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〔アートマンと 自性の5要件〕 般若心経マスターバイブル前篇第3章その2


★★★ このページが前半の山場です。一番むずかしい部分です。★★★

仏教の中の「山積する誤解の嵐」をきれいに一掃するページですから、ゆっくりじっくりお読み下さい。
10日間ぐらいかけて少しずつ読み進めば、必ず、この山場を乗り切れます。
その時、あなたの視界には、美しい真の仏教の姿が見えているはずです。頑張って下さい。  

★★★ 3分間で直観する『我見』の意味 ★★★ これを読んで、一気に直観していただければ、本章の理解は早いと言えます。 

      〜〜〜〜〜〜   ≪1ポイント・ナビ≫    〜〜〜〜〜〜
■ ヒンドゥー教の「梵我一如」の悟りとと仏教の「悟り」の違いは何でしょうか?
     1.本質的な違いはありません・・・・第三章の第二節(つまり前々節)参照。 

■ 仏教の核心は−−≪ 個我 無自性 ≫−− にあります。
     1.「個我」の意味、
     2.「自性(スヴァバーヴァ)(=我性)」の意味や、
     3.『我見』 の本当の意味を 
       このページでマスターして下さい。
     これが分かると、
     4.「人我見  法我見」 も簡単に分かります。
          すると、「人我見・法我見」の反対語の
     5.「人無我・法無我」
          についても分かります。
       この「人 無我」 こそ 「個我 無自性」 のことです。
       「法 無我」 は 「諸法無我」すなわち「諸法 無自性」 のことです。
 
      おめでとうございます!! これで、仏教の心髄部分がマスターできました!


第三章 仏教蘇生のための ≪≪ 心臓部 ≫≫
            −−−ア−トマン(我)をめぐる諸問題−−−

    第四節 ア−トマン(我)の意味 
         ▼ 我の六義 と 自性概念の概説 (ジャンプ)
         ▼ 自性概念の要件の考察 (5要件列挙・概説版)(ジャンプ)
         ▼ 我見・人我見・法我見 の正しい定義 (ジャンプ) 
         ▼ 「典型的な誤りの無我説」 の誤解部分を正す (ジャンプ)
 

第四節 ア−トマン(我)の意味      

 多くの仏教徒は「ア−トマン(我)」の存在を否定します。否定の理由としては、次の二点が挙げられるでしょう。
(理由その一)
 釈尊の教えは、スッタニパ−タに多く見られるように、我(ア−トマン)を否定して、無我(アナ−トマン)を教えるものであること。
(理由その二)
 般若心経にも「五蘊皆空」とあるではないか。人間は五蘊(ごうん)
〔※註@〕の集合体に過ぎず、人間は本来「無我」と見るのが正しい見方であるはずである。
 
【※註@>>>−−五蘊とは、「色・受・想・行・識」の五要素の「蘊」(集合体)という意味。詳細は「空−7−50」参照 −−−>>>註終了】      
        
 しかし、こうした見解の表明は、自分たちが
釈尊の瞑想法を全く理解していないことを公に露呈しているだけのものに過ぎません。
 「ア−トマン」を否定し、「ブラフマン」も否定するならば、
 その人は真の「空」を認識する人ではなく、「邪空」に執着して「絶対界超越神」を否定して「虚無」に落ち込む
「方広道人」(仏教内の外道)の徒輩(ともがら)に該当します。
 
 さて、ここで、
「人の五蘊は皆、空なり」と否定しつつ、尚且つ「ア−トマン(我)」を肯定する選択肢は有るのか、問題となります。
 この問題を解く鍵は、脚下照顧によって
−−−<二つのア−トマン(我)>−−−を認識することに有ります。
 では、<二つの「我」>とは何でしょうか?
 一つは、梵我一如の「我」です。この「我」は、梵と同一の「我」です。よって、この「ア−トマン」は叡智と光に満ちており、無知や偏見とは全く無縁の「完全なる我」です。
 
 では、偏見を持っている無知なる「ア−トマン(我)」とは何なのでしょう?
 無知で偏見を持っている「我」が<「存在」或いは「機能」していない>と言うことは決してできません。偏見に満ちた人間が山ほど居る事は、事実だからです。
 
この無知なる「我」こそが、二番目の「我」、即ち、五蘊で構成されている「我」です。
 
 従来の仏教徒の多くは、(情けない話なのですが)この二つの「我」を峻別することなく、
無神経に混同して「我」という同じ言葉を使用して来たのです。これでは「味噌糞一緒」と非難されても仕方がありません。仏教蘇生のためには、こうした無神経な混同は断じて許されません。
 
二つの「我」−−−<梵我一如の「我」と、五蘊で構成されている「我」>−−−を明確に識別すると、二つの「我」を「同じ言葉」で呼ぶわけには行かなくなります。
 よって、両者を明確に区別するための適切な「名称」が必要です。
1) 梵我一如の「我」を指し示す名称
   【既に巷間、使用されている名称】
     −−−真の自我、真我、真の自己、真己、大我、本地身、不生の仏心、等々。

2) 五蘊で構成されている「我」を指し示す名称
   【既に巷間、使用されている名称】
〔※註A〕                     
     −−−個我、人我 

 
★本書では、(1)の我を「真我」、(2)の我を「個我」と、主(おも)に呼ぶことにします。 
【※註A>>>−−−「大我/小我」の区別も有りますが、「小我」は大我に対する反対語として生まれた名称なので、「悪いエゴの動きをする我」というニュアンスが付着しています。しかし、「五蘊」で構成されている「我」は、良くも悪くも活動できる「中性的(ニュ−トラル)」な存在です。よって、2)の中に「小我」は含めていません。−−>>>註終了】
 
 このように、「我」を真我(=梵)と個我(=五蘊の我)の二種類に峻別するならば、釈尊が否定したのは、真我ではなく個我であることが明らかになります。
 また、「梵我一如」の「我」は「真我」の意味だと分かります。すると、「梵我一如は同語反復(ト−トロジ−)である」という事が嫌でも分かります。

 −−−以上、五蘊を「皆空」と否定しながら、尚且つ、梵と同一の「ア−トマン(我)」を肯定する道があることが判明しました。
 
 ここまで言っても猶、「仏教は真我を認めない宗教だ」と強弁する仏教徒がいたならば、その人には、こう言いましょう。
「般若心経には『観自在菩薩は五蘊は皆空なりと照見した』とありますが、もしも、あなたが瞑想して『五蘊は皆空なり』と照見したとします。その時
、『五蘊は空なり』と照見しているのは、一体誰ですか。誰が『空なり』と照見するのですか?」−−−と。
 「否定の剣」を盲滅法に振り回す一部の仏教徒は、大抵、「空を照見する主体」の事をすっかり忘れています。よって、こう言われると、ハッとして目を覚ますでしょう。
 
 とはいえ、これで「梵我一如思想」をめぐる仏教徒の疑念が雲散霧消したかと言えば、残念ながら違います。
問題はもっと複雑で、仏教界は深い混乱の坩堝の中にあります。
 そもそも、余りにも安易・無神経に「ア−トマン(我)」という言葉を使用していること自体が、大本の大間違いなのです。
 
「ア−トマン(我)」とは−−−中村元博士の解説を以下見てみると−−−「ア−トマン」の語義の変化と発展はむしろギリシア語におけるプシュケ−という語のそれと平行的である。即ち、ギリシア語のプシュケ−が、もとは「いき」の意味であって、のちに「自己」「魂」の意味に転じたのとちょうど同様である。−−−〔『中村元選集(決定版)第9巻 ウパニシャッドの思想』 181頁〕−−−
 『岩波 仏教辞典』の「我(ア−トマン)」の項を見ると−−−もと気息、呼吸の息を意味し、生気・本体・霊魂・自我などを表す。−−−と有ります。
 
