●「メルマガ・バックナンバーはこちら」 < 宗教真理アカデミー > 【メルマガ第6号】 タイトル 「3分間で直観する『我見』の意味」 皆様、こんちは。 このたび、サイトへのアクセス2万件突破を記念して、メールマガジンを配信致します。アクセス一万件到達まで一年かかっておりましたが、次の一万件は半年に満たない期間で達成しております。このように、アクセス数は徐々に加速しており、当サイトの正しい仏教観が知られるようになってきております。 (そのほとんどが、ウェブ検索で般若心経関係の用語検索の結果、当サイトを御覧になるという形になっております。) さて、今回は、仏教の中心概念と言っても過言ではない「我見」の意味について、一気に正しく直観する「見方」をご紹介します。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 もう何十年前も前のことのように思いますが(実際は何年前でしょうか?)タレントの飯星景子さんが統一教会に入信して合同結婚式への道を歩んでいた頃、(作家である)父親の必死の説得が功を奏して、彼女が統一教会から脱会した頃のことです。 私は、彼女のFMラジオ番組「ディア・フレンズ」(だと思いましたが・・)をたまたま何度か聴いていて、彼女の「智恵を求める心の声」を確認したので、それに応えて手紙を出したことがあります。その手紙は彼女に届いて読んでもらい、彼女の脱会直後の混乱した意識が整理されて行くような意識変化に、かなり貢献できたのではないか、というような記憶があります。 その時の手紙のメインのフレーズは、これでした。 「神以外、一体どこに生命があるのか」 このように観想しましょう、ということでした。 個別的な宇宙全土に広がる諸生命が「神の一大生命」に他ならない、と観想するヴィジョンは壮大にして単一で、(インド)アドワイタ哲学のそれでもあります。 禅家では神を仏に言い換えて、「仏以外どこに生命があるのか」という見方をすることもあります。道元禅師の言葉の中には、「生死の中に仏あれば生死なし」という有名な台詞がありますので、曹洞宗の中には、上記のような見方ができる優秀な僧侶も全くいないということはないでしょう。 真剣に、「神以外の生命は他にない」とか、「すべての個別的諸生命は神の一大生命の現れである」 このように、観想できるようになると、その人は、知らず知らずのうちに 仏教の「我見」という邪見を克服した「正しい見方」をしていることになります。 なぜならば、 仏教によって「駄目だ」と嫌われる 「転倒した見方」としての「我見」とは−−− <「いのち」を各「いのち」ごとに個別に、形象ごとに別個、独立した「いのち」(主体)として捉える見解のことだ>−−−− このように、平易な言葉で言い換えることができるからです。 現在のところ、上記のような平易な「我見」の意味解説は、どの仏教辞典にも載っていないでしょうが、仏教の「アートマン論・主体論・スヴァバーヴァ論」を咀嚼して説明すれば、このようになるしかありません。 上記のように観想すると、どうなるのでしょうか。 キリスト教では、イエズス・キリストは、ご自分の身体を「神の神殿だ」と仰り、死後三日で蘇ることを、「壊れた神殿を三日で建て直す」という表現をしたと、伝承されています。 このことから、キリスト教では、我々の身体は、「神の神殿である」という見方がなされます。 日本でも(古)神道では、「宮(みや)さま」という言い方が天皇家に残っているように、身体を神の宮殿だとみる見方があります。とりわけ、現人神(あらひとがみ)としての天皇の身体は、まさに「聖なる宮」であると尊重されたわけです。(古代はシャーマニズムとも密接でしたから、神が憑依する身体という見方であったとも言えましょう。) このような−−<神が到来して鎮座まします神殿・宮殿>−−−すなわち、神の「社屋(しゃおく)」としての身体−−−このようにみる時、「いのち」とは、「社屋の数」だけあるのではなく、その社屋の中に入っておられる「いのち」は単一である−−−−という、恐ろしい霊的ヴィジョンが開けてきます。 お分かりでしょうか? 全生物の生きた活動を、単一生命の活動と見る−−−これが如何に深くて凄い壮大な霊的ヴィジョンであることか・・・。 このヴィジョンは、深い霊的奥義に直結しています。 ゆえに、仏教の「我見」の意味が真にわかる人は、超宗教の大道を行くことが可能です。 『般若心経マスターバイブル』では、後半の奥義開陳的な解説部分で、 「腕サック人形をあやつる青年と、幼稚園児」の譬え を出しています。(こちら↓です) http://www.hannya.net/masterLC5.htm#armsacdoll この奥義が真にわかると、空海のこちらの名言の真意もわかります。 http://www.hannya.net/masterLC5.htm#kyakusya こうなると、ヒンドゥー教で説かれる「寝そべったシヴァ神を踏みつけて躍るカーリー女神」という象徴図の真の意味も自ずと明らかになります。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 そうすると、日蓮の「釈迦牟尼如来バクティー」の教理の間違い部分も自ずと分かるようになります。 有形(形而下的)身体をお持ちの「報身仏」としての(永久に生き続ける)釈迦牟尼如来は、有形・形象ありの身体であるがゆえに、その表面は、「腕サック人形」に過ぎない・・・・ このように見ることができた時、日蓮が真言密教を批判して、「釈迦を大日如来よりも低く見るのは釈尊を貶めている見方だ」という主張が、釈迦報身仏へのバクティーレベルの主張であるに過ぎないことが明らかになるからです。 日蓮は、大日という「法身」はダルマであるから単独では説法もできない理法身に過ぎず、釈迦牟尼如来という報身仏と連携してこそ、活動できる、と考えていたようです。 これは、大日法身の全能性を否定し、ひいては、法身の「自性」を否定した「法身無自性」の見方にすらなりえるもので、日蓮は、釈迦牟尼如来という有形報身に対して「我見」を抱いていた、という可能性が実に濃厚である、という指摘が可能です。 但し、有形なる釈迦牟尼如来報身仏へのバクティーということでは、狂信的なまでに熱心であった日蓮のバクティーは、超一流と褒めることができます。 ただ、このように日蓮の(高度なレベルでの微妙な)「勘違い我見」について考えると、 日蓮以前の何百年も前に、空海が「自性・無自性」について実に的確な認識に到達しており、それによって「十住心論」の起草し、そして、大日法身の全能性を認識していること、こうした「体験」に基づくと思われる記述は、実に当時としては、傑出して世界最高レベルであったのだなあ、と認識と尊敬を新たにする思いです。 ですから、公開法論を好んだ日蓮ではありますが、当時、真言宗側に空海ほどの論者がいなかったのでありましょうが、もしも、もしも、空海と日蓮が公開法論をしたなら、簡単に日蓮は空海によって論破されたことでありましょう。 この論点に限って言えば、今日の般若宗であっても、日蓮系統教団側との法論には容易に勝つことができるであろう、とは言えると思います。 なぜなら、「神以外、一体どこに生命があるのか」 この霊的ヴィジョンこそが、アドワイタ哲学であれシャンカラ哲学であれ密教哲学であれ、大曼陀羅観であれ、ヒンドゥーのシヴァとカーリーの関係であれ、カトリックのイグナチオ・デ・ロヨラの世界観であれ、古神道であれ、みな共通して主張する「奥義」としての一元ヴィジョンだからです。 それでは、今回は以上に致します。 皆様の上に、大日空王主の恵みと慈雨が亜熱帯地域の如く、 豊かに注がれますように。 碧海龍雨 著作権について ■ ■ ■ ■ Copyright (c) 2003〜2012 Aomi Ryu All Rights Reserved ■ ■ ■ ■
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