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思考のバグシリーズ後半item detail

思考のバグシリーズ後半New!

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「小乗の悪徳」とはどのようなものか?
上座部仏教的な思考をする人。
特に、「ブッダ論理学」を提唱している石飛女史に向けて。

石飛女史の掲示板(「彼女のHP」で「マジカナ道場」を選択して下さい)にて。

思考のバグ14

石飛女史の反応をみると、ここまで述べても、「反省の色ゼロ、自分は正しい」の一点張り。
鈍根の馬であることは、既に証明されつつあるのでしょうけれど、どうして、このようなことになるのか? 人間学的に、精神分析学的に、宗教学的に・・・分析対象として観察することも可能でしょう。

たとえば、イスラム教において、狂信的イスラム原理主義が起こるのは、聖典の読み方・扱い方において、「文言絶対主義」を採る人に起こることです。
いわば、「芋虫型」です。聖典という文言の木の枝にしがみついていないと死んでしまうという感じなのです。
体験を聖典よりも上位規範にする「蝶々型」の場合には、聖典は、確認用に過ぎません。

石飛女史の場合、ブッダ論理が書いてある仏典は、みんなブッダの言としています。法華経という創作経典すら、ブッダ論理が書かれているからブッダの言、と述べて憚ることなし、という「文献学者としてはトンデモ」の立場です。
それならば、私が、石飛女史が述べるブッダ論理を書くことなど、わけもないので、そうしたブッダ論理をと書いたら、「おお、これはブッダの言だあ〜」となるわけですね。
そして、私が書いたと知ったら、どんな顔するのか?(笑)

NHKで時空を旅するジャーナリストのドラマがやってましたが、タイムマシンで原始仏典が成立して伝承される過程を取材してビデオに撮ったら、たぶん、ゲゲゲッーとなると思いますね。
たとえば、お店に入って出された食事をおいしく食べるしか我々はできませんが、厨房では、食材を床に落としても、3秒ルールとか言って、捨てるわけに行きませんから、それを客に出すわけですね。ラーメンのスープを大鍋で24時間ぐつぐつ煮ていたら、それにゴキブリが落っこちて入っても、このスープを捨てるわけに行かないから、ゴキブリをつまみ出して、そのまま、客に出すスープにするわけですね。

石飛女史には、そういう想像力が欠如しているのでしょう。
仏典ならば、全部、信用できる、と思い込んでいる。もう、この時点で、文献学者としては失格ですし、解釈学者としても失格でしょう。
あとは、「煩悩解釈満開学者」になる他はない。

仏典をなんでもかんでも「真に受ける」態度自体が、大人の態度ではない。お子ちゃまの態度ということになります。本当に、宗教において、「超初心者」であることが、如実にわかるわけです。
その彼女に対して、たまたまパズルがうまくはまったからと言って、「石飛女史、天才的です〜」と褒めるo学者は、これまた、彼女の「超初心者性」を見抜けないという意味において、「同じ初心者」ということになります。
ザポ氏も、三法に帰依していない人ですから、帰依道としては、門外漢であり、初心者レベルです。

このように「初心者3兄弟」なのですね。

その上、悪いことに、「上座部仏教の空性論理」を重視していて、大乗の空を理解していない。
上座部仏教においては、「自分たちは上座にいる弟子の言説を受け継ぐ上座の者だ」という高慢心にまみれています。「自分たちは特別」と思わせるカルト手法の同一線上に乗っています。だから、他の4大宗教が有神論であっても、「それは間違っている、我々の無神論仏教のみが正しい。我々は貴重な少数特別エリートなのだ」と思い込む。
宮元啓一教授は、髭をはやして仙人みたいにして、自分は偉い人だぞうオーラを出していたことがありますが、(今は知りません)、獨協大学の生徒程度に、そんなことして、しょうもないですねぇ。こうした態度は、上座部仏教系に立脚する人には、よく見られる態度です。

一方、大乗の空においては、上座も下座もない。生徒と先生もない。同じ目線です。いえ、大乗においては、生徒の足を洗ってあげるべく、先生が跪いて低い姿勢になることすらあるのです。キリスト教系統の大学の教授、たとえば米国の教授で、とてもフレンドリーな人がいるのは、そういう思想背景があると言えるでしょう。

また、ザポ氏が、私との公開法論から遁走したときも、私が信用できないと人格批判を理由にしましたが、私がルールを破れば「反則負けになるのは私」なのですから、それが理由なのはおかしいわけで、私の方からは、ザポ氏の回答何度でも撤回して良い、私の回答はサイトにあるから予測可能、それに外れることは述べない等々の条件を出しましたから、ゴルフで言えば、30ぐらいハンディキャップをつけてあげたようなものですね。
それでも遁走しました。これは、「保身の腹黒」に依るものです。
上座部仏教系では、「捨身の清心」ではなく、「保身の腹黒」になり勝ちなのです。
なぜなら、「自分たちは上座のエリートだ」というプライドが保身を生むからです。

イスラム原理主義者の多くも、相当なエリート意識を持っているようです。聖典の文言を忠実に守るのは、自分たちぐらいのものだ、他の者たちは、テレビを見て、ちゃらちゃらした服装をして・・・・となって、自分たちの苦行的な戒律遵守のストレスは、過激な他者批判になり、ヒステリー的な行動へと繋がって行きます。

既に、無宗だ氏へのレスで出したものですが、

ナ−ガアルジュナの弟子ア−リヤデ−ヴァの後継者、ラ−フラバドラの作とされる「讃般若波羅蜜偈」は、「般若」のことを「生ける主体」として、擬人的な呼びかけをしているわけですね。
(以下、一部抜粋します)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・思慮によって捉えることはできず、はかり知ることもできない、偉大な「般若波羅蜜多」 よ、あなたに帰命し奉る。何一つ欠点なきものよ。そのようにあなたは欠点なき人々によ って観られる。
・あなたは何処からも来ないし、何処へも行かない。どのような場所においても、あなたは 賢者によっても、捉えられない。
・何一つ特徴を持たず、けがれを離れたあなたを、この世の一体誰が讃えることができましょうか。一切の言葉の対象領域を超えているあなたは、何にも依存なさらない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

般若は「叡智」です。叡智が死者であるわけはなく、「生ける主体」に決まっていますね。
般若は、「死せる法則だ」という主張も、馬鹿馬鹿しいことはわかるでしょう。

というわけで、これは、
「不生不滅で何一つ欠点がなく一切の言葉の対象領域を超えた、何ものにも依存しないで独存する、般若波羅蜜多にして縁起を超越した絶対虚空梵我」
であるわけです。

こうした「縁起超越絶対虚空梵我」を否定するブッダのロジックはありません。
「否定する仏陀論理あるぞ」と強弁するならば、その仏教学者は、アホ決定です。知能指数的に、バカなので、学者をやめた方が良いです。皆に害悪をもたらしますから。

で、「何一つ欠点がない」との表現は、龍樹の「馬を忘れている」の解釈でも触れた龍樹けの表現にもありましたね。
ナ−ガアルジュナの弟子ア−リヤデ−ヴァの後継者、ラ−フラバドラの作とされる「讃般若波羅蜜偈」に、この表現があるわけですから、
この立場を継承するならば、
「般若波羅蜜多」を「智慧の完成」だと、中村元博士・紀野一義博士のように、訳しては絶対にいけません。
完成など、無いのです。既に完璧なのです。
「般若波羅蜜多」は、「完璧なる智慧」つまり「何一つ欠点がない智慧」を意味するのです。
このことは、私がサイト立ち上げ当初から主張していることですね。
http://www.hannya.net/masterLC7-1.htm#3-paramita

大乗仏教において、「般若波羅蜜多」がこのように認識されるとき、
大乗の「空」は、「空性と虚空梵我」という正反対の2義を掛け詞として帯びることになるのです。

イストラン氏は、「釈尊仏陀当時はなかったアドヴァイタ」を「大乗がアドヴァイタを持ち込んだ」と解釈していますが、そうではないのです。
大乗の「空」である「空性と虚空梵我」という正反対の2義を掛け詞として帯びる用法を確立した「般若経典」そして「龍樹の論」において、「仏陀の真意が復活した」と、大乗側は宣言するのです。

上座部仏教系の「空性」という薄っぺらな「否定」のみでは、存在論的世界観を確立することはできません。片手落ち哲学になってしまうのは、既に指摘した通りです。

「般若波羅蜜多」=「完全無欠の大叡智」=「不生不滅の縁起超越・絶対虚空梵我」

これぞ、仏陀の「正覚」であったのです。
「天上天下唯我独尊」の寓話を、現代日本では、
この「唯我」を「不生不滅の縁起超越・絶対虚空梵我」=「完全無欠の大叡智」=「般若波羅蜜多」
だと、解釈し直す仏教徒も出て来ていますね。
たしかに、この解釈だと、「天上天下唯我独尊」は、ヴェーダンタ密教の真理を言い当てていることになります。


そして、次に、「十二支縁起の逆観」は、本当に「般若波羅蜜多」行なのか?
という話になります。

とりあえず、今回はここまで。
以上、
上座部仏教系の「空性」は、龍樹と般若経典の「完全無欠の空」からすると、不完全で片手落ちで、龍樹の次の言葉が該当することを述べました。

・・・以下引用開始・・・・・・・・・・・・・
不完全に見られた空性は智慧の鈍い者を害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇、
あるいは未完成の呪術の如くである。(24−11)
それ故に、その法が鈍い者どもによってよく理解されないことを考えて、聖者が教えを
説示しようとする心は止んだ。(24−12)
・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・

智慧の鈍い者を害する・・・・
実際に、「害されている」その様子を、「ドロンジョ一味の振る舞いと人格態度」に、ありありと観ることができるでしょう。
スマ長老のヒステリーにおいても、ですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考のバグ15

T、T氏が次のようにご発言されています。

>
> 例えばですね、目前の木を普通、木と分別され木と判断しますね。
> それは、普通はそれでよろしいのですが、禅仏教では、それでは本当の木を見て
> いないと言う。
>

石飛女史の使用する「あるがままに観る」という意味は、
「真の仏教の見地」からすると、「石飛用語は意味が転倒」しています。

ブッダが使った「あるがままに観る」とは、石飛女史が思っているような意味ではありません。

それがわかったとき、石飛女史は、ご自分の間違いを知ることになります。

そのとき、ご自分が「魔軍に属する目」で「認識する一切」を観ていたことを知るのです。
そのとき、ご自分が、「魔軍であった」と知るのです。
そのとき、ご自分の「龍樹の空」についての理解が、一知半解であって、
中途半端に観られた空観は、「智慧の鈍い者を害する」という龍樹の言葉が、ご自分に該当していたことを知るのです。
この気付きは、自内証として知るのです。

そのとき、龍樹が、智慧の鈍い人には語らず沈黙する、という理によって、
龍樹が生きていたならば、石飛女史には、そっぽを向いて、何も語ってくれなかったに違いないであろうことを、自内証として、初めて知るのです。

そのとき、自分は、四馬の比喩の中の、「鞭を振るわれて、その鞭が身に食い込み、苦痛で身悶える」ことで、初めて「従う」という
最も鈍根なる者であったことを 自内証として、初めて知るのです。

そのとき、選択する道は、2つあります。
1つは、これまで通りの道を 強弁して行く狂気の道が一つ。マッド・サイエンティストのような道になってしまいます。
もう1つは、悔い改めの道です。
剃髪して合掌して
御免なさい、これまでの解釈は全部嘘っ八だったと痛感してわかりましたので、今後、大反省をして、回心して、1から仏法を学び直しますので、今後ともよろしくお願いします・・・・
みたいな、「謝罪写真」をサイト表紙に謝罪文と一緒に載せて、
再出発・・・・ということになれば、幸いです。

間違いにへこたれずに、再度、1から龍樹を解釈し直して行く道ですね。

そのときには、龍樹がそっぽを向くことはないでしょう。
札幌キノコのみっちゃん、みっちゃん・・・と言って、きっと可愛がってくれることでしょう。

以上、「あるがままに観る」の意味を転倒している思考のバグについて指摘しました。
論理的理由を述べていないのですが、T、T氏の言説を引用しているため、
「石飛女史言説と、T、T氏の言説」と間の「大きな開き」
これについては、石飛女史もよくご存じであるわけですから、
その「大きな相違点」の中にこそ、「転倒」の理由がある、
という言い方で、ここでは、十分だと思います。

これ以上、内容を論理的に解説しようとすれば、
石飛女史を「真の龍樹論法でぶった斬る」しかなくなってしまいます。

石飛女史が、「実際にぶった斬られる」「その前」に「ご自分で気付く」のかどうか?

