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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第10章 中道から逸れるとはどういうことか?New!

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第十章 中道から逸れるとはどういうことか?

「本物の縁起の法」の公開と連動して、この章はリライトされます。
以下の旧版は、間もなく破棄され、お蔵入りとなる予定です。

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 第十章  修行のための中道の要件4
        −−−中道を行くための「四要件」、その第四要件


(真−10−1)
【要件4】 結果的に「克己力」が働くように、「正しい集中」を自覚的に渇望すること 

 
 前述の三つの要件を充足し、中道からの逸脱具合を知覚したとしても、それを修正する力がなければ始まらない。この修正する力を、ここでは「克己力」(克己的制御力)と呼ぶ。
 一般的に使われている「克己心」という用語を使わないのは誤解を避けるためである。克己心という言葉は使い古されて手垢に塗れている。人々は自分なりのニュアンスで克己心という言葉を使用するが、多くの場合そこには「<自分の意志の力で>自分の欲望や衝動や感情などを押さえ込み、制御する」というニュアンスが含まれている。それ故、克己心という言葉を使うと、多分に「自力の面」や「意志の面」が強調されることになってしまう。
 しかし、ここでの「克己力」は、そのような力とは若干ニュアンスの違う微妙・精妙な力を指し示す言葉である。

 
(真−10−2) 
 宗教の神髄は−−−<克己力>−−−にこそある。克己力が働かなければ、如何なる宗教も無意味である。〔※註1〕
 また、(正法の衰微した)末法の世では、宗教のまことの霊力が喪失して、宗教関係者も堕落した生活に溺れてしまうが、これは偏に強い克己力が働かないことが原因である。正しい形で克己力が働くならば、宗教も宗教関係者も堕落することは決してない。

 
(真−10−3)
 〔※註1−−−アダムとエバの寓話では、二人は「善悪を知る木の実」を食べる。これにより二人に「善悪を知る能力」が備わったとしても、克己力が皆無ならば、悪行を止めることはできず、罪を重ねてしまう。また、克己力が皆無ならば、悪行を止めることを期待することは全然できないので、期待可能性が無いと言え、責任能力も認められず、非難もできないことになる。これでは、エデンの園から追放して、地上にて(霊的法則に則って)罰を与えようとしても、加罰する正当性根拠が無い以上、罰を下すことはできない。そうすると、この寓話の筋書きは、「二人は地上でもエデンの園の時と全く同じ有様で幸福に暮らしました。めでたし、めでたし」としなければ、全然筋が通らなくなってしまう。しかし、そういう筋にしてしまうと、今度は現実の地上世界の罪・不幸・悲惨の説明ができなくなる。


(真−10−4) 
 従って、本当に正しく筋を通そうとするならば、どこかの場面に二人が「克己力を得る木の実」も食べるシ−ンを挿入するか、或いは、「善悪を知る木の実」の中には、克己力をも与える成分が含まれていた、という説明的記述を付加する必要がある。そうすれば、「克己力が有るのに使用しない罪」が人類には有る、という構成が可能になる。アダムとエバの寓話には、この点が欠如している。
 けれども、現実世界の真実としては、人類の“根源の”罪は「克己力が有るのに使用しない罪」ではない。これとは少し異なる。
 正しくは−−−<克己力が貰(モラ)えるのに貰おうとしない罪>−−−より踏み込んで言えば−−−<礼拝できるのに礼拝しない罪>−−−である。
 「克己力」は、初めから完全な形で備わっているものではない。「真の礼拝」を継続的に実践して行くことで、「克己力」を増大させて行くのである。詳細は「真−12−1」以下、真−17−1以下 //注終了〕〕〕


(真−10−5) 
  兎角「自力の面」や「意志の面」が強調され勝ちの「克己心」とは若干ニュアンスが異なる(超宗教の)「克己力」は、「中道において働く自己超越の力」である。それ故、克己力は深遠玄妙な中道の霊力であり、宗教の奥義と密接不可分の力である。
 或る者は「自力によって克己力を働かせるのか」と問う。その答えは「否」である。
 また、或る者は「他力によって克己力が働くのか」と問う。(この問いが「行為者は鼻提灯を作って居眠りしながら他力を待っていても克己力が働くのか」という意味であれば)その答えは「否」である。
 また、或る者は「他力本願と自力本願、何(イズ)れが正しいのか」と問う。この問いに対しては、「沈黙」を以て答えに代えるか、又は「何が他力で、何が自力か、明確に識別した上で問うているのか」と逆に問い返すべきである。愚問に合わせて答えると愚答になってしまうからである(愚問愚答)。

 
(真−10−6)
 刻々と脈打つ心臓の鼓動、これは自力によるものか、他力によるものか。
 酒を飲むと、肝臓がアルコ−ル分を分解する作用、これはどうか。
 腎臓が血液を濾過・浄化し、アンモニア等を尿として膀胱に送る作用、これはどちらか。
 美味しい夕食に舌鼓を打つ時、舌の味覚細胞が機能するのは、自力か他力か。
 美しい景色を見るその眼の働きはどうか。外界の景色に対して、水晶体のレンズの厚さを調整してピントを合わせ、網膜に光を当てて色彩を感じ取り、網膜には逆様に映っている景色の色彩信号の画像を上下逆様に修正し、脳でその信号を受容し理解する働きがあって、漸く「景色を正しく見る」ことになる。これらの作用は自力によるものか、他力によるものか。

