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 般若心経 完全マスター 
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〔無自性の真義 その3要件〕 般若心経マスターバイブル後篇第3章


第三章 「無自性」の三要件 

(空−三−一)
 「無自性」とは
「自性が無い性質」の意味です。もっと詳しく言うならば、「無自性」とは<「自性の有る存在」特有の性質が欠如した存在に特有の性質>という意味です。
 では、
「自性が欠如した存在」に特有の性質とは何でしょうか。
 (前章で詳説した)「自性」七要件のどれか一要件でも欠ければ、概念上は「自性が無い」と言えます。しかし、「自性」七要件は、各要件毎に分断された別個独立の性質として存在するわけではありません。七要件は相互に密接不可分の関係にあるものです。故に、七要件のうち
一要件だけ欠けた「何とも変てこりんな存在」を頭の中でイメ−ジすることは可能ですが、そうした存在が「現実に存在する」とは考えられません。論理的整合性の破綻した組み合わせもあるからです。〔※註1〕
 
【※註1>>>−−−七要件のうち一要件だけ欠けた「変てこりんな存在」をイメ−ジすることは可能ですが、それは「概念遊戯」即ち「戯論(けろん)」に過ぎません。便宜上、この「一要件だけ欠けた無自性」を「最広義の(戯論的)無自性概念」と呼ぶことにしましょう。
 −−>>>註終了】
 
 
(空−三−二)
 「現実の存在」と対応した
<本物の「無自性」概念>は、「自性」の七要件「全部が無し」という性質を指します。つまり−−−存在の発生面・存続面・活動面など、全局面で「他に依存」しないでは「営み」を為すことができない性質−−−これが「無自性」ということになります。従って、これを要件化すると、少なくとも次の三要件を具備した「存在」が「自性の無い存在」ということになります。
 
<<<無自性の三要件>>>〔※註2・3〕
【要件1】
 (或る存在に)他の何かに依存しないでは「存在として生起(発生)し得ない」という性質が有ること
【要件2】 他の何かに依存しないでは「存続し得ない」という性質が有ること
【要件3】 他の何かに依存しないでは「活動し得ない」という性質が有ること
(空−三−三)
【※註2>>>−−−この三要件を具備した「無自性」概念を、ここでは「狭義の(現実的)無自性概念」と呼ぶことにします。本書で今後、普通に「無自性」と言えば「狭義の(現実的)無自性概念」を指すものとします。 >>>註終了】
 
【※註3>>>−−−
仏教界では古くから、「無自性」のことを「依他起性」(=他に依存して生起する性質)と呼んで来ました。或いは、「縁起」(=他の縁に依存して生起すること)とも呼んで来ました。ところで、「依他起性・縁起」ともに「起」の字が有ることからも分かる通り、これらは「存在の発生面」をクロ−ズ・アップしたものと言えます。
 
しかし現実には、「依他起性・縁起」共に「無自性の別表現」として使われています。よって、「依他起性・縁起」共に、当然「無自性の三要件全部」を含む概念として理解すべき事になります。ですから、「依他起性・縁起」を「存在の発生面」に限った概念として、矮小化して把握するのは妥当ではありません。>>>註終了】
 
(空−三−四)
 −−−以上の「無自性」三要件が把握できたならば、これが
「無自性の瞑想」(=般若ヨ−ガの中核)を行う出発点(大前提)になります。
 ところで、実際に
「無自性の瞑想」を実践して行くには、次の二つのステップを踏むことが必要です。

【ステップ1】 「縦横二重の依存」を自覚する 
【ステップ2】 「無自性存在の三不能(無力)」を瞑想する 

 −−−そこで以下、この2ステップの内容について詳説して行きます。
 
(空−三−五)

【ステップ1】 「縦横二重の依存」を自覚する

 従来の仏教界の「空」に関する「最大の間違い」は、次の点にあります。即ち−−−
<「無自性なる存在(又はそれらの集合体)は、それだけで単独に成立する」という、とんでもない思い込み>−−−これです。

