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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第22章(第5段階)「機根三気質」に通暁する(下)New!

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第二十二章  ブッディ・ヨーガの第5段階
      〜〜〜〜「機根三気質」に通暁する(下)〜〜〜〜〜

(真−22−1)
【第五段階】 「機根三気質」に通暁する(下)
 
 (前章で見た通り) 「随光性・矜持(キョウジ)性・荒頽(コウタイ)性」という「機根三気質」は、超宗教的・普遍的な三分法である。どんな人間、どんな宗教の信徒に対しても、この三分法で「機根分析」することできる。
 例えば、ユダヤ教を信じたからと言ってそれだけで即、偉くなるわけではない。キリスト教を信じたからと言ってそれだけで即、愛有る者になるわけではない。仏教を信じたからと言ってそれだけで即、賢くなるわけではない。ヒンドゥ−教を信じたからと言ってそれだけで即、霊的視野が広くなるわけではない。イスラム教を信じたからと言ってそれだけで即、信仰深くなるわけではない。
 何故なら、どんな宗教を信じようとも、それとは関係無しに、各宗教の信徒の「機根」を見た時に、慰安的光明志向性気質(の度合い)が少なくて、他の二つ(覇権的名誉追求性気質と荒頽的暗黒粘着性気質)が強いならば、その者は、まだまだ未熟者でしかないからである。
 よって、どの宗教(宗派)の人間も、自身の機根三気質についてよく洞察し、(自分の)三気質の多寡優劣について能々(ヨクヨク)自覚すべきである。

 
(真−22−2)
 ところで、普遍的な機根分類法としては、もう一つ−−−<インドの「三グナ説」>−−−を挙げる必要が有る。
 何故なら、この三グナ説は、インド宗教思想の中でとても重要な位置を占めるに至った考え方だからである。
(グナとは、属性・徳性という意味。素因とも訳される。)

 古代インド思想の中に、サ−ンキア哲学
というものが生まれた。
この学派は−−−「万物万象はサットヴァ・ラジャス・タマスという三種のグナによって構成されている」−−−と主張した。
〔日本では、「サットヴァ」を「浄性」(又は善性・純質)、「ラジャス」を「激性」(又は動性・激質)、「タマス」を「暗性」(又は鈍性・翳質)、などと訳している。〕

 
(真−22−3)
 この原始のサ−ンキア学派の思想の中で、押さえて置くべき点を、次に示す。
 この学派は、(信仰深いインドにあっては珍しく)全能者としてのブラフマン(梵)の存在を否定した。
そして、その代わりに「純粋精神(プルシャ)」と「物的無形原質(プラクリティ)」という二種類の「永久不滅の実在」を想定した。
つまり、万物を創造する知性有る全能者としての、絶対にして遍満するブラフマンの存在を認めない代わりに、「遍満する無形の純粋精神」と「遍満する無形の(物質の素となる)物的原質」という二種類の「不滅の実在」を想定(イメ−ジ)した。(但し、この二種の実在が何故存在するのか、どうして出来たのかについては沈黙する。)
 そして、この物的無形原質(プラクリティ)は、三種の構成要素(グナ)から成っており、この三グナ(三素因)が活動して、様々な配分で融合することで物質世界が生起するのだ、と想像の翼を拡げたのである。
 こうしたサーンキア哲学における「世界生起に関する三グナ説」は、最初に考案された時点では、前述の「超宗教の機根三分法」とは異なり、善悪の視点を含まないものであった。それは丁度、ケ−キが善悪とは何の関係もなく、砂糖と小麦粉と卵などから出来ているのと同様に、万物万象が、善悪とは何の関係もなく、三種のグナの様々な配合具合によって出来ている、とする説であった。

 
(真−22−4)
 原始のサ−ンキア学派の三グナ説は真理・真実ではないので、この学説を学習することに大きな意味はない。
しかし、「誤解の構造」を押さえる意味では、それなりに重要である。よって、この「原初の三グナ説」を少し詳しく見て置くことにする。
 先ず、この学派は、「純粋精神(霊)」と「物質」とを完全に峻別する所から出発する。
 「純粋精神(霊)」は「物質」では有り得ず、「物質」は「純粋精神(霊)」では有り得ないと考える。そして、人間を初めとする生物一般は、「純粋精神(霊)」と「物質」とが結合(融合)した存在だと考える。そして、「純粋精神(プルシャ)」と「物的無形原質(プラクリティ)」という二種の実在は相互補完関係、それも陰陽の原理・男女両性原理の関係にあると見る。

 
(真−22−5)
 男性原理としての「純粋精神」は、ひたすら観照するだけの傍観者的精神(霊)であり、非活動者であり、常住不滅・純粋清浄な存在とイメ−ジされる。そして、「純粋精神(霊)」の本質は、(超越的な)「大叡智」であり、純粋意識(チット)であるとされる。
 一方、女性原理としての「物的無形原質」は、受容的な受け身の存在であり、元来は静的な存在とされる。しかし、ひと度、男女が性交して受精すると、その後男性の働きかけが一切なくとも、女性は子供を身籠もり、子宮の中で胎児を育み始める。これと同様に、男性原理である「純粋精神」が女性原理である「物的無形原質」とひと度結合すると、それが契機となって、その後「純粋精神」が如何なる働きかけもせず、傍観一本槍であっても、「物的無形原質」は粛々と能動的に活動を始め、具体的な「有形」の物質に「成る」ことを始める。
 つまり、「物的無形原質」の中の「三種のグナ」は、普段は「物的無形原質」の中で眠っている(電源オフ状態の如し)が、一端、「純粋精神」の働きかけを受けると、三種のグナが目覚めて活動を始め(電源オン状態の如し)、動き始めた三種のグナは、互いに混合・結合しながら、無限の配分・組合せを作り出し、それによって無限の有形物質を生起させる。
 −−−このように想像の翼を広げて、考えたのである。

 
(真−22−6)
 では、原始のサ−ンキア学派は、この三種のグナ(三元素)が、それぞれどのような役割を分担している、と見ていたのか。各グナの中核的特徴を見てみると−−−
〔現存する最古のサ−ンキア派文献「サ−ンキア詩」やシヴェ−タ−シヴァタラ・ウパニシャッド参照。中村元選集第24巻「ヨ−ガとサ−ンキヤの哲学」(春秋社)435頁以下〕
(ア)「サットヴァ」は、「物質的な精神作用」(=理知と鋭敏な感覚作用)を司る元素であり(当時は精神作用も元素による物質的作用だと考えた)、色としては(無垢清浄の)「白」が配当された。
(イ)「ラジャス」は、「物的無形原質」の活動性を司る元素であり、色としては(燃える炎の)「赤」が配当された。
(ウ)「タマス」は、ラジャスの活動性を抑制し、停止させ、固定化する作用を司る元素であり、色としては「黒」が配当された。

 
(真−22−7)
 尚、タマスについて付言すると、タマスは、ラジャスの赤く燃える炎(活動性)を消して、鎮火する作用を営む。即ち、火を消して闇をもたらす作用があるので、消火剤のような物質とイメ−ジすると良い。また、有形化しつつある無形原質は、途中経過ではグニャグニャなので、それをしっかりと固化することは、活動を沈滞化させることになる。よって、こうした力がサットヴァに対して働くと、その鋭敏な理知作用と感覚作用を「鈍化・麻痺させる作用」即ち、理知を無知に、感覚を無感覚にして行く作用がある、と見れば良い。
 このように、タマスは、サットヴァの光度を劣化させ、やがて光度ゼロの「闇」にしてしまう作用があると見たので、タマスには「黒」が配当された、と解せば良い。
 −−−こうした「原初の三グナ説」は、フィクション(虚構)であり、厳密に考証すると、三元素が統一性のある一貫した論理によって区分されたものとは言えないし、正しい洞察に基づく真理とも言えない。しかしその後、この考え方の中の重要なポイントが修正されることにより、真理に近接して行くことになるのである。〔※註1〕