 
(真−10−7)
 何が自力で何が他力か、明確に識別できないならば、「自力本願と他力本願、どちらが正しいのか」と問うても意味が無い。
 (正法の衰微した)末法の世の多くの人々が、安易に「自力本願・他力本願」と呼び分けて両者を区別する場合、普通、「自力」とは自分の内部に有る力を指し、「他力」とは自分の外部に有る力を指すものと言える。「自力・他力」概念をこうした「安易で杜撰な切り分け」で使用した場合、(今ここで新たに提唱している)「克己力」がそのどちらに該当するかと言えば、それは、完全に自力に属するものでもなく、完全に他力に属するものでもなく、完全に自力に属さないものでもなく、完全に他力に属さないものでもないものと言える。

 
(真−10−8)
 従って、(世俗の安直杜撰な「自力・他力」の切り分けに合わせた形で)敢えて言うならば、「克己力」とは、自力でも他力でもない、両者に股がる「中力」である。〔※註2〕
 「中力」である克己力は、「有為」の力ではなく「無為」の力である。よって、「中力」といっても「自力と他力」、どちらに比重があるのかと問うならぱ、本来「他力」に本籍が有ると言うべきである。「荘厳なる無為」の力は、一人の人間の枠組みを遙かに越えて作用しており、その人間が居なくても作用している力だからである。しかし、「克己力」は飽く迄も「中力」であり「他力」ではない。何故か。
 「荘厳なる無為」は、一人の人間の枠組みの中にも浸透しているからである。従って、世俗の安直杜撰な「自力・他力」という二分法は、実相を的確に捉えた切り分けとは言えない。それ故、一つの便宜として「中力」という言葉を当てるのである。

 
(真−10−9)
〔※註2−−−「中力」という呼称自体には大きな意味はない。ただ、多少の意義が有るとすれば、それは次の点、即ち、自力のつもりで行使する力も、実は自力ではない場合がある、ということに思いを馳せることができるようになる、ということである。
 この意味での「中力」を意識すると、自分自身の懸命な努力を蔑ろにする怠惰で甘ったれた他力本願は間違い、と気付くようになるし、その反対の、自力に頼り過ぎる不信仰な自力本願も間違い、と気付くようになる。
 ところで、「自力本願と他力本願、どちらが正しいか」という議論は、結局は、自力と他力の定義の問題と言え、両者を区別する分水嶺を何処に置くかの問題である。
 そしてこれは、「何を<自己>と呼ぶか、何処までを<自己>の範囲とするか」という自己同一性の問題に帰着する。しかし、この自己同一性の問題は、免疫学的立場から定義する<自己>概念と、精神分析学的立場から定義する<自己>概念とでは決定的なズレが有り、両者を融合させることは不可能であり、その線で議論すると、問題は極めて複雑なものになってしまう。そして「出口無しの迷宮」に入り込んでしまう。
 しかし、思い切って視点を変え、より深く掘り下げて宗教的・霊的立場から捉え直してみる。すると、こう単純化できる。即ち−−−「そもそも『他力・自力』の概念自体、無用なものである。よって、こんなものは思い切って破棄すべきである。そしてその代わりに、超宗教の『無為・有為』の概念を用いれば足りる」−−−と。〕〕〕


(真−10−10)
 克己力は、己れの衝動・欲望・感情等々を制御する力であり、エゴの邪(ヨコシマ)な動きに打ち克つ力である。それ故に、克己力は本来、自力を越えた「無為」の力である。
 自力を使って、自力に対して勝負を挑んでも、完全に勝利を得ることはできない。これはそもそも自己矛盾の行為である。エゴの力によってエゴを抑えようとするならば、矛盾と限界が生じて来る。どんなに努力して気張ってみても、エゴの力によってエゴの邪(よこしま)な働きに完全に打ち克つことは不可能である。(これは−−−<「有為」の力で(…)「有為」の力全部を「抹殺・絶滅」することには自己矛盾が有る>(真−7−8)−−−という一節と完全にパラレルな関係にある。)

 
(真−10−11)
 このことから、次の二つのことが明らかになる。
 一つ目は、エゴ(自我)の邪(よこしま)な動きに対しては、「自力」でいくら「抑圧」しても根本的解決には到らないということ。
 二つ目は、本当に真剣に根本的解決を目指すならば、飽く迄も自力を越えた力としての「克己力」で、エゴの邪な動きを超越して行くようにしなければらないということ。
 それ故、超宗教の大道を志す者は、決して「抑圧」という誤った方法に頼ってはならない。よって、超宗教の大道を行く者の掲げるべき正しい標語は、これである。即ち−−−
<抑圧するな。超越せよ。>〔※註3〕

 
(真−10−12)
〔※註3−−−ここでの「超越」は「すべてかゼロか」といった二者択一的な意味ではなく、漸進的・段階的な自己超越の動き、向上の動きを意味している。
 尚、この標語は、新約聖書ロ−マの信徒への手紙の−−−−「あなたがたは律法の下(モト)ではなく、恵みの下(モト)にいるのです。(…)律法の下(モト)ではなく、恵みの下(モト)にいるのだから、罪を犯してもよいということでしょうか。決してそうではない。」(第6章14、15節)−−−−という聖言の主旨と完全に一致するものである。
 ここでの「恵み」とは、自力を越えたものを広く意味するので、当然、「荘厳なる無為」の力である「中力」の「克己力」も、この「恵み」に含まれる。
 つまり、パウロはここで、 (@)律法を「自力」で遵守しようとする者が、「自力志向の自己抑圧的な者=『恵み』に頼らない不信仰な者」であり、 (A)律法を「恵みの力」で遵守しようとする者が、「他力(というか中力)志向で自己超越して行く者=真の生きた信仰を持つ信徒」 という区別をしているのである。
 このことが分かると、ここでパウロは−−−<“恵みに依り頼む”ことで、煩悩を超越し、律法を全うせよ>−−−と説いているのだと分かる。このことに気付くキリスト者は幸いである。また、この道理に気付くユダヤ教信徒は、全ト−ラ−を全うする偉大なる叡智の道を見出しつつある者と言える。
 ところで、「恵みに依り頼む」とは、どういうことか。これについては、「『真の礼拝』を構成する六件」(真−12−1以下)参照。
 //注終了〕〕〕


