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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第7章 二諦とは何か?New!

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第七章 二諦とは何か?

「本物の縁起の法」の公開と連動して、この章はリライトする予定です。
しかし、内容自体は、そきまま正確なので、これを読んでも大丈夫です。
/・・・・・・・・・・・・・
第七章  修行の中道と「中」の空観 


(真−7−1)
 相対界には相反する二つのものが存在する。正反対、両極端のものが存在する。こうした環境にあってこそ、初めて「中道」概念が発生する。対立するもののない「絶対界」においては「中道」概念は成立し得ない。
 中道とは、両極端の真ん中の道である。左道と右道の中間の道である。しかし、(当然であるが)世界の何処かに、中道という真っ直ぐな道が作られているわけではない。
 呉々も誤解することなかれ。確かに、中道を一つの道と見るならば、それは一つの対象物としてイメ−ジされる。しかし、中道という「言葉」に躓いて、中道を具体的な形態としてイメ−ジするならば、大きな過ちを犯すことになる。
 中道とは、何処かの大地に一直線に建設された舗装道路なのではない。中道とは、相対界の中の配分の妙の中、即ち、目に見えない絶妙な匙加減の中にこそある。中道とは、相対的な世界にあって、「過不足のない絶妙な案配(あんばい)」を成就し続けて行くことである。

 
(真−7−2)
 そもそも、「無為なるもの」には過不足が全く無い。何故なら、「無為」は真理の働きであり、真理に過不足は無い〔※註1〕からである。よって、過不足は「有為」によってのみ起こる。この「有為」による過不足というアンバランスを避けること、それが「中道」である。
 それ故、中道とは、過不足の無い絶妙で完全なバランスを達成し、維持して行くことを意味する。
 中道とは、精妙なバランス感覚に基づいて調整され、成就されて行くものであり、叡智の力に基づいて成就されて行くものである。
 そして又、中道とは、そうした完全なバランスを成就するための叡智とバランス感覚を教える道でもある。つまり、人間にとっての中道とは、「荘厳なる無為」と完全に連動して、過不足の無い完全なバランスを成就・維持して行く道であり、且つ又、そのための方法を教える道をも意味する。

 
(真−7−3)
〔※註1−−−真理に過不足は無い、と言うべきである。但し、プラス・マイナスや陰陽の区別は有る。狭い見方からすれば、陰陽のバランスのみが真理に見えよう。しかし、それだけが真理の働きなのではない。陰陽の分化の働きも真理の働きと見るべきである。
 たとえ陽自体を単独で見れば「過剰」、陰自体を単独で見れば「不足」と言うしかないとしても、それは陰陽のバランスの取れた状態から<同時に>分化したものなので、陰陽両者を大局的見地から同時に見れば、全体としては常にバランスが取れている、と言うべきである。その意味で、真理に過不足は無いのである。(尚、カバラにおける基本三本柱「世界を形成する普遍的三作用」については「真−22−8」)
 また、こうした見方は、「唯一の絶対界」から(陰陽・対立物などが有る)「相対界」が分化した、という霊的ヴィジョンに基づくものである。(詳細は「真−16−1」以下)//〕〕

 
(真−7−4)
 中道が過不足の反対概念である以上、過不足の有る所には(それを是正した均衡状態としての)中道もまた有り得ることになる。そして、何を為すにも過不足が有り得る以上、何を為すにも、中道もまた有り得ることになる。よって、中道とは広く何事においても成立する概念である。政治や仏教の専売特許(の概念)では決してない。
 とは言え、ここでは、宗教における「中道」、特に「仏教の中道」について取り上げる。
 仏教の中道では、次の二種類の中道について、確実に押さえておくことが肝要である。
 その二種とは−−−
 
