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2005年5月3日(火)
碧海龍雨との対話(非会員篇) 2005年5月3日(火) Page-up
〔答える重要論点シリーズ〕
 ●原始仏教から大乗仏教そして密教へと続く<仏教>の教えには、連続性があるのか、それとも非連続的で各教えは断絶的・個別的・別個なものか否か?

小野多文さんのHP(http://www5.ocn.ne.jp/~ono13/)にみられるように、「原始仏教」こそ釈尊仏陀の真説であり、その後の大乗仏教や密教は釈尊仏陀の説から大きく逸(そ)れた「邪説」である、という見解を持つ人が、日本ではかなり多くいます。勿論、世界的ブッディストでも、この点、意見が分かれているわけですが。
 創価学会の『開目抄』解説本の一節には、真言密教を説いた空海(弘法大師)を、「仏教の邪義をひろめる大悪人」と断罪する箇所も見受けられます。
 「マハー・ヤーナ=絶大乗」という一大曼陀羅観を掲げるのが本来であるべき大乗仏教教団であっても、創価学会のように、大乗仏教のあとから勃興してきた「密教」に対しては、仏教の教えから逸れた「断絶的・個別・別個の教え」と評価する教派もあるわけです。
 しかし、「ウパニシャッド・アドワイタ哲学的な一元論的一大曼陀羅観」からすると、そうではありません。原始仏教⇒大乗仏教⇒密教という流れの中には、釈尊仏陀の教えの真髄が脈々と伝法されている、と理解することになります。(勿論、そこには付加物も多々加えれてはおりますが)
 これはどういうことでしょうか。
 以下の対話(※)から理解して戴ければ幸いに存じます。


■■■ OYさん ■■■
(・・・)修行を深めていくと、閑静な所で禅定に耽ることになり(初禅から四禅/四禅の境地を究極とする)在家信者との交流が少なくなることになります。その人達を見て小乗であると非難し、在家信者と深い関係を持ちながら成仏を目指すと考えた人達が、大乗教徒として集まったものと思っています。
しかし、在家信者として、それなりの心構えで、托鉢に応じて供養するだけでも、出家者には劣るが、かなりのレベルになれると釈尊が説いたお経もあります。
要は、因縁解脱・成仏に貢献できれば良い訳ですが、在家信者と一緒になつて、世俗の苦しみ・楽しさに一喜一憂、対応していると、出家の目的は達せないと説いています。『ブッダのことば(スッタニパータ)』中村元訳 参照。(・・・)すべての宗派ではないですが、六波羅蜜の修行として、布施波羅蜜を全面にだして、因縁解脱の修行としている宗派は良いと思っていません。
理由として、煩悩は、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見を根本煩悩としていますが、布施行が薦められるのは、「貪」の煩悩に対してであって、すべてに有効と思っていません。
スッタニパータのなかでも、布施より、四無量心を朝・昼・晩に修する方が、優れていると説いています。
(・・・)

■■■ 碧海 ■■■
 叡智のヨガを対話型で行う場合、「それは、そうではない」「えっ、どうして?」「何故なら、これこれだから」「えっ・・・あっ!」というように、気付きが訪れ、誤解が氷解し意識が変容・拡大し、瞑想が深まります。
しかし、「そうではない」と否定の剣を振るわれて、自分の思い込み・誤解・エゴを粉砕されて気分を害し、「ふん!ふざけるな」と激怒する人々も大勢います。
そういうわけで、原始仏教ファンダメンタリストの「(大雑把に数えて)七つの誤解」を氷解させることは可能ではありますが、その人がどんな資質で何をお望みかよく知らない状態で、こうした叡智のヨガで相手の誤解に切り込むことは宜しくないと考えます。
その意味で、釈尊のスタンスと同様、「真理は聞く耳がある人のみに語り、無用な議論はしない」ということになります。
ただ、ご自身の誤解氷解への意欲が強く、ご自分のビジョンが瓦解しても結構と思う探究心がおありの場合のみ、私に「食い付いて」来て下さい。その場合には喜んでご指南致します。

   
<<仏教ファンダメンタリストの自己超越的覚醒のためのガイドライン>>
1.文字は殺し、霊はいかす
上記で紹介した小野多文さんのような、「根本仏教だけの信奉者」の方々の思考回路を分析すると、「釈尊は偉大な覚者⇒原始仏典は彼のみ言葉⇒原始仏典のみ信用できる価値高きもの」 という価値判断がまず最初に不動のものとして存在し、そこから、大乗仏典や密教仏典などは「釈尊の言説にあらず⇒信用できない・価値低きもの」という「排除の心理」が働いているものと思います。
これは、いわば、「釈尊バクティー(特定対象礼拝)信仰」の一種と言えます。
そして、このスタンスが大乗仏教徒からは、イスラム教の原理主義と類似と受け取られるのには理由(わけ)があります。但し、原理主義という言葉が悪印象を与えて不愉快であれば、「ファンダメンタリスト」と言い換えても結構です。
イスラム教圏ではキリスト教の欧米諸国に比して科学・文化などの後進性が指摘されていますが、これは 「誤謬的解釈に自縄自縛になって身動きがとれない」 結果と言えます。
ユダヤ教でもキリスト降臨時をピークにこうした自縄自縛があったわけですが、キリストの弟子であるパウロの教え「文字は殺し、霊はいかす」という教え(ここにキリスト教の真髄があります)を受け入れた人々は、文字に基づく自縄自縛から解放されて霊的発展を遂げて行きます。

2.ドラム缶海水信仰
仏陀釈尊も蛇を取り上げて、「蛇の如く何度も脱皮して行くように」と原始仏典で教えていることは周知のことと思います。しかし、自分自身の解釈の「殻」を打ち破る一種の「自己超越」を段階的に何度も行ってゆくのは、容易なことではありませんし、時に苦痛も伴います。
私は原始仏教信奉者を否定はしませんし、「どうぞそのままご精進下さい」というスタンスです。
しかし、彼らから逆に 「般若宗のような大曼陀羅観は間違い、邪道だ」と言われれば、「そうではない、何故なら・・」と答えるでしょう。