今まさに「鞭が振り上げられ、ぶった斬られる寸前である」ということを
状況把握して下されば、よろしいか、と思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思考のバグ16

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(イストラン氏)
たとえば主観も客観もない、というのは体験としてそういう体験をするからですが、これをもってして形而上学的一としてもゼロとしてもどちらでもいいように思いますよ。

(石飛女史)
> 「空」は、そうやって生まれてきたものではないということだと思います。「空」は、アドヴァイタ的体験の中から生まれたのではなく、『小空経』の「空性の住処」という禅定によって得られる境地と思います。
>
> 「空」は、禅定の境地であると思います。それを、現実へと理論化していったのが、龍樹だと思っています。
>
> だから、アドヴァイタ体験は、「空」と似ているように見えるけど、「空」ではありません。
> 「空」にも行きそうだ、という、こちらの「零」体験は、似て非なるものです。
> これは、「気分」に行くけれど、「空性の住処」は「気分」ではなく、ヴィパッサナーと気づきがあります。
>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

池田信夫教授は、上武大学という無名の大学で教鞭をとっているので、出来の悪い生徒がトンチンカンなことを言って来たとき、「どこで勘違いしているのか」を探すのが極めて大変だと、述べていました。原因を徹底究明して行くと、初歩の初歩、超初歩の部で、とんでもない思い違いをしていたことが発覚して、「なんだと〜〜、こんな初歩部分すら、ちゃんと理解していなかったんかいっ!」というような驚愕に見舞われるというようなことを書いていました。

実は、上の石飛女史の発言を見て、私は、「そのような驚愕」を味わってしまいました。(笑)

石飛女史いわく
「空は禅定の境地だと思います」
つまり、仏陀の体験も、龍樹の体験も「禅定の境地」だと、言うのです。

o阿闍梨よ、ここで貴殿が突っ込まなくて、どうするのか?
ザポ氏も、石飛女史も、「禅定と三昧」の区別を知らないようです。
貴殿が教えなくて、誰が教えるのか? この掲示板御三家の中で。

これは、初歩の初歩でしょう。
瞑想の基本知識でしょう。

釈尊と龍樹の「空」が「禅定」だというのですか?

石飛仏教・・・・ジ・エンド です。
これだけでも、浅田美代子レベルの天然だとわかるでしょう。

以上、
禅定と三昧の意味の区別すらつかず、「三昧」未満の「禅定」が「空」だと強弁する、思考のバグを指摘しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思考のバグ17


・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・
(石飛女史)
だから、十二支縁起の仕組みを熟知すると、苦しみのいずるところがわかるから、それを滅することもできるのです。

(ソレっち様)
法の罠、論理の罠、言葉の虚構にズッポリ、ドボンってやつだねw
オメデトウゴザリマスル〜って感じだよ。
そんなもんは「縁起」ではござんせん。
ただのいいかげんなテク講座でしかないので、
滅することも出来ないのでありまするぅ〜
真摯な魂に於いては、アポリアが発生いたします。
いいかげんな根性の輩は、愚かにも暦劫修行の途に旅立ちます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

石飛女史は、これに対して、またトンチンカンな回答を寄せていますが、
ソレっち様の言葉を「まとも」に受け取っていません。
もしかしたら、「全く理解できていない」可能性もありますね。
ソレっち様は、
「十二支縁起の逆観は、ただのいいかげんなテク講座でしかないので、滅することはできない」と述べているのですね。
「真摯な魂」がそれを実践すれば、「絶対的な困難性に逢着」して、「これはウソだな」とわかる、というのです。
「いいかげんな根性のヤカラ」は、中途半端にちょっとやってみては、
「うん、あんまりうまく行かないけど、それは私が中途半端だからね、明日また、やってみよ〜うっと。」
という「パンパな実践」を延々と永遠に繰り返して、「方法の欠陥に気付くことなく」「愚かにも暦劫修行の途に旅立ち」をしている、という指摘です。

ザポ氏も同様ですね。「無明」の定義うんぬんで議論したとき、
滅する方法なんて、わかってるよ、ただ、ちょっと実践する気が出ないだけさ、・・・みないな発言でしたからね。
石飛女史も同様なのでしょう。
「十二支縁起の逆観」で悟れるのなら、さっさとやってみせれば、みんな納得するでしょう。
ところが、全然やってみせることはできない。実際は、煩悩だらけ、慢心だらけ、無明だらけ・・・とテルゼさんにも指摘され、しかし、
「十二支縁起の逆観で悟れるって言ったら悟れるんだいっ」的な強弁をするばかり。

・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ソレっち様)
わっかるかなぁ〜?
わっかんねえだろうなぁ〜
支分を潰してゆけば、いずれ無明が滅して苦から遁れる、
それを「大嘘」と呼びましょう。(・・・)
ドグマを権威化することで、己(及び教団)の栄華を目論む坊主共が必死になってこさえた大嘘ですわw
ブッダの「無我の法」に似せて作ってるとこが巧妙だね。

(石飛女史)
「栄華をもくろむ坊主ども」には、こんな智慧はないです。
これ、ブッダ・龍樹だよぉ。
証拠があります。(・・・)
下から支分を一つずつつぶして行くんです。でも、一つ上の原因が消えないとその下は消えないわけだから、返し縫いみたいに、行っては戻る、みたいな感じにもなってるわけだ。
上からドミノ倒しのようにだーっと行くのではない。そんな簡単では、もちろんないす。
下から這い上がるように、支分をつぶす。。十二の頂きは、何と、(おのれの)無明。その直前の「行」、こいつがなくなるのは、無明の滅を原因としなければ、ならないのです。
そうして、最後までいけたとき、上からだーっと消えるということにもなるのです。
時間があるのは、「行」があるから、なんだよ。
だから、最後の最後の最後まで、時間にしたがって進んでいくのは、そのためです。最後に「行」が滅したとき、時も滅するでしょう。
・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・

だから、さっさと、「時を滅してみせなさい」ってことです。
「簡単にはできないよ〜」と泣き言を言うのだったら、
「PDCAサイクル」を回しましょう。
一般的な社会における「会社」の、まあ、常識的な方法論でしょう。
プラン→ ドゥー実行→ チェック反省→ 反省後の再アクションチャレンジ、と。

その過程を、文字にして、見せて下さい、みんなに。
「石飛道子が挑みます、十二支縁起の逆観の実践チャレンジ、PDCAサイクルの結果報告発表」
を毎日、やって下さい。
もし、ソレっち様が言うところの「真摯な魂」なら、やがて、「困難性」に逢着するのではないでしょうか? とにかく、何かが見えてくるでしょう。
石飛女史が「真摯な魂」でなくて、「いいかげんな根性のヤカラ」であるならば、
石飛女史が毎日報告する「十二支縁起の逆観の実践チャレンジ、PDCAサイクルの報告発表」の中身も、めっちゃめちゃ、いいかげんなものになるでしょうから、そうした結果が一目瞭然でしょう。
ついでに、ザポ氏も石飛女史と一緒に、この「実践チャレンジ報告」に参加されるように、お勧め致します。「うん、そう」の人脈脳なのでしょから。

もっとも、ザポ氏の得意技は、すたこらさっさとトンズラーする「遁走」ですから、この提案には、乗ってこない方に、1億ベリー・・・ですね。(笑)

以上、
「十二支縁起の逆観」の「逆観」が何を意味するのかすら、理解していない、と思われる、(分かっているなら、さっさと実践しているはずでしょう)
石飛女史の思考のバグを指摘しました。

自分の言葉に「実践者としての責任」を持たない、持とうとしない、
(無責任な社民党・福島瑞穂女史のような、絵空事理想論しか言わぬ)
ソレっち様の表現で言えば、
「いいかげんな根性のヤカラ」に
石飛女史やザポ氏が該当する、
というわけです。

そしてこれは、
「クズなるもの」(十二支縁起の逆観)に高い価値を置き、「真に価値あるもの」を知らない「無知」であるがゆえに、
知らない以上、「真に価値あるもの」に価値を置けと言われても、置けないし、置かない、
ゆえに、そのままの態度と思考パターンのまま突っ走るならば、
永遠に、「無知・無明」のまま輪廻を繰り返す、
という、実に根深い「転倒」(思考のバグ)状態
を指摘するものにもなっています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考のバグ18 

石飛女史のこの発言。

>
> 仏教の思想的な基盤を、そっくり拝借して、そして、その上に、絶対者ブラフマンの思想を積み上げる
>

ヴェーダンタ密教が、仏教の教えを「そっくり拝借してその上に絶対者ブラフマンの思想を積み上げる」のですって?

勿論、正解は、その正反対です。
釈尊ブッダは、もともと、ヴェーダンタ密教の大聖者でしかないので、
ヴェーダンタ密教の中の「ブッディ・ヨーガの最高奥義」を示したのが、「仏法」であるわけです。

ところが、ブッダ・バクティーの仏教徒は、ヴェーダンタ密教に包摂されるのがイヤで、「自分たちは、お前らとは違う」「自分たちだけが聖なのだ」
という「聖別」をしてしまったのです。
その瞬間には、仏法は、「無明縁起のエセ瞑想法」に堕したのです。
そうして、部派が乱立して、ブッダの教えは、どこにもないようなことになりました。
そこに、大乗仏教運動、般若経典群 そして、龍樹の登場となります。
それによって、真の仏法は、ヴェーダンタ密教であることが、一瞬だけ示されました。
このときには、無分別の平等智による、ヴェーダンタ密教も仏教も区別がない状態になりました。
しかし、これは、本当に一瞬の出来事でした。
再び、ブッダ・バクティーの仏教徒によって、ヴェーダンタ密教と一緒にされてたまるか、という「自我」が出て、自分たちを「聖別」してしまいます。

そうして、現代の日本の仏教界では、「十二支縁起説こそ仏法の根幹」という立場が力を得ているようです。
これも、世界の4大宗教から、自分たちの仏教だけが「特別なもの」と「聖別」して、みずからを「上座」に置く思想なのです。

この「上座」思想のゆえに、この説の首謀者の一人でもあり、巨人中村元博士の弟子である宮元啓一教授は、仙人のような偉そうな格好をしていた、と見ることが自然です。
それに追随するドロンジョ一味も同様です。

ドロンジョ一味は、言うでしょう。
「アドヴァイタ思想さん、あんたが、仏教を拝借して盗んでいる盗人なのである」と。
一方、ヴェーダンタ密教側は、言うでしょう。
「無明縁起万々歳の似非仏法さん、あんたが、本家から、奥義書を盗み出して、一番大切な「瞳(梵我)」部分を削り落として差別化・聖別化することで、現在のような「画竜点睛を欠く似非仏法」を創作したんじゃあ、ないですか」と。

さらに、こう続けることでしょう。
「いいですか?
スッタニパータをよく読んでごらんなさい。ブッダがバラモンのブラフマンを否定した言説が載っていますか? 否でしょう? むしろ、自身をヴェーダの達人と呼んでいるほどです。前後の文脈を素直に読めば、バラモン教を否定していないことは、明白なのです。ただ、当時のバラモンが知らない「瞑想技法」を教えただけなのです。だから、当時のバラモンは、「この方法、いいねっ!」ということで、その方法を気楽に採用した、というわけです。
別段、この「乗り換え」作業には、大きな悔い改めも必要ではないし、とても簡単・安易なものだったのです。それは、バラモン教と本質が同じだったからです。
それに、ブッダは、紅蓮地獄のことなども述べていますね。霊界のことは、よくご存じであったのです。「無記」を強調するのは、故意のマインド誘導以外のなにものでもありません。」

これは、ヴィヴェーカーナンダであっても、同じように言うでしょう。
ヴェーダンタ密教側で、しっかりした知見を持っている人なら、だいたい、みんな、このように言うでしょう。

「仏典を読む」ときに、「十二支縁起の逆観」説の学者たちは、「故意に」自分に都合の悪い部分は、「無視して」います。
そこに、「姑息なエゴ」があることを 生けるブッダや龍樹は、お見通しです。

ふた言目には、「仏典にそう書いてある」という論法を使いながら、自説に都合の悪い部分は、「故意に無視」して「沈黙」する。
「卑怯な沈黙」は、o学者の得意技でもありますね。

そこに、「姑息なエゴ」があることを 「自分たちは、エゴなんて無い、無い」と「エゴの頭」を隠しているつもりでしょうが、「エゴの尻」が丸見えなんですよ、みんなに・・・笑
「知らぬは、自分たちばかりなり」・・・ってね。

こうした「悪の根源」は、自分たちの説を
・・・・「聖別」して「上座」に置く・・・・・
という、キリスト教で言えば、
「ファリサイ派」と同じ行為をしているのですね。

それに気付かないわけです、本人たちは。

であるから、大乗側が、第三者の目で、指摘するしかないのですね。

というわけで、「大乗と小乗の差異についての比較対照表」を今度提示致しましょう。
両者を比較すると、きっと、よくわかるでしょう。
何が?
「姑息なエゴ」と「保身と腹黒」が。

以上、
どっちが教義を盗んだか、についての「転倒」について指摘しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考のバグ19

石飛女史が、またもや、「分からず屋」さん発言をしているので、ピックアップ。
(次から次で、ネタに困らないので、参ったなあ。苦笑)

思考のバグをこれだけ指摘されて反論もできず・・・なのに、平然としていられるのは、哲学的な解析眼が働かないような「知性の鈍さ」があるのか、或いは、「盲信が狂信的レベルに達しているのか」のどちらかではないだろうか。
そして、上座部仏教系の信徒は、往々にして、その両方であることが観察される。

私が、思考のバグ11で指摘したことは、仏教には、ヴェーダンタ密教の虚空梵我を否定するロジックはない、ということでした。o学者もこれには、決定的な反論ができず、「賢者は沈黙するのみ」という態度で、実は、言うべきときに言わない「卑怯の沈黙」に徹しております。
しかし、石飛女史は、そうした「機微」を弁えず、ド〜ンと、次のように述べています。
・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・
そして、その<アナッタン>は、三とおりに解釈されるのです。
<これはわたしのものではない>  <これはわたしではない(わたしはこれではない)>  <(これは)わたしの本体(attan)ではない>

<これはわたしではない(わたしはこれではない)>
このことばは具体的にアドヴァイタの思想を拒否しています。
「わたし」を宇宙の原理「有」や「ブラフマン」「最高のアートマン」などと同じものと見るからです。
・・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・