(真−10−13)
 エゴの心理的エネルギ−を自力で抑圧すると、恰も蓋をしたまま加熱され続けたビンのように、いつか必ず爆発してしまう。自己抑圧の爆発は、一気に全面的に起こる時もあれば、部分的・間歇的に起こることもある。抑圧は常に無理を伴うものである。それ故、或る限界点を越えると気持ちが切れてしまい、一つの揺り戻し現象が起こる。
 「全面的爆発の場合」は、我慢の限界点に来た時に突如、自己抑圧を全面的に放棄して、それまでとは正反対の極端な放縦と自堕落の生活に飛び込むという形で現れる。
 また、「部分的爆発の場合」は、それまで鬱屈・鬱積して来た強い欲望が、徐々に圧力を上げながら捌け口を求め、抑えの効きにくい“弱い部分”を見つけ出し、そこから間歇泉のように噴出し、折々に見せる「鬱憤晴らしの異常な言動」という形で現れる。

 
(真−10−14)
 自己抑圧は自己検閲を伴うものである。自己抑圧者は、自分の心中に無知で理不尽な「鬼検閲官」を作り出す。そして、この鬼検閲官にやりたい放題やらせてしまい、鬼をのさばらせ、結局この「内的な鬼」に翻弄されることになる。
 自己抑圧者は、自分で作り出した鬼検閲官によって自分自身の欲望を憎み、否定し、打ち叩く。しかし、そうやっていくら自虐的に自分自身を苦しめても、憎むべき自分自身の欲望の蠢きは、根本的には寸毫も解決されない。それ故、捌け口無しに鬱積した欲望のエネルギ−は、歪んだ形で出口としての「表現」を求め、その者の「想念や言動や性格」を歪めて行くことになる。
 そうこうするうち、自己抑圧者はこう考え始める−−−「自分では良いと思って必死に自分を抑圧しているのに、何故自分だけがこんなに苦しまなければならないのか」−−−と。
 そうして、自分だけが味わう「理不尽な苦しみ」に疑問を抱き始め、自分の不幸の故に、幸せそうな他人に対して、「怒りと憎しみと嫉妬」を覚えるようになる。そして、こうした感情は沸々と沸き立って来て、やがて抑えることが難しくなって来る。
 そして、自己抑圧者はこう考える−−−「絶対に、皆も自分と同じ苦しみを受けるべきである。自分と同じ鬼検閲官の管理下に入らなければ絶対に不公平である」−−−と。
 こうなると、自分だけじゃなく、他者をも抑圧するために、刺々しい言葉や感情、怒り等々の毒々しい波動を周囲の人々に噴霧するようになり、鞭を振り回すようになる。
 こうして、一種の異常な性格が見事に出来上がる。

 
(真−10−15)
 自己抑圧者の特徴は「自分では良いと思って必死に<抑圧>という手段を行使する」ことである。そして、抑圧者の悲劇の原因は、抑圧という手段が間違った手段でしかないことに気付かない無知と愚昧さにある。こうした失敗の大沼に落ちることを回避するためには、抑圧という手段では決して勝利は望めず、結局は惨めな有様になるだけである道理を、能々(よくよく)認識することが肝要である。
 正しい知識を持ち、賢い対処法を用いて「結果的に克己力が働く」ようにする者は、幸いである。
 自力を越えた克己力によって、一段一段(又は一皮一皮)超越して行くように心掛ける者は、その賢さ故に幸いである。

 
(真−10−16)
 呉々も誤解することなかれ。
 闇雲に「克己力を働かせよう」と「自力」で踏ん張って、矢鱈に気張っても駄目である。それでは所詮、抑圧行為に陥るのがオチである。また、克己力を一大目的に掲げて修行することも避ける必要が有る。そんな事をすれば、修行に不自然さが生じるので、やがて速やかに失敗する。「克己力」自体が正しい目的地なのではない。飽く迄も−−−
<正しい目的地を目指して「的確な行為」をしたその結果として、克己力が後から自動的に付随して来る>−−−これが法である。首尾良く道を進んで行こうと望む者は、克己力に関するこの道理を深く理解することが肝要である。
 では、克己力を“結果的に”もたらすことになる「的確な行為」とは一体何なのか。 
 この「的確な行為」とは(第四要件後半の文言にある通り)−−−
<「正しい集中」を自覚的に渇望すること>−−−である。〔これは「(内なる)行為」と言える〕〔※註4〕

 
(真−10−17)
〔※註4−−−一般的・抽象的な言い方をして大きく括るならば、「的確な行為」とは「真の礼拝」をすることである(「真の礼拝」を構成する「六要件」は「真−12−1」以下)。
 そして、「真の礼拝」は「形式的な礼拝」とは別次元のものである。後者が誰にでも分かる「外形的行為」であるのに対し、前者は「無形の内実」である「心の或る種の霊的状態」を意味する。そのため、「真の礼拝」は、外形上、無数・無限の行為の中に有り得ることになる。ということは、つまり、克己力を結果的にもたらす「的確な行為」は、外形上、無数・無限に有り得ることになる。
 しかし、それをここで一々限り無く列挙することはできない。それ故、超宗教の大道を伝達する便法として、外形上無数に有り得る「真の礼拝」の中の「普遍的な内的行為」の「中核」となるものをピックアップした。それが<「正しい集中」を自覚的に渇望すること>である。これ無くして「真の礼拝」は有り得ないからである。〕〕〕