その場合、次のような譬えを告げましょう。
「真理の大海の浜辺で真理の貝殻拾いをしている子供の如し」と表現したのはニュートンだったでしょうか。このような謙虚な姿勢こそ重要です。
釈尊は無我の境地に到り、真理の大海を人々に伝えるパイプラインと成りました。
そこで、たとえば、大海から百キロ離れたところで真理の海水を味わおうと人々がお碗を片手に釈尊パイプラインのもとに集い始めたとしましょう。そして各人がそこから流れる真理の海水をお碗で受け止めて持ち去ります。そのうちに、信徒たちは、各人が受けたお碗の海水を一カ所に集めてドラム缶の中に入れ、これを満タンにし始めました。
これが原始仏典です。そして、釈尊バクティー信仰の信者たちは「このドラム缶の海水こそ真理であり、どんなものよりも価値が高い」と考え、それにこだわります。
しかし、ニュートンの如き冷静な分析眼をもつ叡智のヨギ(ジュニャーニ)は、ドラム缶海水の「限界論」を見抜いて語ることでしょう。
「そのドラム缶は真理の大海そのものにあらず」と。また、「釈尊の偉大さはそのドラム缶で評価すべきものにもあらず」と。
そして、「こうしたスタンスこそ真のブッディスト、すなわち、ブッディー(理性)によりダルマを信奉して探究する者のスタンスではないのか」と語るでしょう。

3.断絶か、一貫性か、どちらを見るか?
また、次のような譬えをかたりましょう。
相対性理論は普通人には理解が難しいものですが、ある人は「相対性理論とは数学のこの変換式から説明するとわかりやすい」と語り、またある人は、「数式を使わなくても、三角形を組み合わせることで、変換した時の変化の分量を視覚的に表現することができ、これで説明するとわかりやすい」などと語ったとします。
ここで、アインシュタインへの敬慕が強いファンダメンタリストは、「いや、アインシュタインの論文そのものを一語一語解説して説明して行くのが本当の相対性理論だ」と主張したとしましょう。
このような主張をする人たちがいれば、当然、学派は分裂するでしょう。
「アインシュタイン論文逐語解説派」と、それにこだわらない「理論の真髄を多様な角度と方法で説明する自由派」とに。
(しかし、実際には、物理学の学会は優秀な人々が集まっているので、こうした馬鹿らしい話にはなりません。しかし、宗教では違います。)

仏教をはじめとする宗教各派ではこうした分裂現象が起こります。
ファンダメンタリストは原始仏典のみを価値高いとして、その後の経典は邪道にそれたと評価するのが一般です。つまり、原始仏典と、その後の大乗仏典・密教仏典とは「決定的な断絶がある」というスタンスです。
しかし、大乗仏教信奉者や密教信奉者はそう考えません。そして、三世諸仏もインドのヒンドゥーの諸聖者もそうは考えません。
どう考えるかと言えば、仏陀釈尊の教えの真髄を「別のわかり易い方法で説明しなおしたもの」が大乗仏典であり密教経典であると理解します。
つまり、「原始仏典⇒大乗仏典⇒密教仏典」には、決定的断絶などなく、同じ真理が別の方法で語られているに過ぎず、その意味で、真理の表現の度合いが深まることはあれ、断絶しているということはない、という「首尾一貫性」を見抜くのです。

これは結局、「根本スタンスにおける視点の違い」でもあります。「ドラム缶海水の真理を志向・信奉するのか、真理の大海を志向・信奉するのか」、という違いであり、また、「文字にとらわれるか、とらわれないか」、という違いでもあります。

以上、仏教ファンダメンタリストのための、蛇の脱皮(段階的自己超越)のための、大雑把なガイドラインを示しました。

■■■ OYさん ■■■ 
 当分の間以下の「相応部経典 無常」の経典を念頭に置こうかと思っています。
「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、またわが本体でもない・・・」

■■■ 碧海 ■■■
グッドです。但し、叡智のヨガからは、次のように自問することをお薦めします。
「私は原始仏典に最高の価値の信用をおいて、執着といわないまでも極めて大切にしてこれを研究しているが、このような評価をする自分、このような原始仏典凝視をする自分、このような理解(アンダースタンディング)をする自分は、無常なものであろうか。
一体だれが、このような価値評価付けと執着をしているのだろうか?」 と。
あるいは、
「原始仏典 自体は無常なものであろうか? それとも、不滅のものであろうか?」 と。
「自分は不滅の言葉に執着してこれを修しているのか、それとも無常な言葉に執着してこれを修しているのか?」 と。

■■■ OYさん ■■■ 
自己紹介ですが、私が持っている見解は、いろいろな霊的世界に冠する書物等を興味のままに読んだ結果として、共通性がある内容・世界観を信頼にたるものと判断したものに基づいています。
参考までに、私が信頼できると判断しているものに、神智学・スウェデンボルグの霊界日記・天界と地獄等・神との対話・桑田二郎さんの書籍です。
体感できている訳ではないですが、すべての人と一体であるという認識をもった発想は正しいと思っています。
<原始仏典→大乗仏典→密教経典には決定的断絶などなく同じ真理を語る>
この件については、すべてではありませんが、大乗仏典になった時、単語の意味が意識的に変更されたものがあると思っています。
例として、無学です。これは、仏教用語で、原始仏典では、三蔵を学び精通して、教法について学ぶことが無くなった人であり、学ぶことのある人を有学と表現しています。
現在、無学は教養のない人と理解するのが一般てきです。その原因を作ったのは大乗仏典を普及させた人であると
また、菩薩の定義は、当初すべての六師外道を含めた人達、求道者の意味で特別な意味づけは無かったと解釈がありました。
阿羅漢は比丘の最高位悟った人の定義ですが、大乗仏典では意味が変わっています。
方便についても、当初いろいろな工夫して修行・努力する等の意味で仏典に使われていたが、現在は、嘘も方便というような使われ方になって、意味が変化している
以上のようなことがあり、現在の意味で理解すべきでないことがあります。
私の見解が絶対正しいとは思っていませんが、根本の「自我」の意味付けについて大きな違いがあります。
原始仏典を読んでいる限り、「自我」=「無自性」=「空・無」と取れるような使い方をしていまいと感じています。
どういうことかといいますと、五蘊(色・受・想・行・識)と一切(六根・六境)を、無常であり、無我である、わが我にあらずわが本体にあらずと表現しているのみであります。
「わが本体」=「無我」と理解できる経典は見当たりません。
私は、「わが本体」=「心」ではないかと思っています。心について説いているのはいろいろありますが、「相応部経典 心 」を一部引用します。

