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〔梵我一如と仏教の悟り〕 般若心経マスターバイブル前篇第3章その1


第三章 仏教蘇生のための ≪≪ 心臓部 ≫≫
            −−−ア−トマン(我)をめぐる諸問題−−−

  第一節 「釈尊(又は仏教)の位置付け」問題        
  第二節 「梵我一如」の意味                
  第三節 「無神論無我説」という外道 

 

第一節 「釈尊(又は仏教)の位置付け」問題     

 インドには色々な種類のヨ−ガが有りますが、(第一章に出した)「叡智のヨ−ガ」も、釈尊誕生以前の遙か昔のバラモン教時代から有り、ヴェ−ダ聖典にも「脚下照顧」のヨ−ガの手法が散見されます。これが「ジュニャ−ナ(叡智)・ヨ−ガ」です。
〔「ジュニャ−ナ」とは、サンスクリット語の「 jn(〜)a(−)na 」の音写です。これを「ジニャ−ナ」と表記するか「ジュニヤ−ナ」又は「ギャ−ナ」と表記するかは好みの問題です。「日本ヴェ−ダ−ンタ協会」では「ギャ−ナ」と表記します。〕
 そして、ムンダカ・ウパニシャッド成立の時代にまで下って来ると、その中で明確に
「汝自身を知れ」(ムンダカ・ウパニシャッド二・2、5)と説かれるようになり、自分自身の心源に瞑想して行く手法が、はっきり打ち出されるようになります。
 
 こうした点からすると、
仏陀は「彼独自の瞑想手法を創始した」のではなく、伝統的なバラモン教の「ジュニャ−ナ・ヨ−ガ」の大成者、と位置付けるべきだ、と言えます。
 ただし、大乗仏教徒たちは、仏陀の「叡智のヨ−ガ」を、従来のヴェ−ダ的な「ジュニャ−ナ・ヨ−ガ」と分けて扱うために、「ジュニャ−ナ」の類義語「プラジュニャ−」の方を好んで使い、
「自分たちはプラジュニャ−(般若)・ヨ−ガ行者である」と自認したと理解すべきです。(「プラ」の意味は本書後篇第七章 「空−七−二五」 参照)
(梵語の「プラジュニャ−・ヨ−ガ」がパ−リ語訛りになると「プラ」がくっついて「パ」になり「ジュ」が無気的に「ン」になって「パンニャ」となります。「パンニャ」が中国語に変換される時、意味の翻訳はなされずにそのまま音写で「般若」という当て字が使われ、これが日本に伝えられて「ハンニャ」となりました。)
 
 従って、視野の広いヒンドゥ−教徒は、釈尊のことを
「ブッダはヒンドゥ−教の諸聖者の中の一人に過ぎない」と見ます。(尤も、偏狭なヒンドゥ−教徒は仏陀を異端として排斥しますが。)
 一方、こうした見方に対して
「ふざけるな!」と強い嫌悪感を示す仏教徒も沢山居ます。
「我らが敬愛する釈迦牟尼仏陀様は、
ヒンドゥ−教とは全然別個の<全く新しい真理>について我々にご教示下さった御方である! 我々は堅くそう信じている!」−−−ここに仏教徒の自尊心と心地良さが有るのです。〔※註@〕
 我の強い人間は、どうしても
自分が入信した宗教が一番であると思い込み勝ちです。そして自分の知らない他の宗教を「悪魔か仇敵」扱いして排斥する事になります。これは「自分が、自分が…」と我を張る高慢心の仕業と言えます。第二章で提示した「無為と有為」について思慮を巡らせて、「万教帰一思想」について理解を深めて戴きたいものです。
 
【※註@>>>−−−ユダヤ教徒に対するキリスト教徒の感情も、ヒンドゥ−教と仏教のそれと完全にパラレルな関係にあります。現代の革新的で寛容なユダヤ教徒の視座からすれば、イエズス・キリストもユダヤの数ある聖者・聖賢と決定的な違いはなく、「キリストはユダヤ教の諸聖者の一人に過ぎない」と見ます。例えば、ラビ・アキバは、自国がロ−マ軍の侵攻を受けた際に、無抵抗のまま、肉を引き裂かれ殉死しました。それ故、そうしたラビ・アキバの無抵抗とイエズス・キリストの十字架の無抵抗とは軌を同じくするもので、両者に大差はないと、彼らは考えます。
 ところが、
多くのキリスト教徒は、こうしたユダヤ教徒の考え方には我慢できません。彼らは「そんな考え方を許容することはクリスチャンを辞めることに通じるので、断じて受け入れられない」と言って強烈な拒絶反応を示します。
 一般的なキリスト者にとって、イエズス・キリストの教えは
「新しい契約」であり、彼の教えは唯一絶対であり、彼の十字架も「唯一絶対の効力」を持つと考えます。よって、イエズスだけはユダヤ教の諸聖者とは完全に別個の次元と考えます。−−−>>>註終了】 
             

