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般若心経マスターバイブル後篇第7章その6の2


【注意】≫≫≫≫ いきなり 「真髄和訳」 だけを お読みになる方々へ
   いきなり 「真髄和訳」だけを読むと、「真髄和訳」が理解できない可能性も有ります。
   ですから、後篇第七章の「ステップ1〜ステップ4」 を合わせて、お読みになることを強くお勧めします。そこに書かれている「空」の二義または三義を押さえておくことは必要不可欠です。
 また、本書および真髄和訳では、「根源究極の超越神」について「大日空王主(だいにちくうおうしゅ)」という呼称を使用しています。真言密教の大日如来と同じことです。何故、このような呼称を使うかについては
後篇第五章「フォースとパワー」を御覧下さい。

【ステップ5】 「真髄和訳」を用いて読誦・瞑想する  

〜〜〜≪≪般若心経・真髄和訳・入門篇≫≫〜〜〜
「空」には2つの意味が有りますが、そのうちの1つの意味を解きほぐした和訳です。↓↓

以下の日本語訳自体に ≪≪強力な煩悩除去の法力≫≫ が有ります。
名刀・正宗のような切れ味で、あなたの煩悩を鎮静化させます。
あとは、この名刀を自分の煩悩鎮静のために『使用するか否か』の問題だけです。
名刀はあなたに伝授されました。あとはあなたが使って瞑想するかどうかだけです。

★  以下に示す「入門バージョン」は 「空が無自性の意味」 の場合です。
★ 人は−≪自分こそが 自分の身体のオーナーである≫
−と思っているからこそ、オーナーとして好きに振る舞えるのです。(自殺する人は、オーナーとして、自分の体の「処分権限」も持っているから、好き勝手に廃棄もできる、と考えるのでしょう。)
  −−−− サイト表紙に、詳しい説明があります。ホームへ行って下さい。−−−−

−−−≪≪≪ 般若心経・真髄和訳・入門バージョン ≫≫≫−−−

 存在本源の光輝を遍(あまね)く観照し、「相対/絶対」両界を自在に観想する(という)「悟り」への発心堅固な勇者、(即ち)観自在菩薩は、「深甚霊妙なる完全太極叡智(への)帰入行」を行じている時に、(自分の体を)「五要素の集合体」と看破し(た上)、それらのいずれにも、正に「(独立オーナーの如き)独自固有の主体性など有りはしない」と見極めた。(そして更には、それらは正に「太極の本仏の相対界投射相である」と見極めた。)
〔(そうして)一切の苦厄を超越した。〕    
       
                     −−−(以下は「観自在菩薩」の説法)
 シャ−リプトラよ。ここでは、
 (個我を形作っている)物質それ自体は「(独立オーナーの如き)独自固有の主体性を備えていないもの」である。「それ自体に独自固有の主体性を備えていないもの」が実に(個我を形作っている)物質である。
(そしてまた) (個我を形作っている)物質は「無相なる太極の本仏の相対界(への)投射・顕現相」と異なるものではない。「無相なる太極の本仏の相対界(への)投射・顕現相」と(何ら)異ならないものが(個我を形作っている)物質なのである。
(そしてまた) (個我を形作っている)物質は、「それ自体に独自固有の主体性を備えていないもの」でありながら同時に「(自性有る)太極の本仏の絶対界無相法身」でもある。「それ自体に独自固有の主体性を備えていないもの」でありながら同時に「(自性有る)太極の本仏の絶対界無相法身」でもあるものが、(個我を形作っている)物質なのである。
 感官による印象の感受(の場合)も、観念思考力(の場合)も、(生体的・意欲的)造成力(の場合)も、個体意識(の場合)も、全く同じ(事)である。

 シャ−リプトラよ。ここでは、
 (相対界の)総ての「存在・物事・理法」(=諸法)は、「(それら自体、独立オーナーの如き) 独自固有の主体性 というものの不在、という相」をしている。
 (即ち)発生(するという動的状態)(それ自体)に独自固有の主体性など無いし、消滅(するという動的状態)(それ自体)にも独自固有の主体性など無い。汚(きたな)くなる(という動的状態)(それ自体)にも独自固有の主体性は無いし、清潔(きれい)になる(という動的状態)(それ自体)にも独自固有の主体性は無い。増加(するという動的状態)(それ自体)にも独自固有の主体性は無いし、減少(するという動的状態)(それ自体)にも独自固有の主体性は無い(という相をしている)。