 こうした基礎知識の上に、
もっと深い「ア−トマン(我)」の概念理解が必要です。
 「我(ア−トマン)」に関する議論をきっちり行おうとするならば、次に示す
−−−<「ア−トマン(我)」の六義>−−−について明確に認識する必要が有ります。

〜〜〜<「我」の六義>〜〜〜

1. 「個我(=五蘊の我)」の意味
2. 「真我(大我)」の意味
3. 「活動の起点としての主体」の意味 (→デファクト・スタンダ−ド的用法)
  
>>> 「活動の起点としての主体」という概念には、「真の主体」と「見せかけの主体」を含むものとします。何故なら、「真の主体」が「活動の起点」であることは当然ですが「見せかけの主体」も外見上活動の起点に見えるし、活動の起点としても一応機能しているので、「活動の起点としての主体」と言えるからです。
 我々は、辞書に載っていなくても、「活動の起点」になっていて、パッと見た処、「主体」に見える存在に対して「我が有る」という表現を事実上使います。>>>
 
4.「活動の本体」「真の主体」の意味 (
「息の根」と考えると分かりやすいでしょう)
  
>>> 古代インド哲学では「息」を「生物の本体」と考えて、「息=ア−トマン」としたのでしょう。日本語で言えば「息の根」です。これを止めれば、活動は終了します。よって、逆に言えば、「ア−トマン」は活動の本源、本拠を指す言葉だと言えます。
 
5.(個体的な)魂の意味
  
>>> 「マハトマ・ガンジ−」のマハトマは「マハ−(偉大な)・ア−トマン(魂)」の縮約形です。このように「ア−トマン」が「魂」の意味で使われるのは、飽く迄も「派生的な用法であろう」と分析できます。既に見たように、元々「ア−トマン」は「息」を表し、「動的主体・根本動因としての本体」を指す言葉でした。そこで、人間を動かす「本体」は「魂」であるに違いない、と信じた人々がア−トマンを「魂」の意味で使い始めたのだと推察できます。
 「ア−トマン」を「魂」の意味で
使うこと自体は、各人の勝手です。
 しかし、
「人を動かす本体は人の個的魂である」と考えるならば、この解釈は仏教の「人我見」という外道解釈になります。何故なら、正しい仏教は「個的な魂」の存在を肯定した場合でも、「人魂こそが人の本体(ア−トマン)だ」とは決して見ないからです。(詳細は「人我見」の定義参照>>>                       
 
6.「自性」(じしょう)の意味
 
 >>> 仏教で「諸法無我」と言うのと「諸法無自性」と言うのは結局、同じ意味になります。つまり−−−<仏教では 「我=自性」 という用法が存在する>−−−のです。
 これに気付かない仏教徒は多いですし、その人は「自性概念の迷路」の中を行きますが、これに気付く仏教徒は
仏教の奥義に高速で近づいて行けます。
『岩波 仏教辞典』の「自性」の解説
では−−−
 もの・ことが常に同一性と固有性を保ち続け、それ自身で存在するという実体、もしくは独立し孤立している実体を<自性>という。−−−
と記されています。
 
ここで一つ注意点です。この辞典解説のように、「自性」概念を説明するのに「実体」という語を使うのはやめるべきです。(理由はこのページの下の方で説明しています。) 
 
〜〜〜〜〜〜◎◎〜〜〜〜〜〜◎◎〜〜〜〜〜〜◎◎〜〜〜〜〜〜◎◎〜〜〜〜〜
★「自性」という仏教ジャ−ゴン(専門用語)に関する(突っ込んだ、深い)概説
 
「自性」は梵語「スヴァバ−ヴァ」の漢訳語です。「スヴァ」は「自らの」「バ−ヴァ」は「存在(態様)、存在性」を意味します。よって、英語の「オウン・ビ−イング」に該当すると言う学者もいます。しかし、自性概念を深く理解するには、もう一歩の踏み込みが必要です。存在哲学の用語ですから「ビ−イング」の言葉が出るのは当たり前。よって、本来、自性概念は「スヴァ(英語のオウン)」の方に比重が有る、と考えなければなりません。
 「オウン」の名詞形は「オ−ナ−」。
 つまり、
「スヴァバ−ヴァ」は ≪オ−ナ−的存在態様→オ−ナ−性≫ と理解すべきです。
 これが
自性概念の核心です。
(スヴァバ−ヴァは長い仏教の歴史の中で、様々に誤解されて来た概念です。)
 先に、4で「ア−トマン」には 「活動の本体、真の主体」の意味が有ると指摘しましたが、「自性」とは「そういう性質」のことです。つまり
「自性」の「自」について、これが「活動の本体、又は真の主体」を意味すると解すれば正解です。
 よって、
「自性」は−−− 「活動本体性」又は「真主体性」または「それ固有の主体性」−−− と言い換えられます。
 
一例に、人間の手足を考えてみましょう。人の手や腕や足に「活動本体性、真主体性、それ固有の主体性、即ち、自性」が有るでしょうか。いいえ、それらを動かしている「本体」は別のところに有る、と結論されるでしょう。先に 「スヴァバ−ヴァはオ−ナ−性」 と解説しましたが、人の手足それ自体には「オ−ナ−性が無い」と言えます。手はその手のオ−ナ−ではないので、自分勝手には振る舞えません。自由に振る舞えるのは、オ−ナ−性を持っている「真主体=本体」だけです。手足はこの本体の道具です。
 
人の手足それ自体には、こうした「自性」という意味での「我」が有りません。
 以上、こうした言葉の使い方をする場合に限り、「我(ア−トマン)」を別角度から表現した言葉が「自性(スヴァバ−ヴァ)」と言えるのです。(但し、両者は完全に同一概念というわけではありません。言葉の外延はズレます。)
★「自性」概念に関する、更に詳しい解説については、
@〔概説版〕「自性の五要件」 このページの下方で説明しています。 
A〔詳説版〕「自性の七要件」後篇第二章「空−2−20」参照。 
 
  以上のような 「我の六義」 を峻別せずに、「我」という一語を使用して議論するならば、
我の六義が入り乱れて、話が滅茶苦茶になってしまいます。至極当たり前の話です。
 
 −−−それでは、<我の六義>を前提にして、
仏教界の「ア−トマンに関する誤解の嵐」を一気に終息させて、本物の「正しい仏教」を蘇生させることに致しましょう。
 
 一人の仏教徒者が
「個我は初めから無い。それが仏教の無我という真理だ」と主張したとします。しかし、「活動の起点としての主体(=我)」という意味では「個我にも『我』が“有る”」と言うしかないでしょう。そもそも、「無我」という命題が誰が見ても当然・自明の事ならば、わざわざ「無我なり」と言う必要はないはずです。しかし、実際は「無我」が自明なのではなく−−−<「我が有る」ように見える>−−−のです。だからこそ、「それは誤解で、無我が真理」という教説が登場するわけです。
 
 また、或る仏教徒が
「<個我には『我』が無い>というのが仏教の無我説である」と主張したとします。これに対しては、「確かに正しい仏教は、個我の『我』を否定します。しかし、ここで言う『我』は飽く迄も『自性』の意味の『我』です。
釈尊は−−−<個我の自性を否定した>−−−のです。個我の『活動の起点としての主体』という意味での『我』を否定したわけではありません」と答えることができます。
(因みに、
「個我の自性を否定」という文章を「我」という一つの言葉だけで表現しようとするならば、「我の我を否定する」となって、何を言っているのか分からなります! この事からも「我の多義性」が大混乱の原因だと分かるでしょう。)
 以上をまとめると−−−
 