思わず、「バカですねェ〜」と言いたくなるのを、グッとこらえて、冷静に、
石飛女史の言葉を、忠実に受け止めて、代入してみましょう。

<これはわたしではない(わたしはこれではない)>
この命題の、まずは、(  )の前だけをみましょう。
<これは「私=虚空梵我」ではない>

「これ」って何ですか? 「認識される世界の一切」?
それが、虚空梵我でなくても、虚空梵我の存在は否定されません。
なぜなら、「認識される世界の一切」の外に存在する、という可能性があるからです。
っていうか、ヴェーダンタ密教で「本地」と呼ばれるのは、「凡人が認識する世界の一切」の外としての「彼岸」に、「本居」を持つ不生不滅の虚空梵我なのです。
マーヤーとしての世間は、本居ではありません。そこは明確に区別されます。

次に、( )の中をみましょう。
「わたし(虚空梵我)はこれではない」
「これ」の意味が何であったとしても、「虚空梵我の私」の否定文にはなっていませんね。

以上、
石飛女史が、どのように強弁したって無駄なんです。
石飛女史の言葉と主張は、「論理的ではない」からです。
知的レベルが知れてしまっているのです。(知らぬはご本人とその属性眷属のみ)

ブッダが、虚空梵我を否定するわけがないのです。

「梵我との一体不可分性」を「確立した」のがブッダだからです。

以上、

仏教は、不生不滅の虚空梵我を否定している、と強弁する石飛女史の
「論理の転倒」というか、「きのこちゃんレベルの人々を騙そう」というつもりなのか知りませんが、「石飛謹製まやかしの論理」を使用して
トンチンカンな自己主張を強弁している
「論理になっていない嘘っ八」について指摘しました。
・・・・・・・・・・・・・・

思考のバグ20

大乗仏教は、小乗仏教を「踏み台」にして「それ(踏み台)ではない」として出現した思想です。
ゆえに、「踏み台」はステップとして、無いより、有った方が良いです。
それは、ユダヤ教があって、その単純否定ではなく「その止揚として」キリスト教が出現したのと同様のことなのです。
それは、バラモン教があって、その単純否定ではなく「その止揚として」仏教が出現したのと同様のことなのです。

そういう意味では、大乗仏教側の「倫理と論理」としては、
「小乗論理という肥溜めに落ちる人が出ないように」
「肥溜めの周囲に安全柵を造る」ということが必要な作業になって来るのです。

ところで、「小乗論理の肥溜め」に今まさに落ちんとしている、かわいいキノコちゃんがいるので、今回は、「きのこちゃんに語りかける」形式を取りたいと思います。

以下、きのこちゃんへの、碧海おじさんの語りかけ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
きのこちゃんが中年?のお嬢様だというのは知っていますが、心がきれいで「子供の心」をお持ちなので、碧海おじさんは、きのこちゃんが大好きです。だから、今回は、きのこちゃんの「子供の心」に語りかけます。碧海おじさんは「魔法少女リリカルなのは」というアニメが好きなので、この少女たちが小学3年生なので、子供の心のきのこちゃんが小学3年生ぐらいだと思って、語りかけますね。

実はね、ここで大問題になっていることは、ただ1つなんだよ。
「神様は、本当にいるの?」っていう話なんだ。神様は「いる」か「いない」か、どちらかで、その中間はないんだよ。
それでね、石飛オネェーは、「神様なんてイネェーヨ」派なんだよ。
ザポおじさんも、o学者せんせも、「神様なんてイネェーヨ」派なんだよ。
それでね、仏教を説いたお釈迦様も、「神様なんてイネェーヨ」派に決まってるぞって、石飛オネェーたちは、口をそろえて言うのです。

きのこちゃんは、どう思うかなあ? 神様、いないと思う?
実はね、碧海おじさんは、神様がいることを知っているんだよ。はっきり知っているんだよ。
イエズス・キリスト様も、神様がいることをはっきり知っていて、神様にお会いしているんだよ。
ユダヤ教の基礎を造った預言者モーセも神様に会ったと言っているんだよ。
イスラム教の基礎を造った預言者ムハンモド(モハメッド)も神様がいるって言っているんだよ。
そして、インドの聖者たちは、みんな、「神様にお会いした」と言っているんだよ。
ラーマクリシュナも、ラマナ・マハリシも、シュリ・チンモイも、シュリ・オーロビンドも、その他、沢山の修行者と聖者が、神様にお会いしたりしていて、「神様は絶対にいる」って、はっきり言っているんだよ。

だから、何でもお見通しだったお釈迦様ブッダが「神様なんて知らない」というのは、おかしいでしょ?
「神様なんてイネェーヨ」「そういう体験は全部幻覚なんだよ」 
と、ブッダが言ったと思うかな? きのこちゃん。
もし、本当に神様がいるとしたら、ブッダが、それを知らないのは、おかしいよね。

でも、おかしいよね。石飛オネェーは、「神様なんてイネェーヨ」派で、ザポおじさんもo学者せんせも「神様なんてイネェーヨ。それが真実」と信じていて、だから、世界の有神論宗教は、全部が全部、幻覚きのこを食べたか何かで、「神様という幻想」を見ているだけなんだ、と主張しているんだよ。

どっちが正しいのかな?  きのこちゃん、迷っちゃうよね。
でも、簡単に、どっちが正しいか、わかる方法があるんだよ。
石飛オネェーは、「論理、論理、論理・・」と言うでしょ。だから、その論理が正しいか、厳しく調査・検証すれば、すぐわかることなんだよ。
ちょっとむずかしいけど、たとえば、国の法律は、上位規範と下位規範というのがあって、上位の法規範を根拠にして下位の法規範を決めて行くんだよ。憲法があって、それに基づいて、下位の法規範としての民法とか刑法とかが決められるんだね。そして、憲法は、哲学的に突き詰めると、「根本規範」という「一番上位の規範」を根拠にしている、と考えることになって行くんだ。
これと同じように、「論理」も、論理を色々と細かく展開するには、その論理が依存している上位の論理が必要なので、その上位論理を順番に辿って行くと、「根本論理」に辿り着くんだよ。
それで、石飛オネェーの「論理」を上に辿って行って、「根本論理」が何かを調べてみると、きのこちゃん、驚くよ、きっと。
ジャ〜ン・・・・・・みのもんたのパネルに貼った紙を剥がすみたいにして・・・
その答えを言うと・・・・っっ!
なんとっ
「知ったかぶり」っっっ!
という「根本論理」?
あれ? これ論理じゃないんじゃない?
というものに突き当たるんだよ。
それはね、
「神様は、いないに決まってる」
という「意見」なんだ。これが石飛オネェーの「根本論理」なんだよ。

刑事が、石飛オネェーを取調室に引っ張って行って、
「なぜ、神様がいないと言えるのだ、根拠を言ってみろ」と一日中、取り調べたとするね。
そうすると、石飛オネェーが言う言葉は、きっと
「根拠と言われたって、そりゃ、探してもいないから、いないのよ、きっと」的な
答えになるしかないのです。つ・ま・りっっっ!
「神様、見つからないから、いない・・たぶん」という、
「単なる推測」で「もの」を言っている、ということが判明するわけです。

わかったかな?
石飛オネェーは、「知らないこと」を「知ったかぶり」しているのです。

碧海おじさんが知っている神様は、子供の心を持った人が大好きなので、そういう人には、正体を現すけれど、こざかしい分別を振り回す人を神様はお嫌いなので、そういう人たちからは、すぐに「逃げて隠れてしまう」いたずらっぽい神様なんだよ。
だから、石飛オネェーがいくら探しても、見つけられないのです。


きのこちゃんは、「知ったかぶり」という「根本論理」から展開される「ウソ八百」を得意気に人に教えている石飛オネェーを信じるのか、
それとも、「実際に、神様に会ったから、神様はいるって知っているよ」と言っている多数の聖者や真理の探究者の人々の言葉を信じるのか?

どっちを信じたら良いのでしょうね。

きのこちゃん自身で、確かめたい場合には、神様を子供の心で、心を込めて呼ぶことです。きのこちゃんが、本当に神様に逢いたい、逢いたい、と願えば、きっと、神様が近づいて来てくれるし、その望みは叶うんだよ。
神様に会うのに、「論理」なんて、いらないんだよ。
「真理表」も、全然、いらないんだよ。
へたに「真理表」を勉強して、こざかしい分別がついて来て、子供の心を無くしてしまうならば、段々「神様に嫌われるような大人」になって行くんだよ。

だから、石飛オネェーの書物は、そういう意味で、とっても有害なんだよ。
「知ったかぶり」しか、書いていないからね。
つまり、「全部、ウソ」ということなんだよ。

それを、信じてしまうと、きのこちゃんの「きれいな子供の心」が、どんどんと汚れて、高慢ちきな石飛オネェーのような人間になっていってしまうんだよ。

碧海おじさんは、それを心配しているのさ。

きのこちゃん、少なくとも、
「知ったかぶり」は、人間としては、とても良くない悪徳であること、
「知ったかぶりすると、不妄語戒を破っていることになるということ」
これだけは、しっかりと理解しておいて下さいね。

最後に、この歌をプレゼントするね。

ハートキャッチ・プリキュア ED
http://www.youtube.com/watch?v=pax70YgAHj4

♪ハートぴかぴか磨いていれば、暗闇も照らしてくれる光になる
「知ったかぶり」を言う人の言葉は、信じない。
これだけでも、全然、ちがうからね。
きのこちゃんの「子供のハートぴかぴか」を守って下さいね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考のバグ21

私は、ザポ氏と討論をしたとき、わざと存在論側強調路線で行ったわけですが、
テルゼさんがザポ氏と仏教対話していて、
テルゼさんが、「ザポ仏法」を「ある程度評価」している意見を述べていたので、
「わっっ、テルゼさんって、仏教の超初心者だったのか・・・」
と分かってしまい、苦笑してしまいました。

ザポ仏法を「まとも」と思うなんて、それだけで、「超ヤバイ」わけです。
つまり、仏教の理解度判定テストとして、ひっかけ問題として、「ザポ仏法」というのは、五者択一問題の選択肢として、とても有効だ、ということがわかります。
(そういう、「偽」としての「利用価値」はある、ということは言えます。
 間違いやすい落とし穴、ということも言えます。)

また、それによって、
テルゼさんが、「道元、道元、道元禅師をお読み下さりませ〜〜」
と、私に、しつっこく、勧めていたのに、(とっくに読んでるっちゅーねん)
かく言うテルゼさんご本人様が、「道元仏法を全然分かっていない」ということも、
分かってしまう、という副産物まであって、
「ありゃりゃん、こりゃりゃん・・・」ということなのですね。

「道元禅師の仏法」は、「ザポ仏法・石飛仏法」のような「上座部仏教系の仏法」では、全くありません。
極めて、アドヴァイタ的です。
しかし純粋なるアドヴァイタとは言えないのは、悟りが「浅い」からと評価できます。
道元禅師は明確に、アドヴァイタ教義を指していると思われる
「霊知・真我・覚元・本性・本体・常住にかへりぬる・帰真の大士」
を認めていません。
以下、道元禅師が、何と述べているか、見てみましょう。
・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・
道元禅師 「正法眼蔵第五 即心是仏」より
しばらく妄法の空華ありといへども、一念相応の智慧あらはれぬれば、物も亡じ、境も滅しぬれば、霊知本性ひとり了々として鎮常なり。たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舎の失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。昭々霊々としてある、これを覚者智者の性といふ。これをほとけともいひ、さとりとも称す。自他おなじく具足し、迷悟ともに通達せり。万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物と同じからず、歴劫に常住なり。いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実といひぬべし。本性より縁起せるゆゑに実法なり。たとひしかありとも、霊知のごとくに常住ならず、存没するがゆゑに。明暗にかかはらず、霊知するがゆゑに。これを霊知といふ。また真我と称し、覚元といひ、本性と称し、本体と称す。かくのごとくの本性をさとるを、常住にかへりぬるといひ、帰真の大士といふ。これよりのちは、さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に証入するなり。このほかは真実にあらず。この性あらはさざるほど、三界六道は競起するといふなり。これすなはち先尼外道が見なり。
・・・・引用終了・・・・・・・・

そして、「仏道とは、単なる見聞覚知に非ず」という仏法です。

・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・
若し見聞覚知を以て、是を仏性とせば、浄名は応に「法は見聞覚知を離る、若し見聞覚知を行ぜば、是れ則ち見聞覚知なり、法を求むるに非ず」と云ふべからず
http://4652.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-7edc.html
・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

正しい仏法は、「単なる見聞覚知にあらず」
これが分かっていたら、
ザポ氏の仰る仏法が、「まとものようですわね」的な意見になるわけがないのです。

これによって、テルゼさんの仏教理解が、極めて「上座部仏教的」すなわち「小乗的」なものを「抜けきっていない」ということがわかるのですね。
そうして、同時に、
テルゼさんが、キリスト教を信奉していつつも、「文字は殺し、霊はいかす」(パウロ)というキリスト教の真髄についても、
しっかりとは理解していなかった、理解が浅く、中途半端であり、
ご自身の中に、ファリサイ派的要素の尻尾を残している人であることが、判明してしまう事態となってしまったのです。

ですから、そういう意味で、
初心者であれば、誰でも、罠に陥りやすく、入ったら簡単には出ることができない
「小乗論理の肥溜め」について、「ここ」を、しっかり指摘して、
「ここ」に「落ちちゃ駄目だよ、ここは絶対に避けて通りなさい」
と明確に、安全柵を立てて、危険標識を立てる作業が、

「大乗の空の論理」を真に理解している人、「真理を知っている人が為すべき霊的義務」ということになるのですね。

というわけで、きのこちゃんへのお話のあとは、テルゼさんまで、落っこちて、片足が、まだそこから出られていない、尻尾がそこに残っている、という状態を指摘することによって
この「小乗論理の肥溜め」には、誰でも落っこちやすいことの危険を指摘する投稿と致します。
・・・・・・・・・・

思考のバグ22

般若経典群が説く「空」の思想は、石飛仏法・ザポ仏法・上座部仏教とは、
「根本的に異なる」ものです。
それは、龍樹の「馬を忘れている」解釈で示した通りです。(思考のバグ13参照)

般若心経では、観自在菩薩が、シャーリープトラ(舎利子)に説法する形式を採ります。
大乗思想の「般若心経」では、シャーリープトラを「小乗仏教における最高知恵者」
として登場させているのです。
そして、「シャーリープトラよ、君は知恵者だと思っているだろうが、まだまだ未熟だ」と、霊性修行の先輩として、「正しい駄目出し」をしている図なのです。

観自在菩薩のこの説法を聴聞して、シャーリープトラが空を悟ったかどうか?