 この勘違いを
−−−<「無自性存在群」単独成立の妄想>−−−と呼ぶことにしましょう。 これぞ、「無自性の瞑想」を行じる時の<最大の落とし穴>と言えます。どれほど多くの人々がこの「落とし穴」に落ちて、「無自性の瞑想」を正しく実践できなくなってしまったか、知れません。
 
(空−三−六)
 試みに、仏教界の「縁起」や「依他起性」に関する書物を調べてみると良いでしょう。
<「無自性なる存在」は「自性有る存在」に依存して、初めて生起する>と教えている書物が有るでしょうか? 或いは、このように教えている僧侶や学者がいるでしょうか? 否、否、否。
 全部の書物が、「存在の生起は縁によるもの」であり、
「縁」とはその存在の生起に関する原因や条件、つまり、その存在が依存している他の「無自性なる存在」を意味する、という内容になっています。
 これは結局
−−−<他の「無自性なる存在」に依存することで別の「無自性なる存在」が生起する>−−−という解説をして「これで良し」としていることを意味します。
 これが
日本仏教界の長年の惨状です。
 
(空−三−七)
 
<「無自性存在群」単独成立の妄想>は、頭(マインド)が勝手に作り出した偏見に過ぎません。
真の仏教徒になりたい人は、この邪見から速やかに脱却する必要が有ります。
 <「無自性存在群」単独成立の妄想>が
どれだけ馬鹿馬鹿しい思想か、簡単に説明してみましょう。
 今、「無自性なる存在」A、B、C…、が有ったとします。
 無自性なる存在Aは、無依存の自力で発生できないので、他の「無自性なる存在B」に依存して発生したとします。しかし、「無自性なる存在B」も無依存の自力での発生は不可能なので、他の「無自性なる存在C」に依存して発生したとします。
 無自性なる存在A ← 無自性なる存在B ← 無自性なる存在C ← キリがない   
 
(空−三−八)
 そうすると、結局、
最初の「存在A」一つが「存在する」ためには、無限の数の「無自性の存在物」が必要になって来ます。否、無限の数の「無自性の存在物」が有っても、この無限の連鎖は一向に解決しません。終点が見つからないからです。果てしなく、ただ果てしなく「他の無自性なる存在物」に依存して行く、という連鎖を想定するしかありません。〔※註4〕
 つまり、(定義からして)「無自性なる存在物(単数)」はそれ自体単独では発生し得ない以上、「無自性なる存在物」同士をどんなに沢山想定しても、
「無自性なる存在物(複数)」だけで「無自性なる存在物」をそこに発生させ、「存在」として成立させることは不可能なのです。にも拘らず、従来の仏教界は「こんなに簡単な道理」も分からないまま、「無自性なる存在群」だけで「縁起」を説明し切れる、と強弁して来たのです。(ひどい話です)
 
(空−三−九)
【※註4>>>−−−この事例では、「存在A」の発生させる原因存在を「存在B」一つに限定し、「存在B」を発生させる原因存在を「存在C」一つに限定しています。ここで、原因存在を一つに限定したのは、説明の便宜のためです。実際には、発生させる原因存在が複数集合する場合の方が多いでしょう。しかし、原因が複数有っても、発生に関する「無自性存在群の連鎖」の状況は同じです。>>>註終了】
 
(空−三−十)
 さて、この「無限連鎖問題」と、仏教でよく言われる
「相互依存性(相依性)」という概念とは、どのような関係にあるのでしょうか?〔※註5〕
無自性なる存在A ← 無自性なる存在B 
          ↓          ↑        
無自性なる存在D → 無自性なる存在C  
 この図のように、相互に循環させて相依性だと片づけてしまう、のです。
 しかし、
これは論理矛盾です。何故なら、「相対世界における不可逆の時間の流れ」を不可欠の要素として考慮に入れるならば、どれか一つの存在が先に発生しなければなりませんが、循環した「相依性概念」を導入すると、最初の一つがどれなのか決めることが不可能になってしまうからです。それとも、「全部同時に発生した」と強弁するのでしょうか。
(こう主張すると、ドミノ倒しの如き「時間的生起の連鎖」が全然なくなってしまい、
時間の不可逆的な流れの中で「縁起・依他起性」を主張する意味が全くなくなってしまうことに注目して下さい!)
 