   (T)「修行の仕方における中道」
   (U)「世界認識の仕方(又は『空』の認識の仕方)における中道」
 
 −−−がそれである。以下、順に説明する。


 
(真−7−5)
(T)「修行の仕方における中道」について 
 「修行の仕方における中道」とは、苦行に偏る極端と、安逸を貪る極端とを避けるバランス感覚について教えるものであり、難行に偏る極端と、易行に偏る極端とを避けるバランス感覚について教えるものであり、禁欲の厳格に偏る極端と、快楽の放縦に偏る極端を避けるバランス感覚について教えるものである。
 また更に言うと、修行における中道とは、修行の「行」の中から、「完全なバランス」を乱す原因となる「有為の要素」を如何に取り除いて行くか、又、「過不足の過誤」を如何に取り除いて行くかという、その方法について教えるものである。

  
(真−7−6)
 修行者が極端に偏る原因は、次の点にある。
 徒に安楽・安逸を貪ったり、極端に簡易な「行」を僅かばかりしかやらないのは、怠惰な精神、肉欲的な心、志の低さ、向上心や正しい渇望心が希薄であること、利己的であること、鈍重で粗雑な感覚の中に住んでいること、等々に原因がある。
 また逆に、不自然な形で頑張り過ぎて難行苦行ばかりしてしまう原因は次の点に有る。即ち、修行者の中でも「高慢でせっかちな者」は、ついついこう考えてしまう−−−「難行苦行に気魄を持って立ち向かい、人一倍努力するならば、必ずそれだけ早く目的を達成することができるはずである」−−−と。
 成程、確かにこの理屈はそれなりに説得力が有る。それ故、この論理を盲信して、先を急ぐ余り、不自然な形で、無理の上にも無理を重ねて難行苦行に挑戦する者が後を絶たないのである。
 こうした修行者の気魄、困難に立ち向かう意志、目的達成のための渇望心、志の高さ等々の中には「賞賛に値するもの」も含まれている。しかし、「正しい修行方法」や「力の配分」について「知恵が欠如している」ならば、良い結果ばかりではなく、悪い結果に到る場合も出て来る。重要な部分における「知恵の欠如」は、修行者の折角の熱心な苦行の成果を台無しにしてしまうことも、往々にして起こり得る。

 
(真−7−7)
 そもそも、霊性修行の目的は−−−<「有為」から遠く離れて「荘厳なる無為」と完全に連動するようになること>−−−ここに設定されなければならない。
 しかし、知恵が欠如している者は、修行の最初から「的外れな目標」を頭に思い浮かべて、自分で良いと思う修行方法を勝手に選び、自分の力を頼りとした上で、修行に取り掛かる。この場合、苦行者には次のような顛末が用意されている。
 修行者は、自分の「有為」の力を頼りにして必死に難行苦行する。自分の「有為」の力を振り絞って難行苦行に立ち向かう。そうすると次第に「これだけ努力しているのだから、自分は修行者として、誰よりも優れている」という高慢心が頭を擡(もた)げ始める。すると暫くして、知らぬ間に、遠いゴ−ルのことには意識が行かなくなり、毎日の難行苦行という手段それ自体が(自分の高慢な自負心を支える)目的へと変容して来てしまう。
 こうなると、修行者は難行苦行すること自体に自己満足を覚えるようになってしまい、初心の高い志と渇望心は腐食して消滅して来てしまう。そうなると、難行苦行をいつ果てるでもなく延々と機械的に続けて行くだけの「心ない修行者」になってしまう。これでは、当初の清冽な修行は「虚しい暗黒の業」に堕してしまうばかりである。

 
(真−7−8)
 こうした顛末に陥る修行者の姿を見聞きして、そこから教訓を学ぶ者は、知恵を得つつある者である。こうした顛末に陥る修行者は、そもそも修行の最初から、「荘厳なる無為」の力よりも自分の「有為」の力の方を頼りにしているいう<本末転倒>の過ちを犯している。
 「無為」よりも「有為」に信を置くという<本末転倒>は、無知なる者が最も陥り易い過ちの一つである。
 「有為」の本質について真剣に考える修行者は、次のように洞察する。即ち−−−「有為」の力で「有為」を止滅させようとすることは自己矛盾である。何故なら、「有為」の力を働かせて様々な「無為」に反する事を行う一方で、その「有為」の力を活かし続けながら、その力を使って、「有為」の力全部を「抹殺・絶滅」することには自己矛盾が有る−−−と。
 「この道理」を深く洞察し、心から理解する修行者は、大叡智に着実に近づいて行く。

