対話1 
 
対話2 
 
対話3 
 
 
 
 
2005年5月4日(火)
碧海龍雨との対話 2005年5月4日(火) Page-up
●<対話の中での重要論点集>
−−内的筋力とは/スープリーム・マントラ/マントラ全般の正しい唱え方/本仏とは  等々−−

■■■ AKさん ■■■
 日蓮曰く「太陽は一つしかないように、真実の教えも一つしかない」とありますが、そうではないということを確信することが出来ました。これも碧海先生のお陰です。今では、よい宗教は何でも取り入れていこうという心構えでいます。(・・・)
お伺いしますが、真のサマディ体験に入るための鍛錬方法というものがあると思いますが、それらは身体に無理を強いたり、酸欠状態を作るようなことではないということでしょうか?
そういった苦行のようなことは一切行わなくても、鍛錬は可能ということでしょうか?
また、先生の著作の中に、内的筋力という用語がありますが、これは、そのまま内的な筋力という意味に捉えて宜しいのでしょうか?
それとも心的な筋力ということでしょうか?
内的筋力を養う為の、鍛練方法があれば教えてください。
 
■■■ 碧海 ■■■
 内的筋力とは、集中力の持続力のことと考えて下さい。強烈な集中力を持っている人というのは存在します。たとえば、受験勉強で8時間、10時間ぶっ続けで高い集中力で勉強し続ける能力も、その一つです。こういう人は、三カ月あれば語学一つはマスターできる、などともいいます。
こうした高度な持続的集中力を「真の神に向けた」時に、サマディーの扉が開かれます。それだけ、熱く神を愛し求めるということです。

ただ、強烈な集中力をぶっ続けると、肉体の方が耐えられずに体を壊してしまうことがあります。それだけに、強烈な集中力をぶっ続けで行使し続けられる体力も同時に養うことが必要になります。ジョギングの習慣を付け、血行を良くし、マラソンができるような体力をつけることも結構、重要です。
それか、丹田呼吸法が充分にできるようにすることも大切です。ハタ・ヨーガで肉体の柔軟性を高めることも無駄ではありません。

集中力を養う方法は色々あります。
私の書いたスートラの内容に集中し続けるのもその一つですし、各種のお経、法華経などの口語訳を深く集中して読み続け、その内容に意識をあわせるのも、修行です。
それができる時間を徐々に長くして行きます。
超越意識写真や聖者の写真と にらめっこ礼拝する集中法もあります。
24時間、バジャン(宗教歌)を歌い続ける修行法もあります。これは、サイババのセンターに行けば、20分ぐらいのバジャンは体験できますし、半年に一度ぐらいは、24時間バジャンをやっているでしょう。誰でも参加できます。
般若宗のリンクから見て下さい。(2派あります)

 
★<スープリーム・マントラ>★ をお教えしましょう。
Supreme(スープリーム)と唱えます。
至高の神のことです。
シュリ・オーロビンドが使いはじめた英語の神の呼び名です。
シュリ・チンモイに引き継がれています。

スープリーム   リームは、長く長く唱えます。スーの三倍以上伸ばします。
スー(2秒)プリーム(6秒) ぐらいが一つの目安です。これを何度もくりかえします。
至高の神そのものですから、神を想って、このマントラを唱え続けます。
ジャパのように、1秒〜1.5秒ぐらいでスープリームと早く言ってしまい、それを何度も高速で繰り返す方法もあります。

■■■ AKさん ■■■
 早速、一時間唱えました。これはこれは、凄い威力ですね!
一回唱えただけでも、自己が清浄になってゆくのが感じられました。(南無妙法蓮華経の)唱題行は、私にとっては今のところ、15分30分と唱えていく内に徐々に神覚を増していく、しかも胸の奥を中心に、といった感じでしたが、スープリームマントラは速やかに、しかも全身が清浄になるといった印象でした。しかし、英語のマントラでこれほど強力なものがあったとは驚きです。教えて頂いて有難う御座います。
(・・・)
結局、10年20年と修行して、少しずつ近づいていくしかないのでしょうか。先生の著作の中に、「ジェット機に乗ったようなスピードで〜」とありますが、それでも1年2年でゴールできるようなものではないということでしょうか。

