宗教真理アカデミー

メールマガジン003号

Who am I ?(中級篇)


宗教真理アカデミー
 
【メルマガ第3号】  タイトル 「 Who am I ?」 (中級篇) 
 
こんちは。今回のメルマガは、ゴールデンウィーク特別バージョンでお届けします。長いので、分割して配信しようかとも思いましたが、一気に掲載してしまうことにしました。
今回の「Who am I ?」瞑想法は、本当は『般若心経マスター・バイブル 後篇 第一章』で、「般若ヨーガのイントロダクション」として、以前に書き上げたものです。しかし、その後、現在公開している「後篇第一章」と差し替えて、未発表だったものです。現在の後篇第一章よりも内容的には平易ですが、こちらの方が もしかしたら、皆様のニーズに合致するかもしれません。
ただし、「マスターバイブルの後編第一章よりも平易」というだけで、ここでの解説は、初心者用とは言えません。
心経マスターバイブルの「前篇」をすでに読んで、マスター済みの人が対象になります。
まだ、お読みでいな人は、最低限、前篇第四章「罪悪発生原理の解明」における「四源罪」論について学習してから、こちらをお読み下さい。
 
  では、本題のメルマガに入ります。
−−−−−−−−−−−
「 Who am I ?」 (中級篇)
   
 長くもあり、短くもある「人生行路」の中で、誰でも一度はこう自問すべきです。
「一体、自分は何者(のつもり)なのだろうか?」と。
 日々の仕事に追われているばかりではいけません。雑務に忙殺されている「体と頭」を一度ゆっくり「一休み」させて、このように自問する時間が、人生にはぜひとも必要です。
 また、世俗の悩みを山ほど抱えて、その重さに押し潰されそうになって苦しんでいる人々は、そうした“取るに足りない”(と敢えて言いましょう、そうした)悩みを一旦棚上げして、熱いシャワ−でも浴びた後、
「悩んでいるこの私は、何様であるが故に、これほど苦しみ悩んでいるのだろうか?」
 と、じっくり内省してみることです。
  
「私は何様? 私は何様?」
  
 このように真剣に自問し続けて、このテ−マにしっかり意識集中して行くべきです。これができれば、やがて「苦悩の黒雲」は雲散霧消し、爽快な晴天が現れ、心に太陽が昇って来るはずです。
 
「私は何様?」(WHO AM I?)  (「私は誰か」と訳されることが多いですが、般若ヨ−ガの言霊としては適当ではありません。この言い方では般若ヨ−ガは殆ど機能しません。)
 或いは−−−
「今の私は何様?」
 これぞ「究極の自問」です。
 但し、残念ながら、この自問ただ一つで、般若ヨ−ガを見事に実践し切れるほどに優秀な人はそんなに多くはないでしょう。         そこで、仏法そのものである「般若ヨ−ガ」を一人でも多くの人が、正しく、且つ強力に実践することができるように、この「究極の自問」について少々解説を施して行くことに致しましょう。
 
 般若ヨ−ガとは、(超宗教の)「四源罪」(@根本過失 A根本錯誤 B根本我欲 C根本盗取)(『般若心経マスター・バイブル前篇第四章参照)を粉々に裁断して消滅させる瞑想法です。
 般若ヨ−ガとは、一口で言えば、「小我(賊我)の動き」を解析し、「賊の動き(霊的な盗性)」を自覚的に「停止」させてしまう瞑想技法です。
 般若ヨ−ガとは、「個我自家性の動き」(『真我瞑想法スートラ』18章「真−18−21」参照)に陥っていないか否か、常に目覚めて見張りをし、「脚下を照顧」して自己を究明して行く観想法です。
 そして中でも特に、般若ヨ−ガの中核部分は、「A根本錯誤」を解消するべく、「個我無自性」という「正しい自覚」を呼び覚まし、この自覚を失念したら直ぐにその自覚を呼び起こし、そうやって「根本錯誤」を犯さないように、自分自身を絶えず監視する手法です。
 
