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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第18章(第3段階)世界を構成する四要素を看破するNew!

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第十八章 ブッディ・ヨーガの第3段階
     〜〜〜「世界を構成する四要素」を看破する〜〜〜   
 
 
(真−18−1)
【第三段階】 「世界を構成する四要素」を看破する
 
 脚下照顧に勤しみ(第一段階)、「二つの我」(=真我と個我)について洞察した(第二段階)ならば、次は「何が善で、何が悪なのか(善悪の本質と定義)」「人間の根本的性質としては、性善説と性悪説ではどちらが正しいか」などについて深く洞察し、正しく見切れるようになる必要が有る。
 「個人的な善悪の発生原理」(第四段階)について解析する前に、より根源的な問題として、現前する「世界全体の諸現象」について、(「真我と個我の関係」について脚下照顧することを通して)大局的・鳥瞰的に洞察して行くのである。

 
(真−18−2)
 もし仮に、「真我=絶対界」だけしか存在しなかったならば、どうであろうか。
 この時には、悪も罪も不幸も悲惨も発生する余地は全くない。何故なら、相対界が存在しなければ、相対的事象(の範疇)である悪も罪も不幸も悲惨も有り得ないからである。
 相対界が無い場合−−−<無形の絶対実在だけが在って在る>−−−という、人間の想像を遙かに絶した世界だけが在ることになる。この状態では相対界が無いのだから、相対的区別もなく、物質的生起もない。この状態がどのようなものなのか、人間の浅知恵で理解することは不可能である。又、それを言語で正しく表現することも不可能である。但し、それについて、便宜上、適当な名称を付与することだけはできる。
 ヒンドゥ−教徒はこれを梵語で「アカシャ(=空間)(の如き存在)」と呼び、漢字文化圏の仏教徒はその梵語を訳して「虚空」と言った。また、中国では、万物の根源を「太極」と呼んだり「無」と呼んだりした。
(また、この状態を「不生の絶対心だけがある」と表現することもできる。これこそ「真の唯心」である。空−1−1以下)

 
(真−18−3)
 しかし、この状態だけでは満足できない「真我(=絶対我)」は、自己の無限の深遠性と多様性を段階的に明らかにして楽しむために−−−(密教で言う「自受法楽」。「大日経」等々参照)−−−自己を相対的な形で表現しようと意志し、「自性」を具備した自らの能力に基づき、自己の無限の創造力を発揮する。これにより、広大無辺にして「無自性」なる「相対界」が無限に生起する。そうして絶対界と相対界の区別が生じて来る。
 真我(=絶対我)そのものである絶対界は、時間と空間を超越した(人間の想像を絶した)状態で存在する。一方、相対界は、時間と空間と共に有り、その限定枠の中で、一定の法則に従いながら存在する。
 大乗仏教では、この絶対界と相対界の区別を−−−
<勝義諦と世俗諦>〔※註1〕−−−という言葉で表現する。
勝義諦(第一義諦とも言う)は絶対的真理(真実)を意味し、
世俗諦は相対的真理(真実)を意味する。

 
(真−18−4)
〔※註1−−−「諦」は「真理/真実」の意味である。仏教には「空仮中の三諦」とか「苦集滅道の四諦」などの用例が有る。また、「勝義」の「勝」は「すべてにまさっている」ことを表し、「義」は「意義・内実」を表すので、「勝義」で「至上の意味内実」という意味になる。「勝義諦」は「真如」「実相」などの言葉と同義と解して良い。
 よって、「勝義諦」とは 「最高の真理=究極の真理=絶対真理=至上の真実=絶対真実=究極の実相=最高叡智」即ち、世俗を超越した「究極至上の真実在」を指す言葉である。


(真−18−5)
 一方、「世俗諦」の「世俗」は、俗界・世間の意味である。よって、「世俗諦」は、俗界における「真理/真実」の意味になる。しかし、これでは非常に漠然としていて、その内実が掴めない。もう少し明確に概念範囲を確定する必要が有る。
 仏教(密教を含む)の中で、世俗諦という言葉の用例を見ると、最狭義から最広義まで、主に三種の意味で使用されている。
 最狭義の世俗諦は、釈尊の説法が言語化されたものを指す。具体的には「原始仏教経典」だけを「世俗諦」と言う。また、釈尊只一人の御言葉に限定せず、これをもう少し広げて「諸仏・諸如来の御言葉」も「真理の言葉」であるから「世俗諦」に含む、とする解釈も有る。
 このように、少し広げた意味の「世俗諦」の場合には、「原始仏典」のみならず、「大乗仏典・密教経典」も世俗諦に含まれることになる。


(真−18−6)
 以上が、特定宗教としての仏教の道を行く洞察の浅い仏教徒の「世俗諦」の解釈である。
 彼らは、「世俗諦」をこれ以上広義に解することができない。何故なら、彼らからすると、「世俗諦」という概念自体が仏教独自のものである以上、世俗諦の概念範囲は仏教教義に限らる、と言わなければならず、よって、他の宗教の教義などは世俗諦に含まれない、という思考になる。
 しかし、特定宗教の枠組みを超越した「真の絶大乗仏教徒」になると、「世俗諦」をもっと遙に広い意味に解する。
 例えば、ナ−ガアルジュナ(龍樹)は、その著書「中論」で「諸仏の説法は二諦に依る。即ち、勝義諦と世俗諦である」(第八偈)と説き、そうして、真理の在り方の二態様、即ち「真理の絶対的存在様式と真理の相対的存在様式」について指摘している。


