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〔自性の真義 その7要件〕 般若心経マスターバイブル後篇第2章


第二章 「自性」の七要件(詳説版) 

 
(空−二−一)
 般若ヨ−ガを深く正しく行じるには「自性・無自性」概念(本書前篇第三章)に精通することが必須です。しかし、「自性」という仏教ジャ−ゴン(専門用語)はとても厄介です。その内容は長い仏教の歴史の中で様々に論じられ、誤解され、混乱しています。
 そして、日本では、「自性」というと、通常、次の二種類の意味で使用されています。
 @ それ
“自”体の“性”質 という意味 
 A サンスクリット語「svabha(−)va」
(スヴァバ−ヴァ)の訳語としての「自性」の意味 (=真主体性)
 
 しかし、敢えてズバリ言うと
−−−<@の用法は廃止すべき>−−−です。
 何故なら、@の意味の「自性」は
「本性」と同義なので、「本性」の語を使えばそれで充分だからです。「心の自性は清浄なり」でも「心の本性は清浄なり」でも同じです。
 ならば、後述する通り、
<Aの用法こそ宗教界を揺るがすほど重大な概念である>ため、これとの誤解・混同を避けるために、@の用法は廃止すべきです。
 
(空−二−二)
 では、Aの「スヴァバ−ヴァ」の意味について、詳しく見て行きます。
 そもそも、「スヴァバ−ヴァ(自性)」とは、インドの仏教修行者が「ア−トマン」を探究する過程で生み出した概念で、
ゼロの発明に匹敵する偉大な発明と言えます。
 「ア−トマン」を探究する事は、「我」について、つまり「主体」について思索することです。そして、ひと度「主体」概念について真剣に掘り下げて行くならば、
「一時的な見せかけの主体」ではない「真の主体」の存在が問題になって来ます。
 まさに、インド仏教の修行者たちは、ブッダの教えを学び、「真の主体」について考究する中で、仮のものに過ぎない「無常なる主体」と、真実不滅である「常恒なる主体」、
この両者を明確に区別する必要を痛感したのです。
 そこで、両者を峻別する道具概念として
「スヴァバ−ヴァ(自性)」概念を導入したわけです。
 即ち、
「真の主体」と言えるためには、「何ものにも依存しない存在」という「条件」が必要であるとし、これを「真主体」に不可欠の「特徴」だとしたのです。(こうした「特徴=要件」を具備した主体を「自性を具備した存在=自性有る存在」と呼びます。)
 
(空−二−三)
 「自性」概念は、インド哲学の中の
「存在論的、哲学的、思弁的な概念」と理解され、机上の学問の一つとして教えられる傾向が有りました。しかし、「自性」概念は単なる哲学的概念ではありません。本来は、インドの瞑想ヨ−ガの実践から生まれた“瞑想技法上”の概念なのです。だからこそ、「無自性の瞑想」を深く行じて行くと、突如「自性の瞑想」へと転換するというマジック(意識のシステム転換)が起こるのです。(後篇第四章参照)
 従って、瞑想行と分離した形で「自性/無自性」概念を論じても無意味です。飽く迄も、これらの概念は「瞑想行上の意識制御の一便法」と捉える必要が有ります。
 
(空−二−四)
 さて、「自性」有る「真の主体」と言えるためには
、「何ものにも依存しない存在であること」が必要−−−このようにインド仏教徒は洞察したわけですが、その内実について、もっと詳しく解析して行きましょう。
 厳密に「自性が有る真の主体」と言えるためには、
「無依存性」を少なくとも次の四局面において貫徹する必要が有るでしょう。
即ち−−−
1) (或る主体に)他の何ものにも依存することなく(完全自主独立の形で自律的・孤立的に)“活動”することができる、という性質(能力)が有ること
2) (その主体に)そうした(無依存で孤立無縁の、完全独立的)“活動を恒久的に継続”することができる、という性質(能力)が有ること
3) (その主体に)他の何ものにも依存することなく(完全自主独立の形で自律的・孤立的に)自身の“存在を存続”させて行くことができる、という性質(能力)が有ること
4) (その主体に)他の何ものにも依存することなく(完全自主独立の形で自律的・孤立的に)自身の“存在を生起(発生)”させることができる、という性質(能力)が有ること