 
(真−7−9)
 難行苦行の長い年月を過ごした上で、或る日、どうも修行の成果が捗々(はかばか)しくないことに気付き、そうしてやっと初めて深く内省し、やっとのことで「有為による欲望制圧の矛盾の道理」に気付く者もいる。多大なる努力と大いなる失敗と測り知れない犠牲という「瓦礫の山」を延々と積み上げた上で、やっと「この道理」に気付いた者にとって、「この道理」は本当に重くて貴重なものとなる。強く強く痛烈に、心の奥底に突き刺さる「認識」となる。
 こうした体験をすると、それまで難行苦行の信奉者であった者も態度を一変させて、次のように説き始める−−−「難行苦行は止めるべきである。過ぎたるは及ばざるが如し。とに角、中道を目指すべきである。中道を目指すことこそ一番効率的であり、結局それが一番早いのであり、一番良いのである」−−−と。
 宜しいか。霊性修行の道においては、こうした事例は、太古の昔から、絶えること無く延々と繰り返されているのである。
 それであるから、先輩苦行者の失敗を他山の石として、そこから予め教訓を学び取り、中道の価値を深く認識した上で修行を始める者は、その賢さの故に幸いである。
 その者は、多大なる努力と大いなる失敗と測り知れない犠牲という「瓦礫(がれき)の山」を延々と積み上げなくとも、充分に成功と成就に到ることができるからである。(まことに、これが一番賢明な進み方である。)
 まことに、そうと最初から知って「中道」を、「中道」こそを渇望しながら修行する者は、その賢さの故に幸いである。この者は、光の中を歩んで行くことになるからである。

 
(真−7−10)
 仏教の始祖、ゴ−タマ・シッダ−ルタが悟りに到るまで、六年余りの難行苦行の期間を要したエピソ−ドは、修行における中道がどれほど大切か、という教訓を彼の後を追う信徒たちに豊かに啓示し続けている。
 そもそも、彼は、生来のレベルとして、六年もの年月を難行苦行に費やさなくとも、悟りに到ることが可能な地点に既に到達していた。否、厳密には、彼は過去世で達成した「悟り」を今生で思い出せば良いだけだったのである(詳細は「真−25−6、24」)。つまり、彼は「悟り」に入る「潜在的能力」を生来の素質として持って生まれていた。そして、彼の能力は、出家後の数年の内に、既に充分顕在化し、開花していた。即ち、強靱な集中力、それを長時間維持する「内的筋力」(この意味は「真−10−30」)、自己超越を望む熱い渇望心、気高く純粋で慈悲深い人間性、高いレベルに到る瞑想力、等々である。彼はこれらを既に会得していた。

 
(真−7−11)
 にも拘らず、彼は悟りに到ることができなかった。その原因は偏に次の一点にある。即ち、彼は非常に頭が良く優秀であったので、自分の知恵によって悟りを得ようとする「自力」志向が少しだけ残存していたのである。それ故、厳しい難行苦行をしていても、どうしても「最後の一線」を超えることができなかった。
 つまり、「有為」で「有為」を止滅させようと、必死に努力していたのである。
 それ故、勘としては「あと一歩」との手応えが有るにも拘らず、どうしても手が届かないことに彼は強い焦燥感を覚え、苦悩を深めて行ったのである。
 こうした経緯が有って、彼は無理を重ねた苦行を続行した結果、遂に死の淵にまで行くことになった。こうしてまさに、「自力の限界点」に立った時、彼はそれ迄の自分の「有為」の力みに気付き、修行における中道の道理について豁然(かつぜん)と正見したのである。