(真−10−18)
 では、この「正しい集中」とは、どのような集中なのか。
 ただ漫然と何かを見詰めているだけでは「正しい集中」とは言えない。「正しい集中」とは、正しい目的地に到達することを渇望しながら、其処に意識を集中することである。
 では、この「正しい目的地」とは、一体何か。
 「正しい目的地」は、無論、地理的・物質的な場所ではない。「正しい目的地」は「或る種の内的状態」である。そしてこの「内的状態」とは、「有為」を捨て、「無為」と完全に連結・連動した状態を指す。これがゴ−ルであり、彼岸である。〔※註5〕

 
(真−10−19)
〔※註5−−−「荘厳なる無為」との完全なる連動の中に「個人の救い」がある。「万人の救い」は、万人が漏れ無く「荘厳なる無為」と完全なる連動を達成すること、つまり、「個人の救い」を万人が各人毎に達成した時が「万人の救い」である。
 ところで、大乗仏教の中には、「自分の救いは一番最後で良いから、まず万人を救い給え」と願う祈りがある。この祈りは正しいか否か。
 これは「個人の救い」と「万人の救い」のどちらを優先すべきか、という問題である。
 正解を言うと、“結果的には”「個人の救い」を優先すべきである。何故なら、それが自然な順番だからである。それに、「個人の救い」を達成したらそれで即「万人の救い」を願わないようになる、というわけではないからである。それどころか、「個人の救い」を達成した者(成仏者)の行う「万人の救いを求める願い」は、成仏以前より格段に強くなり、祈りの効果も強力且つ広範に渡るようになる。
 よって、「万人の救い」を一段と強力に祈願するためにも「個人の救い」を優先すべきである。否、より厳密に言うと、「万人の救い」を願いながら霊性修行(菩薩行)に励み、その結果として「個人の救い」を達成するならば、その結果を殊更に拒否すべきではなく、素直に受け入れる−−−こうした態度が最も自然で宜しい、ということである。


(真−10−20)
 これに較べ、「万人の救い」を目的にせず、「自分の救い」だけを目的にして修行し続ける者は、小乗的な目的に終始している者である。確かにこれでも「個人の救い」は達成可能だが、この場合には、彼岸への到達が「万人の救い」のための祈りと活動に直結しない。
 よって、修行を重ねて行く道すがらは、「個人の救い」よりも「万人の救い」を祈念して菩薩行に励む方が遙かに優っている。けれども、一部の大乗仏教徒のように、飽く迄も「『自分の救い』は『万人の救い』の後にして下さい」と断固として言い張るならば、それは「頑な我欲」に当たる、と言うしかない。このような頑迷な「有為」は厳に慎むべきである。
 従って、結論としては、「自分の救い」より「万人の救い」を祈念して進む、という大乗の菩薩行は大いに奨励されるべきであるが、この態度が行き過ぎてはならず、「自分の救いは絶対に最後」と言い張ることなく、自分のことについては、念頭に置かずに忘れているか、「万人の救い」の中に含めて考えておく程度が最も良い。//注終了〕〕〕


(真−10−21)
 以上を纏(まと)めると、こうなる。即ち−−−
<「正しい集中」とは、「荘厳なる無為」との「完全連動」を渇望して、「無為」に意識を向けて集中すること>−−−を意味する。これを実践すれば、「無為」の「中力」が流入して、自動的に克己力が働く。
 よって−−−
<「正しい集中」が有る処には「克己力」も有る。「克己力」が有る処には「正しい集中」も当然有る。「正しい集中」が無いならば「克己力」も無い。「克己力」が無いならば「正しい集中」も当然無い。>−−−これが法である。
 従って−−−
<「正しい集中」こそ「(個人の)救い」に至る“唯一の”「狭き門」>−−−である。
 何故なら、「集中」無くして「克己力」無く、「克己力」無くして「救い」は無いからである。どんなに口先で「私はキリストを信じます」とか「私は仏陀に帰依します」と高らかに宣言しても、ひと時も「正しい集中」ができないで心が散乱しているならば、その信仰者の克己力は一つも働かず、悪に走る「手足と頭」を止めることができず、その者の信仰は「役に立たないもの」になってしまう。〔※註6〕

 
(真−10−22)
〔※註6−−−使徒ヤコブは、あなた方の正しい行いを見せなさい、正しい行いの流出しない信仰は「生きた信仰」ではなく「死んだ信仰」であり、そんな信仰は何の役にも立たない、と説いている。(新約聖書ヤコブの手紙第2章14節以下)
 また、この道理は「念仏行」にも当てはまる。口先だけの「空念仏」で往生できるならば、宗教は無用である。「正しい集中」が無い状態で、心が散乱したまま克己力も働かないまま、ついつい悪に走ってしまう手と足を止めることができない状態のままでも極楽に往生できる、と説くならば、その教えは邪教である。何故なら、これでは極楽が悪の巣窟になってしまうからである。
 この道理を真に理解する「心有る念仏者」は幸いである。その者は、「正しい集中」を伴った真の念仏行に精進するからである。(一念義と多念義の争いの正解については「星−11−13以下) 〕〕〕