 −−−つまり、
「@活動面 A活動継続面 B存在存続面 C存在発生面」という四局面での「無依存性の貫徹」が、「真の主体」の基本要件として立てることができます。
 以下、この四要件について、詳しく見て行きます。
 
(空−二−五)  
【要件1】
 他の何ものにも依存することなく(完全自主独立の形で自律的・孤立的に)“活動”することができる、という性質(能力)が有ること

 
−−−「真の主体」であるためには、何故こうした性質が必要なのでしょう?
 子供が手に持つ
風車(かざぐるま)を例に取ります。
 風車は、風に吹かれて回転します。それを見ると、子供は「風車が回っている」と言うでしょう。しかし、風車は自分の力で回転しているわけではありません。風車は風力を受けて回転しているだけです。よって、「風車が回っている」という表現は不正確で、厳密には「風が風車を回している」と表現すべきです。
 これを風車の側から言うと、
「風車は風力で“回されている”」ことになります。
 つまり
、「風車の回転は偏(ひとえ)に風力に依存している」状態です。風車は見かけ上の「回転する主体」ですが、自力で回る「真実の主体」ではありません。従って、「真の主体」であるためには、「自力=全部自前のエネルギ−」で活動することができる主体である必要が出て来ます。即ち−−−
<他の何ものにも依存せず、活動の全エネルギ−を自前で賄う(自給自足の)活動主体>〔※註@・A〕−−−である時に初めて「真の主体」たる条件を一つ充たしたことになります。
 
(空−二−六)
【※註@>>>−−−「自性」を「完全“自”主活動“性”」の略と解しても大過ありません。つまり「自性」という名称を的外れな訳語として排斥する必要はありません。>>>註終了】
【※註A>>>−−−
「主体」と「自主活動性」は不可分一体の概念です。もし仮に、「主体」から「自主活動性」を除外したならば、その主体は「完全な静態の存在」となり、死骸と同じになってしまいます。「完全無活動の存在」(また一時的停止ではなく、主体活動再開可能性もない存在)を「主体」と呼べるのか? 答えは「否」です。
 この点からも、「無為」を「完全停止の静態」と解する従来の仏教徒の見解が、如何に誤謬に満ちたものか明らかになります。(前篇第二章以下参照) 
>>>註終了】
 
(空−二−七)
【要件2】
 無依存で孤立無縁の(完全独立的)“活動を恒久的に継続”することができる、という性質(能力)が有ること

 
−−−「真の主体」であるためには、何故こうした性質が必要なのでしょう?
 もしも、(要件1を充足した)「活動の全エネルギ−を自前で賄う活動主体」が存在したとしても、活動を継続しているうちにエネルギ−を全部消費し尽くしてしまい、活動不能状態に陥ってしまうならば、その主体は死骸と同様となり、その時点で「主体」ではなくなります。従って、(一時的ではない)「真の主体」と言えるためには、
屍状態にならないための「永久活動」が必須条件になります。
 
(空−二−八)
【要件3】
 何ものにも依存することなく(完全自主独立の形で自律的・孤立的に)自身の“存在を存続”させて行くことができる、という性質(能力)が有ること

 
−−−「真の主体」であるためには、何故こうした性質が必要なのでしょう?
 もしも、或る主体が活動している最中に、主体自体が徐々に磨耗して、遂には完全に磨滅・消滅してしまうならば、「永久活動」どころの話ではありません。
 よって、(要件1と2の)「自立的永久活動性」の前提条件として、その主体には、自身の存在を永久に存続させる「存在の恒久性」が必要です。そして勿論、「自身を永久に存続させる力」(これを仮に「永久存続力」と呼ぶ)自体も、無依存なる完全独立的な力でなければなりません。何故なら、仮に「他の何か」に依存することで、初めて自身の存在を辛うじて維持できるというのであれば、その依存する「他の何か」が消滅してしまった場合、その主体自体も存続できなくなり、「連鎖倒産」ならぬ「連鎖的消滅」の事態を招くからです。
 つまり、
「存在の存続面」で「他の何か」に依存していては駄目なのです。
 
(空−二−九)
 尚、
「自性要件の概説版」(前篇第三章第六節)では、「損減のないこと」という要件を挙げましたが、これは飽く迄も「概説版」故の便宜的・概括的な言い方に過ぎません。厳密に言うと、その主体が最終的に同一性を保持しながら存続して行けるのならば、多少の損減があっても構わない、と言うべきです。否、「多少の損減」ばかりでなく、九分九厘まで磨滅してしまったとしても、再び元の状態に回復できる能力があるならば、それでも良い、と言えます。
 つまり、途中経過がどうであれ、その主体の「永久存続力」により、最終的に「永久不滅」であればそれで良い、と言えます。
 
(空−二−十)
【要件4】
 何ものにも依存することなく(完全自主独立の形で自律的・孤立的に)自身の“存在を発生”させることができる、という性質(能力)が有ること

 −−−「真の主体」であるためには、何故こうした性質が必要なのでしょう?

