『龍樹論理学』
(副題)〜〜「ヘーゲル論理学」の解明・対照と共に〜〜

『龍樹論理学』 
第一章 龍樹の空はヴェーダンタ密教である


<< 龍樹解釈のファイナル・アンサー
  まもなく、「本物の縁起の法」が開示されます。そのとき、龍樹解釈は、この説に確定します。
ゆえに、これがファイナル・アンサーになります。
そして、それは、仏教がヴェーダンタ密教に包摂されるという真理であり、ブッダも龍樹も「梵我」を否定しなかっただけでなく、それへの真のアクセス方法を説いただけであった、と知られるようになります。
 そうして、大乗仏教にかわって、梵乗仏教が、ミレニアム新世紀に世界を席巻します。

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●直近の更新 2012年88月15日   ●最初の公開日2007年1月21日

『龍樹論理学』

(目次構成)−−仮−−
第一章 本書の主要論旨(の概説)  (公開済)
第二章 龍雨インパクトの解説   (未刊) 
第三章 ゼノン・インパクトの解説  (未刊)
第四章 カント・インパクトの解説 (未刊) 
第五章 へーゲル・インパクトの解説 (未刊)
第六章 ヘーゲル論理学の解説 (未刊)  
第七章 龍樹インパクトの解説 (未刊)  
第八章 龍樹論理学の解説  (未刊) 
第九章 ツォンカパと龍樹   (未刊) 
第十章 ウィトゲンシュタインと龍樹 (未刊)

(実際は分量の関係上、20章以上になることが予想されます)



第一章 龍樹の空はヴェーダンタ密教である


もし、「龍樹思想」の根幹となるものを たった1句だけ挙げて・・と言われたら、
私は、次の一句を挙げます。

龍樹の言葉・・・・・・・・・
「あなたは馬に乗っていながら、しかも、馬を忘れているのである。」(中論24・15)

今回は、この解釈をめぐる「転倒」について指摘します。

石飛女史は、経典・論書に、静かに正座して固まって向き合えば、瞑想状態で、正解がわかるみたいな言い方をなさっていますが、はっきり申し上げて、それは瞑想ではありません。瞑想は、パズルのゲーム解きとは違うからです。
「煩悩解釈・満開」になるような読み方をしたら、仏典も論書も可哀相ですし、そんな態度で読んでくる読者に対して、その煩悩をゼロにする力など、仏典にも論書にもないからです。
だから、私は、石飛女史をこう呼びます。
「煩悩解釈満開学者」と。頭の中は、名利のお花畑で一杯。
ニヤーヤ学派研究から仏教研究に転じた
三法に帰依もしていないニセ仏教徒による、仏教のニヤーヤ学派的解釈。
それによって出来た「石飛ブッダ論理学」。上座部仏教的なスタンスのまま(つまり小乗を捨てずに)(大乗の)「龍樹の空」を語ろうとする、この矛盾と愚行。
だから、「盲人が盲人の手引きをする罪が積み重なっているのだ」と。

では、「馬を忘れている」という龍樹の言葉の検討に入りましょう。

・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ザポ氏)
心が世界をつくるなら、暴走する車の中に飛び込めとか、心が世界をつくっているなら、脳味噌をぐちゃぐちゃにしても心は無事かとか。
そんな認識論など仏教にはない。
そう主張する者は、まるで、仏教の五識による認識を理解できていない。
仏教は存在を否定しているのではなく、実在を否定しているのだということが。
存在は、「生じる性質のものは滅する性質のもである。」という生滅のあるものである。
生だけ、滅だけのものは無時間の観念論・あるいは概念操作の世界だけにしかないことを理解しているはずなのに、忘れているようなものだ。
馬上にいながら、馬をさがしているようなものとは、このことだ。
(エスエス氏)
どうしたら馬はみつかるだろうか?
(ザポ氏)
今を注意深く、観察して、気づきを待つしかありません。。。
・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・

正直、三法に帰依もしていないザポ氏が法を説くのは、論外です。
こうした「無法で盲目な説法者」を生み出す「縁起」は「石飛ブッダ論理学」の悪弊でしょう。
さて、上記のザポ氏の表現だと、「本来虚妄であるもの」を「実在」と勘違いして「もともと虚妄である事実」を忘れている、という主張です。
つまり、「もともと虚妄の法であるという事実真相」が「馬」であり、
「虚妄である事実という馬」に乗っているのを忘れて、どこかに馬はいないかと、探しているようなものだ、という主張です。

そして、この解釈は、石飛女史からの直伝です。
彼女の本「ブッダと龍樹の論理学」201ページ
・・・・・引用開始・・・・・・・・・
「わたしたちは、縁起と空性の中で生きて活動しているのである。空性の中で生活していることを知らずに、空性を批判する人に対して、龍樹は、「あなたは馬に乗っていながら馬を忘れている」と述べたのである。(中論24・15)
・・・・・引用終了・・・・・・・・・・

再度、ザポ氏の解説を読み解くと、
「もともと虚妄の法であるという事実真相」=「馬」
「虚妄である事実という馬」に乗っているのを忘れて、
どこかに馬はいないか?と、探しているようなものだ、という主張です。

最後の部分、「どこかに馬がいないか、と探しているようなもの」というのが、変ですね。
「こじつけ感が一杯」ですね。煩悩解釈っぽいですね。
これが、煩悩解釈で転倒解釈であることを、これから、述べます。

「どこかに馬はいないか、探している」だって?
龍樹が、そのように述べていますか?
いいえ、全く述べていませんね。

再度、指摘・強調します。
龍樹は、「馬に乗っていることを忘れているようなもの」とは述べますが、馬を探している、とは全く述べておりません。

文脈を辿って、龍樹の論旨の前後の流れを見てみましょう。
龍樹によって「空」が説かれたときに、反論者が、
「空」などと言って「何もない」ものだったら、チョー困るではないか、
だって、こんなことになっちゃうではないか↓ と言っています。

・・・・以下 中論から引用・・・・・・・・・・・・・
もし一切が空であるならば、生も滅も存在しない。四諦[ 四つの真理(satya) ]の無い
ことが汝に附随して起こる。(24−1)
四諦が存在しないから知(苦を熟知すること)・断(煩悩を断じること)・修(道を修習す ること)・証(涅槃を得ること)は有り得ない。(24−2)
それ(知・断・修・証)が無いが故に、四聖果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)は存在しない。果が無いが故に位(果に住する者)も無く、向(果に向かう者)も無い。
(24−3)
もし、それらの八賢聖(四向四果の聖者)が存在しないならば、僧伽は存在しない。
また四諦が存在しないから、正法(正しい教)もまた存在しない。(24−4)
法と僧伽とが存在しないが故に、どうして仏が有り得ようか。このように説くならば、汝
は三宝を破壊する。(24−5)
空は果報の実有、福・罪及び世俗の一切の慣用法をも破壊する。(24−6)
・・・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、このように反論して来たのに対して、
龍樹は、次のように答えるのです。

世俗諦と第一義諦の2諦があるんだよ、と。(この部分の引用は省略)

この「2諦」を「不完全に観る」ような、「どっちか片方だけに」
偏って見ると、「害になる」んだよ、と。

・・・以下引用開始・・・・・・・・・・・・・
不完全に見られた空性は智慧の鈍い者を害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇、
あるいは未完成の呪術の如くである。(24−11)
それ故に、その法が鈍い者どもによってよく理解されないことを考えて、聖者が教えを
説示しようとする心は止んだ。(24−12)
・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・

ですから、上で述べたように、「2諦を均等」に、観察しなければならないのです。
そのとき、どうなるか?
龍樹はこう述べます。

・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・
また汝が空性を非難しても、我々には欠点の附随して起こることが無い。
空においては欠点が成立し得ない。(24−13)
・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・

どういうことでしょうか?
ヴェーダンタ密教からは、明々白々です。
欠点が皆無というのは、「完璧」ということです。
完璧なのは、御一方のみ。「不生不滅の虚空」ですね。これが第一義諦です。
これは、「第一義諦」としての「法身梵我」です。

ヴェーダンタ密教においては、
「世俗諦」としての「縁起」は、「空<性>(無自性)」です。
「世俗諦」は、第一義諦の「虚空法身」とは、明確に区別されます。
ヴェーダンタ密教においては、
第一義諦の「虚空法身」は、「因果を超越」した「最高最尊最貴」の「不生不滅の仏心」です。
そして、世俗諦は、因果の世界での縁起現象というマーヤー(虚仮)ですから、空性です。

さて、龍樹はこのあとで、何と述べるでしょうか?

