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2005年5月4日(水)
碧海龍雨との対話(会員篇) 2005年5月4日(水) Page-up
●<対話の中での重要論点集>(奥義の一端を含みます)

−−クンダリーニの覚醒について/最も安全な正しい対処法/イダー回路活性化法など−−−  


■■■ 碧海 ■■■
 真のサマディーは、結跏趺坐などで背骨をまっすく立てている時にしか、達成されません。

■■■ MAIさん ■■■
背筋を真っ直ぐにしての瞑想を毎日続けていますが、ここ最近骨盤を中心に地震のような揺れを常に感じています。

■■■ 碧海 ■■■
 修行中の地震のような揺れはクンダリーニ・エネルギー覚醒の予兆です。その次の段階では各チャクラが脈動をはじめます。
ただ、クンダリーニは暴発の危険もあり、暴発は主にピンカラー回路のみが開くことが原因で、内臓疾患や高熱や脳溢血などを招きかねませんし、時には死に至ります。

 ですから、正しい制御のために、鎮静の働きのあるイダー回路を開いて混合して制御する必要があります。具体的には、真髄和訳の「自性」を「存在する力もなければ存在し続ける力もなければ活動する力もない」などのように「三無力」で翻訳したものを読誦する方法が一つあります。これにより、自我の余計な力が抜けてイダー回路が働くようになり、安全性が確保されます。
もっと簡単な方法は、スープリームマントラ のあとに、<I bow to Thy(アイ・バウ・トゥー・ズィー)>という英語マントラを付加して続けて唱えます。
<I bow to Thy(アイ・バウ・トゥー・ズィー)>とは、
「わたしは汝(神)に額(ぬか)付きます(全面的に帰依します)」という意味です。
「バウ」は「ボウ」と発音してもよいでしょう。
< Supreme I bow to Thy > この英語マントラを意味をわかりながらハートを込めて反復します。ゆっくりゆっくり意味を味わいながら。 心身の鎮静度が増すのがわかるでしょう。
これで安心です。
 
■■■ MAIさん ■■■
 クンダリーニ覚醒(の初期現象)についてはアーレフのサイト等で多少の知識を得ていましたが、まさかこんなにも早く自分に起きるとは。少し驚いています。しかし、上を目指す上で通らなくてはならない関門であると、覚悟は出来ています。(・・・)
それにしても、私がクンダリーニ覚醒のことを知ったのは、ここ最近のことです。
一体どれほどの宗教・新興宗教・宗派でクンダリーニ覚醒について教えているのでしょうか?これほど重要問題であるにも関わらず、あまり語られていないような気がするのですが・・・。
(・・・)未だ全身の振動を感じていますが、チャクラが開き始めるときには振動は止まると考えて宜しいでしょうか?

■■■ 碧海 ■■■
 チャクラの脈動というのは、丁度、手首で脈を触ると脈打っているのがわかりますでしょう。それと同様に、丁度、最初はムーラダーラ(会陰部)のチャクラが脈打つようになります。しかし、そんなに急ぐことはありません。自然に任せましょう。大切なのは、神への愛を育み、神への集中力を育むことです。神への愛がハートにあふれてくるように意識しましょう。

 クンダリーニの知識の認知度は? というお話でしたが、この知識は良し悪しなのです。というのも、あまり強調すると「クンダリーニ覚醒こそが修行の主目的」というスタンスになり小乗化してしまいます。これは認知されるがゆえの悪い点です。あまり知られていませんが、クンダリーニは単なるエネルギーでもなければ超能力を誘発するパワーでもありません。これは神の炎なのです。従って神の我が有り、生きています。ということは、修行者の肉体に神の我(意志)が流入する現象でもあるので、当然、修行者の我とバッティング(意識波動の衝突)します。そこで色々な不幸が起こります。ですから、仏教では無我を教え、修行者の我を透明にして、というか、神に信託(信頼して全面的に託す)するスタンスを教えることで、神の我におのれをゆだね明渡すのです。クンダリーニは修行者の精神状態と連動しているので、悪い波動だと覚醒しません。それをハタヨーガテクニックで無理に性エネルギーを倍増させるようにして掘り出そうとすると、霊的炎が制御なしに流入し、肉体の神経系統がショート(焼き切れ)してしまい、不幸が起こります。ですから<神の意のままに動く軽快な利他的な大乗のスタンス>を保持しながら日々の仕事の義務を果たしながら精神の大平安とハートの愛を増大させて行く「ハートの瞑想法」が一番安全であり王道なのです。

 チャクラが開くのはクンダリーニ・エネルギーが通過して開門するという感じです。その前に各チャクラの一つ一つがその人のレベルに応じて脈動します。これはチャクラが霊的なエネルギーの門(接触回路)になっていることと関連します。どのチャクラが活発に脈動するかで、受容する霊的波動の性質が違って来ます。しかし、クンダリーニが全身を貫き、頭頂のチャクラまで押し開け開花させるならば、聖者になってしまいますから、そうしたクンダリーニの完全覚醒は、アバターレベルの転生身しか起こりません。普通は、間歇泉のように、ちょっとだけ吹き出すようなレベルにとどまります。

 何度も強調しますが小乗的瞑想に堕落するといけません。「猫の瞑想」というのは、外界の波動がいやになって引きこもり的になる弱い瞑想を言います。また「獅子の瞑想」は半眼で行ない、半分は俗世を見据え、瞑想で高い波動を得たらそれを現世の人々と分かち合う、現世を変容させる力をもった瞑想です。マンゴーの木に登って美味なマンゴーの実を取ったら木を降りて皆にその一かけらを与える、そうした愛に満ちた波動をまずは第一にご家族の方々にも放射して下さい。 

■■■ MAIさん ■■■
 以前のように四六時中揺れを感じるようなことはなくなった代わりに、ムーラダーラの脈動を感じます。
チャクラが開く前に各チャクラがその人のレベルに応じて脈動する、そしてどのチャクラが活発に脈動するかで受容する霊的波動の性質が変わってくるとのことですが、ということはクンダリーニ覚醒は一度起こって終わりということではなく、これから何度も起こりうるし、霊的レベルが上がってくるにつれ、上の方のチャクラが活発に脈動するようになるということでしょうか?
順番としては、1揺れ、2下から順番に各チャクラが脈動していく、3下から順番に各チャクラが開門してゆく、
ということでよろしいでしょうか?
一番最初のクンダリーニ覚醒が時間が掛かって、次回からは速まるものなのでしょうか?
アバターレベルの転生身とは、前世においてニルヴィカルパ・サマディを達成した転生身という解釈でよろしいでしょうか?
(・・・)質問を2、3追加させて下さい。
一連のクンダリーニ覚醒の流れ…身体の揺れから始まって頭頂のチャクラが開くまでには、大体何ヶ月くらい掛かるのでしょうか?
ピンカラー回路の暴発は、チャクラの脈動の段階ではなく、チャクラが開く段階になってから起こりうるのでしょうか?
昨日から時々背骨がズキっと痛むことがあります。特に仰向けに寝ているときに痛みが走るようになりました。昨日は背骨の痛みが瞑想の邪魔をして、なかなか深い瞑想に入れませんでした。

■■■ 碧海 ■■■
 そもそも、性欲にしろ食欲にしろ、実は「精神状態」と密接に関わっています。性欲増進の精神状態が一方にあり、性欲が湧かない精神状態が一方にあります。たとえば、苦労に苦労を重ねた末に、やっと偉大なグル・聖者との対面を果たした場合など、その時に、性欲がムラムラするなんていうことがあるでしょうか? その聖者への恭敬の念に満ちており、求道心に満ちており、聖なる愛に満ちていれば、性欲に意識が行くことはありません。ですから、性欲が消失するような、他の聖なる事柄に意識が集中しているようなクリアーな精神状態を修行で追求して行く必要があります。
(・・・)先に触れた通り、性欲とクンダリーニ、そして霊性修行の間には密接な相関関係があります。クンダリーニは別名「炎の蛇」といわれますが、その理由は、このパワーが覚醒すると、人の身体の中を燃える蛇のようにして動き回ることからの命名です。女性は懐胎すると「自分と別の生命が宿っている」とその生命の不思議に感動すると言いますが、クンダリーニが覚醒すると、自分とは別の生命が自分の意志とは別個に活動していることを体感することになります。

 ゴーピ・クリシュナの著作である「クンダリニー」は入手できれば、一度読んでみるとよいでしょう。私は彼をクンダリーニの完全覚醒状態とは認定しかねますが、それでも相当程度の覚醒は体験したといえるでしょう。成瀬雅春ヨギも解説本を出しております。(ちなみに、ゴーピ・クリシュナのwebでの紹介文はこちらなど)