現実に引き移して見てみると、現代の知恵者として、シャーリープトラに該当するのは、石飛オネェがそのように評しているように、スマナサーラ長老 がそうだと、多くの人が感じておりますね。

ところが、スマ長老は、この観自在菩薩の説法を聴いて悟るどころか、
「あなたの説法は、オ・カ・シ・イで〜す。論理的では、あ・り・ま・せ〜ん」
と反論して、聞く耳を持たない、という結果になっているのですね。

ザポ氏においても、スマ長老万歳派なので、同様の見解なのでしょう。

石飛オネェの場合は、方便心論の論法を使えば、上座部仏教の教理を変更することなく、そのままでも、般若経典の「空」も「論理的で〜す」と言えるのではないか?
という野望を持っている、というわけです。

石飛オネェは、小乗仏教と大乗仏教のハザマに横たわる「深い海溝」を理解していないのです。だから、整合性を取れると、トンチンカンな野望を持つのです。

小乗仏教の価値が反転して、大乗仏教になるのです。
小乗仏教において、善であるものが、大乗仏教では、悪になるのです。
小乗仏教において、悪であるものが、大乗仏教では、善になるのです。

これほどの、コペルニクス的価値転換をもたらす差異があるので、
両者に整合性を取ることは不可能なのです。

ドロンジョ一味にとって、善に見えることが、大乗の目からは、悪に見えます。
ドロンジョ一味にとって、悪に見えること(たとえば、憎っきアオミの所業)が、大乗仏教では、善になるのです。
ドロンジョ一味にとって、自我強い所業に見えるアオミの所業が、大乗仏教では、龍樹の使い魔(使者)ということにもなるのです。

碧海に神通力がないと、ザポ氏は、冷静に分析していますが、
私がわざと「あおみ予想」とか言って、「この筋の捨て牌は、ロンだぞ」と威嚇すると、ビビッて、その筋の回答を回避するザポ氏の「弱気」を見るのは、面白いですね。ザポ氏本人も、「十二支縁起の逆観説」に、実は自信がないのでしょう。

私が行なう「真のマジック」は、「善悪の価値反転」です。
ザポ氏にとって「悪」に見えていた「碧海」が実は「正しかった」ゆえに、自分の方が、「小乗の悪であった」と
「気付かされる」
このような気付きを与えるのが、私の行なう真のマジックです。

しかし、T、T氏のように、既に「転倒」から脱しておられる人からみれば、
私のやることは、ネタバレのマジックであるわけです。
私の方に真理があることを、最初から、知っておられるのですから。

しかし、「無明のベール」に覆われた「転倒した人々」に対しては、
碧海マジックは、有効に作用する、ということになります。

以上、「価値転倒」ということで言うと、

   観自在菩薩  VS  シャーリープトラ(スマ長老・石飛オネェ・ザポ氏)

という構図なのです。

龍樹は、般若パーラミターを理解している「大乗の空の論理」に精通した人でしたから、龍樹は、観自在菩薩 側の人です。

両者の差異を、最も簡単に言い表すならば、次のような比喩が妥当でしょう。
小乗とは次のような人のことを言うのです。

ここに、「エゴ滅却・無我空性の大事典」という部厚い教科書があったとします。

この本を、「読んだ、読んだ、隅から隅までよく読んで暗記したよ、徹底的に暗記して、覚えたよ、知識はバッチリ、これだけ全部覚えたから、ほとんど一切智者のようなすごい智慧を、持っちゃったよ、持っちゃったよ」
このように、周囲に自慢して回っている人がいたとし
ます。

これが「落語のリアル版」だと、わかる人は幸いです。

小乗とは、このような「ミスター・ビーン」「ミセス・ビーン」のような人を指すのです。

「ムガ・無我・一切無」みたいな呪文で、「エゴ滅却のための中途半端な呪術」を行なう、「半端な空観」しか理解できない「智慧の鈍い人」、
というような、
「龍樹からの批判」を受けてしまう人、ということになります。

・・・・・・・・・
思考のバグ23

今回は、ザポ氏の発言を取り上げます。

なお、この「思考のバグ・シリーズ」が「30」に達することはありません。
既に、「危険水域」に達しています。このまま、カウント・アップして行き、
思考のバグ30に達する前に、「碧海の証明」が発表され、「石飛ブッダ論理学」はご臨終様で、学会から退場処分 になります。
まさに、「死の瀬戸際」なのですが、ご本人は、危機意識がなく、午睡を貪っておられるようです。
「大津波が来る、来るよ〜」と、大警報が鳴り響いているというのに、
「それを信じない」人のようです。
このような人、御者からの鞭が振り下ろされんとしているのに、
(カウント・アップして、鞭の軌道をストップ・モーションにしているのに)
これに反応しない人を「智慧の鈍い人」と龍樹は称するのですし、
四馬の比喩では、「最も鈍い馬」にたとえるのです。


さて、ザポ氏は、アドヴァイタ・ヴェーダンタ密教について、こう述べています。

> しまとりさまの思想を分析して、成り代わって問答をするというわけではありませんが、一元論者の思考をトレースすることはある程度できるとは思います。
> どうでしょうか。
>

「一元論者」の基本思想をトレースできるのですか? 本当でしょうか?
ザポ氏は、春間氏に、こう述べています。

>
> 二つがない処 を 不二といってもいいでしょうが、
> <一つの> 真理 で というところに 不一はありません。
>

「不一はありません」と、得意そうですね。
確かに、「不二一元」という名称には、「一」が入っているので、
ザポ氏は、「一」に囚われて「一元論者め」と、バカにするのでしょう。
これが「ザポ氏による一元論のトレース」なのですか?
全くトンチンカンですね。
こちらの主張を、まともに受け止めていません。自分に都合のよいように解釈しなおしているだけで、これは、「保身(腹黒)思考」による半意識的な「情報歪曲バイアス」によるものです。

サンスクリット語の「アドヴァイタ」は、「不二」の意味「だけ」ですから、
「一」 とは言っていません。

とはいえ、ヴェーダンタ密教では、「One Life」「Oneness」という用法は普通ですから、方便として「1つの真理」というように「整数の1」として、真理をカウントする方法を用いる、とはいえます。
但し、それは「方便として」です。

だからと言って、ヴェーダンタ密教では、
ザポ氏が得意そうに指摘するような、
「<一つの> 真理 で というところに 不一はありません。」
というように、
龍樹が「不一」と表現したものと「アドヴァイタは異なる」ということにはならないのです。

なぜか?
「不生不滅の虚空梵我」とは、

「虚無にして総て」  であられる存在だから です。
「虚無にして総て」  という「不生不滅の虚空梵我」なのです。

「虚無にしてすべて一切」ということは、「整数の1」ではない、ということです。
つまり、「不一」ということです。

比喩として言うならば、「純虚数」のようなものです。

iの2乗= −1  つまり i^2= −1  となり、
「−1×−1=1」  となります。

このように、「純虚数」は、「実数・整数」を生み出すことができる、
とも言えます。
但し、i^2 とか、 i×i×i×i・・・という「iの個数」は、整数とはカウントしない取り決めにします。虚数が整数個ある、というのは、矛盾だからです。

この比喩の場合、
純虚数は、「虚無にして総て」の虚空梵我であり、涅槃に比喩されます。
実数は、輪廻に比喩されます。

輪廻たる実数は、純虚数に解体換言できることからして、
おのずと、「輪廻即涅槃」と言えます。

また、純虚数の方に実在があるので、純虚数を純実在数というように評価すると、
実数は、反転して、虚妄数となります。
ゆえに、虚妄数という戯論が寂滅すると、涅槃という純実在数が残る、という引き算になります。

あくまでも、比喩ですが、
ヴェーダンタ密教では、このように比喩できる、ということです。


「口先三寸・片目だけの空性論理たる石飛仏法・ザポ仏法」とは、比喩の深さに、格段の差異、天地の差異があることを、智慧の鋭い人は知るでしょう。
・・・・・・・・・・・

思考のバグ24

石飛女史のこの発言には、「あきれて」しまいましたので、ピックアップ。

・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・
(ソレっち様)
順観も逆観も、つまりは「見」なのですちゃ。
わっかるかなぁ〜?
わっかんねえだろうなぁ〜

(石飛女史)
わかんだよ、そんなことくらい。

(ソレっち様)
お分かりになった暁には、オイラは札幌に向かって深々と合掌いたします。

(石飛女史)
んじゃ♪、お辞儀してもらえる♪w
wをつけてみました。
・・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・

ソレっち様は、真理をつかんでいらっしゃるのかも知れない。
「十二支縁起」を「無明縁起」として、「飛蚊症」のような「スター・ダスト(星屑)」のような「クズ」だと評価しているわけです。
それを、わざわざ「見」と表現しているのに、
石飛女史は、その意図(真意)を理解しておらず、むしろ、安直に誤解したまま、
解答をしている。
「わかんだよ」と偉そうに言っているが、「全然わかっていない状態」が我々には、丸見え・丸出し。
ソレっち様も、ブラックな笑いで苦笑するしかない、浅田美代子ぶりなわけです。

もし本当に、わかったら、あなたを礼拝しましょう、というソレっち様に対して、

「んじゃ♪、お辞儀してもらえる♪w wをつけてみました。」

と、冗談めかして、答えているけれど、
これは、冗談では済まされない「心の動き」です。

この言葉を発した「石飛女史の心は、悪魔(魔軍)に支配されている」

と、明確に、「アオミ認定」致します。そのように「賞状を授与」します。

この点、ロム諸氏共々、異論がないのではないか、と思います。


その他、大乗仏教徒様へのレスとして、こんなにひどいものがありました。

・・・・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・
> ゴータマ・ブッダに帰依しているのではない!
> 大乗仏教徒さまの言い方をとれば、人間ゴータマに帰依しているのです。
> わかりませんか。
> 菩薩の道を説くことが。
> 『中論』は、読み進めるうちに、理解の深まりと共に内容が変容します。ほんとうは変容しているわけではないけれど、わたしたちには、そのように感じ取れるのです。
> 「中道」を極めて行くならば、「空観」を得て見解を捨て、法をも捨て、残るは、ただ一人の人ゴータマとなります。
> ここに菩薩の道が生まれてくるのです。
> 『中論』最後は、そこに立つ龍樹がいるのです。
> 龍樹を、ソクラテスと比べてはいけません。
> 「無知の知」などと言わなかった龍樹がいます。無明(無知)を大事にするのです。悟りの智慧のわき出るところだからです。
> 「無知の知」を教えあからめようとするソクラテスの「驕り」はありません。龍樹は、人々とともに歩もうとして、多くの菩薩(凡夫)のために、『中論』を著したのです。
> 一人の菩薩ゴータマに帰依する龍樹は、また、かれも菩薩の道を歩もうとする一人の人間なのです。
・・・・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・

もう、私には「もう・・あぜん」しかありません。
石飛女史ご本人は、得意気なご様子で、それがどんなに「奇っ怪な仏法観」なのか、気付くこともない。

田川健三氏が、「イエズス・キリストは単なる社会改革者だった」説をぶち上げて、
信仰者からは、「この人、●●? ●●●●?」と思われているわけですが、
それと、パラレルな関係にあるのかもしれません。
日本仏教界の、田川健三に該当するのが、石飛女史である可能性がありますね。

ブッダも龍樹も、あきれを通り越して、「御者」として、「天罰としての鞭」を
振り下ろすしかない、とお思いになっておられるようですので、
ふつつかながら、この私が、それを代行致します。

同じく大乗仏教徒様へのレスから引用します。
・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・
(石飛女史)
「般若」は、「想」から出てきます。空性を知ることによって生まれてくる智です。
・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・

やばいですね。般若経典を否定するスマ長老がこのように述べるなら、まだわかりますが、
「般若経典をしっかり読んでいる」と述べるご本人様が、
このように、「想」から出てくる「般若(智)」 と主張するなど、
大乗仏教の信徒からすれば、「もう・・あぜん」とするしかありませんね。
「この人、●●? ●●●●?」

・・・・引用開始・・・・・・・・・・・
(石飛女史)
> 気持ち的には、無宗ださまのおっしゃることはわかるのですが、やっぱ、わたしもウソはつけないもので。。。
>
・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・

これも、やばいです。もうすぐ、ウソ八百の羅列と評価されることになるでしょうから。



(石飛女史)・・・引用開始・・・・・・・・・
> わたしを見るものは法を見る、法を見るものはわたしを見る、とブッダは、ヴァッカリに述べました。ブッダを見るものは法を見ています。
>
・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・