反論者が、「空」だと言って何にもないことなら、困るだろうが、と主張しているのに対して、
龍樹が反論しているのですが、、龍樹の反論の仕方は、
反論者の主張の主旨が、
「四諦・四聖果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)・八賢聖(四向四果の聖者)・僧伽
四諦・正法・仏・三宝・果報の実有、福・罪及び世俗の一切の慣用法」
これらを破壊することになっちゃうじゃないか、ということに対して、

「いや、破壊しない」と答えることにあります。

どういう論法で、「破壊しない」と答えたのでしょうか?
それは、
「中」だから、という理由を出して、龍樹は解答をしているのです。

「仏法が破壊されない」理由としての「中」・・
それを表す言葉が、このあとの句になります。

・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・
空性が適合するものに対しては、あらゆるものが適合する。
空が適合しないものに対しては、あらゆるものが適合しない。(24−14)
・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり、縁起(虚仮)には「空性」が適合する。これは、「縁起の世俗諦」は「虚妄の法」であるから、空性は、縁起世界の全部に適合する。
しかし、2諦の分母分子で「世間全体(全部の目方)」を観るならば、空性の縁起世間(世俗諦)だけでは片手落ちである。だから、第一義諦の「不生不滅」という見地でも「世間」を見なければならない。
そうすると、第一義諦の「不生不滅」に視点を絞って観る見地では、空性は、適合しない。これは、「世間」という世界の、あらゆるもの一切を見ても、この見地で見れば、「空性」は適合しないのである、と。

これぞ、まさに、ヴェーダンタ密教における「中」です。

さて、そうして、いよいよ、決定的な1句に到達します。
・・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・・
故に、汝は自分の持っている諸々の欠点を、我々に向かって投げつけるのである。
汝は馬に乗っていながら、しかも馬を忘れているのである。(24−15)
・・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この真意を敷衍して翻訳しましょう。

「汝は、<空>について、「何もないじゃないか。何もないなら、四諦やその他、僧団や正法や仏や色々な素晴らしい仏法の果実が無になってしまうじゃないですか」と、このように、龍樹である私とその一派に文句を言うけれども、その批判は、見当違いである。
汝は、馬に乗っているではないか。「馬」とは、「不生不滅の第一義諦の虚空法身」である。この「生き生きとしてハタラク空」に乗っているからこそ、汝は、そのような色々な批判や文句を述べることができるのだ。この「空」という「生きた馬」に乗っているからこそ、五蘊を空性と照見することもできるのだ。なぜなら、汝のすべての認識作用・識別作用・行(サンスカーラ)は、「生きた馬」の働き(活動性)に依るからだ。そして、この「生きた馬」である「空」という「第一義諦」は、欠点というものが皆無の完璧なものなのだよ。だから、欠点のない完璧なるものを、汝は批判することができない。
良いか? 「世俗諦のみの空性を観る」という「不完全な空観」は、汝を害するから、そのような偏った立場を採ってはならない。そうではなく、「第一義諦の不生不滅の空」という「馬に乗っていること」を、ユメユメ忘れるでない。常に、2諦を同時に不二のものとして空を観ぜよ。これは単なる観法として仮設された妄想ではない。これこそが、「今・ここ」の、ありのままの事実・真実・真相なのだ。
だから、馬に乗っていることを忘れることなく、「人馬一体=人馬不二=色心不二=輪廻と涅槃の不二」としての「中」という、ありのままの真理を観ぜよ。」

(このあとの句で、龍樹は、縁起の世間で空性に適合しないものを観るならば、法が破壊されることを述べて、どちらか一方のみの論理では、法は破壊されるのであって、2諦は空性に適合するものと、適合しないもの、「こうした相反するもの」であらねばならず、その上で、その「中」の有り様が「今ここ」なのだ、ということを再度、強調しています。)

以上です。

結論を述べましょう。

「虚妄な法」が「生きた馬」なのでは、断じてありません。
「虚妄な法」は、「生きた馬」の上の、せいぜい「馬の鞍」に過ぎません。勿論、馬の上に乗る「五蘊」も虚妄な法に過ぎません。

「不生不滅の第一義諦」は、「生きた」馬です。死んだ馬ではありません。
その「生きた馬」を、勘違いの転倒によって
「変転する縁起」としての「世俗諦たる虚妄な法」を意味するのだと解釈する
石飛女史は、実に実に、「転倒した解釈」をしているです。
「無明の極み」です。
これでは、到底、他者に、龍樹を教えるレベルではありません。
ですから、
石飛女史の学説は、「煩悩解釈・満開学者」の名にふさわしい、と思います。

なお、上座部仏教の解釈で無理に押し通すと、「縁起の法それ自体は次の生起を保障しない」ために、そして、「滅」は通常、次の生起の因を含むので、全滅世界・死滅世界に一直線です。ですから、龍樹の句の解釈として、「生きた馬」を「生き生きとした空性の縁起世界」として思い描くことこそ、インチキで、論拠なし、ということになります。
これは、前に「水槽と金魚の事例」で説明した通りです。
石飛学派が、「なぜ生じるかわからないのだけれど、生じるものは滅するものである」と我々は説く。
このように、自分に都合の悪い部分を隠すことなく、
必ず、「なぜ生じるかわからないのだけれど」という「真実を語る枕詞」をつけてから、仏法を語るのならば、まだマシなのですが・・・・。
こうした「知らないこと」の断り書きを付けないことは、たばこ販売に際して、健康被害の文言を入れないような、悪質性となります。
まあ、しかし、このように都合の悪い真実の枕詞を入れて布教するならば、バカにされて、布教活動をしても成功しないと思いますが。

以上、石飛女史とザポ氏の思考のバグについて、指摘しました。

龍樹の「馬」の比喩について、これ以外の解釈は有り得ません。
他の解釈は、全部こじつけになるしかないでしょう。
石飛女史のように、「生きた馬=空性である虚妄な縁起の法」とやってしまうと、
2諦全部を「空性」で統一することになり、
こんな解釈をしているようでは、法は破壊される、というのが龍樹の立場です。
龍樹のような聡明な知能指数なら、そのことがすぐに論理的に見通せるのです。
それがわからない人は、論理的には、お世辞にも聡明とはいえません。

2諦は、「空性に適合するものと、空性に適合しないもの」という正反対の真理が不二となっているものであるときのみ、
法は破壊されず、因果は破壊されず、縁起しながら、涅槃も可能となるのです。
これしか正解はありません。

石飛女史の浅墓な「煩悩満開」解釈だと、<哲学としても> 薄っぺらくて、お笑いぐさであることは、哲学のプロならすぐわかることですし、
なおかつ、龍樹の文章の読解としても、前後の文脈の読解としては、全く筋が通らないので、<国語力としても>「この人、論理的な国語能力なし」
と判断されることは、明白でしょう。