  さて、性エネルギーとクンダリーニの相関関係について大雑把に言うならば、性的エネルギーが昇華された形こそがクンダリーニ・エネルギーであり、逆にいえば、クンダリーニ・エネルギーの一番低級な発現の形が性欲であるといえると思います。諸分野の天才は、性欲を皆、自分の創作活動へと昇華することができた、と評されることがあります。旺盛な性的エネルギーを創作活動エネルギーへと転嫁することができるのです。 仏教にしろヒンドゥー教にしろ、「性的な禁欲修行」は大切な位置を占めますが、その目的は同じで、実は、<性エネルギーを霊的覚醒のエネルギーに転換する>ことにあります。これなくして真の正しい霊的覚醒はありません。

 そして、<性エネルギーを霊的覚醒のエネルギーに転換する>ためには、ヒンドゥー教でいうところの「ブラフマチャリア(梵行・禁欲行)」が必要です。ブラフマチャリアとは、ブラフマン(梵)+チャリア(行)ですから直訳が「梵行」です。性的事柄を避ける修行のことを言います。
MAIさんの現在の状況をうかがうと、スープリームマントラや心経の真髄和訳大真言を人並みはずれて熱心に行じているために、そしてこの二つのマントラが本当に真実、強烈なマントラであるため、ピンカラー回路(太陽回路)からの神の炎の流入が増大していると判断できます。本来は、イダー回路(月の回路)の鎮静を司るプラーナの力を増大させ、両者を中央のスシュムナー回路で混合して制御された形でクンダリーニを覚醒させます。ですから、イダー回路の鎮静方法がとても重要であり、「I bow to Thy 」部分、すなわち、神への恭順・恭敬の念を増大させることが必要です。本当の「南無(ナモ)=帰命」としての「明け渡しの受動」の心境の錬成が求められるのです。ですから、特に今は、強烈な真言行を若干減らしても、安全のために、<鎮静と静謐の増大行>という意味での修行を意識する必要があります。そしてこれがブラフマチャリアです。

 ところで、ブラフマチャリア(梵行)は修行の中で最も困難なものです。仏教では「有漏/無漏」の区別がありますが、有漏は「漏れが有る」つまり精液(女性なら愛液)を漏らしてしまうことで、けがれ有り、といわれ、無漏は「漏れが無い」つまり精液を漏らさない、ゆえにけがれなし、という区別です。今、精液の漏出の有無で説明しましたが、仏教辞典などではこの漏れは煩悩一般と説明されています。しかし、究極的には、そして根源的には、性的なものであり、これをしっかり防御すると、必然的に悟り・覚醒に到るというダルマ(法)がありますから、おそらく「有漏・無漏」命名の原義も精液関連であったことは間違いないでしょう。大聖者シュリ・ラーマクリシュナは、大きな声ではいえませんが、ひっそりと内弟子に対して、10年間、精液を漏らすことなく(但し、夢精などの自然排精は仕方ないので除外する)それを保持すると、特殊な霊的細胞が育まれ、各種の超能力などが発現し、神を悟る、というようなことを教えています。

 先のシュリ・ラーマクリシュナの梵行に関する教えを聞くと、ある人々は、こう思うことでしょう。「それなら、真剣に梵行を完全実行すれば10年で悟れるんですね」と。
 う〜ん、理論的にはその通りだと言えるでしょう。しかし、その人が簡単に考えるところの「10年間無漏の完全実行」は凡人では到底無理なはずです。そういうダルマになっているのです。性欲が湧かず性的事柄に意識が向かない高い霊的レベルの精神状態を10年間保ち続けなければいけないのですから。それができたならば、その人はすでに凡人ではありません。
 それゆえ、修行者の前には、クンダリーニ覚醒に関して、二つの道が提示されることになります。
 一つは、小乗的アプローチで、社会との関わりから断絶して世捨て人同然となり、修行チキガイになる道。これは世の人から蔑まれる道でもあります。 
 もう一つは大乗的アプローチで、少々迂遠に感じるかもしれませんが、バランスよく社会生活をしながら一段一段、魂を成熟させ、大人の成熟の階段を登るという、あらゆる面のIQを向上させて千弁の蓮華を豊かに開花させて行く道です。これは世の人から「あの人は人格的にも社会的にも実に立派ですね」と評価され尊敬を受ける道です。

 二つの道の前者、「小乗的アプローチで世捨て人同然になる道」については、とてもとても大切なので、突っ込んで解説しましょう。本当に多くの人がこれに陥りやすいからです!
 この道はオウム真理教(アーレフ)なども該当するといえます。
「チャクラが脈動しはじめたら、クンダリーニ覚醒は目前です!すぐに世を捨てて修行するべきです。そうすれば、最短数年で悟れ、正大悟師になれます」などど、甘言を弄して人をだまし、(真実はそんなに甘くはないです!)そうやって全財産を教団に布施させ、それをした信者が無一文の無力になると、その人は教団なしには生きて行けなくなりますから、その人は教団の奴隷・(悪魔の)道具とならざるをえず、そうして教団の言いなりで好き勝手に利用されてしまう状態になります。もちろん、それなりの「修行もどきの事」は毎日やるでしょうけれど、「おかしいなあ〜」と思いながら、いくらやっても悟れない状態が続き、結局、今生を終えることになります。これを世の人の多くは「失敗の人生」と呼ぶでしょう。そしてそれはある意味正しい評価だと言えるでしょう。

 また、アーレフ(元オウム)のような、公的に大量無差別殺人という大犯罪を犯した、公認的「邪教教団」でなくても、「小乗的アプローチで世捨て人になる道」を選択する人は結構沢山存在します。
たとえば、正しい聖者シュリ・ラーマクリシュナの信徒で、優秀な医者だった人ですが、ラーマクリシュナの教えに傾倒し、医業を捨て、世を捨てた修行者・行乞の人となり、性欲に流されることがあれば、自分の頭を石に打ちつけて自罰行為をして嘆き悲しみ、そうやって神に惚(ほう)けた狂人のようにして神を追い求める生活をした人がいます。
この人は、そういう過激な乞食生活のゆえに長生きもできず、短命でこの世を去ったようです。
医業を続けながら修行できたなら、もっと長命で、もっと違った霊的成熟の仕方があったでしょうに・・・。彼の道は、千弁の蓮華の花弁を開かせる螺旋的な成熟の道を取らず、短絡的・直線的な短期決戦を挑み、一つの花弁のみを重視した道でした。
 ラーマクリシュナ・ミッションでは、この人を「偉大な放棄の修行者」と称えることがあります。というのも、ラーマクリシュナ・ミッションの出家僧侶ですら、彼ほどまでに過激な放棄求道はちょっと真似できない、と思うからでしょう。(ちなみに、日本に布教に来たこのミッションの僧侶は、「寒い」と言って風邪をひいて、早々に帰国してしまった人もいるぐらいです。かなり情けない感じですね。笑)
 そういううけで、彼のような狂人的な放棄に専心した元医者に共鳴して称賛するか、それとも「やりすぎ」だと疑問に思うか? ここが修行者の運命の、大きな大きな別れ道なのです。
よ〜くお考え下さい。中道やバランスや力を入れ具合や諸々の事柄を広く見渡して熟慮しましょう。

 確かに、彼のような放棄の狂人を称賛する人の気持ちもわからないではありません。というのも、こうした修行は全然無益というわけではないからです。いわば、「特別の特訓期間」として、その人の輪廻転生の中では、有効に作用して、次の転生ではその効果が或る程度活かされることになるからです。しかし、「今生」という視座からすれば、世俗生活を捨て、今生それ自体を全部「捨て石」にしてしまうわけですから、無茶な選択だとも言えるわけです。「今生でゴールできると思って、すべてを捨てる犠牲を払って特訓したけれど残念ながらゴールできなかった・・」ということになります。確かに、目論見通りに、見事ゴールして聖者として戻ってくれば勝利者として世俗からも称賛される(というか、その霊力で世俗を説得でき変容させられる)でしょうが、ゴールできなければ失敗者として今生を終えるしかありません。場合によってはとてもみじめな晩年をむかえるでしょう。現在のシュリ・チンモイの日本の弟子たちの多くがフリーターだと既に述べましたが、それも皆若くないんですよ。全体の半分以上は50才を過ぎているでしょう。彼らの先行きは私ならずとも心配する人は多いでしょう。
 ですから、こうした「後先を考えない闇雲な放棄の修行」は、大乗的視座からは万人に勧められる「普遍的な道」では到底ないことは理解して戴けると思います。しかしそうはいっても、過激な求道心に燃える人は、この道をどうしても選びやすいといえます。幸福な世俗生活を送ってほしいと望む周囲の人、特に親族が嘆き悲しむこと請け合いですが・・・。
ですから、諸般の事情を考えつつ、広い視野から冷静さを保ちバランスを取りつつ修行することの方が高等技術であることはわかって戴けるのではないでしょうか。