 
(真−7−12)
 「この道理」に気付いた後のゴ−タマ・シッダ−ルタは、「有為」の力みである自力志向を捨てることでバランスを回復し、気力・体力・健康を回復する。そして、ほどなくして「難無く」(まさに「難無く!」)最後の一線をクリア−し、「悟り」に入定する。
 こうした「悟り前の舞台裏」が分かると、次のことも自ずと分かるであろう。即ち、もしも(悟ったグルが側に居て、親しく説法してくれるなどして)、彼がもっと早く「『有為』では『有為』を止滅させられない道理」と、それに基づく「修行における中道の道理」について気付くことができたならば、すぐに「悟り」に到ることができたはずである、と。

 
(真−7−13)
 仏教において、「修行における中道」が強調される所以はここにある。ここには、道を行く者が無益な苦しみを払わなくても済むようにとの親心が有る。
 但し、当然のことだが、凡人が「修行における中道」の道理に気付いたからとて、ゴ−タマ・シッダ−ルタのように、すぐに悟りに入定できるわけではない。誤解しないように。
 凡人は、彼のように(僅か数年の修行だけで、と言うか、過去世の達成を思い出すだけで)悟りに到る「潜在的能力」を生来の素質として持っているわけではない。凡人は−−−強靱な集中力、それを長時間維持する内的筋力、自己超越を望む熱い渇望心、気高く純粋で慈悲深い人間性、高いレベルに到る瞑想力−−−等々、どれ一つを取っても、釈尊の如き大聖者のレベルには遠く及ばない。
 それ故、凡人の修行は、まさにこうした点を向上させるためにこそ為されるべきものである。そして、こうした鍛練を行う時にも、中道という「絶妙な案配」を希求するスタンスを取ることが「最良の道」である。この道理をしっかり押さえることが肝要である。

   以上が、修行の中道の概説です。次章以降で、具体的な説明に入ります。
  次は、空観における「中」についてです。

 
(真−7−14)
(U)「世界認識の仕方(又は『空』の認識の仕方)における中道」について
 仏教で説かれるもう一つの中道、即ち、大乗仏教で説かれる「世界認識の仕方(又は『空』の認識の仕方)における中道」は、次の−−−<二種類の極端な見方>−−−を大いなる錯誤だとして、これを回避するように教えるものである。
 一方の極端は、「世界は総て幻の如きものであり、実体が無いものである」として、あらゆる存在の実在性について完全に全否定する見方である。この種の見解を持つ者は、無神論者と同様の「厭世主義」や「虚無の沼」に落ち込むか、又は「無責任なまま詭弁を弄する恐ろしい罪悪の泥沼」に落ち込むしかない。(この見解は、地下鉄サリン事件等、一連の凶悪事件を引き起こした仏教系カルト教団「オウム真理教」などに見ることができる。)
 もう一方の極端は、「世界は総て実体が有るものだ」として、あらゆる存在の実在性を全肯定する見方である(法華経で説かれる「諸法実相」の文言をこのように誤解する見方とも言える)。この種の見解を持つ者は、堕落と向上との区別を見失い、放縦と持戒との区別を見失い、善と悪との区別を見失ってしまう。そうして、総ての行動を良しとして肯定し、総ての煩悩を良しとして肯定し、結局、正しい因果応報の法則をも見失い、それによって聖なる叡智をも喪失し、自己正当化の詭弁の中で、悪業を重ねて行き、遂には底無しの罪悪の暗闇の中に落ち込んでしまう。

 
(真−7−15)
 このように、両極端の見方に陥るのを避けて、絶妙な案配で観想し、真理を深く正しく、あるがままに洞察するのが、「空観における中道(=中観)」である。この立場では、闇雲に否定の剣を振り回して全否定することもなく、闇雲に総ての現象を全肯定することもなく、その中間の立場で、物事の表層における現象に関しては、無常であり実在性は無いと言えるが、それらの深奥における営為の根源には不滅の実在性が認められると、正見する。
 これこそが−−−<世界を「真と非真との(表裏一体の)混成体」と見る>−−−絶妙なバランスの空観(=中観)である。