 そして、その「根本錯誤」とは、<自分(個我)に『自性』が有る> 思い込む錯覚のことです。(「真−20−19」←マスター・バイブル前篇第四章 は節数を打っていません。御免なさい。)
 この「愚かな錯覚」を木っ端微塵に粉砕するために、心有る求道者は、 
「一体、私は何様(のつもりか)?」
 と、熱心に自問するべきです。
 無知なる凡人は、必ず「根本錯誤」を犯しています。よって、我々はいつも「自力」で生きているつもりであり、「自力」で呼吸しているつもりであり、「自力」で思考しているつもりであり、「自力」で「努力」しているつもりであり、「自力」で祈っているつもりなのです。 止処(とど)の詰まり、「自分に『自性』が有る」つもりなのです。
 換言すると、無知なる凡人は、誰であれ、仮にもし「個我の国」というものが有ったとしたならば、自分の事を、「<個我の国>では全権力を手中に収めた者」と思い込んでしまい、いつの間にやら、すっかり「個我の国の(何でもできるし、許される)大王様か神様」のようなつもりになっているのです。(しかし真相は、「不法占拠者」に過ぎないのですが。「真−20−11」←般若心経マスター・バイブル前篇第4章の「注2」部分前後参照)
 
 更に言うと、無知なる凡人が自分を「個我の国の大王様」と思い込む場合、ここでの大王様は例外無く「性(たち)の悪い大王様」であり、「(近代国家体制のような)『法の支配』など糞食らえ」と思っている王様であり、「自分が大王である以上、私自身が法であり、私は一切の『法の支配』の、更にその上に立つ者であり、自分は何をやっても許される」と考えている王様であり、「平気で法を踏み躪(にじ)ってしまう暴君」たる大王様なのです。
 さあ、わかりましたか? このことを自覚して、再考し、自分自身を脚下照顧して
「今の私は何様?」
 このように自問して−−−「個我の国に君臨して、平気で法を踏み躪(にじ)っている暴君たる大王様」−−「今の私は、まさにそれだ」
 こうした答えが見えてきて自覚された場合は、その現実をはっきりと直視して、「大反省の心」を喚起しなければなりません。
 この自覚を得た時、その人は、前よりも賢明な人間へと意識が移行しています。
 それまで無知の暗闇の中に隠されていた「霊的な錯誤の根本構造」が、あなたの理性の光と、理解の光で 白日の下に照らし出された状態となるからです。
 こうした「根の深い処に巣喰っている「(間違った)思い込み=勘違い」即ち「根本錯誤」とは、譬えて言えば、「お月さんが、いつの間にやら、自分は『自力』で輝いている、と、すっかり思い込み、<自分はお日様である>と勘違いする」ようなものなのです。
 
 −−−以上の説明で、ピンと来る人は中々優秀です。
 自分は「お日様なのか/お月様なのか」、真相を正しく見、正しく思惟すること。
 これができる人は、常日頃から「私は何様?」と自問することで、ついつい犯してしまう「根本錯誤」を小まめに粉砕するように心掛けることもできます。これができれば、心がぐんぐん澄みきって行き、聖なる霊感も沢山流入するようになるでしょう。
 しかし、これらの説明だけではピンと来ない人も沢山居るでしょう。
 そこで、そうした人々の為に、もう少し懇切丁寧に敷衍してみましょう。
 
先ず、次のように沈思黙考してみること。
「今、これこれをしているこの私は、一体誰なのか? 『二つの我』のうちのどちらの私なのか?」
「一体、誰が?  どちらの私が、これこれをしているのか?」
「普段の私は、社会的に、これこれの職業・身分・地位・役割に就いている。しかし、深く考えてみると、そうした<社会的な私>は、たまたま色々な事情と因縁で、そうした<役回り>を果たすことになっただけの<一時的な私>に過ぎない。
 そうした私−−−つまり、社会的な私=外的な私=役割を纏った私=役柄を身に纏った『役者』のような私=時代の流れに応じた顔を持つ私−−−こうした私を全部脱ぎ捨てたら、一体何が残るであろうか。どんな『私』が残るであろうか?」
 
 多くの人々は、こうした「哲学的な問題」には、殆ど興味を示さないでしょう。
「そんな辛気臭いテ−マを真顔で考え込むより、街に出てもっと楽しい事をしよう。」
 これが普通の無知なる人々の<煩悩生活の楽しみ>というものです。無知なる凡人の関心は、常に「外的な諸事物」に向いています。
 しかし、「煩悩生活」に嫌気が差すようになってしまった人もいます。いつまでも「有為」の奥山に迷い込んだまま「幻の蝶々」を追い続けていても「虚しいばかり」という考えに到る者たちもいます。(『真我瞑想法スートラ』第2章「真−2−30」参照)
 また、煩悩生活が高じて悪業を累積させてしまい、その応報・天罰で、嫌というほど痛い目に遭って、初めて「これではいけない」と目が醒める人もいます。そして「何とか悪しき煩悩から脱却しなければ…」と真剣に考える時間を持つようになるわけです。
 