///////////////////

以上、「中論」の解釈から入りました。

以降の文章は、整理されていないので、読まないで結構です。
一番述べたいことは、ヘーゲルにおける「絶対的観念論」というのは、梵我としての神を想定するものです。
ゆえに、ヴェーダンタ密教もそれであり、龍樹の思想もそれである、ということになります。
基本は、このように、シンプルです。
以下は、
草稿メモになります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 大長部の論書 『龍樹論理学』ですから、導入部は、カジュアルな話題、中央競馬会の話から入りましょう(笑)。
米国で名馬の名をほしいままにした「サンデーサイレンス(聖日の静寂)」、実に素晴らしい名前ですね。
そして、サンデーサイレンスの血を引く息子 「ディープインパクト」の日本での大活躍、そして去年一杯での惜しまれながらの引退を記念して−−。(但し、引退後の種馬生活の方が、馬主は圧倒的に稼げます。)

 論理的な、「5つのインパクト」 をもって、「龍樹の論理学」 を紐(ひも)解いて行くことに致しましょう。
 

   〜〜〜「5つのインパクト」でひも解く 深淵な真理 の実相とは 〜〜〜

●第1のインパクト●
   【龍雨インパクト】

●龍雨インパクト
  碧海龍雨の電子書籍 『龍樹論理学』これ全体が「圧倒的に大きなインパクト」を持っているわけですが、ここでは、その中でも特に、
  最初に −− 「2つの決定的論証」 と、「涅槃に関する真の正しい定義」及び「龍樹による<去ること>の否定が持つ意味(真義) −−   という、合計4つの龍雨インパクト を提示します。
              これらたった4つだけでも、それが仏教界に及ぼすインパクトは多大でしょう。

(1)「一切無自性」の「一切」の射程範囲と2諦に関する決定的論証
     〜〜「一切無自性のパラドックス」に落ちる人と落ちない人〜〜

    
    この第一章は概説なので、中核部分の「決定的論証」だけ、ここに挙げます。
    後の章で内容を詳しく解説致します。

●「一切無自性」「一切皆空」の「一切(皆)」の範囲について●
         〜〜「巷間よく見受けられる痴愚的誤解」を一掃・駆逐するための、決定的論証〜〜

 「一切は無自性である」
−−−この命題こそ、仏教における世界洞察における「究極最高(普遍)真理」としての「勝義諦」である、と主張する人々(学者など)がいます。
 ■果たして、この人たちは正しいか?  (←あなたたち、それは世俗諦に過ぎないんじゃないですか?)  
  以下、この人たちの主張が「偽」であることを論証しましょう。

(T.1) 「一切は無自性である」という命題は、主張されたものである。(語用論的解釈)

(T.2) ところで、「無自性」とは、それ自体には自己能動作用・自己作動性(−これをアートマンと表現してもよい−)が無い、という意味である。
つまり、何であれ、それ自体には自己作動性がなく他からの作用(自己以外からの作用)によってのみ作動している、ということであり、生起現象という作動もまたそれ自体の固有孤立的自己能動力により「生起・発生」するものではない、ということを意味している。
もっと言えば、外見上、自己能動作用のように見える現象も、仔細に解体的に分析すれば、自己以外のものが「集合・連合」することで、連合・連鎖したそれら他からの作用があるがゆえに、はじめて、自己能動作用の如く見えるところの「自己能動作用モドキ現象」が仮に形成・構成されているに過ぎない、ということである。

(T.3) とすると、「一切は無自性である」と主張する「自己能動作用主体」にまで、「一切」の範囲が及ぶとするならば、このように主張する主体もまた無自性であるはずである。
しかし、そうだとすると、矛盾が起こる。
なぜならば、「一切無自性」と主張する作動作用主体に自己作動性がないのならば、「主張する」という作動性そのものも、仔細に解体的・分析すると、本来は、つまり、真実の姿としては、作動性がないゆえに、「主張されない」ということになってしまう。

(T.4) ということは、「一切無自性」の「一切」をこの命題主張する主体にまで及ぼす時、この命題は自己崩壊して、意味を成さなくなってしまうのである。
つまり、この場合の究極の真理・真実としての勝義諦は、「一切無自性」ではなくて、
そのようにも主張しえない「作動性ゼロ」の無の世界、或いは、観念や精神も一切ない無、あるいは、無をも認識できない完全無、そういう意味での「死そのもの」、ということになってしまう。
つまり、この場合、「勝義諦」においては、「一切無自性」の主張もその認識も全く成立しない、ということになるのである。(存立・成立基盤の崩壊)

(T5) この結論が真の仏法だと主張するなら、その人はもはや仏教者ではない。単なる「生気ゼロの無機的な死の世界」の伝道者でしかない。それは、「死の商人」ならぬ「死の仏教徒」と評することさえできよう。
 この結論が妥当ではない、と判断できる賢明な人ならば、
この矛盾の発生原因が、「一切無自性」命題の「一切」の射程範囲を、一切例外を許さない形で
盲目的なドグマとして「絶対化」してしまったがゆえに発生したパラドックスだ−−−、と気付き、知るはずである。

(T.6) 結論
   「一切無自性」命題の「一切」の射程範囲を 盲目的ドグマとして「一切の例外を許さない形で絶対化する」と、論理的には必ず、不可避的に、「自己言及のパラドックス」に陥ってしまう。

  −−という、この主張は「真」である。(ことが上記により論証された)

  これは、「悪無限」の一種と言い得る。音響分野におけるマイクの「ハウリング現象」と類似するもの、と考えるとわかりやすいであろう。

(T.7) 追加結論 
   「一切無自性」に例外を認めない仏教学者は、論理学的には稚拙の極みでしかない。
   仏教学会から、早急に一掃・駆逐されるべきである。そういう者たちは、仏教界におけるハウリング・ノイズのようなものでしかない。偽りの仏教を語る忌まわしき「死の仏教徒、死の伝道者」 であると言え、「唯物論亜種の仏教」 であると言え、そこには、仏陀が伝えたかった「本当の吉祥」は全くない。

         −−−−−(第一の決定的論証 おわり)−−−−    


(2)「勝義諦」の存在次元に関する決定的論証
       〜〜2諦同次元説の痴愚に落ちる人と落ちない人〜〜


【決定的論証】
勝義において(「ルーパ=色」であるところの) 「壺(つぼ)」 (など)は存在しない。
また、勝義においては、肉体的(「ルーパ=色」なる)人間も存在しない。
では勝義において何が存在するのか?
勿論、勝義諦 しか存在しない。
では、勝義諦しか存在しないこと(という真理)を誰(主体)が知るのか?
それを知り得る主体はもはや勝義諦しか残っていない。

     −−−以上、(論証終り)、

【結論】
ゆえに、勝義(諦)とは、(虚空の如き無限なる) 絶対精神 である。
因みに、この絶対精神は主客(主観/客観、或いは、主体/客体)の二極を超越している。
そして、「一(と)多」をも離れている。(離多一性)
なぜなら、この絶対精神を「一なるもの」と呼ぶこともあるけれど、それは一つの方便に過ぎないからである。
正確には、「一だ、多だ」などというように「対象の数を数える」ことなど不可能なのである。
ということで、
この絶対精神を、「一と多」を超越した(= 離一多性)、数えられない「ゼロ(空)」と呼ぶのは、これもまた方便的であるが、一つの象徴的表現としてはふさわしいことである。
ところで、このように、「ゼロ(空)」と象徴表現された「言葉(表現形式)」だけを見て、
「絶対精神など無い」
と短絡的に解釈するのは、愚の骨頂、無知の極み、稚拙なファルス(笑劇)でしかない。
そのことが、上のロジックにより論証された。

  ⇒ 世俗諦 と 勝義諦 の論理的な相互関係については、後章の「●●」において、ある意味衝撃的な、論理的統一性を提示します。「数学における日本人の大業績を活用する」ことによって、それがなされます。乞ご期待。

  ⇒ 世俗諦 と 勝義諦 の論理的な相互関係についてヘーゲル弁証法をもって叙述すると、次のようになります。
     −−−<世俗諦に対する様々な「認識」を弁証法的発展運動によって深めて行く、その果てに、その螺旋的な弁証法的発展のゴールとして、勝義諦がある。 つまり、世俗諦(認識)の弁証法的発展認識の極みとしての究極のゴールが勝義諦である。>−−−と。



