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般若心経マスターバイブル前篇第2章



第二章 仏教蘇生のための六つの鍵

     第一節 実践的な「無為/有為」二分法          
     第二節 「中道」コンシャス               
     第三節 脚下照顧の超宗教性                
     第四節 「漸悟と頓悟」どちらが正しい?           
     第五節 「大魚の油かけ調理法」の喩え           
     第六節 「ア−トマン(我)」 の意味    

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第一節 実践的な「無為/有為」二分法   

 最初に本書の結論を先取りすることになりますが、結局のところ−−−≪宗教の理想と救いは「超越神との一体化」を成し遂げるところにこそ有る≫−−−と言えます。なぜなら、超越神が具備しているその「超越性」に与(あずか)る事ができて、初めて人間は人としての限界を越えることができ、人間の不完全性から来る「無数の苦しみと災厄」をも超越することが可能になるからです。
 そして、見事「超越神との一体化」を達成した人は、「無為自然」を司る超越神と一体化するわけですから、「無為自然」とも一体になります。
 このことから分かる通り、
老荘思想の「無為自然」の概念は、本来、仏教の中でも五本の指に入るぐらい重要な概念だと言えるのです。
 ところが、
仏教で「無為」というと、老荘思想の「無為自然」とは別の意味になります。

 試みに
、『広辞苑』 『大辞泉』 及び 『岩波 仏教辞典』、三つの辞書の説明を見くらべてみましょう。
−−−【無為】の項−−−−−−−
 『広辞苑』
@自然のままで作為することのないこと
A(仏教用語で)「因縁によって造作されないもの。生住異滅の四相の転変がないこと。特に仏法者の生活。仏門。
B何もしないでぶらぶらしていること。

 『大辞泉』
@何もしないでぶらぶらしていること。また、そのさま。
A自然のままに任せて、手を加えないこと。作為の無いこと。また、そのさま。
B仏語。人為的に作られたものでないもの。因果の関係を離れ、生滅変化しない永遠絶対の真実。真理。

 『岩波 仏教辞典』
  <無為>は一般には何もしないでぶらぶらしていることや、平穏無事なさまをいったり、また老荘思想では、作為的でない自然のままのことを意味するが、仏教では原因や条件(因縁)によって作り出さたものでない、不生不滅の存在をいう。
  涅槃のことを<無為>というが、それは涅槃が生死輪廻を超越した、不変のものであることを表現したのである。(以下略)


 以上で分かる通り、
仏教の「無為」は「有為転変」の反対語なので、「変化・転変のない、絶対的な無変化・停止状態」の「不滅なる存在」といった意味が付与されています。
 つまり
、仏教の「無為」は、有体に言えば、「静態の神」を指しています。
 しかし、「超越神」が
「生きている主体」であるならば、「超越神」は決して完全停止した無変化の存在であるわけがありません。この点の認識は極めて重要です。
 もしも、「完全停止の無為」概念の影響で、「涅槃」概念を「一切の営為の無い、完全停止状態」
と誤解してしまうと、恐ろしい事になります。
 もしも、「営為無き、完全停止状態」を目指して瞑想修行すると−−−
<怠惰と
惰眠に等しい「偽りの瞑想状態」を 本物のゴ−ルと勘違いする>−−−という、とんでもない事態を招くことになります。
 霊界には、こうした勘違いを犯したまま、勝手に「涅槃に入った」と思い込んで「偽りの瞑想」の中に留まり続ける者たちが沢山存在する、と教える書物も有ります。彼らは、高い霊界に進み行く
「健全な成長」がストップしてしまった者たちなのです。否、寧ろ、徐々に退化して下層界へと沈んで行きます。「他の者の忠告を一切拒絶」して、偽りのゴ−ル、偽りの満足の中に留まり続けるので、自分で「勘違い」に気付くまで延々とそのままなのです。
 現世においても、
毎日五時間以上も坐禅瞑想しているのに、一向に霊的進歩が見られない禅僧や修行者がいたとしたならば、この人たちは、「営為無き、完全停止状態という、偽りの理想」を追い求めている可能性が大きい、と言えます。こういう人は、速やかに、謙虚に自己点検する必要が有ります。

 てすから、
正しい瞑想修行をするためには−−−「静態の神」を意味する、仏教の「無為」概念は捨てましょう。そして、替わりに、老荘思想の「無為」を中心に据えましょう。
 
老荘思想の「無為」は、人為・作為を遠く離れた「真理の働き」「真理の営為」を意味します。
 
これは即ち「動態の神」を指している、と理解して良いでしょう。

★ 本書で今後、「無為」という言葉を、老荘思想の「無為」の意味に統一します。

  −−−−−−−−−−−−−−○ −−−−−○ −−−−−−−−−

 では、壮大で霊妙な
「無為」について少し瞑想してみましょう。

 太陽は「無為」の下(モト)、核融合反応を起こして連続的爆発を続け、膨大な光熱エネルギ−を放出し続けています。地球も「無為」の下で自転しています。その「無為」なる地球の自転によって、昼と夜の区別が作り出されます。また、「無為」なる地球の公転によって、春夏秋冬の区別が作り出されています。
 地球は「無為」のバランスによって、太陽との間に、奇跡的で絶妙な距離を保っています。これより近ければ地球は高熱の惑星になって、人類の住める環境ではなくなってしまいますし、今よりも遠ければ、寒すぎる氷の惑星になって、やはり人類は住めなくなってしまいます。 地球は、「無為」の働きの下で、生存と活動に適した「適温」を保っています。
 また、「無為」の重力によって、地球のマグマは高熱化しており、その地熱が温泉を作り出しています。そればかりか、「無為」の力によって、地球は時に応じて地殻変動を起こし、マグマが噴出し、山が隆起し、谷が作られ、川が作られます。
 また、「無為」の太陽の恵みによって、地球の総ての生物は、活動に必要な様々なエネルギ−の供給を受けています。植物は「無為」なる太陽光を受け「無為」に光合成を行い「無為」に栄養素を製造し、「無為」に酸素をも製造して放出します。
 こうして、「無為」に空気中に放出された酸素を、陸上の動物は口から(そして皮膚から)吸い込み、肺を通して血液中を循環させ、そうして「無為」に、身体の細胞の隅々にまで酸素を供給し、自分の体を維持し、活動しています。