(真−18−7)
 ナ−ガアルジュナのこの見解は、偏見の無い最広義の世俗諦の解釈である。これに依れば、「世俗諦」概念は「真理の相対的な存在態様の総て」を指すことになる。
 そうすると、記号による「真」なる命題表現は全部「世俗諦」ということになり、仏教のみならず、他の諸宗教の教義であっても、それが「真なる命題」「真なる当為」の表現であれば、それらは総て世俗諦に含まれることになる。そればかりか、科学的・学術的発見による「真なる命題」も総て世俗諦に含まれることになる。また、宗教以外の一般的な社会的法規範の中でも、霊的法則に合致した法規は、総て世俗諦に含まれることになる。
 このように解すると、「世俗諦」概念は、一気に超宗教的なものになり、総ての真なる「命題・言説・規範」を指すことになる。


(真−18−8)
 これだけではない。「最広義の世俗諦概念」からすると、「相対界の真理/真実」は総て含まれることになる。これはどういうことか。
 「相対界に生起する現象」を総て「自性の無いもの」と観て、それらは「常恒ではない無常なるもの」であり、よって「仮象・仮名(けみょう)」に過ぎないと観想する。
 すると、相対界の中の「存在物や諸現象」はどれも「一種の記号」と見ることができる。
 このように観ると、相対界の「諸法」は、総て「相対的真実」を表す「真なる記号」であるという理解になる。
 従って、「真なる記号」としての「相対界の真理/真実」は総て「世俗諦」に含まれる、ということになる。


(真−18−9)
 このように、「世俗諦」を「最広義」に解する場合、「諦」は「真理」の意味から「真実」の意味へと暗黙のうちにシフトしている。「諦」を「真理」よりも広義の概念である「真実」即ち「相対界のリアリティ−」として捉えているのである。
 但し、この場合でも、「諦」を「真実」から「虚偽・虚妄・迷妄」の意味にまで広げることは許されない。この点は注意を要する。(「偽なるもの」については「真−18−21」)
 空海は、密教の立場から「声字実相義」で、相対界の存在物と諸現象を一種の記号(=音声と文字)と見る見解を取っているので、最広義の世俗諦を認容する立場である。
 尚、密教の立場では、唯一絶対の大日如来を想定するので、如何なる真理(真実)であれ、真理(真実)であればそれは唯一絶対の大日如来の言葉(又は自己表現)と見る。よって、たとえ世俗諦を大日如来の言葉だけに限定する立場を採ったとしても、世俗諦には、全宗教・全科学・全法規範の真なる言説総てが含まれ、それはかりか相対界の存在物と「真」なる現象が総て含まれる、と解しても、全然無理のない解釈となる。


(真−18−10)
 また、チャンドラキ−ルティ(月称)も、自著「入中論」の「自注」で、「総てのもの(=諸法)の二種類の本質が示された。世俗(諦)と勝義(諦)である」として、壺や布切れ等の物質的存在(=諸法)は、世俗諦としての側面を持つ、と解しているので、最広義の世俗諦を認容する立場である。
 その他、「学集論」「父子合集経」に「知識の対象は世俗諦と勝義諦に尽きる」とあるし、「聖説真実三昧経」に「世俗(諦)と勝義(諦)であり、第三の諦は全く無い」とある。これらの立場からは、世俗諦を最広義に解する外ない。
 尚、世俗諦は、狭義に解しても、広義に解しても、所詮相対界に属するものである。
 それ故、相対界自体には「自性が無い」と洞察し、相対界を生起と消滅を繰り返す無常なものと見れば−−−<「無常相対界=仮象相対界=記号的表現世界=諸法=世俗諦」は全部『戯論』に過ぎない>−−−と一刀両断、否定する見方も可能である。この見方は、勝義諦のみを追究する般若ヨ−ガの一つの手法である。しかし、この手法を愚か者が闇雲に使うと、手加減無しに否定の剣を振り回し過ぎることになり、大いなる弊害が生じて来る。詳細は、真−18−12「註2」
 −−−以上で「勝義諦・世俗諦」の註を閉じる。〕〕〕
 
 
(真−18−11)
 そもそも、相対界はそれ自体単独で発生したものではない。
 「自性の有るもの(=絶対我)」がそれを生起させ、それを支えているからこそ、相対界として存続している(詳細は四−二−一以下)。
 つまり、「自性の有るもの(真我)」が相対界の諸法を維持することを止めたならば、それらは消滅する。それ故に、相対界は総て無常である。この無常なる相対界は「絶対界」無しには存在できない。
 これで分かる通り、「相対界は絶対界との混成体」なのである。これが「万物万象は真と非真の混成体」(真−7−16以下)ということのマクロ的意味である。〔※註2〕
 絶対界(=真)と相対界(=非真)の両界は、密接不可分の関係にある。
 両界の相互関係については、既に「五つの譬え」を使用した。即ち、第一は「金と金細工の譬え」、第二は「氷と氷の彫刻の譬え」、第三は「大海原の深海とその表面の波立ちの譬え」、第四は「映写機とスクリ−ン上の映像の譬え」、第五は「未来型立体映写機と空間上の立体映像の譬え」である。(真−7−16以下)       

 
(真−18−12)
〔※註2−−−絶対界は「真」でしか有り得ない。それとの対比では、相対界は「非真」ということになる。すると当然、「世俗諦も非真(=戯論)」ということになってしまう。
 それ故、一部の高慢で軽薄な仏教徒は「釈尊の教えの真髄は勝義諦の方に有る」と主張して、「勝義諦」だけを重視して「世俗諦を軽視する」愚を犯してしまう。
 中には(世俗諦という名称の故に)「世俗からの超脱こそが仏教なり」と思い込み、「世俗諦である相対的真理」を完全に無視する愚挙に出る外道の輩まで出現してしまう。
 超宗教の中道を志す者は、こうした過誤に陥らないよう、知恵とバランス感覚を良く働かせて、相対的真理(相対的真実)を「真」として認めて行く見方の重要性について、深く自覚しなければならない。詳細は、真−18−31以下  〕〕〕
 