 ■■■ 碧海 ■■■
 大リーグの松井秀喜やイチローのような人には、すぐにはなれません。また、誰でもなれるわけでもありません。しかし、とにかく、努力の積み重ねです。天才系の人は、前世からの努力が積み重なった結果として、輝かしい今があるのです。その意味で、その人のスタート時点がどの程度のレベルなのか、が修行の達成度を判別する大きな基準になります。真我瞑想法スートラの21章・22章には、「機根三気質」論やギータの「三グナ論」があります。自分の気質がどの気質を多く含むのか、自己観察することで、気質のレベルをある程度、自己判定できるでしょう。
    ⇒サットヴァが優勢な人の12の特徴はこちら。
    ⇒ラジャスが優勢な人の12の特徴はこちら。
    ⇒タマスが優勢な人の12の特徴はこちら。

また、自己判定のためには、モーセの十戒 と にらめっこすることも大切です。
聖者は、十戒を完全に守れますが、凡人はこれを完璧に守ることはできません。十戒をどの程度逸脱しているか、自己判定することで、自分のレベルを自己判定することも、ある程度可能です。

サマディーや自己超越は、自力的努力半分、しかし、重要なのは、そのこちら側の努力を見て、それに応えて下さる神の恩寵の力なのです。
神さまが、「この者がこんなことをやっているうちは、最高度の恩寵はまだやれない」
と思われてしまうような生活をしていれば、こちら側の努力に問題があるということであり、いくら努力しても扉は開きません。
神さまからみて、信頼を得るような人格と生活をしっかり整えることが、宗教の基本中の基本です。

なお、唱題行に関しては、「機械的な反復」にならないようにということだけ、気をつけて下さい。
色々注意点がありますが、それは後日にします。
ハートがこもった形でマントラを唱えないと、とてもまずいことになります。
あくまで意味を深くを味わいながら心をこめることです。

バジャンは、歌なので、歌詞が日本語ならば、ハートをこめられます。だから、24時間バジャンは、強烈な効果を発揮するわけです。
スープリームマントラも同様で、神を呼び求めるハートを第一に大切にして下さい。それが喪失した機械的な反復は避けるようにして下さい。

■■■ AKさん ■■■
(唱題行に関して)機械的に唱えてしまうと功徳が減殺されてしまうというのは分かりますが、まずいことになるというのはどういうことなのでしょうか?
スープリームマントラの場合は、自然に集中できて、主を呼び求める渇仰心が自然と湧きますね。(煩悩の多い私でも自然に集中できます)ながーく伸ばすところが深い瞑想を誘います。それにしてもスープリームは凄いですね〜!最近は唱題行そっちのけで唱えています。スープリームという呼びかけに対し、息継ぎをするときに主がそれに応えて活力を与えてくださるような感じです。

 ■■■ 碧海 ■■■
日蓮系統の宗教教団が国際的に欧米のキリスト教文化圏でどのように布教しているのか、興味があります。というのも、キリスト教文化圏では、「マントラ行は正しくない」という風にイエス・キリストが教えたと理解しているクリスチャンがほとんどだろうからです。
新約聖書の中で、使徒パウロは、次のように教えています。コリントへの第一の手紙 第13章冒頭よりここは有名な「愛」の教えです。
「そこで、わたしはあなたがたち最高の道を教えます。たとえ人々の異言(イゲン)、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私たちは騒がしいドラ、やかましいシンバル。・・・・」
以下、愛がなければ無に等しいという教えが滔々と語られます。キリスト教文化圏では、知らない人がいないぐらい有名な部分です。

日蓮宗(系統)では、ドラを叩きながら唱題行をしますね。こうした祈り方はキリスト教文化圏では嫌われます。野球場での応援の仕方にもそれが反映しています。大リーグでは、鳴り物は使いません。日本では鳴り物を使い、マントラのように「かっとばせ」などを連呼します。
この違いは、キリストの教えに根っこがあると言えるのではないでしょうか。
イエス・キリストは、異教徒のような祈り方をするな、と戒め、「主の祈り」だけ教えます。沈黙の祈りの中の神との対話を重視する祈り方です。
キリスト教文化圏では政府がNotice & Hearing の手法(国民に通知して国民の声を聴く)がありますが、これは祈りの手法を真似たものでキリスト教では、神にこちらのことを告げ、そして祈りの中で神からの返答に耳を傾ける  
このような祈り方をします。

また、真の瞑想は、言語を超えたものであり、祈りの言葉が口から出ているようでは、まだ浅い祈りと瞑想に過ぎない、という基本認識がキリスト教にはあります。
そして、この点は、真実・真理です。