<仏教は、ヒンドゥ−教とは全然別個の「新しい真理」について教える宗教である>
<仏教は反バラモン教である>
<梵我一如は仏陀の悟りの境地ではない>

 −−−こうした見方は正しいのでしょうか? いいえ、正しくありません。
 
 
釈尊は自分の事を「ヴェ−ダの達人」と自称した記録が有ります〔『ブッダのことば(スッタニパ−タ)』(岩波文庫・中村元 訳)の第四五八、四五九、五二八、五二九詩節参照〕
 釈尊の、この
「ヴェ−ダの達人」発言の真意は、「私はヴェ−ダ聖典が教えている<究極の目的>に到達してしまった(という意味で)ヴェ−ダの達人である」という意味だと理解されます。
 何故なら、
「ヴェ−ダ聖典」の極北の奥義が「梵我一如」である事については争いがないですし、第一章で概観した「万教帰一思想」からすると、「絶対界への帰一」という観点から宗教を解釈する事になるからです。
 ですから、釈尊が「ヴェ−ダの達人」と自称している以上、
 
「梵我一如は仏陀の悟りの境地でもあった」 と見るべきです。
  
また、『サンユタッタ・ニカーヤ』には次のような釈尊の言葉があります。
『ブッダ 悪魔との対話(サンユタッタ・ニカーヤU)』(岩波文庫 中村元博士訳)(148頁)
「バラモンよ、戒めに安住している人は法の湖である。(・・・)そこで水浴した、知識に精通している人々、肢体がまつわられることのない人々は、彼岸に渡る。
真実と法と自制と清浄行−−−これは中(道)に依るものであり、ブラフマンを体得することである。」 (第7篇第一章第九節17)


はっきりと、
★★「ブラフマン(梵)を体得することである」★★ とあります。

ですから、間違いなく、「梵(ブラフマン)」を体得する奥義「梵我一如」は、ブッダの悟りの境地でもあったのです。

 従って、(視野の広い)ヒンドゥ−教徒が「仏陀はヒンドゥ−教の諸聖者のうちの一人に過ぎない」と自慢げに言って来たならば「はい。確かにその通りですね」と胸を張って答えるべきです。こんな事で仏教徒の自尊心が傷つくのなら、
そんな自尊心は捨てるべき、と申し上げます。
 「仏教はヒンドゥ−教に包摂される」という見解が真理だとしても、この事で
仏教それ自体の偉大さが損なわれることは微塵もありませんし、ヒンドゥ−教に較べて引け目を感じる必要もありません。「山頂は一つ。しかし、登山道は色々」、この見方こそが真理です。
 
 
 

第二節 「梵我一如」の意味   

 「山頂は一つ」−−−この山頂が「梵我一如」という四字熟語で表現されます。
 「梵我一如思想」は(バラモン教・ヒンドゥ−教のヴェ−ダ聖典中の)古ウパニシャッドの中において、段階的に進化する霊的ヴィジョンの、その進化のゴ−ル、頂点として宣明された偉大な思想です。具体的には、次のような聖句によって示されています。 
 
「ブラフマン(梵)は、このア−トマン(我)である。」(ブリハダラニヤカ・ウパニシャッド 二・5、19)
「それはア−トマン(我)を知った、『ア−トマン(我)はブラフマン(梵)である』と。」(ブリハダラニヤカ・ウパニシャッド 四・4、25)
「これはじつに偉大にして不生なるア−トマンである。不老・不滅・不死にして恐怖を離れている。恐怖のないブラフマンである。」(ブリハダラニヤカ・ウパニシャッド 四・4、25)

 
 『岩波 仏教辞典』の「梵我一如」の項
を見てみます。
 −−−バラモン教の根本思想の一つ。ヴェ−ダ聖典の終結部をなすウパニシャッドにおいて、宇宙の根本原理ブラフマン(梵)と個人存在の本体であるア−トマン(我)とは同一であると考えられた。この知識を得ることによって解脱が達成される。この思想はインド哲学の主流をなすヴェ−ダ−ンタ学派中のシャンカラを開祖とする不二一元学派によって理論的に整備され、今日に至るまでインド思想の主流を形成している。−−−
 
 また
、「ブラフマン」の意味については、『岩波 仏教辞典』の「梵」の項に簡潔な説明があるので抜粋します。
 
−−−もと祈祷の文句ならびにそれに宿る神秘力を意味し、祭式万能の気運につれ神を左右する原動力とされ、さらに宇宙の根本的創造力の一名となった。−−−
 更に、
「ブラフマン」の説明について、中村元博士の本を見ると−−−「世界に生気を与えて動かしている聖なる原理」「究極の本源的な原理」(…)自然の奥にある活力であり、万有を形成し支持するものである。(…)後代のインドにおいては、一般に「ブラフマン」という語はもはや原義を喪失してしまった。正統バラモン系統の哲学においては、もっぱら純粋に抽象的な絶対者そのものを指示する哲学的術語となった。〔『中村元選集(決定版)第9巻 ウパニシャッドの思想』 148頁−−−
 