 実に、生物は自分の意志というよりも「無為」の働きに支えられて、細胞の新陳代謝を繰り返し、肉体を維持しています。腎臓は血液を濾過して尿を作っていますが、人は自分の意志でこの濾過作業をしているのではありません。「無為」の働きがそれをしてくれています。
 「無為」の働きで、生物の受精卵は分裂を繰り返し、プログラムされた遺伝情報通りの形態へと分化して行きます。そして、「無為」によって生物の種が存続する時は、その遺伝情報が世代を経るごとに多少の変化と分化が起こり、活動形態の多様性を更に増やして行きます。

 以上のような「無為」の例は、大海の一滴、否、一滴未満に過ぎません。
 「荘厳なる無為」の働きは、余りにも壮大無比にして無量であり、想像を絶する規模のものと言えます。
 「荘厳なる無為」の無限無量の営為が、今現在、全宇宙で“同時進行”しています!
 この壮観さ、荘厳さ、圧倒的な営為の力と多様性は、人智の及ぶ処ではありません。

 このように−−−
<「無為」とは、人間の想像を遙かに超えた圧倒的な真理の働き>−−−です。
 「無為」とは、人間の卑小なる「作為/不作為」を遙かに超えた営為です。
 「無為」とは、四六時中、小川のせせらぎが止まらないように、絶え間無く宇宙全土で同時進行形で展開され続けている「神の営為」であり、「神の呼吸」であり、「神の意識作用」なのです。

  −−−−−−−−−−−−−−○ −−−−−○ −−−−−−−−−

 さて、仏教の「無為」と老荘思想の「無為」が全く別の意味だったのと
パラレルな関係ですが、仏教の「有為」と老荘思想の「有為」も、全く別の意味になっています。
 試みに
、『広辞苑』『大辞泉』及び『岩波 仏教辞典』、三つの辞書の説明を見てみましょう。
−−−【有為】の項−−−−
 『広辞苑』 仏語。さまざまな因縁によって生じた現象、また、その存在。絶えず生滅して無常なことを特色とする。有為転変。
 『大辞泉』 仏語。因縁によって起こる現象。生滅する現象世界の一切の事物。
 『岩波 仏教辞典』
 <有為>は(…)老荘思想では<無為>と対比して用いられ、人為的なあり方を意味する。仏教では<うい>と読み、さまざまな原因や条件(因縁)によって作り出された一切の現象をいう。(…)われわれの生存している世界は、すべて生じては変化し、やがて滅してゆく諸現象、諸存在によって成り立っている。<有為転変>という語もこのことを意味している。

 これで分かる通り、『広辞苑』『大辞泉』には、
老荘思想の「有為」の意味は、説明すらされないで、カットされています! 
 しかし、正しい瞑想を行うには、老荘思想の「無為」を基本にすべきである事は前述した通りです。従って、
「有為」についても、老荘思想の「有為」を基本にすべき事になります!

 「無為」が、人間の卑小なる「作為/不作為」を遙かに超えた営為であり、四六時中、流れ続ける小川のように、絶え間無く宇宙全土で同時進行形で展開され続けている「神の営為」であるとするならば、
この真理の流れと「反対の流れ」こそが、「有為」とされるべきです。
 このように認識すると、「有為」の正しい定義が、自ずと立ち現れて来ます。
 
「有為」とは、「荘厳なる無為」の流れを妨げる「人為」であり、
 「有為」とは、「荘厳なる無為」の流れに逆行する人間の自我の作為と不作為であり、
 「有為」とは、自我が無知・無明状態の時に生産して止まない<「無為」に逆行する自我の営為>
と言えます。
 ただし、ここで、
重大な注意ポイントが有ります。
 
「自我の営為」全部が「有為」なのではありません。飽く迄も、「無為」の流れに逆行する自我の流れだけが「有為」と称されるべきです。
 
総ての「人為」が「有為」なのではありません。飽く迄も「無為」に違背する「方向性=逆行性」を持った「作為・不作為」だけを「有為」と呼ぶわけです。
 また、
自我意識の総てが「有為」なのでもありません。飽く迄も「無為」の流れに離反・逆行する自我意識だけを「有為」と呼ぶのです。

★ 本書で今後、「有為」という言葉を、老荘思想の「有為」の意味に統一します。

  −−−−−−−−−−−−−−○ −−−−−○ −−−−−−−−−

 以上の考察を基に、
「荘厳なる無為」と「人間の有為」とを比較検討してみましょう。

 「荘厳なる無為」は、全宇宙的同時進行の壮大な営為です。
 そして、総ての人間は、「荘厳なる無為」という大海に取り囲まれて、その中で誕生し、生活し、死を迎え、種を存続させています。
 「荘厳なる無為」の働きがなければ、人間は意識を持つこともできないし、思考することもできないし、生きていることもできません。
 そして、「人間の有為」は「荘厳なる無為」の活動に下支えされているからこそ、その上に乗っかって「我がもの顔に」活動できている、癌細胞のような「営み」に過ぎません。