最重要論点である「自州・法州」の問題に戻ってきますね。

「人間ゴータマに帰依するのです」と高らかに述べる石飛女史は、

> 「中道」を極めて行くならば、「空観」を得て見解を捨て、法をも捨て、残るは、ただ一人の人ゴータマとなります。

このように、
「消える自州」説のみならず、「消える法州」説だったのですね!
いやあ、チヨー驚きです。

もう、やり放題ですね。石飛トンデレラです。
飛んでる、飛んでる、トンデレラ。
♪ 飛びます、飛びます、トンデレラ。

ここで、コント55号なら、欽ちゃんのツッコミが入ります。
「頭ボコッ」と叩くところですね。

ヴェーダンタ密教においては、
「自州=法州」が正解であると、主張します。
なぜなら、「自州=法州」こそが、「虚空梵我」であり、「純虚数梵我」だからです。
「消えない自州・法州」なのですが、
そもそもが、「純虚数であり、虚無」である「州」なのです。

これを、ブッダの言葉では、このように表現します。
「わたしを見るものは法を見る、法を見るものはわたしを見る。」

この「不動不滅の真理」を「歪曲して曲解して、戯論を立てて解釈する人」は
誰ですか?
このような人には、「学術上の決定的な駄目出し」が与えられることを
願います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思考のバグ25

今回は、きのこちゃん(きのこ様の子供の心)に再び語りかけます。
きのこちゃん、イナズマイレブンのアニソンの紹介、ありがとうございます。今の子供たちは、こういうのを聴いているのですね。日本語ラップですね。昔、黛敏郎という作曲家が、豊穣なハーモニーを持つ歌謡曲が減って来たと嘆いていましたが、ラップ音楽は、黒人のリズムが発祥なので、音楽としてどうなのかなあ、とも思っています。

さて、きのこちゃんに今回、お話したいのは、碧海おじさんがこの掲示板に出入りするようになった「縁起」についてなんだよ。
最後に近づいているから、それを解説しておくね。

ザポおじさんや、o学者さんは、「アオミはヤクザのように因縁つけて言いがかりをつけているだけの、失礼極まりない極悪の振る舞い」的な評価を、碧海おじさんに対して、下しているんだよ。
でも、碧海おじさんは、ザポ氏・o氏には、「興味がゼロ」なんだ。管理人さんを守ろうとして、私に突っかかって来るから、「君たちは邪魔だ」とやっているだけなんだ。碧海おじさんは、現実生活では、タマスの塊の人は、5m先からでもわかるから、ザポ氏・o氏が近づいて来たら、こういうタマス人には近づかないように、逃げてしまうんだ。
管理人さんも、ラジャスが強くて、タマスも多いので、普通であれば、碧海おじさんは、相手にしないし、近づきもしないんだよ。

タマス・ラジャスについて、意味がわからなかったら、
ここを見てね。
碧海龍雨の「十住気質心論」

さて、それなら、なんで、碧海おじさんは、この掲示板で、こんなことをしているのでしょうか?

その答えは、管理人さんが、心を込めて、真剣に、
「龍樹マントラを唱えているから」
なんだよ。
龍樹、龍樹、龍樹・・・・・と、愛を込めて、その名を呼んでいるからなんだ。

それで、碧海おじさんは、管理人さんのラジャス・タマス気質がイヤなんだけれども、そのマントラに引き寄せられて、「龍樹の代理人」として、やるべきことをやらねばならなくなってしまったんだ。

最初は、「管理人さん、ご自分の影法師から、目覚めよと、呼ぶ声が聞こえ」という、カンタータを、この掲示板で、碧海おじさんは、下手でも、はずかしくても、それを歌う役目をしたんだよ。シェークスピアの道化師が道化しながら真実を語るようにしてね。
いくら、道化師によって、カンタータが歌われ、しつこく、歌われても、管理人さんは、「完全拒否」だったんだ。
でも、やがて、碧海おじさんが述べていたように、
「仏教言説は、アドヴァイタの立場でも、解釈できる文言なんだ」という主張を受け入れるようになるんだ。

管理人さんも、やがて「確かに、どちらにでも解釈できる言い方をブッダはしている」みたいな意見になって来たんだ。
でも、こういう一文を加えないではいられない。
「エゴの強い人は、アドヴァイタ側の解釈をして、エゴのない人は、涅槃無我説の解釈をする」という構造になっているのよ、それがブッダの言説よ、みたいな言い方をするようになったんだよ。
まあ、不十分だけど、最初から比べれば、かなりの進歩ですね。

その後、亀の歩みだったけど、管理人さんのアドヴァイタに関する知識は増えて行ったんだ。ヤフーから、色々な人がこの掲示板に訪れるようになり、アドヴァイタが真実だという言い方の人々も増えたんだ。
ザポおじさんは、こういう状況を、「碧海の情念が呼んだ陰謀」と考えているみたいなんだけど、それは、全然違うんだよ。碧海おじさんは、人を操作することに興味が全然ないんだよ。
すべては、「神様」がなさっておられることなんだ。
イストラン氏は、自分がそうだったから、「まずはアドヴァイタの体験談から管理人さんが親しむとよいだろう」と考えて、アドヴァイタ体験談を管理人さんに豊富に紹介するようになったんだ。
それに、理論面では、碧海おじさんが、「ここまで詳細に?」というほど、丁寧に説明して来たんだよ。
ザポおじさんは、その恩など全く感じないまま、「アドヴァイタ思想は、トレースできると思います」と得意そうに言っているんだけど、無神論者とは、別名、「(神に対する)恩知らず」という大罪者のことだから、これは、タマス気質で、仕方ないことだね。

このように、体験談と理論面、両面から、管理人さんに、アドヴァイタ思想が説明されている「絶妙な連携」は、碧海おじさんが計画したものではないんだよ。
「たまたま」でもないんだよ。「神様」が管理人さんに計画的に、なさっておられることなんだ。

なぜ?
管理人さんが、「龍樹マントラ」を心で唱えているからなんだ。

そうして、ようやく、管理人さんは、アドヴァイタ思想である「ガウダパーダのカーリカー」を読むまでになったんだよ。
いや〜、長い道のりでしたね。

「もう、準備は、だいたい整った」と、碧海おじさんは、思っています。

管理人さんの「決定的な間違い」を「真の龍樹論法」で指摘すると、
管理人さんは、ショックで、しばらく立ち上がれないでしょう。
これまでの全部が、妄想で、ウソ八百であったことになるからです。
今後は、「バカの極致」と、ネットでは言う人も出て来るでしょうし、
管理人さんが構築した「石飛ブッダ論理学」は、「ここも間違い、ここも間違い」と延々と、皆から「イジラレ」まくる対象として、さらされ続けることになります。

このように、事態は深刻だからこそ、しつっこく、私は警告し続けて来たのです。
でも、管理人さんは、「大丈夫、自信・ジ・シ・ン・あります」的な態度で、
「経典を素直にしっかり読んでいる自分」を狂信し続けています。

本来なら、管理人さんも、そのまま、残りの20年〜30年を、「その妄想のまま終わる」という道もあります。o学者さんなどが、一生を、その妄想の中で過ごしても、私は、別段、何も思わず、「自業自得」と思うのみです。食うに困らないo学者さんなどは、その方が幸せでしょうね、きっと。
「豚の幸福か、ソクラテスの悩みか」という究極の選択問題がありますが、前者を望む人は、案外、多いものです。

しかし、「龍樹マントラ」を心を込めて唱えているので、龍樹が、これに応えるのです。
「真の仏法の道に、正しい道に入れ」と。

それゆえ、「真の龍樹の剣」で、管理人さんは、バッサリ斬られて、果てるのです。
龍樹の鞭が、身体に食い込み、絶叫するほどの痛みを受けます。
その痛みは、「自分はなんて無明でバカだったのか」を思い知る痛みです。

「大きなオデキ」を切開したときは、膿が出て痛いですが、
その痛みも「無自性」ですから、やがて「過ぎ越し」の祭りをするようになります。
そうなると、以前よりも、ずっと健康になり、元気はつらつになります。

そう、碧海おじさんは、「龍樹のメス」を使って、管理人さんの病気を治す医者の役目を果たすんだね。

そうして、管理人さんは「真の龍樹の道」を知って、その道を歩み始める喜びに満ちることになるのです。

だから、「龍樹の鞭」で絶叫して倒れた管理人さんを、きのこちゃんや春間おじさんが、失意の間だけ、やさしくフォローしてあげて下さい。
尤も、管理人さんは、Mなので、龍樹の鞭に、歓喜の声をあげる可能性もあるかも・・・なんて、穿った見方も、してみたりしますが、そうでない場合に、マズイので、ちゃんと、その準備は必要ですから、
あくまでも、
「そのとき」のための、フォローとして、これまで、アドヴァイタ思想を延々と、説明して来たわけです。

なんともはや、親切すぎるほどの老婆心ですね。
慈悲深い、深情けですね。

そして、碧海おじさん個人的には、7年前でも「引導は渡せた」のですが、
神様がそれに「待った」をかけておられ、碧海おじさんも、ずっと今まで、待っていたのです。
我ながら、その忍耐強さには、脱帽します・・・笑。
しかし、もともと、「神様のご指示に違反する自由」は、私にはないので、
ひたすら、そのときを待つのみでしたが。
そうして、管理人さんも、徐々に成熟して、今の状況となりました。

神様も、ようやく、ゴーサインを出しておられます。

碧海おじさんが、「水爆のスイッチ」を押す瞬間が近づいています。

かつて、龍樹が「ブッダ奥義の論法」という「原爆スイッチ」を押したことで、
説一切有部は、壊滅しました。かろうじて、上座部仏教系統が、「半分の空」を受け入れることで、信徒を騙し、壊滅を免れ、生き残りましたが・・・・。

今度は、碧海おじさんが、「中論」の中にある「龍樹コード」という暗号を、解読して、それを公開します。これが「霊的な水爆のスイッチ」を押すことです。
これができた人は、龍樹以後の1800年間で、誰もいません。
もしかしたら、現在でも、これができるのは、碧海おじさんだけかもしれません。

本当は、「簡単な暗号解読」なのですけれど・・・・・。
サタンが封印しているので、これに近づける人がいない、というのが真相です。
サタンが人々に対して、真理に気付かせないように、マインドコントロールして、徹底妨害しているのです。
ゆえに、頭が少々良いぐらいでは、サタンに情報操作されて、近づけないのです。
「魔軍の支配下に心がある人」では、「龍樹コード」に気付けない、という「カラクリ」になっているのです。

そういうわけで、碧海おじさんが「龍樹コード」の暗号を「普通の言葉と論理」に置き換えて発表するとき、その論理が、世界を駆けめぐります。
これは、水爆的な威力を発揮します。
説一切有部が壊滅した程度の規模に留まりません。世界中のブッディズムにおける、間違った見解が、吹っ飛んで、壊滅します。

そして、大きくて新たな宗教運動が開始されます。
その大きなうねりは、世界を変えて行きます。
とりわけ、ユダヤ人が私の先導で、「仏法の瞑想法」に「全員参入」して来るようになるでしょうから、それだけでも、世界は激変することでしょう。
キリスト教信徒たちも、それに続くでしょう。イスラムもそれに続くでしょう。
チベットでは、「啓蒙されるべき盲信因習」が壊滅して浄化され、真の信仰によって祈ることができる僧侶が続出することで、チベットの運命も良い方向に変わって行きます。
このようにして、仏教は、独自性のないものとして、空として消え去ります。
しかし、すべての宗教の中で、「最高の仏法瞑想法」となって、生き残ります。
ヴェーダンタ密教に、仏教が包摂されることは、恥ではありません。
実は、仏法そのものの、最高の栄誉なのです。
それは、ブッダが最高の大聖者、最高レベルの神の化身であることの、
揺るぎない証でもあるのです。

「真の龍樹論法」で斬られたとき、管理人さんは、絶叫して床に倒れこんだあと、反省のための剃髪をして、「ウソ八百の推論を発表して御免なさい」の写真をサイトにアップするのが良いでしょう。女性用かつら で誤魔化せば、すぐに髪は伸びるでしょうから、これは、そんなに大きなハードルではないでしょう。
できれば、菅元厚生大臣のように、四国お遍路の旅に出ると良いでしょう。
一人で寂しければ、o学者とザポおじさんに同行してもらうと良いでしょう。
「ドロンジョ一味の敗走」というアニメのラストシーンみたいですが、ドロンジョ一味は、悔い改めてお遍路するので、ヤーターマンの友達になるための旅ということになるので、敵が消滅してしまっては、続編が作れなくなってしまいます。

そういうわけで、一時的には、「管理人さんにとって悲しいこと」になるけれど、
大慈悲的なこれまでの準備とフォローは、「既に十分」であって、
加えて、きのこちゃんや春間おじさんが、管理人さんをやさしく励ましてあげれば、
もう、これ以上を望むべきものはないでしょう。

「龍樹マントラ」には、真の威力があるのです。
なぜなら、「真言(マントラ)・真の呪文」とは、「大乗の空の論理」から導き出される「必然のシステム」であり、それによって、「大乗の空」を「真に知る」境地へと導かれて行くからです。

逆に言えば、「真言」が、何故、真に効果を発揮するものなのか?
この問いに対して、しっかりと完全に、うまく解答を与えることができない人は、
「大乗の空」を全然、理解していない人である・・・・
という判別基準・リトマス試験紙になるのです。

更に言えば、これが説明できない人は、「大乗の空」を知らない人なので、
「菩薩とは言えない」ということになりますから、
これが説明できない人であるところの管理人さんは、
大乗の「菩薩」概念には、該当せず、「菩薩ではない」のです。
単なる、「小乗論理の肥溜め」に身を浸している、「臭っい学者」でしかない、ということ。
それがわからない真言宗阿闍梨のo学者は、学者としても真言僧侶しても
抜きんでて、「パンク」級である、ということ。
そういう「真実」があるのです。