(真−7−16)
 この、世界を「真と非真との(表裏一体の)混成体」と見る空観(=中観)は、非常に高度な霊的ヴィジョンであり、凡人が簡単に理解できるものではない。そこで、修行者の学習と理解の便宜のために、
次に『五つの比喩』を挙げる。

(1)真と非真の関係は、「金と金細工の関係」に譬えることができる。
 金は金属の中でも変質や腐食をしないものであり、極めて安定度の高い素材である。それ故、人間社会では貴金属として非常に尊ばれる。こうした点からして、金は「永久不滅の真」に見立てることができる。
 一方、(金によって細工された)金製品の無数の形態は、そのどれ一つを取ってみても「これが金の永久不滅の本性(実相)だ」と言える「真」に当たるものは一つもない。それ故、金の無限に変化する形相は、どれも皆「無常なる非真」に見立てることができる。

 
(真−7−17)
(2) 真と非真の関係は、「水と(雪祭りなどで見られる)氷の彫刻物の関係」に譬えることができる。
 氷は直ぐ溶けて水になってしまうので「無常なる非真」に見立てることもできる。しかし、別角度から見ると、水素と酸素の化合物としてのH 2Oは、非常に安定的な物質であり、「水蒸気、水、氷」という三つの態様に変化しても、H 2Oとしての化学的組成は変わらない。この点からして、(飽く迄も一応)H 2Oは「永久不滅の真」に見立てることができる。
 一方、「真」に見立てた水が結晶化すると氷に化(な)る。この氷で細工された氷の彫刻物の無数の形態は、そのどれ一つを取ってみても「これがH 2Oの永久不滅の本性(実相)だ」と言える「真」に当たるものは一つもない。
 それ故、氷の無限に変化する形相はどれも皆、「無常なる非真」に見立てることができる。(尚、水と氷の彫刻物の関係を、ガラスとガラス工芸品に置き換えても良い。)

 
(真−7−18)
(3) 真と非真の関係は、「深海と海面の波との関係」に譬えることができる。
 深海には外界の喧騒とは隔絶した深い深い静寂の世界が広がっている。深海は、高い水圧のかかる密なる状態にあり、海水が満ち満ちて遍満しており、均等均一に存在する状態にある。そして、海水が有形物として生起することなく(=不生)、滅することなく(=不滅)ただ満々としてそこに在る。こうした点からして、深海は「不滅不生の絶対界の真」に見立てることができる。
 一方、海面の波は、有形なる物として、出来ては消え、出来ては消え、無数に生成と消滅を繰り返している。そして、同じ波は二つとない。これら無数の波の無数の形態は、そのどれ一つを取ってみても、どれも単なる波に過ぎず、「これが海の不滅不生の本性(実相)だ」と言える「真」に当たるものは一つもない。それ故、海面の波の無限に変化する形相は、どれも皆「無常なる相対界の非真」に見立てることができる。(尚、宇宙船に乗って地球を外から見れば、地球の底辺では海は下を向いている。よって「深海は上、波が下」に有るように見える。これに倣い、「不滅不生の絶対界の真」を上に置き、「無常なる相対界の非真」を下に置くというイメ−ジを抱くことは、修行者の観想・瞑想に多少役立つ。)

 
(真−7−19)
(4)真と非真の関係は、「映写機と銀幕上の映像との関係」に譬えることができる。
 映写機は映像を銀幕に投射し、銀幕上に映像としてのあらゆる物事を有らしめ、活動させる根源の存在である。この点からして、映写機は、(現実世界の)森羅万象を有らしめ、活動させている「本源の本性(実相)である真」に見立てることができる。
 一方、銀幕上の映像は、一コマ一コマ、目にも止まらぬスピ−ドで流れ去り、移り変わっている。そうして、無数の「像」という形態が出現しては消滅することを繰り返している。これらの映像は、飽く迄も単なる映像に過ぎず、どの映像の一コマを取ってみても、「これが映像の本性(実相)だ」と言える「真」に当たるものは一つもない。それ故、銀幕上の映像の無限に変化する形相は、どれも皆「表層の非真」に見立てることができる。