 
人間は、「荘厳なる無為」という「大海」を泳ぐプランクトンの如き存在です。
 壮大なる「無為」の営みに較べれば、「人間の有為」は余りに僅少なものです。地球全土の総ての人間が、自分たちの「有為」の力を全部結集しても、宇宙全土の壮大なる「無為」の営みを破壊することも、ゼロから創り出すこともできはしません。
 「荘厳なる無為」は、余りに壮大で、余りに圧倒的で、人智を遙かに上回っています。
 一方、「有為」は、余りに微小で、余りに愚劣で、余りに取るに足りないものです。

 西遊記には
「(巨大な)釈尊の掌中の孫悟空」の喩えが有ります。しかし「荘厳なる無為」と「人間の有為」との差異は、この喩えの比ではありません。全宇宙の「無為」の壮大無比な働きは、余りに壮大で圧倒的であり、「有為」の力は余りにも僅少微細なものです。
 
両者の力の格差がどれ位大きなものか−−−骨の髄まで能々(よくよく)感じ取ることこそが、仏教の「正見・正思惟」のための重要な鍵になります。
 もしも、人間が
「有為」の力で「荘厳なる無為」に闘いを挑むならば、それは太陽に闘いを挑む「ばい菌一匹」のようなものと言えます。

 因みに、我欲が肥大して「無為」の偉大さが全く見えなくなっている者は、愚かにも「荘厳なる無為」に戦いを挑みます。こうした「神の御意志=流れ(法)に逆らう者」を
「修羅道に生きる者」と言います。けれども、永遠に「修羅道」に生き続けることはできません。
 やがて、因果応報の業罰に苦しみ、自分の愚昧ぶりが骨身に滲み、懲り懲りする時がやって来ることでしょう。
 では、いつ「その時」がやって来て、人は軌道修正するのでしょう? 
 これは結局、「無為」の流れに反している時の
「逆行の感覚」が鋭敏か否か、の問題と言えます。
 これについては、
仏教に−−−<四馬の喩え>−−−が有ります。
 御者の鞭と馬の関係に見立てたもので、鞭の影を見ただけでぞっとして御者の意に従うのは
感覚鋭敏な「一番賢い馬」です。「二番目の馬」は鞭が自分の体毛に触れた時に驚愕して御者の意に従います。「三番目の馬」は鞭が自分の肉に触れた時に驚愕して御者の意に従います。「四番目の最も鈍く鈍感な馬」は鞭が自分の骨にまで食い込むほどに打ち下ろされて初めて苦痛に身を捩って正気に戻り、やっとのことで御者の意に従います。

 これで分かる通り、
霊的に愚鈍・鈍感・粗雑で下根の者ほど「恐れを知らず」、よほどの酷い目に遭わないと正気に戻らない、と言えます(他に「ラクダは血を流しながらサボテンを食べて懲りない」という喩えも有ります)。一方、聡明で感性鋭敏な上根者は、僅かな事からも事の本質を洞察し、その中に含まれる「神のメッセ−ジ」を正しく読み取り、素早く軌道修正します。
 尚、「修羅の道」を歩んでいた者としては、
キリスト教のサウロの例が有名です。
 伝道者パウロとなる以前の彼は、熱心過ぎて偏狭なユダヤ教徒であり、イエズス・キリストの迫害にも熱くなっていたのですが、或る時
「棘(トゲ)の付いた棒(鞭)を蹴れば、ひどい目に遭う(=あなたが痛いだけである)」(新約聖書 使徒言行録 26章14節)との天声を聞き、疑う余地のない天罰の体験を経て劇的に改心し、「キリストの律法」を説く使徒に変身したのでした。

  −−−−−−−−−−−−−−○ −−−−−○ −−−−−−−−−

以上の通り−−−
<覇権は常に「荘厳なる無為」の方に有る>−−−これが不動の法です。霊性修行者は、この事を肝に銘じる必要が有ります。
 「無為」の勢力は、既に人類総ての「有為の塊」を完全に圧倒しており、勝負は既に決着しているも同然なのです。「有為」が「無為」に代わって覇権を握ることは、決して有り得ない事なのです。「この道理」を理解できるようになると、
心に平安が訪れます。「暗黒の絶望」から脱却して、「無為」の働きに希望と信を置くようになり、くだらない「有為」に依り頼むのを止めるようになります。

 
「無為」の大海の中に、泡沫のような「有為」が漂っています。「有為」がいくら増殖しても、「有為」が「無為」の大海に取って替わることできません。「無為」が「この範囲だけは<有為>の自由活動スペ−スにしてあげましょう」と許可した範囲に限って、「有為」は存在でき、そこで活動しているのです。この道理を理解できる人は幸いです。

<覇権は「有為」の方に有り>−−−このように勘違いする者は
「本末転倒した見解」を持つ者です。この本末転倒を皆が是正するならば、速やかに正法の世が到来します。
 
「有為」こそが「諸悪の根源」だからです。
 「有為」を愛する者、無知の海を泳ぐ者は、短絡的・刹那的・享楽的な日々を過ごして、悪業の累積生活を続けます。そうしてやがて、悪業の自動的反作用で「悪い運命」が到来し、痛苦と不幸と悲惨の泥沼に引き込まれ、そこから脱出できずに長い間、地獄のような苦しみを受ける羽目になります。
 これが厳然とした因果律にして
愛の鞭です。「荘厳なる無為」による「穢れの浄化のためのサンドペ−パ−掛け」の痛苦なのです。