傍らに座したその天神は、世尊の御前にあって、偈を説いていった。
「この世は何によりて動かされ、また何によりて悩まされるるや、なんぞ、唯一つのものありて、すべてのものを隷属せしむるにや」
その時、世尊もまた、偈を説いて仰せられた。「この世は心によりて動かされ、また、心によりて悩まさるる。ただ心なる一つのものありて、すべてのものを隷属せしむるなり」以下略
くどいですが、「人」という経典では、「世尊よ、どのようなことが、人の心のなかに生じて、人の不利と苦悩と不安とになるでありましょうか」に対して、
「貪りと怒りと愚かさと、この悪しき心、おのれの内に生じて、人はおのれを害するなり、たとえば、竹が実をもちて倒るるがごとし」と説いています。
この心=「無我」と理解すべきでないと思っています。
長くなりましたので、ここで一段落とします。

■■■ 碧海 ■■■
恐らく、貴方さまのご批判は、当サイトの電子書籍をあまり読んでいない「早とちり」であろうと思われます。
試みに、般若心経マスターバイブルの第二章の第二節「中道コンシャス」をお読み下さい。より詳しい内容は、「真我瞑想法スートラ」の第七章「超宗教の中道を志向する」の「真−7−14」以下を御覧下さい。
「世界万象を自性と無自性の混成体」と見るのが中道に基づく「中観」です。
仏教の教え 「十二因縁、一心による」
というのは、それゆえなのだと解されることになります。

また、スウェーデンボルグは般若宗でも認めています。彼を認めて下さって嬉しいです。

■■■ OYさん ■■■
(上記で紹介されている)小野多文さんの「般若心経」経典研究について
私は、桑田二郎さんの解説した「マンガエッセイ般若心経への道」「マンガで読む般若心経」をベースに解釈の大筋として納得しています。
このため、登場する観自在菩薩・舎利子を瞑想することによって生じる「霊的次元の智慧」と「人間の精神」をたとえた名前と理解していますので、「智慧第一と云われた舎利子に教えを説く形はいかにも不自然」という発想は私にはありません。
経典作成年代を考えても、その時点では、はるか昔に、舎利子は亡くなっているのですから、喩えとして理解するのが自然かなと

また、般若心経の中で、五蘊・十二因縁・四諦等を否定しているとの見解ですが、
私は、諸法空の相(すがた)ー霊的次元の性質・状況を説いたものと理解しており、霊的次元には五蘊・六処のような苦の生ずる原因となるものは一切無く、当然苦を滅する法(手段)も無いことを説明していると理解しています。

般若心経の価値ある所と考えている内容は、「空」によって、縁起の法則・物質世界と霊的世界の関係・法則(カルマ)を表現していること、
有見-bhava ditthi 世間及び我の不滅に執する見解
無見-vibhava ditthi 世間の空無を偏執する見解
常見-sassata ditthi 霊魂や世界は永久なるものとする見解
断見-uccheda ditthi 霊魂の死後断滅する見解
以上を「空」という概念で整理したことと思っています。その他いろいろありますが

私は、小乗仏教と云われているところから大乗仏教と云われている変化の中で、煩悩を滅して解脱成仏するために必要な何か大事な釈尊の教法が引き継がれていなくて、そのために、煩悩を滅して解脱したと言える人が、少なくなつているのではないかと思っています。

その原因は何だろうという観点から、小乗仏教の認識・見解と大乗仏教の比較による違いの中で、原因といえるようなものに興味をもって見ているところがあります。
今回、その原因の一つと考えられるものに、近藤さんも触れていましたが、「四諦」を小乗仏教徒が実践していた低い教えということで大乗仏教では実践していないのではと思われることです。

知っている内容と思いますが、四諦が重要な実践すべきことと判断する仏典がありました。
「相応部経典 思惟 」で説かれている内容です。一部重要と思う所を引用します。

比丘たちよ、このような善からぬ愚かな思いをしないがよい、そして、有見・無見・常見・断見をしないがよいと説います。
続いて、比丘たちよ、汝らが思惟する時には
こは苦なり と思惟するがよい
こは苦の生起なり と思惟するがよい
こは苦の滅尽なり と思惟するがよい
こは苦の滅尽に到る道なり と思惟するがよい
比丘たちよ、それらを思惟することは、よく利益をもたらし、「梵行の出発点」となり、また、厭離・離貪・滅尽・寂静・証智・等覚・涅槃に役立つ。

以上の内容ですが、ここに説かれているのは四諦であり、これはそのまま八支の道とした「正見」の内容そのものであり、また、八支の道を修することを「梵行を修業すること」に位置づける経典がいくつかあります。
大乗仏教徒は、釈尊の薦めた「出発点」といえる修行をしなくなったと言えることではないでしょうか?
当時の大乗仏教徒は、在家信者と深い関わりを持ち、多くの布施等から現状を苦と認識し厭うことを厭うことになったのではと?