 
(真−7−20)
(5) 真と非真の関係は、「未来型立体映写機と(光を反射する微細な特殊粒子を空気中に噴霧した)空間上の立体映像の関係」に譬えることができる。(これは第四の譬えを一歩進めたものである。)
 未来型立体映写機は、空間に立体映像を投射し、投射空間に立体映像としてのあらゆる物事を有らしめ、活動させることができる存在である。この点からして、この未来型立体映写機は、(現実世界の)森羅万象を有らしめ、活動させている「本源の本性(実相)である真」に見立てることができる。
 一方、空間上の立体映像は、恰も其処に本物の事物が有るかの如き臨場感に溢れる映像として出現し、その立体映像が、見る者の前で生き生きと躍動し、数々のドラマを繰り広げる。そうして、無数の立体の「像」という形態が、見る者の前に出現しては消滅することを繰り返している。これらの立体映像は、飽く迄も単なる映像に過ぎず、どの立体映像一つを取ってみても、「これが立体映像の本性(実相)だ」と言える「真」に当たるものは一つもない。それ故、空間上の立体映像の無限に変化する形相は、どれも皆「表層の非真」に見立てることができる。
(尚、この比喩を更に一歩進めて、現実には有り得ないとしても、単なる立体映像であるばかりか、「触感」を伴う立体映像を可能にした未来型立体映写機が発明されたことを想定してみる。するとより一層、現実世界の関係に近づく比喩になる。)

 
(真−7−21)
 真と非真の関係をこのように見る空観(=中観)について、中途半端な理解しか持たない一部の仏教徒は、次のような異議を唱える−−−「般若心経には『色即是空、空即是色』以下、総てに実体が無い、と書いてある。総てに実体が無いとは、総てが非真であるということを意味する。つまり、『真は一切無い。総て非真。総ては無常』。これこそが仏教の真理ではないか」−−−と。
(この見解は、前述の通り、あらゆる存在の実在性について完全に全否定する極端な見方である。こうした見解を持つ者を、古くは「方広道人」と呼んだ。外道の一類型である。「真−14−11」参照)
 このような見解を持つ者は、手加減が分からずに「否定の剣(包丁)」を振り回す、知恵無き者である。
先の「烏賊(イカ)表面の網目切りの譬え」(真−6−4)で言えば、イカを全部切り刻んでバラバラにしてしまう不器用者である。
 超宗教の信仰を持つ者は、存在の実在性を全否定する「方広道人」の面々に対して、次のような鋭い問いを突き付けるべきである。即ち−−−
「中道を感知するバランス感覚とお経の聖言と、どちらが重要か」と。
 

(真−7−22)
 如何なる言葉でも、如何なる聖言でも、それが言葉である以上、相対的なものの範疇に属する(この事実を動かすことはできない)。言葉は相対界に属するものであり、断じて絶対界のものではない。言葉は飽く迄も道具であって、方便(一時の便宜的なもの)に過ぎない。
 例えば、どうしても右に逸れる傾向が有る者が、聖者を訪ねた時に、聖者から「もっと左に寄るように心掛けなさい」と忠告された場合を想定してみる。もしもこの者が、この聖者を崇拝する余り、聖者の御言葉を「絶対的なもの」と受け取ってしまうならば、その者は一生の間、一生懸命左へ左へ行こうとし、どんどん中道から逸れて行くことになる。そして、己れの愚かな行為の結果は己れが負わなくてはならないから、自分が犯した過ちの分、不幸と辛酸を嘗める運命(さだめ)になってしまう。
 凡そ、相対界の道具である「相対的な言葉」を「絶対的なもの」と勘違いする者は、このように滑稽で哀れである。優先順位の上位に置くべきものは、中道を感知するバランス感覚の方である。にも拘らず、本末転倒して、言葉の方を上位に置くならば、その者の行動は奇矯なものにならざるを得ない。この点を能々(よくよく)深慮せよ。
<如何なる聖言よりも、中道を感知するバランス感覚の方が遙かに重要である>−−−これが法である。