(真−10−23)
 真の霊力を伴った真の信仰を持つには、「正しい集中」が必要不可欠の条件になる。
 もしも、信仰者が、一定時間「正しい集中」を捨ててしまうなら、その間、その者の信仰は力の無い虚(ムナ)しい信仰に成り下がってしまう。自分の信仰が虚しい信仰に成り下がって形骸化し、正道から逸れ始めたと気付いたならば、できるだけ早く軌道修正して、真の信仰を取り戻すべく、「正しい集中」に立ち戻らなければならない。
 七転び八起きの精神で、何度でも、何十回、何百回、何千回でも、何万回、何十万回、何百万回、何千万回、何億回でも諦めず、「正しい集中」という狭き門に立ち戻るべきである。
 それ故、次のような「自覚」こそが重要である。即ち−−−
 
    立ち戻れ 立ち戻れ 不屈の気概で立ち戻れ 「無為」の猛火と連動するまで 
  
  こうした「自覚的努力」こそが霊性修行の鍵である。これが、(本章冒頭の第四要件の後半部分)「『正しい集中』を自覚的に渇望すること」の「自覚的に」の第一の意味である。

 
(真−10−24)
 さてここで、誰もが例外なく「大きな壁」にぶつかる。それは、集中力の深さと継続時間の問題である。
 先ず、継続時間の問題について。
 油を器から器に移す時、油は切れ目無く滑らかに流れる。これと同様に、集中力は途切れることなく、力むことなく、滑らかに続いて行くのが理想である。しかし、この理想は余りに高いもので、凡人には達成困難な目標である。いきなり長時間の集中に挑むのは無謀である。また、無茶をすると大変危険なことになる。(精神の受容能力がパンクして、発狂してしまうことさえある。)
 それ故、最初は徒に継続時間を長くしようとするよりも、集中の深さを問題とすべきである。短時間で良いから深い集中ができるようになることが第一である。それができたら、次に深い集中の回数を増やして行く。そして、その次に少しずつ継続時間を伸ばして行く。これが正しい順番である。

(真−10−25)
 集中力の深さの問題について。
 普段から落ち着きのない、散乱した精神状態の人間が、突然深い集中を行おうとするならば、それはその者に強烈な苦痛を引き起こす。慣れない精神状態を突然強要すると、精神が反発するからである。これは丁度、ウォ−ミングアップなしにいきなり激しいスポ−ツをしようとしても、体が付いて来ないのと同じ事である。それ故、普段、余り「集中力」と縁の無い者は、少しずつ慣らして行く「ウォ−ム・アップのステップ」をちゃんと覚える必要が有る。
 肉体の訓練であも、霊的な訓練であも、事前のアップ作業はとても大切である。

 
(真−10−26)
 業の深い者は「正しい集中」をすることに大きな困難を感じる。これは丁度、全く身体を動かさなかったためにすっかり体が鈍(ナマ)って硬くなってしまった者が、スポ−ツすることに困難と苦痛を感じるのと同じ事である。
 そして、取分け重症な場合、例えば、余りに背中を伸ばさないでいたために背中が曲がってしまった場合などは、スポ−ツする以前に、先ずそのリハビリテ−ションから始めなくてはならない。これと同様に、「正しい集中」の場合も、余りに散乱した精神状態のままでいることが普通になってしまった人の場合は、「集中行」以前に、先ずリハビリテ−ションとして、次の三項目、即ち−−−「(A)食生活の改善」(野菜中心の献立の定着化・過食の制御・糖分の制御・正しい知識を持った上での時折の断食行の実践等々) 「(B)肉体の改造」(硬直化した肉体の柔軟化・丹田呼吸ができるような丹田力の養成・全体的体力の向上、取分け持久力の養成等々) 「(C)考え方の改善」(本末転倒した見方をしている部分についての教示を受けながら、少しずつ学び、聖言を味わう力を養成すること等々)−−−から始める必要が有る。
(大抵、集中力の無い者は、上半身が極度に硬直していて、浅い胸式呼吸に終始しており、そのため精神的な緊張を制御できずに、些細な不安や恐怖に振り回されて、小パニックから大パニックまで、すぐに起こしてしまう。それ故、「B」の範疇として、「深い呼吸を身に付ける」ことが重要になる。丹田に力の籠もった深い呼吸ができるようになると、適度にリラックスした、正しくて深い集中力が出て来て、容易に自己制御できるようになる。)

 
(真−10−27)
<少しずつ、少しずつ、そして規則的に>−−−
 これが深い集中力を養成する時の基本である。集中力養成訓練は、丁度、肉体の筋力トレ−ニングに譬えることができる。筋トレでは、一時の「感情や衝動」の盛り上がりに任せてやり過ぎると、後でひどい筋肉痛に襲われてしまう。また、依怙地になって「無理・無茶」をし続けると、トレ−ニングした部位を傷めたり、壊してしまったりする。刹那の衝動に基づく(知恵の無い)「過度の負荷」は、肉体損傷の元(モト)である。
 そうならないためにも、飽く迄も理性的・計画的に、「最大負荷(又は適量負荷)をかけたら、適量の休息を取る」というメニュ−を「規則的に」反復しなければならない。そうする時に初めて、適切な効果を得ることができる。
 怠け癖の有る者は、或るキッカケで一時(トイキッ)熱心にやるが、すぐに飽きてしまい継続できない(三日坊主)。これでは能力の伸長は覚束ない。つまり、“移り気なまま”では深い集中力を獲得することはできないのである。
 兎に角、<継続的な意志の力>で、それに取り組むことが必要である。粘り強く、規則的・理性的に継続するならば、集中力は必ず増進する。そして、「飽く無き反復」によって、集中力の継続時間も徐々に長くなって行くのである。