(3)「涅槃」の定義
       〜〜忌まわしい「死の伝道者」という「エセ仏教徒」に落ちないために〜〜


「世界存在」を「仮象と実在」の二分法で理解する時、一切の「仮象が寂滅した状態」
−−−この時、この単純な引き算の残余として演繹される「存在世界」が、
仮象なき、「実在の塊」としての、「仮象寂滅・仮象絶無の、実在オンリー界(ダトゥー)」
である。 
 
これが、正しい「涅槃の定義」である。

−−−「一切完全なる仮象寂滅・二極相対の終焉位相としての、絶対精神・唯実在界」−−−
これが、正しい「涅槃の定義」である。


(4)龍樹の『中論』での<去ること>の否定が持つ、真の意味とは?
       〜〜忌まわしい「死の仏教徒」にならないために〜〜


 (第一点) まず、龍樹による「去ること」の否定は、「運動の否定」とも解釈され、古くから、多くの人々によって、ゼノンのパラドックス(飛ぶ矢は飛ばない)と、比較対照されながら、論じられて来ています。そして、それは今も変わりません。
 (第二点)  しかし、中村元博士は、次のように反駁して書いておられます。
   −−−−「両者の論理を精細に比較するならば、類似を認めることは困難である。ナーガールジュナは、自然的存在における運動を否定したのではなく、(説一切有部の)法有の立場を攻撃したのである。−−−
『龍樹』講談社学術文庫 P127
。但し、( )内補足は碧海です。 

まことに、ナーガールジュナ(龍樹)が、説一切有部の 「三世実有・法体恒有」=「一切の実有なる法体こそが、現在・過去・未来の三時(三世)にあっても、恒(つね)に変わらぬ恒有なのである」 という思想を批判したことを 中村元博士は指摘し、そして、「去ること」の否定論理が、説一切有部の論理を論破する目的であったことも、彼は指摘しますが、この指摘はまことに正当です。

さて、ここはは、「誤解多発地帯」ですので、是非とも注意すべき点を 2つ、あげます。
 第一は、エレア派のゼノンは、運動を単に否定したのではない、ということ。このパラドックスを突きつけることで、「分割不能の一者」に人々が目覚めるように、との方便で、パラドックスを提示しているという点 を看過してはならないこと。
 第二は、ナーガールジュナ(龍樹)は、説一切有部のイデア世的な「実有の法体」観を批判しているわけですが、どのように批判しているかというと、「去りつつあるもの」という「法体(界)での実有」が一つあり、なおかつ、「去ること」という運動それ自体も、「法体(界)での実有」であるとするならば、法体界に「去る」関連で、同種の内容のもの二つ重なって有ることになり、おかしい、という批判です。
そして、龍樹の同様のロジックによって、運動一般についても、一々の運動それぞれに関して、「運動しつつあるもの」について、「そうした運動をすること」という「作用」が−−つまりそうした作用のみが単独で浮遊しているがごとき状態−−−など 「有り得ない」と否定しているのです。
 考えてみれば、当たり前のことです。 抽象的な「去る」という運動「作用だけ」が、まさに抽象的に浮遊的に、主体なしに、「去る運動をしている」 なんてことなど、全く有り得ないことだ、ということは、指摘されれば、多くの人が納得することでしょう。

 −−−つまり、「主体が捨象」された「抽象的な去る作用」など、単独で存在できるわけがない、ということです。
 この論理には、例外は有り得ません。 
 −−−−−ということで、
 ナーガールジュナ(龍樹)は、−−−−−−「運動と主体の一体不可分性」−−−−−をも論証しているのです。

 主体(我)を、「例外を一切認めることなく」「絶対的に」「否定する」論陣を張る 「絶対的な一切無我論者」たる「死の仏教徒たち」
 彼らが、実は、思慮浅墓なエセ仏教徒であることを、ここでナーガールジュナ(龍樹)は、厳しく指摘しているのです。

今の日本の仏教界に、まだ沢山いるところの、「絶対的な一切無我論者」仏教徒の方々に申し上げます。
そもそもは、「運動とは何なのか?」 
「世界は運動していないのか?」 「世界における諸運動の起源(または端緒)についてどう考えるのか?」
 について、あなたがたは、ロジカルに解答する必要と義務があります。
しかし、上記の「龍樹の論理」を見事に打ち破る形で、それをなしえるような論客を 私は知りません。
今のところ、どの論客も皆、無惨に撃沈しているのみです。
(諸学者の場合、その自覚がない・無知なことが問題なのですが・・・笑)


●第2のインパクト●
   【ゼノン・インパクト】

●ゼノン・インパクト
   「ゼノン・パラドックス」と「龍樹パラドックス」は常に比較対照されます。
   そのゼノン・パラドックスの「飛ぶ矢は飛ばない」について、現代数学・物理学・量子論の見地からの考察します。
  アリストテレスの「時間論」における「重大な誤謬」−−現代人の多くもアリストテレスのこの誤謬と 「全く同じ勘違い」 をしている人が多数いることも指摘して、多くの人々を唖然とさせます−−−そうした大誤謬が有ることを、ここで明らかにします。
  この「誤謬」について理論的に、深く理解した時、その人は、仏教哲学の重大な核心部分について、英知の輝きが立ちいでることでしょう。
 さて、
  「ゼノン・パラドックス」が発生するのは、空中を「飛ぶ矢」 その場合の、 「時間ゼロ」 × 「距離ゼロ」 のケースです。
これについて、物理学的・量子力学的に、「衝撃的な事実」を明らかにします。
 詳しい解説を展開する後の章をご期待下さい。

  「時間と空間」は、「相依性」の結びつきがあります。 
  カントは、時間と空間について、「主観的認識の形式」 と位置づけました。
  龍樹における「戯論(けろん)」の原語(梵語)には、「広がり」の意味が内包されています。

  さて、「存在と時間と空間」  その真相とは?    後章に、乞ご期待。 

  (ヒント) 数学の幾何学における、「点」の定義は、面積のない点です。 これは「矛盾した概念の合体形である」ことに気付くことが大切です。極めて大切です。



●第3のインパクト●
   【カント・インパクト】

●カント・インパクト (主に、「3つの衝撃」について触れます)

 <1つ目の衝撃>
  直感(直接的感知)に基づかない、それ単独の「理論(純粋)理性」だけによる思惟作業には「重大な限界点」があることがカントによって「発見」されました。
   「単独(純粋)理性」(=ロゴスのみ偏重のバイアス思考) では、アンチノミー(二律背反論理)が形而上学的考察において成立してしまうという矛盾が登場することが不可避であること。
   「神の存在証明・不存在証明」という形での、「単独(純粋)理性」によるロジック構築すると、アンチノミー関係にある、2つの論理が併存してしまうことになり、それは不可避であること。
   ゆえに、「単独(純粋)理性」による「神の存在証明も不存在証明も、結局意味をなさず、論理による証明は不可能である」
   という一大発見がそれです。
   カントのこの知的な哲学的発見によって、中世キリスト教は大激震に見舞われます。
   −−−「理論理性のみによっては、神の存在は証明されえない」−−−と知られるようになったからです。
   この「カント・インパクト」からは、今では世界5大宗教の一つに数えられる仏教もまた、これを無視することもこれから逃れることも決してできません。 
  ゆえに、仏教は無神論か否かという「スタート命題」たる基本論点の扱いについての
−−−− 「仏教解釈のための基本哲学」 −−−−−が、カント哲学との関連で確立することになります。
    ゆえに、このような「仏教解釈のための基本哲学がない、浅墓な仏教学者たち」の仏教論はどれもみな子供論理であることが明々白々になる、という仕組みになっています。
   つまり、スタート時点で−−−「仏教とは無神論である」と明言する仏教学者はカント哲学への無知を露呈させている浅墓な「独断論のまどろみ学者」である、といえること。
   同様に、スタート時点で−−−「仏教とは理性の哲学でありロゴスだけを徹底的に突き詰めることで仏教の究極に到れる」と主張する学者もまた、カント哲学への無知を露呈させている浅墓な「独断論のまどろみ学者」である、といえること。
 