(@)個我には「活動の起点としての(仮の)主体」という意味では「我」は有る
(A)個我には「自性」という意味での「我」は
無い。(=本来の正しい無我説)
 
 これで分かる通り、個我に関する「我の有無問題」は、「我」の意味が「活動の起点としての主体」を意味なのか、それとも「自性」の意味なのかで、
「我の有無の判断」が正反対になってしまうのです。この点、よくよく注意するべきです。
 
 再度、確認します。
<釈尊の叡智のヨ−ガにおいて「我を否定する」と言う時の「我」とは「自性」の意味でしか有り得ない>−−−のです。(何故なら、他の「我」の意味では支離滅裂な命題にしかならないからです。)
<個我には自性が無い>−−−これが釈尊の教えの真髄中の神髄です!!
この一文の真理命題にこそ「人間存在の実相」が示されています! (「諸法に自性が無い」という命題は省きましたが、勿論、正しい仏教はこれを含んでいます。)
 本書のこれ以降の解説全部は、
「個我には自性が無い」 という九文字の命題の奥に隠された深い意味を詳しく解き明かす作業でしかない、とさえ言えます。
 
 では、ここで、
無我論に関する「誤解の中核的な問題」を四つ取り上げて、その正解を示すことに致します。
 
 では、ここで、「無我論」を巡る諸問題の
<総論的問題>として「誤解の中核的な問題」を四点ほど取り上げて、その正解を示すことに致します。

〜〜〜≪≪総論≫≫〜〜〜〜

(一)「自性」の正しい概念(正確な要件)はどのようなものか。
(二)「真我」は有形なるものか、無形なるものか。
(三)「真我」は何処に有るのか。
(四)「我見」「人我見」「法我見」の正しい概念(精密な定義)は如何なるものか。

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

(一)「自性」の正しい概念(正確な要件)はどのようなものか。

 <「我」の六義>の処で見た通り、大まかに言うと、「自性」とは「オ−ナ−性」又は「活動本体性」又は「真主体性」又は「それ固有の主体性」のことです。先の <「我」の六義>の 「6.自性」 の解説では、人の手足を例に挙げて、手足は人の「真の主体」ではなく、「活動本体」に依存・従属する(末節的)存在だから「自性が無い」という趣旨の説明をしました。これで分かる通り、「活動性」を自分以外の他の存在に依存・従属している「存在」には「オ−ナ−性が無い」又は「活動本体性・真主体性が無い」と言えます。
 そうであるならば、この逆のケ−スを考えて
−−−「オ−ナ−性有り」とか「これが活動本体・真の主体だ」と言えるための条件は何か?
 これについて割り出すこともできるはずです。
 物凄く大雑把に言うならば
−−−或る主体が、他の何ものにも依存することなく、自主独立して活動する性質を具備している場合、「オ−ナ−性有り=自性有り」−−−と言えます。
 従って、
「自性」は「完全“自”主活動“性”」の略と見ても大過なし、と言えます。
 
「他の何ものにも無依存で、自主独立的・自律的・自立的に活動する」という「自性」概念は、仏教で説かれる「因縁起」の反対概念です! では、その因縁起とは何でしょうか?  (本書後篇第●章で「因縁起」の詳細な説明をします。ここでは概略だけ説明します。)
 
 
「因縁起」とは−−−或る存在が他の存在(の力や活動等)に依存することで、初めて生起(=発生)可能となる性質のことを言います。即ち、他の存在との相互依存関係を持たないまま、純粋に自立的に自身の存在それ自体の力と活動だけでは「存在として生起することができない」という形の存在の性質を指して、「因縁起」と呼びます。
 
“他”に“依”存して生“起”するから「依他起性(えたきしょう)」とも言います。
 こうした性質を有する「存在」は、他の存在を原因にして存在しているので、他の存在からの作用(或いは、他の存在との関係性)が消滅すると、その存在も
自動的・連鎖的に消滅してしまいます。それ故、他に依存して生起する存在は、それ自体の力で「生起」しているのでもなく、それ自身の力で「存続」しているのでもなく、一時的に他の力に「おんぶに抱っこ」の状態、かろうじて自身の存在を存続させているだけのもの、と言えます。
 従って、こうした態様の存在は、
実に儚(はかな)いものと言え、「仮の存在」「非真なる存在」「一時的にして無常なる存在」と言うしかないわけです。
 
 一方、
「自性」概念とは「因縁起」の反対概念なので、「因縁起」の法則が当て嵌まらない存在態様を表す概念です。即ち、他の何ものにも依存することなく、純粋にその存在それ自身の力と活動によって、存在物として生起できる性質を持つこと、そして、他の何ものにも依存することなく存続し、活動し続ける力を持っている存在の態様を指す概念です。
 ですから、先に見た通り、「因縁起」の特性を持つ存在(無自性存在)の場合は、他の存在からの作用(或いは関係性)が消滅すると、嫌でも自動的・連鎖的に自身の存在も消滅してしまうことになりますが、「自性の有る存在」の場合は、他の存在からの作用とは無関係に存在し続け、活動し続けることができます。
 
 ところで、「我の六義」の処で見た通り、「自性」概念の
辞書的定義としては、「もの・ことが常に同一性と固有性を保ち続け、それ自身で存在するという実体、もしくは独立し孤立している実体」のこと(岩波 仏教辞典)などと言われますが、「完全に孤立的に発生し、完全に孤立的に存在し続け、活動し続ける」という「オ−ナ−性(又は活動本体性)」を持つ存在が、活動し続けるうちに消耗、損減し、やがて摩滅・消滅してしまったらどうでしょう?
 消滅した時点で「オ−ナ−性=自性=我」もなくなってしまいます。しかし、これでは(先に挙げた辞書的定義の)「常に同一性と固有性を保ち続け…」とは言えなくなってしまいます。
 ということは、(孤立・独立的な)「自性の有る存在」は(自分の外部の)他の存在に依存する事で、それが自身の消滅原因になってしまっては駄目ですし、
そればかりか、自身の内部にも消滅原因を持っていても駄目なのです。つまり、「永久不滅の存在」でなければならないことになります。
 このように見て来ると、
「自性の有る存在」こそが「常恒不滅の存在、真なる存在(=真実在)」ということになります。(「無常なる存在」の反対概念)
 
 以上のように「自性」概念を掘り下げて行くと、
本当に「自性が有る」と言えるためには、次の四条件が必要だという事が見えて来ます。
〔要件1〕「主体」であること。即ち、活動の(根本の)起点であること。
〔要件2〕自身の存在の生起について、他の存在に全く依存しないこと。即ち、「自身で生起の根本原因」を具備していること。
〔要件3〕自身の存続(=生起の継続)と活動について、他の存在に全く依存しないこと。即ち、自身で「存続と活動の根本原因」を具備していること。
〔要件4〕損減のないこと。即ち、自身の活動により磨耗・磨滅して、存続(=生起の継続)ができなくなってしまったり、遂に消滅してしまう、ということがないこと。一言で言うと「常恒不滅の存在」であること。
 