 或る主体が、たとえ(要件1と2と3 で見た通り)他のものに一切依存しない「永久存続力+自立的永久活動性」を具備していたとしても、その主体が「他の何か」に依存して「発生」したのであれば、その主体は「自力」で生起したとは言えません。これではその主体を「他の何かが発生させた」ことになり、これでは、その主体は「完全に主体的な存在=真の主体」たり得ません。従って、「真の主体」として、全局面で「完全なる主体性」を貫徹するには、
自己存在の発生面についても自力で行う能力が必須と言えます。(これを仮に「自己存在生起力」と呼ぶことにしましょう。)
 
(空−二−十一)
 尚、先程、要件3の解説で「九分九厘まで磨滅してしまったとしても(…)最終的に永久不滅であればそれで良い」としましたが、もう一歩踏み込むと、こう言えます。即ち−−−
「<有形なる存在部分>が全部磨滅してしまっても、未だ<自己存在生起力>が残存しているならば、有形存在として再生起が可能なはずである。それならば、<自己存在生起力>が残存している場合に限り、<有形存在部分の完全消滅>は、その存在の『完璧なる消滅』には当たらないはずである」−−−と。
 このように深く洞察すると−−−
<一体、無依存なる「自己存在生起力」とは、何なのか?>−−−問題となります。
 ここで提起した概念、<無依存なる「自己存在生起力」>は、他の三つの力(自立的活動力・永久活動力・永久存続力)の
「生みの親」でもある、と言えます。では、こうした「三つの力」をも内在する<無依存なる「自己存在生起力」>とは、何なのでしょう?
 
(空−二−十二)
 ここで、賢明な人々は、提起した
「自己存在生起力」概念の矛盾性に気付くでしょう。
 何故なら、「完全なる無の状態」から「有の状態」に移行する力として「自己存在生起力」を想定したわけですが、本当に「完全なる無」の「場」にあっては「自己存在生起力」すらも無いというしかないからです。この場合、「無依存での存在の発生」は起こり得ません。
 つまり
−−−<そもそも「完全無依存の自己存在生起力」など有り得ない>−−−ということがここで分かるのです。
 −−−従って、先程の要件4は、破棄する必要が出て来ます。
 
(空−二−十三)
 このように深く洞察すると−−−
<万が一、
そこに「無依存なる存在」が在った、としたならば、「自己存在生起力」が有り得ない以上、理由は分からないが兎に角、それは『既に「在って在るもの」なり』と言うしかない>−−−という結論になります。このように正しく思惟すると、「真の主体」と言うためには、「無から発生した存在であること」という要件を持ち出す必要はない、と分かります。
 そうではなく、「真の主体」と言うためには、ただ無窮の過去から「既に在って」、生起した理由は不明のままに、兎に角「在れば」良い、ということになります。
 従って、新たに「第四要件」を立てると、こうなります。即ち−−−

【要件4】
 (理由は不明だが兎に角) 何ものにも依存することなく(完全自主独立の形で自律的・孤立的に)「在って在る」存在であること

 
(空−二−十四)
 この新たな第四要件こそ、「真の主体」を追い求めた時に、最後に突き当たる「真の主体」です。そして、この「真の主体」に関しては、「自性」概念の「全五要件(概説版)」の「第五要件」を導出した時に検討した通り、
「無形・無限の存在」という特徴が必ず随伴する、と言えます。何故なら、「真の主体」に「自立的活動性+永久活動性+永久存続性」という三つの性質が有るならば、当然、この主体は「無限エネルギ−」を具備しているはずであるし、ならば「有限・有形なる形態」に限定されるはずがないからです。
 従って、「在って在る」存在の特徴を浮き彫りにするために、ここでも概説版の第五要件を付け加えた方が良いと言えます。
 