 このように
、「ブラフマン(梵)」は<絶対界超越神>を指し示すインド哲学用語です。
 ブラフマンについての基礎知識としては、以上の諸点を押さえれば充分です。
 
 さて、
問題なのは、「梵と我」二者の関係です。
 悲しいかな、実に多くの人々が
−−−「梵我一如」とは「個人の我」が「絶対神である梵」に近づいて行き、遂には「一つになる」こと−−−と思い違いしています。
 
 はっきりと強調しますが、
梵我一如の 「一如」は「一つになる」意味ではありません。
 「一如」の「如」は「如し」の意味ではなく
「不二・不異・同一・イコ−ル」の意味です。
つまり、
梵我一如とは「梵我不二」とか「梵我不異」と言い換えられる言葉です。事実、ウパニシャッド聖典では、先に見た通り、梵と我が「同一である」との表現になっています。
 ですから、「梵我一如」とは、梵と我が一つになることではなく
−−−<なあ−んだ、梵と我は全く別のものだと思っていたけれど、それは誤解で、実は元々「一つのものだったんだ」ということ>−−−これが正しい意味です。 
 
 ところが、仏教界の大権威である
中村元博士ですら「梵我一如」について、間違った解釈をしています。中村博士はウパニシャッド文献から「梵我一如」を表明する聖句を引用したあとで、こう書いています。−−−われわれの存在の基底にある究極の自己、本来の自己、それがすなわち絶対者であるというのである。これらのブラフマンとア−トマンの一体を表明している諸文章は、同一判断を表現しているのではなくて、むしろ念想(ウパ−サナ)を教える一つの方法(★=方便)であったと解すべきである。−−−(★は碧海)
 そして、この文に中村博士は註を付して、中祖一誠さんの「ウパニシャッドにおける同置判断(梵我一如)の性格とその根拠について」という論文も同趣旨であると示しています。

〔『中村元選集(決定版)第9巻 ウパニシャッドの思想』 187頁〕

  
 仏教界の大権威、中村博士の見解ではありますが、
これはひどい間違いです。
 ウパニシャッドの不二一元の霊的ヴィジョンの立場からすると、中村博士のような見方は
全くの逆様(さかさま)、「転倒した見方」ということになります。
 ウパニシャッドで
−−−<「梵と我はイコ−ル(同一)なり>−−−と言明する時には、次の三点を意味しています。
(@)梵我一如とは、最初から梵と我が完全に同一だとの判断を言明するものである。
(A)ブラフマンとア−トマンは「同一の存在の二通りの呼び名」に過ぎない。従って、
(B)「梵と我」という二通りの呼び名が有ること自体が、一つの方便なのである。両者を一如(同一)とする表現が方便なのではない。

 
 理解の便宜のために、
「大海と一個のコップ」の喩えを出します。
 
大海にコップを沈めます。すると、コップの中は海水で一杯になります。この時、コップの中の海水とコップの外の海水は、完全に同一の海水です。コップには蓋がないので、コップの内と外の海水は連続しています。よって、コップの外と内の海水は「同一不可分の海水」即ち「一如」です。(大海は無限定の梵を意味し、コップは人の個体の限定枠を意味します。)
 
コップの内側から見た「海」をア−トマンと呼び、概念的な「海」をブラフマンと呼ぶだけのことです。
 尚、「コップ=個体」は「大海=梵」の外に出たことは一度も有りません。
大海の外に出ることは不可能なのです(人が宇宙の外に出られないのと同じ事です)。兎に角、梵と我は、コップで仕切られた「内と外」、両側から見た「絶対界超越神」の二通りの名称です。
 よって、両者は最初から同一不可分のものです。
 
 
 