 ではどうして、今生でゴールできないのに狂人的な世捨て人修行に身を投じるのでしょうか? 「俗世で生きるのがイヤだから」という厭世的な、自殺行為の裏返しとしての修行というケースを除けば、多くの場合は、「今生で悟れるのでは?と錯覚する」からではないでしょうか? というのも、チャクラの脈動等のクンダリーニ関連の現象が起こると、初めのうちはびっくりして 「こんな経験は滅多にない。自分は特別だ。すごい。ゴールは間近だ」 というふうに思うのがまあ普通だからです。
しかし、実は、クンダリーニの間歇泉的な噴射やチャクラの脈動などは、結構、多くの人が体験しているのです。こうした体験者を募れば、200〜300人は集められるでしょう。その中に入れば、「ああ、結構普通の霊的体験なんだ」とわかるでしょう。私の知っている中でも、インターネットで5人は「クンダリーニが覚醒しました」と自称する人がいます。そのほとんどが眉唾ものですが・・。また、私がシュリ・チンモイ・センター時代に親しくなった友人で、今はゾクチェンの修行に専心しているS氏もクンダリーニが覚醒したと自称していました。私はそれについて特に否定の剣をふるうことはしませんでしたが、彼の体験を私は「完全な」覚醒とは認定しません。とはいえ、状況を詳しく聞くと、確かに間歇泉的な噴射上昇があったとは体験を聞いて判断できます。彼は仏教的にはかなりのレベルにおりますが、それでも、「クンダリーニの完全覚醒により聖者に成った」とまでは言えないし、誰もそのようには認めていません。
ちなみに、元祖空中浮揚で有名な成瀬さんが五反田でヨーガ道場を開いており、そのS氏が確認のため成瀬さんに会ったそうですが、成瀬さんは腕をみせてくれ、クンダリーニがビュン、ビュンと通り過ぎるたびに皮膚が一瞬隆起する状態をみせてくれ、S氏は「おお」と驚き、「負けた」と思ったらしいです。
しかし、その成瀬さんですら、私が成瀬さんの本を読んだ範囲では、どうも完全覚醒までは行っていないと思います。つまり、体中を動き回るクンダリーニエネルギーがあっても、それが頭頂のチャクラを完全に全開させなければ、完全覚醒レベルとは言えないわけです。それを達成した人が聖者ですが、成瀬氏はそのレベルではないでしょう。 
 また、内藤景代という人気の女性ヨギ(沖ヨーガの門弟)がヨーガ道場を新宿で開いていますが、彼女は無理やりクンダリーニを覚醒させようとして死にそうになった体験を本で告白しています。その彼女の「ウパニシャッド(奥義)」という本では、その時の体験こそ「無」の至高体験だ、と「悟りを垣間見た」ような書き方をしているので、私には大言壮語に見えて、ちょっとあきれてしまいうのですが、まあ実際のところは、瀕死の死線をさまよった霊的大火傷のイタイ体験をしたわけでしょう。このような恐ろしい体験をすれば、誰でも、二度とそれに挑戦しようとはしないのが普通であり、内藤さんも、その例に漏れず、その恐ろしい体験以後に再びクンダリーニ覚醒修行に挑戦したという話は聞いたことがありません。(この点、彼女に関しての続報は募集しています。)

 ですから、「一気にゴールできそう!と錯覚して無茶な修行をしてしまう」というのは、ゴルフに譬えるならば、パー5のコースで、「自分なら1打か2打でカップインできるショート・コースだ」と勘違いして果敢な攻めで「池越え」ショットを打ったら、全然ショートしてしまい池ポチャになって、結局、かえって大叩き(沢山の打数を費や)してしまう、そんなケースに似ています。このようなことが起こらないようにするには、経験豊かなキャディーさんの意見に耳を傾ける必要があるのと同様に、グルや霊性の先輩の言葉に耳を傾けることが必要です。
 ▼重要なポイントは、クンダリーニ関連の色々な体験を「特別なもの」とは思わず、「慣れて、それを普通と感じるようになる」 ことです。そうすれば、自分は他者より優れているという悪しき優越感に囚われ、道から逸(そ)れることはないでしょう。この点が、霊性修行では実に重要なのです。
『クンダリーニ』という本を著したゴーピ・クリシュナは、公務員で妻子もおりましたが、毎日毎朝欠かさず、「早朝の結跏趺坐の瞑想」をして「心の平安」を味わうことを義務的な神聖な日課にして、そうやって規則正しい地道な修練の生活をしていたところ、20年目にして突如、クンダリーニの暴発的体験に見舞われ、色々苦しんだ末、やっとイダー回路が働いて鎮静安定させることができました。そうした霊的体験を本にしたのが彼の『クンダリニー』です。彼のような、20年にも渡る地道な、そして規則正しい瞑想の時間をしっかり早朝に(そして夕方などに)確保実行すること、そうした、慢心のない、義務的な積み重ねこそが大切なのです。

■■■ MAIさん ■■■
今日寝床につくと、まるで痙攣のような尾てい骨の振動がしますので、今夜ムーラダーラが開くかもと思っていました。
起き上がって瞑想に入ります。尾てい骨から気がスシュムナーを通って胸の位置辺りに滞っておりそれ以上上に上がらないため、意識して上げようと試みましたが、無理だったため、諦めて再度寝床につきましたが、神経が高ぶる一方で、昨日寝不足だったにも関わらず、すっかり眠気が吹っ飛んでしまいました。(この段階で頭頂まで上げようと意識しなくてもよいのでしょうか?)

しばらく大人しくベッドに寝転がっていたところ、全身に気力が漲っているのが分かります。そして仰向けでおもいっきり背伸びをした瞬間、漲る気は更に活性化し、次の瞬間、聴覚がとぎすまされるのが実感できました。聴覚だけでなく、五感がクリアーになった感じでした。

■■■ 碧海 ■■■
意識してクンダリーニをあげようとするのは、どうぞおやめ下さい。
というのは、クンダリーニは、神の気の炎のようなもので、ボイラーで言えば(譬えると)、高圧過熱蒸気のようなものだからです。
「チャクラ」は
超高温過熱蒸気を通す煙管を開け閉めする「開閉弁」のようなものだと思って下さい。

肉体の中の霊体に属するチャクラ弁がほんの少しでも「開」方向にゆるまれば、霊界の高圧過熱蒸気が肉体に流れ込みます。ですから、MAIさんのような状態になります。
ほんの「少し」でもそれですから、弁がもっと開いて超高温高圧過熱蒸気が流入したら、大変なことになります。それを無理に弁を開こうとしたり、頭頂にもって行こうとするのは、クンダリーニ・エネルギーに対する畏敬の念の不足、というか、その恐ろしさに対する認識不足だと肝に銘じて下さい。
実際は、あなたのエゴで、それをコントロールしよう(=あなた主導)というのは、不遜だと認識して下さい。
正しくは、あなたが、それにコントロールされなければならないのです!
あなたがその偉大な力のあやつり人形にならなければならないのです!
ですから、「身を任せる」「明け渡す」「I bow to Thy」「南無」という敬虔な態度が絶対に必要です。これが「絶対帰依」です。

そのために必要なのが、
「木石禅(ぼくせきぜん)」です。
釈尊は、菩提樹の木を背にしてその下で瞑想して大悟しました。
これは、シュリ・チンモイいわく、「木の忍耐強さを見習い同化する瞑想」でもあった、ということです。これが、己れの肉体を木や石と同じような、生命のない、というか、それ自身に我がない、というか、無自性物としての、受動性に徹した状態、にもってゆく瞑想法、すなわち「木石禅」と言われるものです。
背骨をまっすくにして、ゆっくり大きな大きなゆっくりとした深い深い呼吸状態にします。
これが調身・調息です。背骨と丹田のみが「陽」の状態です。それ以外の肉体の諸部位は、全部「陰」の状態で、脱力状態にもって行きます。
「さやけきジャクマクの瞑想」という般若心経マスターバイブルのその部分を読み返してみて下さい。心理的、認識的にも「無自性」を各部位で認識し平安を保ちます。
これが調心です。
このようにして、鎮静力が高まると、クンダリーニ・エネルギーは、「ああ、この人に流入しても大丈夫だな」と判断して流入しようとするので、チャクラがより自然に開く方向に動きます。

また、骨盤を開く体操をして柔軟性を高めておくと、瞑想時に、肉体の諸部位をリラックスさせ脱力した陰(イン)の状態に保つのに大きく役立ちます。
骨盤の柔軟性・開閉力を高めるためには、相撲の股割りのようなストレッチを無理のない程度で、日々続けるとよいでしょう。

そして、月輪を観想する手法があります。
朧月夜、雲がゆっくり流れて月がその全容を徐々に現して行きます。静寂の深夜、満月が皓々と照り輝きます。それは、静かに静かにあくまで静かです。
そのような
<クリアーで透徹した境地>を 月輪を観想することで、開いてゆくような方向性です。
これを意識して、深夜眠れずに目覚めているならば、瞑想をしましょう。

■■■ MAIさん ■■■
お陰様で今のところピンカラーの暴発は全くありません。

■■■ 碧海 ■■■
小乗と大乗の「二つの道」、その前者の誤謬について色々と順番に説明して来ました。
さて、いよいよ、正しい大乗的なバランス感覚の会得、その一つとしてのクンダリーニ的兆候との付き合い方、などについて語って行きましょう。