【※註5>>>−−−相互依存性(相依性)については、『中論』的な別義もあります。
時間軸内連鎖とは関係がない
「概念的=戯論的=論理的」な「相依性」−−この意味は、
わかりやすく言うと、
「相対世界の二項比較認識論的依存性」の意味になります。
「長い/短い」「きれい/きたない」「赤色/青色」などなど、こうした認識論的区別は、二者を比較対照することで、「区別」が可能になるわけで、この二者の区別のあり方は相互に依存している、と言います。
ですから、「比較ができない不二」の状態においては、相対的な認識概念も全部消滅・不成立となります。
「戯論寂滅」状態と言います。
>>>註終了】
 
 
(空−三−十一)
 実のところ、「相依性概念」は、相対世界の時間の流れの中での因果関係として考える場合も、上記註5で示した、論理的次元での相依性を考えても、いずれにしても、
「二分法のマジック」の中での思考である、ということになります。
 実は、
因果関係それ自体も、相依性概念に含まれます。なぜなら、原因をこれ、というためには、結果がなければなりませんし、結果をこれ、というためには、原因がなければならないからです。どちらも、同時的に必要なのです。
 こうした
「二分法のマジック」についての詳細については、『龍樹論理学』で解明して行きます。
 
 さて、以上の簡単な考察から明らかな事は次の道理です。即ち−−−
<「自性有る存在」無くして「無自性なる存在」は有り得ない>−−−と。つまり−−−
<「自性の有る存在」に依存して、初めて「無自性なる存在」は発生し得る>−−−という不動の道理が有るのです。
こうした「自性/無自性」の相関関係に無知なままで、般若ヨ−ガをいくら実践しようとしても、決してうまくは行きません。
 まさしく、前章で見た通り、「自性有る存在」の「自己存在一部有形化現出力」を原因にして、「無自性なる存在」は今ここに現出しているのです。
 以上の通りに洞察してこそ、「現前する万物万象」を−−−
<「自性有る存在」と「無自性なる存在」との混成体>−−−と見る「正しい中観」の霊的ヴィジョンを持つことができるのです。(前篇第二章「五つの喩え」参照)
 
(空−三−十二)
 しかし、こうした「正しい中観」の見解を聞くと、頑迷固陋な一部の仏教徒は、、
次のような異議を申し立てるでしょう。
−−−仏教の「縁起」とは、そうした「自性の有る存在」への依存性を教えるものでは決してないぞ。
例えば、発芽の三条件を見てみると、種子は「@光 A適切な温度 B水分」の三つの条件が揃うと、発芽を始めるが、この場合、光も温度も水分も「縁」即ち「原因を構成する種々の条件要素」と言える。種子は、こうした三つの「縁」に依存して、初めて発芽する。発芽の発生現象は、これらの「縁」に依存して起こる現象であって、決して「自性の有る存在」に依存して発生するものではない!−−−と。
 
(空−三−十三)
 「無自性」の三要件をしっかりと認識する人は、「因縁起」概念についても正しい理解に達します。しかし、「無自性」三要件についてちゃんと認識しない人は、恰も「無自性存在群」が「縁」として「単独に存在している」かの如き「妄想」を頭の中で作り出して「したり顔」をします。しかし、こういう人ほど、本当の「無自性の瞑想」が全然できないのです。
<「無自性存在群」単独成立の妄想>を抱く者は、(叱責するつもりで厳しく言えば)「方広道人」(前篇第三章参照)という外道の範疇に入るインチキ仏教徒です。
 
(空−三−十四) 
 
