第四章 「さやけき寂まく状態」を瞑想する (空−四−一) 「無自性存在」の特徴である「三不能」、中でも「個我の三不能(無力)」を瞑想し、「自性有る存在」への根幹依存(空−三−十六)に関して意識を深めて行くと、それに応じて「無為に反する個我独自の動き(=有為)」が徐々に停止して行き、個我は「空寂なる状態」になって行きます。 もうお分かりだと思いますが、般若ヨ−ガとは、ブッディ(理性)で「(偶像ではない)真の神(=自性を具備した存在)」に意識を集中して行く瞑想法です。 「真の神」に心を向ける。故に、煩悩が鎮まる−−−実に単純な道理がここに有ります。 (空−四−二) しかし、煩悩の泥川で肉欲にまみれて泳ぎ回っている下根の人たちは、般若ヨ−ガのために己れのブッディ(理性)を行使する気持ちには全然なれないものです。何故なら、低俗な肉欲波動は高尚な聖なる波動を嫌うものだからです。 また、こうした下根の人たちが、たまたま般若ヨ−ガを行じる気持ちになったとしても、その程度の「単なる気まぐれの衝動」だけで「肉欲による意識の散乱」が鎮静してしまうほど、修行の道は甘くはありません。(鍛え抜かれた「強度の集中力」が突如発揮されるという事は有り得ないわけですから。) よって、肉欲まみれの下根の人は(霊的に高度な)「無自性の瞑想」をちゃんと実践することはできません。従って、下根の人に「個我の三不能」と言っても、キョトンとするばかりで、理解不能の外国語を聞いた時のような反応しかできないでしょう。 (空−四−三) 「個我三不能の瞑想」がその力を十全に発揮するのは、準備の整った上根の人が、この瞑想に取り組んだ時です。上根の人は、既にかなりの「内的筋力」(真−10−30、対話篇1)を会得しているので、強い集中力と持続力で「個我三不能」という事実を真正面から正見し、この恐るべき事実を深く味わい、「個我三不能の自覚」を深めて行く事ができます。 あとは、更に一層、この自覚を深めて行くだけです。それで「悟りのサマディ」に一直線です。 (空−四−四) では、「内的筋力」が未だ貧弱な「中根や下根の人」は、どうしたら良いのでしょうか。 まずは「正しい祈り」を学ぶことから始めるべきです。次に、出来る限り「正しい祈り」が絶えず「心の中」から天へ立ち昇り続けるように、一生懸命「正しい祈り」に励むことです。そうして「自分が祈る内容」と自分の「現実の行動」が違(たが)うことのないように「正直・誠実・素直」に「善行」に励み、一つ一つ功徳を積んで行くことです。 このようにして日々「渇仰心の育成」に努めます。そして、聖言を能々(よくよく)味わい、霊的真理に心を向ける習慣を身に付けて行きます。日々の反省も忘れないことです。 −−−以上のような地道な毎日の努力を積み重ねて行けば、自ずと「内的筋力」は向上し、「下根の人は中根の人へ」「中根の人は上根の人へ」と変容して行きます。 ここで再度、誤解のないように念を押します。 下根の人にとって「個我三不能」という真理は「空虚な呪文」でしかありません。確かに、「個我三不能」は強力この上無い、水爆以上の威力を持つ真理命題ですが、これを活用できるかどうかは、飽く迄もその人の「神を求める渇望心と内的筋力」の強さにかかっています。 「神宝、草薙の剣」にして「般若の利剣」である「個我三不能の認識」を正しく使うか、或いは、使わずに打ち捨てて置くかは、本人の自覚次第ということになります。 (空−四−五) それでは、これから、「無自性の瞑想」を深めて行くための、般若の「正しい剣さばき」について、解説して行きます。 この瞑想法のポイントは、(前章で指摘した通り)「縦横二重の依存」のうちの「縦の依存=根幹依存」を強く意識して、「根幹依存の自覚」を深めて行くことです。 