 −−−しかし、ここで見落としてはならない要件がもう一つ有ります。
〔要件5〕無形・無限の存在であること。
 
 この第五要件が流出して来る理由は次の通りです。
 前の四つの要件からすると、「自性の有る存在」は、それ自体決して磨滅・消滅する事なく永久に活動し続けることができ、尚且つ、その活動原因としてのエネルギ−を他の存在には一切依存することがない(孤立・独立的)存在と言えます。つまり、活動エネルギ−の見地からも完全独立していることが必要になって来ます。
 そして、そうした存在であるためには、他の何処からも活動エネルギ−の「供給」を受けないで、それを「摂取」することもなく、完全に「自身の自力」、つまり、それ
自身に内蔵するエネルギ−だけによって永久に活動し続けることが可能でなければなりません。
 このような存在だけが、無依存のまま常恒不滅で在ることができます。
 とすると、
このような存在は、有限・有形なものでは有り得ないはずです。何故なら、そもそも有形・有限なるものが、それ自体の中に無限・無量のエネルギ−を内蔵することは不可能と言うしかないからです。よって、有形である限り、それが内蔵するエネルギ−も(他に依存しない限りは)「限り有るもの」と言え、それでも(他に一切依存せずに)活動し続ければ、やがては自身のエネルギ−が切れて活動不能になり、存続不能になり、消滅してしまうことになります。
 従って、
前の四つの要件の当然の帰結として、「自性の有る存在」は、無形・無限の存在でなければならないわけです。
 
 この第五要件を見落としたまま、
「有形・有限である自性の有るもの」を自分の頭の中で勝手に想像(イメ−ジ)する人は、「自性」概念について未だ充分な理解に達していない者、と言えます。〔※註B〕
【※註B>>>−−−
例えば、釈尊の死後に勃興した「部派仏教」の中の多数派「説一切有部」は、人間の五位七十五法(=大別五分類・その細分七十五種の部分や働き)に「自性」を認める見解でした。これは、これ迄見て来た「正しい自性概念」からは到底考えられないものです。(出発点の「自性」の定義に大きなズレと誤解が有ったのが原因です。)
 勿論、歴史的流れとしては、こうした「説一切有部」の邪見を否定する形で大乗仏教が興って来ます。しかし、情けない話ですが、現代の大乗仏教徒の中には、
有形有限なるものに「自性」を認めるという、「説一切有部」と同じ過ちを犯す者がとても多いのです。これは、物質的思考パタ−ンに毒されている証拠です。具体例は本章●●頁参照 >>>註終了】
 
 <「自性」の全五要件(概説版)>−−−を、再度ここに挙げてみます。

〜〜〜<「自性」の全五要件(概説版)>〜〜〜

〔要件1〕 「主体」であること。即ち、活動の(根本の)起点であること。
〔要件2〕 自身の存在の生起について、他の存在に全く依存しないこと。即ち、「自身で生起の根本原因」を具備していること。
〔要件3〕 自身の存続(生起の継続)と活動について、他の存在に全く依存しないこと。      
      即ち、自身で「存続と活動の根本原因」を具備していること。
〔要件4〕 損減のないこと。
      即ち、自身の活動により「磨耗・磨滅」して、存続(生起の継続)ができなくなってしまったり、遂に消滅してしまうということがないこと。一言で言うと「常恒不滅の存在」であること。
〔要件5〕 無形・無限の存在であること。
   −−−以上の五要件を以て、「自性」の概念の(暫定的な)正しい要件とすべきです。
 
〔但し、ここに挙げた要件は、
飽く迄も「概説版」です。真に精密・正確な定義(と要件)については本書後篇の「詳説版」に譲ります。「詳説版」の要件をここに挙げて、その理由を説明すると、非常に深い奥義に触れる話になってしまい、ここでは妥当でないからです。「概説版/詳説版」の両者では、要件切り出しの「切り口」が異なります。
 「自性」概念について段階的に理解を深めて行くには、
「概説版/詳説版」というステップがどうしても必要です。初学者のうちは「概説版」で充分です。
〔詳説版〕「自性の七要件」後篇第二章「空−2−20」参照。 

 
 

(二)「真我」は有形なるものか、無形なるものか。

 「我」を「真我/個我」の二種類に峻別しましたが、この時、「真我」とは「梵」と不可分同一の「我」であり、「絶対界超越神」である梵(ブラフマン)そのものであり、その別名に過ぎない事を確認しました。つまり、素直に見れば「真我は無形なるもの」です。これが、真我の定義から流出する当然の帰結です。しかし、ここで問題なのは−−−
<「有形なる真我」も有り得るか?>−−−ということ
です。
 この問いは
「<有形不滅の物的真我>も有り得るか」という形に換言できます。
 
 この問題は
−−−<個我と真我の判別基準は何か>−−−という問題に還元できます。
 そもそも、個我と真我を峻別したのは、「仮の主体」と「真の主体」との混同を避けるためでした。個我は「因縁起」に縁(よ)る主体であり、他の存在に依存して存在し、活動し、やがて消滅する一時的で無常なる「仮の主体」です。一方、真我は、常恒不滅の活動主体です。だからこそ、「真の主体」であり「真我」と呼ばれます。「自性」を具備した「我」こそが真我です。
 つまり元を質せば、「個我/真我」という
二種類の言葉の定義は<自性の有無>により識別され、立てられたものなのです。
それ故−−−
<個我と真我の判別基準は「自性の有無」にある>−−−という他ありません。(余りに当然の話です)。
以上により−−−
<「有形不滅の物的真我」は有り得ない>−−−という結論になります。何故なら、「自性」概念には、第五要件「無形・無限の存在であること」が有るので、主体が「有形なるもの」であったり「物的個体」であれば、即「自性は無い」と分かるからです。
(「活動性」を前提にするならば、「有形」と「不滅」は、両立不可能な相矛盾する概念であることは、第五要件の処で詳説した通りです。)
 
 

(三)「真我」は何処に有るのか。

 (既に見た通り) 正しい仏教とは−−−
1) 「真我/個我」を峻別する瞑想法を使用するものである。
2) 人間存在を「真我と個我の混成体」と見る思想である。(第二章の五比喩参照) 
3) 真我と個我の判別基準を「自性の有無」に求めるものである。
4) 真我の自性を肯定し、個我の自性を否定する思想である。
5) 「有形不滅の物的真我」を認めず、真我と言えば、無形・無限なる「不生(=物的に不生起)の真我」に限るとする思想である。
 
 これらを前提として、「真我は何処に有るか」との問いに答えるならば、その
一応の答えはこうなります。即ち−−−<此処・其処に有り、何処にでも在る。とは言え、『何処其処に有る』という限定的なものではない>−−−と。
 こうした答えになる
理由は、次の二点です。
 第一に、「不生の真我」は、此処・其処などと指し示せる具体的な場所や物体などの「限定的な場」に限って存在するものでは決してないこと。
 第二に、かと言って、此処・其処に存在しないのか、と言えば、そうではない。遍満しているが故に、此処・其処にも存在していると言う外ない。従って、「真我は、此処・其処に有り、何処にでも在る。とはいえ、『何処其処に有る』という限定的なものではない」という表現が、実相に一番近接した一応の答えになります。
(「不生の真我」は「絶対界超越神」の別称ですから、「絶対界」は何処に有る? という質問と同義です。「絶対界」は此処其処に有り、何処にでも有る、と言う他ありません。) 
 
 

(四) 「我見」 「人我見」 「法我見」 の正しい概念(厳密な定義) は如何なるものか。

 仏教界では「人(にん)我見」の意味について混乱が見られます。そこで、この混乱を解くために、まず混乱の源となっている「我見」の意味を明らかにしましょう。
 実に大雑把な言い方ですが−−−正しい仏教は「ア−トマン(我)を否定する教え」だと一般に言われます。これが「真の命題」だとされるわけです。それ故、この真理命題をより一層明確に理解させるために、これとは正反対の、間違った見解(偽の命題)を立てることが必要になります。そこで「我見」概念が立てられました。従って−−−
<一応、我見とは「ア−トマン(我)を肯定する見解」を意味する>−−−と言えます。
 しかし、これでは舌足らず過ぎて「定義」になりません。不足分を補いましょう。
 そもそも、正しい仏教が「ア−トマンの否定」と言う時の「ア−トマン(我)」は「我」の六義のうちの「自性」の意味に限らなければ駄目であることは、既に見た通りです。
 そうなると、次のような結論になります。即ち−−−
<正しい仏教とは、本来『自性の無いもの』を、その通り「在りのまま」に正しく見て、その存在の『自性』を否定する見解である>−−−と。 そうすると、その反対概念としての「我見」概念明確に確定します。即ち−−−
 