 
そもそも、「縁」とは何なのでしょうか?
 分かり易い例を一つ
挙げます。
 「(海の)波」という「存在」の発生を例に取りましょう。
 波は、地震や魚の動きでも発生しますが、一番普通のケ−スは
「風力」に依るものです。この場合、風は「波の存在」の一つの原因要素、即ち「縁」です。つまり、「風が縁で波が起こった」と表現できます。この時、先程の「自性有る存在を認めない一部の仏教徒」は、こう主張するでしょう−−−波は風に依存して生起したものであるため、波は「無自性なる物」としてそこに有る。これこそが「縁起」である−−−と。
 なるほど、この主張は正しそうな感じもするでしょう。
 しかし、<「無自性存在群」単独成立の妄想>を抱く仏教徒は、「自性有る存在」を原因の一つとしては絶対に数えません。ということは、この「波」の例で言えば、「自性有る存在」に見立てられる
「海水の存在」を発生原因から除外して、「波」だけが「風を縁にして生起した」と主張しているようなものです。「海水など無くても(縁起によって)波はできる」という主張が如何に馬鹿げた主張であるか、さっさと気付くべきでしょう。
 
(空−三−十五)
 しかし、なおも屁理屈を捏ねる者は、「いや、少しだけ見落とした。海の水も『縁』の一つとして数えるべきだった。これを加えれば完璧だ」と言うでしょう。しかし、「海と波」の喩えは、飽く迄も「真/非真」「自性/無自性」の関係性を表した「一つの象徴的な喩え」に過ぎません。この喩え(約束事)の枠組みを無視して、「海も無自性なる縁の一つ」と主張するならば、先程示した「無自性なる存在物発生の連鎖」の「一番最初の始点」は何かについて、明確な解答をすべきでしょう。(空−三−七参照)
 勿論、この「連鎖問題」に「無自性存在群」だけで決着を付けることは不可能です。
 
(空−三−十六)
 まことに、
森羅万象は−−−
<「自性有るもの(真)」と「自性無きもの(非真)」との混成体>−−−
です。この認識こそが、般若ヨ−ガを実践する上での「基本認識」になります。(中観のための五比喩参照)
 以上のように認識すると、「無自性なる存在」たる万物万象は−−−
  
(ア) 「自性有る存在」に対する依存 
(イ) 他の「無自性なる存在」に対する依存

 
 とい
う「二重の依存関係」にある−−−という「一大真理」が見えて来るはずです。これこそが、般若ヨ−ガの瞑想を実践する上での極めて重要なポイントになります。
 そこで、この「二重の依存」について、便宜上、次のように呼ぶことにします。
 「自性有る存在」に対する依存  −−→ 垂直的依存。略して、垂直依存。
                     又は、根幹依存。又は、縦の依存。
 他の「無自性存在」に対する依存−−→ 水平的依存。略して、水平依存。
                     又は、副次的依存。又は、横の依存。
 
(空−三−十七)
 これらの命名は、「大海と波」の喩えに基づくものです。
 発生した
「波」の立場からすると、大海は「自分」を下から垂直的に支えて、「波」たらしめている「一番主要な原因」と言えます。故に、「波は大海に対して『垂直的依存』関係に有る」と言えますし、依存関係の「根幹」だから「根幹依存」と呼んでも良いでしょう。
 一方、「波」の立場からすると、風は「自分」を
横から水平的な影響力を及ぼし、「波」たらしめている「副次的な原因」と言えます。故に、「波は風に対して『水平的依存』関係に有る」と言えますし、この依存関係を「根幹依存」とは呼べない以上、「副次的依存」と呼ぶのが相応しいでしょう。
(ただし、勿論、「縦/横・垂直/水平」などの方向性は、命名上の一便法に過ぎません。)
 
(空−三−十八)
 さて、このように、
「正しい中観」の視座に立って「縦横二重の依存」を洞察できるようになると、仏教の「因縁・縁起」の法の内容も、明瞭に理解できるようになります。
 これまで、「因縁」や「縁起」の法は、一般に
仏教特有の「極めて難解な専門概念」と思われて来ました。その理由は、この用語自体が実に中身の曖昧なものだったからです。
 
