、やがて「滅業」に到り、「超業」(個我独自の営為を超越・解脱する)」に到ります。
 すると、やがて「苦・集」も消滅します。
 よって、(空−七−百六の)
「真髄和訳」では−−−<業累解脱の諸方法>−−−と訳出しています。業累とは累積した悪業の意味です)
 
(空−七−百二十四)
 以上、般若心経が「四諦」を否定する主旨は、「苦集滅道」がどれも「相対界レベルの事象」に過ぎない、という事をここではっきりさせる点に有ります。「相対界レベルの事象」だからこそ
、所詮「苦集滅道」は無自性の現象であり、尚且つ、大日空王主絶対界空無相にあって、それらは「無い」のです。故に、ニルヴィカルパ・サマディ−(前篇第五章参照)に没入すると、そこは「苦集滅道」の全く存在しない世界となります。それが「入定世界」の光景です。「彼岸に到達した者は筏(=業累解脱の諸方法)を捨てる」と言われるのはこの事です。
 しかし、意識が相対界レベルに下がって来た時には、相対界世界が有り、世俗諦が有ります。この点を忘れてはなりません。というのも、「無苦集滅道」の内、取分け「無道」という一句を取り出して、
とても下賤な意味で「道など無い」とか「是非/善悪 などを越えよ」などと偉そうに説法する生臭坊主や生臭信徒は、いつの時代にもボウフラのように涌き出て来るからです。
 「無道」の一句を低俗下劣な意味で援用する人は、必ずこれを「エクスキュ−ズ」にして戒律などの世俗諦を踏み躪(にじ)り、賊我の赴くまま、
好き勝手な「無軌道」を仕出かします。(世俗諦もまた、大日空王主の相対界変化相に他ならない、と心経は教えているはずです。)
 まことに、世俗諦を無視して踏み躪り、穢すのはおぞましい行為です。「無道」の一句を間違った形で振り回す者は「外道」であり、心経に無知なる者でしかありません。
 
(空−七−百二十五)

(33) 無智亦無得

 「智も無く、また得も無い」という意味です。この「無」は二義を含んでいる「無」です。「智」はジュニャ−ナムの漢訳です。ここでは「知る働き」を意味します。但し、「大日空王主の知る働き」を指すのではありません。この点、要注意です。
 「否定の剣」を振り回し過ぎて「自性有る存在」まで否定すると「方広道人」(前篇第三章第四節)に堕してしまいます。般若心経は、飽く迄も「個体的レベルの無自性存在」だけを一切合切裁断して行く手法です。よって、
この区別を明確に示した訳語が必要です。
 「大日空王主」は「相対性」を超越していますが、だからと言って「経験作用」が無いわけではありません。主は無自性存在を無限に生み出しつつ、そうした
「遊戯(リ−ラ)」の中で、多様な経験を享受しておられます。
 よって、(空−七−百六の)
「真髄和訳」では−−−<個人的に経験する働き>−−−と訳出しています。
 
 
「得」はプラ−プティフの漢訳です。プラ−プティヒは「達成・獲得」という意味です。しかし、前後の文脈からすると、「無智亦無得」で「一対」と見るべきです。
 故に、
この「得」は、一般的な意味(広義)の「獲得」ではなく−−−<「智」に関する、その「得」>−−−と解すべきです。
 ところで、「智」で触れた通り、「大日空王主」は多様な経験を享受しておられるので、それに基づいて「多様な経験知」も同時的に蓄積し、(主は相対的時間を超越しておられますが、≪無基準の時間≫の中で、時々刻々)自らの状態を変化させ、主は成長しておられます。そうして、変化前の状態の「経験知」を、連続的に越えて行く「自己超越のリ−ラ」を楽しんでおられるのです。
 故に
、「主の経験知」と「人間の個人レベルの経験知」も峻別しなければなりません。
 よって、(空−七−百六の
)「真髄和訳」では−−−<経験知の個人的獲得>−−−と訳出しています。
 
(以上で 「心経の第二部」 全部の解説を終了します)



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このページの最終更新日 2005/2/28

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