 
(真−18−13)
 ここで注意すべき点は、絶対界と相対界の関係を「真と非真の混成体」と表現した場合、この二分法を、恰も「羊羹を二分する」ような切り分けで理解してはならない、ということである。(物質的思考パタ−ンに毒された人々は、どうしても単純な物質的切り分けで物事を考えてしまう過誤に陥ってしまう。)
 世界の実相を深く洞察すると、次のことが見えて来る。即ち−−−
 
      相対界の相対性には、浅深濃淡の差異が有る。
 
 −−−これが法である。
 よって、絶対界と相対界の区分を「国境線」の如く単純に二分して線引きすることは不可能であるし、大間違いである。〔※註3〕
 絶対界から投射され生起した相対界は、希薄な相対性から明白な物質的相対性へと多層的・多重的に変移している。これが実相である。つまり、絶対界に近づけば近づくほど、相対界の相対性が希薄になって普遍性が増大して行き、それに比例して相対的な区別もぼやけて曖昧になって行く。(このことは、宇宙物理学における「全宇宙の大統一理論」にも当て嵌まることである。)

 
(真−18−14)
〔註3−−−絶対界と相対界の境界線を国境線の如く単純に二分して「両者の間には透明な膜みたいものがある」などと分かったような口を叩く慢心者が、いつの時代にも存在する。
 特に、チベット系の修行者が陥り易いのだが、次のような事が言いたくなるものである。即ち、「自分は幽体離脱をして霊界トリップができるので、そうして高い霊界に行った時、<時間の存在する側と時間の存在しない世界との境界線>に突き当たった。そこは『膜』のようなものがあり、その膜の向こうは<無時間の世界>であった」と。「これは実体験だから間違いない。霊界トリップできない者に分かるものか」と強弁するのである。
 しかし、そもそも、「相対的存在物」は皆「無自性」であり、「時間」も当然「無自性」であり、「無自性世界」をトリップしていたら「自性世界」に入る「膜」が有った、という体験は「虚妄」に過ぎない。ナ−ガアルジュナも「空七十論」の「第八(章)」で「時間」の自性を否定している。


(真−18−15)
 まことに、チベット系の教えには、特に注意が必要である。長い歴史の中で、「インチキな俗説」が多量に生み出され、その宗教的な腐敗・堕落は天に届くほどになって、身動きが取れなくなってしまった歴史が有るからである。(その邪説を濾過・浄化・取捨選択・修正できるほどの仏僧はほんの僅かしかいなかった。健全な懐疑精神の重要性。真−11−19、20) チベットの修行法の一端を伝える『虹の階梯』(ラマ・ケツン・サンポ+中沢新一共著、平河出版社)には、「聖者は生き物を殺して、より高い霊界環境に移してやることができる力が備わっているから、聖者は救いのために殺生することもある」旨の教えが載っている。隠れ聖者ティロ−パが魚を焼いて食べている時の理由付けがそれである。こうしたおぞましき俗説、与太話が「正説」として説かれているのである。(146頁)(これを真顔で説く者の愚)
 勿論、真の聖者はそんなことはしない。しかし、この俗説の細菌に感染(感心)した悪人がこれを「金剛乗のポアの奥義」と位置付け直して教義化すれば、オウム真理教による「無差別殺人テロ」の「地下鉄サリン事件」も「聖者の凡人救済行為としてのポア」として教義上正当化され、弟子たちを説得する一つの「パン種」になる。(実際に多数の死傷者を出した)
 よって、まことに、こうした邪説、即ち「チベット培養細菌」を正説として「注意・警告」もなしに「濾過・浄化・殺菌」もすることなく、「悪性の細菌入りのチベット産の教えの水」を日本に持ち込んだ(無神経な)二人の媒介者も、咎が無いとは到底言えない。〕〕
 
 
(真−18−16)
 以上のように、(絶対界・相対界)両界を「相対性に濃淡の有る(玉葱の皮のような)多層構造」だと観る「正しい中観」の視座からすると、当然、「勝義諦と世俗諦」という仏教の二分法も、国境線を引くような単純な物質的二分法で理解してはならないことになる。
 つまり−−−<「世俗諦」である「諸法」の「相対性」が希薄になって行くその極北に「勝義諦」が有るので、「世俗諦と勝義諦」は繋がっていて不可分である。また、それ故に、世俗諦は勝義諦の「相対的表現」であり「相対的身体」である>−−−このように認識しなければならない。(こう正しく認識する者は、「世俗諦」を軽視する愚挙に出ることはない。)

 
(真−18−17)
 ところで、「勝義諦(絶対界)/世俗諦(相対界)」という二分法は、「静態的な存在論」として出て来たものである。よって、どうしても、「勝義諦・世俗諦」共に「そこに停止している存在」と観(み)勝ちである。
 しかし、そもそも「存在物」がそこに「その存在を保持している」のは、或る種の「働き=営為」が機能しているからこそ、の事である。例えば、物質は引力や核力等々の諸力によって、その原子や分子を集合させているのであり、それらの諸力が無くなれば、分散・消滅してしまう。
 「勝義諦・世俗諦」も、これと同様である。
 「荘厳なる無為」という「活動」が有ってこそ、「勝義諦・世俗諦」も、それとして存在できるのである。
 こうした点を洞察すると−−−<絶対界(勝義諦)にも動きが有る>−−−ことが明らかになる。(「真−25−20、21」参照)
 そうすると、(従来の仏教・密教では見落とされていた事だが)そもそも「荘厳なる無為」は、勝義諦と世俗諦のどちらに属するものなのか、問題となる。
 −−−この答えは至極単純である。即ち、「荘厳なる無為」には、勝義諦に属するものと世俗諦に属するもの、この二種類が有ると、在りのままに見るしかない。
 即ち、「荘厳なる無為」は両者(両界)に股がっているのである。絶対界(勝義諦)と相対界(世俗諦)の両界の間を「地続きで」(真−11−15)跨(また)いでいる「営為」なのである。