 無知なる人々は、<「上辺の私」を「真の行為主体」だと勘違い> しています。
 地上の諸悪・苦厄・悲惨のすべては、人々が<この勘違いに気付かない>処から生じているのです。
 もしも、それ迄当然「真の行為主体」だと思っていたものが、実は「上辺の私」にしか過ぎず、「真の行為主体は他に有る」と知ったなら、人の意識はどう変わるでしょうか。
 「自分」には、「上辺の私」と「最深部の真実の私」の「二種の私」が有り、その両者の間に「大きなギャップ」が有るとしたら、この現象について看破して見極めてみたい、と思わないでしょうか。
 人は「キャッ、キャッ」とはしゃぎ回る「上辺の私」の部分だけで生きていれば、それだけで満足するものでしょうか?
 「最深部の真実の私」について無知蒙昧でも一向に構わない、というのでしょうか?
 
 人は「上辺の私」で生きている時に、悪事を行い、罪を犯します。
 一方、「最深部の真実の私」で生きている時には、悪事を行うことは無く、罪も犯しません。これが不動の法です。
 人は「上辺の私」で生きている時に、一時的な感情に流されて、喜怒哀楽の感情起伏を引き起こします。一方、「最深部の真実の私」で生きている時には、一時的な感情に流されることはなく、表層的な喜怒哀楽を超越した「深海の如き静寂世界」と「深い甘露の法悦」の中に住します。これが不動・不変の法です。
 
 「上辺の私」が「個我」です。
 「真の行為主体」が「真我」です。(「個我・真我」という用語の正確な定義づけについては、「真−15−21」以下参照←マスター・バイブル前篇第三章その2 節数なしで御免なさい。)
 「個我」は「仮の我」であり、物質的な崩壊を伴う「無常なる我」です。
 「真我」は「真の我」であり、決して崩壊しない「常恒不滅なる我」です。
 「個我」は「無知蒙昧な我」であり、「真我」は「大叡智そのものの我」です。
 「個我」は「不完全な私」であり、「真我」は「完全なる私」です。
 「個我」は「学ぶ必要の有る(=有学の)私」であり、「真我」は「学ぶ必要の無い(=無学の)私」です。(※この「有学/無学」の言い分けは伝統的な仏教の分け方です。)
 
 この「二種の我」の存在について自覚した者は、次のような自問をすることで、世俗の荒波に流されっぱなしの状態に「しっかと棹(さお)をさす」ことができます。即ち−−−
「今、はしゃいでいるのは、どちらの我か? 『無常なる我』か『常恒不滅の我』か?」
「今、怒っているのは、どちらの我か? 『無常なる我』か『常恒不滅の我』か?」
「今、哀しんでいるのは、どちらの我か? 『無常なる我』か『常恒不滅の我』か?」
「今、楽しんでいるのは、どちらの我か? 『無常なる我』か『常恒不滅の我』か?」
「今、悩んでいるのは、どちらの我か? 真我か賊我か?」
「今、苦しんでいるのは、どちらの我か? 真我か賊我か?」
「今、泣いているのは、どちらの我か? 真我か賊我か?」
 
 
 こうした「自問」を自ら問い続けることができる人は、「無知で幼稚な人間」から「哲学的な眼差しを持った思慮深い人間」へと速やかに変貌することができます。
 これが般若ヨ−ガの威力です。
(「個我」と「賊我」の違いについては「真−22−45、46」参照)
 