■■■ 碧海 ■■■
貴方さまが小野多文さんとは違う立場であることがよくわかりました。スウェーデンボルグを認容するなど、なかなか「良い筋」のお人だと思います。
さて、貴方さまは、原始仏教が優れており、大乗仏教では大切な根本が抜け落ちたと評価なさっておられるようですが、そのように捉えるのが正しいかどうかは疑問です。
もし貴方さまが「釈尊在世当時には釈尊の説法を受けて解脱者が続出し、釈尊逝去後は教えの大事な部分が脱落して解脱者が激減した」とお考えであるならば、それは、多分、誤解であろうと思います。
というのは、解脱可能なほど前世で修行が成熟したヨガ上達者は、今生でも自力で解脱が可能なレベルとして生まれるからです。釈尊もしかりですし、その他のマハーグルもみな、自力で解脱しております。
「偉大なグルがいれば解脱者が続出する」という考えはオウム的な考えで、宜しくないと思います。確かに偉大な教師がいれば、生徒のレベルはグンと上がるでしょう。しかし、そうだとしても、次から次に解脱させられるほどの自由は、グル自身にもありません。
各人の成長は必ず一歩一歩であり、なおかつ、霊的には螺旋階段的スパイラルをして上昇して行きますから、急成長があっても、揺り戻しがあり、二歩進んだら一歩下がるような形の中で、経験を積んでゆくものです。

それと、原始仏典の位置付けですが、「ドラム缶海水信仰」で述べた通り、それらは信徒が聞いた言葉を集めたものです。そして、信徒のレベルは高くなかったのです。
ということは、理解力乏しい低レベルの信徒を相手に釈尊が語った言葉の数々は、釈尊が伝えたかったことのほんの一滴に過ぎないと理解すべきです。
小さいお碗で受け取っり信徒たちの受容した「御言葉」は、信徒の受容能力の応じて語られた言葉でしかないと認識すべきです。
ゆえに、原始仏典をいくらなんども精読しても、釈尊の真の教えの「全貌」は全然見えてこないというのが本当のところです。
  (補足〜〜素晴らしいカラーの写真を白黒の性能の悪い白黒のコピー機で何度もコピーした場合、コピーしたものは、原画とはあまりに大きな開きがあります。このことを考慮せず、白黒の粗雑な画素のコピー画をみて、それを判断対象にすることは危険です。釈尊仏陀の真実が素晴らしいカラー写真だとして、その教えを受け取って集めたドラム缶の海水は、白黒のコピー画に相当します。)

しかし、それでも、残った釈尊仏陀の原始仏典を調査して分かる「確かなこと」は、彼の瞑想技法がヒンドゥーの「ジュニャーナ・ヨガ」の一種であったということです。

従って、これまた一人で悟った近代の聖者、ラマナ・マハリシも「ジュニャーナ・ヨーガ」の使い手であったことから、彼の語る技法と釈尊のそれを比べてみることで、その類似性から仏教のそれを推測することも容易にできるという面があります。

そもそも、大乗仏教徒から「小乗仏教」と非難された原始仏教派は、釈尊の残された僅かな言葉をたよりに修行を実践していたわけですが、彼らは理解力が乏しいために、脇道に逸れてしまいました。つまり、俗世を厭うあまり、「ひきこもりのカルト宗教化」 してしまったのです。
そこで、無名の聖者があらわれ、仏教を中興し、大乗仏教運動を興したのだと推測できます。

真の健全な光の宗教が、すべてを厭う「厭世主義」的な教えであるはずがないのです。
法華経的な「諸法実相」を観想し、「無条件の愛」をすべてに向ける「全受容の態度」こそが、真の宗教の究極の姿なのです。
このことが分かれば、大乗仏教とは、釈尊本来の真のスタンスが新たに掘り起こされたもの、と解釈することができるようになります。
大乗の六ハラミタとは、六つの完全性を表します。
聖者には、必ず、この六つの完全性という特徴があるのです。「布施の完全性〜叡智の完全性」までの六つです。
それゆえ、聖者にならんと欲する者は、六つの完全性、どれをとっても良いですし、全部を狙ってもよいですが、そのどれかの完全性に到達できるように、修行するわけです。
完全を目指して努力するその努力を、「不完全だ、不充分だ」と貴方さまはクレームをつけるのでしょうか。その努力の仕方が「甘い」ものだとしても、それはそれ、各人の問題であり、大乗仏教そのものの「せい」にすべきではないでしょう。

確かに、大乗の六ハラミタの修行法は、釈尊が教えた瞑想法とは一見、全然違うように見えます。(ここが原始仏教ファンダメンタリストの方々が指摘する主要な突っ込みどころであるわけですが・・・)
しかし、そもそも「ジュニャーナ・ヨガ」とは、般若宗の心経マスターバイブル前篇第一章冒頭にあるように、諸法の無常性を観想して「これでもない、これでもない」と否定の剣を使いながら、心の底から希求する「神の不滅性・常恒性と完全性」を瞑想する技法なのですから、その意味で、大乗の瞑想法も釈尊の瞑想法も、技法的には「同じ大樹の枝葉だ」と言うことができるのです。

ついでに言うならば、「根本仏教尊重派」や仏教ファンダメンタリスト、あるいは、そうでなくても、原始仏教と大乗仏教の異質性を問題視する方々の多くは、「ジュニャーナ・ヨーガ」とは何かについて、ほとんど理解がない場合が多いのですが、貴方さまの場合はいかがでしょうか?