「根幹依存」の意識が無くなると、即座に<「無自性存在群」単独成立の妄想>という落とし穴に嵌まってしまうので、この点、能々(よくよく)注意する必要が有ります。 この点を肝に銘じて「無自性の瞑想」に取り組めば、首尾良く「無自性の瞑想」を極め極めてこれを突破し、遂に「自性の瞑想」への突入(=サマディへの入定)を果たすことができるでしょう。 (空−四−六) さて、実際に「無自性存在の三不能(無力)」について瞑想する場合、「否定の剣さばき」としては、次の「二段階」の手順を踏みます。何故なら、三不能について、“三つ一遍に”意識集中するほどの剛力を、普通の人は持ち合わせていないからです。 よって、「実践するのが簡単な順番」に「否定の集中行」をやるべきです。ですから、先ず「活動面の無自性を瞑想」して、次に「発生面・存続面の無自性を瞑想」という順番になります。 今、これを便宜上−−−<「無自性の瞑想」の否定の二段階ステップ>−−−と位置付け、次のようなタイトルで呼ぶことにしましょう。 【第一段階】 「活動面の無自性」を瞑想して「清(さや)けき寂寞(じゃくまく)状態」に住する 【第二段階】 「発生面・存続面の無自性」をも瞑想して「明(さや)けき寂莫(じゃくまく)状態」に参入する −−−では、この二つの段階について解説して行きましょう。 (空−四−七) 【第一段階】 「活動面の無自性」を瞑想して「清(さや)けき寂寞(じゃくまく)状態」に住する 「根幹依存」を意識して「活動面の無自性」を瞑想することは−−−<「無自性の存在」それ自体単独では「活動不能」である>−−−という真理(事実)を瞑想することです。 つまり、一旦、「自性有る存在」から「無自性存在」だけを切り離す思考実験をして〔※註@〕−−−<「無自性存在」だけでは「その活動は絶無」になってしまう>−−−という光景を観想するのです。この光景が「無自性存在の寂寞(じゃくまくク)状態」です。 【※註@>>>−−−「自性有る存在」と「無自性存在」を実際に現実的に切り離すことは不可能です。しかし、ここでは飽く迄も「仮想」としてイメ−ジし、それを観想します。この思考実験は、日の当たっている明るい地面を見ながら、日が当たらない地面の暗い状態を思い浮かべてみなさい、という課題と同類のものと言えます。>>>註終了】 (空−四−八) 「寂寞」は「寂」と「寞」、同義の漢字を重ねた言葉です。「寂」の字は「ウ冠(かんむり)(=家の中)」が「叔々=粛々」と静かな光景を表し、「静かで物さびしい様子」を意味します。 「寞」の字も「ウ冠(かんむり)(=家の中)」が「莫=無」で誰も居ない意味なので、「人気のない静かでひっそりとした家の様子」を意味します。 よって、「寂にして寞」である「寂寞」という言葉は、活動する存在が絶無であるような、実にひっそりとした「寂々粛々とした存在物の様子」を表すのにピッタリの用語であり、「活動面の無自性を観想する技法」を伝達するために有るような単語と言えます。 (空−四−九) −−−「活動面の無自性」にのみ焦点(フォ−カス)を絞って、次の文を百万遍反芻します。 ■ 総ての「無自性存在」は、それ自体単独では、活動する力が全くない。 −−−「個我」、これを「肉体」と「個体意識」の二つに分けて意識しましょう。 ■ わが肉体は、それ自体単独では、活動する力が全くない。 ■ わが個体意識も、それ自体単独では、活動する力が全くない。 (般若心経の文言は、更に詳しく細分化して数え挙げています。) −−−これを更に、「中観の視座」から表現し直てみましょう。 ■ わが肉体は、「自性有る存在」の御力無しには、活動する力が全くない。 ■ わが個体意識も、「自性有る存在」の御力無しには、活動する力が全くない。 −−−これが「根幹依存」を意識した「活動面の無自性の観想」です。 (空−四−十) ここで、「活動面の無自性の観想」が首尾良くできるような補助として、身近な喩えを四つ挙げましょう。 (ア)冷蔵庫 電源を切った冷蔵庫が良い例です。まさに「冷蔵庫、電気なければただの箱」です。冷蔵庫は電気無ければ、まさに「寂寞とした箱」に過ぎません。「無自性存在」は独自の活動力がゼロ(絶無)なので、本来「寂寞とした存在」です。 万物万象をこのように観想するのです。特に、己れの肉体を「電気の無い冷蔵庫」の如くに観想すると、「無為に反する個我独自の動き(=有為)」が終息して行きます。これが木石のようになる「木石禅」です。 (空−四−十一) (イ)知能を持ったパソコン 人間と自由に対話のできる人工知能を持ったパソコンが開発されたとします。この場合、知能を持ったパソコンが専門知識を人間に教えるというシ−ンも出て来る事でしょう。 しかし、優秀な教師として(偉そうに?)講義している人工知能パソコンの電源を切ってしまえば、途端にそのパソコンは「ただの箱=寂寞とした存在」と化してしまいます。 (もし仮に、この人工知能パソコン君が哲学思考もできるとしたならば、「自身の存在の脆弱性」について真剣に悩むかも知れません。これは一つの笑い話ですが。) (空−四−十二) ところで、実の処、「人間の思考力」も、これと同様のものでしかありません! 何故なら、「自性有る存在」への「根幹依存」がなければ、即座に「思考不能に陥ってしまう」からです。如何なるス−パ−コンピュ−タ−も「電気なければ只の箱」です。 このように、「活動面の不能」を自身の「思考力の無自性」にまで深めて瞑想できる人は、とても優秀です。 ■ 我が思考力は、それ自体単独では、活動する力が全くない。 ■ 我が思考力は、「自性有る存在」の御力無しには、活動する力が全くない。 −−−このように百万遍反芻して、この真理に集中して行くならば、自身の「有為」なる思考を止滅させて行くことができます。すると、煩悩も終息に向かい、「寂寞とした状態」に住することが可能となります。 (空−四−十三) (ウ)河童型ソ−ラ−パネル式アンドロイド 優秀な人工頭脳が搭載された、人間そっくりのアンドロイドが開発されたと仮定してみます。但し、このアンドロイドには電池が内蔵されていないものとし、頭上に「河童のお皿」型の高性能ソ−ラ−パネルが設置してあり、太陽光を受けた時だけ瞬時に発電して、活動できるシステムになっていたとします。 こうした河童型ソ−ラ−パネル式アンドロイドが存在した場合、このアンドロイドは、昼間お天気の良い日には、外で人間と同じように活動し、土木作業をしたり、交通整理をしたり、新聞配達をしたり、人間と会話することができるでしょう。 しかし、ひと度太陽光が無くなると、瞬時に、頭を拳銃で打ち抜かれた人間のように倒れ込み、捨てられたマネキンのようになってしまいます。 これと同様に、「自性有る存在」への「活動面の根幹依存」が無ければ、人間も死骸同然です。 (空−四−十四) (エ)ウイルス ウイルスは、「生物なのか、無生物なのか」−−分類が難しいグレ−ゾ−ンの存在です。 ウイルスは「蛋白質と核酸の混合物質」で出来ていて、これだけで単独に存在する時は「蛋白質の結晶」に過ぎません。つまり、自主的に生命活動を営んでいるとは言えず、単なる物質の範疇に属します。しかし、他の生物の体内に取り込まれ、その生物の細胞の中に、そのウイルスの蛋白質と馴染み易いレセプタ−(受容体)があると、ウイルスはそこを入口にしてその細胞の中に入ってしまいます。すると、そのウイルスは恰(あたか)も“生きて自主的に活動している”かのように、自身の核酸を出して、侵入した細胞の遺伝情報システムを拝借し、ウイルス自身の核酸を大量に複製して自己増殖を始めます。ウイルスとはこうした存在です。 (空−四−十五) こうした特徴の故に、「単独のウイルス→無自性存在」 「ウイルスが取り付いて活動する他の生物→自性有る存在」に見立てて、一つの喩えとするができます。 無自性なる万物は、どれもそれ自体単独では「ウイルスのような存在」に過ぎません。何故なら、それ自身単独では自力で活動する力が全く無いからです。 故に、「自性有る存在」に(寄生的に)依存し、その活動性を拝借することで、初めて万物は活動することを得ている、と言えます。 まことに、人は「真我なければ、ただの死骸」です。この点、ウイルスと何ら変わる事がありません。(これを「個我=ウイルス」説、と呼ぶことにしましょう。) (空−四−十六) −−−以上、「四つの喩え」を見て来ました。 これらを補助的に活用しながら、「活動面の無自性」を深く瞑想しましょう。すると煩悩は一時的に停止して、「清(サヤ)けき寂寞状態」に入って行くことができます。 ここで、注意しなければならない点は、「活動面の無自性」を瞑想するうちに、知らないうちに脇道に逸れて「暗黒の瞑想」に陥ってしまわないように、という事です。 「中観の視座」を保持して−−−<「自性有る存在」の御力に依らなければ活動する力は全く無い>−−−と瞑想するうちは、意識の中に「自性有る存在」が入っているから「暗黒の瞑想」に堕すことはないでしょう。しかし、焦点を「無自性存在」に絞って、「それ自体単独では、活動する力は全く無い」と、これだけを瞑想して行くと、確かに速やかに「寂寞状態」には入って行けるでしょうが、これを続けているうちに、知らず知らずのうちに「暗黒の寂寞状態」になって行く「落とし穴」が待ち受けているのです。 何故でしょうか−−−。 「無自性存在」だけを瞑想し過ぎて−−−<「無自性存在群」単独成立の妄想>を抱くようになってしまうから−−−なのです。 (空−四−十七) 誰もが落ちやすいこの罠について、「太陽と月の喩え」で、簡単に説明してみます。 「無自性存在」はそれ自体単独では輝く力が無いので、月に喩えられます。一方、「自性有る存在」は太陽に喩えられます。 「活動面の無自性」について、「無自性存在」だけを分離して瞑想すると、「月はそれ自体、単独では光輝く力の全くない、暗黒の惑星である」と瞑想しているのと同じです。よって、「無自性存在」の暗黒面がクロ−ズ・アップされ、「暗黒の瞑想」に陥ってしまうのです。 現実世界では、月は太陽の光を受けて輝いています。飽く迄も、この「太陽と月の譬え」は、万物を「因縁和合」即ち「自性有る存在と無自性存在の和合・混成体」と見る霊的ヴィジョンを表現するための方便に過ぎません。 「縁」は「縁」(水平依存関係)だけでは存在することができません。よって、現実には、そもそも「暗黒の月」の如き「光の絶無な存在」は有り得ないのです。 ですから、呉々も「暗黒の瞑想」に陥らないように、注意すべきです。太陽の事を忘れては本末転倒になってしまいます。 従って、「無自性の瞑想」に勤しむ修行者は、「暗黒の瞑想」という罠に陥らないように細心の注意を払って、中観的な「清けき寂寞状態」の瞑想という絶妙なバランスの細道を通って、それを少しずつ深めつつ、次のステップへと進み行く必要が有ります。 (空−四−十八) 【第二段階】 「発生面・存続面の無自性」をも瞑想して「明(さや)けき寂莫(じゃくまく)状態」に参入する 第一段階の最後の処で、「縁」は「縁(水平依存関係)」だけでは存在することができない、という真理について確認しました。(海水無き処に波も起きず、と同じ事) 「自性有る存在」の下支えを意識しつつ、「活動停止」した「無自性存在がそこに有る」と観想するのが第一段階でした。 さて、この「根幹依存」の自覚を深めて行くと、自覚の範囲を「活動面だけ」に限定した瞑想では納得が行かなくなって来るはずです。 