 ところで、(人によっては「くそ面白くもない」と感じるであろう)この種の自問を、しつこくしつこく問い続けて行く、その「動因・動機」は何でしょうか?
 換言すると、人は何故、こうした般若ヨ−ガの自問をするのでしょうか?
 その答えはこれです。即ち−−−<もう、いい加減、「賊我」に生き、悪行を累積させる生活にはうんざりした。「賊我」に生きることは、地上の低級な(餓鬼界の如き)波動の中に生きることであり、幸薄きことであるとわかった。それよりも、これからは「常恒不滅の我」を求め求めて究明し、「真我の光の中」「悪業止滅の生活」「深い充足感の中」を歩んで行きたい>−−−こうした神聖渇望心。(菩提心 と言っても構いません)
 これが般若ヨ−ガの根本動因です。
 従って、この種の神聖渇望心が燃え立たない人は、般若ヨ−ガの「行」を根気強く、深い集中力で行うことなど、到底できるはずがありません。 
 外的な事柄、取分け、<五感の刺激の快楽>に幻惑されている人は、日々「煩悩生活」を楽しんでいるので、「内的な霊的事柄」に目を向ける気持ちには、到底なれません。
 しかし、深酒の酩酊状態を「恥」と感じて自己嫌悪する人や、「外的な触感」即ち、皮膚感覚の性的快楽などでは、ふつふつと沸き上がる「内なる渇き」を癒せない人は、「内的な霊的事柄」に目を向けないではいられないのです。
 
 (正法の衰微した)末法の世では、般若ヨ−ガは流行(はや)りません。しかし、正法が立ち現れる周期が来ると、地上に神霊(みたま)が豊かに注がれ、それに応じて地上の神聖渇望心も増加・増大して来るので、「離欲・煩悩解脱」を渇望する人が増えて来ます。
 そうなると、「煩悩解脱のための、最強にして最速の手法」である般若ヨ−ガを、多くの人々が愛好し、実践するようになります。
<今の自分のこの営為は、賊我の動きか否か?>−−−たったこれだけの自問です。
 これだけで、「真主体 探究の旅(=偶像ではない『真の神』観想の旅)」が出来るのです。 そして、煩悩を減殺(げんさい)・滅却(めっきゃく)して行くことができるのです。
 それゆえに、(自問の動機としての)
「<賊我/真我>の識別を求める神聖渇望心」−−−に燃えながら、この自問をし続ける者は幸いです。その人は、必ずや大いなる祝福を受けずには済まされないからです。
 
 自分自身の「根本錯誤」を正しく自覚しようと願って、一歩引いた処から、客観的視座で、「賊我の動き」を俯瞰・鳥瞰しようとすると、それ迄「煩悩と一体化してしまっていた自我意識」が、「煩悩」から一旦乖離することになります。
 故に、深甚なる般若ヨ−ガの自問を自分自身に突き付けるほどに、「有為=煩悩の表層的な心の波立ち」が収まって行くのです。
 そうすると、一時的で無常なる「感情の起伏」(喜怒哀楽・憤慨・憎悪・落胆等々)も自然に消えて行き、霧が晴れるように、心に「平和」が立ち現れて来ます。(心の凪)
 そうして、「真我(=真の神)を瞑想する」という「聖なる一事」への意識集中が始まり、「下世話な煩悩」など産出する隙がなくなって、雲散霧消して仕舞うのです。〔※註@〕
  
〔※註@−−−「賊我/真我」の切り分けが正しく理解できていない者は、「賊我を真我と思い込む」愚を犯してしまいます。これぞ「根本錯誤」の典型です。
 「私は何様?」との自問に、喜々として自分で「私は神なり」と答える愚昧(ぐまい)な徒輩(ともがら)も、末法の世には雲霞の如く沢山発生します。ニセグルも掃いて捨てるほど発生するでしょう。
 こういう人たちは「タマス優勢の人間」です。(「真−22−19、22〜25」参照)。こういう人たちは「賊我と真我」の定義を再度学び直す必要が有ります(「真−15−21」「真−22−45」参照)。
 また、「自分は神である」と百万遍唱え続ければ、やがて思考は現実化して、本当に「神に成る」と教える浅墓な指導者を戴く教団もあります。しかし、勿論、「我は神(真我)なり」という自己言及が真実たり得るのは、ニルビィカルパ・サマディ−以上のサマディを達成した一部の聖者だけの話です。(「真−24−4、17」以下参照)
 凡人が「我は神なり」と言う場合、この「我」は、例外なく「賊我」です。よって、凡人は「私(賊我)は神(真我)だ」と言うことにより、高慢な思いで膨れ上がり、己れの本分を忘れて、賊我(=肉)主導の「霊的盗取」の罪悪を延々と続けることになるのです。
 こうした「タマス優勢な者」が、その「四源罪」を解消しないまま「大悟する」ことなど、絶対に有り得ません。(「真−23−18、19」の「註G」参照)
 尚、ここは誤解多発地帯であるので、もう少し付言すると、般若ヨ−ガの「自問」においては、「言葉の答え」などには意味は無い、と知るべきなのです。
 般若ヨ−ガの自問では、「私は神(真我)だ」という「言葉による解答」など、全く無意味であるばかりか、有害ですらあります。般若ヨ−ガの自問の真の答えは、言葉ではなく、実際の瞑想の深まりであり、瞑想の高まりであり、その先の「真我を直接知る、直接体験の覚知」であらねばならないからです。≫≫注終了〕〕
  