 人間たちが、「荘厳なる無為」の流れに逆らって、
どんなに正法に蹴りを入れ、正法を足で踏み躪(にじ)っても「荘厳なる無為」の覇権は寸毫も揺らぐことはありません。
 そうすることで、結局、損をして苦しみ、傷付き、痛い目に遭うのは、無謀な戦いを挑んだ本人たちだけです。
 
「無為」の働きと覇権について知ること−−−これが祝福の道、光の道です。
 このような「本末転倒」を正すのが、真の仏教です。
 マインドの「有為」が無くなれば、明鏡止水となり、満月の光が凛々と反射反映します。

     
 では、まとめに、この項の内容を約して一句詠んでみます。

            
 都機(つき)冴ゆる 有為の奥山 今宵(けふ=きょう)越えて

                               (「都」は「全」の意味なので、「全機」の意味になります。)



第二節 「中道」コンシャス   

 振り子が一方の端から他方の端に振れるように、「一方の極端が駄目なら、もう一方の極端を選ぶ」−−−このような「エゴの傾向」を持つ人は、少なくありません。
 しかし、
何事でも、過不足の無い「中道的な絶妙のバランス」こそが、とても大切です。
 前章で見た通り、
「無為」の働きは「真理の働き」であり、過不足が有りません。
 「無為」の流れに乗るには、「行き過ぎ」という「有為」を避ける必要が有ります。

 対立するもののない「絶対界」では「中道」概念は成立しません。しかし、相対界には相反する二者、即ち「正反対のもの、両極端のもの」が存在します。よって、このような環境の中では、「中道」概念が発生します。
 
中道は、相対界の中の「配分の妙」即ち「目に見えない絶妙な匙加減」の中に存在します。 中道とは、相対界にあって、「過不足のない絶妙な案配(バアイン)」を成就し続けて行くことです。

 
中道は「過不足の反対概念」と言えます。よって、「過不足」の生じる所には(それを是正する)中道もまた有り得ることになります。そして、何を為すにも過不足が有り得る以上、何を為すにも、中道もまた有り得ることになります。つまり、中道とは何事においても成立する概念であり、政治や仏教の専売特許(の概念)ではないわけです。
 しかし、本書は、
「仏教の中道」に絞って解説をして行きます。
 仏教の中道では、次の
二種類の中道について、確実に押さえておくことが肝要です。



(T)「修行の仕方における中道」                
(U)「世界認識の仕方(又は『空』の認識の仕方)における中道」



   −−−以下、順番に説明して行きます。


(T)「修行の仕方における中道」について 
 「修行の仕方における中道」とは
「苦行に偏る極端」と「安逸を貪る極端」とを避けるバランス感覚について教えるもの、又は「難行に偏る極端」と「易行に偏る極端」とを避けるバランス感覚について教えるもの、又は「禁欲の厳格に偏る極端」と「快楽の放縦に偏る極端」を避けるバランス感覚について教えるもの、と言えます。
 また、もっと言うと、修行における中道とは、修行の「行」の中から、「完全なバランス」を乱す原因となる
「有為の要素」をどうやって取り除いて行くか、その方法について教えるもの、と言えます。

 安楽・安逸を貪ったり、簡易な「行」をちょっとしかやらないのは
、@怠惰な精神、A肉欲的な心、B志の低さ、C向上心や正しい渇望心が希薄であること、D利己的であること、E鈍重で粗雑な感覚の中に住んでいること、等々に原因が有ります。
 また逆に、不自然な形で頑張り過ぎて難行苦行ばかりしてしまう人は、
「高慢でせっかちな者」と言えます。目的の達成を焦り過ぎるのです。身の程を知らない、とも言えます。
 そもそも、「過不足」は「有為の産物」ですから、エゴの「有為」を取り除かなければいけません。
 しかし、ここで陥りやすい
「落とし穴」は−−−
<「有為」の力で「有為」を止滅させよう>−−−とすること
です。
 これは
「悪事」を行う主体が、その「悪事」を止めよう、とする事と同じなので、当然、うまく行くはずがありません。
 では、どうすべきか?
 勿論、「有為」の活動を止滅させるには、「無為」の力を借りることが必要になります。
<「無為」の力で「有為」を縮減して行く>−−−これが、正しい修行法と言えます。
 具体的には、「正しい祈り」や「正しい瞑想」や「できる限り無私なる奉仕」を実践すること等々の方法になります。(その「正しい瞑想法」の一つを、本書が解説しています。)


(U)「世界認識の仕方(又は『空』の認識の仕方)における中道」について
 仏教で説かれるもう一つの中道、即ち、大乗仏教で説かれる「世界認識の仕方(又は『空』の認識の仕方)における中道」は、次の
−−−<二種類の極端な見方>−−−を回避するように教えるものです。
 
一方の極端は、「世界は総て幻の如きものであり、実体が無いものである」として、あらゆる存在の実在性について完全に全否定する見方です。(よって、善悪や法律なども軽視する方向になります。)
 この種の見解を持つ人は、無神論者と同様の「厭世主義」や「虚無の沼」に落ち込むか、又は「無責任なまま詭弁を弄して、平気で罪悪を重ねる状態」に陥ります。(この見解は「オウム真理教」などに見ることができます。)
 
他方の極端は、「世界は総て実体が有るものだ」として、あらゆる存在の実在性を全肯定する見方です(法華経の「諸法実相」の文言をそのまま真に受ける見解とも言えます)。
 この種の見解を持つ者は、堕落と向上との区別を見失い、放縦と持戒との区別を見失い、善と悪との区別を見失い、そうして、総ての行動を良しとして肯定し、
総ての煩悩を良しとして肯定し、結局、因果応報の法則をも見失い、それによって聖なる叡智をも喪失し、自己弁護の詭弁の中で、悪業を重ねて、遂には底無しの罪悪の暗闇の中に落ち込んでしまいます。