 
(真−22−8)
〔※註1−−−「原初の三グナ説」においては、「物的無形原質」は、飽く迄も「霊」とは別個の「永久不滅の物質」と想定される。しかし、インドの長い歴史の中では、この考え方に修正を施して、「物的無形原質」を「無形にして不滅の霊質」と捉え直す見方も出てくる。否、元々、「無形にして不滅の霊質」を認める見解こそが、実は最も古くからある「真理の見解」なのである。真の聖者は、皆この見解を取る。
 尚、「無形にして不滅の霊質」を認める見解として有名なものに、ユダヤのカバラ思想が有る。カバラ哲学に拠ると、原始サ−ンキア哲学の「三グナ説」に類似するものは、次の「三種の作用」で説明される。
即ち−−−
1.本来無形にして非固形である霊質が固化(又は結晶化・物質化)する方向性の作用(これを 形成の力と呼んでも良い)
2.固化(又は結晶化・物質化)したものが融解して、非固形化してゆく方向性の作用(これを 崩壊させる力と呼んでも良い)
3.この両者を調整し、均衡を保つ作用(バランスを取り、存続させる力と呼んでも良い)
 −−−の三種の作用である。(これはカバラの生命の樹の三本の柱に配当される。)
(本講では、この三つの力を便宜上、「世界生起に関する普遍的三作用」と呼ぶことにする。真−22−17参照。一方、現代物理学では、重力・電磁力・強い力・弱い力の「四つの力」によって「宇宙世界の生起」を説明しようとしている。)


(真−22−9)
 ユダヤ教の密教部に属するカバラ哲学のこうした見解は、「霊質」と「物質」とを別個のものとして峻別せず、「地続きのもの」とみて、万物万象を「根本無形霊質」の「固化・融解」の巨大なうねりの中のダイナミズムとして捉える思想である。
 但し、カバラ思想は、「根本無形霊質」の変移のメカニズムをたったの三要素(三本柱)だけには限定していない点で、原始サ−ンキア哲学より、より精密・精緻な思想と言える。また、論理の一貫性・統一性という面から見ても、世界生起の哲学としては、世界で最も傑出した(不二)一元思想の一つと言える。〕〕〕

 
(真−22−10)
 ユダヤ密教のカバラ思想は、客観的な世界生起の原理を立てて、その法則に則って、物質世界も、人間もその他の生物も、皆発生して来るものとする。しかし、原始のサ−ンキア哲学はカバラ思想とは異なり、世界生起の原理が人間中心になされる奇っ怪な思想である。
 但し、この奇っ怪な理論には鋭い洞察も含まれているので、その思想をを少しだけ覗いてみる。
(ア)三グナが同時に活動して、第一にブッディと呼ばれる「個体的理性体」(=人間の中の一種の「物的精神器官」として想定する)を形成する。そして、この「個体的理性体」がサットヴァの力で活動すると、正法・叡智・離欲に合致した自在な心の動きとなる。しかし、この「個体的理性体」がタマスの力で活動すると、非法(罪悪)・無智・欲望(煩悩)を生み出し、心はそれらに繋縛され、翻弄されるようになってしまう。
(イ)三グナは更に活動して、第二に「アハンカ−ラ」と名付けられた「個体的我執意識体」   (=人間の中の一種の「物的精神器官」として想定する)を形成する。
   (「個体的理性体」から生まれた)この「個体的我執意識体」は、次に示す−−−
<三重の「我」の観念>−−−によって出来ている。
即ち−−−「@(我思う、という)この我こそが『我』である(と思う) Aあれもこれも『(我思う、という)この我』のもの(所有)である(と思う) B『(我思う、という)この我』こそが行為主体である(と思う)」−−−
これが<三重の「我」の観念>である。
これが「自我意識」である。但し、これは「純粋精神(プルシャ)」とは別個の「物質的な自我意識体」と位置付けられる。
従って、ここに、全世界に遍満する「純粋精神」と、人間個人の物質的な「個体的我執意識体」という「二種の精神」が存在することになる。(活動の方向によっては対立的にもなる。)

 
(真−22−11)
(ウ)三グナは更に活動して、この「個体的我執意識体」のサットヴァ質から「十一の器官」即ち「五つの知覚器官(眼・耳・鼻・舌・皮膚)」と「五つの行動器官(発声器官・手・足・排泄器官・生殖器官)」、そして「知覚器官と行動器官」の両方を統括する「心(意・マナス)器官」を形成する。
(エ)三グナは更に活動して、この「個体的我執意識体」のタマス質から「五つの微細元素」を形成する。(この微細元素の一部は現代科学からは考えられない御伽話的想像の世界であるが)この「五微細元素」とは、音の元素・味の元素・色の元素・香りの元素・触感の元素である。
(オ)三グナは更に活動して、この「五つの微細元素」を混ぜ合わせて、そこから「五つの粗大元素」を作り出す。それが「地・水・火・風・空」である。そして、「五つの粗大元素」が混合することで、人間の「物質的肉体身」や、無生物たる諸物の「物質世界」が形成される。

 
(真−22−12)
 −−−以上、「純粋精神・物的無形原質」という二種の「不滅の実在」と、(ア)の「個体的理性体」 (イ)の「個体的我執意識体」 (ウ)の「十一の器官」 (エ)の「五つの微細元素」 (オ)の「五つの粗大元素」 を合わせて、サ−ンキア哲学の二十五諦(原理)と言う。(但し、「諦」を真理・真実の意味で使うならば、この字を当てると誤解が生じる。正しくは、二十五フィクションと呼ぶべきである。)
(尚、「物的無形原質・個体的理性体・個体的我執意識体」という三つの名称は、本講独自の翻訳造語である。これ迄に、これらに付された様々な訳語は決定的なものとは言えないので、本講ではより正確な内容把握に資するように、分かり易い独自の用語を使用した。)

 
(真−22−13)
 現代科学の見地からすると、こうした原始サ−ンキア学派の「三グナ説」が真理でないことは明白である。しかし、この思想に含まれる(一部の)鋭い洞察は、当時の信仰深い「ブラフマン(梵)肯定学派」にも大きな影響を与えることになった。
 ブラフマン肯定派は、ウパニシャッドの梵我一如思想の流れをしっかりと守りながらも、原始サ−ンキア哲学の三グナ説を積極的に採り入れる形で自説を補強して、「新たな見解」を成立させた〔※註2〕。(そしてこの見解は、真理にかなり近接したものとなった。) 
 そうした(ヴァ−ジョン・アップした)「新見解」の代表的な聖典が、現在も多くのインド人から愛誦されている
−−−<バガヴァッド・ギ−タ>−−−である。

 
(真−22−14)
 そこで次に、バガヴァッド・ギ−タでは、三グナに、どのような意味・内容を新たに盛り込んでいるか、概観してみる。
〔以下、ギ−タから抜粋する。尚、ここで依拠するテクストは、鎧淳博士翻訳の「完訳 バガヴァッド・ギ−タ−」(中央公論社刊)を底本とする。(章・節の番号もこれに拠る)
 但し、辻直四郎博士の翻訳(講談社刊)も無視せずに、これを活かすことにする。よって、表現形式を整え、より分かり易くなるように、本文の意味内容に応じて、各翻訳文の一部を変更し、敷衍する。)