鎮静力が大事なのは既に申し上げた通りです。クンダリーニ的兆候が起きた時に、精神的に興奮してしまっては、鎮静とは程遠いことになります。ですから、「精神的に動じない」ことが大切です。もっと言えば、「傍観者的な客観性を保った視線」で、諸体験自体を鳥瞰するような目線を忘れてはなりません。それが真の瞑想に通じる「観想」です。

この傍観者的な客観性は、別の言葉で言えば、「体験に溺れない」ということです。
たとえば、酒池肉林の快楽に溺れる人は、客観性を失っています。また、ドラッグに溺れる人も自己を客観視する目線が消失しています。また、巫女が神懸かって倒れるようなシャーマニズム的な、感情の高揚による霊現象を目的にする教団なども、客観性やバランスを失ってしまいます。
また、日蓮系統の教団の信徒のように、「敵を折伏する」ことを目的にした「我に正義あり」の態度も、もちろん、自己を客観化する視線の欠如を指摘できます。
クリアーな客観性・・・・これはとてもむずかしい事ですが、この目線があってこそ、自己を客観化して、短所も発見でき、反省と修正が可能になります。

一つのことに没入して他が見えなくなり、その結果大きくバランスを崩し調和を崩すことが「溺れること」だと言えます。それは、執着とか粘着の状態です。しかし、傍観者的な客観性を保ったクリアーな精神状態では、欲望に左右されない自由自在な軽妙さと、一点埋没的思考停止ではない、「諸事象の調和を意識した開かれた意識」が働きます。このような高等技術があってこそ、大乗的なバランス感覚で、世俗生活と霊的生活を両立させることが可能になります。

それは、譬えて言えば、名バイオリニストが、オーケストラと共演してバイオリン協奏曲を演奏するようなものです。自分のソロ・バイオリンの演奏に感情を込めて深く集中しつつも、それだけでなく、自己の演奏を客観的に聴いているもう一人の自分の「傍観者的な客観性」を保持しつつ、なおかつ、オーケストラのリアルタイムの演奏の変化をもよく聴いて、それとの調和を意識しながら、演奏する・・・・・・このようなマルチな意識を働かせることこそが、真に高等レベルの集中だと言えます。

■■■ MAIさん ■■■
(・・・)禁欲に関してはマイペースで行きたいと思います。

■■■ 碧海 ■■■
そうですね。そうして下さい。年をとった時の禁欲修行よりも若い時の禁欲修行の方が霊的には効果が大きいと言えますので、是非、無理のない程度に頑張って下さい。
ブラフマチャリアに限りませんが、霊性修行全般にわたって、今、大リーグ最多安打記録への挑戦を続けているマリナーズのイチロー選手の次の言葉 
(最近の2004年9月23日木曜日の新聞に掲載されたもの) がまさに、それだと言えます。

“自分のベストを超えて行くことは 可能性があるのならしたい事だし、しなくてはいけない事と思っている”

クーッ、かっこいい言い方ですね。
この「倦(う)まず弛(たゆ)まず」の自己向上心こそが、ゆずのオリンピック応援ソング『栄光への架け橋』の歌詞のように「いつくもの自分を超えて」行くために必要なものです。
是非、そのような段階的な自己超越の「意志」の炎を燃え上がらせて下さい。

■■■ MAIさん ■■■
(大乗的バランスということですが)世俗に立ち向かう在家信者にとっての社交性については、かなり困難なことも感じているのですが・・・。

■■■ 碧海 ■■■
「Supreme I bow to Thy」 という偉大なマントラは、神への絶対帰依のマントラですが、これは神への全面的な信託の心境を表現しており、「主の御心と思って、万事を受け入れます」という意思の表明になっています。これまでの、すべての苦難を神さまからの「愛の鞭」と考えて、すべては自分のためになっているんだ、と思えること。または、そう思うように努めること。それが大切です。そうすれば、すべてを受け入れることができるようになります。
他者への心の奥底にある「怨念・のろい・蔑視・不満」 (これは本人もあまり意識していない無意識領域にある場合もあります!) などを意識的にきれいに払拭することできると、おのずと「明るい心」が現れてきます。
それは「愛の心」であり、「相手への尊敬と関心」の心であり、相手への興味の心であり、相手とつながっているという「絆」の心です。
他者や社会への愛と関心・興味がないなら、おのずと自閉的で小乗的になってしまいます。
しかし、他者や社会に対して、愛と関心・興味・好奇心 があれば、おのずと話題も増えて来て、コミュニケーションも豊富にできるようになり、大乗的な明るい人間として相互交流ができるようになってきます。

一朝一夕に変われるものではありませんが、これらの事柄を毎日忘れず、その方向で意識的に努力するならば、社交的な人柄を形成するのには、3年もあれば、充分でしょう。3年後には、強く明るく社交的でそれでいて軽薄とは違って何事にも不撓不屈、話題も豊富で人づきあいも楽しい、という人格に劇的に変容していることも可能です。

根本は、人それぞれですが、奥底にある「エゴの蠢きに基づく暗い意識」を払拭することです。そうして、他者を愛する「利他性」「無私の心」「奉仕の喜び」などを知るようになると、自然に社交的になれるでしょう。また、それこそが、大乗の道であるわけです。
おそらく、一般論的に申しましたから、MAIさんご自身としては色々異論もおありでしょうが、一つの「法則」として上記の事柄をしっかり押さえておいて下さい。
その上で、それを自分にどのように適用すべきか、という問題として考え、取り組んでみて下さい。

 −−以上、これまで大乗と小乗の違いについて語ってきましたが、大体、イメージが出来上がりましたでしょうか? 
 小乗は世俗から逃避する方向性、自閉的方向性を持つものであり、大乗は世俗と向き合って、世俗そのものを自分を磨き高める一つの「道場」とみて、世俗とがっぷり四つに組み、時には融和的に、時には一つの闘いとして、立ち向かって行くべき対象にします。
 世俗で何をしようともそれを自分を磨く道具と機会にすることはできます。大切なのは取り組む動機であり意識です。人間と自然を愛する豊かな利他の心と、飽くなき自己錬磨の向上心、この二つをしっかり抱いて、世俗と立ち向かいましょう。そのような不退転の強い大乗的態度を決め、胆を据えることで、世俗でどのように生きて行けばよいか、という方向性もおのずとみえてくるはずです。

■■■ MAIさん ■■■
マンゴーの美味しい実を取って来たら、それを周囲の人に分け与えたいと思います。
クンダリーニですが、最近は各チャクラの脈動も非常に弱いか、感じられないかのどちらかになりつつあります。不完全燃焼で終わってしまったのでしょうか、それとも身体は自動的に進化を遂げているのでしょうか。
チャクラが開く前に各チャクラがその人のレベルに応じて脈動する、そしてどのチャクラが活発に脈動するかで受容する霊的波動の性質が変わってくるとのことですが、ということはクンダリーニ覚醒は一度起こって終わりということではなく、これから何度も起こりうるし、霊的レベルが上がってくるにつれ、上の方のチャクラが活発に脈動するようになるということでしょうか?
順番としては、1揺れ、2下から順番に各チャクラが脈動していく、3下から順番に 各チャクラが開門してゆく、ということでよろしいでしょうか?

■■■ 碧海 ■■■
霊的チャクラの活動は「脈動して開くという」形で語られますが、そもそも人間の才能というのは、過去と現在の鍛練によって培われ花開くものですが、この「花開く」ということがチャクラの活動とも関連しているので、「脈動」が感じられなくてもそれなりに活発に霊界からのそうした波動の流入を受け入れている人もいます。各分野の天才たちも、自分のどのチャクラが脈動している、などと認識していなかったでしょうが、実際にはそれが機能していたであろうと見るべきです。
クンダリーニの覚醒は、霊的エネルギーの(霊体から身体への)一部流入という間歇泉的なものが一塊になって流れ込む時の体験を 多くの人が「クンダリーニ覚醒」と呼んでいますが、完全覚醒は、その流入がほとんど遮るものなく流入し、一気に頭頂のチャクラも押し開けて、サマディーの体験をもたらすものです。
普通の人間は、このレベルには普通辿り着けません。ということは、一生涯、チャクラの脈動などを感じたり感じなかったりというレベルを続けることになります。また、チャクラの脈動は下から順番ということでは必ずしもありません。それに関連する波動のチャクラがその時の精神状態レベルと呼応して、脈動し、霊的なエネルギーの流入現象を起こします。

柔道の山下泰裕は、ムーラダーラチャクラが相当に開いていると感じます。あの微笑みは霊的なものです。どんなに苦しくてもおのずとわき上がっているような微笑み顔。クンダリーニ・パワーは、人に内的なおのずとああした微笑みを浮かび上がらせる作用があります。
また、イチローが本日見事、最多安打という世界新記録を達成しましたが、ヒットを打つための一つの要素としての集中力は、「眉間のチャクラ」と深い関係があります。イチローはこのチャクラの機能を発達させています。時には、ほんとに瞬間のドラマですが、イチローは、1シーズンに数回は、「この球を打ったら凡打になる」と瞬時に判断して始動していたバットの軌道を瞬時に軌道修正してわざと空振りすることもできる、ということです。こうした「一刹那」の中の濃密なドラマは、そうした眉間のチャクラの精密な活動なくしてはありえないものです。

■■■ MAIさん ■■■
一連のクンダリーニ覚醒の流れ…身体の揺れから始まって頭頂のチャクラが開くまでには、大体何ヶ月くらい掛かるのでしょうか?
ピンカラー回路の暴発は、チャクラの脈動の段階ではなく、チャクラが開く段階になってから起こりうるのでしょうか?