今、「ジュニャーナ・ヨーガ」とはどのようなものか? と試すような質問をしましたが、いえいえ、決して試すためではありません。というのも、空王寺ホームページの「般若宗の11の特長」をクリックしてもらえば、いの一番に、「叡智のヨーガ」についての説明が載せてあるからです。
このように、既に答えは明示してあります。
更にいえば、
『真我瞑想法スートラ』第14章は、全部を「叡智のヨーガ」の核心の解説に当てています。
叡智のヨガとは、一言でいえば、『脚下を照顧すること』です。その深い意味については、この14章をどうかよくお読み下さい。

「脚下を照顧する」ことこそ、叡智のヨガであり、仏陀の瞑想法であり、原始仏典が教える瞑想法であり、同時に大乗仏典が教える瞑想法でもあるわけで、もっといえば、密教経典でもそれが説かれているわけです。
更に、「脚下を照顧する」という言葉自体が「禅家の用語」である通り、禅とは、仏陀の瞑想法の核心のみを行じるために作られた宗派ですから、枝葉末節を取り払った「脚下照顧」のみに特化した坐禅を行うのが、禅宗です。(というか、本来、そうあるべきです。)

脚下を照顧する時、評論家的なエゴはなくなります。あの仏典はどうの、この仏典はどうの、と評論家のような「批評」をするエゴの活動を、脚下照顧の瞑想法は、許さないのです。
脚下照顧とは、批評活動をするエゴの活動がどこから来ているのか、その根源へと深く進んでゆくまなざしを向けることなので、批評活動が停止してゆくのです。

ですから、申し上げたいことは、
「脚下を照顧することなしに仏教を論じれば空論に堕する」、
ということです。これは、原始仏典を論じても同じことです。
よくよく注意すべきことです。

■■■ OYさん ■■■
あるレベルを超えるために、瞑想をすることは必然と理解しています。しかし、瞑想によりクンダリニーを覚醒することには、危険がある。原因は心が浄化されていない場合等と空王寺でも説明されています。
それは個人のレベルの問題であると理解しています。そういう意味で瞑想する前に心の浄化する方法・レベルの判定が重要と考えています。
そのため、瞑想する前の準備として、いろいろな教えに興味を持っています。
ヨガについては、聖者パラマンサ・ヨガナンダ自叙伝等から信頼できる「グル」に弟子として住み込み常に指導を受けられるような環境でないと危険を犯すことになると思っています。

>健全な光の宗教が、すべてを厭う「厭世主義」的な教えである筈が無いのです

私としては、釈尊は五蘊盛苦と断定していると理解しています。読み直したのですが、桑田二郎さんの般若心経の解説では、「肉体(低我)を伴う生命形態そのものが苦である」肉体を伴わない霊魂のみの生き方である、涅槃に入ることを目標にしていると。
そのために、五蘊に対する執着・愛着を一切捨てること、捨てないと肉体を伴う輪廻転生を繰返すという内容の説明があります。
私はこの見解が正しいと思っています。、

■■■ 碧海 ■■■
桑田二郎さんが、かの「エイトマン」の作者であり、心経研究と実践をなさる人だと知ったことは一つの収穫です。ただ、大山さまのコメントからすると、桑田さんの心経解釈には、問題があると思います。
以下、誤解を氷解させるための「ブッディー・ヨガ」(理性のヨガ)の語り口が議論を進めますが、貴方さまが「感情的に桑田さんにくっついて粘着してしまっていて、理性の力ではどうにもならない場合」には、以下のブッディー(理性)活用の真理探究は貴方さまに「気付き」をもたらさず、かえって怒りをもとらすかもしれません。
私としては、そうならずに、気付きがもたらされることを祈念しています。

私自身も何を隠そう、若い時は、肉体軽視・精神力重視の傾向が強かったのですが、大聖者シュリ・チンモイに出会い、日本人としては極少数だと言えますが、彼から有形無形の教えを直接受けた者として、大聖者は肉体を軽視することはなく、むしろ「重要視する」という価値観の大転換を体験しました。シュリ・チンモイは瞑想によって神の力を引き下ろすことで、肉体もすさまじいパフォーマンスを発揮することができることを皆にみずからの実践により模範を示している希有の大聖者です。

思想的に言うと、肉体を 「厭うこと」と「超越すること」の違いだといえます。厭うのは単なる否定ですが、「超越」は否定を超えて変容した上での更なる肯定になります。
インドでは、「輪廻転生しないための捨身行」というものがあります。そうした思想には修行的には有効なものがいくつも内臓されているものの、その全体がすべて正しいものなのかどうか、冷静に分析して識別する必要があります。(つまり「やりすぎ注意」ということ)
空王寺書籍では『真我瞑想法スートラ第20章』の「真−20−42」以下でこの論点に触れて正解を提示しています。「注5」が黄色になっています。この部分です。ブックマークつけていますから、発見できると思います。是非、御覧下さい。(但し、その前からの章を読んでいないと内容的にはむずかしいと感じることでしょう。)
http://www.hannya.net/singa20.htm#enseiteki
万一、表示されない場合は、この第20章を開けた状態で、インターネット・エクスプローラーの絵のアイコンの更新マークをクリックして下さい。

釈尊は悟る直前、捨身行の極限で死ぬ直前まで行きました。しかし、このままでは死んでしまい目的達成できないという危険を感じ、スジャータから差し出された「牛乳粥」(これは動物性食品です!)を受け取り、みずから進んで摂取します。ここから中道のバランスに気付くのです。
釈尊はその後、悟りに入りましたが、肉体を保持していたでしょう? そればかりか、釈尊ほど長年に渡りあちこちに布教的な遊行をした聖者がいるでしょうか。これは肉体を使用してのことでした。もっと言えば、「エゴのない使用法」だったのです。

釈尊の教えの本質を「五蘊盛苦」と捉え、「肉体を捨てれば苦もなくなる」と解釈するのは自由勝手ですが、こうした論理の流れは、俗的表現で言えば、「つっこみどころ満載」の、実に粗雑な、初心者的な論理思考の所産と言えます。
たとえば、
「五蘊」の「色」部分(肉体)のみを捨てると、どのような形の生存形態になるのでしょうか。
「霊体のみ」という場合、その「体」には「色」がないのでしょうか?(笑)
また、五蘊すべて(色のほか受想行識)を捨てることができるでしょうか。また、それを捨てた状態で「生存と意識活動」は可能でしょうか?

