宗教真理アカデミー

メールマガジン004号

Who am I ?(初級篇)


<宗教真理アカデミー>

【メルマガ第4号】 タイトル 「 Who am I ?」 (初級篇)

こんちは。
 前回、配信しました「 Who am I ?」は、般若心経マスターバイブル前篇を学習済みの人でないと、難しい内容だったので、前回を中級篇として、 
今回は、もう少し平易な、「初級篇」 を配信いたします。

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「私は誰?」(WHO AM I?)
これは、究極の質問、又は 究極叡智へ参入するための究極の自問、と言われます。
けれども、この質問たった一つで、叡智のヨ−ガを実践できる人は、ほとんどいないでしょう。
(その上、「私は誰?」という言い方自体が英語の翻訳語であるため、必ずしも適切な言霊になっているとはいえません)。ですから、普通の人は、「私は誰?」という質問だけでは、「???」「私は私。だから何?」と困惑するだけでしょう。
 そこで、仏教の真髄でもある叡智のヨ−ガに興味のある者が一人でも多く、このヨ−ガを正しく強力に実践することができるように、「私は誰?」という究極の質問に含まれる霊的な内実を、敷衍して行きましょう。

まずは、ちょっと幼稚だと思われるかも知れませんが、この話は「初級篇」なのでお許し下さい。
では、簡単なゲ−ムをして、このヨ−ガの本質的な部分を把握してみましょう。

〔ステップ1〕(二人で行う)
A「あなたの本当の顔はどんな顔? どんな表情?」とBに質問する。〔※注1〕
B「こんな顔」と、具体的にやって見せる。
これをお互い、交互にやりあってみる。

〔※注1−−−「本当の顔 本当の表情」がどのようなものか分からずに、この簡単なゲームをすることに困惑した場合は、少しミ−ティングしてみましょう。
●「自分(又は相手)の最も素晴らしい表情はどんな表情?」、これについて話し合う。
●「自分の表情の中から、『邪気』を取り除くと、どのような顔になるか?」、お互いやって見せ合ってみる。
●「無邪気」とはどのようなものか? 「 無邪気」について瞑想し、無邪気を自分の前面に呼び出すように努力してみる。
●赤ん坊の時の、「何も知らない無垢で真っ白な表情」を想起してみる。お互いに、それについて、少し瞑想する。
●自分の周囲のすべてが「未知の世界」として見え、それらに対して好奇心一杯に、目をキラキラ輝かせながら、生き生きとした表情をしている赤ん坊の顔を、今、鏡の前で作れるかどうか? やってみる。

こうして、ある程度「自分本来の顔」の意味について納得・合意したら、もう一度ステップ1 をやってみましょう。
シュリ・ラマナ・マハリシ の写真などを参考にするのも良いでしょう。≫≫−−注終了〕

〔ステップ2〕(一人で行う)
手鏡で自分の顔を見ながら、「私の最も素晴らしい表情はどんな表情?」と自問して、鏡に向かって「こんな表情」とやってみる。
これを何度も何度も、くりかえしやってみます。

〔ステップ3〕(一人で行う)
今度は反対に、否定的な感情により、曇っている表情を 手鏡の前でやってみる。
不平不満・怒り・憎しみなどの悪いマイナスの感情を思い起こし、それを表情に出してみる。最も憎い人や最も嫌いな人を思い出してみてもよいでしょう。
または、悲しみ、憂い、苦悶、悩み そうした表情を鏡の前で、表に出してみましょう。

これができたら、また、「ステップ2」の 最も素晴らしい本当の自分の表情 邪気のない表情  を前面に出すことができるか、チャレンジします。
 こうして、二つの表情の移り変わりを自分でシュミレ−ションしてみるのです。

以上で、導入部としてのゲ−ムは終わります。

このゲームは、簡単ですが、これによって、自己を客観的にみる訓練ができます。
自分の「悲憂悩悶」を客観視できる方向で、意識が活動をはじめます。

以上を前提にして、「Who am I?」 について 理解を深めて行きましょう。

まず、ゲ−ムにあった「自分の本当の表情はどんな表情?」という質問とオ−バ−ラップさせて、次のことをよく考えてみましょう。
「今、これこれのことをしているこの私は、本当は一体何者なの?」
「私は何者?」
「私は本来どのような存在?」