■■■ 碧海 ■■■
何カ月ではありません。その人のレベルによって違いますが、普通は今生では無理だと心得なければなりません。特別の例外の人のみ、つまり霊的天才のみ、今生で達成できます。

クンダリーニ・エネルギーの暴発は、瞑想中に突然、起こることがあります。その時、霊的な正しい方法としての鎮静法(既にお教えしましたね)を実践できれば、これは高いレベルで安定化して、クンダリーニ・エネルギーのパワーを継続的に享受することができるようになり、霊的活動性を飛躍的に増大します。しかし、完全覚醒の大悟とは、そのレベルでも、まだ違うということになります。完全覚醒の大悟は、個体意識喪失・神人合一・絶対歓喜体験レベルですから。

■■■ MAIさん ■■■
間欠泉的な覚醒の条件がイマイチよく分からないのですが、私のムーラダーラが開いたときも、間欠泉的な覚醒はあったのでしょうか?それともアージュニャーチャクラが開いたときに見られるものでしょうか?
(・・・)
イチローは霊的に言っても神に近い存在ということでしょうか?

■■■ 碧海 ■■■
とぐろを巻いた蛇と言われるように、クンダリーニ・パワーは、会陰部からそのとぐろをほどいて、スシュムナー回路を昇って行きます。そうしたパワーの通過を体感しない場合には、間歇的にも覚醒があったとはいえません。
覚醒の条件についてお尋ねですが、それは「念」のレベルによります。無漏の行をすると、性的エネルギーが蓄積されますから、それも重要なパワーの一つになりますが、その上に、精神レベルでの「念」が「聖なる想念」になる必要があります。禅定状態の静寂なる集中、透明な精神状態、その上で、神への愛と情熱、神覚(菩提)会得を切望する力の強さ、そして、神と万事についての深い深い感謝の念・・・そして、熱く立ち上る「祈りの波動」・・・そうしたものが総合的に作用して、初めて、霊的パワーが覚醒し始めます。

次に、イチローは神に近いか否かと、お尋ねですが、
神のパワーについて感じることができれば、わかるのですが、神のパワーが人間を通して作用する場合、その多くは、求法心・神聖渇望心・聖なる切望心として現れます。それは、一言でいえば、「自己超越の渇望心」なのです。
イチローのこれまでの人並みはずれた努力〜〜(ちなみに彼はマンガの『キャプテン』が愛読書だったそうです。このマンガでも普通の中高生が猛特訓して優勝をあらそう球児に成長するドラマが描かれていますね。谷口キャプテンは深夜に人知れず特訓していました。イチローも小中学生のときから深夜特訓していたそうです。オリックス時代もそうでした)〜〜そうした自己超越のための不断の努力は、彼のエゴの力というよりも、彼の中に 神の自己超越パワーが豊かに流入している現象  と捉えて理解すべきです。
その意味では、イチローには神のパワーが豊かに流入している、ということは確実に言えます。聖者に近いとまでは言いませんが、そういう経験をへて、魂は成熟して行きます。

ですから、どのような分野でも構いません。自己超越の意志と渇望を燃え上がらせましょう。ただし、それは、自力のみでは十全には達成されないものです。マントラを唱え、不断の祈りを捧げて、自己超越の聖なるパワーが自分の中から沸き上がってくるように神に切に祈り求めることが大切です。

■■■ MAIさん ■■■
瞑想を終えて横になると、骨盤の辺りが何というかブクブクと泡立ったような感触を 感じるときがあります。
初めてのことが多いので、時々「私は確かに幸福に近づいているのか」と不安になる ことがあります。

■■■ 碧海 ■■■
MAIさんは、真髄和訳など読誦して瞑想すべき言葉を「叡智のヨガの実践」として、しっかり読誦し瞑想なさっておられますね。
このような偉大な信仰を他に私は知りませんし、そのことは、まことに偉大な効果をもたらさずにはおかないでしょう。
それゆえ、クンダリーニの覚醒の予兆としてのチャクラの脈動など、霊的な体験を豊かに味わうことができています。しかし、あまりに霊的進歩が急激であるため、戸惑いがあるのも当然と言えます。


そこで、今回は
「平常心(不動心)と胆力」の話をしましょう。というのも、現在、あなたは色々な霊的体験をなさって不安を覚えておられるご様子だからです。

真の宗教の真髄は−−−「何事にも一喜一憂することのない胆力を会得することにあり」−−とさえいえるほど、修行の道において <平常心(不動心)と胆力> は必要不可欠のものです。
色々な霊的体験をしては不安になり、また、全然何の霊的体験がなくても退屈で「このままでよいのか」と不安になり・・・・というのが人間の弱さです。しかし、何もない退屈の道よりは色々な霊的体験を得ていることを喜んだ方がよいでしょう。但し、そうした体験をした・・だから、凄いとかこわいとか・・という風には考えないようにしましょう。
あなたは平常心を保ち、自分を見失わないよう、理性を全開にすることだけを考え、達磨大師の顔の絵のように目を「カッ」と見開いて、覚醒と叡智を志して、ただただ目をランランとさせ、精神を凛々とさせている・・・そういう状態を心掛けましょう。何も畏れることはありません。
すべては全能の神、完全な愛の持ち主である宇宙の支配神を心のそこから信頼して、「神を心から信頼している私、諸仏典を信奉し般若心経の空の真髄の会得を希求する誠実な求道者である私に、神さまが悪いことをなさることがあろうか、否、それはありえない」という不動の信頼心を抱くことが大切です。
色々な霊的体験のさなかには、「Supreme I bow to Thy 」というマントラをゆっくりゆっくり長く長く心を込めて繰り返し唱えましょう。そして、木石禅の要領で鎮静の回路を活発にさせ、上記のような「心のそこからの全的な信託・絶対的信頼心を神に対して抱くこと」です。それこそが修行です。

平常心の反対語は何でしょうか? 「普段とはちがう、これは特別だと思う興奮心」とでも言いましょうか。
野球選手で元ヤクルトの四番打者にして巨人に移籍、のちに阪神に移籍して引退した広沢克巳選手をご存じでしょうか。彼は精神面が弱いと言われ、巨人移籍以降、めぼしい活躍ができずに選手生活を終えました。しかし実力は相当なものだったのです。
しかし巨人に移籍後、ヤクルト時代とは比べ物にならない注目度と、その特別な雰囲気にすっかり自分を見失い、打てなくなり、神経症のようになり、二軍と一軍を行ったり来たりの生活になりました。その後、阪神移籍して、星野監督で優勝し日本シリーズのときには、「広沢が試合前には良い当たりをバンバン飛ばして一番調子がよい」と星野監督にいわしめ、スタメン起用されましたが、本番では全然打てませんでした。
この試合前、女子アナがインタビューしようとしたところ、「今日は本当に大切な特別な試合だから・・」と、それを断って緊張していたということです。これでは打てるはずがありません。彼は筋力は人並み以上のキツイトレーニングで鍛えていたのですが、肝心要(かなめ)の「胆力」を鍛えていないし、「鍛えようとするマインド」もないままの選手生活だったといえるでしょう。残念なことでした。実に勿体ないことでした。

それに比べて、大リーグ、それもアメリカ否、世界最強チームと言われ、最高度の注目を集めるヤンキースで四番に定着して、地区シリーズでも大爆発している松井秀喜はどうでしょう。彼は、勝負強い、とかプレッシャーに強い、と評されますが、そうした超人的なものを最初から持っていたわけではありません。緊張して打てない状態を徐々に一段一段克服して今があるといえるでしょう。
松井秀喜の父親は「瑠璃教」という宗教教団の二代目教主(秀喜のおばあちゃんが瑠璃教の教祖)ですから、松井が初めて巨人でホームランキングになって天狗になっていたときには、一時間半近く、こんこんと説教したということです。「(世の中、上には上が居るのだから)慢心するなかれ」と。
以降、松井秀喜が大リーグを視野にいれて研鑽したのは言うまでもありません。そして、松井がそうした研鑽の中で一番重要だと思ったのがおそらく「平常心」でしょう。彼のコメントの実に多くが、「いつもと変わりません」「いつも通りで行くだけです」「僕はいつもベストを尽くしている、シリーズだから特別ということはありません。いつも通りにベストを尽くすだけです」というような感じです。
「普段通り」「いつもと同じ自分」「本来の自分」---これをしっかり保持することが平常心です。
自分の心が「これって特別!」という形で大きく波打つようだと、心乱れて、平静を失い、いつも通りの判断もできず行動もできなくなります。