【要件5】
  「無形・無限」の存在であること 

 
 
 (空−二−十五)
 −−−以上で、「真の主体」の特徴が、相当具体的に浮き彫りになって来ました。
 しかし、これだけではまだ不充分です。何故なら、眼前に展開し続けている
万物の「生住異滅」の現象と「真の主体」との相関関係が、これだけでは全然見えて来ないからです。
 そもそも、「真の主体」について深く洞察し始めた根本の動機は、万物の「生住異滅」現象を、如何にその根源まで洞察して看破するか、という点に有ったわけです。だからこそ、「目に見える仮の動き」に騙されずに、万物の動きの根本にまで遡って「目に見えない真の主体」を洞察・看破しようとしているわけです。
 
 (空−二−十六)
 そうして分かったことは−−−<無依存なる「自己存在生起力」は有り得ない>−−−ということでした。
とすると、万物の「生住異滅」の中にも「無依存の自己存在生起力」は無い、と言うしかありません。とすると、真の意味での「(無依存の)存在の発生」は有り得ないことになります。つまり、或る存在が発生したように見えても、それは「無依存に発生した」わけではなく、「(不可視だが)既に在ったもの」が単に「目に見える形に変わっただけ」だと洞察できます。
 このように、深く深く物事の本質を洞察するならば、「真の主体」と「万物の生住異滅」の相関関係も自ずと見えて来ます。
  
(空−二−十七)
 即ち、根源の「真の主体」は「既に在って在る」存在であり、無形・無限にして不可視の存在ですが、
この「真の主体」が“在る”からこそ「万物の生住異滅」も“有る”、という相関関係が認められるわけです。換言すると、「万物の生住異滅」は「真の主体」に「依存して起こる現象」、と言えます。「万物の生住異滅」の中に「無依存の発生や消滅」は存在せず、それらは総て「既に在るもの」の変化形(有機的なバリエ−ション)に過ぎないと言えます。
 すると−−−
<「目に見える万物」は「目に見えない真の主体」の「部分的変化形」に過ぎない>−−−という結論になるしかありません。これが、「真の主体論」を突き詰めた処に見えて来る「一大真理」です。
 
(空−二−十八)
 そこで、「真の主体」としての第六要件として、次の性質(力)が挙げられます。
【要件6】
  何ものにも依存することなく、自らの“存在の一部を有形化して現出”させることができる、という性質(能力)が有ること

 (仮に
「自己存在一部有形化現出力」略して「一部有形化現出力」と呼びましょう。)           
 さて、このように
−−−<「自性有る真の主体」が自らの「自己存在一部有形化現出力」を働かせて「万物」を現出させている>−−−という一大真理を洞察した場合、「自性有る真の主体」を「投影機(プロジェクタ−)」、そこに現出した万物を「(立体)映像」に見立てることができるでしょう。そして、現出した(立体)映像の方は、「真の主体」そのものではないから「自性」は無い、と言えます。
 ということは
−−−
 「自性有る主体」が自身の「一部有形化現出力」を行使して「無自性なる存在」を出現させてている 
 −−−
ということになります。
 これが、この世の真実・真相であり、
「自性有る存在」と「無自性なる存在」との正しい相関関係です。(「真と非真」に関する「五つの喩え」は前篇第二章第二節参照)
 
(空−二−十九)
 ところで、出現した「無自性の存在群」は「相対界」に属するものです。一方、それを出現させ続けている「真の主体」である「自性有る存在」が、無自性物と同じ「相対界」に属すると見ることはできません。何故なら、空間や時間を出現させる「真の主体」が、空間や時間の制約を受け、それに縛られるとするならば、本末転倒の事態になってしまうからです。
 従って、最後に、「真の主体」の第七要件として、次の性質を挙げる必要が有ります。
 
【要件7】
   時空を超越した「不二の絶対界」に「在って在る」存在であること 

(但し、「絶対界」について、何人も正しく認識することはできません。よって、正確な定義は困難ですが、ここでは「相対界を超越した次元の界」を指すものとします。)
 