 
(真−18−18)
 こうした深い霊的ヴィジョンに到達すると、従来の「勝義諦・世俗諦」という二分法に加えて、もう一つの「諦」を立てる必要が出て来る。
 そこで超宗教的見地から、「両界」地続きの「荘厳なる無為」を−−−
<営々無為諦>−−−と名付け(本講独自の造語)、これを「第三諦」として立てることにする。
 そうすると、こう言える。
 第一に、超宗教の中道は「営々無為諦」一本を洞察礼拝する道であり、第二に、「営々無為諦」が勝義諦・世俗諦の双方と「地続き」であるが故に、「営々無為諦」一本を洞察礼拝するだけで、物質的な相対的区別の視点を漸次超越して行くことができ、絶対界(勝義諦)をも認識することができるようになり、同時に、相対界の万物万象(諸法)の本質にも通暁することができ、結果、全宗教にも通暁することができるようになるのである、と。〔※註4)

 
(真−18−19)
〔※註4−−−「勝義諦・世俗諦・営々無為諦」の「三諦」を立てる超宗教の深遠な霊的ヴィジョンに依ると、キリスト教の三位一体「父と子と聖霊」についても、容易にその真義が理解できるようになる。
 即ち、「父が勝義諦、子が世俗諦、聖霊(の働き)が営々無為諦に当たる」と。
 視野の狭い伝統的なキリスト者は、こうした解釈を聞くと、跳び上がって驚いてしまう。しし、驚くのは物質的思考法に毒されているからに過ぎない。
 ここでのポイントは「独り子」の解釈にある。肉体身の「イエズス」だけが「独り子」なのか、という問題である。
 たとえ伝統的なキリスト者であっても、本講によって「自性・無自性」概念について深く学び、理解するに到るならば、「子」の解釈についても、自然に眼が開けて来るであろう。真−25−17、空−5−11、18以下 〕〕〕

 
(真−18−20)
 さて、「人間は真我と個我の混成体」であるが、真我と個我の切り分けについても、国境線を引くが如き二分法で考えてはならない。諸法は絶対界と相対界の混成体であり、その相対性には浅深濃淡の差異が有る。よって、これを真我と個我にも当て嵌めて考えると−−−
<個我の相対性にも浅深濃淡の差異が有る>−−−と分かる。
 この認識は個我を理解する上で極めて重要である。
 ヒンドゥ−教の中には、人間は「五つのコサ(=鞘)」で出来ている、と説く見解が有る。この説をそのまま受け入れても良いし、或いは、個我の構造を玉葱のような多層体とイメ−ジしても大過ない。

 
(真−18−21)
 加えて、「個我」を理解する上で重要な事がもう一つ有る。
 それは「個我というスペ−ス(場)の特殊性」である。
 「荘厳なる無為」の強大無比な力は、一方的に人間の「有為」を綺麗さっぱり押し流し、洗い流すこともできる。しかし、「無為」はそれをしない。即ち、人間には「一定の範囲内」で「有為」を働かせる自由があり、そうした「場」が枠付けられている。(真−12−21)
 つまり、「個我」は「真我」に随順する「営為」をすることもできる一方、逆に、(一定範囲内という限定付きであるが)「真我」に違背する「営為」も為すことができる。
 この「個我が為す<真我に違背する動き>」を本講では−−−
<個我自家性の動き>−−−と称することにする。
 まさに、個我が真我の動きに違背して別に行なう「個我独自の動き」を指す言葉である。それに、このように称すると、「自家中毒」という病気を連想する点でも好ましい。「個我自家性の動き」は霊的に見ると、一種の「自家中毒」のようなものだからである。

 
(真−18−22)
 すると、こう言える。即ち−−−「人間は一定範囲内で『個我自家性の動き』が許されている関係上、(相対界レベルでの)『偽なるもの』の生産が可能なのである」−−−と。
ことである。
 ところで、そもそも、本章「註1」(真−18−4以下)で指摘した通り、「世俗諦」の概念範囲は、飽く迄も「相対界レベルでの真なるもの」に限定される。
 世俗諦に「俗」という言葉が入っているからと言って、地上の人間世界の醜悪なる「俗事全般」が総て含まれるわけでは決してない。この点は特に注意を要する。
 では、(世俗諦と対比されるべき)「人間が生み出す相対界レベルでの<偽なるもの>」は何と呼べば良いのか、問題となる。(従来の仏教・密教にこの呼称は無い。)
 本講ではこれを−−−
<反転逆賊事(はんてんぎゃくぞくじ)>−−−と呼ぶことにする。(本講独自の造語)
  (専門用語で「邪世間」という言い方もあるにはあるが、概念としては不明確で、他者に伝わりにくい難点がある。)
 〜〜『反転逆賊事』〜〜このように命名する理由は以下の通り。