そして、それがたとえ全世界の衆目注視のワールドシリーズの優勝決定戦という特別中の特別のイベントであっても、「いつも通り」という平常心を保つには、強く深い腹式呼吸法 肩の力を抜く動作、そして、興奮を鎮静させるマインドコントロール、余計なことを考えない集中力、そして、それらを司る「胆力(たんりょく)」というものが大切になります。

〜〜〜<何事があっても、それに一喜一憂しない平常心、平安なマインド 明鏡止水の如きハート> 〜〜〜 これこそ、最高のパフォーマンスを発揮するための深い叡智であり、これができる人こそが、「宗教的な立ち居振る舞い」のできる人といえましょう。


さて、続けて、今度は、−−
「リラックスした朗らかさ」の重要性−−−についてお話します。
のっけからポイントを言いますならば、
霊的な神聖なエネルギーというのは 「リラックスした朗らかさ」 があるときに流入する
という不動のダルマがあります。不自然な緊張を精神と肉体が持つとき、それは生理的収縮作用を起こしており、神聖パワーを拒絶して流入の扉を閉じてしまうことを意味します。ですから、チャクラを開くための基本条件を教えてほしい、ということならば、やはり真っ先にこれを挙げないわけには行かないわけです。そして、その根源として、「信仰」を正しい形で抱いたときにこそ、その信仰に基づいて、「心からのリラックスと朗らかさ」 が現出するということも押さえておいて下さい。
この「リラックスした朗らかさ」というのは、脳波としては「アルファー波」と不可分と言えるでしょう。アルファー波以外の脳波になると、どうも深いリラックスと朗らかさから遠ざかってしまうようです。ですから、瞑想(禅定)修行などで精神統一をして心の波立ちを鎮静させて深い集中をすることができる状態〜〜〜それがアルファー波の出る状態なので〜〜〜それを常に意識して求めて行くと良いでしょう。

ちなみに、イチローが高校野球をやっていたとき、たまたま大学教授がイチローの脳波を調べたことがあるそうです。そのデータは今でも残っていますが、試合が始まると どんどんアルファー波が出るようになったということで、これは、試合にたのしみながら集中している証拠だと、そして、こういうのは結構めずらしい、というコメントを大学教授がテレビでしていました。

リラックスの反対は緊張です。極度の緊張とか、不自然な緊張とか、バランスを欠いた一辺倒すぎることでの部分緊張などなど、色々な緊張がありますが、こうしたものは、大きく深い腹式呼吸法や、ハタ・ヨーガのストレッチングでの肉体ほぐし(柔軟性の維持と向上)、骨盤を開く股割りの実践、西野流呼吸法(これは実は気功法というべきものです)等々で、ある程度、「ほぐす」ことができます。
しかし、そうした肉体的な「ほぐし」作業だけではまだ不充分です。そのほかに、精神的なほぐし作業も大切です。なぜなら、いくら肉体を柔軟にしても、たとえば不意に驚かされたときなど「ビクッ」と肉体を硬くしてしまうことがあるでしょう? それと同じで、精神が「緊張」を主導してしまえば、肉体だけリラックスさせようとしてもうまく行かないからです。だから、大本の精神の緊張も解かなければならないのです。

精神の緊張を解くためにはどうすべきか、ですが、
そのためには気分転換が大切です。何か楽しいことを積極的にやることです。ピクニックのような、または幼稚園や小学生のときの遠足のような、ウキウキする、そういうことに意識を向ける時間を作りましょう。
大横綱と言われる千代の富士は、厳しい練習をして優勝すると、ハワイに旅行に行ったり海にでて釣りに行ったりしていました。こうした「全く違うことに意識を向ける技術」が、再び、つらいことへも集中して行くパワーの源になります。
柔道で不滅のオリンピック三連覇という前人未到の偉業を成し遂げた〜〜〜それも一番選手の入れ代わりが激しいといわれる軽量級(60キロ級でしたか)での三連覇は、今後これを破る人は出ないかもしれませんが〜〜〜その野村忠宏選手は、柔道を一時やめてアメリカに留学していたことがあります。それゆえ、復帰は大変だったようですが、だからこそ、再び超人的な集中ができた、とも言えます。

気分転換して楽しいことをやる〜〜〜そうした「陽気さ」が、心から湧いて来て、それをある程度保持できたならば、次に、エゴが好き嫌いで起こす緊張、たとえば、「ああ、これをやるのは嫌だなあ」というような「心のわがまま」をできるだけ克服するという「エゴと闘う意志」を呼び出して、「義務的に、嫌でも好きでもなく、ただ無心にそれをこなす」ことができるようになることを目標にします。すなわち、普段の感情の起伏ある「情に流された心的生活」を抑制し、「胆力をともなった平常心で何事もやる」ように心掛けましょう。そうすると、心の浮き沈みがなくなって行き、変な緊張をその時々に持つことが少なくなり、深〜くリラックスした状態で、世俗の行動を ある意味で「楽しんで」やることができるようになるのです。

観自在菩薩の「観自在」という視座も、同時に心掛けましょう。物事を一面的にばかり眺めないで、色々な自由なスタンスから、〜〜〜たとえば「裏と表」からとか、「自分の視野と相手の視野」からとか、主観と客観とか、男性の視点と女性の視点、等々〜〜〜こうした多面的角度から物事を柔軟に眺める訓練をすると、自然に「陽気さ・朗らかさ」が湧いて来ます。
何事も一度ひっくりかえして見るようにしてみましょう。笑いとは、そうした「転換」の中に起こることが多いものです。
私は二十代前半の頃、真理を求めて精神的に深く苦悩した時期がありました。そんなある日、ふと、「悩んでいる自分」を頭上から客観的に眺めるという視点の転換を体験しました。そのとき、私は「深刻の上にも深刻に、眉間に皺を寄せて悩んでいる自分」をみて、思わず「ぷっ」と笑ってしまったことを今でも鮮明に覚えています。悩みにどっぷり漬かっている人は自分の姿がわからないのですが、それを客観的に眺める視座があれば、「悩みにどっぷり漬かる」とか「ド壺にはまる」ということはなくなり、それを笑うというような余裕のある心境を得ることができます。


■■■ MAIさん ■■■
まだまだ、間欠泉的覚醒には遠いですが、聖なる想念の喚起がどのようなものか、どれだけ難しいかは大体掴めました。(・・・)
早く、碧海長老のような境地に到りたいです。
(・・・)イチローには神の自己超越の力が流入しているのですね。

ところで、7つのチャクラについてですが、本を読んだりヨーガ関連のHPで勉強したりしていましたが、各資料によってチャクラの機能に関する説明が曖昧で、一貫性に掛けるものがありますので、碧海長老の解釈で各チャクラが開いた際の効能・効果や、開きすぎたり滞りすぎたりするとどうなるかをご教授頂けないでしょうか。

■■■ 碧海 ■■■
う〜ん、そういう興味は、あまり正しいものではないかもしれませんね。事実、シュリ・チンモイもシュリ・サティア・サイババも、シュリ・ラーマクリシュナも、そういうことには全然触れていません。シュリ・チンモイの書物には「クンダリニー」という一冊の本がありますが、これを読んだ弟子の話では、目新しいことは何も書いていない、ということです。おそらく、通り一遍のことしか語っていないのでしょう。(入手はなかなか困難です。入手はしたいのですが)

たとえば、ハートのチャクラは「共感に基づいた対象との一体化」の瞑想には不可欠です。そして、その瞑想法をシュリ・チンモイは勧めますが、では、「そのチャクラの開き方はこうです」などとは教えません。そういうことはできないのです。

MAIさんが見た各チャクラにおける特徴や開きすぎ・閉じすぎというような話は、昔から色々言われているのですが、それは、まあ、何と言いましょうか・・・・まあ、血液型の話に似ているのです。
 世の中には「血液型別の性格診断や相性」について色々な書物が出でいますよね、女性などは、これに一時期ハマって楽しそうにおしゃべりすることがありますが、そこには、「確かにそういう面もある」という程度のことは言えても、それが「きっかり正しいか」と言えば、そうとも言えないわけです。ですから、ある時期、血液型診断に凝ったあと、それに飽きると、そのことはすっかり忘れて、話題にもしない、なんてことになります。
チャクラの話もそれと似ているのです。
各チャクラは確かにある波動を受信する機能があるわけですが、その弁の開き具合について、どうこう論じても、あまり実益はありません。前世から各人各様の生き方で、色々な才能などを伸ばして今生があるわけですが、その「能力の伸ばし具合」に応じて、各チャクラの弁の開き具合も自動設定されているような感じなのですが、そのどれかを「もっと開けよう」と望む場合、「では、どうするか」ということになりますが、手で弁を開けるようなわけには行かないわけですから、それは結局、そのチャクラと関係する「能力」を一生懸命「使用する努力をする」なかで、徐々にそのチャクラの活動を活発にして行くしかないのです。