−−−以上の「全七要件」を具備した存在は、紛れもなく「真の主体」と言えます。
 
(空−二−二十)
 まとめとして再度、「自性」の七要件を確認しましょう。

〜〜〜 <<<「自性」の七要件(詳説版)>>>〜〜〜 

【要件一】
  (或る主体に)他の何ものにも依存することなく(完全自主独立の形で自律的・孤立的に)“活動”することができる、という性質(能力)が有ること (=「自立的活動性」要件)
【要件二】
  (その主体に)そうした(無依存で孤立無縁の、完全独立的な)“活動を恒久的に継続”することができる、という性質(能力)が有ること (=「永久活動性」要件)
【要件三】
  (その主体に)他の何ものにも依存することなく(完全自主独立の形で自律的・孤立的に)自身の“存在を存続”させて行くことができる、という性質(能力)が有ること (=「永久存続性」要件)
【要件四】
  (理由は不明だが兎に角)何ものにも依存することなく(完全自主独立の形で、自律的・孤立的に)「在って在る」存在であること
【要件五】
  「無形・無限」の存在であること 
【要件六】
   何ものにも依存することなく(自在に)自らの“存在の一部を有形化して現出”させることができる、という性質(能力)が有ること  (=「自己存在一部有形化現出力」略して「一部有形化現出力」の具備)
【要件七】
   時空を超越した「不二の絶対界」に「在って在る」存在であること 
 ではこれを、前篇の概説版「自性」五要件(前篇 第三章)と比較してみましょう。

〜〜〜<<<「自性」の五要件(概説版)>>>〜〜〜

【要件一】
  「主体」であること。即ち、活動の根本の起点であること 
【要件二】
   自身の存在の生起について、他の存在に全く依存しないこと 
【要件三】
   自身の存続(=生起の継続)と活動について、他の存在に全く依存しないこと。
      即ち、自身で「存続と活動の根本原因」を具備していること。
【要件四】
   損減のないこと。即ち、自身の活動により磨耗・磨滅して、存続(生起の継続)できなくなってしまったり、遂に消滅してしまう、ということがないこと。
     一口に言うと「常恒不滅の存在」であること。
【要件五】
   無形・無限の存在であること。
 
(空−二−二一)
 ここで
、「概説版と詳説版」、両者の要件の異同を比較検討してみましょう。
(ア)概説版の第二要件は、浅い表現です。これを突き詰めて行くと、詳説版の第四要件になります。
(イ)概説版の第四要件「損減のないこと」は、詳説版の第三要件「永久存続性」の中に吸収されます。
(ウ)第五要件の「無形・無限」に加えて、詳説版第七要件で「時空を越えた絶対性」が追加されています。大乗仏教の「勝義諦/世俗諦」の二分法からすれば、第七要件は当然のことと言えます。
 但し、第七要件は誤解されやすいので注意が必要です。歴史を見ても「絶対性=完全停止の静態」とイメ−ジされがちです(前篇第二章第一節参照)、こうした邪見に落ちることなく、「時空を越えた“動的”な絶対性」について、深く瞑想すべきです。
(エ)過去の歴史では、第五要件すらも欠落させて「自性」概念を考えてしまい、「五位七十五法」に自性を認める邪見も登場しました(前篇第三章参照)が、概説版の五要件だけでは、「他性」概念を認める余地が残っています(「中論」観因縁品参照  ここには、「自性がなければ他性も否定される」という内容が書かれてあり、これは裏を返せば、「自性があるならば他性もある」ということになる余地を含んだものと言えます。)
 そもそも、 
「他性」とは「自性有る存在」から見た他の事物の「自性」を意味します。
 詳説版第七要件を立てると、「不二の絶対界」が想定されるので、「自性有る存在」が二つ以上多元的に存在するとは考えられないことになり、「他性」概念そのものが否定されることになります。
(つまり、
≪≪詳説版の第七要件は、根源的・本質的な「多神論」を認めないことを意味≫≫します。「真の主体」である「絶対界」が複数存在する事は有り得ないという立場です。勿論、表面的な「多神」は「絶対不二の神の変化身(へんげしん)」としてならば、いくつでもこれを認めることができます
これは「絶対である本地」からの
「垂迹的な多神」を認める立場と言えます。尤も、「多神」に関する議論は、結局は「神」の定義の問題と言え、神の特性として「自性」概念を導入すれば、この件の混乱は自ずと終息します。
 
  −−−以上、「自性」概念について深く突き詰めて考察しました。
 次章では、「無自性」概念について、深く突き詰めて行きましょう。
 
  (後篇 第二章 終わり)
 
 

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このページの最終更新日 2003/12/23

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