〔※註2−−−(前述の通り)原始サ−ンキア学派は、ブラフマンを否定して、その代わりに「純粋精神」を想定した。それ故、ブラフマン肯定派が、「原初の三グナ説」を取り込んで真似しながらも、その「純粋精神」を再び「ブラフマン」に“置き換える”ことは、極めて容易な作業であったし、至極自然なことであった。〕〕〕
 
(真−22−15)
「バガヴァッド・ギ−タ」(梵肯定派の修正三グナ説)による−−−
<各グナの特徴>−−−について見てみる。


一、サットヴァ質(善性・調和静謐性・賢敏性)の五つの特徴
(1)サットヴァ質は、「純粋無垢(無辜清浄)」にして「光り輝くもの」〔※註3〕であり、「健全無患なるもの」〔※註4〕である。(14章6節)
(2)サットヴァ質には、安楽・安祥に対する執着と、「霊的知識(=叡智)」に対する執着を引き起こす作用がある。(14章6節)
(3)サットヴァ質が増大すると、「内的光明」即ち、霊的洞察力・霊的理解力・霊的叡智も増大する。(14章11節)
(4)サットヴァ質が増大して、それが非常に優勢になった時に死ぬと、清浄なる天界の高処に自動的に赴く。(14章14節)
(5)サットヴァ質による「営為」の結果、「穢れ無き清浄」と「霊的知識(=叡智)」が生起する。(14章16、17節)
 
 
(真−22−16)

〔※註3−−−ここでの「光輝」をどう解するか問題となる。(a)サットヴァ自体に自性を認め、それ自体が発光すると考える見解と、(b)サットヴァ自体には自性は無いが、それ自体が発光する性質は有ると考える見解と、(c) サットヴァ自体には自性は無く、真我(大日我)の光を(見事に受容した上で)反射して光り輝く性質、と考える見解の三通りが考えられる。そして、ブラフマンを否定する原始サ−ンキア学派の見地からは、(a)(b)のどちらかになる。しかし、ブラフマン(梵=真我)を肯定する立場からすると、(c)と解するしかない。
 何故なら、第一に、真我にのみ自性を認めるのが梵肯定説であるから(a)は採れない。また、(b)の場合、物質の相互関係(諸縁)によって発光するということであるから、人に発光するサットヴァ質が有るというのなら、人体の何処かに発光物質が現実に存在する必要が有る。しかし、科学的・解剖学的に見ると、そうした物質は無い。よって、サットヴァ質が光輝くというのであれば、霊的光輝を発する真我との関係で(c)と解するしかない。〕〕


(真−22−17)

〔※註4−−−ここでの「健全」は、健康と調和の方向で機能するもの、と解すべきである。「光輝」の場合と同様、サットヴァ質自体に自性が無いと解するならば、サットヴァ質自体に健康を回復する力や病気を癒す力が備わっていると見るのは正しくない。但し、無自性であることを前提とした上で、サットヴァ質自体は病気(不調和)と無縁であり、(飽く迄も反射的にではあるが)健康と調和を司る性質のもの、と解することは差し支えない。この見解の場合には、カバラ思想の中の基本の三種の作用の一つ「調和を司る中心の柱」と同じもの、と解することになる。(真−22−8「註1」)
 しかし、こう解すると、シュリ・ラ−マクリュナ解説の、後述する「賊我の枠内限定の修正三グナ説」(真−22−47)からはズレて来る。つまり、バガヴァッド・ギ−タで語られる三グナの分類は、後世の厳密な意味の正しい「賊我の枠内限定の修正三グナ説」よりは、カバラ思想の「普遍的三作用説」に傾いた見解であった、と言える。〕〕〕


(真−22−18)

二、ラジャス質(激情性・活発性・散乱性)の五つの特徴
(1) ラジャス質は、「物的対象への欲求=煩悩=我欲=肉欲」を引き起こす。(14章7節)
(2) ラジャス質には、「三重の我の観念」(真−22−10)に基づく「行為」への執着を引き起こす作用がある。(14章7節)
(3) ラジャス質が増大すると、貪婪性・活動性・行為の計略(戦略)性・不安(心の動揺=行為の成否が気になることから来る)・肉的愛執なども増大する。(14章12節)
(4) ラジャス質が増大して、それが非常に優勢になった時に死ぬと、我の強い行為に強く執着する人々の間に転生する。(14章15節)
(5) ラジャス質による「営為」の結果、「(肉的)貪婪心」と「(応報としての)数多の『苦悩・痛苦・苦厄』」が生起する。(14章16、17節)

 
(真−22−19)

三、タマス質(暗性・鈍性・愚鈍性)の五つの特徴
(1) タマス質は、無知から生じ〔※註5〕、肉体を持つ者を惑乱し、誤解・迷妄・錯覚に陥らせる。(14章8節) 
(2) タマス質には、人を放蕩・放逸・怠惰・無気力・惰眠に陥らせ、錯誤の迷妄の中に留まらせる作用がある。(14章8節)
(3) タマス質が増大すると、不活発性・怠惰性・錯誤の迷妄・やる気のなさ(無気力)・無関心・放逸なども増大する。(14章13節)
(4) タマス質が増大して、それが非常に優勢になった時に死ぬと、叡智の欠如した、迷妄に覆われた暗愚・痴愚なる(穢れに塗れた)者共の胎に宿って転生する。(14章15節)
(5) タマス質による「営為」の結果、無知〔※注5〕・怠惰・迷妄が生起する。(14章16、17 節)

 
(真−22−20)

〔※註5−−−ギ−タでは、「無知」からタマス質が生じると言ったり、タマス質の活動から「無知」が生じると言ったりしている。これは、ギ−タの作者の混乱と浅い理解を示す例である。
 原始サ−ンキア哲学では、「タマス質から無知が生じる」という論理になるしかない。
 一方、「梵肯定の新三グナ説」からすると、仏教の教義なども参考にして、「無知」からタマス質が生じる、という論理も可能になる。よって、ギ−タでは、原始サ−ンキア哲学の考え方も否定せずにそのまま承継しながら、加えて仏教的考えも取り込み、両者を混在させてしまったのである。
 ところで、「超宗教の四源罪」(真−20−23)のように、精密に脚下を照顧すると、最初は微妙な「過失」として「無智」の働きが生じ、この小さな「有為」の活動が継続して行くことで、個我の「機根」に「荒頽(コウタイ)的暗黒粘着性気質」が形成され始め、それが少しずつ増大して行き、それに連れて、荒頽性気質の影響で「無智なる有為」の活動も益々強くなって行き、その結果「無知・痴愚」も増大する−−−このような相互フィ−ドバック関係として捉えることになる。
 とすると、ギ−タの、タマス質と無知との関係の記述は、それを相互フィ−ドバック関係と解する限りにおいては、間違っていないことになる。但し、ギ−タの場合は、偶然に真理に近接した表現になった、と言うべきである。何故なら、本来、原始サ−ンキア哲学の三グナの考え方と、三グナに自性を認めない仏教的考え(こちらが真理である)とでは「水と油」であり、両者は決して並び立たない関係にあるからである。〕〕〕