 シャ−リプトラよ。この故に、
 「太極の本仏の、(独自固有の主体性不在の)相対界投射相」においては−−−
 (個我を形作っている)物質(それ自体)にも独自固有の主体性は無いし、感官による印象の感受(それ自体)にも独自固有の主体性は無いし、観念思考力(それ自体)にも独自固有の主体性は無いし、(生体的・意欲的)造成力(それ自体)にも独自固有の主体性は無いし、個体意識(それ自体)にも独自固有の主体性は無い。(=五蘊無自性)
 視覚器官にも、聴覚器官にも、嗅覚器官にも、味覚器官にも、触覚器官にも、意識器官にも、(それら自体には)独自固有の主体性は無い。(=六根無自性)
 可視的形象にも、音響にも、香気・臭気物質にも、有味物質にも、感触有るものにも、「(相対界の)存在や物事や理法」にも、(それら自体には)独自固有の主体性は無い。(=六境無自性)
 視覚領域(それ自体)にも独自固有の主体性は無いし、そこから個体意識の領域に至るまで、(六識界総て)(それら自体には) 独自固有の主体性は無い。(=六識界無自性)
 聡明博識(それ自体)にも独自固有の主体性は無いし、暗愚無知(それ自体)にも独自固有の主体性は無い。
(よって)聡明博識は尽きないし、暗愚無知も尽きない。(また、暗愚無知から順次)老いと死に至るまで、(十二因縁の何れにも)(それら自体には) 独自固有の主体性は無い。(よって)老いと死に至るまで(十二因縁の何れも)尽きることがない。(=十二因縁無自性)
 「人生の業苦」にも「悪業累積現象」にも「業苦の止滅」にも「業累解脱の諸方法」にも、(それら自体に) 独自固有の主体性など無い。(=四諦無自性)
 「個人的に経験する働き」(それ自体)にも独自固有の主体性は無いし、(よって)「経験知の個人的獲得」(それ自体)にも独自固有自主体性は無い。
 それ故に、「(個としての)獲得(一切)無し」(との一事)を以て、「悟りへの発心堅固な勇者」たる者、「完全太極叡智」に依拠して、「覆うもの無き心」に住むのである。
 心を覆うもの、絶無となるが故に、(物事に)恐怖することも無く、転倒した謬見(一切)を超脱して、遂に涅槃に入定するのである。
 (また、過去・現在・未来の)三世の何処(どこ)にでも御座(おわ)します諸々の仏陀たちも皆、「完全太極叡智」に依拠して(いるが故に)、「無上の真正・無欠・覚醒境」という正覚(さとり)を円(まど)かに現前させているのである。
 故に、(人は)知るべきである−−−「完全太極叡智」の偉大な真言を。偉大な明智から出た真言を。無上の真言を。無比なる真言を。
 総ての苦しみを鎮める(ことができる)、空虚に非(あら)ざるが故に真実の、「完全太極叡智」に関して説かれた真言を。
 それは即ち−−−
    
 求法   弘法   貫徹ぐ法     貫徹全ぐ法(時)     神覚あれ
 guho  guho kantetsuguho kantetsuzenguho(ji) sinkakuare 
            
  ここに、「完全太極叡智」の「心髄」(についてのお経)を終える。  (下との掛け詞になっている)
  ここに、「完全太極叡智」たる「心(=唯心法界)」(についてのお経)を終える。
 



〔 「空」が「無自性」の意味の場合、その「無自性」を「それ固有の主体性がない」と訳した反芻版 〕

 存在本源の光輝を遍(あまね)く観照し、「相対/絶対」両界を自在に観想する(という)「悟り」への発心堅固な勇者、(即ち)観自在菩薩は、深甚霊妙なる完全究極叡智(への)帰入行を行じている時に、(自分の体を)「五要素の集合体」と看破し(た上)、それらには正に「それ固有の主体性が無い」と見極めた。
〔(そうして)一切の苦厄を超越した。〕    
       
