宗教真理アカデミー

メールマガジン009号(2006/3/3配信)

芥川の『蜘蛛の糸』に含まれる真理について


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 【メルマガ第9号】 タイトル 芥川の寓話『蜘蛛の糸』に含まれる真理について


芥川龍之介の名作『蜘蛛の糸』については、誰でも教科書などで一度は読んだことがあるのではないでしょうか? 幸い、ウェブ青空文庫で無料で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html

お釈迦様は地獄でうごめく大罪人「カンダタ」を救うべく、極楽界から蜘蛛の糸を垂らし、それにつかまって天界に登ってくるようにと、「救霊の御業(みわざ)」を恩寵として与えました。しかし、結論的には、カンダタの業 (ごう)の深さのゆえに、救いの蜘蛛の糸はカンダタの上でプツンと切れて、「残念。救うことあたわず」、という結果になったという物語です。
植木市の出店で「金魚すくい」をした時、紙が破れて金魚が逃げてしまう経験をした事は誰にでもあるでしょう。この寓話のお釈迦様にしてみれば、「救おうとして救えない」わけで、金魚が逃げたような感じだったのでしょうか?(笑)
現実世界においても、「誰かを救おう」とか、「良い方向に導こう」とした時に、救いたい対象の人がその導きや誘いに対して素直に乗ってこられず、こちらに付いてこられないケースがあります。
皆様も、多々経験したこと、ありませんか?
こうしたケースは、背景的に、色々な事情が関係しているにせよ、結局は、寓話『蜘蛛の糸』同様、相手の業(ごう)が深いために、良い導きの糸を 「その対象者」が己れの善業でしっかりたぐりよせてゆくことができず、己(おの)が悪業の故に、救いの糸がプツンと切れてしまうわけです。

この辺の霊的事情についてもう少し突っ込んだ説明をしましょう。
たとえば、「人づきあい」において、まことに失礼千万なことをしたり、信頼を裏切る背任的行為をしたり、信頼しているこちらに対して、人を見くびってひどい悪行をした場合、「もう、この人とは断固、絶交する!」 というケースがあるでしょう。皆様にも覚えがないでしょうか?
それと同様に、神様の場合にも、地球人一人一人に対して、「付き合う距離」というものがあります。
神は、人間に対して、
(1)恋人同様に親しく付き合う場合と、その反対に、
(2)絶交に等しいような疎遠な関係になる場合、
極端に言えば、この二通り、つまり、付き合う距離についても、「一本の棒」の片端から片端まで、千差万別です。
神と親しく交流することが許された誠実・正直・清廉な人に、神の恵みは豊かに降り注ぎます。
一方、神に絶交されているに近い疎遠な関係の場合には、神がかなり「手を引き気味」或いは「ドン引き」状態であるため、神の恩寵・祝福の扉は狭く閉じられ、霊的恵みの蛇口が極めて細々となってしまいます。

卑近な例を出しましょう。アメリカという国は、他国に対してしばしば「経済制裁」という行動を取りますが、これも、キリスト教的な意味で、−−−自国と親しく交流できる者には「祝福の富(=飴)」を与え、そして反対に、罪ある者には、「祝福のストップ」という制裁による貧困(=鞭)を与える−−−  という思想が背景にある、と読むことができます。
ただ、こうしたアメリカの政治的判断の良し悪しをここで論じると話がそれてしまいますから、それは置いておきます。

今、問題なのは、実際・現実に、神は、善行あつき者には因果応報の報いとして、祝福恩寵を与え、不良で悪行放蕩三昧の者には、因果応報の報いとして、恩寵の停止、という制裁を与える、という事実です。

ということは、人格的にみて、タマス(暗・鈍性)やラジャス(矜持性)が強い人は、行為も思考もその方向で動くので、どうしても、聖なる導き(のご縁)、すなわち「救いの蜘蛛の糸」を、自分で断ち切るような行為をしてしまう傾向が強い、ということになります。

霊的初心者によくあるケースですが、入信して日が浅く、清新な信仰に燃えている時、
「人々を救いたい」という一心で、かなり悪辣・低俗な人々に対してまでも、一生懸命、布教を働きかけ、真理を説いて聞かせようとする人がいます。
「自分が世界を良い方向に変革するんだ」、という希望に燃えているわけです。
しかし、こうした形の布教は、経験不足・知識不足ゆえの行為と言え、実際のところ、そのような努力は、たいした実りをもたらさないものですし、もっといえば、そういう無駄をする自分の方にこそ災いが来るものなのです。なぜなら、「高価な真珠を豚に投げてやる」−−そのようなことをすれば、その行為自体の罪が俎上に上がって来ざるをえないからです。

「えっ?!」と思うかも知れません。純粋に善意で布教しようとしているのに、なぜ?・・・・と思うでしょう。
しかし、よく考えて下さい。悪辣・低俗・放蕩三昧の彼らに対して、祝福の扉を閉じているのは、神様の方だということを忘れないで下さい。
霊的祝福の蛇口の栓を締めているのは最高主宰神の方なのです。