 
(真−22−21)
「バガヴァッド・ギ−タ」(梵肯定派の修正三グナ説)による−−−
<各グナが優勢な人間の特徴>−−−について見てみる。


一、サットヴァ質が優勢な人間の12の特徴
1) (世界創造に関わる本物の超越的存在を信仰するのがベストだが、そこまで行かなくても)色々な諸神・神々を敬愛して祀る。(17章4節)
2) 寿命・気力・体力・健康・幸福・生命本来の爽快甘美を増進するような、味わい豊かで口当たり良く、滋養があって心を軽安ならしめる(清浄な)食物を好む。(17章8節)
3) 祭祀を人間の為すべき当然の霊的義務と心得て、祭祀の行為の報いを一切考えずに、聖典に規定された作法通り、忠実に執り行う。(17章11節)
4) 「(身口意)三業」の苦行〔※註6〕を、結果の報いを目当てにせずに、集中して最高の信仰心を込めて実践する。(17章17節)
5) 「御布施は聖なる義務」と心得て、適時適所で、お返しができない人にでも、友達でも何でもない人にでも、施すのに相応しい相手であれば、喜んで御布施する。(17章20節)
6) 「祭祀・御布施・苦行」という「三種の善行」を、「為すべきことだから為す」とだけ考えて、それに対する執着や自慢を抛捨して、三種の善行の果報も一切期待せずに抛捨して、 ただ黙々と適正に実践する。「行為の放棄」の意味を、本当に何もしない怠惰の意味だと誤解することなく、「行為の果報を自分のものにする気持ち無しに行うこと」こそ「行為の放 棄」の真義だと正しく理解して、それを実践する。(18章9、11節)

 
(真−22−22)
7) 「対象」を観る場合、万物万象(諸法・衆生)の外観に囚われず、無常なる形相に囚われず、常恒にして唯一不滅の存在に意識を向ける。差別有る諸物に囚われず、無差別なる究極存在の不可分の唯一性に意識を注ぐ。(18章20節)
8) 自分の行為の果報に期待を抱かず、利己的な執着心なく、(無私の気持ち、総てを捧げる 気持ちで)、好き嫌いに左右されずに、「為すべきことだから」行為する。(18章23節)
9) 執着を離れ、虚しい矜持の心無く、堅固な心と不屈の意志力を具備し、成功・不成功どちらの目が出ても、微塵も動揺せず、泰然自若としている不動心の持主。(18章26節)
10) 正法と非法、活動と休息、為すべきことと為すべからざること、危険と安全、業累(悪業 の集積)による繋縛と、そこからの解脱、等々について、正しく弁別する(透徹した)知恵 の働き(が前面に出る)。(18章30節)
11) 心、呼吸、五官の所作を制御して、ヨ−ガによってそれを揺るぎないものとして確立して行く、そういう類の堅固心を持つ。(18章33節)
12) 幸福観について−−−始めは毒の如く(或いは良薬の如く)苦くてつらいが、後になると比類無き甘露の如くなる、そういう類の悦びを真の幸福と考える。つまり、霊的な修練・鍛 練・苦練による、最高最深の「自己」についての直覚知がもたらす「心」の清澄透徹なる純 粋性から流出する歓喜法悦こそを、真の幸福と感じる。(18章37節)

 
(真−22−23)

二、ラジャス質が優勢な人間の12の特徴
1) 悪魔・邪悪な霊・堕天使・ニセのグル(導師)などの類を信仰する。(17章4節)
2) 辛味・酸味・苦味・渋味・塩辛さや(体が熱くなるような)燃焼性があって、苦痛や悲嘆や病患に結びつくような(健康を損なう類の)食物を好む。(17章9節)
3) 祭祀は一応聖典の規定通りに行うが、祭祀の結果もたらされる報いを目当てにしながら執 り行う。そればかりか(人から良く見られたいために)偽善的に執り行う。(17章12節)
4) 「(身口意)三業」の苦行〔※註6〕を、それをすることで人からの名誉や厚遇や尊崇を受けたいという偽善的な利己心から実践する。このタイプの苦行では、時折「誠」が籠もることもあるが、大方は偽善的で「誠」がない。よって、苦行の果報は、有る時も有れば無い 時も有り、不安定で移ろい易いものとなる。(17章18節)
5) 返礼を目当てにしながらの御布施、恩を売る目的での御布施など、何らかの見返りを計算しつつ行う御布施。または、将来の果報を期待しながら行う御布施。または、喜んで真心から行う御布施ではなく、心ならずも泣く泣く(偽善的に)する御布施。(17章21節)
6) 「祭祀・御布施・苦行」という「三種の善行」を、「為すべきこと」と考えるとひどく苦痛に感じ、重荷に感じ、大きな苦労と感じ、結局(面倒臭さに負け)、心身の苦患を怖れ、三種の善行を放棄・抛捨して、実践を止めてしまう。こうした場合、「行為の放棄」と言っ ても(それは間違ったやり方であり)、良き果報を得ることはない。(18章8節)

 
(真−22−24)
7) 「対象」を観る場合、万物万象(諸法・衆生)の外観に囚われて、それら各異の区別の状態を個別的に観察し、それらの区別・差別・多様性・比較対照に意識を向け、無常なる形相 に囚われる。(18章21節)
8) 欲愛の対象の獲得を願い求めて、行為の果報を期待しながら、我執を抱きながら、甚だし い労力を費やして、懸命になって行為する。(18章24節)
9) 煩悩熾烈にして、自分の行為の果報を切願しながら、貪婪に激情に駆られて行為をし、自分の利益と快楽のためならば「他者を殺傷しても構わない」と思い、不純にして、喜怒哀楽 に満ち、自分の行為の成功・不成功に左右され、一喜一憂する心の持主。(18章27節)
10) 正法と非法、為すべきことと為すべからざることを、間違って解する一知半解の知恵の働き(が前面に出る)。(18章31節)
11) 行為の果報を求めて、(利己的打算の中で)世俗法・欲愛・実利などに、恋々と飽く迄も 固執して行く、そういう類の堅固心を持つ。(18章34節)
12) 幸福観について−−−始めは甘露の如く甘いが、後に毒の如く苦くなり、猛烈な苦しみに変わる、そういう類の悦びを真の幸福と考える。つまり、自分の五官と外境との接触によって生じる様々な悦楽こそを幸福と感じてしまう。(18章38節)

 
(真−22−25)

三、タマス質が優勢な人間の12の特徴
1) 幽霊・幽鬼・妖精・低次の精霊などを信仰する。(17章4節)
2) 新鮮ではない、既に変質した、味わいの失せた、臭気漂う腐敗したものや、祭壇に供えられた残饌の中の、人の食べないような清潔ならざる食物を(平気で)食す。(17章10節)
3) 本当に「形だけ」の好い加減な祭祀を行う。それも聖典の規定に従わず、供物も捧げず、祭詞もマントラも奏上せず、祭僧への布施もせず、信仰心も無いまま行う。(17章13節)
4) 「(身口意)三業」の苦行〔※註6〕を、頑迷固陋な偏見を持って、ひたすら自分自身を自虐的に責め苛み、又は、他者の破滅を目指す攻撃性から行う。(17章19節)
5) 適時適所ならざる御布施。相応しく無い相手への御布施。こうした御布施を、与える相手に対して敬意無く、侮蔑の念を以て行われる、扱いに粗漏有る御布施。(17章22節)
6) 「祭祀・御布施・苦行」という「三種の善行」を、無知と迷妄の故に捨て置いて、それらを的外れに放棄して、全く行わない。(18章7節)