例えば、「因縁」の語は、学派により、または文脈の違いにより、様々な意味に用いられ、未だに意味が一定していません! それ故、因も縁も「原因一般」という同じ意味を表す言葉として使用する者もいますし、或いは、「両者の意味を峻別すべき」と主張する者たちによって、「因」は「発生の直接原因(=主要原因)」を表し、「縁」は「発生の間接原因(=副次原因)」を表す、という一応の基準が立てられたりもしました。
 
(空−三−十九)
 しかし、残念ながら、従来の仏教界の中では、
「因=直接原因」「縁=間接原因」という二分法は、完全に「絵にかいた餅」(画餅)と化しており、徒に混乱を深める原因にしかなっていません。何故なら−−− 
 従来の仏教界は、(先程指摘した)
<「無自性存在群」単独成立の幻想>の「落とし穴」にズッポリ落ち込みながら、その上でこの二分法を主張しているからです。
 先程の「発芽の三要件の例」で説明しましょう。
 「発芽三要件=@光 A温度 B水分」のうち、どれかを無理やり「直接原因/間接原因」の二種類に区別しようとするならば、その人は必ずや、出口の無い迷宮に入り込み、
頭がこんがらがってしまうはずです。発芽の三要件のどれも、それぞれが「直接原因」のようにも見えるし、「間接原因」のようにも見えるでしょう。(それが普通です)
 
(空−三−二十)
 
 
では、「直接原因」と「間接原因」を区別する「基準」は、一体何処にあるのでしょうか?
 ところが、「直接/間接」の二分法を主張する従来の仏教徒は、この「区別の基準」をしっかり立てることはできないのです。主張する当の本人もよく分からないからです。
 分からないまま、口先で「二分法」を主張して、それを人々に教えているなんて、
ひどい話ではありませんか! 尤も、同情する余地も有ります。<「無自性存在群」単独成立の妄想>を前提にしてしまえば、いかなる天才であろうとも、「直接原因/間接原因」を正しく区別することなどできるわけがないからです。
 これを先程の「縦横二重の依存」の立場から説明すると
−−−「無自性存在群」という「横の依存関係」にある諸要素(ファクタ−)だけを取り上げて、どんなに必死になって「直接原因/間接原因」の二種類に識別しようとしても、正しく区分けすることなどできない−−−ということになります。当たり前です。全部が全部、そもそも「横の依存=間接原因」に過ぎないのですから!
 
(空−三−二一)
 よって−−−<「無自性存在群」単独成立の妄想>を綺麗さっぱり捨て去ること−−−これをしない者は、因縁起について語ることなかれ、ということです。
 <「無自性存在群」単独成立の妄想>を綺麗さっぱり捨て去ることができたならば、「縦横二重の依存」という「正しい中観」の視座に立って、「因=直接原因」「縁=間接原因」という二分法を、改めて高く掲げるべきです。
 この時、「因縁起」という用語は、次の意味に確定します。
「因」は−−<直接原因>→「垂直依存・根幹依存」の局面を表す=「自性有る存在」への依存関係を意味する
★「縁」は−−<間接原因>→「水平依存・副次的依存」の局面を表す=他の「無自性存在」への依存関係を意味する
 この時、◎「因縁(起)」とは−−−「自性有る存在」を「因」とし、「他の無自性なる存在」を「縁」として、(二重の依存関係に基づいて)生起する「存在の発生現象」のこと−−−と定義できます。これなら、誰でも簡単に分かる仏教概念になります。
 
(空−三−二二)
 こう理解すると、
「因縁」の語は、常に「縦横二重の依存」を表す言葉となり、諸法が「自性有る存在」と「無自性存在」との混成体であることを直接想起させる言葉になります。
 