(真−18−23)
 相対界レベルで「偽なるもの」を産み出すのは、人間の個我である。これしかない。
 もし仮に、個我が相対界レベルの「真なるもの」をそのまま反映し、顕現するならば「偽なるもの」は生じない。しかし、個我は「個我自家性の動き」をする余地を与えられており、それ故に、真我とは別の動き、即ち「真我に違背する動き」をすることができる。
 そうすると、相対界レベルでの「真なるもの」は「個我自家性の動き」によって「偽なるもの」に−−−<反転!>−−−してしまう。
 そして、この「反転」は、真我から見ると、まさに<逆賊>の業(ワザ)と言える。
 それ故に−−−「個我自家性の動き」により、相対界レベルの「真なるもの」を「偽なるもの」に「反転」させることの総てを指して、これを「反転逆賊事」と銘打つのである。
 また、このように呼ぶと、「反転逆賊事」こそがまことの「俗事=賊事」であることも良く分かるようになるし、これこそが「悪事」である、とも分かるようになるであろう。
(換言すると、「悪事」の本質は「反転逆賊事」ということである。)
 尚、この反転逆賊事には、個我自家性の「意念」と、それに基づく個我自家性の「言動・行動」、及びそれによって引き起こされた「事態」総てが含まれる。

 
(真−18−24)
 −−−以上のように、「相対界レベルでの偽なるもの」を「反転逆賊事」と呼ぶと、「個我の特殊性」は−−−<個我が反転逆賊事を産み出す主体になっている点にある>−−−と表現できる。そして、この「反転逆賊事」も相対界に属するので−−−
<「反転逆賊事」自体にも浅深濃淡の差異が有る>−−−と分かる。
(分かり易く言えば、「悪事」の悪性には「軽いものから重いもの」まで濃淡が有る、ということである。)

 
(真−18−25)
 ここから、次の事が分かる。
 第一に、「個我の相対性」が希薄になるに連れ、(絶対的)真我の領域(又は働き)が濃密になって行くという反比例関係が有ること。逆に言うと、個我の相対性が濃密になる(=物質性が強くなって行く)に連れ、真我の領域(又は働き)が希薄になって行くという関係が有ること。(それだから、物資的思考パタ−ンに毒された者ほど、悪性を帯びる道理である。)
 第二に、もし仮に、勝義諦と世俗諦だけの世界であれば、それは「真なる世界」になるので、(「荘厳なる無為」が見事に顕現している世界であるから)、美しく純粋に輝く黄金の世界になる。しかし、現実の地上世界は、人の個我が多数存在し、個我は「反転逆賊事」を多量に生産している。それ故−−−

 
 地上世界は、「勝義諦」と「世俗諦」と「営々無為諦」と「反転逆賊事」の四要素が入り混じったもの(即ち、四要素の混成体)になっている
 
 −−−ということが明らかになる。
 そしてこの四要素のうち、「反転逆賊事」だけが「営々無為諦」に違背する「個我自家性の動き」なので、これのみが、世界の本来の美しさを歪めている張本人だと分かる。

 
(真−18−26)
 この構図は−−−<金塊とそれに付着する汚泥>−−−に譬えることができる。
 即ち、「勝義諦・世俗諦・営々無為諦」の「三諦」で出来ている「美しい金塊」が有るとする。それに「反転逆賊事」という「汚泥」が付着している、という様相である。
 従って、「個我の物質性」が濃密になることで「個我自家性の動き」が強くなるに連れて、「反転逆賊事」も濃密で強度なものになって行き(=付着する汚泥の増大)、それに比例して、地上世界も不純なもの、醜悪で穢れたものになって行く。
 また反対に、「個我の物質性」が希薄になることで「個我自家性の動き」が弱くなるに連れて、「反転逆賊事」も希薄で弱いものとなって行き(=付着する汚泥の減少)、それに比例して、元来の「無為の純粋性」が相対界にも顕現するようになり、地上世界は輝く黄金の清浄世界に近づいて行く。(=金塊本来の輝きの顕現)
 −−−世界はこうした関係になっているのである。

 
(真−18−27)
 ここで言う「金塊の顕現」とは、勿論「真我」の顕現のことである。そしてこの顕現は漸進的なものである。ところが多くの場合、仏教やヒンドゥ−教における「悟り」は「意識の一つの到達点(ゴ−ル)」、即ち「限定された個体意識が無限定の純粋絶対意識に融合する状態への到達」と説明される。つまり、悟りは「意識の転換」の問題として理解され勝ちであり、悟った瞬間に「突如忽然と」真我が顕現する、とイメ−ジされ勝ちになる。しかし、実際はそうではない。
 金塊(三諦)に付いた泥土(反転逆賊事)が少しずつ落ちるに連れ、黄金の輝きは少しずつ外に洩れるようになり、やがて金塊の表面の光沢も顔を出すようになる。
 これと同様に、「個我の意識」が「真我の意識」に近づいて行くに連れ、相対界によって著しく限定されていた「個体意識」が希薄になって行き、「真我の意識」がより濃密に顕現するようになり、そうして霊的ビジョンが広大して行き、普遍的な認識が増大して行き、相対界の諸々の限定が超越されて行くのである。
 つまり、真我は「突如忽然と」顕現するのではなく、「個我」を通して、段階的・漸進的に、徐々に徐々に顕現して行くのである。(=光明の漸進的増大化=意識の拡大化)(「大魚の油掛け調理法」真−12−26)(「機根」の漸進的な浄化。真−21−29〜31)

 
(真−18−28)
 また、真我は「個体意識」を通してのみ、顕現するものではない。「不生の真我」は有形物質という限定を超越した存在であるから、物質性の限定を超えてみせることを通して真我の能力を発揮してみせることも可能でなければならない。
 従って、「個我自家性の動き」が希薄になって行き、真我がその人間の個体の支配を取り戻した時(即ち、「悟り」に到り、その状態を保持したまま個体を操ることができる意識=サハジャ・サマディ状態になると)(詳細は一−二五−二以下)、(真我の領域が濃密になるに連れ、物的相対性自体が希薄になるのだから)、「意識の拡大」ばかりでなく必然的に「肉体の希薄化」も可能になって来ることになる。(チベット密教に伝承される「虹の瞑想法」は単なる夢物語の絵空事ではない。『虹の瞑想』については、真−25−30、46)