第三節 「無神論無我説」という外道    

 一部の仏教徒は「梵(ブラフマン)=絶対界超越神」の存在を否定します。その否定の理由としては、次の三点が挙げられるでしょう。
(理由その一)
 仏教とヒンドゥ−教は根本的・決定的に違う宗教である(はず)だから。
(理由その二)
 釈尊がブラフマンの語を使用して、絶対神を肯定した記録はない。これは釈尊が絶対神の存在を一切認めていなかった事と解釈できるから。
(理由その三)
 釈尊が使用した「アナ−トマン」という言葉は「ア−トマン」に否定の接頭辞の「ア」を付けた言葉であり、ア−トマンの否定であるから、梵と我が一如であるならば、当然、ブラフマンも否定されることになる。
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  
 しかし、こうした見解の表明は、自分たちが
釈尊の瞑想法を全く理解 していないことを公に露呈しているだけのものに過ぎません。(以下、釈尊がブラフマンという言葉を使用しない理由を明らかにします。)
 そもそも、釈尊の瞑想法は本質的に「叡智のヨ−ガ」の手法です。「叡智のヨ−ガ」は「常住不滅にして真なるもの」を探究するために、理性(ブッディ)を駆使し、否定の剣を使って「これではない。これでもない」と「常ならざるもの・真ならざるもの」を徹底的に斬り落として行く瞑想手法です。こうして、否定に否定を重ねて行った時に、それでも「どうしても否定できないもの」に突き当たるならば、正にそれに意識を集中して瞑想して行くのです。
 こうした瞑想手法にあっては
「名色」が真っ先に否定されます。
 
「名色」とは「記号・文字・言葉」(=名)と、「いつか必ず崩壊する運命の、有限なる物質」(=色)です。これらは「常住不滅にして真なるものとは言えない事」が明白ですから、真っ先に否定され、斬り落とされます。
 ですから
、「叡智のヨ−ガ」の実践行では、「ブラフマン」という言葉(名)の使用は無意味であるばかりか有害です。言葉(名)によって使用者が勝手なイメ−ジを抱くならば、それは「正しい瞑想」を妨げる障害物になってしまいます。勝手なイメ−ジが「偶像」となり、気付かないうちに偶像礼拝に堕してしまう危険も有ります。
 それ故、「叡智のヨ−ガ」、中でも、仏陀が大成した「特別に厳格な叡智のヨ−ガ」では、ヴェ−ダ聖典等に出てくる「神々の名前」を厳格に忌避したわけです。こうする事で、
偶像礼拝に陥る事なく、一直線に「常住不滅の真なるもの」に意識を集中して行くのです。
 −−−
以上が、釈尊が「ブラフマン」の語を使用しなかった理由です。釈尊は絶対神を否定してはいませんでした。
 
 そもそも、
仏教が「常住不滅にして真なるもの」を否定する宗教であるはずがないのです。「真なるもの」の存在を全部否定するならば、そういう仏教徒は、古くから大乗仏教の中でも「方広道人」(「大智度論」序論参照)と呼ばれ、「邪空」に執着して結局「虚無」に落ち込んでしまう(仏教内の)「外道」と位置付けられています。
 
 
論理学的にも、「神に相当する言葉」を出さずに「神」を否定することはできません。
 それに、「絶対神の呼び名は使用禁止」の立場を貫きながら、仏陀の「叡智のヨ−ガ」の手法を正しく信者たちに伝えて行くことに困難を感じた密教徒は、禁を少しだけ破って、
「絶対神」に対して、「真如」「法身」「大日如来法身」「本地身」等々の呼称を当てました。
 この事実を見ても、仏教や密教が「絶対神の存在」を否定していないことは明らかです。
 もしも、
「超越神」を否定する宗教が有るなら、それは「邪道」です。無神論の立場で「仏陀の無我説」を教えるならば、これは「ナンセンスな無我説」になります。そして、こういう「インチキ無我説」を信じた人は、善悪の判断もなしに「我」を捨てようとして無力化してしまう上に、神を信じないために充分な神の御加護も受けられないので、霊的に無防備になり、悪霊軍団の格好の餌食となって、甚大な被害をこうむる事になります。
 
 しかし
、『岩波 仏教辞典』の「我(ア−トマン)」の項をみると−−−インドの諸哲学が(…)常住・単一・主宰のア−トマン(我)を最重視し、それをめぐって展開するのに対して、仏教はそのような<我>は否定し、我・自我そのものを諸要素の集合と扱う−−−
 このように解説されており、
「無神論無我説」からの「仏教理解」となっています。(何とも嘆かわしい事です)
 また、仏教の
三宝印(=仏教である事の自己同一性を確認するための三つの旗印)の一つ、「諸行無常」の解釈についても、どの仏教辞典を見ても、「無神論無我説」的な「諸行無常」理解、即ち「あらゆる現象は変化してやむことがない」という浅墓な解釈に終始しています。こんな事は一々言われなくても当たり前の事です。一方、「絶対界超越神」を肯定した「諸行無常」解釈の場合は「とんでもなく深い宗教真理」を表す命題となります。「行」を「絶対界超越神のサンスカーラ(行)」と解釈するからです。
(詳細は、般若心経完全マスター・バイブル 後篇第七章(その二)の「語義解析16.行(サンスカーラ)」  の解説である「空−七−七六」〜「空−七−八二」までを参照して下さい。)
 
 
 
(前篇 第三章のその1 おわり)
 
 

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このページの最終更新日 2006/6/4

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