 
(真−10−28)
 ところで、「正しい集中」は、それが深まって来ると、意識しなくとも自然に「観想」へと移行し、やがて「瞑想」に移行する。
 そもそも集中とは、意識を一点に集めて、そこに意識の焦点を絞り込み、或る部分をクロ−ズアップする作業である。一方、観想や瞑想は、絞り込まれた意識が、反対にそこから拡大して行く状態である。観想の段階は、未だ対象物が有り、それを観ながら思念が活動している状態である。しかし、瞑想の段階に至ると、対象物が有ってもそこに意識の焦点はなく、それを観ていても観ていないで、対象物に対する思念が停止してしまう状態となる。そして、さらに深い瞑想に到ると、サマディ(三昧の境地)に入り、没我の状態となり、対象物が消滅してしまう。〔※註7〕。
 集中では、意志的な緊張が強く働いている。しかし、観想・瞑想の段階に入ると、リラックスの度合いが深まって来る。そして集中時の(或る種の抵抗感から来る)苦痛はすっかり無くなって、「夢中になって時間の経つのも忘れる」という状態になる。心身は脱落して行き、意識は肉体的・物質的な束縛から脱却し始める。それ故、意識は、より自在で繊細・精妙な反応を示すようになり、鋭敏・闊達に働くようになる。そして、集中する前は、ただ単に「粗雑な物質的波動」を感受していた意識が、より霊的で玄妙な波動の感受ができるようになり、霊的ヴィジョンが拡大し始める。そうして、物質的な対象物に対する五感の感受と思念(観念)に意識が行かなくなり、遂にはそれを意識しなくなってしまうのである。(無論、これは高次元の霊妙な世界に意識が行くことで、肉体意識としての気を失ってしまうだけのことであり、外から見ると失神しているようでも、本人に「意識が無い」わけではない。)

 
(真−10−29)
〔※註7−−−何を「瞑想」と呼ぶかについては諸説有る。しかし、本講では、観想と瞑想を「対象物に対する思念(思量)の有無」という一応の目安で区別している。これが分かり易いからである。但し、瞑想の概念を広く考えて、観想は「瞑想の一部」と見ることも充分可能である。両者を峻別することにさしたる意味は無い。重要なのはその実践であり、実践が深まるほどに、観想と瞑想の区別は意味を成さなくなり、本当の深い瞑想(サマディ)に入って行くからである。尚、各種のサマディについては「真−24−4」以下 〕〕〕


(真−10−30)
 (正法の衰微した)末法の世では、「集中・観想・瞑想」の実践について、これを42、195キロのマラソンのようにイメ−ジする者は極めて少ない。多くの者は、精神と肉体を別個のものとして考え、精神的な営みについては、軽く考え勝ちだからである。しかし実際は、精神的営為も“肉体活動を通して”行うので、肉体的コンディションと精神的営為は密接不可分の関係にある。
 それ故、「集中・観想・瞑想」の実践は、極めて肉体的営為であり、長時間の「集中・観想・瞑想」を実践するためには、その基本として、「それに関わる特別な体力」が必要になる。
 
これをここでは−−−<内的筋力>−−−と呼ぶことにする。何故なら、「集中に関わる特別な体力」は「一種の精神的筋力」と言って良いからである。
 このように見ると、「深い集中力」は「強靱な内的筋力」を獲得した時に初めて発揮できるもの、と分かるであろう。丁度、ボディ−・ビルダ−が日々の筋トレによって、筋肉隆々になって行くように、修行者も「内的筋力」を日々鍛えることで、それを強靱なものにして行かねばならない。或いは、マラソンランナ−が日々の走り込みによって、(心肺機能を高め、無駄な脂肪を落として行き)、体を軽く感じつつ、リズミカルで、軽快且つ流れるような長距離走行が可能になって行くように、修行者も、内的筋力を強靱なものにして行くことで、軽快且つ流れるような集中力の持続を可能にして行かねばならない。

 
(真−10−31)
 「内的筋力」という概念を認識すると、次のことも明らかになる。即ち−−−
<強靱な内的筋力は、一朝一夕で出来上がるものではない。また、一朝一夕で失われるものでもない。>−−−これが法である、と。
 長い期間「奮闘努力」して、或る程度の内的筋力を身に付けた場合、その内的筋力をあっという間に全部失ってしまうということは有り得ない。つまり、たとえ片時、内的筋力を行使する渇望と意欲を失ったとしても、すぐさま気を取り直して渇望し意欲すれば、速やかに内的筋力が作動し、「正しい集中」に入ることができ、克己力も働く状態になる。
 しかし、怠惰で肉欲的な生活に溺れ、内的筋力を全然行使しないまま長期間過ごすならば、どんどん内的筋力は落ちて行く。そうなると、或る時突然気を取り直して、「正しい集中」を渇望し意欲しても、既に弱ってしまった内的筋力では、(僅かの時間「集中」しただけで苦しくなってしまい)以前のように「集中」することができなくなってしまう。こうなると、「こんな筈ではない」と焦って、無理やり「集中」しようとして、多くのストレスを生み、それが大失敗の原因に繋がってしまう。
 それ故、昔取った杵柄を取り戻すべく、或る程度の内的筋力を回復するには、焦る気持ちを抑える「理性」が必要になり、且つ、継続的な意志と地道で辛い努力(根気)、そしてそれを反復して鍛練し直す「長い時間」が必要になってしまう。
 「内的筋力の回復には多大な苦痛と努力と期間が必要なり」と正しく認識する者は、幸いである。その者は自ずと、それ迄に獲得した内的筋力が衰えてしまわないように、日々“自覚的に”使用し、それを更に錬成して行くように心掛けるようになるからである。