「今、私はこれこれの職業・身分・地位に就いている。でも、そういう私は、たまたま様々な因縁と事情で、そのような役回りを果たすことになっただけの『一時的な私』に過ぎないはず。 そうではなくて、そうした『外的な私』『ファッション的な上辺の私』『旅芸人が自分の配役の衣装を着たような私』、そうした私を全部脱ぎ捨てた『裸の私・本来の私』とは、一体どんな存在なのだろう?」
「サラリーマンOLをしている私、公務員で役所仕事をしている私、フリーターをしている私 などなど、  社会の中で色々な役回りをしている『仮の私』ではなくて、正真正銘これが『本当の私』といえる私とは、一体どのようなもの?」


こうした質問を真剣に自問しようとして、思索と集中を始めることができる人は、叡智のヨ−ガの入り口に立っている、といえます。

喧嘩で相手を非難するときなどに、次のようなセリフがあります。
「キサマ(貴様)、自分を ナニサマ(何様)だと思ってるんだ!」
「あんた、一体、ナニサマ(何様)のつもりなの ?!」

こうした「非難の言葉」の裏には、重大な真理が隠されているのです。
こうした非難の言葉は、「相手を真実の姿に目覚めさせよう」とする動きが含まれています。

ですから、人からこうした言葉を言われる前に、また、神様や天使たちからからこうした言葉を言われてしまう前に、
自分で自分に、こうした 「鋭い刃物のような言葉」 を突きつけてみましょう。
〜〜〜「私は一体、何様のつもりでいるのか?」〜〜と。

自分を神様か王様のつもりになって奢り高ぶり、好き勝手やり放題の自分なのか?
それとも・・・?
  「個我無自性」という深い仏教真理に目覚めている クールな自分なのか?
    ( 「個我無自性」というキーワードの意味については、
       般若心経マスターバイブル前篇第三章(その2)を熟読して下さい。)

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 さて、ここでもう一度、ゲ−ムにあった「自分の本当の表情はどんな表情?」という質問とオ−バ−ラップさせて、
今度は「喜怒哀楽の感情の中に住んでいる自分」と、対話してみましょう。
「喜んでいるのは誰?」「それは勿論、この私」
「怒っているのは誰?」「それは勿論、この私」
「哀しんでいるのは誰?」「勿論、誰でもない、この私」
「楽しんでいるのは誰?」「勿論、誰でもない、この私」

確かに「この私」こそ、喜怒哀楽の主体である「この私」です。
普通の人は、これでおわりです。ですから、何も起こりません。
しかし、叡智のヨーガでは、さらに、突っ込んで洞察します。

「では、そのような喜怒哀楽の感情という衣装を着けた私が、そうした表面的な感情の衣をきれいさっぱり脱ぎ捨てることができたなら、裸の私は、一体どんな姿で、どんな心で、どんな表情の人になるの?」

こうした「裸の私/本来の私/本源の私」 を探究して行くのが叡智のヨーガです。

もっといえば、こうした「裸の私/本来の私/本源の私」こそが、自分の求めるものであって、その姿こそが、恋しくて恋しくて仕方ない  そういう願望・渇望を持てる人こそが、叡智のヨーガのすぐれた実践者になることができます。

「ああ、私は、もう、上辺のうすっぺらい私には、興味がなくなってきたみたい。私は裸の自分、赤ん坊のような無垢な本源の私で ありたいの。できるだけ、いつもいつも」

 こうして、「裸の私/本来の私/本源の私」を取り戻すためのヨーガ
  それが、叡智のヨーガであり、「Who am I 瞑想」技法なのです。

さらに、具体的にお話しましょう。
喜怒哀楽の感情のうち、「怒っている」場合を例に取ってみましょう。

「怒っているのは、確かに『この私』である。しかし、しかし・・
『この私』は、永遠に怒っているの???  永遠に、いつもいつも??? 」

真剣に自問しましょう。 すると−−−
「いいえ、決して永遠に怒ってなんかいられない。」
という答えが自然に出てくるでしょう。
とすると−−−
「怒っている私は、一時的な自分の姿、自分の仮の姿に過ぎない。このような一時的なバブル(泡)のような「仮の私」 に いちいち執着してどうするの?  もっと大切な自分、本来の 『裸の自分』をみつめなくっちゃ!」