また、各チャクラ一つ一つを個別的に捉えるのも、ちょっと違います。あくまでも総合的な作用として捉える必要があります。たとえば、精神集中は眉間のチャクラと関係がありますが、対象との共感による一体化の作用はハートのチャクラに関係します。そして、それらを同時に働かせて、「対象に集中しながら(聖なるものと)一体化する」のが正統的な瞑想法です。
そして、その正統的な瞑想のためには、深い集中を 鎮静的でリラックスしたアルファー波の中で行う必要がありますが、そのためには、深くて長い吸息と深くて長い吐息を継続的に行う必要があり、そのためには、胆が据わった形、すなわち、丹田に気を溜める呼吸ができなければいけませんが、そうしたことは下腹から臍付近のチャクラとも関係しています。

また、実のところ、チャクラと能力は、完全直結というわけではないのです。
たとえば、喉のチャクラは芸術センスと関連すると言われますが、大聖者であるシュリ・チンモイは、各チャクラを勿論開いているわけですが、芸術の天才というわけではなく、絵も下手ですし、音楽の演奏も下手です。(但し、霊能力のゆえに、下手なりに、常人ではできない表現ができるということはあります。)
それに比べ、岡田茂吉は、自分の前世を天才日本画家、尾形光琳だったと彼自身が言っていますが、確かに、岡田茂吉の芸術的センスとワザは、そうした風格充分です。箱根美術館の造形にしろ、彼が設計した建築物にしろ、墨絵にしろ、宝飾デザインにしろ、です。やはり、こつこつ前世でスキル・アップしたものが、魂に蓄積される、と見るのが正しいでしょう。

ですから、チャクラのことには、あまりこだわらない方がよいでしょう。

追加的に、私の例で言えば、チャクラをどうこうすれば天才ピアニストになれる、というのならば、そういう道を探る気にもなりますが、実際のところ、そういう都合のよい話はあるわけがないのです。ちゃんと、コツコツ一つ一つ、才能を磨いて階段を昇って行くしかないのです。

そういう意味では、チャクラ云々と考えるよりは、自分の伸ばすべき才能があったならば、その方で、「リラックスした深くて澄んだ意識を精妙に働かせる」ことに意識を向けた方がよいでしょう。

一例として、イチローと長嶋一茂の差で言えば、一茂は、つらい筋肉トレーニングは一生懸命やりました。つらい練習を彼なりに限界までやったことでしょう。しかし、それは「暗い、無知蒙昧な、猪突猛進的な意識」の中でやったものでした。
一方、イチローの夜中に続けていた、打撃投手から投げてもらった球を打ち分ける練習などは、一打一打、「こうしたらこうなる」「こうやろうと思ったけど、ここで失敗した」などなど、冷静に深く自己観察しながら、沢山の思考と試行を繰り返しながら、明確な目的意識と達成意識の中でやるので、「練習が楽しくて仕方ない」、という感じになり、それゆえに毎日続けられます。
一茂にしてみると、野球の練習とは、つまらなくて単調で発見も何もない、つらいだけのものに過ぎないので、ゆえに、「イチローさんほど練習することは俺には到底できない」という発言になるわけです。
この両者の差異の根本は、才能の差と言ってしまえばそうですが、そもそも抱く意識に差にあり、意識が違うゆえに、「練習方法の質と密度」が全然違うものになっていたわけです。

■■■ MAIさん ■■■
チャクラのことは、私が考えていた以上に奥が深いのですね。上のチャクラであればあるほど一言ではいえない霊妙さがあるのでしょうね。
■■■ MAIさん ■■■
(・・・先日、)クンダリーニのプチ暴発でしょうか。(・・・)暫くすると微熱と吐き気が生じ、内臓がぐつぐつと痙攣しているのが分かった為、「これはやばい」と思い、心の中で「supreme〜thy」と唱え続けましたが、心の中(だけ)での唱えということで弱く、また、現実の作業に集中しないといけなかったので、暴発は殆ど収まりませんでした。その後なんとか無事 1時間乗りきり、家に帰って「supreme〜thy」を熱心に唱えました。胃の不快感が完全に無くなりはしませんでしたが、微熱や内臓の痙攣は治まり、なんというか、上手く表現出来ませんが、自分に自信がついたというか、少し意識の座が高くなったような感じがしました。
また、昨日の(プチ)暴発はちょっとレベルが上がっていました。息抜きに××(ちょっとした遊び)をしていたところ、別に姿勢は真っ直ぐでもなんでもなかったのにもかかわらず、なにか苦しいという気持ちになり、忽ち熱病にうなされ、最近はご無沙汰だった偏頭痛も再発して、それなりに苦しみました。しかし、「この程度ゴーピ・クリシュナの体験した暴発に比べたら全然大したことはない」と、動揺したり不安になることなく「supreme〜thy」や、「さやけき寂寞状態」を反芻し続けました。ところがちょっとやそっと唱えたくらいじゃなかなか沈静に向かいません。当然ですが、暴発の度合いに応じて沈静もそれ相応のものが求められるようです。1時間を超えてきたところでようやく沈静に向かっていきました。

■■■ 碧海 ■■■
当然、強いクンダリーニ・エネルギーを求めるならば、バランスを取る意味で、それ相応の強いイダー回路の活動が必要になります。「胆力や平常心」については既に触れましたが、チャクラの活動に基づく肉体の変調のときに、徒にあわてふためいて緊張してしまうと、体全体が収縮してしまい、諸血管も収縮してしまいます。すると、クンダリーニ・エネルギーの通過の際に、血管も押し広げられる形になるので、その時に、過度の混乱と緊張によって強い血管収縮を引き起こしてしまうと、「押し広げる力と収縮する力」の両方が働いて血管に過度の圧力がかかりすぎ、血圧が急上昇してのぼせるような状態で高血圧状態となり、そのまま脳溢血を引き起こしたり、その他の体の弱い部分の血管破裂などを引き起しかねません。
ですから、鎮静とリラックスを強力に行ない、胆力で平常心を保ち、緊張を解放する「テクニック」をその時に、しっかり行うことが大切です。

ハタヨガをやっていれば、長い吐息と共に血圧をどんどん下げる技法をある程度使うことができるようになります。私も仕事が過酷で睡眠時間が4、5時間という日が続く時など、「ここで今眠らないと明日大変だ」という時間帯があるわけで(つい最近までそうでした)、ベッドに入ると、ヨガの屍のポーズで全身を弛緩させ呼吸法で血圧をどんどん下げて行き、短時間で眠りに落ちるようにします。(勿論、事前に軽いヨガ的柔軟をしておいた後のことです)

さて、こうした弛緩法を会得するには、どうすれば良いでしょうか?

既に以前に述べましたが「開脚のポーズ」は必須アーサナ(体位)です。「開脚のポーズ」で検索してみたところ、以下のページがありましたので、写真などをみて下さい。
http://www.s-renaissance.co.jp/enjoy/rune_club/yoga/yoga_040607/index.html
http://homepage2.nifty.com/ailean/kaikyaku/kaikyaku.htm
http://www.geocities.jp/open180gou/sayuu.html
http://www.iris.dti.ne.jp/~m-breath/onepoint/nov00/

床に胸や額(ひたい)を付ける必要は、最初はありません。広げたまま、背骨を床に垂直の形で、すわって(?)いればオーケーです(最初は膝の裏が伸びないでしょうからこのポーズはつらいかもしれません。その場合は、お尻に座布団を半分折りにして敷くことをお勧めします)。
このポーズで、鎮静のマントラを唱え、リラックスの度合いを高め、呼吸を長く深くして行き、上半身の力も抜き、肩の力も抜き、上半身の柔軟性(可動範囲)を高めて行くと、1時間もかからずに鎮静できるはずです。
緊急でない、普段の練習の時には、「Supreme I bow to Thy 」マントラを唱えつつ(このマントラは)「神にひれふします」というマントラですから、開脚のポーズのまま、床にひれふして額を付ける(=これぞ「ぬかづく」行為!)ようにします。この「股割り形」は、五体投地のような形の変形バージョンとも言えますから、このマントラの内容にピッタリですし、ぬかづく心、謙虚な心と、全身を弛緩させる柔軟性の獲得の一挙両得の行法になります。