 そうなると
−−−<「因縁起」こそが仏教の核心だ>−−−と誰にでも分かるようになります。
 
また、
◎「因縁和合」という言葉も(従来は「万物は諸縁に因るもの」という浅くて不毛な意味に解され、殆ど無意味な言葉となっていましたが)「自性有る存在」と「無自性存在」の和合を表す熟語 として、、「深い中観」の霊的ヴィジョンを表す四字熟語として、見事に蘇生します。
 また、
「随縁真如と不変真如」という二分法(大乗起信論義記)についても、その本質を容易に理解できるようになります。即ち−−−「随縁真如」は「真如(自性有る存在)」に随伴して転変する「縁(無自性なる存在)」を意味し、「不変真如」は「縁に依って転変することの無い、自性有る存在」を意味する−−−と。    
〔但し、「自性有る存在」は「完全停止の静態」ではありませんから(前篇第二章参照)、
「常恒真如」とか「不滅真如」と呼ぶべきで、「不変真如」と呼ばない方が良いです。〕
 
(空−三−二三)
 さて、こうした「正しい因縁」概念に基づいて、(先程の)発芽の三条件について見直してみましょう。すると−−−発芽の三条件「@光 A温度 B水分」は、どれも「間接原因→副次的依存」に当たる、と言えます。そればかりか、種子の細胞のしくみや、そこに内在する種々の栄養素なども、間接原因と言え、「縁」に当たる、と言えます。(こうした有形物の仕組み自体に「自性が有る」と見るならば、それは「法我見」になります。前篇第三章参照)
 一方、種子を構成する全物質や、光や空気や水など、こうした「存在」を存在たらしめている根源の力は、「自性有る存在」の「(…)有形化現出力」です。これが「因」です。
 また、「適温になった事」を感知する働きや、水分を感知・吸収する働きや、光を感知し、光に向かって芽を出し始める働き(向日性)や、光と反対の方向に根を出し始める働き(背日性)などは、その働きを根源まで辿ると、「自性の有る存在」の「無為なる働き」と言うほかありません。よって、これらも「因」に当たる、と言えます。
 
(空−三−二四)
 −−以上、「縦横二重の依存」を表す「正しい因縁起」概念を前提にすると、「無自性」の三要件も、縦横二通りの意味を帯びて来ます。即ち−−−
「無自性」とは、「他の何か」に依存しないでは(存在として)「@生起」も「A存続」も「B活動」もすることができないという性質のことですが、この「他の何か」とは−−−
 第一に、「根幹依存」関係として<「自性有る存在」への依存>の意味であり、
 第二に、「副次的依存」関係として<他の「無自性存在」への依存>の意味になります。

 そして、第二の「他の無自性存在への依存」は副次的依存に過ぎないので、絶対に必要というわけではない、と言うこともできます。
 このように、「無自性」三要件を「縦横二重の依存関係」と理解した時に初めてその人は「無自性」概念を本当に把握したことになります。
 
 
 
(空−三−二五)

【ステップ2】 「無自性存在の三不能(無力)」を瞑想する

 ステップ1では、「無自性」三要件を「縦横二重の依存関係」の中で理解しました。
 これで分かったのは
−−−「無自性存在」の「自性有る存在」への依存こそが「一番重要な依存」即ち「根幹依存」である−−−という事でした。
 一方、「無自性存在物」同士の依存関係は、副次的依存に過ぎず、その依存が「絶対必要」というわけではないことも明らかになりました。何故なら、「自性有る存在」が「(…)有形化現出力」を用いれば、(「無自性存在」同士の論理的連鎖関係を超越して)突如何かを現出させることも不可能ではない、と言えるからです。
 そこで、一番重要な「根幹依存=垂直依存」関係だけをクロ−ズ・アップする形で、「無自性」三要件を書き直してみましょう。すると、「三不能(無力)」が明らかになります。
 
(空−三−二六) 
 
<<<「無自性存在」の(垂直的)三不能(無力)>>>
1)
 「自性有る存在」に依存しなければ、無自性存在は全然「生起(発生)」できない。
2) 「自性有る存在」に依存しなければ、無自性存在は全然「存続」できない。
3) 「自性有る存在」に依存しなければ、無自性存在は全然「活動」できない。
 これを「一文」にまとめると、こうなります。即ち−−−
「自性有る存在」に依存しないでは、いかなる「無自性存在」も、存在として発生することも、存続することも、活動することも全くできない。  
 −−−この一文こそが、三千大千世界に見られる八万四千の法門と八万四千の経典と八万四千の真言(マントラ)を生み出す「根本の一文」と言えます。
 「仏教の真髄」否「全宗教の精髄」がここに凝縮されている、と言っても過言ではありません。
 