 
(真−10−32)
 修行者の最終的な目標は、二十四時間「克己力」が働いている状態に入ることである。
 これはつまり、二十四時間「正しい集中(観想・瞑想)」をすることができるだけの「強靱な(そして超人的な)内的筋力」の錬成こそが(当面の)「個人的な最終目標」であることを意味する。
 彼岸に到達した聖者になると、鼻提灯を作って居眠りしていても、「正しい集中(観想・瞑想)」が維持されている。何故なら、眠っていても、意識は霊界に有り、睡眠から目覚めた時には、霊界での覚醒意識と地上で目が覚めた時の覚醒意識との間に(忘却の)断絶が無く、意識の連続性を維持しているからである(詳細は、真−25−23「註D」)。つまり、こうなると、「正しい集中(観想・瞑想)」のための努力は不要になる。
 しかし、凡人はこうしたレベルにはないので、「正しい集中」が破れないように、飽く迄も「意識的・自覚的に」をそれを守って行かねばならない。
 そうした注意を怠って油断すると、「正しい集中」はすぐに破れて崩壊してしまう。
 穢れた霊の軍団も、修行者が中道からどんどん逸れて行くように、様々な悪い波動の影響力を行使して来る。それ故、本当に“自覚的に”自らの「正しい集中」を守るようにしなければ、首尾良く穢れた霊の軍団の影響力を越えて行くことは決してできない。

 
(真−10−33)
 まことに、「正しい集中」は、道を行く者の「霊的な眼」である。
 ユダヤ教聖書の士師記に記された怪力サムソンは、油断して防御を怠ったために、敵に眼を抉(エグ)られ、霊的能力の象徴としての髪の毛を切られ、捕囚の身に成り下がって非業の死を遂げることになる。
 このエピソ−ドと同様に、穢れた霊の軍団は、修行者の「霊的な眼」である「正しい集中」を抉(えぐ)り出し、完全に(その眼を)潰してしまおう、と虎視眈々と狙っている。
 こうした危険を能々(よくよく)自覚して、「適正な危機管理意識」を持たなければ、敵を甘く見てしまうことになり、その侮りと愚かな油断の故に、サムソンの如き悲惨な大失敗に陥ってしまう。
 だからこそ、本当に細心の注意を払って、能々警戒し、自覚的に、自覚的に、<「正しい集中」を求める渇望心>が失われないように「何としてもこれを守り抜こう」という心構えが肝要なのである。こうした「自覚的努力」こそが霊性修行の鍵である。
 これが、(本章冒頭の第四要件の後半部分)「『正しい集中』を自覚的に渇望すること」の「自覚的に」の第二の意味である。
(以上を纏めると、ア.「正しい集中」に何度でも立ち帰ろうという自覚 イ.立ち戻ったら「正しい集中」が破れないように、この渇望心を何としても守り抜こうとする自覚 この「二種類の自覚」を喪失してはならない、ということである。)

 
(真−10−34)
 穢(けが)れた霊の軍団は、向上の道を行く者を阻止し、妨害し、破滅させようと常に狙っている。そもそも、穢れた霊の軍団は、克己力を放棄して肉欲のままに活動する「利己性の塊」の集団である。自分が脱落者であるが故に、彼らは向上の道を行く者たちを快く思わず、黒く燃える嫉妬心に駆られて、「何とか足を引っ張ってやろう」「何とか向上の階段から蹴落としてやろう」「何とか破滅の境涯まで引きずり込んでやろう」と虎視眈々と狙っている。
 そうして、誘惑の罠を仕掛け、それがうまく行き、計画通りに修行者を堕落させて肉欲の虜にしてしまうと、「やった、やった、また仲間ができた」と大喜びして、低俗な満足を得るのである。

 
(真−10−35)
 穢れた霊の軍団とは、肉欲に塗れた者が死後霊界で群れとなり、巨大な渦巻く「有為」の波動を形成している集団のことである。しかし、だからといって、この悪しき軍団の悪の力を闇雲に恐れることはない。
 圧倒的な覇権は、飽く迄も「荘厳な無為」の側に有る(真−2−26以下)。「有為」が限り無く増大して行き、遂には「荘厳なる無為」をも喰い尽くしてしまう、ということは有り得ない。「有為」がどんなに増殖したとしても、全宇宙的なマクロ的視座からすると、「荘厳なる無為」(という巨人)〔※註8〕にとってみれば、それは虫刺され程度のものに過ぎない。ちょっと薬をつけて放っておけば、その腫れは跡形もなく消え去ってしまう。
 このように、偉大なる「無為」の活動にとっては、「有為」の活動の群れなど、全く取るに足りないものである。ひと度「無為」が(虫に刺された巨人の皮膚の)表面に顕現するならば、(腫れ物である)「有為」は、駆逐され、雲散霧消する以外ない。
〔※註8−−−ここでは、「荘厳なる無為」を巨人に譬えているが、同様の原理は、「金塊に付着する汚泥」(真−18−26以下)又は「千手観音の手人形劇」(空−5−11以下)又は「透明な巨人とその衣服」にも譬えることができる。//〕〕


(真−10−36)
 「荘厳なる無為」の力がこの世に“顕現する度合い”に応じて、穢れた霊の悪の力は駆逐されて行く。つまり−−−
<「無為」が顕現する処では「有為」は活動できない>−−−
<穢れた霊の軍団の「有為」は、地上の人々の内的な「有為」と連動した時に初めてその力を地上で発揮することができる>−−−これが法である。
 従って、地上の人間一人一人が克己力を働かせて、自分の「有為」の活動を正しい方法で制御・減殺して行くならば、穢れた霊の軍団も、その悪の影響力を弱めて行かざるを得ない。これが道理である。
 即ち、地上の人々の中に、「正しい集中」の実践と維持が普及し、克己力が流入するほどに、穢れた霊の影響力は駆逐されて行くしかないのである。
 こうした道理を理解するならば、穢れた霊の軍団の悪の力を闇雲に恐れる必要はない。飽く迄も圧倒的な覇権は「荘厳なる無為」の側に有る。これに対する信頼が裏切られることは有り得ない。これが法であり、不動の真理・真実だからである。