もはや、「しっかりして下さい」と、励ますしかありません。
禅の老師なら「喝(カーツ)!」とやる場面かもしれませんよ。(笑)

般若宗の「四源罪論」は、「罪悪発生原理の根源」を言語化・理論化した、現在のところ世界最高峰の理論なので、初心者の方々には「むずかしい」かもしれません。
しかし、霊体のみになったからと言って、即、この四つの罪を犯さないようになる、とは全然言えません。むしろ、きっと必ず犯してしまうでしょう。よって、因果応報の結果、その償いの修行のために、苦を受ける生活が待ち受けていることも必定となります。

いいですか、まことにまことにあなたに告げます。
苦を滅するためには、因果律の「罪と罰」の循環の輪から超脱しなければならず、そのためには、罪を犯さないレベルに到達する必要があるのです。
肉体を厭うことや世間を厭うこと「だけ」で、罪を犯さない人格に到ることは不可能−−−
このように、是非、気付いてほしいと思います。

シュリ・サティア・サイババも、この世に生を受けたのは、悟りを得る機会を与えられたことであり、肉体を与えてくれた両親、(男尊女卑の世界では)特に母親には深く感謝しなければならない、と説いています。
このロジックは単純ですが、とても重要です。
釈尊の教えの本質を「五蘊盛苦」と捉え、「肉体を捨てれば苦もなくなる」と解釈するのは自由勝手ですが、この考え方だと、両親に対して、「なぜ、私を産んだのか」と恨みに思う感情へとつながりかねません。肉体厭離の思想が、自分を産んでくれた両親に感謝するという心情と、どのように美しく接続するというのでしょうか。
肉体厭離思想の持ち主の多くが、親孝行者ではない、というケースが多いことも指摘しておきましょう。
「報恩の念」のない教えに、価値があるでしょうか?
そこにエゴがないと言えるでしょうか。
よくよく、冷静に自分を見つめるべきです。

また、ヨガに関して、大山さまは、グルにつかなきゃ危険だとお考えのようですが、それはクンダリーニ・ヨガなど特殊なものに限られます。
叡智のヨガは、脚下を照顧する技法であり、鏡で自分を見るのと同じことです。鏡で自分を観察するのにグルが必要でしょうか。そこに何か危険なことがあるでしょうか。
自己の客観視、自己の心の動きの分析という「内省・反省的な思考」には、危険な要素は微塵もありません。この点の誤解も、あわせて氷解させて戴ければ宜しいかと思います。

■■■ OYさん ■■■
 ・人間の霊魂等の構造学的分析について
私は背景として、神智学の概念をベースとしています。そのため、現在の環境は、自分自身のカルマの結果であり、現在を起点にして霊的進化をはかることを目的として生れていると理解しています。
ゆえに、現在置かれている環境(四大・五蘊)を通して、霊的に学ぶべきもの、育てるものがあると考えています。
現在の肉体を捨てれば、苦がなくなるとか、生んだ両親を恨むというような発想に基づいた厭うではなく、自分自身の心の貪欲の壊滅・瞋恚の壊滅・愚痴の壊滅を目的として、五蘊に対する心構えを「表現」したものです。
神智学の「人間の構造・概念」を背景にした意味づけがある言葉が理解しやすいと思っています。

できれば、たま出版「神智学大要」全1巻〜5巻の1巻にある、物質体・アストラル体・メンタル体・コーザル体等の概念に照らして、多重構造になっている人間をどういう位置付けにしているのか、説明して頂くと理解しやすいと思っています。
ちなみに、桑田二郎さんはこの概念を背景に、言葉を選んで説明している部分があります。

 ・参考に理解してといわれた「仏教の四転倒」(a)(b)(c)(d)の見解について
この見解を取っている宗旨宗派は具体的にどこなのでしょうか?
私は、今まで相応部経典を読んだ中に、「仏教の四転倒」の見解と理解できる経典に出会っていません。
(a)(b)(c)については、相応部経典の「無常」の内容で、(a)(b)(c)に該当する見解をしていないと理解しています。前半部分を引用します。
比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。無我であるから、これはが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。
そのように正しき智慧を持って、如実に見るが良い、そのように正しき智慧を持って観れば、その心は執することなく、煩悩を離れて、解脱するであろう。以下略
(d)の見解に対しては、適当な経典はありませんが、経典の解釈に、不浄=煩悩という説明がありましたが、私は、不浄の言葉の意味は煩悩の心に基づいた行為から生起した結果・悪因悪果の「悪果」部分をさして云う言葉と思っています。
そういう意味で、「清浄で美しいもの」は何かについて、具体的に説いていた仏教教典はあるのでしょうか?

■■■ 碧海 ■■■
貴方さま曰く
“(a)(b)(c)については、相応部経典の「無常」の内容で、(a)(b)(c)に該当する見解をしていないと理解しています。”

あらあら、困りましたね。読解力の問題も含めて、冷静に熟慮を願います。
たとえば、貴方さま引用の相応部経典の聖言
「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。無我であるから、これはが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。」

仏陀は、なぜこのように言ったのでしょうか? 
それは、比丘たちが、これとは正反対の見解を持っていたからこそ、「真理はその逆だよ」と指摘して「正しい真理を見つめる智恵」を授けたのではないですか?
つまり、比丘たちは、肉体を今日も明日もこれから何年もず〜と存続するという意味で無意識的に「常なるもの」と思い込んで、そうした間違った思い込みが起点になって色々な煩悩が発生している、という心理的な事実がここで指摘されているのです。
こうしたロジックは、いちいち指摘しませんが、仏陀の言説の随所に見られます。

人々が無意識のうちに「常なるもの」と思ってしまいがちの事柄を一つ一つ、「これも無常なり、これも無常なり」とやって行くと、マインドの中で形成されていた「常転倒」が壊滅して行きます。
人間は、無意識のうちに、さまざまな「ヴィパルヤーサーティ(転倒した見解)」をマインドが形成してしまいます。その一つとして「常転倒」があるわけですが、このような用語で呼ばれるようになるのは、勿論ずっとあとのことです。
しかし、「常転倒」という用語と認識は、仏陀の言葉を分析した結果の用語であり、ブッダの教えから逸れていません。
個別的な四転倒とか七転倒などではなく、「見解の転倒全般」、すなわち、一般的な「ヴィパルヤーサーティ(転倒した見解)」という言葉については般若心経にも出てきていますね。これについては、勿論、般若宗でも詳しく解説している通りです。