  
 念のため、再度確認しましょう。
 正しい般若ヨ−ガは、「意識の方向」を(外から内へ、「偶像」から「真の神」へ)転換する技法です。
 「見聞覚知」「喜怒哀楽」「憤慨・憎悪・落胆」等々の「上辺の私」の「営為」に忙しい時、その者の意識は、真我に向いてはいません。
 これは丁度、眠っている時には「外界」を全く意識していないのと同じです。即ち、真我に対して意識が眠っているいる状態です。
 しかし、神聖渇望心に燃えて般若ヨ−ガの「行」を行じると、「相対界の無常な営為」に従事していた自分の物的な姿が浮き彫りになり、それと共に、真我に意識が向くようになります。 そうして、「真我」に向いた意識の「集中度」が増して行くと、今度は「表層的な事柄」に対して意識が眠っている状態になり、「真我」という「内的な一事」にだけ意識が起きている状態になるのです。
     
 
 但し、いきなり四六時中、「真我」という「神聖一事」にだけ意識を向け続けることなど、凡人には不可能な芸当です。
 それ故、焦ることなく、ボディ・ビルの筋力トレ−ニングと同じく、一歩一歩確実に「内的筋力」(「真−10−30」参照)である「集中力・瞑想力」を高めて行く鍛練に励むべきです。
 具体的な目安を挙げると−−−
 毎朝十五分程度、般若ヨ−ガの自問をし、賊我の動きを「管制」する意識を働かせる習慣付けをします。
 次に、それが或る程度習慣化したら、今度は、夕方(又は晩)に十五分程度、それに追加して、同じことを行います。
 次に、朝夕二度の「般若ヨ−ガの自問」が習慣化して来たら、今度はお昼にも、十五分程度、それに追加して、同じ「行」を行います。
 それも習慣化して来たら、今度は「十五分」を「五分ずつ」延長して行きます。
 
 
 こうして、朝・昼・夕(晩)、日に三(四)度、三十分ずつ、般若ヨ−ガの瞑想行を行う習慣を身に付けるならば、急速に「煩悩・有為」は止(や)んで行くでしょう。
 そうして、十年、二十年、三十年…という長い歳月をかけて、ゆっくりじっくり、般若ヨ−ガの実践に励むべきです。
 もしも、謹厳実直に、亀の如き速度で三十年間この「行」をやり通したならば、物凄い効果が出ることは確実です。へたな宗教団体に所属してドタバタとした人生を送るよりも遙かに有意義で、実りの多い霊性修行となること請け合いです。
 そればかりか、次の転生にも計り知れないほどの「善い影響」が出て、恵まれた環境に生まれることになるでしょう。
 
 また、もしも、毎日の地道な積み重ねにより「内的筋力」即ち「集中力の持続時間」が増大して来て、「真我への深い集中、それも一人よがりではない真の瞑想を連続して実に8時間ほど継続すること」を達成できたならば、その時、神の祝福を得て、ニルヴィカルパ・サマディの扉は開かれ、その者は聖者と成ります。(このように、サマディーの練達者シュリ・チンモイは約束しています。)
 これが「個人の救い」であり、「悟り」というゴ−ルです。
 
 
 般若ヨ−ガは、「四源罪」の根っこを押さえてしまう手法なので、他のどんな手法よりも強烈・迅速に「悟り」に人を到らしめる瞑想技法です。
 但し、このヨ−ガを(間違い無く)真に深く正しく実践するには、「自性/無自性」概念について、深く正しい理解を持つことが必須です。
 そこで、次に、「自性/無自性」概念について、順番に詳説して行きましょう。
 
 〜〜〜〜こうして『般若心経マスター・バイブル 後篇 第2章、第3章』へとつながって行きます。〜〜〜〜 
まだ、お読みになっておられない方は、ぜひ、そちらをお読み下さい。
以上で今回のメルマガを終わらせて戴きます。
では、皆様の上に主のさらに一層の祝福が注がれますように。

碧海龍雨





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