 
(真−18−29)
 以上の諸点を押さえると、自ずと「善悪の本質」が見えて来る。
 「善とは何か」−−−総論的・総括的に表現すると、「善」とは、勝義諦と世俗諦と営々無為諦の全三諦を指す。即ち、「人為を超えた真理」の法則(ダルマ=法身)それ自体と、「真理の法則(=法身)」の直截な表現として顕現した万物万象(=諸法)総て(但し、万物万象と言っても反転逆賊事を除外したものに限る)と、「荘厳なる無為」そのもの(=「人為を超えた真理」の働き)、及びその働きに随順する個体の意識活動、及びその意識活動に基づく総ての「命題・言動・行為」を指す。尚、これには「荘厳なる無為」の「流入と顕現」を渇望する意識活動、及びその渇望を喚起・促進・強化する作用を持つ「意念・言動・行為」総てが含まれる。
 また、(相対界レベルに限り)各論的に表現すると、「善」とは、人間社会における一切の「習俗・慣習・道徳・倫理・社会的法規範・宗教的法規範」の中で、(それらを逐一、個別的に見て)個我の限定された意識を<「荘厳なる無為」を意識する方向>に拡大し、引き上げる作用を持つもの、又は「荘厳なる無為」の働き(聖なる流れ)に随順することを促進する作用を持つもの(=真理の働きとの合致を促進するもの)、それら総てを指す。(勿論、相対界レベルでは、「善」には浅深濃淡の差異、即ち、相対性が有る。)

 
(真−18−30)
 では、「悪とは何か」−−−総論的・総括的に表現すると、「悪」とは「反転逆賊事」一事を指す。即ち、「荘厳なる無為」の働きに違背する(逆賊的な)「個我自家性」の意識活動、及びそれに基づく総ての(歪曲された迷妄なる)「命題・言動・行為」を指す。(勿論、悪は相対界レベルでしか存在できないし、悪には浅深濃淡の差異、即ち、相対性が有る)。
 尚、「悪」たる「反転逆賊事」には、「荘厳なる無為」の「流入と顕現」を阻害したり、圧殺したりするような「意念・言動・行為」総てが含まれる。(本講では、これのみを「有為」と呼んでいる。真−2−15以下)
 また、各論的に表現すると、「悪」とは、人間社会における一切の「習俗・慣習・道徳・倫理・社会的法規範・宗教的法規範」の中で、(それらを逐一、個別的に見て)個我の限定された意識を「荘厳なる無為」を意識する方向に拡大する作用も、引き上げる作用も持たず、限定された意識を更に一層限定的な方向へと狭窄化・陋劣化・卑陋化して引き落とし、物質的な執着を強化・肥大化させる作用を持つもの、又は「荘厳なる無為」の働き(聖なる流れ)に違背する作用を持つもの、それら総てを指す。

 
(真−18−31)
 −−−以上が「善・悪」の定義である。
 但し、この定義には一つ注意すべき点がある。
 「勝義諦」を「善」の定義に含めて良いのか、という問題である。
 確かに、勝義諦(絶対界)は「善悪」(という相対的な区分)を超越した存在である。それ故、中途半端に論理的マインドを働かせる人々は、往々にして「勝義諦は善ではない」と主張する。論理学や哲学の分野に限定するならば、こうした見方も正しいと言える。
 しかし、善悪の問題は論理学や思弁的哲学の問題を超えた問題であり、宗教上の生き方、或いは人間の生き方そのものと直結したものである。それ故、マインドの分野の問題として片付けてはならず、ハ−トの分野の問題として捉えなければならない。(真−8−32以下)

 
(真−18−32)
 こうした点からすると、結論としては、「勝義諦は善ではない」というよりは−−−
<勝義諦は、相対的な善を超越した絶対善・至高善・至善である>−−−とした方が誤解が少なく、遙かに適切な見方(又は表現)であると言える。
 「勝義諦は善ではない」と得意気に主張する者は、往々にして、それを自分が悪を犯す口実に利用する。例えば、瞑想好きで怠け者の、一部のヒンドゥ−教徒や仏教徒は、「絶対界を目指す私は、善も悪も捨て去る」と宣言して、一切の善行や福徳を積む行いを放棄してしまう。しかし、これは結局、善行を面倒臭がる怠惰な自分を甘やかし、詭弁を弄しているに過ぎない光景である。。こうした口実を弄して精進を怠る者は、既に邪見に落ちた輩である。
 また、次のような屁理屈を並べる者も居る。即ち、「勝義諦が善悪を超越しているということは、勝義諦は善も悪も総て内包しているということである。よって、勝義諦のことを思って、それに奉仕する意思で、悪を超越した気持ちを抱きながら、悪にこだわらずに悪を行った場合は、それは悪にならない」と。
 こういう屁理屈を言う者は、罪科など気にせず、平然と罪悪を犯してしまうカルト的で危険極まりない者である。こうした者共がどれ程自己正当化の屁理屈を捏ねても、それは結局、罪悪を犯したい自分を甘やかし、自分を欺いて詭弁を弄しているに過ぎない。こうした口実を付けて平然と罪悪を犯す者は、既に邪見に落ちた輩である。