このような「正しい思考が働く冷静さ」を持てたなら、その人は、すでに、かなり叡智が前面に出ている人になっているはずです。
少なくとも、「あの人はなんて短絡的で感情的な人なの!」という非難を受けないようなレベルになることができます。

ああ、それほどに、「裸の自分」を愛して求めることは、あなたを人格的にバージョン・アップさせるのです!

「これこれのことをしている『この私』は『仮の私』に過ぎない。こうしているのは仮の私。では、『本当の私』とは? 『本来の私』は今何処に?」
「『真の私』は今、何処に?」「何処に? 何処に、何処に…」
そうして、自分の身体の一部分、一部分を数え上げて、「ここに真の私があるの?」と具体的に探究してみます。 
「手は、真の私? 違う。 ここにはない。」
「頭は? 胸は? ここでもない、ここでもない・・」
「これでもない。これでもない…」
「恋しい恋しい、真の私は? 真の私は? ・・・」

叡智のヨ−ガは、「真の主体を探す旅」です。
叡智のヨ−ガは、「真の主体」を求めて自問して行くことで、
「二段階ステップで意識の焦点を移す」技法なのです。すなわち、
1.対象から仮の主体の自覚へ
2.仮主体から真の主体へ
こうした二段階ステップでの「意識焦点」の移行です。

具体的に見てみましょう。−−−
まず、「これこれをしている」私がいますね。(=出発点)
 この時、その私は「自分」という主体を ほとんど意識していないはずです。
又は、自分のことをすっかり忘れて「これこれしている」状態にあるはずです。
即ち、「これこれする」事と、自分の存在を同化させてしまっている状態にあります。
この状態から、まず、次のように自問します。
「これこれしているのは、一体誰か?」
「これこれしている、その行為主体は誰か?」
すると、
「それをしているのは、『この私』である」「確かに『この私』である」
との答えが意識されて来る。

ここで、「第一ステップ」としての「意識の焦点の移行」が発生しているのが分かりますか??
それまで「〜〜している」ことに夢中で自分のことを全く意識していなかった人が、「それをしているのは、まぎれもなく『この私である』」というように、行為主体である「この私」を明確に意識し始めるのです。
つまり、外に向かっていた意識が、「外に意識を向けているその自分」に意識を向ける という意味で、「意識が内側に向かって行く」のです。
 
この「意識方向の変換」をはっきり意識することが、叡智のヨーガを成功させる鍵です。

このヨ−ガにあまり興味のない人は、ここですぐに自問を止めてしまうでしょう。
しかし、さきほどのゲームでも見た通り、「真の裸の自分」と出会いたい という願望・渇望が沸き立っている人は、
  「外に向かっている意識を 自分の内に向かう意識に転換する技法」
  としての叡智のヨーガを 愛するようになります。 

「これこれしている『この私』は、永遠にこれこれをし続けているわけではない。よって、これこれしている『この私』は、一時的な仮の私である」
「『この私』は真実究極の主体ではなく、仮の主体であることに間違いない」

自問に対する、このような結論。

すると、この結論を受けて、
「ああ、このような『かりそめの私』ではイヤ、イヤ、イヤ!」
「本当の、本源の、裸の私こそ、私は今必要なの !」
「裸の私、裸の私・・・」

ここまで来ると、「第二ステップ」の「意識の焦点の移行」が発生してきます。
即ち、それまで「これこれをしているのは、まぎれもなく『この私である』」と、行為主体である「この私」を意識していた人間が、「その『この私』は、仮の私・仮の主体に過ぎない。「その私」ではなくて、真実究極の主体である私は何処に? 何処に?」と、意識の焦点と興味の対象が、
「究極不滅永遠の主体」(の探索行為)へと移って行くのです。