 このように、
両極端の見方に陥るのを避けて、絶妙な案配で観想し、真理を正しく、あるがままに洞察するのが、「空観における中道(=中観)」です。
 この立場では、闇雲に「否定の剣」を振り回して全否定することもなく、闇雲に総ての現象を全肯定することもなく、その中間の立場で、
物事の表層の現象に関しては、無常であり実在性は無いと言えるが、それらの深奥における営為の根源には不滅の実在性が認められると、正見します。
 
これこそが−−−
<世界を「真と非真との(表裏一体の)混成体」と見る>−−−
絶妙なバランスの空観(=中観)です。

 この
<世界を、真と非真との(表裏一体の)混成体>と見る「中観」は、非常に高度な霊的ヴィジョンなので、凡人が簡単に理解できるものではありません。そこで、修行者の理解の便宜のために、次に五つの比喩を挙げましょう。


〜〜〜〜〜<中観のための五つの喩え>〜〜〜〜〜〜〜

1) 真と非真の関係は、「金と金細工の関係」に譬えることができます。
 金は金属の中でも変質や腐食をしないものであり、極めて安定度の高い素材です。それ故、人間社会では貴金属として非常に尊ばれます。こうした点からして、金は「永久不滅の真」に見立てることができます。
 一方、(金によって細工された)金製品の無数の形態は、そのどれ一つを取ってみても「これが金の永久不滅の本性(実相)だ」と言える「真」に当たるものは一つもありません。それ故、金の無限に変化する形相は、どれも皆「無常なる非真」に見立てることができます。

2) 真と非真の関係は、「水と(雪祭りなどで見られる)氷の彫刻物の関係」に譬えることができます。
 氷は直ぐ溶けて水になってしまうので「無常なる非真」に見立てることもできます。しかし、別角度から見ると、水素と酸素の化合物としてのH 2Oは安定的な物質であり、「水蒸気、水、氷」という三つの態様に変化しても、H 2Oとしての化学的組成は変わりません。この点からして、(飽く迄も一応)H 2Oは「永久不滅の真」に見立てることができます。
 一方、「真」に見立てた水が結晶化すると氷に化(な)ります。この氷で細工された氷の彫刻物の無数の形態は、そのどれ一つを取ってみても「これがH 2Oの永久不滅の本性(実相)だ」と言える「真」に当たるものは一つもありません。
 それ故、氷の無限に変化する形相はどれも皆「無常なる非真」に見立てることができます。(尚、水と氷の彫刻物の関係を、ガラスとガラス工芸品に置き換えも可能。)
 
3) 真と非真の関係は、「深海と海面の波との関係」に譬えることができます。
 深海には外界の喧騒とは隔絶した深い深い静寂の世界が広がっています。深海は、高い水圧のかかる密なる状態にあり、海水が満ち満ちて遍満しており、均一均等に存在する状態にあります。そして、海水は有形物として生起することなく(=不生)、滅することなく(=不滅)ただ満々としてそこに在ります。こうした点からして、深海は「不滅不生の絶対界の真」に見立てることができます。
 一方、海面の波は、有形なる物として、出来ては消え、出来ては消え、無数に生成と消滅を繰り返しています。そして、同じ波は二つとありません。これら無数の波の無数の形態は、そのどれ一つを取ってみても、どれも単なる波に過ぎず、「これが海の不滅不生の本性(実相)だ」と言える「真」に当たるものは一つもありません。それ故、海面の波の無限に変化する形相は、どれも皆「無常なる相対界の非真」に見立てることができます。(尚、宇宙船に乗って地球を外から見れば、地球の底辺では海は下を向いていて、「深海は上、波が下」に有るように見えるでしょう。これに倣って「不滅不生の絶対界の真」を上に置き、「無常なる相対界の非真」を下に置くというイメ−ジを抱いても良いでしょう。)

4) 真と非真の関係は、「映写機と銀幕上の映像との関係」に譬えることができます。
 映写機は映像を銀幕に投射し、銀幕上に映像としてのあらゆる物事を有らしめ、活動させる根源の存在です。この点からして、映写機は、(現実世界の)森羅万象を有らしめ、活動させている「本源の本性(実相)である真」に見立てることができます。
 一方、銀幕上の映像は、1コマ1コマ、目にも止まらぬスピ−ドで流れ去り、移り変わっています。そうして、無数の「像」という形態が出現しては消滅することを繰り返しています。これらの映像は、飽く迄も単なる映像に過ぎず、どの映像の1コマを取ってみても、「これが映像の本性(実相)だ」と言える「真」に当たるものは一つもありません。それ故、銀幕上の映像の無限に変化する形相は、どれも皆「表層の非真」に見立てることができます。

5) 真と非真の関係は、「未来型立体映写機と(光を反射する微細な特殊粒子を空気中に噴霧した)空間上の立体映像の関係」に譬えることができます。(これは第四の譬えを一歩進めたものです。)
 未来型立体映写機は、空間に立体映像を投射し、投射空間に立体映像としてのあらゆる物事を有らしめ、活動させることができる存在です。この点からして、この未来型立体映写機は、(現実世界の)森羅万象を有らしめ、活動させている「本源の本性(実相)である真」に見立てることができます。
 一方、空間上の立体映像は、恰も其処に本物の事物が有るかの如き臨場感に溢れる映像として出現し、その立体映像が、見る者の前で生き生きと躍動し、数々のドラマを繰り広げます。そうして、無数の立体の「像」という形態が、見る者の前に出現しては消滅することを繰り返しています。これらの立体映像は、飽く迄も単なる映像に過ぎず、どの立体映像一つを取ってみても、「これが立体映像の本性(実相)だ」と言える「真」に当たるものは一つもありません。それ故、空間上の立体映像の無限に変化する形相は、どれも皆「表層の非真」に見立てることができます。
(尚、この比喩を更に一歩進めて、現実には有り得ないとしても、単なる立体映像であるばかりか、「触感」を伴う立体映像を可能にした未来型立体映写機が発明されたことを想定してみると、一層、現実世界の関係に近づく比喩になります。)