 
(真−18−33)
 本当に真摯で謙虚、そして常識的で正常な感性を持つ修行者であれば、「勝義諦」という高い柵の中に参入するためには、「正しい門」から入ることを望み、定められた「正規の料金」を喜んで支払おうとする。
 一方、強欲で盗取癖の強い者は、そのような手続きが焦(じ)れったくて面倒千万に思え、一気呵成に高い柵を乗り越えて、只で(対価なく)中に参入しようとする。支払うべきものを支払わずに、立入り禁止区域から無理やり侵入しようとする者は、盗賊である。
 (正法が衰微した)末法の世においては、盗人猛々しい者が雲霞の如く出現する。
 こうした者が宗教の道に入って来ると、様々な詭弁を弄して自分を正当化しようとする。それ故、彼らが「勝義諦は善ではない」という教えに出会うと、「これぞ自分の行為を正当化するのに格好の教義!」と感じて、それを利用しないではいられなくなってしまう。
 こうして、特に仏教系カルト教団の信徒らは、(前述の如く)徒に勝義諦だけを重視し、世俗諦を無視する愚挙に出る。そうして−−−<「適正手続」を定めた「世俗諦」>−−−を平然と無視する者となり、一般人から見て、盗人猛々しい振舞いをする危険な人間になるのである。(そうして彼らは法律も無視した行動に出るようになり、教団のためには如何なる犯罪に手を染めることも辞さない輩になって行くのである。)

 
(真−18−34)
 こうした事情が有るために、我の強い中途半端な修行者には、世俗諦総てを戯論として一刀両断に否定してしまう手法を使うように指導すべきではない。(先の「勝義諦は善ではない」とする見解や、「相対界の善を軽視、又は無視することになる」見解は、世俗諦を戯論として截断してしまう手法の一種である。)
 中途半端な修行者が「世俗諦を戯論視する論理」を振り回すと、容易に自己正当化の詭弁に陥り、自己欺瞞に陥り、邪見に落ちてしまう。よって、このレベルの修行者が「世俗諦」を切り捨てることのないように、強く戒めることが重要である。

 
(真−18−35)
 −−−以上の諸点からして、超宗教の中道を進もうと志す者は、「絶対界は善ではない」という論理を振り回してはならない。それよりも、「勝義諦と世俗諦」を共通の実相のものと見て、世俗諦を「勝義諦の相対的な反映」と見て最大限尊重し、それに従うよう心掛け、一部の宗教的世俗諦を−−−勝義諦に到達するための「適正手続」を定めたもの−−−と見て最大限尊重し、それに従うよう心掛けるべきである。
 これが、微妙・精妙・霊妙なる中道を行く鍵である。

 
(真−18−36)
 超宗教の中道は、勝義諦のみならず世俗諦をも最大限尊重する道である。
 但し、そうは言っても、世俗諦を闇雲に尊重し過ぎても駄目である。ここが精妙にして高尚な叡智の発揮し処である。
 一方の極端は、勝義諦のみを重視して、世俗諦を軽視、又は無視して暴挙に出る道である。そして、もう一方の極端は、世俗諦を重視しようとする余り、世俗諦を(闇雲に硬直的に頑迷に)「絶対視」してしまい、窮屈の余り、自分に対しても、他人に対しても刺々しくなってしまう道である。(「世俗諦絶対視」の邪見に関しては「真−6−1」以下、「真−9−1」以下参照)
 人間は不完全で弱い生き物である。よって、どうしても、このどちらか一方に偏ってしまう傾向を持つ。そこで、世俗諦に対する正しい中道の態度を会得するために、次の点に関する自覚が是非とも必要になる。即ち−−−
<「道」を示す宗教規範としての世俗諦には、浅深高低の差異がある>−−−と。
 つまり、多数の戒律が有ったとしても、それには上位規範と下位規範の区別があり、重要度に差異が有るということである。

 
(真−18−37)
 そして、これに加えて重要な事は−−−<宗教規範(世俗諦)だけを幾ら分析しても、宗教規範(世俗諦)の浅深高低の差異は、宗教規範(世俗諦)それ自体からは決して導き出すことができない>−−−ということである。
 宗教規範(世俗諦)の浅深高低を決めるキ−マンは、先に挙げた「善悪の定義」を見れば分かるように、「営々無為諦」である。より厳密に言うと、宗教規範(世俗諦)の上下の区別は、「荘厳なる無為」と「個体意識」との相互関係の中で決まって来るものである。
 或る一つの宗教規範に十全に従った場合、その人間がどれ位「荘厳なる無為」の働きに随順し、合致するようになるか、その「随順度合い=合致度合い」の大きい方が、上位規範ということになる。
 つまり、より包括的・総括的な規定であるほど上位規範になり、より個別的・具体的・瑣末的な規定になるほど下位規範になる、ということである。
 これが−−−<宗教規範の上下高低の識別基準>−−−である。(この基準は物凄く重要な基準である。)

 
(真−18−38)
 宗教の道を歩んでいると自覚する者は、誰であれ、自分が所属する宗教・宗派の戒律(宗教規範)について能々(よくよく)勉強し、その上で、それを短絡的・一面的に真に受けるのではなく、それら多数の戒律中、どれが霊的な上位規範で、どれが霊的な下位規範であるかを、正しく識別する眼と心を磨いて行かねはならない。
 そうしなければ、必ず、(先に示した通り)「世俗諦軽視」の極端か、「世俗諦絶対視」の極端か、どちらか一方の極端に偏ってしまうことになる。