このように、意識の焦点を「二段ステップで移行させる」という効果についてよく理解したならば、あとは「これを真面目に実践できるかどうか」だけの問題です。

さあ、あなたの前にある選択肢は二つだけです。
「(外的世界に向かって)これこれすること」が、今の自分のどうしてもしたいことなのか?
それとも、それらをする『仮の主体』である私を意識し、仮の『私』程度の自己認識ではとても満足できず、『裸の本来の自分』に出会いたい、という渇望心に突き動かされて、今の今、その課題に集中し、『裸の自分探し』行為に専心したいのか?
一体どちらなのか?」

二つの選択肢は、二律背反の関係にあります。よって、同時平行的両立は不可能です。
(また、この二律背反性があるからこそ、煩悩を滅却して行くことも可能となるのですが。)
真剣に「裸の私」を求め求めて、自意識の根源へ根源へと意識を集中して行くならば、意識はそうした探索行為で忙しくなり、手一杯になります。
そうすると、「(外的世界に向かって)これこれをしている私」の意識は、その「これこれをしている」ヒマと余裕がなくなって来ます。
ここがポイントです。

例えば、真剣に叡智のヨ−ガを始めると、
怒っている私/悲しんでいる私/落ち込んでいる私/悩んでいる私/憎んでいる私/等々の私がいたはずなのに、そうではなくて、『裸の自分探し』が忙しくなるので、
怒っている暇がなくなり、悲しんでいる暇がなくなり、落ち込んでいる暇がなくなり、悩んでいる暇がなくなり、憎んでいる暇がなくなって来るのです。
そうした「外面的・表面的・一時的なこと」に従事することから意識がどんどん離れて、意識が内側に向いて来ます。
そして、やがては、それら感情的な動きを「する」意識が希薄になって、それに気が回らなくなって来るのです。
それらを「する」ことに気が回らなくなって来るということは、それまで「これこれをしていた私」が「これこれ」(喜怒哀楽・憤慨・憎悪・落胆等々)をしなくなって来るということを意味します。
つまり、それら表面的・一時的な活動に従事することをすっかり忘れて、
「常恒不滅の裸の私」を探索・捜索することだけに意識が集中して行くのです。
これ即ち、それだけに意識が集中することで、「喜怒哀楽・憤慨・憎悪・落胆」等々の煩悩がが消滅して行くこと意味します。
これこそが、叡智のヨ−ガの威力です。

約言すると、「裸の私を探し求める」という(普遍的・根源的な)「聖なる一事だけ」で心を一杯にしてしまい、その他の(表面的な心の波立ちである一時的な)「俗なる諸事の雑念」をすべて破壊し、消滅させ、霧散させてしまう技法−−−それが叡智のヨ−ガなのです。

叡智のヨ−ガは、意識の置き場所(焦点)を移動させる技法です。
見聞覚知・喜怒哀楽・憤慨・憎悪・落胆等々をすることに忙しくしてる時、その人の意識は、自己の本源に向いていません。つまり、自分の本源を全く意識していない状態にあるのです。つまり、自分の立脚基盤を意識しないで立って踊っているようなものです。

これは丁度、眠っている時には「外界」を全く意識していないのと同じことなのです。つまり、自分の本源(本地)に対して意識が眠っているいる状態なので、本源(本地)が意識されないのです。
そこで、心の源にある「裸の私」を探究します。すると、今度は、見聞覚知・喜怒哀楽・憤慨・憎悪・落胆等々をすることに意識が行かなくなり、その代わりに自分の心源(本地)に意識が向き、それを捜索・探索することに忙しくなって、そうして、遂に、見聞覚知・喜怒哀楽・憤慨・憎悪・落胆等々をすることに意識が全然向かなくなり、それら表層的な事柄に対して意識が眠っている状態になるのです。
そしてただ、「裸の私探究」という一事に対してだけ意識が起きている」状態になるのです。