「我見」とは、本来『自性の無いもの』を、その通り「在りのまま」に正しく見ることをしないで、その存在の『自性』を(間違って)肯定してしまう見解である>−−−と。
  
このように、きっちり「我見」概念が確定すると、「法我見・人我見」の概念も自ずと確定します。何故なら、両者は、何に「我(=自性)」を認めるか、という「対象の区別」に依る区分法に過ぎないからです。つまり
、「諸法」に「自性」を認めるのが「法我見」、「人間、否、その個我」に「自性」を認めるのが「人我見」という区別です。
 
 では再度、正確に言い直しましょう。
「法我見」とは、諸法(=諸事物)(の一部又は全部)に「自性」を認める見解>
「人我見」とは、個我(=五+α 蘊)(の一部又は全部)に「自性」を認める見解>
−−−を意味します。
〔※註C・D・E・F・G〕
 
【※註C>>>−−−ここで注意すべきことは、「人我見」は、「人間の総体」に「自性」を認める見解でもなければ、「真我」に自性を認める見解でもない、という点です。
 正しい仏教の「中観」の立場では、人間を「真我の個我の混成体」と見るので、人間を「真我+個我」の総体として見た場合に、その一部(である真我)に「自性」を認めても、それは正しい仏教の反対概念としての(偽の命題の)「我見」には当たらないと言えます。
 また、真我はその定義からして「自性有るもの」を指すので、真我に「自性」を認めても、やはり正しい仏教の反対概念としての(偽の命題の)我見になりません。
 従って、飽く迄も「人我見」は
(真我を除いた)「個我」(の一部又は全部)に自性が有るとする見解を指します。>>>註終了】
 
【※註D>>>−−−厳密に言うと、「法我見」と「人我見」では、重なる部分が出て来ます。例えば、人間の構成要素の中には骨があり、その主成分はカルシウムです。カルシウムだけを取り出して見るなら、それは諸法(=諸事物)の概念に含まれます。よって、カルシウムに自性が有ると主張する者がいたならば、その人の見解は、法我見なのか、人我見なのか、問題となります。
 これについては、人間を構成するカルシウムだけに限って自性が有るとする見解ならば、人我見に当たるとし(尤も、そんな事が有るとは到底考えられませんが…)、人間云々に関係なく、存在する総てのカルシウムに自性が有るとする見解ならば、法我見に当たる、とする解決が妥当でしょう。とは言え、支離滅裂な偽の命題について真剣に論理立てて思索すること自体、かなりむなしいことと言えます。
>>>註終了】
 
【※註E>>>−−−「諸法」に「絶対界たる無為法」を含める学問的分類は机上の空論です。現実的な「諸(サルヴァ=総ての)」は「複数」なので、「相対界」に限定されます。>>>註終了】
【※註F>>>−−−
五蘊とは「色受想行識」です。従って、「個我の限定的な想念」「個我独自の一時的な意志」「閉塞的な個我の自意識」などの無形なるものも五蘊に含まれ、これらに「自性」を認める見解も「人我見」に当たることになります。
 また、無論、部派仏教の最大派閥・説一切有部が「人間の五位七十五法」に「自性」を認める見解も「人我見」に当たります。但し、当時の説一切有部の信徒たちは、自分たちの見解が「人我見」に当たるとは夢にも思っていませんでした。
>>>註終了】
 
【※註G>>>−−−
なぜ「人我見」の定義を、個我(五+α 蘊)(の一部又は全部)に「自性」を認める見解、というように、(五+α 蘊)としたのでしょうか。
 ここに「人我見」概念の面白味と複雑さがあります。「人我見」の定義を立てる時に、単に「個我」と言うだけでなく、老婆心から説明的表現として「個我(=五蘊)」と表現するならば、この括弧内の補足により、「人我見」の概念範囲が狭くなり、正確性を欠くことになってしまいます。何故なら、「個我(=五蘊)」という表現は、飽く迄も「個我を五蘊とする」分析に基づいたものですが、「人我見」は「偽の命題」なので、「個我を五蘊以上(又は以下)の集合体と仮想すること」も許されます。即ち−−−
<正確な「人我見」概念は、「無自性の個我」
(この個我を五蘊とでも七十五蘊とでも百五蘊とでも自由に想定して良い)の一部又は全部に「自性」が有るとする見解を指す>−−−わけで、「本物の自性有る真我」以外の「個我」部分を<五蘊>に限定するとマズイのです。
 従って、「人我見」概念を語る場合には、一々説明的に個我(=五蘊)と表記するよりも、端的に「個我」とだけ表記する方が正確です。
>>>註終了】
 
 −−−以上で、
「誤解の中核的問題」の検討を終了します。(「総論」おわり)
 
 
 @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
  
 では次に、
「各論的問題」として、多くの仏教徒が陥っている<典型的な誤りの無我説>について取り上げ、その論理構成を七段階に区切り、リ−ディング・ケ−スとして考えて行くことに致します。

〜〜〜〜≪≪各論≫≫〜〜〜〜

≪≪<典型的な誤りの無我説>≫≫

(以下、ステップの頭文字である「S」を付します)
【S1】
  釈尊は無我を説くために、ア−トマン(我)の語頭に否定を意味する接頭辞「a」を付けて、
アナ−トマンという言葉を使用したことが、経典に記されている。
【S2】
  釈尊が否定したア−トマン(我)は、「梵我一如」の「我」(ア−トマン)と同じ言葉である。よって、
釈尊はウパニシャッドの梵我一如思想そのものを否定したと解するのが正当である。
【S3】
  従って、釈尊の無我の教えは、ヒンドゥ−教の梵我一如とは
全く別個の、全く新しい真理なのである。(こう考えて、一部の仏教徒は仏教の独自性を自慢する)
【S4】
  ところで、ヒンドゥ−教の「梵我一如」は
「人の中にア−トマン(我)が有る」とする見解である。
【S5】
   一方、仏教は
「人の中にア−トマン(我)が無い」とする見解である。
【S6】
   仏教の
「人我見」という邪見は、「人の中に我が有る」という見解である。
【S7】
   従って、
「梵我一如思想」は、仏教の「人我見」という邪見に当たる外道であり、仏教の「無我説」とは正反対の見解と言える。
 −−−この「誤りの無我説」のどこが間違っているのか、順番に検討して行きましょう。

「S1」については「正しい」と認めても別段問題はありません。

「S2」の「釈尊が梵我一如思想を全面否定したとする主張」は間違いです。前述の通り「釈尊がそのア−トマン性(=自性)を否定したのは真我でなく個我」であり、また、形而下的な諸存在物(=諸法)についてのア−トマン性(=自性)を否定したのです。無神論無我説の外道性については、この章の第三節で見た通りです。釈尊は梵我一如の「我(=真我)」を否定したのではありません。でなければ、「無我を認識する主体」までも否定されてしまいます。
 
従って、「S2」の主張は誤りです。
 
「S3」の「仏教は完全に独立した別個の宗教である、との主張」も間違いです。このことは、第二章第一節の「無為と有為」の二分法からも導き出すことができます。本覚思想や万教帰一思想からも導き出すことができます。
 