 
(真−10−37)
 「正しい集中」という聖なる「狭き門」の中に入ってしまう人間に対しては、穢れた霊の軍団は手出しすることができない。何故なら、その門の中では「荘厳なる無為」の圧倒的な力が作用して、「正しい集中」をしている者を取り囲んで守るからである。
 この場合、穢れた霊の軍団にできることは唯一、修行者が「正しい集中」という「聖門」から自分でのこのこと出て来るように、色々な小細工をすることである。(彼らには、本当にこれしかやりようがない)。
 そして、彼らの小細工とは、その者の眼前に、見た目に美しい多種多様の美味しそうな「ソドムの果物」〔※註9〕を並べて「誘う」ことだけである。


〔※註9−−−本講では、「諸々の悪徳」の霊的象徴として、「ソドムの果物」という用語を使うことにする。ソドムは、ユダヤ教聖書「創世記」(18章16節以下)に登場する肉欲と悪徳に塗れた町である。それ故、ここでは「肉欲の巣窟」で結実する諸々の悪徳を「ソドム(産)の果物」と呼んで、象徴的に表現することにする。//〕〕


(真−10−38)
 宗教の道を行く者は誰でも−−−
<ソドムの果物に手を出すことなかれ。ソドムの果物を食べることなかれ。>−−−
 とは言え、それを一かけらも食べずにいられるのは、聖者だけである。凡人は、ソドムの果物の誘惑を完全に退けることはできない。ただ、「できる限り」避けることができるだけである。だからこそ、修道者は、常に「謙虚に悔いる精神」を保持して、自覚的に「正しい集中」を渇望し、「正しい集中」に何度でも立ち戻り、克己力が働くように励むことが必要なのである。
 そして、この「立ち戻る」訓練を決して止めずに反復し続けることによって、内的筋力が増大して来るならば、それに比例して、ソドムの果物の誘惑に屈する度合いも回数も減少して行く。また、たとえ誘惑に屈した場合でも、ソドムの果物に見境なく武者振り付くことはなくなって行き、或る程度の抑制が効くようになり、ソドムの果物を齧(かじ)る分量も確実に減少して行く。

 
(真−10−39)
 これは、内的筋力の増大に比例して、克己力も確実に増大して行く結果起こる内的変化である。内的筋力が増大すると、霊的感覚が鋭敏になるため、ソドムの果物を見た時に、その中身がブヨブヨに腐敗していることを見透かすことができ、更に、そこに一種の「毒気と臭気」が漂う有り様をはっきり感じ取れるようになる。これが鮮明に感取できるようになるほど、ソドムの果物の魅力は色褪せて行く。
 一方、内的筋力の弱い者は、物質的波動に浸っているために、霊的感覚が殆ど働かず、ソドムの果物を見た時に、その中身の腐敗を見透かすことができず、外観の美しさにすっかり幻惑・魅了されてしまい、更に、この果物の持つ「毒気と臭気」を全然感じ取ることができず、反対に、「何て素晴らしい匂い!」「何とうっとりさせられる香気!」と感じてしまう。それ故に、ソドムの果物の誘惑を退けることができなくなるのである。

 
(真−10−40)
 穢(けが)れた霊の軍団は、道を行く者の周囲に、如何にも美味しそうなソドム産の、リンゴ、桃、ザクロ、バナナ、ブル−ベリ−、オレンジ等々の果物を陳列し、又は撒き散らす。
 そして、それらの誘惑に負けて、ソドムの果物に手を出し、これを齧(カジ)るほどに、修道者の「有為」は刺激され、増大してしまう。そして、この毒果実を多く食べれば食べるほど、穢れた霊の軍団の「悪い影響力」は強くなって行き、邪霊の支配力は強くなって行き、そうした悪い力からの脱却が困難になってしまう。(ソドムの果物の持つ「二種の毒素」については真−12−26〜28)
 それ故、穢れた霊の軍団の強い支配力の下に引きずり込まれる前に、「強い決意」「不屈の気概」を呼び起こし、「正しい集中」に立ち戻る習慣を付けることが肝要である。

 
(真−10−41)
 穢れた霊の軍団による「ソドムの果物撒き散らし作戦」は、修道者が正しい目的地にゴ−ルするまで続く。修道者は、それによって煩悶や葛藤を経験しつつ、それでも不屈の決意で「正しい集中」に立ち戻ることで、そうした煩悶や葛藤をその都度一段ずつ超越しながら、徐々に進歩して行くのである。
 何人も、このプロセスを踏むことなしに進歩することはできない。(各人のゲツセマネの園については「無自性自覚」真−23−38「註13」、星−4−14〜16)

 
(真−10−42)
 穢れた霊の軍団の「無数の誘惑の罠」を「生きた信仰」と「正しい集中」によって首尾良く乗り越えて行く者は、幸いである。無限の祝福は、その者の上に注がれるからである。
 それ故、中道を志す者の「要諦の中の要諦」はこれである。即ち−−−
 
 立ち戻れ 立ち戻れ 「正しき集中」に立ち戻れ 祝福の海に没入し切るまで 
 
 −−−以上で、中道を行くための「四要件」、その第四要件の解説を終了する。
 

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