 ★これ以降の詳細は、『真我瞑想法スートラ』第七章参照のこと

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 真と非真の関係をこのように見る空観(=中観)について、中途半端な理解しか持たない一部の仏教徒は、次のような異議を唱えることでしょう。即ち−−−
「般若心経には『色即是空、空即是色』以下、総てに実体が無い、と書いてある。総てに実体が無いとは、総てが非真であるということを意味する。つまり、『真は一切無い。総て非真。総ては無常』。これこそが仏教の真理ではないか」−−−と。
(この見解は、前述の通り、全存在の実在性について完否定する極端な見方です。こうした見解を持つ者は
「方広道人」と呼ばれ、外道と評価されました。前篇第三章参照)

 
「表面だけ切って、全部は切らない」という 
「イカ表面の網目切り」のような手加減こそが、
仏教における
「否定の剣」の正しい使い方です。
 
一つの言葉(聖言)にこだわり過ぎれば、バランスを失い、過不足を生じます。しかし、中道のバランスにこだわるならば、過不足は生じません。どちらを優先すべきかは、一目瞭然でしょう。
 人は誰でも、練習さえすれば、一人で自転車を漕ぐことができるようになります。これと同様に、人は誰でも、
中道を感知するバランス感覚を発動させ、それを活発・鋭敏に働かせるように普段から心掛ければ、徐々に中道感覚は磨かれて行きます。
 そうなると、その人はもう「般若心経には『総てに実体が無い』と書いてある」とは言わなくなります。
 般若心経の文言は前と同じで変わりません。しかし、
般若心経を解釈する人の態度と感覚が変わるのです。
 否定の剣は、目的無しに振り回してはいけません。この鋭利な剣は、非真なるものを切り落とすだけでなく、
真なるものを明らかにする目的のためにこそ、使用しなければならないのです。そして、このことに気付く時、その人は初めて「釈尊の手法(叡智のヨ−ガ)」を理解し始めるのです。
 「釈尊の手法(叡智のヨ−ガ)」を理解して、正しい態度と感覚で般若心経の解釈に取り組むならば、般若心経は、世界を「真と非真との(表裏一体の)混成体」として認識する絶妙な中観の立場から、その世界観を朗々と詠い上げていることが分かるようになります。
 般若心経は、先の「五つの喩え」と別の事を言っているわけではないのです。

 般若心経の内容を「真と非真との(表裏一体の)混成体」と看破し、
「正しい中観」の立場を堅持した日本人の代表としては、弘法大師空海を挙げることができます。何故なら、彼の著作である「秘密曼陀羅十住心論」の構成を見ると、第九住心以下を「非真」に配当し、第十住心だけを「真」に配当する記述となっており、ここにその証左が見られるからです。
 また、世界を「真と非真との混成体」と看破して
「正しい中観」に立脚したインド人は数多く居ます。釈尊は勿論の事、クリシュナ、シャンカラ、ナ−ガアルジュナ、ラ−マクリシュナ、ヴィヴェ−カ−ナンダ等々が挙げられます。〔※註@〕
〔※註@≫≫≫−−−
これらのインド人は、不二一元(アドワイタ)の霊的ヴィジョンの立場、即ち「中観」の立場からの言動を残しています。その証左は次の書物に見出せます。
 クリシュナに関しては「クリシュナバ−ラタ」や「バガヴァッド・ギ−タ」、シャンカラの著作に「ブラフマス−トラ釈義」、ナ−ガアルジュナには「中論」、ラ−マクリシュナは「ラ−マクリシュナの福音」、ヴィヴェ−カ−ナンダには「ギャ−ナ・ヨガ」等々です。
−−−≫≫≫註終了〕
      
 最後に、この項をまとめて、
三福のス−トラ(経)にしてみました。
一、
中道の「絶妙な案配」を熱心に希求する者は幸いである。その者は、首尾良く光の中を歩み、健やかな喜びを味わいつつ、健全な成長を遂げることができるからである。
二、
中道の「絶妙な案配」を熱心に希求する者は幸いである。その者は、「有為」の悪業を超え行く「最良の道」を進み行くことができるからである。
三、
中道の「絶妙な案配」を熱心に希求する者は幸いである。その者は、千の花弁が見事に咲き揃うように、豊かな種芸種智を実らせる才能開花の(無限)大乗の大道を、楽しみながら安全確実に、悠々と、そして颯爽と、歩むことができるからである。 


第三節 脚下照顧の超宗教性          

 脚下照顧がちゃんとできない状態で、「般若心経」を読誦・朗誦したり解説したりしても、それはお笑いぐさでしかありません。何故なら、般若心経の「空」は脚下照顧の観想をすることで会得できる境地だからです。
 そこで、「脚下照顧」について簡単に説明致します。
 