(真−22−26)
7) 「対象」を観る場合、一つの「対象(事物)」を一切合切であるかの如く思い込んで、唯一事に惑溺執着し、真実性を欠く、無根虚構の狭量陋劣な意識に住む。(18章22節)
8) 迷妄の故に、行為の成り行きについて何の見通しも持たず、自分の損失や、他人を加害することにも思いを馳せず、(慢心と我欲に引きずられて)自分の力量について顧みることな く、行為する。(18章25節)
9) 節操を保とうとする気持ちなど更々無く、俗悪、驕慢、狡猾、不実にして、注意力散漫、 野卑(粗暴)、頑迷、怠惰にして何事にも消極的で緩慢、怯懦(臆病で意気地無し)、鈍重な心の持主。(18章28節)
10) 迷妄・錯覚・暗愚の黒雲に覆われて、非法を正法と思い込み、且つ、万事を逆様に転倒視 する、真理とは違背倒錯した陋劣な知恵(劣智)の働き(が前面に出る)。(18章32節)
11) 痴愚なる者が、惰眠、恐怖(不安感)、憂愁(沈鬱)、怯懦(臆病で意気地無し)、無節操、放逸などに、飽く迄も固執して行く、そういう類の堅固心を持つ。(18章35節)
12) 幸福観について−−−始めにおいても後においても、終始一貫して変わらず、迷妄の密林を彷徨い、暗愚の黒雲を産出し続け、「真の自己」の光輝を覆い隠し、昏迷に耽溺する、そういう類の悦びを真の幸福と考える。つまり、惰眠、無気力、怠惰などの、腐敗的に停滞し た非活動性の中に留まっている状態こそ、無上の幸福と感じてしまう。(18章39節)

 

(真−22−27)

〔※註6−−−<特徴(4)の(身口意)三業の苦行>とは−−−(17章14、15、16節)
(ア)「身体面の苦行」とは、超越的存在である神(々)、霊的指導者、師、賢者、等々に対する「崇敬・純潔・謙虚・正直・禁欲的清浄行・生類への慈しみと不殺生」である。
(イ)「口語面の苦行」とは、他者を激昂させる言葉を慎み、真実にして友愛に富む優しく快い言葉、更には、聖典の日々の「読誦・朗唱」の反復実修である。
(ウ)「意念面の苦行」とは、心と意識を明澄に保つこと、温和・柔和であること、雑念無き寂黙(=マインドの静謐)や、自己抑制や、情念の清浄や、心の純真無垢な純粋性、等々を保つことである。〕〕〕

 
(真−22−28)
 −−−以上が、バガヴァッド・ギ−タにおける「個我の三グナ」の具体的内容である。

 但し、超宗教の中道を行く者は、ギ−タの記述を、絶対誤りのない、至高絶対のものと考えてはならない。何故なら、これらの内容は、飽く迄も当時のインド人の視野の中で分析されたものだからである。〔※註7〕

〔※註7−−−バガヴァッド・ギ−タの中では、三グナの説明はクリシュナ直々の「金口の説法」として展開されている。しかし、本当にこれがクリシュナ自身の説法であったという証拠はない。そればかりか、説法の中に、原始サ−ンキア哲学を肯定しつつ、三グナに恰も「自性が有る」ように主張している箇所が多々見受けられることからして、ギ−タの記述はクリシュナ自身の説法の忠実な記録ではないと考える方が自然である。つまり、ギ−タには、原始サ−ンキア哲学に引っ張られた所説がかなり混入しているのである。
 真の聖者は、「自性有る真我」を覚知したが故に聖者となった存在なので、「個我やグナに自性が有る」とは、決して説かない。よって、クリシュナが真の聖者であれば、ギ−タに書かれているようには決して説かなかったはず、と分かる。〕〕〕
 
 
(真−22−29)
 従って、(的を得た分析も多いので、大いに参考にするべきであるが)、過度に(ギ−タの中の)三グナの所説に拘泥してはならない。もしも、その文言にこだわるならば、そうした態度は、
(「ラジャス質が優勢な人間」の「7」にあるように)「ラジャス的態度」と言える。
 マインドだけで徒に分析し思索を巡らしても、良い結果は出ない。何故なら、徒に「有為」を働かせるだけならば「大叡智」から遠ざかるのみだからである。
 それよりも、「個我の三グナ」を洞察する際は、サットヴァ的に取り組むべきである(「サットヴァ質が優勢な人間」の7)参照)。即ち、枝葉末節に囚われず、全体を大掴みして、一番重要な核心部分をしっかりと看破することである。

 
(真−22−30)
 そこで、マインドを停止した上での「サットヴァ的洞察」の模範を示してくれている、
−−聖者シュリ・ラ−マクリシュナの「三グナ」に関する見解−−を次に見てみることにする。

 シュリ・ラ−マクリシュナは、インドのベンガル地方に生まれ、サンスクリット語の勉強を拒否し、故意に無学文盲に留まりながら、「衆生の霊的覚醒」のために、偉大な叡智、聖なる悟りを平易な言葉で説き続けた近代の大聖者である。この大聖者に対して、信者がバガヴァッド・ギ−タの三グナについて質問した時、大聖者は三グナの仔細な内容論に踏み込むのを故意に避けて、次のような譬え話を用いて、平明簡潔な返答をした。

 
(真−22−31)
−−<「三人の盗賊」の譬え>−−−
「ある時、一人の金持ちの男が森の中を歩いていた。そこへ三人の盗賊が現れて彼の持ち物すべてを奪った。そのあとで中の一人が、『この男を生かしておいて何になる、殺してしまえ』と言った。そして剣を抜いて斬ろうとした時、第二の男がこれを止めて言った。『殺しても何にもならない。縛っておこう。そうすれば警察に届けることもできまい』。そこで彼らは、この被害者を固く縛り、その場に残して立ち去った。
 しばらくすると、第三の男が金持ちのところへ戻って来て、『ああ、ひどく怪我をなさったのではありませんか。さあ、縄を解いてあげます』と言った。この盗賊は金持ちを森の外に連れ出し、『この道を真っ直ぐおいでなさい。らくに家に帰れます』と教えた。『いや、君も一緒に来てくれ。これだけ親切にしてくれたのだ。家の者たちも君に会ったら喜ぶだろう』と金持ち。だが盗賊は、『いいえ、それはできません。警察に捕まります』と言って、相手によく道を教えた後、去った。」(日本ヴェ−ダンタ協会刊行 全訳版「ラ−マクリシュナの福音」165〜6ペ−ジ)

 
(真−22−32)
 シュリ・ラ−マクリシュナは、この譬え話の前後で、
 金持ちを「殺せ」と言った盗賊がタマス、
 金持ちを縛った盗賊がラジャス、
 縄を解いて道を教えた盗賊がサットヴァ
   を意味する、と解き明かしている。
 そして、三人(三グナ)を「全員、盗賊の一味」とした理由を、三グナは「真我(である大金持ち)」からその持ち物(財物)を盗んで(自分たちのものにし)、真我の自由を奪い、人間の本性(及び本分)を忘れさせるからである、と教示している。

 
(真−22−33)
 この短い譬え話の中で、押さえるべきポイントは三つ有る。
 第一点目は、「個我の三グナ」と「真我」との<対立の構図>である。
 「大金持ち」たる「真我」の自由を奪い、その財物を盗んで自分のものとしている三グナ。この三グナが「盗賊」と評価されている点である。
 霊的覚醒の道を首尾良く進むには、この「対立の構図」を深く理解・自覚することが肝要である。そうすれば、「無我」とは、この「三盗賊」を滅却した状態であり、同時に「真我」が自由に顕現する状態であると、容易に分かる。(キリスト教における「霊と肉の対立」という表現については「星−4−4」以下参照)