以上、
ザポ氏やo学者など、碧海おじさんに対して、
「ヤクザの因縁」としてこの掲示板に来たと思っている
「彼らの転倒」について、指摘しつつ、
実は、「菩薩の大慈悲」による「龍樹マントラ」という縁起に基づくものであったことを、ここに示唆しました。

きのこちゃん、「そのとき」の管理人さんへのフォローを、よろしくね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考のバグ26(完結間近)

過去ログに入ったので、再掲載します。
ただ、もうこのシリーズも終わり間近です。
この「思考のバグ26」の指摘は重要です。
「この重大バグ」(論理矛盾)に、整合性を復活させるための知的思考を施さないで、放置しているなちば、その学者は、駄目ですね。
駄目学者としてのレッテルを貼られることになるでしょう。

シャン坊氏とo学者が「入中論自注」の本を出されるようですが、
この「思考のバグ26」の指摘がそのまま有効であるような本ならば、
出版されても、すぐに「アウト」になってしまうでしょう。

この「26」で指摘していることは、「小さなことではない」からです。
ザポ氏ていどの普通人が、無責任に何を述べても、良いわけですが、
学者が、著書を著して「学説」として出すときに、
ここでの「バグ」を内包したままならば、それが皆にバレたときには、
「トンデモ」のレッテルを貼られることになるでしょう。

瑣末な論点のように、無視しようとするのでしょうけれど、
よくよく考えれば、小さなバグではないことに気付くでしょう。
はっきり言えば、「致命的」なのです。
本当は、イストラン氏は、この点こそ、ネチネチと攻撃をしかけて、問い詰めて行くべきところだとも言えます。

まあ、しかし、こうした議論についての「終焉の笛」が鳴る日も近いので、
わたし的には、どうでも良いことですけれど・・・・。

・・・・再掲載開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思考のバグ26

我々の対立点は、単純です。
法界無自性説  VS  法界梵我説
これだけです。

無神論  VS  有神論
とも言えます。
無神論仏教  VS  有神論仏教
ですね。

しまとりさんへの続きとして、石飛女史が以下のように述べています。
・・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> しまとりさまは、「諸法」とあって「一切法」とはいわないことから、また、実際にブッダによって説かれるのが、五蘊のような無常の法についてであることから、「涅槃」は(諸法に入らず)、無我ではない、と主張されました。「涅槃」に「我」「真我」という要素を認めたいようでした。
>
> おそらく、「諸行無常」に関して、「涅槃は常住」が出てくることから、その類比で考えられているところはあるかと思いますが、これは、わたしの想像です。
>
> 涅槃という法、に関してはすったもんだしたあげく、ごちゃごちゃしました(笑)。わたしは、「涅槃」という法も無我である、とそのまま認めています。また、「諸法無我」は、ものごとについて、我については空である、という見方に還元されます。そのまま、「空」へと導くことができます。
>
> さて、「法」という点からいいますと、「涅槃」は、『スッタニパータ』などでも、「虚妄ならざる法」と出てまいります。虚妄ならざる涅槃という法は、「諸法無我」を無常の五蘊などの法に限ったとしても、やはり、そこから、推論して、無我・空であることが出てくるでしょう。
>
> 執って、あるいは、縁って、生死を行き来するものが、執らずに、縁らずにいるのが、涅槃であると説かれる。(『中論』25-9)
>
> 執らず縁らずにいるのが、涅槃なのですから、生死を行き来するものが、そもそも「空」なら、それが執らず縁らずにいるといわれる、涅槃も、また「空」であると言えます。
>
> 「虚妄な法」についても、『中論』13-2で、これは「空性」を教えるためのものだ、とあります。
>
> ここをおさえますと、法としての涅槃は空であり、また、無我であると言えます。
>
>
・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・

論理的には、実は、「極めて単純な話」なのです。

「虚妄な法」と言われる根拠は、その性質が「無自性」だからです。

「諸法無我」というときの「諸法」には、梵我は入りません。
その理由は、「梵我は純虚数領域の存在」だからです。
整数でカウントされ数えられる「複数形で示されるサルバ(一切の)・ダルマ」には入らないのですね。

ところで、「涅槃」は「虚妄ならざる法」だということは、石飛女史も認容します。
しかし、それを「無理やり」に、「無自性」とするのですね。
「虚妄な法」の根拠が、「無自性」なのですから、
その否定である「虚妄ならざる法」は、「自性有り」となるほかありません。

それを、どのような「こじつけ論理」で、「無自性」と結論するのか、
上の引用した発言で精査してみると良いでしょう。

石飛女史いわく・・・
<わたしは、「涅槃」という法も無我である、とそのまま認めています。>
・・・・
しかして、その根拠は? 論理的か?

1+3=4 であるものを 1+3=8と答えて正解だと強弁する人は、どのように表現したら良いでしょうか?
「バカ」が人格批判になるとしたら、マグダラのマリアをモジッテ、
脳味噌内がバグだらけですから、「バグだら〜のア・マリ」と呼ぶのはどうでしょうか。
勿論、「ア・マリ(真理)」の「ア」は、否定の接頭辞(梵語)です。

再度、述べておきましょう。

「虚妄な法」の「虚妄」の根拠が、「無自性」なのですから、
論理的には、その否定である「虚妄ならざる法」は、「自性有り」となるほかありません。
すなわち、これ「梵我」ということです。

「虚妄ならざる法」も「無自性」である、とするならば、その根拠が述べられなければなりませんし、<「虚妄」の根拠は「無自性」である>という命題が、ここにおいて、破棄されなければならなくなります。

つまり、「虚妄な法」も「虚妄ならざる法」も「無自性」であるならば、虚妄ならざる法は、無自性なのに、何故、虚妄ではないのか? が明確に説かれなければなりません。

いずれにせよ、「バグだら〜のア・マリ」である石飛女史には、解決不能なものです。
「無理なこじつけ」であることが、聡明な者たちには、バレバレ、ということです。

これで騙せるのは、石飛女史の学校の生徒たちぐらいでしょう。

・・・・・・再掲載終了・・・・・・・・・・・・・・・・

思考のバグ27

「あるがまま」という意味の「転倒」について。

石飛女史・・・・引用開始・・・・・・
> ですから、なんであれ「概念」というものを意識して語れば語るほど、現実離れしていき、現実を語るように見せながら、そこに恣意的にさまざまな要素を入れて望むような方向に持っていきやすいのです。
> これが、端的に言えば虚妄(プラパンチャ)ということでしょう。「あるがまま」を離れていくのです。
>
・・・・引用終了・・・・・・・・・・

比較対照してみましょう。

ここに「あるがままの事実・現実」
があります。
    ↓
「これ」に「開きメクラ」であるがゆえに気付かずに、(これが無明)
「馬鹿げた誤謬判断の連鎖」を「延々と続けている」とき、
「この誤謬判断の連鎖」について、
スタート時点で、「これ」に「気付いていないことに全く気付いていない」ので、
自分を正しいと思い込んだまま、
「気付いたつもり」になって、「誤謬推論」という「虚妄・戯論のオンパレード」を展開することになります。

さて、この「誤謬判断の連鎖」を消滅させるために、
この連鎖の「逆観」をやりますか?
連鎖を消滅させるために、「逆観をやる」と主張するのが、石飛仏法・宮元仏法です。
しかし、逆観が、上手にやれている様子はありませんね。
ソレっち様は、絶対できないはず、と述べていますね。
私も同感です。
ウソを教えているのですね。自分ではできないことを人に言う。
明らかに、「不誠実で腹黒」です。
これを主張させているのは、悪魔です。腹黒いエゴという悪魔です。

面白いのは、「あるがまま、を離れている」ということに全く気付いていないことです。この点が、落語なのですね。
「あるがまま、を離れている」状態で、「あるがまま」を連呼している。
これでは、逆から読んで、「ままがるあ」です。


一方、私が述べる仏法は、T、T氏と同じです。

ここに「あるがままの事実・現実」
があります。
     ↓
「仏教経験の事実」として「これを体認」します。
すると、 無明による「偽の判断の連鎖」も消滅します。
このとき、
「偽の判断の連鎖」を「逆観して」消滅させて行く、というような操作は、皆無です。
「偽の判断の連鎖」が「ダダ漏れしていた」「その蛇口を締める」ようなものです。
根元を締めれば、それで終わりです。

これが真の仏法です。
ですから、逆観という操作を説くのは、インチキであることが、
この比較対照で考えてみれば、明々白々でしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・

まあ、こうして、わかりやすく、バグを指摘しても、無駄なようですね。
普通なら、「私、間違ってた?」と、焦ってくるはずなのですが・・・(苦笑)。

なぜ平気なのか?
哲学しない、思考停止(エポケー)の盲信状態、だからですね。
「あるがまま」に経典を読んでいるから、「間違いない」と思っている自信。

論理整合性に命を賭けようなどとは、露ほどにも思わない。(学者失格)
「そこに書いてあるから、そうなんだ」という「経典権威主義」。
自分の頭を使って、真の整合性のために、汗をかこうとしない、
ひたすら、「確立された権威」にオモネル保身脳。

ニヤーヤ学派は、「論理で悟れる」とする学派。
それをそのまま、仏教でも「縁起と空の論理」で悟れると言い出した石飛女史。

しかし、真の仏法は、「論理で悟れる」とするのではなく、
「ありのままの事実・現実」を「ありのまま」に観察して体認することで、
悟りへの流れに乗って行き、それに到るのです。

論理ではないのです。

「ありのままの事実・現実」の体認 によるのです。

あ〜あ、ここまで言っても、気付かないんだろうなあ〜。
「私が札付きのマールンキヤプッタだったからである」(ブッダと龍樹の論理学?59ページ)とご自身で述べているけれども、
「過去形」にしているのは、間違いです。
今も、
札付きのマールンキヤプッタ、現在進行形 です。

観自在菩薩は、スマナサーラ長老を説得できずに、逃げてしまいました。
そして、観自在菩薩は、石飛女史をも説得できないので、その我の強さに、
あきれています。

まさしく、悪い意味で、金メダルですね。

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思考のバグ28

核心部分の一つは、「菩提心」の理解にあります。
「菩提心の本質」をどのように理解しているか? という問題。

ヴェーダンタ密教からは、菩提心とは、ブラフマンの向上事である、とします。

ところが、似非仏教の人々や半端仏教の人々は、
菩提心の本質を正しく理解できていない。

ゆえに、戯論続出となり、「群盲、象を評する」の愚となるのです。

チベット仏教の僧侶にしても、そうなのでしょう。そこに、バグ・ウイルスが混入しています。
シャン坊氏や、o学者の「アダルト・マインド」の力では、そのウイルスを駆除することはできない、ということでしょう。

ユダヤ・キリスト教的に言うと、巨大な霊力を持ってそれを奮う巨人がいたとき、
霊力の源である髪の毛を切ってしまうとか、目を射抜いて盲目にしてしまう、とか、
悪魔の軍団は、「霊的な巨人を無力化」するために、「急所を突いて」来ます。
その攻撃を「退ける」ことができないと、
トロイの木馬のようなウイルスが、脳内に入って、「正しい仏法」を機能不全にしてしまいます。

きのこちゃんが、憎しみに関するお経を紹介してくれていましたが、


> (http://sekkha01.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/an-1080-aghata-.html#moreより引用)
> AN 10.80 Aghata Sutta: 憎しみ
> 2012/06/30 
> 「憎しみを鎮める方法には、十種類あります。その十種類とはなにか?
> [1] 「『彼はわたしにひどいことをした。でも、それがどうした?』と思えば、憎しみが収まります。
> [2] 「『彼は、わたしにひどいことをしている。でも、それがどうした?』と思えば、憎しみが収まります。
> [3] 「『彼は、わたしにひどいことをするだろう。でも、それがどうした?』と思えば、憎しみが収まります。
> [4] 「『彼は、わたしの大切な、親しい人たちにひどいことをした。でも、それがどうした?』と思えば、憎しみが収まります。
> [5] 「『彼は、わたしの大切な、親しい人たちにひどいことをしている。でも、それがどうした?』と思えば、憎しみが収まります。
> [6] 「『彼は、わたしの大切な、親しい人たちにひどいことをするだろう。でも、それがどうした?』と思えば、憎しみが収まります。
> [7] 「『彼は、わたしが嫌いな、憎い人たちに親切にした。でも、それがどうした?』と思えば、憎しみが収まります。
> [8] 「『彼は、わたしが嫌いな、憎い人たちに親切にしている。でも、それがどうした?』と思えば、憎しみが収まります。
> [9] 「『彼は、わたしが嫌いな、憎い人たちに親切にするだろう。でも、それがどうした?』と思えば、憎しみが収まります。
> [10] 「できないことに、構い続ける必要はありません。
> これらが、憎しみを鎮める十の方法です。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このようなことを 本当にブッダが述べたと思いますか?
いいえ、そんなことは有り得ません。
この内容は、小島よしおのギャグ「そんなの関係ねぇ」と同じレベルです。

悪魔が、こうしたウソを沢山混入させているのですが、
盲人は、その識別ができません。
ゆえに、「ゲロ入りご飯」を有り難がって食べているのです。
そうして、「ゲロ入りご飯」をほじくって、「ブッダ論理みつけた」とやっているのです。

そこに、真理はありません。
「外や、文字に」真理を求める「顕教者」は、「他者のゲロを食う者」となるだけです。

純粋な清浄な生命の泉は、「自州=法州」からのみ、湧き出るのです。

その泉の水を飲んでいるシャンティクマーリー童女に対して、
アダルト・マインドのシャン坊氏は、児童虐待をして、踏みつけ、彼女の声に耳を貸さない状態なのでしょう。
それが、菩提心だと思ってしまうのですね。