 
(真−18−39)
 地上には無知が蔓延(はびこ)っているため、無数の人々が、律法(戒律)という世俗諦だけを取り上げて、喧々諤々それについて際限無く論争し合い、啀(イガ)み合っている。そうして既に数千年が過ぎ去っている。(何と間抜けな光景であることか。猿の縄張り争いの如し) しかし(「真我瞑想法スートラ」が登場した以上)、これからは律法(世俗諦)だけを見るのではなく、「営々無為諦」に眼を転じて、それの関係性の中で律法(世俗諦)を理解するようにすべきである。そうやって理性的に「律法(世俗諦)の浅深高低に関する識別力」を働かせるならば、宗教間の争いは必ず終息に向かうであろう。
 一例を挙げる。
 ユダヤ教とキリスト教間の律法論争は、二千年に渡って続けられている世界に轟く一大論争である。これは、モ−ゼの十戒に代表されるユダヤ教の多数の律法群(=ト−ラ−)とイエズス・キリストが示した簡明で少数の律法群(=キリストの律法)を較べた場合、どちらが霊的な上位規範か、どちらが優先されるものべきか、という律法(=世俗諦)の浅深高低の区別についての論争、と言える。
 こうした論争は、「荘厳なる無為」を抜きにしたまま、幾ら行っても不毛である。
 そうではなく、先に示した「宗教規範の上下高低の識別基準」を使って、互いの律法群を逐一、個別的に解析して行くべきである。そうすれば、自ずと各規範の上下高低が明らかになって来る。(そうやって、正しい解析を重ねて行くと、最後には、両教は律法群全体として見ると、どちらが上位の教えとも言えない並列関係にあることが判明するであろう。この点の詳細は、星−12−17〜22)

 
(真−18−40)
 元々、「営々無為諦」は、総ての宗教・宗派を超越した“超宗教的な”真理の営為である。よって、「営々無為諦」一本で「洞察礼拝」して行くと、特定宗教の信徒であっても、必ず超宗教の中道に導かれるようになる。それだから、律法(世俗諦)だけを議論の材料にした(低次元の)間違った律法論争は終息に向かうのである。
 如何に仏教・密教の中に無数の経典が有ろうとも、ヒンドゥ−教の中に膨大な聖典が有ろうとも、地上に何人もの大聖者が現れようとも、地球上に無数の宗教が有ろうとも、無数の宇宙と多様な宇宙人たちに無量の宗教と無量の聖典が有ろうとも、それらの教えが言語化・文字化されたならば、それらの中の「真なるもの」は総て「世俗諦」である。

 
(真−18−41)
 それ故、超宗教の中道を首尾良く行こうと志す者は−−−総ての世俗諦を(勝義諦の反映として)心から尊重しつつも、硬直的にそれに囚われることなく、「営々無為諦」に心を集中し、それとの関係で宗教規範(世俗諦)の浅深高低を正しく識別して、より上位の宗教規範(世俗諦)に十全に従うことができるようにと、一歩一歩焦らず確実に精進を重ねて行く−−−こうした「宗教生活の鍵」を失念することなく、日々生活すべきである。
 これができれば、「世界を構成する四要素」と「善悪の本質」を見事に看破した、叡智有る超宗教思想の優れた信徒、ということができよう。
 
 −−−以上で、「ブッディ・ヨーガ」の「第3段階」の解説を終了する。
   

第十八章についてのメモ

 第十八章では「世界を構成する三、又は四要素」と「善悪の本質」について語られます。
 この章では次のような指摘がなされます。即ち−−−
 仏教では伝統的に「勝義諦と世俗諦」という二分法が用いられる事。そして、「世俗諦の概念」は狭義のものから最広義のものまであり、「最広義の世俗諦概念」は、諸法・万物を含む概念で、正しくは「相対界の真実・真理」全般を含む概念である事が指摘されます。
 そして、この「最広義の世俗諦概念」の中には、本講で言う「荘厳なる無為」の働きも含むことになる事が指摘されます。(動態も含むという事です。)
 そして、「無為の働き」が何かの理由で「反転」して「<無為>に逆行する動き」になったものが「有為」である、と指摘されます。(本書第二章の「有為」の定義を参照)
 こうした諸点をまとめると、次の表のようになります。

 1.勝義諦(=第一義諦、真如・法身とも言う)−−→ 絶対界の実在・真理
                 但し、完全停止の静態とは見ない。第二章参照)
 2.最広義の世俗諦−−→ 相対界全般の真実・真理  
          (これは、次の二種類に分けることも可能)
                  (ア) 静態の事物や真理命題 
                  (イ) 動態の働き(荘厳なる無為)
   以上の二つが「善」と評価される事が指摘される。
   また、「世俗諦」という呼称は悪く、「俗」の字は不適当で、「世相諦」と呼ぶ方が誤解が少ないだろうという点が指摘される。(∵勝義諦が相対界レベルに投射したものと見るから)

 3.「有為」(=動態)と   −−→  動態も静態も含めて「悪事」と評価される。
       有為に因る諸事(=静態) <反転逆走事>と本講では命名される。
          (∵無為が反転して逆走したものが有為と定義付けられているから)

 また、ここで重大な注意点が一つ指摘されます。即ち−−−ここでは、「最広義の世俗諦」を「動態/静態」に二分していますが、相対世界全般を科学的に見た場合、「完全停止の静態の事物」など全く存在しません。つまり、「最広義の世俗諦」を「動態/静態」の二分法は、人間の日常生活の体感的、物質的な感覚に合わせた「便宜的な仮の二分法」である、と。
 また、以上の知識を基にすると、キリスト教の「父と子と聖霊」という三位は、「父=勝義諦、子=静態の世俗諦、聖霊=動態の世俗諦(=無為)」に配当される事が指摘されます。
 尚、個我こそが「無為」を「有為」に反転させ、「有為」を生産する主体ですが、こうした「個我が為す<真我に違背する動き>」のことを本講では−−−<個我自家性の動き>−−−と称する事が提案されます。「真我に違背する個我独自の動き」を「自家中毒」という病気に準えて、表現したものです。
                                     (以上)

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