従って、「S3」の主張は誤りです。
 
問題は「S4〜S7」です。これを見れば一目瞭然ですが、多くの人は「精密な事など全然分かんない」という態度を前提にしながら粗雑極まりない態度で、この「霊妙な無我問題」を考えています。というのも−−−<人の中に>−−−という実に大雑把な表現を使いながら「ア−トマン(我)が有るとか無い」などと論じているのです。
 そして、この問題を
更に厄介なものにしているのが「ア−トマン(我)」の多義性です。
 「人の中に、ア−トマン(我)が、有る(又は)無い」という文の「ア−トマン(我)」を 「@自性 A真我」 どちらに解しても、これらの主張は一応成り立ってしまうのです。
 
 そこで、少々面倒ですが、
「ア−トマン(我)」に「@自性 A真我」を代入した諸ケ−スを検討して、正解を導き、深くて正しい認識を会得してもらうことにします。
 
 

 <T>「我」が「自性」の意味の場合

  S4以下は−−−
 「S4 = 梵我一如は『人の中に自性が有る』とする見解である」
 「S5 = 仏教は『人の中に自性が無い』とする見解である」
 「S6 = 人我見は『人の中に自性が有る』とする見解である」
 「S7 = 梵我一如は人我見で、仏教の無我説と正反対の邪見である」 (変化なし)

 −−−このような命題になります。
 では、各主張が正しいか否か、一つずつ検討して行きましょう。
 
〔S4〕「梵我一如は『人の中に自性が有る』とする見解だという主張」は正しいか?
(解法)−−−
「誤解の中核的問題」(一)で「自性」の全五要件を具備した存在だけが「自性有る存在」と言えることを見ました。つまり、「自性」という性質の有無は、存在(事物)の属性の問題です。もし仮に、誰かが「どこに自性が有るか?」と問うならば、これはズレた質問になります。自性は「或る存在」の属性なので、正確・厳密には−−−
「“どれに”又は“どの事物に”自性が有るのか?」
「“何に”自性が有るのか?」
 このように質問しなければなりません。漠然と「或る場所」に「自性」(という性質)が単独でふわふわ浮いているということは有り得ません。
 よって、「何処に自性が有るか」と問い、漠然と「人の“中”に」と答える問答があったとしたら、それは的外れの珍紛漢紛な問答です。
 
正しくは、「人の(構成要素の)『どれに』自性が有るのか」と問う必要が有ります。
 −−−肉体を構成する物質に自性が有るのか、否、もっと具体的に、血液に自性が有るのか、血液の赤血球に自性が有るのか、水分に自性が有るのか、白血球に自性が有るのか、血漿に自性が有るのか、それとも筋肉に自性が有るのか、神経繊維に自性が有るのか、蛋白質に自性が有るのか、骨に自性が有るのか、軟骨に自性が有るのか、カルシウムに自性が有るのか、成長ホルモンに自性が有るのか、アミノ酸に自性が有るのか、一個一個の細胞に自性が有るのか等々−−−
こうした具体性が必要です。
 一部の仏教徒が浅墓にも「梵我一如思想は『人の中に自性が有る』という見解である」と考えるならば、それは「大きな誤り」です。「人の中」という曖昧な場所に自性が有るわけではありませんし、梵我一如思想自体は「人の中に」とは一言も言っていません。
 
 そもそも、梵我一如という結論は、ヒンドゥ−教の中の他のヨ−ガ(ラ−ジャ・ヨ−ガ、バクティ・ヨ−ガ、カルマ・ヨ−ガ等)によって到達した結論ではありません。
それらのヨ−ガでは、梵我一如と看破する地点に到達することはできないのです。
 梵我一如という霊的ヴィジョンは、叡智のヨ−ガで、無常なものを斬り捨てて行くことで、初めて立ち現れて来る展望です。
 梵我一如という霊的ヴィジョンは、叡智のヨ−ガによってのみ到達し得る
「一つの極点」のヴィジョンです。こうした極点のヴィジョンが、「人の中に自性が有る」などという曖昧な場所を指し示す見解であるはずがありません。
「どれに、どれに自性が有るか」と突き詰めて行った
「究極の結論」が、それまで自分の知らなかった「大いなる我に」との結論だったのです。それを言葉で表現したのが「梵我一如=梵我同一」です。この「我」が「大我=真我」を意味である事は前に見た通りです。                                          
 梵我一如という究極の結論は、まさに
「自分の未だ知らなかった奥深い我(これを真我と呼ぶ)に自性が有った!」との驚愕の発見の体験を言語化したものです。これを体験した者は、「真我が何処に有るか」とは決して問いません。まさに、その瞬間に体験しているからです。しかし、言語による思想伝達として「真我に自性が有る」と聞く者は、直接体験が無いままに頭(マインド)で理解しようとするために、「でも、その真我は何処にあるのか、人の中に有るのか」という問いを発するのです。
 「真我は何処にあるのか」との問いの答えは、「誤解の中核的問題」(三)で既に検討した通りです。
この問いは「絶対界はどこにあるのか」と同じ問いなのです。
 また、「真我は人の中に有るのか」との問いには
−−−「人の中に」と限定することはできない−−−という結論になります。「誤解の中核的問題」(二)「真我は有形か無形か」で既に検討した通りです。(これについては、このページの下方でも再び触れます。)
 「人間」は「真我と個我の混成体」です(前篇第二章第二節『中観のための5つの譬え』参照))が、この事は「個我の中に真我が有る」ことを当然に意味するものではありません。この辺は「霊妙・精妙」な問題であり
「絶対界と相対界」の関係性の問題として考察する必要が有ります。
    
<梵我一如は「真我には自性が有った」という体験知を伝える宣言>です。同時に「自性有る真我と出会った」という体験知を伝える宣言であり、「閉塞的視野を持つ自分が未だ知らなかった奥深い本当の自分と出会った」という体験知を伝える宣言であり、「自性有る真我は、梵であった」という体験的発見を客観的事実として表明した宣言なのです。
 
 以上をまとめます。
梵我一如は「個我に自性が有る」という見解ではなく「真我に自性が有る」という事実を言明している思想だと言えます。
 
(結論)≫≫「S4」の「梵我一如は『人の中に自性が有る』とする見解だという主張」は、極めて曖昧で、不適切・的外れな表現と言え、誤りである。

〔S5〕「仏教は『人の中に自性が無い』とする見解だという主張」は正しいか?
(解法)−−−
「人の中の“何に”自性が無いのか」を突き詰めて行くのが正しい仏教です。漠然と「人の中に」と言って「自性」を否定しても、何かの存在の自性を正しく否定していることにはなりません。既に見た通り、正しい仏教は「個我の自性を否定する」(=真の無我説)ものです。
(結論)≫≫「S5」の主張は曖昧・不適切であり、誤りである。
 
〔S6〕「人我見は『人の中に自性が有る』とする見解だという主張」は正しいか?
(解法)−−−
「人我見」の正確・厳密な定義は、既に「誤解の中核的問題」(四)で提示しました。即ち−−−<「人我見」とは、個我(の一部又は全部)に自性を認める見解>−−−を指します。そして、こうした内容の「人我見」が「人の中に自性が有る」という主張と完全に等しい、と言うことはできません。何故なら、文言上「人の中に」と「個我(の一部、又は全部)に」という表現では、それが指し示す概念範囲に著しいズレが認められるからです。
(結論)≫≫「S6」の主張は曖昧・不適切であり、誤りある。
 