サマディーは、マントラを唱えながら入れるようなものではありません。マントラを止めた、高い沈黙の祈りと瞑想のレベルに到って、始めて、サマディーの扉が開くわけです。

その意味で、マントラは、あくまでも「途中の手段」にすぎません。
マントラ行で加速度をつけたところで、沈黙の瞑想に入ります。そうした高い意識を味わうのです。

また、モーゼの十戒の第三戒には、神の名をみだりに唱えるべからず、という戒めがあります。
「みだりに唱える」の「みだりに」とはどういうことか?
が問題です。
(この点は、世界で一番詳しく精密な解釈をいずれユダヤ・キリスト教系電子書籍としてWebにアップする予定ですが、大雑把に言うと)  
「機械的に唱えると、効果が薄くなる⇒効果のない状態で唱え続けると神の冒とくになるし、マントラの冒とくになる」ということです。

本来、神聖なマントラを唱えることは−−「悪行防止の効果がある」−−わけですが、神聖なマントラが悪行を止める効果を失ってしまうと、−−<悪行をしながら神聖マントラを唱える状態>−− になってしまい、マントラの神力は失われるばかりか、マントラへの信頼感すなわち「悪行をとめる法力がある」という信頼感も、どこかへすっかり消えてしまい、「そんな効果全然ないじゃん」という批判的な意見となり、マントラへの信仰が消えてしまい、マントラの神聖を冒とくする状態になります。

また、機械的な唱題行の中で、我の強い人は、知らず知らずのうちに、本人はそれと意識せずとも、自分のエゴの欲望を叶えようとする−−「私利私欲成就祈願のマントラ行」−−にしてしまうこともあります。これは魔術の世界です。
そうなると、霊的には、祈らないより悪いので、霊的な禍がもたらされます。

というわけで、マントラは強力なマントラであるほど、神聖に扱うことが必要で、いくら沢山唱えてもよいのですが、必ず、「真心をこめること」 が必要です。
また、「無私の愛にもとづくこと」が必要です。それが欠けると知らず知らずのうちに「みだりに唱える」レベルに入って行ってしまいますから、よくよく注意して下さい。

ある教団では、こうした重要事項を教えないために、信者がまちがったマントラ行を実践して、それにより各種の禍を受けて不幸を味わっている−−−そういう人々がわたしの身近にも見受けられます。

■■■ AKさん ■■■
大リーグの応援はどうして日本の応援とこうも違うのだろうと思っていましたが、なるほど、そういう事情があったのですね。日本のように、意地でも鳴り物に拘るのがむしろ異常に思えます。日本人は自己の大人しさをなんとか打破する為に、鳴り物や、皆と声を合わせたりして発散しているというのもあるでしょうね。

(・・・)般若心経のマントラ、初めのうちは題目を唱えるような感覚で唱えていた為か、「あれ、こんなものか」といった印象でしたが、先生が「霊的な事柄に関するなんでも相談会議室」の中で、般若心経マントラの唱え方について説明されているのを見て、その通りに文節毎に心を込めて唱えたところ、たちまち強い霊性が流入されるのを感じました。スープリームマントラよりも更に強烈でした。
5分で充分だとも書かれていらっしゃいましたが、まさしくその通り、このマントラこそ無上のマントラであると痛感しました。AUMマントラも強力ですね。
まだまだ、マントラ行で加速度をつけて行かねばなりませんので、マントラ行に勤しんでいきたいと思います。

(・・・)
 ■■■ 碧海 ■■■
(「日蓮本仏論」の話題が出たのを受けての発言)
今回は、一つ確認しておきましょう。用語の問題です。
「日蓮本仏論」における「本仏」とは、「本当の仏」すなわち、ここでは久遠実成の釈迦牟尼如来、を指しますので、日蓮こそが永遠不滅の報身仏である釈迦牟尼如来の化身だと信じる見方のことです。
 しかし、法華教団以外では、「本仏」という「本当の仏」が指すものは、根源の空なる「真の無形の神」、密教で言えば、「本地」とか「本地身」と呼ぶ大日如来のこと、そして、哲理概念としては、「自性という性質を具備した存在」ということになります。
「本仏」は、物的身体という個体的限定を超えた存在です。従って、厳密には、肉体身の人間については、聖者であってもこれを本仏と言うべきではありません。
しかし、バクティー信仰にあっては、ちょっと違います。