「脚下照顧」は和文的四文字熟語で、元々は「照顧脚下」(脚下を照顧せよ)という中国の禅語です(「禅林類聚」第二十巻等々)。
 「照顧」の「照」は観照の「照」、「顧」は顧慮の「顧」と言えます。よって、
「照顧」とは、注意を集中して観察・洞察し、深く思慮・顧慮することです。また、ここでの「照」を、それまで意識せずに看過ごしていた処(暗部)に意識の光を「照射する」ことと解し、「顧」を、理性の光を働かせてじっくり「顧みる」という意味に解すると、「照顧」の意味も一層鮮明になることでしょう。
 次に、
「脚下」とは、脚跟下(きゃっこんか)とも言い、「足元」の意味です。但し、「物質的な足元」を意味するわけではありません。
 
霊的な意味での「脚下(=足元)」とは「自己の依って立つ処(立脚基盤)」「自己の存在基盤・活動基盤」という意味です。自己の存在基盤・活動基盤について無知であるならば、「灯台下暗し」との謗りを免れません。
「一体、自分の自我は、どのような存在基盤の上に立って存在しているのか」
「一体、自分の自我は、どのような活動基盤の上に立って活動しているのか」
 このように、真剣に観察し、自己を究明し、自己の立脚基盤について明々白々に自覚する必要が有ります。
 これが、脚下を照顧することです。外界にばかり気を取られることを止めて、自己の内側の一番深い処に眼を向けることが、脚下を照顧することです。

 また、自分の心の動きをできる限り客観的立場から観察し、邪心が蠢き始めた時には、それを察知して、すぐさま「その邪心の動きの行く先は何処なのか」と、思索します。そして、邪心の動きは「結局は実りのない動きなり」「無常なものに過ぎない」と正しく見詰めて評価を下します。そして、「邪心の活動は悪いカルマ(業)を作り、後に悪果の苦しみを招くことは必定なり」と、因果応報の法則を心に喚起し、そして「そうした悪果が自分は望んでいるのか?」と自問します。
 このような形の「霊的な思惟作用(理智力)」で、正しい方向へと自分を説得して連れて行き、邪心の動きを止める(又は弱める)ことができれば、しめたものです。
 このように、自己の霊的理智力を活発に働かせて
<邪心と対峙して行く心の活動>−−−もまた、脚下を照顧することです。

 ここで、
脚下照顧という内観技法の「超宗教性」について、是非ともしっかり理解して戴きたいと思います。「超宗教」とは「諸宗教の枠組みを越えた宗教」という意味です。(「超党派」と言えば、党派を超えたものを意味するのと同様の言い方です。)
 
そもそも、「脚下照顧」は、本来的に超宗教的な瞑想技法です。
 何故なら、「私はこの宗教を信じる」とか「私はこの聖典を信じる」とか「私はこの教祖を信じる」とか「私はこの教義を信じる」とか「私はこの教団を信じる」とか「私は一生涯、これに属してこれを信仰して行こう」等々と考えるのは、
自我としての「私」であり、こうした信仰の大本(オオモト)<「我」それ自体>を観察して行くのが、脚下照顧だからです。
 もし仮に、地球に
百億の異なる宗教が有ったとしても、百億の宗教が問題なのではありません。それらを選び取り、それを信じ込んで行く「私という主体」が問題なのです!
 「どういう心理でそれを選び、信じ込んで行くのか」という「自我の動きそれ自体」を観察・調査・解析して行くことが問題なのです。
 
教義が問題なのではありません。或る教義を信じ込んで行く「自我それ自体」を解析して行くことが問題なのです。
 
信じることが問題なのではありません。信じるという心の動きや、疑うという心の動き等々の「自我の動きそれ自体」を洞察し把握して行くことこそが問題なのです!
 以上、外界の諸宗教を問題にせず、それらを信じる「私という我(主体)」の方を問題にする−−−その意味で(諸宗教の枠組みを越えた)超宗教的な観察技法−−−それが脚下照顧であるわけです。
 


第四節 「漸悟と頓悟」どちらが正しい? 

 「漸悟(ぜんご)」とは、少しずつ漸次、段階的に高い境地に入って行き、やっと悟りに入ることを意味し、「頓悟(とんご)」とは、一足飛びに突如、直ちに悟りに入ることを意味します。
 宗教では、いつの時代も、インスタントメニュ−が好まれるので、歴史的には「頓悟派」が優勢で、「頓悟の方が漸悟より高い法理を示している」とされます。
 では、真相はどうなのでしょう。
 
本当は、「どちらが優っているか」とか「どちらが正しいか」などは愚問なのです。
 真の「悟り」に「入る状況」の真相について、
「二つの喩え」を出しましょう。
1) 飛行機の離陸の喩え  
 飛行機が離陸する時は、滑走路を走り出し、どんどん加速して行き、一定以上のスピ−ドに達した時に、車輪が「突如」地面から浮き上がり、さっと空中に浮かび、離陸します。
 これと同様に、「悟り」に入る瞬間は「突如、直ちに」と言えます。しかし、その状況になるには、「滑走速度の加速」という漸進的な準備段階が必要不可欠と言えます。
 
2) 月面宙返りの技の喩え
 体操の着地の技、ム−ンサルトをマスタ−しようとして、毎日段階的に少しずつ練習していたとしましょう。すると、ある日、突然ム−ンサルトがマスタ−できます。しかし、この瞬間を迎えるには、毎日の積み重ねが必要不可欠です。



第五節 「大魚の油かけ調理法」の喩え            

 <人間とは「無為」の大海の中を泳いでいる「有為」を抱えた個体>と言えます。「有為」が邪心です。そして、宗教とはこうした「邪心・有為」を縮減して行くための教えです。
 そして、
その方法が「礼拝」です。超越神を礼拝した時、礼拝者の「邪心・有為」が増大するならば、それは「真の礼拝」ではありません。
 礼拝者の「有為」が礼拝前よりも減少する効果が有るもの−−−それが「真の礼拝」です。