(空−三−二七)
 この一文を骨身に滲みるまで反芻し、本当に「この一文の内容」が骨身に滲みて行くならば、その人は確実に「無自性の瞑想」に深く入って行くことができます。
 この一文には、地上の総ての宗教的争いを終息させ、地上に「神の王国」を打ち建て、この世を浄土とするだけの力があります。譬えて言えば、
「水爆一千万発分」ほどの霊的エネルギ−が詰まった「真理命題」なのです。
 人間の総ての煩悩は、この真理命題を忘れてしまう処から生じます。「自性有る存在」への依存を失念し、意識しない処から生じます。ですから逆に、この「真理命題」を骨の髄まで味わうならば、総ての煩悩は終息します。
 
(空−三−二八)
 乾燥した木片に「炎」を近づけると、木片は直ぐに燃え出します。これと同じで、修錬を積んだ
「上根の人」は、この一文に出会うと(電撃に打たれたように)ピンと来て、この真理命題の中に自分を投入させ、「無自性の瞑想」に速やかに入って行くことができます。
 しかし、煩悩の深い河川を泳いでズブ濡れになっている人たちは、
この一文だけでは簡単には火が点(つ)きません。
 そこで、「言霊の火力」が強まるように、この真理命題を、少し敷衍(ふえん)してみましょう。
「自性有る存在」の御力に全面的に依存しているからこそ、総ての「無自性存在」が成り立っている。仮にもし「自性有る存在」の御力が無ければ、総ての「無自性存在」は、存在として発生することもできないし、存続することもできないし、活動することもできない。 絶対にできない。  
 般若ヨ−ガを実践しようとする人が、この文章を何度も何度も反芻し、この内容について沈思黙考するならば、誰でも徐々に「無自性の瞑想」に入って行くことができます。(但し、勿論「自性/無自性」概念について正しい理解を得ていることが大前提ですが。)
 
(空−三−二九)
 しかし、これでもまだ「無自性の瞑想」に入って行けない人も居るでしょう。この場合、中々燃えない部分を、ライタ−で局所的に炙る作業が必要になります。
 では、そうした
「局所的な焦点の当て方」をしてみましょう。
 これまでの表現は、万物を「自性と無自性の混成体」と洞察する「中観の視座」からのものでしたが、
誤解を恐れず、思い切って「自性」部分を退(ど)かして、「無自性」部分に焦点を当ててみましょう。すると、「無自性の三不能」はこう換言できます。
総ての「無自性存在」は、それ自体単独では、発生する力も、存続する力も、活動する力も全くない。
(空−三−三十)
 これでもピンと来ない人が居るならば、
もっと「火力を強化」するために、「無自性存在」という難しい表現はやめて、対象を−−−<「個我」一本>−−−に絞り込んでみましょう。というのも、そもそも「無自性の瞑想」を行う目的は「個我の煩悩の生産停止」に有るわけですから、「個我」に絞れば良いわけです。
 このようにして絞り込んだ「個我の三不能」を表す一文はこうなります。
 わが個我は、それ自体単独では、発生する力も、存続する力も、活動する力も全くない。
 そして、この「個我」を更に「肉体と個体意識」に分けて「三不能」を見て行くと、こうなります。即ち−−−
私の肉体は、それ自体単独では、発生する力も、存続する力も、活動する力も全くない。
私の個体意識も、それ自体単独では、発生する力も、存続する力も、活動する力も全くない。 
 この文章を、再度、「中観の視座」からの表現に直してみます。すると−−−
私の肉体は、「自性有る存在」の御力無しには、発生する力も、存続する力も、活動する力も全くない。
私の個体意識も、「自性有る存在」の御力無しには、発生する力も、存続する力も、活動する力も全くない。
 