たとえば、イエス・キリストを、−−−本仏・本神・自性具備した無形無限のヤハウェーそのものが、「肉という衣」をまとって地上に降臨した、−−−このように信じる立場があります。
この場合、イエス・キリストは、父なる神そのもの、と見ることになります。
こうしたバクティー信仰と同じ系統として日蓮を久遠本仏(そのもの、または受肉した化身)と見る信仰も、ありえないことはありません。

しかし、叡智のヨーガでは、「自性ある存在」と「自性無き存在」を峻別します。
この場合、<有限なる個体>そのものは、「本地神」の一部へんげ身と見ることはあっても、それはあくまでも「無自性存在」であって、「本地神」の「本地」とは別だ、という分け方をします。

ということは、さきほどのようなバクティーは、一つの方便的手法であって、真実のヴィジョンではありません。
特定対象である、自分の信仰する聖者を「神そのもの」とか「本仏そのもの」と信じきることで、その特定対象に、帰依して放棄をして自分を明け渡して行く手法としてのバクティー信仰なのです。

釈尊という用語も同様です。釈尊を不滅の久遠本仏として信仰するバクティー信仰で行くならば、釈尊は肉体を失っても、死なず、法華経などの大乗仏典の真の話者は、同一の釈尊だと信じ込む態度になります。

しかし、肉体身の釈尊の説法だけを 本当の仏陀釈尊の説法とし、釈尊入滅後の仏典や密教経典の説法者は、「本地仏・大日如来」と理解する見方、それが、叡智のヨーガです。
もっと言えば、久遠本仏=本地身=大日如来=大日空王主=真の神=自性具備した存在=ヤハウェー
このように理解した時
肉体身の釈尊を動かす真の主体こそが  無形・不生の本仏であると見、肉体身のイエス・キリストを動かす真の主体も、無形・不生の本仏であると見、肉体身で成道した時点の日蓮 を動かす真の主体も無形・不生の本仏であると見る、
こうした「一元論哲学的な」または「本覚思想」にもとづく見方、これが叡智のヨーガのヴィジョンです。

そして、真の主体である「本地」とのヨーガ(結合・連動)を見事に達成した人間を「聖者」と呼ぶわけです。従って、
聖者にあらざる者は、「本地」と全面的連動を達成していないので、「本地神」の望まない「離反的行動=罪となる言動」を行ってしまうわけです。

なお、上で触れた「聖者を本地神と同一視するバクティー信仰」は厳密にいうと、正しくありません。「個体の魂」という問題があり、
イエズス・キリストには、イエズスという個体魂があり、
ゴータマ・ブッダには、ゴータマ・シッダールタという個体魂があり、
各人にも個体魂がありますから、それが「本地神」と連動する場合でも「本地神」とは即、完全同一、というわけがないのです。
たとえて言うならば、この連動現象は、本地神が、神に明け渡され捧げられた帰依者の個体魂を本地神の「楽器」として受け入れ(嘉納し)取り上げて、それに口づけしながら息を通して、音を出して、音楽を奏でるようなものです。

各聖者の個体魂も、性格や得意分野が別々であり、神が同じ息を吹き込んでも、音色が全然違います。楽器が違えば音色も違う。そうなれば、吹き手も、楽器に合ったメロディー、その楽器を一番よく活かすメロディーを奏でるでしょう。
ですから、各聖者の説法は、完全に同一ではなく、個性があるのです。

これが私が提唱する真の正しいヴィジョン「一般本地垂迹理論」 です。

真のヴィジョンを会得していただけましたでしょうか?

■■■ AKさん ■■■
ということは、一つの方便として、飽く迄も個体の魂に本地神が宿っているという見方でバクティー信仰をしていくというのが正しいということですね。その方が速やかに大悟に至ることができるということでしょうか。
「一般本地垂迹理論」ご教授頂き有難う御座います。更に深く理解できました。





[ 5月4日 更新 ]


前後の●●

▼▼レヘム総研 ホームへ▲▲
論点トピックス
5月3日 人類の始祖はアダムとエバなのか?−−マリアの処女懐胎説の真偽と共に考える
5月4日 クンダリーニをめぐる諸問題について  
メルマガ・バックナンバー



Copyright (C) 2005-2012 碧海龍雨 無断転用を禁じます。
Copyright (C) 2005-21012 Aomi Ryu. All Rights Reserved.