 
(真−22−34)
 第二点目は、「三グナの区別は盗賊の悪性の強弱に依る」ということである。
(ア)真我を殺しにかかるのが、タマスである。
 但し、現実問題としては、タマスが真我を破壊し殺すことは不可能である。無辺の「梵」である「真我」を一個の個我が殺しにかかることなどできるはずがない。とは言っても、個我を通して顕現しようとしている「真我の働き」を、その個我が妨害し、「圧殺」しようとすることはできる。
 従って、ここでのタマスの「殺し」とは、(その個我を通しての)真我の働きの「顕現に対する圧殺」を意味する。こうした「圧殺」という営為は、真我の営為顕現の流れに真向から敵対する「正反対の動き」であるため、悪性が最も強い、と言える。

 
(真−22−35)
(イ)真我を縛りにかかるのが、ラジャスである。
 無論、遍満する「真我」全体を一個の個我が縛ることなど到底不可能であるから、ここでの「縛り」とは、個我を通して自由に顕現しようとする「真我の働きの自由」を妨害し、限定することを意味する。
 但し、飽く迄も「縛り」に留まるので、タマスのように真我の働きの顕現を完全に「圧殺する」ほどの悪性は無いと言え、真我にも多少の活動の自由と顕現の自由が残されている。

 
(真−22−36)
(ウ)真我を(自由に)解放しようとするのが、サットヴァである。
 タマスとラジャスによって(真我の営為の顕現が)「圧殺」されたり「限定」されたりしていたものを、そうしたことがないように、真我を縛りや圧殺から解き放ち、真我が個我を通して自由に活動・顕現できるようにするのが、サットヴァである。
 この点だけ見れば、サットヴァには全然悪性が無く、真我の助け手として有能な善人であるばかりか、救い主のようでさえある。しかし、シュリ・ラ−マクリシュナの「三人の盗賊の譬え」では、サットヴァは飽く迄も「盗賊の一味」であり、サットヴァの働きは「盗賊の善行」という評価に止(トド)まる。
 何故か−−−。何故なら、心優しい第三の盗賊は、金持ちの生命・自由に危害を加えてそれを侵害することはないが、金持ちの持ち物(財物)を「盗取」して、これを自分のものにしている。よって、やはり盗賊の一味なのである。

 
(真−22−37)
 この点はとても重要な部分なので、少し敷衍する。
 「大金持ち(真我)の持ち物(財物)を盗取する」−−−この比喩の真義は、「人志の独立騒動の譬え」の解説(真−19−11以下)で詳説した通りである。即ち、人志の盗みの罪は、主に次の二点である。
 一つは、大金持ち、天野源一郎の「不動産の窃盗」に当たる「不動産侵奪罪」(=個我が肉体を勝手に自分の所有物として占拠して使用してしまう罪)。
 もう一つは、石油の勝手な売却による「窃盗罪」(=才能と活力を自分のものとして好き勝手に消費してしまう罪)である。
 これで分かる通り、個我が「四源罪」を犯しており、自身に「自性が有る」と錯覚しているならば、その者は「根本盗取」から派生する無数の「盗取」を重ねることになる。
 それ故、その者が幾ら善行をしても、飽く迄も「これは自分の善行であり、自分の手柄であり、自分の誉れ、自分の栄光である」と主張する意識になってしまう。つまり、善行を自分の手柄にして、手柄の横取りをしているのである。
 こうした意識では、(自分のものではないものを自分のものとしているのだから)(幾ら善行をしても)サットヴァの働きが「盗賊の善行」の域を出ることはない。
 斯(カク)の如く、シュリ・ラ−マクリシュナは−−−「三グナの区別は盗賊の悪性の強弱に依る」即ち「三グナの区別は<我欲の盗性>の強弱に依る」−−−という見方を人々に教示しているのである。

 
(真−22−38)
 第三点目は、シュリ・ラ−マクリシュナが原始サ−ンキア学派の主張の一つ「三グナがアハンカ−ラ(個体的我執意識体)を作り出した」という見解を全然取り上げないで黙殺し、その代わりに−−−
<三グナそれ自体がアハンカ−ラである = 三人の盗賊(三グナ)こそがアハンカ−ラである>−−−
という見解を教示していることである。
 一見、何気ないように見える<この修正>の中に、原始サ−ンキア哲学の三グナ説に対する痛烈な批判が含まれている。
 原始サ−ンキア哲学では、「純粋意識・物的無形原質」という二種類の「不滅の実在」を想定する。この二種の「不滅の実在」が悪では有り得ない以上、「物的無形原質」の構成要素である三グナが悪であることも有り得ない。よって、三グナの変容形として出来上がった「個体的我執意識体=三重の我の観念」も、それ自体では悪では有り得ない。〔※註8〕

 
(真−22−39)

〔※註8−−−何故、原始サ−ンキア哲学においては、アハンカ−ラ(個体的我執意識体)の「三重の我の観念」は「悪」ではないのか?
 <三重の「我」の観念>とは−−−
  1.「(我思う、という)その我こそが『我』である(と思う)」
  2.「あれもこれも『(我思う、という)その我』のもの(所有)である(と思う)」
  3.「『(我思う、という)その我』こそが行為主体である(と思う)」
  −−−と、こう考える観念である。
 この一つ一つの観念について、順番に検討してみる。


(真−22−40)
 第一に、「個体的我執意識体」が「(我思う、という)この我こそが『我』である」と考えたとしても、元々「三グナそれ自体が根本の行為主体である」と想定されているのだから、三グナは「三つの我」ということもできるので(「我」の六義は「真−15−28」)、それならば、三つの「グナ我」で出来た「個体的我執意識体」が自身を「我」と思っても、それが即、明白な「悪」(又は過失)になるとは、到底言えない。
 第二に、「個体的我執意識体」が「あれもこれも『(我思う、という)この我』のものである」と考えたとしても、元々「物的無形原質(プラクリティ)」が「純粋精神(プルシャ)」の所有物と言えないならば、万物は「三つのグナ我」で出来ていると想定する以上、「三つのグナ我」で構成された「個体的我執意識体」が、万物を自分の所有物だと思っても一向に自由であり、それは何ら霊的「盗取」を構成するような「罪悪」とは言えない。
 第三に、「個体的我執意識体」が「『(我思う、という)この我』こそが行為主体である」と考えたとしても、元々「純粋精神は行為せず、傍観するのみ」「三グナそれ自身が根本の行為主体である」と想定されているのだから、正しくは「三グナが行為する」と見なければならない処を、(「三つのグナ我」の集まりである)「個体的我執意識体」が「自身こそ行為主体なり」と思っても、それが即、明白な「悪」(又は過失)になるとは、到底言えない。


(真−22−41)
 以上の三点から言って、原始サ−ンキア哲学上の「個体的我執意識体」が生み出す「三重の我の観念」を「罪悪」と評価することは到底できない。
 尚、念の為、原始サ−ンキア哲学の見解の「長所」を挙げて置くと、たとえ途中の論理構成が間違っていても、「三重の我の観念」を「物質的なもの=肉的なもの」と捉えている点が結果的に正しい洞察になっていること。
 そして、ここからの論理展開として、「物的・肉的な身体」と「肉的な三重の我の観念」の活動によって、「純粋精神(プルシャ)」の視座が覆い隠され、攪乱され、忘れ去られてしまう、という事態を招くからこそ、「純粋精神」の視座回復のために、三グナの超越が必要になる、という理論構成を取る。この点が長所である。
 原始サ−ンキア哲学のこうした「物的営為からの超脱=(物的営為に邪魔されない純粋精神の復権」という目標は、この点に絞る限り、ヨ−ガにおいては正しい目標と言える。こうした点に「正鵠を射た処」が有るからこそ、二千年経っても、原始サ−ンキア哲学が取り上げられるのである。 〜〜註終了〕〕〕