〔S7〕「梵我一如は人我見で、仏教の無我説と正反対の邪見」だという主張は正しいか?
(解法)−−−
梵我一如は「真我に自性が有る」とする見解なので「人の中に自性が有る」という見解とは全然違います。また、「人我見」の正しい概念は「個我(の一部又は全部)に自性を認める見解」なので「人の中に自性がある」という見解とは異なります。
 従って、「S7」の主張は、@梵我一如を曲解し A「人我見」概念も曲解している、このような
「二重の曲解」の上に出来上がっている(おぞましい)主張と言えます。
(結論)≫≫(結論)「S7」の主張は全然的外れ。
「大きな誤り」である。
 
 −−−以上、「典型的な誤りの無我説」の「S4」の「a〜d」の「ア−トマン(我)」の語に、「自性」を代入した場合に発生する「四つの誤解」についての検討を総て終了し、正解を明らかにしました。
 次は「アートマン」に「真我」を代入した意味を検討します。
 
 

 <U>「我」が「真我」の意味の場合

 S4以下は−−−
 
「S4 = 梵我一如は『人の中に真我が有る』とする見解である」
 「S5 = 仏教は『人の中に真我が無い』とする見解である」
 「S6 = 人我見は『人の中に真我が有る』とする見解である」
 「S7 = 梵我一如は人我見で、仏教の無我説と正反対の邪見である」 (変化なし)
 −−−このような命題になります。
 では、各主張が正しいか否か、一つずつ検討して行きましょう。
 
〔S4〕「梵我一如は『人の中に真我が有る』とする見解だという主張」は正しいか?
(解法)−−−
梵我一如をこのように誤解してしまう仏教徒は物凄く多いです。何故なら、仏教徒といえども普通は「物質的な思考パタ−ン」から自由ではないからです。
 ついつい
「真我」を「物的存在」としてイメ−ジしてしまいます。例えば、「真我」というビ−玉のような「物体」が人間の心臓の周辺に入っているのではないか、又は、墓場で青白く光る燐火のような球状のものが人の中に入っているのではないか等々と想像します。(また、霊体が肉体に合体していたとしても、霊体は真我とイコ−ルではありません。
 総論の「誤解の中核的問題」(二)で見た通り、個体的限定の有る「有形不滅の物的真我」は有り得ませんし、「真我」と言えば「無形・無限」の「不生の真我」に限ることも「誤解の中核的問題」(一)で見た通りです。
 
 そもそも
「真我と個我」の関係は「大海と一個のコップ」に喩えられます。
 
真我である梵の大海の中に、人間の個我という一個のコップが沈んでいます。海水はコップの内外に満ちています。コップの内も外も「同一=一如」の海水です。こうした状態について敢えて言語化するなら、「個我(コップ)の中に真我(大海)が有る」と言うよりは−−−
<真我(大海)の中に個我(コップ)が有る>−−−と言うべきでしょう。
 しかし、こうした喩えをすると、分かり易い反面、少々不都合も出て来ます。
 「真我の “中に” 個我が有る」 という表現でも真に正しい表現ではないからです。何故なら、真我(=梵)は「絶対界超越神」の別称であり、遍満無辺の一大神霊です。この梵に、前後・左右・上下・内外などの場所的概念は不適当だからです。
 
 そこで、「中に」などの場所的概念を用いない場合は、
「真我と個我は、互いに不即不離の関係にある」と表現することになります。不即不離とは、完全に「即」(同等・イコ−ル)ではないが、「離」(違うもの・別異なもの)でもない、という意味です。
 この「不即不離の関係」は第二章第二節の「中道コンシャス」の「世界認識の仕方における中道」の処で詳述した通り、
五つの喩えで説明できます。
 即ち
「@金と金細工の関係」「A水と(雪祭りなどで見られる)氷の彫刻物の関係」「B深海と海面の波との関係」「C映写機と銀幕上の映像との関係」「D未来型立体映写機と空間上の立体映像の関係」がそれです。
 
 
更に少しだけ補足します。
 そもそも、梵である「不生の真我が在る」と言う時の「在る」は、物質的な意味で「在る」のではなく、飽く迄も「潜在的に(非顕現状態で)在る」ことを意味しています。よって
「不生の真我」は、物体の「有無」によって、限定されたりされなかったり、邪魔されたりされなかったりすることが全くありません。
 「不生の真我」は、有形的物体の「有る/無し」に全然関係なく、ただ常に「何処にでも」遍満しており、「潜在的に(非顕現状態で)在る」ものです
。「不生の真我」は確かに存在するという意味で「無い」わけではありません。しかし、物質的に生起しているわけではありません。よって、見えないし、形態も無い。それ故、具体的に「何処其処に有る」と場所的に限定して指し示すことはできません。
 
(結論)≫≫「S4」の「梵我一如は『人の中に真我が有る』とする見解だという主張」は、極めて曖昧で、不適切・的外れな表現と言え、誤りである。
 
〔S5〕「仏教は『人の中に真我が無い』とする見解だという主張」は正しいか?
(解法)−−−
この主張は、表現が曖昧なため、多様な意味に取れます。少なくとも、「人」の語は 「@人間 A個我」 という二種の意味に取れ、「中」の語は 「@(ビ−チ・ボ−ルの如く)それに包まれた空間の中 Aそれを構成する要素それ自体に」 という二種の意味に取れ、「に」の語は「@にも Aにだけ」という二種の意味に取れます。
 こうした組み合わせで細かく検討する事もできますが、長くなるので省略します。(『セクト主義超越バイブル』の中で検討します)
 とにかく、ポイントは、第二章第二節の「中道コンシャス」で見た通り、「万物は真と非真の混成体」であり、「人間は真我と個我の混成体である」ということです。そして、既に見た通り、正しい仏教は「人の個我に自性が無い」とする教えです。
(結論)≫≫「S5」の主張は、極めて曖昧で広範囲な射程の命題で、その中には誤謬も多く含む表現である。よって、全体としては不適切・不正確な表現ゆえに「誤り」である。
 
〔S6〕「人我見は『人の中に真我が有る』とする見解だという主張」は正しいか?
(解法)−−−
「<我=自性>の場合の S6」と 全く同じ解法で充分です。即ち−−−
 既に「誤解の中核的問題」(四)で明らかにした通り−−−<「人我見」とは、個我(の一部又は全部)に自性を認める見解>−−−を指します。そして、こうした内容の「人我見」が「人の中に真我が有る」という主張と完全に等しい、と言うことはできません。「人の中に」と「個我(の一部、又は全部)に」という表現を較べると、両概念の範囲には著しいズレが認められるからです。(但し、一部分は当たっているところも有る、と言えます。)
(結論)≫≫(結論)「S6」の主張は、曖昧極まりない表現であり、不適切で誤りある。
 
【重要な補足】≫≫≫≫
 この
「S6」は極めて重要な部分なので、仏教真理を深く学習できるように、「最も陥りやすい間違い」について指摘しておきます。
 最も頻繁に見られる誤解のパタ−ンは
−−−<(不滅の)真我を有形なものと考えて、それが個我の中に有る>−−−とイメ−ジする見解です。(恐らく「霊魂は不滅」という考え方と連動しているのでしょう。)
 これは「誤解の中核的問題」(二)で見た通り、
「有形不滅の物的真我」を肯定する見解と言えます。そして、「有形不滅の物的真我」を肯定した時点で、それは「我見」に当たります。何故なら、(自性の第五要件から言って)「自性有る存在」は無形・無限の存在である必要があるからです。
 また、「有形不滅の物的真我」が「人体の構成要素」としてイメ−ジされた時点で、その見解は「人我見」に当たる、と言えます。この頁の「註D」参照)
 「有形不滅の物的真我」が個我の“中に有ろうと、外に有ろうと”、はたまた、個我から遙かに離れた場所に有ろうが、そうしたこととは一切関係なく、兎に角、その
物的真我を「人間の構成要素」と見た瞬間、その見解は「人我見」と言えます。
 