但し、このロジックだと、「仏教は有神論である」と決めつけることもまた、浅墓な独断論の範疇に入る、ということになりそうである。事実、「仏教は無神論だ」と主張する学者が、上記のロジックでやりこめられると、悔しまぎれに、必ず反論するのが、この反論方法である。
しかし、−−−カント・インパクトの深い本質は、「神の否定」にはない−−−のである。
カント哲学の「実践理性篇」をみればわかるとおり、「神の存在は証明不可能であるが、理性的考察を突き詰めるならば、その存在は要請されざるをえない」 ものなのです。

この点でも、釈尊の「無記」について−−−釈尊は形而上学的問題については黙して語らずだったので、神の存在を否定している−−−と、このように安易・安直に「釈尊の無記を神存在の否定論」へと結びつけてしまう仏教学者は、あまりにも、浅墓て無惨で、無知の押し売りといえます。
高次元のものを、「安易に語らない」という態度を、即、「高次元のものは無い」と勘違いする者は、あまりに早トチリです。
このように、「無記=神存在の否定」と解釈する仏教学者は、これだけで、仏教学者失格です。
仏教に対する解釈哲学がない、との批判は免れないからです。


さて、カント・インパクト において、重要なことを、上記の「神の存在・不存在の証明は、両方とも、演繹理性単独の作業では、その証明はできない」ということの他に、あと、2つ、挙げることにします。

<2つ目の衝撃>
 「カントのコペルニクス的転回」 と言われるものがそれです。
カントの「コペルニクス的転回」とは次のようなものです。(カントの言葉より)
(A)「これまで人は、我々のすべての認識は対象に従わなければならないと想定した。」(対象に対する認識の模写説)
    −−しかし、この方法だとすべての哲学は失敗に帰しているので、次の方法をカントは提案します。
(B)「対象が我々の認識に従わなければならないと想定することで、もっとうまくゆかないかどうかを一度試してみてはどうだろう。」
   −−−これが、カントの、人間側に認識に関する主体性と構築性を持たせる考え方、すなわち「構成(構想)説」です。 
   −−−人間側の、(或いは、生物側の) 認識に関する「構想力」を重視するわけです。 

 たとえば、ゴキブリちゃんの場合は、どのような世界観を持っているでしょうか?
ゴキブリちゃんは、目とか触覚などの感覚器官から「センス・データ」を受け取りますが、果たして、それを、どの程度、「構想力」として構築しているでしょうか?
 ミツバチの場合、花々がある場所を、仲間に教える距離と方向を示す暗号ダンスをする、と言われます。ということは、距離・方向、空間、そして、花々の匂いや色彩などが、ミツバチの中では、ある種、構想・構築されている、と推測することも可能です。
 さて、人間の場合ですが、「認識」とは、我々が脳内で合成加工することで創造的に構築・構成される「関連付けられ意味付けされた諸データの関係性」だと考えるのです。
大雑把に「たとえる」ならば、松本清張の「点と線」のようなものです。殺人事件で、刑事が色々な情報を集めます。そうして、それを「構想力」によって、結び合わせて行き、「一つの事件の流れ」 として「線画」を描きます。こうして事件が明らかに認識されて行きます。
しかし、「冤罪」を作り出すこともあります。点と点を間違って結び合わせたりするのがそれです。 
つまり、脳の「構築作用」が、恣意的に勝手気ままの「主観だけ」として「暴走する」に任せたなら、「的外れでお馬鹿な誤謬認識」が構築され、客観的な外的世界との齟齬が生じます。

 演繹的理論理性だけの単独力を過信して、「これだけで一切を推論・推知することができる」 と主張することは、自分の中の「純粋理性だけ」を過信することであり、「純粋理性を批判」をするだけの「知性」が欠如した人間である、ということになる−−−−このように、カントは、人々に知らしめたのです。

 しかし、日本の仏教界の学者たちの中には、このカント・インパクトについてすら無知な人々がおり、「演繹理性によって一切推知可能だ」  というロゴス偏重・理性偏重の仏教論を展開している学者もいます。(たとえば、石飛道子女史など)
 あまりにも、哲学的には遅れている、勉強不足の、前期中世的な 過去の遺物的考え方の亡霊だ、と言えます。

カントが突き当たった壁は、大きく高いものでした。
  −−−暴走する単独理性は、必ず、アンチノミー(二律背反)命題を、構想成立させてしまう−−−
  −−−どうすれば、この「純粋理性アンチノミー発生現象の呪縛」から逃れ、解き放たれることができるか?−−−
カントは、生涯にわたって、この大問題と格闘したのです。
その過程の中で、カントが示した一つの解答は、「物自体と現象の2分法」 でした。
あくまでも、「人間の主観的認識の対象」となるのは、「現象」に過ぎない、と。
なぜなら、五感というのは、極めて「限られた枠組み」でしかないこと。
たとえば、人間の聴覚も視覚も、感知できない高波長の超音波や赤外線・紫外線などには反応しない。しかし、そうしたものがあることは現在、明白である。ゆえに、人間は、五感という「狭い窓口」から感知できる「限定的な(ある意味で歪んでバイアスがかかった)センス・データ」しか取り込めないからです。
ゆえに、「対象それ自体」は直接認識不可能だ、と。
如何なる努力と工夫をしても、「対象それ自体」の直接認識は五感では不可能である−−−とすると、我々が「観測」しているものは、「現象」という、偏向(バイアス)を必然的に内包した、(つまり観測選択効果を必然的に随伴した)、偏ったセンス・データに過ぎない(はずである)、と。

これ以上のことについては、後の章で詳しく解説致します。


<3つめの衝撃>
 「総合判断」は如何にして拡張されて行くか? (特に形而上学的問題に対して)
 カントは、単独の理論理性による演繹だけでは、限界と矛盾が生じることに気付きました。演繹的理性によって割り出す判断を「分析(的)判断」と言います。
 たとえば、数学の「x」を含む一次方程式は、イコールを挟んだ左辺と右辺の入れ換え操作をすることで、「x」について分析的に割り出すことができます。これは、左辺と右辺がイコールで結ばれた同語反復性を利用した分析操作です。
 一方、「総合判断」は、同語反復性によるものではなく、「新たな知識の追加」 としての判断です。
たとえば、「人間・田中丸丸さんは二足歩行をする」  という命題における「二足歩行」は、人間の一般的性質から導き出されます。しかし、「田中丸丸さんは、殺人犯である」 という命題は、田中丸丸の行状をつぶさに調べなくては判断できないいので、どこかに佇(たたず)んでいる一時点の「田中丸丸さん」だけを分析して導き出されるものではありません。
つまり、様々な方法で、人間の五感の感性機能を駆使して、直感的に、客観的なセンス・データを収しながら、それと合わせて、理性とのコラボレーションによる推論や構想力を駆使して、「総合的」に、「田中丸丸さんは殺人を犯した」 という判断を下すわけです。
(勿論、厳密には、構成要件該当性・違法性阻却事由の有無・責任阻却事由の有無、などの検討も必要になります。)

 ここにおいて、重要なのは、「感性(五感などの経験)」と、「理性(>悟性)の推知性」 の折衷的な総合が、客観的な真理の把握には不可欠である、とするカントの立場(基本スタンス)です。

 ひるがえって、日本の仏教学者の中には、仏教は五感を「空」とするのだから、当然、「理性(>悟性)の推知性」の優位性が主張されている、として、「直覚知」 を否定した中での「理論理性の越権的暴走」を平気の平左でやっている学者がいます。仏教を歪め、貶めるトモガラ(徒輩)である、と言えましょう。