 
(真−7−23)
 こうした道理を聞かされても、未熟で臆病な仏教徒は、これに納得することができず、猶もこれに異議を申し立てる−−−「中道を感知するバランス感覚と言われても、見ることも触ることもできないし、バランス感覚などといういい加減なものに頼ることは不安この上ない。それより、目に見えて耳で聞くことができる聖言に頼った方がずっと安心できる」−−−と。
 こうしたレベルの者は、残念ながら超宗教の信仰を持つことは決してできない。また、仏教の真髄を理解することも決してできない。
 こうした臆病者には、次のような励ましの言葉をかけることができるだけである。
「勇気を出して、自分の中に眠っている中道を感知するバランス感覚を信じなさい。自転車を乗れない人間がいるだろうか。熱心に練習するならば、自転車を操るバランス感覚が発動しない人間はいない。何度もバランスを取る練習をしなさい。そうすれば、その感覚が発動し、やがて無意識にその感覚が働くようになる。誰でも必ず、バランスを取りながら自転車を漕ぐことはできるのである」と。

 
(真−7−24)
 人は誰でも、誰にも頼らず、補助車にも頼らずに、一人で自転車を漕ぐことができるようになる。これと同様に、人は誰でも、中道を感知するバランス感覚を発動させ、発達させ、それを活発・鋭敏に働かせることできるようになる。そうなると、その者はもはや「般若心経には『総てに実体が無い』と書いてある」とは言わなくなる。
 これは、般若心経の文言が変わったためではない。般若心経を解釈する者の態度と感覚が変わったためである。否定の剣を闇雲に振り回して、存在の実在性を全否定するのは何かおかしい、と感じるようになるからである。
 それ故、下手な解釈をして、限りなく錯綜した「有為の迷宮」を自分で作り出す前に、先ず己れの解釈の態度と感覚を正すことが肝要である。そうすれば、真理は自ずと明らかになって行く。
 否定の剣は、無目的に振り回すものではない。この鋭利な剣は、非真なるものを切り落とすだけでなく、真なるものを明らかにする目的のためにこそ、使用しなければならない。
 このことに気付く時、その者は初めて「釈尊の手法(ハンニャ−・ヨ−ガ)」を理解し始めたことになる。

 
(真−7−25)
 「釈尊の手法(ハンニャ−・ヨ−ガ)」を理解して、正しい態度と感覚で般若心経の解釈に取り組むならば、般若心経は、世界を「真と非真との(表裏一体の)混成体」として認識する絶妙な空観(=中観)の立場に立って、その世界観を朗々と詠い上げていることが読み取れるようになる。
 般若心経は、(前述の)「金と金細工の譬え」や「水と氷の彫刻物の譬え」や「深海と海面の波の譬え」や「映写機と銀幕上の映像の譬え」や「未来型立体映写機と空間上の立体映像の譬え」が示唆することと別の事を言っているわけでは決してない。(「正しい中観」に基づく般若心経の「空」の真義、及び正しい日本語訳については、空−7−1以下)