このことを、今度は「見聞覚知」という感覚器官の働きの場合で見てみましょう。

●「テレビを見ている場合」を例に取りましょう。

夢中でテレビを見入っている人がいます。
この人はテレビ画面に意識が同一化していますから、「テレビを見ている自分」など全然意識していません。
この状態で、叡智のヨ−ガをやってみましょう。
「テレビを見ているのは、一体誰?」
こう、自問します。
すると「テレビを見ているのは、この私」゛
という答えが返ってきます。
「この私・・・この私・・・」

ここで、テレビに意識がくっついている状態から、「見ているこの私」へと意識が移行します。
「この私、この私、この私・・・」
この考えが大きくなると、テレビ番組の内容に集中できなくなり、うわのそらで、テレビをみるような状態になります。

そこで、さらに突っ込みます。
「この私、この私って・・・えっ? どの私? 」
「えっ?  どの私? 」

この自問をするのは、衝撃的なことです。

「テレビを見ている目が、この私?  違う違う。えっ、じゃあ、どの私?」
「テレビを見ている身体が、この私? 違う違う。えっ、じゃあ、どの私が?・・」

「えっ? えっ? 私って言ったって、どの私よ??」

これは大変なことになりました。もう、テレビを見ている場合ではありません。
この疑問を一心不乱に解かなければなりません。

こうした疑問が、自分にとって真に「差し迫った喫緊(きっきん)の問題」として胸に迫って来るならば、もはやテレビから流れ出る情報は取るに足りないものとなってしまうことでしょう。
そうなれば、
「真の、裸の私は、どんな存在?」
こうした質問にだけ意識が集中するようになります。
こうなると、その人はテレビを見ることを止めてしまうでしょう。
(或いは、見ていても見ていない状態になるでしょう。)

このように、叡智のヨ−ガを実践する人は、いつでも、外的対象世界と内的真相世界のどちらにより重大な関心を持ち、より多くの興味を抱き、より多くの愛着を持ち、どちらに自分の意識を向けて行くのか、という二者択一の決断に迫られ続けることになるのです。

但し、いきなり四六時中、『裸の私』探究のインナートリップに従事することは、凡人には不可能なことです。ですから、焦ることなく、一歩一歩、ボディ・ビルの筋力トレ−ニングをするように、確実に「内的筋力」である「集中力・瞑想力」を高めて行くことが必要です。
具体的には、毎朝十五分間、叡智のヨ−ガを実践し、首尾よくそれができるようになったら、夕方、又は晩に十五分間、また追加して行います。そして、それらが充分できるようになったら、十五分を三十分に増やし…と徐々に集中時間を増やして行きます。
 こうして、十年、二十年、三十年、という時間をかけて、徐々に実践時間を増やすという「壮大な実践計画」を立てるのがよいでしょう。
(もしも、実直に勤勉に亀の如きスピ−ドで三十年間これをやり通したならば、それは物凄い効果になります。下手な宗教団体に所属してドタバタとした人生を送るよりも遙かに有意義であり、実りの多いものとなります。次の転生に与える良い影響も計り知れません。)

 達成のスピ−ドは重要ではありません。
「大悟」達成日時を、自分の好き勝手にコントロ−ルすることはできません。大悟の日どりは神のみぞ知る所です。それよりも、日々、十数分〜数十分の叡智のヨ−ガを確実に実践することが大切です。
日々、小さな誘惑に打ち勝って、または、外的な煩悩生活から意識の焦点を転換して、内的世界に意識を向け、叡智のヨ−ガを行うことができるか否か???
ここに毎日の勝負があります。
日々の小さな勝利が積み重なって、ようやくやがて、大きな勝利がもたらされるのです。誰一人、インチキやズルをすることはできません。

 さあ、今日も、外側に向いている意識を、内側に引き戻すために、叡智のヨーガを実践しましょう。
 「 Who am I ?」

 以上で今回のメルマガを終わらせて戴きます。
 では、皆様の上に主のさらに一層の祝福が注がれますように。

碧海龍雨





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