 
(真−22−42)
 一方、シュリ・ラ−マクリシュナが教示した「真理の見解」は、原始サ−ンキア哲学のそれとは、アハンカ−ラの位置付けが全然違う。「三グナ」は成立の当初から「盗賊」であり「悪者」である。
よって、「三盗賊の集まり」である「アハンカ−ラ」もそれ自体も「悪」と位置付けられる。
 つまり、原始サ−ンキア哲学では「個体的我執意識体(アハンカ−ラ)」という物体は、独立した「物的精神器官」と想定され、それ自体は悪ではないが、シュリ・ラ−マクリシュナはこの見解を採らずに−−−
<「『根本盗取』を犯した個体の自我意識」=「三重の『我』の観念」それ自体が「盗賊団」であり、「悪なるアハンカ−ラ」である>−−−
と看破しているのである。
 これこそが(諸)聖者の見解であり、真理である。

 
(真−22−43)
 そこで本講では、「盗賊団化」した「個体の自我意識」である「アハンカ−ラ」を−−−
<吾我驕慢意識(あがきょうまんいしき)>
と命名する。(真−20−22)
 何故なら、「罪悪の発生原理」の章で「人間の四源罪」について精密に洞察したように、自身に「自性が有る」と錯覚する「三重の我の観念」という「驕慢意識」が生じるからこそ「根本盗取」という霊的罪悪を犯すようになるからである。
 まさに、「三重の我の観念」こそ「根本の我執=驕慢な吾我意識」と言える。
 この「吾我驕慢意識」を深く明確に認識することが、全宗教のポイントである。
 再度確認すると、「吾我驕慢意識」(アハンカ−ラ)である「三人の盗賊」が何故発生して来るのかについては、「罪悪の発生原理」の章で詳細に解析した通りである。
 即ち、(超宗教の)「四源罪の連鎖」こそが「吾我驕慢意識」(アハンカ−ラ)発生の原理なのである。(この点における原始サ−ンキア哲学の所説は破棄されねばならない。)

 
(真−22−44)
 −−−以上、シュリ・ラ−マクリシュナが教示した重大ポイントを三つ見て来た。
 聖者とは「自性有る真我」に没入しそれに目覚めた者を言う。よって、本物の聖者は、原始サ−ンキア哲学の所説のように、三グナに自性を認めるような見解を採ることは断じてない。飽く迄も、「アハンカ−ラ=吾我驕慢意識」は「認識の転倒」による「四源罪」というプロセスから発生したものに過ぎず、そうやって出来上がった「三重の我の観念」こそが根本の「反転逆賊事」(真−18−22)なのであり、そうやって出来上がった「三重の我の観念」こそが<「有為」を産み出す根源>なのであり、そうやって出来上がった「三重の我の観念」こそが「その他の反転逆賊事」を産み出す根源なのである。
 よって、三グナは、「三重の我の観念」の「盗取」活動の強弱によって区分けされるものに過ぎない。つまり−−−
<「吾我驕慢意識」の「枠内」でしか「三グナ」は棲息できない>−−−のである。
 斯(カク)の如く、在りのままに、正しく看破することが肝要である。

 
(真−22−45)
 ところで、一々「吾我驕慢意識」と言うのでは長過ぎる。「略称」が必要である。
  
   <「吾我驕慢意識」の略称>
  小我〔※註9〕 賊我、盗賊我、離反我、逆賊我、癌化我。(小我以外は、本講の造語)

 
 −−−本講では、これらの略称の中で−−−<賊我(ぞくが)>−−−という略称を多用することにする。何故なら、「賊我」と言えば、「吾我驕慢意識は盗賊」と即座に分かるからである。


〔※註9−−−「小我」という呼称は、古くから中国で「大我/小我」と対比して使われて来た用語である。
 しかし、「小我」が当然に「賊我」を意味しているとは言い切れない。長い歴史の中では中性的ニュアンスで使用された例も無いとは言えない。とは言え、「小我」は元々「大我」との対比で生み出されたものである以上、飽く迄も「大我」に反する無知なる個我の動きを意味すると解すべきである。つまり、「小我」には“決して良いニュアンスは無い”のである。
 以上の点からして、本講では「小我」を「個我」(中性)の別称とせず、「賊我」の別称に配当している。//注終了〕〕〕 


(真−22−46)
 ここで注意すべきは−−−<「個我」と「賊我」とを混同しないこと>−−−である。
 「個我」は、飽く迄もニュ−トラルな(中性的な)意味の概念である(真−15−21)。 つまり、「個我」それ自体は、善でもなく悪でもないものと定義付けている。
 よって、「個我」の別称である−−−<人我・蘊我・纏我・仮我・権我・幻覚我・錯覚我・孤月我・個体的限定意識・個体識・表層的媒体意識>−−−などの言葉も、善でも悪でもない中性的な意味の用語である。(真−15−21)
 一方、「吾我驕慢意識=賊我」は、最初から「悪」と評価される。
 「悪なる個我意識」こそが「賊我」である。この点、呉々も混同することのないように。


(真−22−47)
 さて、そうすると−−−
 シュリ・ラ−マクリシュナの提示した「三グナに関する真理の見解」は−−−
<「賊我」の枠内限定の三グナ説>−−−と呼ぶことができる。
 何故なら、先に見た通り、諸聖者は、「吾我驕慢意識」の「枠内」でしか「三グナ」は棲息できない、と看破するからである。〔※注10〕

〔※註10−−−「賊我の枠内限定三グナ説」は、ユダヤのカバラ思想の世界生起の「普遍的三作用説」(真−22−8「註1」)と相反するものではない。寧ろ、両者は相互補完関係にある。人間を含む万物万象には、「普遍的な三作用」が常に働いている。この点は否定することができない。それ故、この「普遍的な三作用」の上に、更に、人間においては「四源罪を犯す三種の盗賊の動き」が有る、と見れば良い。//注終了〕〕〕 

 
(真−22−48)
 −−−以上、長々と見てきた通り、原始サ−ンキア哲学の三グナ説は真理ではないので、その一部は破棄しなければならない。そうやって大幅な修正を施した上で、三グナの見方を生き延びさせるならば、
−−−−ブラフマンの存在を認める「梵我一如思想」を前提にした「賊我の枠内限定の三グナ説」−−−これこそが正しい洞察ということになる。

 さて、そうなると次に、「賊我の枠内限定三グナ説」と「超宗教の機根三気質」との異同が問題になる。

 
(真−22−49)
 結論から先に言うと、大体の所、「賊我の枠内限定三グナ説」におけるサットヴァは甘露的光明志向性と、ラジャスは覇権的名誉追求性と、タマスは荒頽的暗黒粘着性と、ほぼ同じ内容を指し示していると解して良い。
 但し、厳密に見ると、(ア)サットヴァ と (イ)甘露的光明志向性 とは、重大な点で異なっている。
(ア)(「賊我の枠内限定三グナ説」における)サットヴァについて詳しく見ると−−−
 サットヴァは飽く迄も「盗賊の善行」であり、「吾我驕慢意識」(アハンカ−ラ)の働きの枠を出ない。よって、「純粋な善」を行うためには、サットヴァ自体を捨て、サットヴァを含む「吾我驕慢意識」全部を捨てる必要が出て来る。
 しかし、そうすると、「吾我驕慢意識」を全部捨て去り、それを消滅させた個体(個我)には、三グナはあるのか否か、問題となる。
 原始サ−ンキア哲学の見解からすると、三グナは不滅の「物的無形原質(プラクリティ)」の構成要素なので、有形なる個体が有る以上、三グナも存在すると言える。
 一方、「賊我の枠内限定三グナ説」からすると、「吾我驕慢意識」が消滅した個体(個我)には、三グナは存在しないことになる。この場合、個体(個我)は、「不生の真我」に完全随順する「道具(器官・媒体)」に成り切ることになり、「不生の真我」の「有形なる手足」のような存在に成る。