しかし、真理はそうではありません。

シャンティクマーリーこそ、菩提心そのもの、カーリー女神の化身、
と思って、最高の礼拝を捧げねばならない御方なのです。

そうした態度をさせるものが、真の菩提心である、のです。

それをさせない態度を選択させている「アダルト・マインド」は、
菩提心ではなく、「悪魔そのもの」なのですが、人は、それに気付きません。

石飛女史も、自分の中に棲息する「悪魔」について、全く気付いていません。

石飛女史の中における「チャイルド・ハート」は、著しく児童虐待されている状態です。踏みつけられ、無視され、バカにされ、同じ言葉を発して訴えても、
「同じ言葉を発する者はバカだ」と一蹴されて終わりです。

o学者においても、ご自分のチャイルド・ハートは、忘れ去られた存在です。
「アダルト・マインド」によっては、「歩歩清風を吹き起こすこと」は、できません。
碧海の「同じ主張」の繰り返しについても、チャイルド・ハートであれば、
次のような態度になることでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高野山真言宗の森管長は、「話は同じ話を何回聞いても、いつも初めて聞く時と同じ心構えで聞くことが非常に大切なことである」といわれています。お釈迦様は、「話というのは毛穴で聞くものである」とおっしやっています。すなわち、話を聞くときには、話をしている相手に集中して全身で聞きとるようにすることです。諸君も経験があるでしょう。話に熱中して聞き入っているとき自然に身体が前に乗り出すでしょう。それは諸君が全身でその話をしている相手に心を向けている証拠であります。話を聞くときは、話す相手が誰であろうと以上のような心構えで聞くようにしてもらいたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・

「相手が誰であろうとも」ではなく、「ダライ・ラマ様だけ」には平身低頭して話を聴くけれど、門前の乞食の言葉には、唾をはきつけるような「区別・差別の心」であっては、「真理の声」「生命の声」を聴くことはできません。

真の般若智は、チャイルド・ハートの先の先にあるものなのです。
そうして、そのためには、頭陀・頭陀・頭陀・頭陀・・・・頭陀しかありません。

そして、最も、頭陀行から遠い人々が、石飛女史であり、o学者であるのが現状というわけです。

「真理」は「ありのまま」に真実を照らし出します。
//////・・・・・・・・・・・・・・

大乗と小乗の差異

「大乗と小乗の違い」>きのこちゃんへ

思考のバグのツリーが、あっという間にコメントが沢山実っています。

今回は、きのこちゃんに、「小乗と大乗の差異」について、簡単に説明しておきますね。
本当は、思考のバグシリーズで、小乗と大乗の比較対照表を8項目ぐらいで異同を論じようと思ったのですが、「碧海の証明」を出すと、小乗は棲息できなくなるので、比較対照表もあまり意味がないなあ、と思いなおしたので、それは中止です。

ですから、一点だけですね。両者を簡単に比較してみましょう。

小乗というのは、大乗を「正・善」としたときの「正反対の悪徳」として仮想したものです。上座部仏教がそのまま小乗だという意味ではありません。上座部仏教でも、この「悪徳の仮想フレーム」に該当しなければ、小乗ではありません。

仏教は、大乗仏教運動になって、初めて「世界宗教」に躍り出ました。もし大乗仏教がなかったら、上座部仏教だけなら、現在でも、ジャイナ教やゾロアスター教ぐらいの評価にとどまったことでしょう。ところが、大乗仏教になって、他の世界宗教と肩を並べるようになったのです。その理由は、「空」という言葉の「枠」に、アドヴァイタとしての、梵我の神を復活させて、そこに入れたからなのです。

さて、「一番大切な真理」のことを大乗仏教では、
「廓然無聖」(かくねん・むしょう)と言うんだよ。
http://kotowaza.avaloky.com/pv_yoj105.html

挙す、梁の武帝、達磨大師に問う、如何(いか)なるか是れ聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)、磨云く・廓然無聖(かくねんむしょう)、帝云く、朕(ちん)に対する者は誰そ、磨云く、不識(ふしき) 帝契わず、遂に江を渡り、少林に至って面壁(めんぺき)九年、
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/darumakakunen.htm
http://www.rinnou.net/cont_04/rengo/2011-01.html

問う「いかなるか、これ、聖諦第一義?」
答え「廓然無聖(かくねんむしょう)」

これに比べて、小乗では、こう言うんだ、
「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教は、神を実在視して妄想している自我宗教で我が残るから無我の教えには行けない。無我の教えに行けるのは、神を実在視しない、我々が信奉するブッダの教えだけだ。真理を知っているのは、我々だけなんだ。我々って、すごいね。我々だけが真理を握っているんだ。他の奴らは、全然駄目。話にならん。人類で、こんなに貴重な真理を知っているのは、我々だけなんだ。我々だけが清風なんだ。我々だけに清い心があるんだ。清風・清心、ああ、なんて、我々の心は聖なるもので充たされているのであろう。それに比べて、奴らの心はドロドロだ。だから、奴らのようにならないように、両者の区別をしっかりはっきり付けなければならない。そうだ、だから、高い壁を築こう。聖別するんだ。聖なるものは別けなければならない。」

こうして、自分たちだけを「聖別」してしまうんだ。その瞬間に、「臭い肥溜め」になってしまうんだよ。キリスト教では、偽善者のファリサイ派、と言うんだ。


> 本当に、教科書マニア・参考書マニアになってはいけないな、と、改めて思いました。
> 実践が大事と、思っています。

きのこちゃん、良いところに気付いたね。「教科書マニア、参考書マニア」というその典型が、ザポ氏なんだ。沢山の経典を読み、論書を読んでいるけど、仏法が全く身になっていない。龍樹主宰の全国共通仏教テストがあったら、赤点になっちゃうよ。まあ、石飛女史やo学者も同じなんだけどね。

真の仏道は、単なる「仏典マニア」では、駄目なんだよ。

「実践が大事」ときのこちゃんが言っているけど、その実践というのは、
毎日の反復練習なんだ。
たとえば、ピアノを上手に弾きたいなら、同じ曲を何度も何度も何度も何度も練習するんだよ。毎日毎日・・・。昨日よりもっと上手に弾きたい、と思いながら。
金メダルの内村航平くんも、練習をやめないそうだよ。毎日毎日、飽きずに練習しているんだ。理想の動きを実現しようとして、毎日反復練習しているんだよ。
卓球の愛ちゃんも、やっと銀メダルとれたけど、毎日毎日ピンポンを打つ反復練習を20年間続けて来たんだよ。そうして、やっと栄光に辿り着いたんだよ。

身体的な習い事や芸事は、皆、そのようなものなんだ。
仏道も同じなんだよ。

大乗仏教は、「人智」を捨てる修行をして、廓然無聖(かくねんむしょう)の仏智に没入しようとするんだ。
人智は、正しく捨てる練習をしないと、下手に捨てようとすると、単なるバカになってしまうから「危険」なんだ。
だから、大乗仏教では、「マインドを正しく停止させる」修行をするんだよ。
毎日、毎日、卓球の愛ちゃんや、体操の内村くんのように、練習するんだよ。
そうして、やっと少しずつ、上手に「マインドを正しく停める」ことができるようになるんだ。

一方、小乗では、「仏典マニア」になって、こんなお経を読んだよ、このお経も知ってるよ、このお経も知ってるよ・・・と知識だけ増やして行くんだ。まるで、ザポおじさんみたいにね。
そうすると、「えっへん、俺様は、君たちのように無知ではないんだ、経典を沢山知っているんだ、えっへん、おっほん、ゴホゴホ」というように、自慢する心が芽生えて、これを滅することができなくなって、一生を終えてしまうんだよ。
まるで、修行になっていないね。(笑)
これじゃあ、良いところに輪廻転生できないね。(笑)

O学者さんの場合には、ちょっと事情が違うんだ。最近、o学者さんが誰なのか、偶然に知ったんだけれども、彼の場合は、しっかり親から受け継いだ社会的な地位ある仕事を持っている人だったので、仏教は、「趣味」だったんだね。だから、真剣に、大乗仏教のような「正しくマインドを停める」訓練なんか、やれないので、自然に、知識を増やす方向で、チベット語を一所懸命勉強して、堪能になって通訳ができるまでになったんだね。でも、チベット語がいくら堪能でも、「芸事」としての仏道を習得することにはならないのは、既に述べた通り。
「瞑想の正しい実践の修練」が全然できない以上、仏道の初心者、入り口にいるだけなんだ。ザポ氏や石飛女史と同じだね。
だから、o学者は、最初から、「仏教は趣味の範疇で研究してます」と言えば、私も素人さんには、何も「キツイこと」は言わなかったのにね。「阿闍梨だ」とか自己紹介するから、偉い修行者かと思っちゃうよね。まったくもって、お金で、阿闍梨の名称を授与する高野山も罪なことをするね。これじゃあ、社会的な箔付けで、社会的な地位がある金持ちは、皆、これを貰いに来るじゃないですか。いやはや、まったく。

それから、石飛女史のことは、碧海おじさんは、良くわかるから、ちょっと解説してあげるね。
石飛女史は、インドの言葉や漢文を一所懸命に「解読しよう」と努力したことによって、「努力が実を結んで」「読める能力」が少し出て来たんだよ。
これは、「小さな超能力」なんだ。本人は気付いていないようだけど。
そうしたら、どうなったと思う? もう大変だ。
超能力が使える、使える・・・わかる、わかる・・・、と自慢になってしまい、
「このように、私は見抜けます。このように私はわかります。私にはわかります」というような「能力自慢のオンパレード」になってしまったんだよ。
本場インドでは、「小さい水たまりほど、バチャバチャとうるさく音を立てる」と比喩するんだけれどね。「器が小さい」という意味だよ。

石飛女史の態度は、真の仏教からすると、本当に、「チンピラ超能力者の態度」そのものなんだよ。
きのこちゃんは、自分のことを 石飛せんせより劣っていると思っているかもしれないけれど、実際は全然違うんだよ。石飛せんせは、「ほんの小さな超能力を手に入れただけ」で、すっかり舞い上がって木に登って、「心が腹黒真っ黒」になってしまっているから、罪も沢山作っているので、きのこちゃんの心の方が、ずっとずっとと、心がきれいなんだよ。

お釈迦さまが、お二人のうち、どちらにキスするか、と言えば、迷わず、きのこちゃんを選ぶはずだよ。
小乗の目で、知識の多さで比べれば、石飛女史が偉いという評価になるけど、
大乗では、正反対なんだ。知識というか、人智は少ないほど良いんだよ。だから、大乗では、きのこちゃんの方が、ダイヤモンドに近いんだ。

以上、
大乗と小乗の違い、なんとなく、感じてもらえたかな?

T、T氏が言うように、「仏教経験の事実」が大事なんだ。だから、きのこちゃんが感じているように、「実践が大事」なんだよ。
真理表や、パズルなんていうのは、「知識を増やす」方向性だから、高慢ちきになって心が汚れるだけなんだ。
そうではなく、「自分の心を見つめる実践」が大事。
経典の文字を逐(お)う「解(読)行」なんて、いくらやっても、「マインドを停める」反復練習にならないから、愛ちゃんにも内村くんにも近づけない。

「実践」という毎日の反復練習をしている人だけが、前進している、と言えるんだよ。

古い経典、ウソ八百が混入している文献を研究する、考古学者になっても仕方ないよ。素人は、そんなことをするのは、無駄なんだ。
そうではなく、
「書を捨てよ、町へ出よう」(寺山修司)
そして、「世界そのもの、という真の経典」を観察しよう。
「世界そのもの」という「今、きのこちゃんにしてくれている」
「如来の説法」そのものに耳を傾けて、熟読しよう。
そうすれば、「アブがブ〜ン」と飛んで来たって、わかるときには、わかるんだ。
カエルが池に飛び込む音を聴くだけでも、わかるときには、わかるんだよ。

・・・///・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


思考のバグ29


「思考のバグ1」は、石飛女史の「不二一元の体験は簡単よ」発言を取り上げました。
シュリ・ラーマクリシュナが、何故、この名で呼ばれるようになったか?
命名者であるトータプリは、何に驚いて、こう命名したのか?
それが、簡単なことであるのか、至難の業で、希有なことであるのか?
いずれにせよ、
石飛女史が、無知蒙昧で語っている有り様が、「無免許の医者」のようで、
宗教的には、詐欺的な罪なのだ、という指摘をしました。

そして、今回の直前にも、アリャアリャ・・・発言がありました。

石飛女史の発言。
>
> あおみさまもそうですが、ヴェーダーンタと密教をちゃんぽんにしてしまうことに、どんな善いことがあるのか不思議に思っています。
>


石飛女史は、「ヴェーダンタと密教をちゃんぽんにしてしまう」と述べています。

これだけで、「密教」の意味を知らないことが、バレバレになります。

ひどい話ですねぇ。医者が、「血液って何?」と言っているようなものです。

それなのに、カルチャーセンターで、「有料の仏典講義」をしてしまう・・・・。

盲人が盲人を手引きしている、恐ろしい行為です。

釈尊が、石飛女史を弟子にしていたならば、決して石飛女史に、そのような「不誠実極まりない暴挙」は、許さなかったことでしょう。

o学者さん、否、o校長さん、
あなたが「主婦菩薩だ」と称賛している女性の仏教理解度は、この程度しかないレベルなのですよ。
ひょっとして、o学者さんも、「密教」の意味を知らなかったりするのでしょうか?
まさか、ね。
メールでも良いから、ちゃんと、「密教」の意味を教えてあげておいて下さいね。
見ていて、無知の恥さらしぶりが、あわれですから。