                     −−−(以下は「観自在菩薩」の説法)
 シャ−リプトラよ。ここでは、
 (個我を形作っている)物質は「それ固有の主体性がないもの」である。「それ固有の主体性がないもの」が実に(個我を形作っている)物質である。(そしてまた)
 (個我を形作っている)物質は「大日空王主の相対界変化相」と異なるものではない。「大日空王主の相対界変化相」と(何ら)異ならないものが(個我を形作っている)物質である。(そしてまた)
 (個我を形作っている)物質は、「それ固有の主体性がないもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもある。「それ固有の主体性がないもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもあるものが、(個我を形作っている)物質である。
 感官による印象の感受(の場合)も、観念思考力(の場合)も、(生体的・意欲的)造成力(の場合)も、個体意識(の場合)も、全く同じ(事)である。
 シャ−リプトラよ。ここでは、
 (相対界の)総ての「存在・物事・理法」(=諸法)は、「それ固有の主体性がないものという相」をしている。
 (即ち)発生することにもそれ固有の主体性が無いし、消滅することにもそれ固有の主体性は無い、汚(きたな)くなることにもそれ固有の主体性は無いし、清潔(きれい)になることにもそれ固有の主体性は無い、増加することにもそれ固有の主体性は無いし、減少することにもそれ固有の主体性は無い(という相をしている)。
 シャ−リプトラよ。この故に、
 「それ固有の主体性無き大日空王主相対界変化相」においては−−−
 (個我を形作っている)物質にもそれ固有の主体性は無いし、感官による印象の感受にもそれ固有の主体性は無いし、観念思考力にもそれ固有の主体性は無いし、(生体的・意欲的)造成力にもそれ固有の主体性は無いし、個体意識にもそれ固有の主体性は無い。(=五蘊無自性)
 視覚器官にも、聴覚器官にも、嗅覚器官にも、味覚器官にも、触覚器官にも、意識器官にも、それ固有の主体性は無い。(=六根無自性)
 可視的形象にも、音響にも、香気・臭気物質にも、有味物質にも、感触有るものにも、「(相対界の)存在や物事や理法」にも、それ固有の主体性は無い。(=六境無自性)
 視覚領域にもそれ固有の主体性は無いし、そこから個体意識の領域に至るまで、(六識界総てに)それ固有の主体性が無い。(=六識界無自性)
 聡明博識にもそれ固有の主体性は無いし、暗愚無知にもそれ固有の主体性は無い。(よって)聡明博識は尽きないし、暗愚無知も尽きない。(また、暗愚無知から順次)老いと死に至るまで、(十二因縁の何れにも)それ固有の主体性は無い。(よって)老いと死に至るまで(十二因縁の何れも)尽きることがない。(=十二因縁無自性)
 「人生の業苦」にも「悪業累積現象」にも「業苦の止滅」にも「業累解脱の諸方法」にも、それ固有の主体性は無い。(=四諦無自性)
 「個人的に経験する働き」にもそれ固有の主体性は無いし、(よって)「経験知の個人的獲得」にもそれ固有の主体性は無い。
 それ故に、「(個としての)獲得(一切)無し」(との一事)を以て、「悟りへの発心堅固な勇者」たる者、「完全究極叡智」に依拠して、「覆うもの無き心」に住むのである。
心を覆うもの、絶無となるが故に、(物事に)恐怖することも無く、転倒した謬見(一切)を超脱して、遂に涅槃に入定するのである。
 (また、過去・現在・未来の)三世の何処(どこ)にでも御座(おわ)します諸々の仏陀たちも皆、「完全究極叡智」に依拠して(いるが故に)、「無上の真正・無欠・覚醒境」という正覚(さとり)を円(まど)かに現前させているのである。
 故に、(人は)知るべきである−−−「完全究極叡智」の偉大な真言を。偉大な明智から出た真言を。無上の真言を。無比なる真言を。
 総ての苦しみを鎮める(ことができる)、空虚に非(あら)ざるが故に真実の、「完全究極叡智」に関して説かれた真言を。
 それは即ち−−−
    
 求法   弘法   貫徹ぐ法     貫徹全ぐ法(時)     神覚あれ
 guho  guho kantetsuguho kantetsuzenguho(ji) sinkakuare 
            
  ここに、「完全究極叡智」の「心髄」(についてのお経)を終える。
  ここに、「完全究極叡智」たる「心(=唯心法界)」(についてのお経)を終える。

〔 「空」が「無自性」の意味の場合、その「無自性」を「それ自体(に)真主体性がない」と訳した反芻版 〕

 存在本源の光輝を遍(あまね)く観照し、「相対/絶対」両界を自在に観想する(という)「悟り」への発心堅固な勇者、(即ち)観自在菩薩は、深甚霊妙なる完全究極叡智(への)帰入行を行じている時に、(自分の体を)「五要素の集合体」と看破し(た上)、それらには正に「真主体性が無い」と見極めた。
〔(そうして)一切の苦厄を超越した。〕    
       