 
(真−22−50)
 それ故、「バガヴァッド・ギ−タ」の中で、クリシュナは−−−
<(まことの)行為は、ブラフマンから発するものと知れ>(3章15節)と説示して、旋転する壮大なる世界輪についての霊的ヴィジョンを教示しているのである。無論、ここでの「まことの行為」とは、「吾我驕慢意識」の止滅した「行為」、即ち「純粋なる善行」や「純粋なる祭式行為」を意味している。(「有為なる行為」でなく「無為なる行為」という意味)
 こうした「旋転する壮大なる世界輪」の「行為主体」である「梵」という真理・実相を看破した霊的ヴィジョンに立脚すると、次のクリシュナの言葉に、バガヴァッド・ギ−タ最高の精華・精髄が現れていることが分かる。それは即ち−−−

 
     左手にても弓射る者よ、そなたは、唯(タダ)に(わが)傀儡(くぐつ)たれ>
                                 (11章33節)
 
 −−−という言葉である。(「傀儡」とは「操り人形」を意味する。)〔※註11〕

 
(真−22−51)
〔※註11−−−訳者が、この一句に「ギ−タの真髄」が凝縮している、と深く認識しながら翻訳したならば、もう少し違った日本語になっていたであろう。 この一句が「新興宗教団体の盗賊教祖」によって悪用されると、オウム真理教のサリン事件のようなことになってしまう。弟子たちは、教祖の「操り人形(傀儡)」になるつもりで、大悪事を仕出かしてしまった。
 日本中の実に多くの人々が、ニセ教祖「麻原」の不潔極まりない「穢(ケガ)れた風貌」、イモムシのような波動に「吐き気」したものである。
 何故、こうした「ニセの盗賊教祖」を「真の聖者」と見間違える事態が起こるのか?
 答えは、そのように見間違える信徒の「機根」には「タマス=荒頽(コウタイ)性」が多量に含まれているからである。(前述の「タマスの特徴」参照)(「類は類を呼ぶ」原理)
 「<サットヴァ=随光性>を多量に含む機根」の持主は、「タマスの波動に満ちた者」を聖者と見間違えることはない。

 
(真−22−52)
 確かに、「傀儡(くぐつ)」の原義に「悪い意味」は無いが、「傀儡政権」と言えば「悪い意味」になる。よって、「わが傀儡(かいらい)たれ」と言えば、悪い意味になろう。
 尚、「左手にても弓射る者」とは、普通、「右利き」の者が左手で行う動作は劣った動きとなるが、「左手にても(うまくできる)」というのは、そうした欠点が無い「とても優秀で完全に近い者」という意味の称賛の言葉である。
 兎に角、「ギ−タの精華」たる11章33節には−−−

 
 <まことに傑出して優れたる者よ、汝はただ我だけの器具となれ。>(又は)
 <劣りたる所の無い者よ、そなたは、唯、私だけの手足となれ。>
 
 −−−こうしたニュアンスが有る。
 大聖者クリシュナにこう命じられたアルジュナは、やがて一切の雑念と動揺と躊躇を捨てて、主に全幅の信頼と愛を傾注し、「クリシュナ」否「梵」の道具として、勇敢に正義を打ち建てる戦争に立ち向かって行く。
(クリシュナは大聖者である。よって、彼は「真我」と不可分の存在であり、「真我」が如実に顕現した存在である。従って、ここでの「我だけの」という言葉は「真我・大我」と解さねばならない。こうした深い意味に解さなければ、「偶像礼拝指令」に堕してしまい、サリン事件のような事態を招くことに繋がってしまう。)
(アルジュナは軽々にクリシュナを「神の化身」とは認めなかった。しっかりと彼の本質を見極めた上でクリシュナに従ったのである。この点は極めて重要である。) 
 以上、「ギ−タ11章33節」の「道具・器具」(空−七−六九)を“真我=梵の”器具と解するならば、まさにこの一句にこそ、宗教の真髄が有る、と分かるであろう。//註終了〕〕〕

 
(真−22−53)
 仏教の場合は、「ギ−タ」のように、一々「三グナを捨てよ」と言う必要はない。「吾我驕慢意識」を断滅するために、「個我には自性が無い」と反芻するだけで良い。何故なら、「無自性」概念の中に「(自性有る真我の)器具」という要素が既に含まれているからである。
 しかし、インド人、中でも非仏教圏の人々は、瞑想技法としての「自性・無自性」という偉大な道具概念を知らなかった。そこで、こうした人々のために、クリシュナ(又はギ−タの詩頌制作者)は−−−「三グナを捨てて、三グナを超越せよ、そうすれば、梵と融合することができる」旨の教示を行い(3章29節、14章23〜26節、18章40節)、こうした言い方で「吾我驕慢意識」を捨て去る道を教えているわけである。
 まことに、「真理の見解」である「賊我の枠内限定の三グナ説」に立っても、「真我=梵」の「手足となり器具となる」ためには、三盗賊の一人サットヴァを捨てて、三グナ全部を捨てる必要が有る。

 
(真−22−54)
(イ)(超宗教の機根三分法による)慰安的光明志向性について詳しく見ると−−−
 甘露的光明志向性は、「荘厳なる無為」の働きである。即ち、個我の気質でありながら、個我それ自体の働きではなく、人為を超えた「無為」なる真理の働きである。つまり、随光性は盗賊ではなく、「純粋の善」である。
 一方、「賊我の枠内限定三グナ説」のサットヴァは「純粋善」ではない。
 「賊我の枠内限定三グナ説」のサットヴァは、「我の盗性」を残したものなので、純粋善ではなく、「甘露的光明志向性と荒頽(コウタイ)的暗黒粘着性との混合物」と言える。

 
(真−22−55)
 また、「吾我(あが)驕慢意識」を断滅し、「三重の我の観念」も断滅すると、「賊我の枠内限定三グナ説」のサットヴァも当然消滅する。
 しかし、「超宗教の機根三分法」では、「吾我驕慢意識=三重の我の観念」を止滅させる、ということは、“荒頽的暗黒粘着性だけ”を捨て去ることを意味し、その後は、甘露的光明志向性だけが円(マド)かに輝いている状態になる、と言える。
 以上で明らかな通り、賊我の枠内に限定されるのがサットヴァ、その枠に限定されないのが甘露的光明志向性、と言える。

 
(真−22−56)
 −−−以上、「ゼロセクトの機根三気質」と「賊我の枠内限定三グナ説」について詳しく見て来た。これらに通暁することで、「三重の我の観念」の働きに通暁し、それを通して「吾我驕慢意識」を制御し、やがて断滅して行く道を歩むことが肝要である。
 〜〜「三重の我の観念」断滅のための道〜〜〜 については、次の段階で詳説する。
 
 これで、「ブッディ・ヨーガの第5段階」の解説を終了する。
 


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