//////////////////////////////////////////////

さて、話題変わって、「洗脳」の話をしましょう。
ザポ氏が、次のように述べていました。

>
> 以前にも伝えましたが、思想的に一致している人であろうとなかろうと、あなたの世界を言葉によって操作することは可能なのです。
> とくに、あなたのように抽象世界を楽しむ人は、被暗示性が高い。
> 馬鹿であるとか、ないとかは全く関係ないのです。
> むしろ、頭の良い人は、抽象性も高く、逆にコントロールされてしまいます。
>

>
> そういうのをマインド・コントロールというのですよ。
> なぜなら、そうした屁理屈でもそれを肯定したい自身の内面の心情があるのに気がついていないからです。
>
・・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・

ザポ氏のこの言葉を受けて、述べるとすると、
実を言えば、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教、どれも、「洗脳」の要素が極めて強い経典です。
ゆえに、真の求法心がないと、「洗脳された単なる表面的な盲信」
で終わってしまいます。

私は、それらを「打ち破って来た」経験から、よくわかることです。

そして、これに付け加えるならば、
上座部仏教における経典群も、かなり相当に「洗脳性が高い」経典なのです。

ザポ氏は、気付いていないようですが、これに、完全に洗脳されています。
石飛女史も同様です。
だから、何か鋭い質問をしても、返答は、ワンパターンです。
「経典を信用するかぎり、こうなのです」と強弁するだけ・・・
そう答えるけの「思考停止マシーン」に成り下がっているのです。
「哲学する気はない」とザポ氏が自白している通りです。
(経典を真実と盲信した上での経典研究は するけどね・・・というスタンスです。)

私が次のように指摘しても、洗脳されたザポ氏や石飛女史には、
「馬の耳に念仏」です。
「(あなた方の理解における)縁起の法は、次の生起を保障するものではない。」と。

マーケットでの株式投資やギャンブルで考えれば、すぐにわかることですが、
「手許の資金」がどんどん減って行く中で、逆に増やすのは、至難のわざです。
縁起の法によって「滅・滅・滅」となって行き、その滅の中に、次の生起の縁が含まれていて、生起の縁も滅・滅・滅と減少して行くなかで、
それでも、トータルとして、
「生・住・異・滅」が循環してずっと継続的に回り続ける
「エンドレス8の無常」

そんなものを想定すること自体が、哲学的にも、経済学的にも、いかに馬鹿げたことなのか?
ザポ氏は、気付かないのです。
盲信と洗脳状態の思考停止(エポケー)だからでしょう、
「都合の悪いことは考えたくない」のです。
だから、「あたしは、哲学なんてする気はない」と述べて、
「経典の記述を信じるだけ」という立場を取るのです。
つまり、「不都合な真実」から目を背けて、ここでも、遁走(トンズラー)しているのです。

面白いことに、石飛女史は、テルゼさんに、次のように述べました。
>
> 仏法というのは、テルゼさまの考えるような「信」とはちがう「信」を必要とするのかもしれませんね。
>
> わたしの「信」から出てきたものが、ブッダ論理学です。
>
> テルゼさまが、わたしの「信」を問題にしたいなら、そこから出てきたブッダ論理学が無意味であることをテルゼさまなりに証明しなければならないでしょう。
>
> 罵倒も通じなくなってきたし、さげすみもあまり効果的ではないようだし、残された次の手は、ブッダ論理学を追及してみることくらいしかなくなってきましたね。
>
> 待ってますよ、テルゼさま。

・・・・・・・引用終了・・・・・・・・・

このように、自信満々、テルゼさんを あおって、
「論理で挑戦して来なよ」と、ご自分の得意な土俵で、手ぐすねをひくわけです。
(どうせ、できないでしょうね、と上から目線で笑っている図でしょう。)

石飛女史いわく
「私の信から出たものがブッダ論理学」です。

ところが、この「信」が、「大乗の信」ではなく、「小乗の信」だから、問題なのです。

「肥溜め的悪徳の小乗的な信」から出たものが「石飛ブッダ論理学」です。


かつて、サウロは、ユダヤ教の熱心な信者として、イエズス・キリストを迫害していました。
サウロの「信」から出た「論理」によって、イエズスを「悪徳者」と結論していたのです。

しかし、その後、どうなったでしょうか?

「サウロの回心」という有名なくだりになります。

さあ、それと同様に、
「石飛女史の回心」ということになりますか、どうか?

「碧海の証明」によって、「小乗の悪徳」に気付くことができるか?

現在は、経典に洗脳されているので、ザポ氏も石飛女史も、自分のことを

「小乗の悪徳」というフレームには、全く該当しない人である、と思っています。
大智度論における「方広道人」にも全く該当しない人である、と思っています。

自分が見えないのです。
思考のバグが29個も重なっているのに、「平然」としているのは、「洗脳された自己正当化の夢と陶酔」の中にいるから、に他なりません。
まともな、知性の鋭い、論理的に、解析的に、深く強く哲学する人であれば、
「事の重大さ」に、もう、とっくに気付いているはずだからです。

ところで、
私は、石飛女史やザポ氏を「論敵」だとは、全く思っていません。
レスリングの金メダリストなら、レスリングを初めて2週間しか経っていない初心者と、真剣に全力で試合をするわけがありません。
もし、真剣にやったら、「秒殺」になってしまうでしょう。
ですから、「試合らしきもの」になっているとしたら、
こちらが、手足を使わず、本気を出さず、小指一本で相手をしているから、
に他なりません。
しかし、そういう「ハンディキャップ戦」「リミッター付き戦闘」も終了です。

本気を出したときには、ひと吹きで、ゴミは吹き飛ばされます。

それゆえ、「碧海の証明」によって、石飛女史とザポ氏が
「秒殺」されるかどうか?
その点だけ、注目なさってほしいと思います。

「衝撃的な笑劇」になるように、工夫してあります。
「笑劇的な衝撃」になるかもしれません。


「密教」の意味すら知らない石飛女史。
そんな彼女が、仏教を偉そうに語る・・・・・・それは、
「児戯に等しい」「戯論三昧」の行為です。
ゆえに、彼女は、 ・・・石飛「戯論三昧」学者・・・・と称されることになるかもしれません。

なお、「ドロンジョ一味」という名称は、大乗仏教信徒さまには、不評だったので、
新たに考案しました。

「森三中」をモジッテ、
「石飛三中、上座部 落語研究会」 としてみました。
彼らが語る仏法は、「ギガント戯画に過ぎない落語」だからです。

さて、「石飛三中、上座部 落語研究会」のメンバー紹介です。
カッ飛亭ニャーヤヤっ子さん が真打ちです。
前座が、王水亭ヨードチンキさんです。
そのあとを引き受けるのが、
フリチベ亭ギャルポンポコさん。

のっけから、「笑える落語」として、「我々が語るのは、戯画仏法で〜す」として語ってくれれば、全然問題ないのですが、
真面目な顔して、「これぞ本物の仏法でやんす」と称するから、
道義的には、「詐欺」行為の該当性問題にまでなってくるわけです。

「碧海の証明」をみて、
「アリャアリャ・・・あたしら、ギガント戯画仏法に過ぎませんでした。
ど〜も、すいません」と
三平風にやって、「回心」をあらわすことになるのかどうか、
経緯を見守りましょう。

(追伸)
イマジン・ブレイカーのハンドルネームは、伊達でも冗談でもありません。
イマジン・ブレイカーの右手から放たれる碧海の証明という「パンチ」は、
「秒殺」で、すべての「宗教的洗脳」と「幻想」と「妄想」を打ち砕きます。
すると、「この歌」のタイトルは、See VisionS ですが、世界の皆皆が、
See God’s VisionS ということになります。
あらゆる超能力者と魔術者をぶっとばすイマジン・ブレイカー
http://www.youtube.com/watch?v=R9OdQ9JZfL0


思考のバグ30
「優越意識の肥溜」に落ちた人々

(o校長)
ですから、原点に戻って、ブッダダーサ比丘のいうように仏教では仮設でなく恒常不変なアートマンは認めないという論点に絞る方がいいと思います。アドヴァイタ仏教なんてのを認める伝統聖者は、いないと思います。
この点は『梵網経』以来、明解に仏教では一貫していると確信します。もちろん大乗もそうです。ブッダダーサ比丘は大乗でアートマンを認めるものがいると説かれているようですが一体誰を指しているのか不明です。
・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・

相変わらずの「o校長の妄言」炸裂ですね。

「o校長の妄言」と「日蓮正宗が語るキリスト教に対する妄言」は同レベルです。

日蓮正宗が語るキリスト教
http://hodoin.net/rasinban/rasinban05.pdf

日蓮正宗が、これほどキリスト教に対する無知蒙昧な偏見を堂々と公開するのは、
このグローバル社会の中で、「厚顔無恥」で「ひどい差別意識」だとしか言いようがありません。

そして、o校長も、まだ、ラマナ・マハリシを
空海の十住心論の第一住心レベルだとか、第三住心レベルだとか、
そのように、バカにしているのが、上記の発言で如実にわかります。
これもまた、日蓮正宗による「無知蒙昧・厚顔無恥なキリスト教観」と同じく、
O校長による「無知蒙昧・厚顔無恥なヴェーダンタ密教観」ということになります。

どちらも、抜き差しならぬ「自己優越意識」に裏付けされた「偏見」と「高慢」そして、圧倒的な「差別意識」を保持している人間だ、ということです。
「相手の思想」を「正しくありのまま」に「分析して理解しよう」とはしないのです。
「相手の言葉」は、真剣にそのままよく聞きなさいという、お祖父様の教えに反しています。
お祖父様が草葉の陰で泣いていますよ。

ブッ飛亭ニヤーヤヤッコさんも、「見下す意識ない」と平気でいうその裏に、
O校長と同じ自己優越的な差別意識があります。
ラマナ・マハリシの絶対者との合一は、「けっこう簡単」というのが彼女のご意見ですから。
そして、ブッダや龍樹の境地は、ラマナ・マハリシのような、そんなに低いものでは断じてありません、という主張です。
これは、途中までは、ラマナ・マハリシのアドヴァイタ体験を承認するということでしょうか?

それならば、「途中から、それが否定されて行く部分」にこそ、仏教の真髄があることになります。
しかし、その「乗り換え」の有り様が正しく説明されることはありません。

単なる盲信で、「こっちのがもっと上だよ、そっちは低いのさ〜」と強弁しているだけ。

日蓮正宗のキリスト教誤解と、同レベルと判断することができます。

本当に、いやですねぇ。差別意識保持者は。KKK団と同じです。

「自己優越意識と差別意識」、
石飛女史とo校長のそれは、傍観者には、ミエミエです。
シラをきるのは、本人とシンパのみ。
頭かくして尻隠さず。
質の悪い、場末の三文落語です。

ところで、なぜ、日蓮宗系統が、このような「優越意識」に陥るか?
といえば、簡単なことで、
法華経だけを重視しているスタンスだからです。
本来は、般若経典の「大乗の空」をよくよく会得して、それから「法華経の深淵」という順番なのですが、そのプロセスを省略しているために、
「大乗の空」が会得できていないために、
「小乗の悪徳の半端な空性の肥溜め」に落ちてしまい、
「優越意識の虜」になってしまうのです。

つまり、
「尊い教えを得た、得た、得た、得た、所持した、所持してル、所持してる」
これは、
金持ちが「お金を持った、持った、持った、持った、持った、ウハハハ」
と思うのと、
仏教的には、「何一つ異ならない」という「心の分析的な真理」に基づくのです。

特に、o校長は、チベット語堪能知識を得た得た、そしてお金持ちのボンボン
ということで、「優越意識の虜」になる材料が揃っています。

私は、「煩悩滅却大事典」を全部暗記したよ、キャハハハ」と自慢している落語戯画を示しましたが、あまり、これで「小乗の肥溜めフレーム」を理解する人はいないようでした。
特に、こちらの「石飛三中」の方々には、馬耳東風でした。

日蓮宗系統が、上座部仏教の人々と同じように、
半端な空性のみをふりまわして、法華経を信奉すると、
「小乗の肥溜め」に落ちて、「優越意識の虜」になってしまいます。

カッ飛亭ニヤーヤヤッコさんと、王水亭ヨードチンキさんが、法華経の勉強を始めたのは、これまた、必然的な「小乗の肥溜めツアー」であるわけです。

そうではなく、本当は、

般若経典の「空」に真っ向から取り組まなければならないのです。

般若心経にこうあります。
「無苦集滅道。無智亦無得。//以無所得故〜」

「得る所無きを以ての故に」と読み下します。梵語原文は「タスマ−ド(=それ故) アプラ−プティトヴァ−ド(=無獲得なので)」となっています。
 「アプラ−プティトヴァ−ド」は、直前の「無智亦無得」の「得(プラ−プティフ)」に否定辞の「ア」を付け、語尾に「トヴァ−ド(=なので、を以て)」を付けた形です。
 一つ前の「得(プラ−プティフ)」は、「経験知の個的獲得」即ち「個的レベルの知る働き」に限定された「(狭義の)獲得」を意味しています。

 一方、一旦文章を切って、改めて言い直している「アプラ−プティトヴァ−ド」は「知る働き」に限定されない(一般的な意味の)獲得を意味しています。
 つまり、「是故空中 無色」から「無智亦無得」までの文章全部、即ち「五蘊・十八処・十二因縁・四諦・智と得」全部を引っくるめて、「そうした個的レベルでの一般的な獲得というものは無い故に(それを以て)、」と否定して、ここで総括しているのです。
 よって−−−<それ故に、「(個としての)獲得(一切)無し」(との一事)を以て>−−−と訳出できます。

これが「大乗の空」なのです。




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般若心経「空」の本質論

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キリスト教思想要綱

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実践/祈りと行為のバランス論

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ユダヤ教思想要綱

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解説

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その他の論

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