                     −−−(以下は「観自在菩薩」の説法)
 シャ−リプトラよ。ここでは、
 (個我を形作っている)物質は「それ自体、真主体性が無いもの」である。「それ自体、真主体性が無いもの」が実に(個我を形作っている)物質である。(そしてまた)
 (個我を形作っている)物質は「大日空王主の相対界変化相」と異なるものではない。「大日空王主の相対界変化相」と(何ら)異ならないものが(個我を形作っている)物質である。(そしてまた)
 (個我を形作っている)物質は、「それ自体、真主体性が無いもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもある。「それ自体、真主体性が無いもの」でありながら同時に「(自性有る)大日空王主の絶対界無相法身」でもあるものが、(個我を形作っている)物質である。
 感官による印象の感受(の場合)も、観念思考力(の場合)も、(生体的・意欲的)造成力(の場合)も、個体意識(の場合)も、全く同じ(事)である。
 シャ−リプトラよ。ここでは、
 (相対界の)総ての「存在・物事・理法」(=諸法)は、「それ自体、真主体性が無いものという相」をしている。
 (即ち)発生することにもそれ自体、真主体性は無いし、消滅することにも真主体性は無い、汚(きたな)くなることにもそれ自体、真主体性は無いし、清潔(きれい)になることにもそれ自体、真主体性は無い、増加することにもそれ自体、真主体性は無いし、減少することにもそれ自体、真主体性は無い(という相をしている)。
 シャ−リプトラよ。この故に、
 「それ自体に真主体性無き大日空王主相対界変化相」においては−−−
 (個我を形作っている)物質にもそれ自体に真主体性は無いし、感官による印象の感受にもそれ自体に真主体性は無いし、観念思考力にもそれ自体に真主体性は無いし、(生体的・意欲的)造成力にもそれ自体に真主体性は無いし、個体意識にもそれ自体に真主体性は無い。(=五蘊無自性)
 視覚器官にも、聴覚器官にも、嗅覚器官にも、味覚器官にも、触覚器官にも、意識器官にも、それ自体に真主体性は無い。(=六根無自性)
 可視的形象にも、音響にも、香気・臭気物質にも、有味物質にも、感触有るものにも、「(相対界の)存在や物事や理法」にも、それ自体に真主体性は無い。(=六境無自性)
 視覚領域にもそれ自体に真主体性は無いし、そこから個体意識の領域に至るまで、(六識界総て)それ自体に真主体性は無い。(=六識界無自性)
 聡明博識にもそれ自体に真主体性は無いし、暗愚無知にもそれ自体に真主体性は無い。(よって)聡明博識は尽きないし、暗愚無知も尽きない。(また、暗愚無知から順次)老いと死に至るまで、(十二因縁の何れにも)それ自体に真主体性は無い。(よって)老いと死に至るまで(十二因縁の何れも)尽きることがない。(=十二因縁無自性)
 「人生の業苦」にも「悪業累積現象」にも「業苦の止滅」にも「業累解脱の諸方法」にも、それ自体に真主体性は無い。(=四諦無自性)
 「個人的に経験する働き」にもそれ自体に真主体性は無いし、(よって)「経験知の個人的獲得」にもそれ自体に真主体性は無い。
 それ故に、「(個としての)獲得(一切)無し」(との一事)を以て、「悟りへの発心堅固な勇者」たる者、「完全究極叡智」に依拠して、「覆うもの無き心」に住むのである。
心を覆うもの、絶無となるが故に、(物事に)恐怖することも無く、転倒した謬見(一切)を超脱して、遂に涅槃に入定するのである。
 (また、過去・現在・未来の)三世の何処(どこ)にでも御座(おわ)します諸々の仏陀たちも皆、「完全究極叡智」に依拠して(いるが故に)、「無上の真正・無欠・覚醒境」という正覚(さとり)を円(まど)かに現前させているのである。
 故に、(人は)知るべきである−−−「完全究極叡智」の偉大な真言を。偉大な明智から出た真言を。無上の真言を。無比なる真言を。
 総ての苦しみを鎮める(ことができる)、空虚に非(あら)ざるが故に真実の、「完全究極叡智」に関して説かれた真言を。
 それは即ち−−−
    
 求法   弘法   貫徹ぐ法     貫徹全ぐ法(時)     神覚あれ
 guho  guho kantetsuguho kantetsuzenguho(ji) sinkakuare 
            
  ここに、「完全究極叡智」の「心髄」(についてのお経)を終える。
  ここに、「完全究極叡智」たる「心(=唯心法界)」(についてのお経)を終える。

(空−七−百六十)
 以上、
「無自性」の意味を解きほぐした上記の文言を繰り返し読誦すべきです。そうすれば、煩悩が一気に鎮静化して行くことでしょう。これは確実です。そして、ここにこそ、般若心経の本当のスゴミ、叡智のヨーガの本当のスゴミ、般若ヨーガの本当のスゴミが有るのです。
 
−−−以下 
前ページの(空−七−百六十一)に続く−−−
      

−−−−更に強力な「般若の鋭利な名刀」による瞑想をお望みの方は−−−
★★★★ 本丸の≪真髄和訳≫が 前ページに あります。 ★★★★

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このページの最終更新日 2005/5/8

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