まことに、「無自性存在」は(存在の)「発生面・存続面」においても無自性だからです。 (空−四−十九) 個我で言えば、もしも「自分の力で誕生した」とか「今の自己存在を保っているのは自力である」などと、半意識のうちにも思い込んでいるならば、その人の「無自性の瞑想」は(残念ながら)「発生面・存続面」にまでは、未だ全然届いていない瞑想です。これでは「根幹依存の自覚」がまだまだ浅墓で不充分です。 そこで、「無自性の瞑想」を「(存在の)発生面・存続面」にまで及ぼすべく、次の文を百万遍反芻します。 ■ 総ての「無自性存在」は、それ自体単独では、発生する力も存続する力も全くない。 −−−次に、「個我」、それも「肉体」と「個体意識」の二つに絞ってみます。 ■ わが肉体は、それ自体単独では、発生する力も存続する力も全くない。 ■ わが個体意識も、それ自体単独では、発生する力も存続する力も全くない。 (般若心経は、更に詳しく細分化して数え挙げたものです。) −−−これを更に、「中観の視座」から表現し直てみましょう。 ■ わが肉体は「自性有る存在」の御力無しには、発生する力も存続する力も全くない。 ■ わが個体意識も「自性有る存在」の御力無しには、発生する力も存続する力も全くない。 (空−四−二十) −−−以上の真理命題を本当に深く深く瞑想して行くと、大変な事が起こります。 「無自性存在」総てが、実に儚い「蜃気楼」の如きものに見えて来るからです。いえ、そればかりではありません。現前する儚き蜃気楼は、やがて雲散霧消してしまいます。 とはいえ、これは或る意味、当然の事です。「縁」は「縁」(水平依存関係)だけでは存在することができないのですから。 「無自性の瞑想」を「三局面」全部に及ぼして徹底すると、無自性存在の「活動絶無」プラス「発生絶無」「存続絶無」となり、結局「無自性存在自体の絶無」となる他ありません。 (空−四−二一) これぞ、「明(さや)けき寂莫(じゃくまく)状態」の「寂莫」に「莫」の字を当てている所以です。「寂莫」という言葉は辞書には有りません。ここだけの造語です。「無自性の瞑想」の深い真理を表現するための霊的な専門用語として新たに提案する言葉です。 「寂寞」の「寞」の「家を表すウ冠り」を取りはずすことで、「莫=無」即ち「存在自体が絶無になってしまったこと」を表します。こう理解して下さい。 まさに、「活動・発生・存続」の三局面で「絶無・絶無・絶無」の「寂莫」です。 (空−四−二二) ただし、ここでの「三絶無の寂莫」は、勿論、何もない「暗黒の絶無」ではありません。 現前する万物万象は「自性有る存在と無自性存在の混成体」ですから、「無自性存在」が蜃気楼の如く、水蒸気の如く雲散霧消してしまうと、残るのは「自性有る存在」だけです。 よって、そこに立ち現れるのは、「自性有る存在」の「大光明」のみです。 以上が「無自性の瞑想」を深めて行った時に体験する−−−<有形物の透明化現象>−−−です。この時には、もはや「遮るもの」は何もありません。「大光明の大海」が一面に広がるばかりです。「圧倒的に荘厳な世界、目が眩む輝きに満ちた<絶無>」です。 これぞ、「明(さや)けき寂莫状態」の「さやけき」に「明」の字を当てる所以です。 この時にこそ、「無自性の瞑想」は極まって、更にはそれを脱して、瞑想者はサマディ−に入定し、大光明の大海に没入します。 (後篇 第四章 終わり) ←←前ページに行く 次ページに行く→→ このページの最終更新日 2003/12/23 著作権について ■ ■ ■ ■ Copyright (c) 2003〜2012 Aomi Ryu All Rights Reserved ■ ■ ■ ■
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