(空−三−三一)
 この三つの枠囲みの、強烈な文言こそが、「無自性の瞑想」の中核です。
 こうした内容の「個我三不能」について瞑想して行くことが、般若ヨ−ガです。
 まことに、「個我の無自性」を瞑想して行くと、「吾我驕慢意識」(前篇第四章)は止滅して行きます。
何故なら、「吾我驕慢意識」とは(@根本過失 A根本錯誤 B根本肉欲 C根本盗取の)四源罪に基づく「盗賊的意識=賊我」ですが、この「賊我」を生み出す「C根本盗取」の根っこに当たる「A根本錯誤」即ち「個我に自性が有るという妄想」に対して、この「個我無自性の自覚」が「冷水」をかけて、その妄想を吹き飛ばすからです。
 
(空−三−三二)
 まことに
、「個我三不能」を瞑想すると、「三重の自力信仰」(これが「A根本錯誤」を形成している原因です)が崩壊します。
その
「三重の自力信仰」とは−−−
@他の何にも依存せず、自力で自分は誕生して、今こうして存在している、との思い込み
A他の何にも依存せず、自力で今こうして存在し続けている、との思い込み
B他の何にも依存せず、自力で今こうして活動し続けている、との思い込み

 −−−です。こうした「三重の勘違い」が「個我三不能」の事実を自覚することで、見事に否定され、吹き飛ばされるのです。そうすると、一時的であれ「根本錯誤」が消滅します。そして、これに連動して、「吾我驕慢意識=賊我」の動きも、一時的であれ、連鎖的に消滅するわけです。
 
(空−三−三三)
 これが、「無自性の瞑想」の「良い方向の連鎖反応」です。
 
従って、「個我の三不能」という「事実」を、常に忘れず日々反芻し、何度も集中し直し、こうした「正しい見方=(正見)」の習慣を身に付けることです。そうすれば、無数の煩悩は、ぐんぐん減少して行き、やがて「寂静状態」に進んで行きます。
 すると、そこに
「クリア−(清澄)な精神状態」が出現し、クリア−(清澄)な精神活動、取り分け「クリア−で鋭敏この上ない直観力・洞察力」が出現します。(詳細は次章)
 ですから、
「個我無自性の寂静」による「クリア−(清澄)な精神状態」〔※註6〕を熱心に希求し、これを愛好する人は、多くの祝福を受けます。
 この人は、間違いなく
あらゆる煩悩を超越し、あらゆる宗教上の争いを超越し、あらゆる悪業を超越し、あらゆる苦厄を超越して、歓喜法悦世界に参入して行く道を辿ることになるからです。
 
(空−三−三四)
【※註6>>>−−−世界には、互いに一歩も譲らない宗教対立が有ります。例えば、ユダヤ教とキリスト教の対立や、イスラム教とユダヤ・キリスト教の対立等々がそれです。しかし、こうした場合でも、対立双方の信徒が−−−<「クリア−な精神状態」を真摯に探究するスタンスを共有しよう>−−−という点で「同意」を交わし(そもそもこの提案に反対する人はもはや健全な信徒とは言えません)、「クリア−な精神状態」実現のために、両者が「自性/無自性」概念について謙虚に学び、「個我の三不能」という「驚愕の事実(真理)」について学習し、納得したならば、水と油の如く相入れない対立を続けていた両者でさえも、容易に和合することができます。それほど、「個我三不能の事実(真理)の認知」には力が有り、この自覚に基づく「クリア−な精神状態」の中では「高度な叡智」が顕現して来るのです。 >>>註終了】
 
(空−三−三五)
 −−−以上、「無自性の瞑想」を実践して行く上での「二つのステップ」について詳説して来ました。
 まことに、「無自性」の三要件を自覚し、続いて「縦横二重の依存」を自覚し、この自覚の上に「個我三不能」という事実を正見し、その自覚の中に留まるならば、「無自性の瞑想」を極めて行くことができます。
 そうすると、真言密教で説かれる
「極無自性心」という「クリア−な精神状態」に到達します。(詳細は次章)
 
  (後編 第三章 終わり)
 
 

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このページの最終更新日 2007/2/12

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