 さて、「この種の人我見」と不可分の連想なのですが−−−
<人の数だけ物的真我も有る>−−−と考えてしまう人が何と多い事でしょうか!
 例えば、七十億の人間がいれば、七十億各人が「七十億個の別々の物的真我」を持っているとイメ−ジするのです。(これは勿論「人我見」です)

 この種のイメ−ジは、更に拡大適用されて、
高次の存在者に対しても流用されます。
 例えば、阿弥陀仏を信仰する仏教徒の多くは「阿弥陀仏の身体を有形不滅なもの」と考え、「阿弥陀仏自体、又は阿弥陀仏の中に、不滅の物的真我が有る」と堅く信じ込みます。
 また、一部の密教徒は、数々の如来や諸明王や諸仏を礼拝しているうちに、それらが大日如来の変化身であることを忘れ、それらには、別々に「有形不滅の物的真我」が有ると思い込みようになってしまいます。
 また、釈尊を信仰する人たちの多くは、今も釈尊は霊界で生き続けており、彼の身体は有形不滅の「変化しない身体」に違いなく「永遠に同じ姿だ」と考えたり、或いは、彼の外形に多少の変化が有ったとしても、彼の身体の中には「有形不滅の物的真我」が存在し、それだけは不変だ、と考えてたりします。
 また、キリスト教徒の場合も、イエズス・キリストの身体について、釈尊の信奉者と同様の思考法で「イエズスの身体自体を永遠に不変のもの」と思い込んだり、彼の身体の中に「有形不滅の物的真我」が永遠に存在するというようにイメ−ジしたりします。
 そして、更には、一部のキリスト教徒(例えば、末日聖徒イエス・キリスト教会、俗称モルモン教)のように、イエズスのみならず、天父たる神でさえ
「有形不滅の物的身体」を具備している、と信じ込む人たちさえいます。
 正しい「人我見」の概念に照らすなら、
こうした見解は総て「人我見」に該当します。
 
 「本物の不生の真我」は「梵」と同一の大我であり、「絶対界超越神」です。よって、人間の数だけ有形不滅の物的真我があると考えるのは、大間違いの邪見です。
 そしてこのことは、
次のような「驚愕の事実」を意味しています。即ち−−−
  ★★★<万人は「同一の真我」を持っている(に属している)>−−−という事実!!!
 
 これを
−−−<万人共有・同一真我の真理>−−−と呼ぶことに致しましょう。
 この真理を知ると、物的思考法に浸かった意識の人は、驚嘆して卒倒するかも知れません。何故なら
、「自分と他者は全く別個独立の存在である」という思い込みが、彼らの(生きて行く上での基本的な)感覚だからです。(こうした感覚の故に、多くの犯罪が発生する、とも言えます。)
 ウパニシャッドの
梵我一如が「一つの極点」である理由の一つは、「梵我一如」という表現の中に、「万人共有、同一真我」という真理が含まれているからです。
 −−−以上で、「S6」に関する
補足を終わります。
 
〔S7〕「梵我一如は人我見で、仏教の無我説と正反対の邪見」だという主張は正しいか?

(解法)−−−
梵我一如は「真我に自性が有る」とする見解なので「人の中に真我が有る」という見解とは異なります。梵我一如は、敢えて言えば「<万人共通・同一真我>の中に個我が有る」とする見解であり、「真我を基盤として個我が有り、真我と個我は不即不離である」とする見解です。よって、梵我一如は「人の中に真我が有る」という見解でもなければ、正確な意味の「人我見」にも当たりません。よって、梵我一如思想は仏教の無我思想と正反対の思想ではありません。両思想は深い処で共通しているのです。
 従って、「S7」の主張は、@梵我一如を曲解し A「人我見」概念も曲解している、このような
「二重の曲解」の上に出来上がっている(おぞましい)主張と言えます。
(結論)≫≫(結論)「S7」の主張は全然的外れ。
「大きな誤り」である。
 
 −−−以上、「典型的な誤りの無我説」の「S4〜S7」の「ア−トマン(我)」の語に、「@自性 A真我」を代入した各種の命題についての検討を終了し、誤解が消えました。
 
 これで「晴れて視界良好、交通整理は終了」ならば良いのですが
、もう一つ、問題が残っています。もう一段、話を複雑にし、錯綜した誤解を生み出す原因になっている「悪い言葉」が有ります。それが−−−<実体>−−−という用語です。
 この言葉が使用されると、混乱は頂点に達します。

 
 日本の仏教界では、「自性」という専門用語が難解だから、一般向けにはもっと平易な表現が良いだろうという「ヘタな老婆心」を出してでしょうか、「自性が有る/無い」という表現の代わりに、「実体が有る/無い」という表現を使う事が実に多いのです。
 つまり、「
自性」の語を「実体」(又は実体性)と同義で使用しているのです。(例えば、岩波文庫版の般若心経の口語訳を見ると、「空」を「実体が無い」と訳しています。)
 こういう用語法を平気で使用している仏教徒に対して、試しに
「真我には実体が有るか」と問うてみます。これには「はい」と答えるしかないでしょう。そこで続けて「では、真我(=梵・法身)は、あなたの言う『実体』そのものですか」と問うてみます。するとこれもまた、「はい」と答えるしかないでしょう。
 さて、この「二つの答え」は何を意味しているでしょうか。
 実は、こうした仏教徒は、
「自性」を「実体」の語で代替しているだけでなく、「真我」をも「実体」の語で代替しているわけです! この混同は極めて重大な問題です! ところが、多くの仏教徒は、このことに一向に気づきません。
 
 「実体が有る/実体が無い」という言葉を何度も何度も使用しているうちに、
自分の使っている「実体」という言葉が−−−「自性」を意味するのか、「真我」を意味するのか−−−ごちゃごちゃになって分からなくなってしまう事態が起こります。
 例えば、「真我」の意味で「人の中には実体が有る」とか「人の中には実体が無い」などと言ったかと思うと、「自性」の意味でも「人の中に実体が有る」とか「人の中に実体は無い」などと言うのです。こうして、自分でも何を言っているのか、珍紛漢紛で訳が分からなくなってしまうのです。
 
これは笑い話ではありません!! 現実に、こうした「落とし穴」にはまり込んで混乱し、正しい思考ができなくなってしまった仏教徒がどれほど沢山居るか知れません。
 
こうなると、正しい「叡智のヨ−ガの実践」など、夢のまた夢です。
(「実体」の語を一人歩きさせてしまうと、無意識のうちに(有形の)「体」有るものを想定することになるので、これをイメ−ジした瞬間に「我見」が生じます。)
     
 従って、本当に「叡智のヨ−ガ」を実践したいと望む人は
、「<実体>が有る/無い」という言葉を「悪しき言霊」として断固忌避して、多少難しくとも「自性」概念をちゃんと学んで、この概念について深く理解した上で、「自性と真我」、二種類の言葉を使うべきです。
 この方法こそが「叡智のヨ−ガ」の瞑想法の実践としては、
最も速い道と言えます。
 
 −−−以上、「無我論」や「ア−トマン(我)」に関する諸問題についての
<誤解の山>を検討し尽くしました。
 この章を読み終えて、その内容を理解したあなたは
、もはや「仏教の基本教義」で悩むことはなくなることでしょう。本当にコングラッチュレイション!! 
 
(前篇 第三章おわり)
 
 

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このページの(本文)最終更新日 2004/3/21

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