 ところで
、「有為」の力で、自分の「有為」を減少させることはできません。よって、「有為」縮減のためには、「無為」の力に依り頼む必要が有ります。
これで分かる通り
−−−<「真の礼拝」とは、「無為」の流入を求めて「無為」の力で「有為」を縮減・駆逐しようとする行為>−−−と言えます。「無為」の働きが前面に出て来ると、邪心の代わりに「純真と諸美徳」が前面に出て来ます。

 ところで、怠け者は、「真の礼拝」を毎日行うのは何とも面倒くさいと感じるので、
「一回の礼拝で<無為の無限流入>が起こり、自分の<有為>を一気に全部押し流して欲しい」と考えてしまいます。
 けれども、そんなにうまい話が有るはずがありません。
 「礼拝」と「無為の流入」に関しては、次の
二つの法則が存在しています。

1)「無為」を求める「渇望」には、人によって強弱の差が有る。           
2)「無為の流入」は、礼拝者の「渇望の強さ」に正比例する。            


 即ち、礼拝者の渇望の力が弱ければ「流入」もそれに比例して弱く少ないし、礼拝者の渇望の力が強ければ、「流入」もそれに比例して強く多い。            
  「無為」の働きは完全無欠です。丁度、コンピュ−タが百万桁の計算を瞬時のうちに僅かの狂いもなくやってのけるのと同じ事です。それ故、「無為」の諸力は、「礼拝者の渇望の度合い」に完全に呼応し、完璧なまでに厳密・精妙に比例して「流入」します。従って
−−−
<礼拝者が「無為の流入」を希求する渇望の力の強弱と継続度合いに比例する形で、少しずつ礼拝者の「自我」の性質も変容する>−−−
と言えます。

 
この「自我変容の原理」は、「大魚の油掛け調理法」に譬えることができます。
 高温の油の中にポチャリと大魚を入れてフライにすれば、すぐに魚の油揚げが出来上がるでしょう。しかし、高温の油の中に大魚を入れると、魚が急激に変性してしまい、熱の通り具合から言っても、宜しくありません。そこで、これを避けるために
−−−<吊るした大魚に、高温の油をおたまで何度も何度掛ける調理法>−−−が有ります。
 高温の油をおたまに取って、それを何度も何度も吊るした大魚に掛け続けるならば、大魚は徐々に油で揚げたのと同じ状態に近づいて行きます。
〔ここでの大魚は「自我」の象徴であり、高温の油は「無為」を象徴します。そして、おたまで何度も大魚に油を掛けることは「自我」に「無為」の諸力が少しずつ「流入する」ことを象徴しています。〕

 聖者は唯一の例外ですが、普通は、誰の心の中にも「邪心」が働く余地が有ります。
 邪心である「有為」を滅するためには、「大魚の油掛け調理法の喩え」の通り、大魚(=自我)に高温の油を何度も何度も掛けて行く必要が有ります。そうすることで、大魚(=自我)は油で揚げた状態に近づいて行きます。そして「もう充分」という時が来ると、直接高温の油の中にポシャリと投げ入れられ、カラッと揚げられるわけです。
 すると
「焦穀、芽を生ぜず」(焼き焦がした穀物の種子は発芽しない)〔※註@〕という状態、即ち「邪心=有為=煩悩」が完全に焼却されて絶滅した状態に到り、聖者になります。
 こうした状態に達すると、
諸ス−トラ(経)〔※註@〕に書いてある通り、もはや逆戻りしないので、邪心が発生する状態にはなりません。
 従って、
この状態に達することこそが「彼岸への到達」であり、真の「悟り」です。
 何か大切なことにハタと気付いて自覚が芽生える程度のことが真の「悟り」なのではありません。この点、よく注意して下さい。
 
真の「悟り」とは−−−<邪心の完全なる焼却・滅却>−−−を意味します。

【※註@≫≫−−−パタンジャリの「ヨ−ガ・ス−トラ」の「サマディ・パダ(三昧部門)」の最後には、サマディ体験を称して、「(すると煩悩として芽を出すその種子自体が全部焼けてしまう三昧、即ち)ニルビ−ジャ・サマディ(無種子三昧)である」と記されています。
 これと同義の
「焦穀、芽を生ぜず」という一節は「碧巌録」第九十五則・本則の著語に記されています。
 また、原始仏典「スッタニパ−タ」にも、一度「彼岸」に到達するともう逆戻りしない旨の教えが記されています。
−−−≪≪註終了】



第六節 「ア−トマン(我)」 の意味  

 仏教の根本思想である「無我」という言葉の原語は、「ア−トマン(我)」の語に否定の接頭辞の「ア」を付けた「アナ−トマン」という言葉です。また、ウパニシャッド哲学の根本思想である「梵我一如」の「梵」は「ブラフマン」、「我」は「ア−トマン」の意味です。
 というわけで、「ア−トマン(我)」の意味をしっかりと正しく明確に理解しないでは、仏教もウパニシャッド哲学も正しく理解することは絶対にできません。

 
ア−トマン(我) を正しく理解することこそが、仏教を正しく理解するための 「核心部分」 と言えます。

 ところが、仏教における 「ア−トマン(我)」 の意味の解釈は、悲しいかな、昔から、混乱、混乱、また混乱、という有り様なのです。そのため、仏教は機能不全に陥り、その本来の偉大な力を発揮できずに、葬式仏教に成り下がっています。
 そこで、この問題については、
次の第三章で 「仏教蘇生の心臓部」 というタイトルで、ア−トマン(我)を巡る≪誤解の嵐≫ を全部一気に終息させることにします。

  (第二章 終わり)



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このページの最終更新日 2003/12/23

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