 しかし、本来、ゴータマ・仏陀が主張した論法の中に含まれる「叡智(ジュニャーナ)ヨーガ」の流れの中における「背理法(帰謬法)」のロジック展開は、まさに、「総合判断としての認識の拡張」を目指したものであるわけです。
ゆえに、既に、「感性(五感などの経験)」として捉えられている諸情報が、「如何に正しく構想(正見・正思惟)されるべきか?」−−−つまり、言い換えると、既に、五感を通して森羅万象について観察されている諸情報が、無知の覆いによって、「間違った形で誤謬的に構想・構築されているもの」を、如何にして正しく、「意味づけし直すか」−−−という見地から、「隠された真義(関係性)」を、背理法による推論作用によって、認知させよう、とするものなのです。

その意味では、「一切無自性」 という観察データ・ロジックが示す矛盾!(これを整合的だと強弁する仏教学者は、もはや学者ではなくただの阿呆である!) この矛盾を解決するための最もシンプルな因果関係−−(これを「マハー因果」と私は呼ぶのですが)−−これが「当然の要請として推知される」時、意識の変容が起こり、「総合判断の拡張」が起こるのです。 
  ⇒この時、 「唯物論亜種仏教からの決定的な脱却」 現象が起こります。


●第4のインパクト●
   【ヘーゲル・インパクト】

●ヘーゲル・インパクト
   「ヘーゲル的完成」の意味と衝撃。これとどのように向き合うかという課題。
   ドイツ観念論の完成者という評価に留まらず、西洋哲学の完成者とまで評されるヘーゲル。
 「すべての哲学と宗教はヘーゲル哲学に関する一連の脚注に過ぎない」(碧海龍雨)
   とすら、言い得る大天才ヘーゲル。

   ヘーゲルに無知な人々(哲学者も含める)の中には、ヘーゲルはプロイセン国家の御用学者に過ぎない、という者がいます。しかし、そのような「ヘーゲルの保守性」のみを見る人は、へーゲルを真に理解することはできません。
 ゼノンが政府に危険分子として拷問処刑されたように、ヘーゲルもまた、彼の「天才的な擬装」的な言説によって、プロイセン当局を勘違いさせている間は良かったが、結局最後には、ヘーゲルの、キリスト教すらも解体してしまうようなラジカルな自由の哲学の危険性に気付いた当局は、ヘーゲルを特級危険分子とみなすに到り、(事実、教え子の教授も皇太子に呼び出され厳重注意を受けている)、へーゲルを毒殺するもやむなしとの考えに到った、ということが一つ、考えられます。
これが「ヘーゲル毒殺説(ヘーゲル殉教説)」です。

突然の胃痛で死亡したヘーゲル。劇症コレラといわれたが、妻は状況の不自然さに気付き、コレラ説を否定し、なんらかの陰謀を感じるとの発言を残しています。埋葬についても(当時は火葬ではなく土葬であったろうから)伝染病患者が葬られる場所ではなく、生前の本人の希望通り、フィヒテの墓の隣りに埋葬されたという事実からしても、コレラである可能性は否定されるべきなのです。

 さて、ヘーゲルが、カント哲学を踏み越えて、如何にして、一元論哲学を構築して行ったか?
 これについて、後の章で詳しく見て行く時、あなたは、宗教の真理に深く参入して行くことになります。


●ここで、予めお断りしておきます。
  碧海龍雨の『龍樹論理学』は、日々成長し書き足して行く「大部のもの」になることが予想されます。
     (更新情報を参照しながら読み進むようにして下さい。)

●本書 『龍樹論理学』は、『ヘーゲル論理学』と徹底的な比較対照の上、その異同が論じられるべきだと考えております。それゆえ、大部のものにならざるをえないことが予定されます。

但し、ここで、「結論」を 先取りしてお知らせしておきます。
  −−−両者の(方法論的)差異は「さほど大きくない」ものであり、方向性(ベクトル)と結論(ゴール)に限って言えば、「両者は全く同じ」と評価して過言ではないであろう、と。

 学術的には、その「僅かの違い」が重要だと言えるかも知れませんが、如何に生き、如何に瞑想するか、という実践的な霊性修行においては、その違いは看過しても大過ないものと言えるので、両者の違いは実践的側面からすれば一切無視して構わない、という論になります。
  −−−ゆえに、碧海龍雨の『龍樹論理学』を学ぶことは同時に『ヘーゲル論理学』を学ぶことに通じ、両者を同時にマスターできる、−−−このような、極めて大きなメリットがあります。


●なぜ、『龍樹論理学』を理解するために、『ヘーゲル論理学』との比較対照が必要なのか?
 第一に、『龍樹の論理』をひもとく場合、龍樹の手による論書が少なく限られているため、少ない情報をもとにして勝手な推論をすると、「トンデモ推論」(理論理性の越権的暴走)に陥りやすいという問題があること。

 第二に、既に、過去約二千年に渡って、宗教教団などの実践集団は別にして、仏教学会のような学術集団の中においては、龍樹はひどく歪曲され誤解されて来ているという事実があること。
彼らが龍樹研究によって悟ったという事例は皆無です。むしろ、インチキな龍樹解釈を世間に広めるという悪弊の方が大きい、という側面すらあること。

 第三に、天才ヘーゲルの論理との比較をすることで、「どこがどう違うか、学術的に明確に認識する」ことができれば、仏教学者の龍樹解釈も、それなりの「守られるべき最低ライン」はなんとかクリアーできるレベルに達しうる、と言えること。
逆に言えば、この手続きを踏まない−−つまり「ヘーゲル論理学」を無視した龍樹論−−は、無惨で低劣なものになる可能性が極めて大きいこと。そして、実際に、ヘーゲル無視の学者の龍樹像は「どれもみな無惨」であること。

 第四に、そもそも、仏教は、世俗諦を守ることを通して心を磨き涅槃に到る道を説くけれども、世俗諦を守れない人は鈍根の人と言われ、霊的には、実際上、深い瞑想がどうやってもできずに、いくらそれを望んでも深い瞑想に入ることができない事実があります。これは、世俗諦を守るための「宗教倫理的側面としての基本EQ」が不足していることを意味します。
この理屈と同じ様に、「龍樹解説者・研究者の基本資格」としても、この原理が例外なしに、(神によって)厳格に適用されています。つまり、「宗教倫理的な基本EQ」が不足している(仏教)学者−−(たとえば、詳細な文献引用だけは得意で仏典論書の権威の威光に頼るのは得意な反面、俺はエロおやじだ〜と自称して恥じないような仏教学者とか)−−が、龍樹をいくら偉そうに論じても、所詮は、インチキ龍樹、トンデモ龍樹にしかなりません。
なぜなら、EQ不足の学者が高尚精妙な真理を「正しく説く」ことは神によって許可されないので、その理を無視して、「口先だけ正しいことを述べよう」と悪だくみするような学者がいても、心情波動の共鳴が起こらないために、結局は、正しくないインチキ龍樹しか、その学者の心情(信条)にはフィットしないということになり、インチキ龍樹しか語れなくなるようになっているのです。