 
(真−7−26)
 般若心経の内容を「真と非真との(表裏一体の)混成体」と看破し、「正しい中観」の立場を堅持した日本人の代表としては、弘法大師空海を挙げることができる。何故なら、彼の著作である「秘密曼陀羅十住心論」の構成を見ると、第九住心以下を「非真」に配当し、第十住心だけを「真」に配当する記述となっており、ここにその証左が見られるからである。
 また、世界を「真と非真との混成体」と看破して「正しい中観」に立脚したインド人は数多い。釈尊を始めとして、クリシュナ、シャンカラ、ナ−ガアルジュナ、ラ−マクリシュナ、ヴィヴェ−カ−ナンダ等々が挙げられる。〔※註2〕
〔※註2−−−これらのインド人は、不二一元(アドワイタ)の霊的ヴィジョンの立場、即ち「中観」の立場からの言動を残している。その証左は次の書物の中に見出すことができる。クリシュナに関しては「クリシュナバ−ラタ」や「バガヴァッド・ギ−タ」、シャンカラの著作に「ブラフマス−トラ釈義」、ナ−ガアルジュナには「中論」、ラ−マクリシュナには「ラ−マクリシュナの福音」、ヴィヴェ−カ−ナンダには「ギャ−ナ・ヨガ」等々が有る。〕

 
(真−7−27)
 「世界は真と非真との混成体である」という霊的ヴィジョンは、悟りに達した者が初めて遭遇する一つの結論部分の認識である。それ故、言葉だけで、この結論部分だけを聞いて「成程、そうか、そうか」とすっかり分かった気になる者がいたとするならば、その者は大きな過ちを犯している。
 そもそも、空観(それも中観)の奥義が、一片の言葉で易々と他人に伝達できるはずがない。これは丁度、剣道の達人がその奥義を剣道の初心者に口伝しようとしても不可能であるのと同じである。初心者が奥義である「中観」の霊的ヴィジョンについて、少々小耳に挟んだからと言って、それで即、悟りに到れるわけでは決してない。
 呉々も誤解することなかれ。初心者と鍛え抜かれた達人とでは、「基本」の会得レベルに雲泥の差が有る。この点を呉々も失念することなかれ。

 
(真−7−28)
 どの分野の達人であっても、達人は、突然変異によっていきなり達人になったわけでは決してない(ここには良い意味での「因果律」が働いている。「因果律」を認め、これを受け入れる者は、突然変異の天才を決して認めない)。
 達人というものは、こつこつと自己の能力を一歩一歩向上させる努力を積み重ねて、やっとのことで達人のレベルに到達した人間である。たとえ、赤子の時から天才として生まれた者も、幾つかの前世で継続的に努力を積み重ねた結果として(つまり、それだけの執念と愛着心を持って、或る特定分野の鍛練を継続した結果として)、漸く今生に天才として生まれることを得たのである。この摂理には、インチキや抜け駆けや不公平の入る余地は微塵もない。

 
(真−7−29)
 このことは宗教でも同じである。念仏を一度唱えた途端に聖者に大変身するマジックは存在しない。キリストを信じた瞬間に、キリストと同等の大聖者に成ってしまうマジックは存在しない。(もし、それらを認めるならば、如何なる修行も無意味になってしまう。)
 凡人は、強靱な集中力、それを長時間維持する内的筋力、自己超越を望む熱い渇望心、気高く純粋で慈悲深い人間性、高いレベルに至る瞑想力等々、どれ一つを取っても、達人(又は聖者)のレベルには遠く及ばない。
 それ故、凡人の修行は、まさにこうした点を向上させるためにこそ為されるべきものである。そして、こうした鍛練を行う時にも、中道という「絶妙な案配」を希求するスタンスを取ることが「最良の道」である。この道理をしっかり押さえることが肝要である。

 
(真−7−30)
一、中道の「絶妙な案配」を熱心に希求する者は幸いである。その者は、首尾良く光の中を歩み、健やかな喜びを味わいつつ、健全な成長を遂げることができるからである。
二、中道の「絶妙な案配」を熱心に希求する者は幸いである。その者は、「有為」の悪業を超え行く「最良の道」を進み行くことができるからである。
三、中道の「絶妙な案配」を熱心に希求する者は幸いである。その者は、千の花弁が見事に咲き揃うように、豊かな種芸種智を実らせる才能開花の(無限)大乗の大道を、楽しみながら安全確実に、悠々と、そして颯爽と、歩むことができるからである。 
 

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解説

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その他の論

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この商品について

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