以上で納得できないのであれば、もう少し補足しましょう。
最古の原始仏典とも評される『ブッダの言葉 スッタニパータ』 (岩波文庫)中村元博士訳
を見てみましょう。
「第三 大いなる章」詩句七五六〜七番(170頁)には
「見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執着している。これこそ真理であると考えている。(・・・)そのものは異なったものになる。・・・過ぎ去るものは虚妄なるものである・・・」

これは、無我(非我)なるものに「我がある」と思いなす「転倒した見解」を指摘して、正見すること、そこから生じる正思惟を促す言葉です。
このことだけでも、貴方さまが「ブッダの言葉には四転倒を見ない」と仰られるならば、それは誤解か、又は勉強不足ということだけであることがわかるでしょう。

そのほかの、「楽転倒」についても引用しておきましょう。
「第三 大いなる章」詩句七五九〜七六二番(171〜2頁)
「色、音声、味わい、触れられるもの・・・好ましく愛すべき意に適(かな)うもの、それらは実に、神々並びに世人には、「安楽」であると一般に認められている。また、それらが滅びる場合には、彼らはそれを「苦しみ」であると、等しく認めている。(しかし)自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。正しく見る人のこの考えは、一切の世間の人々と正反対である。他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であるという。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。・・・」

「浄転倒」についても同様です。
「第一 蛇の章」詩句205番には「人間のこの身体は不浄で悪臭を放ち・・汚物が充満し・・・」と語ったり、詩句835番では「糞尿に満ちたこの(女)がそもそもなにものなのだろう」などと語ったりして、凡人が、女体の美しさに惹かれて煩悩を起こすことを、転倒した見方だとブッダは教えるわけです。冷静に分析すれば不浄なるものを、何を血迷うのか、美しく浄いと見て魅せられ煩悩を起こすわけですから。

>この見解を取っている宗旨宗派は具体的にどこなのでしょうか?

というわけで、四転倒を否定している宗派とか、四転倒を認めない宗派というものがあったら、逆にお伺いしたいぐらいです。そのような宗派を私は知らないので是非お教え下さい。

>そういう意味で、「清浄で美しいもの」は何かについて、具体的に説いていた仏教教典はあるのでしょうか?

最古の原始仏典と言われる上記の書から引用しましょう。
「平静な心構えと念(おも)いの清らかさ−−それらは真理に関する思索に基づいて起こるものである。」(詩句1107番)
「想を止めたならば苦は消滅する」(詩句732番)
「およそ苦しみが生じるのはすべて識別作用(識)に縁(よ)って起こるのである」(733番)
「識別作用が止滅することによって名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる」(1037番)
「こころが混濁していてはならない」(1039番)
「変化する生存状態のうちにとどまるな」(1055番)
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば、死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観想する者を<死の王>は見ることがない」(1119番)

遍歴の行者サビアは、師の所説によろこび随喜して・・・
「麗しい白蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません。雄々しき人よ、両足をお伸ばし下さい。サビアは師を礼拝します。」(547番)

次の話題に行きます。
>できれば、たま出版「神智学大要」全1巻〜5巻の1巻にある、物質体・アストラル体・メンタル体・コーザル体等の概念に照らして、多重構造になっている人間をどういう位置付けにしているのか、説明して頂くと理解しやすいと思っています。

そうですね。どこからお話しましょうか。
まず、出だしの重要点として、「五蘊」の「色(ルーパ)」の意味をしっかり押さえておいて下さい。表紙からも般若心経の各単語解説にリンクしていますから「色」の部分は確認して下さい。簡単に言えば、「ルーパ(色)」とは形あるもの、「形象」を指します。形象あるものは物質的なものであるゆえに、「色」は物質を指す言葉とも解釈されます。しかし、「物質」という言葉を使うと、物質界とは異なる場(と思う人もいる)霊界では「物質」ではなく「霊質」とでも呼ぶべき質料で充たされているのか・・・という問題が生じます。
このように、物質・霊質というマインドでの区別をすると、霊界には五蘊の「色」はないのではないか?・・などという考えにつながりかねません。
しかし、神智学的な表現においても、人間存在を各種の「外皮」で覆われていると見るように、こうした「外皮」は、形象であり、すべて「ルーパ(色)」に該当します。
もっと言えば、有形・有限なる個体性があり形象あるものは、すべて「ルーパ(色)」に該当します。
更に奥義の一つを言えば、「物質/霊質」という区別をすべきではなく、霊質も物質の一種と考えるのが正当です。地上界よりも精妙化された物質です。逆に言えば、地上界の物質も霊質がずっと地上界的に粗雑化したもの、ということもできます。結局、どちらも地続きの存在物だと認識するとよいでしょう。

一例に、霊界から地上に顕現した高級界の使者が我々の部屋の壁をすーっと通りすぎた場合、「幽霊だ」とか、「使者には身体があるけど透明な、物質感がないものだった」と感じる人もいることでしょう。しかし、ニュートリノは地球そのものをいつも平気で通過しています。ニュートリノは微細な粒子なので、地球という塊すら、ニュートリノからすれば「ざる(笊)」のように穴だらけなので通過できるわけです。霊体も精妙であるため、地上界の物質を通過可能です。勿論、旧約聖書にあるように、天使が人と相撲を取るような、霊体を粗雑化して人と物的接触を持つことも可能です。

以上、霊界においても、仏教的な分類における「五蘊」の「色」はずっと存続する、ということ、納得して戴けましたでしょうか。
ただし、高級界に行くほど、色身の固定性は弱まり変動性が強くなります。
霊界に関しては、般若宗推奨図書としては、
『ベールの彼方の生活』(全5巻)がお薦めです。霊界の実情をほぼ正しく表現して余す処がありません。