 第五に、もしも、「龍樹を解説する基本資格」の観点からして、「基本EQレベルが充分に足りている学者」であり、『龍樹論理学』もわかる、と豪語する人ならば、必ず『ヘーゲル論理学』もわかるはずです。
ゆえに、−−−本書の登場以後−−−、両者の比較対照をしないで龍樹を語る人がいたならば、「龍樹読みの龍樹知らず」であり「宗教倫理的な基本EQ不足の人」ではないか−−−と推論されて然るべきでしょう。
従って、「正しい龍樹像」を求める人は、
   「龍樹の主張を正しく理解するための基本アイテム」として「ヘーゲル論理学」が有る、
という私の主張に耳を傾けるべきです。
両者の論理は本当に酷似しています。それゆえ、比較されて当然なのであり、比較されるのが自然です。どちらか一方を無視すべき合理的根拠は一つもありません。
あくまでも自然に、「両者を比較対照」して行くうちに、あなたの中に、自ずと、「正しい龍樹理解」の樹が育って行くことでありましょう。そうして、早晩、あなたは、本当に正しい「龍樹理解」に到達することができるでしょう。
 ですから、「合理的根拠」なしに、ヘーゲル論理学との比較を断固拒否する学者は、この時点で、すでに愚かであり、「龍樹読みの龍樹知らず」と評価することができます。
また、ヘーゲル論理学と比較したとしても、両者の差異を合理的・明快に解説できない学者であったり、また、ヘーゲル論理学より龍樹論理学の方が優れていること(優位性)を合理的・明快に解説できない学者なども、この時点で、「龍樹知らず」「インチキ龍樹の語り部」と評価されて然るべき、ということになりましょう。


●「へーゲル論理学」からすると、仏教の「正思惟」は、次のように理解されえます。
  −−−仏教の八正道における「正思惟」は「3階建て」で理解される。−−−
・第1階は世俗諦に関する思惟(善因として善行を積めば法楽の果実を刈り取る、その反対に、悪因として悪行をなせば応報罰としての業苦を果実として刈り取る、というカルマ因果律についての観察思惟。そしてそれに基づく実践。 
・第2階は超越的真理に関する思惟(無記・還元の方法論)。
・第3階は、思考作用それ自体に対する思惟と認識。すなわち、「メタ思考学」とそれに基づく正しい結論と、その結論に基づく実践。
※・・・「メタ思考学」−−−「思考とは何か、そして思考の限界などを思考する学」


●「カントが大ショックを受けるであろう、 ヘーゲルのカント批判
★碧海龍雨が次のような名付けたもの
  −−−「分離型キャッチ・アップ判断の誤謬」(略して、キャッチ・アップ・マインドの誤謬)−−−
  −−−宜しいですか、皆様、
     こうした「分離」をマインドがやらかした瞬間に、それは「仮象」に転じてしまうのです!−−−

「部分切取り型分離」による「キャッチ・アップ」で「取り出した認識判断=(〜は〜である)」は、絶対的で動かせない「規定(枠組み)」ではなく、「相対的で流動的な思惟規定に過ぎない」のだから、そうした「相対的思惟規定は非自立的なもの」であるがゆえに、「他の思惟規定へ移行する可能性」がある、とするのがヘーゲルの立場です。
これ即ち、キャッチ・アップで分離した認識判断(〜は〜である)は元々「相対的思惟規定」なのだから、固定的でなく流動的であり、流動的であるなら一時的なものと言え、一時的なものであれば、他の「より優れた思惟規定に移行」するための、途中経過的な、そして、橋渡し的・はしご的な、つまり「思惟規定が変化し移行発展する際の、中途の媒介となる規定」(媒語)だと位置づけることができる、とするのがヘーゲルの立場です。

すなわち、思惟規定は、それが立てられ(規定され)た時点で、これは「架け橋」的・一時的な規定の定立に過ぎず、遅かれ早かれ、その規定はやがて廃棄され(次の一層優れた規定へと移行す)ることが運命付けられているものなのだから、ゆえに、思惟規定は、それが規定された時点で、「定立とその廃棄」という矛盾を不可避的(宿命的)に内包しているのです。

これが、ヘーゲルの『論理学』にある−−「思惟規定のみが二律背反の本質や根拠を成す」−−
ということの意味です。

有限性とは、反対概念の「無限」の否定として規定されるので、その定義からして、反対概念の「無限」それ自体をも否定してしまう。(無限の(破棄としての)有限性)

無限性とは、限界の措定とその廃棄という空虚な反復にすぎない。
有限の一々の廃棄の反復的連続が無限である(n+1)。また、「無限」は反対概念たる「有限」の否定として規定される。その定義からして、反対概念たる「有限性」自体も破棄され・・・。(有限の(無限の破棄たる)無限性)

こうして、相対的に暫定的な、「思惟規定同士」の「関係性の論理」の問題に逢着するのです。

こうした「ヘーゲルの主張」は、実に根本を突いた厳しいものです。カントが生前この指摘を受けたなら、「がっくり・・・」と、大ショックだったかもしれません。

ヘーゲルは、カントが「物自体/現象」という二分法を採用し、この二分法を純粋理性によって絶対的・固定的に「思惟規定」してしまっていることを、「何だそれは!」と叱ります。
まさしく、カント自身が、根本的なところで、自分自身が主張していた「部分切取り型キャッチ・アップ思考」をしてしまい、存在対象を「物自体/現象」という2種類に分けて「分離し、絶対的で固定的な思惟規定としてしまう」という誤謬に陥ってしまっている、というわけです。
こうした間違いを−−「思惟規定における二分法絶対固定の誤謬」−−と呼ぶことにします。

「この大いなる誤謬」に気付いた時、あなたは、「へーゲル・ショック」を味わうことになります。
そうして、このショックを味わうことを通してのみ、はじめて、ガラクタで一杯だったあなたの器は空っぽになり、真の「総体性真理」へと参入する準備が整い始めたことになります。

このヘーゲル・ショックを味わわないまま、平気の平左でインチキな龍樹を語る仏教学者たちが、体制の主流から周縁へと駆逐されますように。


●第5のインパクト●
   【ナーガールジュナ・インパクト】

●ナーガルジュナ(龍樹)・インパクト
  仏教という「宗教」における衝撃や、仏教「哲学」への影響などに突いて解説します。
  特に、龍樹は、当時の主流だった「説一切有部」学派の、「三世実有・法体恒有」の虚妄性を明確に論述しました。
「説一切有部」学派の「三世実有・法体恒有」とは、「一切の実有なる法体こそが、現在・過去・未来の三時(三世)にあっても、恒(つね)に変わらぬ恒有なのである」 という思想です。
「説一切有部」では、この「一切の実有の法体」、すなわち、「諸存在の雛型としてのイデア界的なその中にある、一つ一つの諸存在の設計図的な、諸存在各自の性質・自性(自相)を規定するイデア(観念・概念)こそが実有だ」 とするわけですが、そのように推論するのは、「理に合わない」と、龍樹は言うのです。

ここで、解釈が分かれます。
一つの立場は、有名な誤謬的立場で、もしかしたら現在の学会主流的立場ですが、
龍樹は、上記の思想を否定して、一切無自性を説いたので、一切の実有をも否定しているのである、とする立場がそれですが−−−この立場だと、最初の「龍雨ショック」で指摘したように、「自己言及のパラドックス」に陥って、論理が崩壊してしまいます。現在の仏教学会の学者の多くは、哲学的思索力に乏しいので、こうした大問題に厚顔無恥に頬被りしているだけだと言えます。

そこで、そうではなく、ヘーゲル的な立場で、
「説一切有部」の「実有の法体」を、「超越神の法身」と置き換えて、「無相・空相なる神ご自身」であると、捉え直してみましょう。すると、すべてが整合的に理解され、瞑想もまた、高く高く煩悩寂滅の瞑想として、正しく機能することになるではありませんか!
論より証拠、ということです。
煩悩まみれの学者の妄言を 権威に弱いミーハー大衆の一人として、盲信するのは、もうやめにしましょう。


●本書では、主観と客観という二分法(的な排中律ロジック)に対しての、第三の「中」の立場を明確にします。
  第三の「中」の境地、それは、主観・客観という次元よりも高次元の、脱・「主観と客観」であるところの、主観・客観が統一された「絶対(界)観」です。
 この「絶対(界)観」では、「主客」の分別は霧散しています。「観」は残存しています。
 この、霧散消滅しないところの、「実在的能動性」としての「絶対(界)観」という実存状態。
 この実存状態でこそ、「真の空」が会得されるところの、ここにおける「空観」です。 

  ゆえに、一切の「観」が成立しない、そのような「無・空」を説くのが仏教であり龍樹思想だ、というような内容の「たまねぎ仏教哲学」は「エセ仏教である」と、明確に、力強く、ロジカルに批判的な評価を下します。
(今の日本仏教の学会の知的・霊的なひどい堕落を一網打尽にします)


●龍樹の「中観」解釈における、新時代の
    「中観相補性学派」の誕生!!