また、開脚座りのまま、口を大きくあけて微笑みを浮かべるようにしながら上を向き、「アー」と発声する練習も効果的です。「アー」は音声的に「開放音」です。ですから、心まで開放的な気分で「アー」と発声します。また、同時に、「アーナンダ(歓喜・至福)」の「アー」でもありますから、「神にあって喜ぶ」気持ちで、法悦を感じながら「アー」と発声します。
そしてまた、同時に、「ア音」は仏教・密教的には、根源の「不生(ふしょう)」を表しています。というのも、語源的に、サンスクリット語の「ア」は、接頭辞の場合、その後の言葉の反対・否定の機能があります。その語源を引き継ぐ形で、後世、英語の「アンチ〜」も反対の意味で使われているわけです。
「モラル」に「イン」という接頭辞を付けると「インモラル」で反対の意味になりますが、これと同じ機能を果たすのが梵語の接頭辞の「ア」です。つまり、仏教・密教的には、「アー」音は、生起した物質とは反対のもの、本不生なる本源の、霊的な「空なる根源神」を表す音 という意味づけになります。
以上の意味を踏まえながら「アー」マントラ発声を開脚座りで行ないます。
リラックスの度合いが高まると共に、神聖なパワーの湧出と疲労回復の効果があります。


さて、まだあります。呼吸法です。開脚座りのままであったり結跏趺坐の状態でも良いのですが、「吸う息」の時に、両鼻から空気を胸一杯、下腹一杯まで吸いに吸い込みます。その時、空気の冷たさを目の下あたりの鼻腔の中に敏感に感じるようにし、最初に両目の間あたりが鼻腔の裏から冷やされて行き、その冷たさがやがて全身に広がり、全身がその吸気で冷やされることを明確にイメージします。何度も繰り返すと、実際に、吸う息で身体が冷やされて行くような気になるでしょう。そして、実際に、そういう効果があります。
また、その吸息が「背骨」を通して「最初は」(つまり初心者レベルでは)「下がって行く」ようにイメージしてそれを感じるようにします。(上級者レベルではまた違います)
そうして、吸気が背骨を下がって行き、下腹部の丹田に冷気がたまって行くことをイメージします。
勿論、吐く息は、深くゆっくり、しかし下腹部をへこませ、横隔膜を上げて、みぞおち部分をへこませるようにして、全部吐ききるようにします。中途半端な浅い吐息で、炭酸ガスが滞留してしまうような吐き方はダメですので、注意して下さい。

以上のことを行うと、これまでとは格段の違いで、イダー回路が強力に働くようになることでしょう。

更にもう一点追加しておきます。シュリ・チンモイは、弟子たちに「ジョギング」を毎日2〜3キロ程度行うように教えています。勿論、12時間ランや24時間ランやウルトラマラソンも推奨し開催しているので、熱心な弟子には、「もっと走れ走れ」とやるわけですが、まあ、それはともかく、普通の場合、2〜3キロのジョギングが勧められます。
走ると、血行が良くなり、酸素が全身に行き渡ります。肩こりは偏頭痛なども解消されます。走ると、結跏趺坐の瞑想で血行が悪くなることや、身体の各部の血行不順の緊張を解消させる効果があります。
それに、もっと言えば、走ることはクンダリーニ・エネルギー対策でもあるのです。というのも、ジョギングすると、当然、心拍数が上昇し、血圧も上昇し、体は上気して赤みを帯び、熱を発します。それを毎日繰り返すと、体が自然に、そうした「血圧上昇的な、熱を帯びた上気状態」とは反対の「鎮静作用」の機能を強めて行くのです。それゆえ、体が慣れてくると、長く走っても、最初の頃とは違い、かなり平気で、息も乱すことなく、長距離を走ることができるようになるのです。

ただ、注意しなければいけないことは、いきなり体力以上の走りをすると、心臓がやられてしまうことがあることです。ですから、体力のない人は自分の体と対話しながら、少しずつ、たとえば、30秒走ったら、早歩きにもどり、心拍数が落ち着いたら、再び30秒走る−−−などを繰り返して、徐々に走る秒数を伸ばして行くべきです。
また、普段走らない人が急に走ると、「膝を痛める」ことが往々にしてあります。良いシューズを選んだり、コンクリートよりは土の道路を選んだり、膝への衝撃を考えて、無茶をしないことが大切です。結跏趺坐とジョギングの両立は、膝に負担がかかります。膝の柔軟性と筋力、両方が要求されるからです。膝の筋肉を鍛えるには、「ハーフスクワット」が効果的です。ハーフスクワットとは、90度以上は曲げないスクワットです。
また、走りが得意になってくると、腰を痛めて椎間板ヘルニアを患う可能性が高まります。というのも、走る時の地面につく衝撃が毎日繰り返されるうちに、そして結跏趺坐などの姿勢とも相まって、知らない間に、腰椎に挟まれた軟骨がはみ出てしまうのです。こうなると大変です。全然、走れなくなります。
これを防ぐには、普段から腹筋・背筋を鍛えて、ナチュラルな筋肉のコルセットで腰椎を締めつけている状態を維持しておく必要があります。

というわけで、「走る」というのは、奥が深く、いざ走り出せば、気づかうべき点も多いし、筋トレなども必要になるので、そうしたことも兼ねあわせて、考慮して下さい。
しかし、そうしたことをクリアーして「走る」習慣を身につけることができれば、効果は非常に大きいと言えます。
以上、イダー回路活性化させるための諸方法について、お話しました。

■■■ MAIさん ■■■
以下のご質問にもお答え頂ければと思います。

(1)先日のクンダリーニ的な暴発は、陰と陽のマントラを調和的に普段唱えていれば回避可能だったのでしょうか?(言い換えれば、あの暴発は陽のマントラばかり唱えていたために起きたものでしょうか)
(2)回避可能だったのであれば、なるべく暴発は回避した方がよいのでしょうか?
(3)ゴーピ・クリシュナも、無理のない瞑想を続けていればあのような暴発はなかったのでしょうか?それとも瞑想オンリーの行者には暴発は避けられないものなのでしょうか?

■■■ 碧海 ■■■
>(3)ゴーピ・クリシュナも、無理のない瞑想を続けていればあのような暴発はなかったのでしょうか?それとも瞑想オンリーの行者には暴発は避けられないものなのでしょうか?

彼の本に記されているドラマは、彼が早朝瞑想の習慣を20年続けていたら突如霊的な異変が起きて延々と苦しみ、本の最後の方でようやっとのことで、イダー回路が作用して制御不能な炎が制御されて「安定燃焼状態」に到って、めでたしめでたし、というものです。
このドラマのポイントは、「それでは彼はどのようにしてイダー回路を作用させたのか」、です。そこを注意してお読み下さい。
さて、このドラマを逆に見るならば、「彼の瞑想はイダー回路が作用しない瞑想法だった」ということがいえます。「自己流の瞑想」をしていたこと、もっといえば、彼には「神への深い信仰」がないまま、単なるヨーガの修行レベルで心を平静に、という程度の意識で瞑想を続けていたことにより、神の炎が不安定な形で目覚めてしまったのです。すなわち、「Supreme I bow to Thy 」このような意識がないままに彼は瞑想を続けたので、ピンカラー回路の<神の炎が制御できない状態>に陥り苦しんだわけです。
(もしも、私が彼の傍らにいたならば、すぐに適切な対処法を伝授して実践させ、暴発的苦しみを消し去り、クンダリーニ・フレーム(炎)の安定燃焼状態へと導くことができたでしょう。)

正しい瞑想法は、心経マスターバイブルで既に学んでいることと思いますが、「無自性の法門をくぐって、それからサマディーの門」の順番です。
ハタヨーガでも「禅定(ディアーナ)」を通って「三昧(サマディー)」の扉が開きます。途中の関門を通らずに、それをインチキして飛び越えてゴールへ行こうというのはよくありません。泥棒の考えです。ちゃんと、五体投地的な、神に絶対従順の「無自性・禅定」の精神を錬成しなければいけません。
それなしに、歓喜法悦を盗みたいとか、超能力を盗みたいということになれば、結果は見えています。天罰は、時には、肉体が神の炎に焼かれることとして来ることも当然あるでしょう。

以上で、(1)(2)の分にもおのずと回答したことになると思います。如何でしょうか。

陽(のマントラ)だとか陰(のマントラ)だとか区分すると誤解が生じることもありますが、要は、「神への全託の精神」を養うことです。宗教とはそれに尽きます。元気に陽気に健康的に、楽しく、感謝をもって、神への全託の精神を養って行きましょう。

■■■ MAIさん ■■■
明快なご回答有難う御座いました。
暴発したら沈静させればいいという考えでは、後々痛い目に遭うということが分かりました。
陽に偏った為に起こる暴発は、ハタ・ヨーガテクで無理やりクンダリーニを起こそうとして神の炎が制限なしに流入してショートを起こす悲劇と同様、神の(警告的な)いましめと、いうことですね。
今、再度心経マスターバイブルを読み返しているところです。
いつもご指導有難う御座います。

■■■ 碧海 ■■■
すっかり症状も落ち着いて来たようですね。イダー回路活性化の瞑想法ができれば、安心して瞑想修行して行けます。これからもその調子で、精進して行って下さい。




[ 5月4日 更新 ]


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