次に神智学の件ですが、これについては、結論としては、「そこには多くの真理と深い洞察が含まれているものの、全部が全部、誤謬のない真理の塊だと思うと間違いを犯すので、一歩引いたところから冷静に、その真実性を確認して行く姿勢が大切」 ということになります。
そして、誤謬の部分が全体のスキーム的に見て結構大きいので、今のところ、般若宗としては、推奨書籍には指定しません。

神智学の価値について正しい評価をするために、仏陀的に「正しく見る(正見行)」ための基礎知識を紹介しましょう。
神智学協会は現在でも活発に活動が行われている世界的組織ですが、その主要な創設者であるヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー夫人(1831-1891)の「透視能力」に関しては、「なかなかのもの」だと、私も評価しています。しかし、その正解率は、6割程度ではないでしょうか。 

神智学協会に所属して、その後、神智学協会から<離れて行った有名な三人の人物>をしっかり押さえておくことが大切でしょう。

(1)一人は、ドイツの神秘思想家で霊能者であるシュタイナー。
シュタイナーの神秘学は、いまでは「神智学」と区別して「人智学」と呼ばれています。「人智学=アントロポゾフィー/人類学+智」です。ただし、シュタイナーの初期には「神智学」という言葉が使われていました。そのころはまだシュタイナーがブラヴァツキー夫人の神智学協会のドイツ支部長をしたころだったからで、それ以後、考え方の違いから、独立して、人智学協会を設立することになります。

(2)一人は、ヴィヴェーカーナンダ。後にラーマクリシュナ・ミッションを設立する、シュリ・ラーマクリシュナの一番弟子です。
ヴィヴェーカーナンダ、俗名ナレンドラは、インドで当時流行であったブラヴァツキー夫人の神智学協会の教えに共感し深く傾倒していましたが、シュリ・ラーマクリシュナに出会うことで、真の聖者の教えの注入を受けて、神智学協会から離れます。
寡聞ながら、後年は神智学協会についてのコメントをヴィヴェーカーナンダがした文章を見たことはありません。(ヴィヴェーカーナンダは四十歳台でニルヴィカルパ・サマディーに入定し、身体を放棄したと言われています。)

(3)もう一人は、勿論、言わずと知れたジドゥー・クリシュナムルティーです。
彼は、ブラヴァツキー夫人の神智学協会を引き継ぐ「後継者」として、インドで「この子はなんてエゴのない子供だろう」ということで見いだされ、幼少の頃から特別教育されたのですが、どうも学業は優秀ではなく、夢見がちの性格であったということです。クリシュナムルティーは、神智学協会を背負って立つ、「世界教師」という称号を与えられ、世界的に大活躍が期待されていました。
しかし、彼は、その大いなる期待を裏切り、叡智のヨガの行者として、そうした「文字の教え」に背を向ける形の「思索的文章」を発信する孤独の宗教家の道を歩みました。

−−以上、神智学であれ何であれ、「書かれたもの」を真に受けるスタンスは、「顕教」レベルであり、「書かれたもの」を真に受けず、自分なりの体験智である「内証智(ないしょうち)」に照らして受け入れて行くのが、「密教レベル」であると言えます。

シュリ・チンモイは、人間の構造について、次のような五分法を提示しています。
1.ボディー  2.ヴァイタル(vital) 3.マインド 4.ハート 5.ソウル

ヴァイタルは、感情レベルとも肉的衝動レベルとも解釈できますが、アストラル的なものとも言えます。この五要素をソウルの意志で一元的にまとめた生き方をすれば、ソウルからは邪気や邪行動は発せられないので、清らかなスピリチュアル アンド、ソウルフル な生存形態と生き方になります。しかし、ボディーが独自の判断で暴走したり、肉的衝動レベルで暴走したり、ソウルの方向性とは違った方向でマインドが命令を始めると、そこには「分裂」が生じ、因果律の法則からして、必然的に、罪と罰と苦が待ち受けることになります。
上記の五要素をソウル一元でまとめることは、密教的に言えば、さしずめ
「五密にする」という表現になりましょう。
普通、真言密教では、「身・口・意」の三要素を「意」で一元管理することを「三密にする」と言うからです。
シュリ・チンモイ推奨の「瞑想的ジョギング」は、「五密」を実現・体感するもっとも手頃な方法と言えます。

というわけで、霊界に行こうが地上の物質界に居ようが、どちらにせよ、ソウル一元的な「五密」の生存形態を会得しない限りは、彼岸への超脱はない、ということになります。
もっと言えば、ソウル一元管理の生存形態達成のためには、マインドの勝手な振る舞いを止滅させる必要があります。
神智学が正しいとかどうとか、霊界はどうなっているのか、とか、仏陀に対してある種の質問をした時、仏陀が「無記」を通した(何も答えず沈黙した)そういうレベルの興味本位の事柄を考えて時間を無駄にするのではなく、
仏陀のスッタニパータの言葉にもあるように、いまからすぐにでも、一刻も早く、「想念を止滅させる瞑想」の実践が求められるのです。(「毒矢の譬え」参照−−−煩悩の毒矢が刺さっている今、毒が回って死ぬ前に、すぐにそれを抜く作業こそ喫緊の最優先事項だということ。毒矢が刺さっている時、悠長に医学を論じている暇はないということ。)

それも、単に想念・マインドを止滅させると、単なる痴呆的状態に陥り、悪魔の恰好の餌食になってしまいますから、あくまでも、
<ソウルと連結したマインド停止>という「正しい方法」を学ぶ必要があるのです。
般若宗電子書籍は、スッタニパータで引用した
「平静な心構えと念(おも)いの清らかさ−−それらは真理に関する思索に基づいて起こるものである。」(詩句1107番)
の仏陀の言葉通り、碧海書籍は「真理に関する思索」を深める「トポス(場)」ですから、般若宗の教えを手掛かりにして、ブッディー(理性)を働かせ「真理に関する思索」をして行けば、「想念の清らさか」にどんどん近づいて行くことができます。
その点、神智学書籍を沢山読んでもそのような効果は薄いのではないでしょうか。
その辺が、知識と実践の差異ということになります。









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