仏教の「縁起」については、その意味概念の本質はスピノザの用語である「様態」と完全にパラレルに対応する、と理解するのが正解である、と、本書では解説して行きます。
 つまり、「縁起を肯定するのが仏教なのか、縁起を否定するのが仏教なのか」と問う時、「縁起」の内容定義が問題になりますが、「縁起とは様態変化相のこと」 だと理解するならば、変化するものと不変の内実の合一という太極図のような、「矛盾的二側面具有の同一体」 が説かれることになります。
この「二側面」とは、龍樹の説いた「二諦論」、すなわち、(チベット仏教的には)「本体同一、側面別異」と評されるところの、「勝義諦と世俗諦」です。つまり、「縁起とは、二諦合成体であるところの諸法(サルヴァ・ダルマ)という、二諦合成作用に基づく様態出現変化相のことである」ということになります。
これが私の説く「古くて新しい、21世紀に蘇った真の中観思想」であり、般若宗の基本教義です。

 この立場を、次のように我々は表現します−−−
「般若宗は、(新時代・21世紀に新たに誕生した)中観相補性学派を名乗るものだ」と。

 「相補性」とは物理学におけるボーア主張の概念で、矛盾する二者が相互に補完しあう合成体としての存在態様であること、を表現する「言葉・概念」です。
 こうして、龍樹主張の「相依性」と、上記の「相補性」について理解が進むと、自ずと、龍樹論理学が解明されて行く、ということになります。

−−−勝義諦は、決して「諸法(サルヴァ・ダルマ)へと現象する世俗諦」になりきることがない。
その意味で、勝義諦自体が全面的に「対象」となることはない。また、勝義諦と世俗諦をマインドによってニ分法的・二極固定的に峻別することは「(仮象的・架設的には)できる」としても、それらのどちらも、それを単独で取り出すことは、元々全く不可能なことです。

この事実に人が気付く時、二諦という二分法もまた「相依性概念」であることに気付く時である。
そして、その時こそ、現前する「諸法(サルヴァ・ダルマ)」が、勝義諦なしには成立しないこと、また、世俗諦なしにも成立しないという「二面性 & 相依性の関係にある」と気付く時であり、その時はじめて、龍樹の叙述するところの「中」の概念が正しく現前して来るのです。−−−

この理につき、比喩を以て語りましょう。
大海を勝義諦に譬え、海の水泡を世俗諦に譬える。
この時、水泡は海の海水で出来ているとも言えるが、その中の空気によっても出来ている。つまり、海水と空気の合成体が海の水泡である。海の水泡は、構成的に言うと、海水と空気が共に半面的に合成されて出来たものだと言える。これと同様に、「諸法(サルヴァ・ダルマ)」一般もかくの如しである。勝義諦と世俗諦がそれぞれ半面的に合成されて出来たものだと観る−−
これが−−正しい中観の存在論−−です。

さて、この比喩をもう一歩、正確な真実の写像に近づける作業をしてみましょう。
勝義諦と世俗諦は本来「不二」である。つまり、勝義諦からの投射的な派生が世俗諦である。この関係性を上記の比喩に「盛り込むこと」ができるか?  できます。
水泡の中の空気のかわりに、海水が高温化して位相変化した水蒸気だとすれば良いのです。
海水の水蒸気が充満した大海の水泡−−−まことに、「諸法(サルヴァ・ダルマ)」とは、かくの如きものである。ゆえに、諸法は水泡の如く「空」である、と言われるのです。


●龍樹が理解した仏陀の悟りとは、どのようなものか、その要諦を簡単に述べましょう。
 ・ヘーゲル用語「即自・対自」 それを引き継ぐサルトルの用語「即自的存在・対自的存在」を使って説明しましょう。
(1)「仏陀の悟り」とは、「自他通底的(すなわち、主観と客観の合一した次元での)な即自的存在」に「成る」、という意味での「菩提成就」のことである。
(2)ところで、「菩提」とは「目覚めた意識」即ち「対自的存在」を意味する。
  ゆえに、これによって、(1)を言い換えると、
     「(主客合一の)自他通底的であるところの即自的な存在(にして)、且つ、対自的存在に成る」、という成就。
   これが「仏陀の悟り」であり、「菩提にして涅槃」である。
(3) (2)では「菩提にして涅槃」と叙述したが、「涅槃には意識がない」と主張する暗愚者もいる。
   物的個体的意識は喪失してしまう、ということを意味しているのならば、それで正しいのですが・・・。 
   この暗愚者への反論は次の一文のみで必要充分です。
   すなわち、
   「菩提」とは「目覚めた意識」の意味であるがゆえに、「涅槃が菩提と同義」なら涅槃には意識があるといわざるを得ない。(以上、「涅槃に意識有り」、についての論証を終る。)

  もし、「菩提と涅槃が別義である」と主張する者がいるならば、その者は、なぜ両方共に「仏道の究極目的」と位置づけられているのか、詳細に説明する義務があろうが、筋の通った説明は困難でしょう。



●その他●
   【チベットのツォンカパの中観思想と龍樹論理学】 の比較論考
   【ウィトゲンシュタインの思想と龍樹論理学】 の比較論考


などについて、書き進めて行きます。




−−−−−−−<<< 第一章のまとめ  >>>−−−−−−−
次のような言葉があります。
「割り切り」とは魂の弱さである。
この世に存在する様々な「矛盾」を前にし、それを深く心の中に把持し、「割り切る」ことなく格闘し続けること。
それはまさに、「魂の強さ」とでも呼ぶべき力量が求められる営みなのでしょう。(・・・)
「器の大きな人物」
それは心の中に壮大な矛盾を把持し、この矛盾と対峙し、格闘し続けることのできる人物。そういう人に贈られる言葉のなでしょう。
(引用−−
『使える弁証法〜〜ヘーゲルが分かれば、IT社会の未来が見える〜〜』(田坂広志 著 東洋経済新報社刊) p.173〜174)

割り切るのが好きな、短絡的仏教徒、短絡的仏教学者というのは、有象無象、いるものです。
たとえば、仏教では、「究極の理法」というものを、単なる「機械的システム」と考える、ある意味、物的思考パタンを引きずったままの、「唯物論亜種の仏教徒たち」が、世界にも日本にもゴロゴロといます。
しかし、そのアンチテーゼとして、「究極の理法」は、単なる機械的システムではなく、「絶対精神たる無辺の大生命である」という霊的な一元論哲学の世界観があります。

「龍樹の論理学」が、一体どちらにくみする思想であるか、そして、龍樹が意図した「中」の意味は?

本書を読むうちに、皆様は、おのずとご自分けで、その答えを見つけ出すことでしょう。
そうして、「魂の強さ」を持つ、心の力が鍛えられた、「器の大きな人物」へと、人格を向上させ、対話力や包容力を身につけ、そのようにして人間的に弁証法的に発展して行くことでしょう。
本書 『龍樹論理学』 には、まさしく、そのような「霊的な力(パワー)」「浄霊力」 があるのですから。

それでは、これで、第一章を終わることに致します。
  

皆様の上に、主の甘露の慈雨が、豊かに豊かに注がれますように。
また、豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)の如く、主の恵みを豊かに受け取ることができる器となることができますように。
そして、大日の恵みを受けて、豊饒なる実りを成して、それに喜び感謝しつつ、人格とカルマを成熟させて行くことができますように。 


碧海龍雨(あおみ りゅう)






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