神様が「ダメです! この人に対しては祝福停止です!」
と決定なさっておられるケースで、それに対して、
「いえ、私は、私としては・・・是非とも、この人を救いたいのです。必ずや、わたしの力で導いてみせます! それが世界の変革に繋がるのです!」
このように主張するのは、神に逆らう不遜なエゴの動きといえるのです。

宜しいですか。神こそが彼らの目を盲目にしているのです。であるにも拘(かかわ)らず、布教者が自分の力で相手の目を開かせてみせる、などと思うのは不遜な話です。
いくら、悪辣放蕩三昧の人々に対して、「救いの蜘蛛の糸」を垂れてやり、「さあ、捕まりなさい」と勧めても、
彼らは、
「フン! 迷惑だ! 余計なお世話だ!」、
と不快感をあらわにして、救いの糸を手ではねつけ、自分で切ってしまうのがオチであるはずです。

ただ、誤解しないで戴きたいのですが、神が最初に彼らに対して扉を閉じたわけではありません。
神の祝福の扉を閉じさせるような悪行・放蕩をその人がするから、「悪業の罰」としての制裁を受けているだけです。ですから、そのような「制裁継続状態」であるのに、こちらが勝手に、密輸的に神の恵みを与えることはできません。

とにかく、、神が「この人には貴重な恵みはやれません」という裁定を下している状態の時に、
「いいえ、この人をナントカ、どうしても救いたいのです。神よ、この人を善導して下さい。」と祈っても、なかなかうまくは行きません。
うまく行かない理由は、「何事にも、正しい手順がある」、のが法則だからです。
(岡田茂吉は「順序は神なり」という名言を吐きましたが、まさにそのとおりです。)

順序としては、まずもって第一に、
神様に向かって、「救いたい対象者」に下されている「制裁の解除」を願い出なければなりません。
単なる布教や説法に先立って、これが大切です。
しかし、宜しいですか?
誰が聞いたって、まるっきり無条件・無差別に、ただ一方的に「制裁を解除して下さい」と祈るだけで、その願いが聞き届けられるわけがないことは、因果律からしても、当然の理(ことわり)だとわかるでしょう。
そうでなければ、法・秩序が維持されません。

さて、因果律に照らしてみると、
「祝福停止という制裁解除」を神に願った時に、それが聞き届けられるためには、
救いたい相手が、
1.罪の自覚(=己が非を悟ること)
2.懺悔
3.回心(改心)
という3条件をクリアーすることが、どうしても必要になります。

ですから、人を救う「救霊のみ業(わざ)」を行いたい、とか、真の布教行為を熱心に行いたい、と願うならば、次のことを 常にしっかり、強く念頭に刻んでおく必要があります。
単に、「神よ、この人の罪を赦し給え」と祈るだけでは、最初は不充分です。
神に、その人(=友)の「制裁解除を願い出る祈り」、なわけですから、次のような内容の祈りをこめる必要があります。すなわち−−−
−−−−救いたいその対象者が、「己が非を悟り(罪の自覚をして)懺悔して回心する」という3条件をクリアーできますように。その方向で私も、神の道具として、一生懸命に、愛(の説法)を示してその方向に導きますから、どうか、この3条件をクリアーできるように、主の大いなる恩寵を降り注いで下さい。そうして、見事、この人が真心から<己が非の認知・懺悔・回心>をした暁には、この人への制裁を解除して戴き、以後、祝福恩寵の蛇口を大きく開いて、恵みを豊かに注ぎ続けて戴けますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。−−−と。

このような内容の祈りが基本になります。
そうして、祈り通りに、首尾よく、救いたい対象者が、「大回心」して、上記の3条件を具備するに至ったならば、それは実にめでたいことです。その人は、これを契機にして、「救いの蜘蛛の糸」をしっかり謙虚に握りしめて、それを登って行くことができるでしょう。
これぞ、その人のエゴの大きな変容といえます。
その人が、そのまま、救いの糸から手を離さず、3条件を保持したまま精進すれば、いつか、極楽界の天界にまで辿り着き、必ずや救いに到達することでしょう。

ところが−−−です。いくら上記のように祈っても、どんなに愛をもって働きかけても、容易には、上記の3条件をクリアーする、そんな人ばかりではないのです!
このことは、実際にやって経験すれば、「嫌」というほど、わかるでしょう。
なぜなら、般若心経にもあるとおり、「無知は尽きることがない」、よって、「悪辣や放蕩も尽きることがない」からです。
(例えば、織田信長や、スターリンや毛沢東のような人に布教しても回心するわけがないことはわかるでしょう。夏目漱石、芥川龍之介、ニーチェなどの如き人々に対しても、神の存在・罪の自覚・回心などを説いても無駄であることは、容易にイメージできるのではないでしょうか?)

というわけなので、宜しいですか?
「相手を回心にまで導く」という試みが失敗しても、『蜘蛛の糸』がプツンと切れてしまっても、がっかりしてはいけません。
「また後日の縁」を願いつつ、長い目でその人のゆっくりとした成長の軌跡をイメージしながら、寓話『蜘蛛の糸』におけるお釈迦様のように、糸が切れたことに対しても、いたずらに悲観することなく、恬淡としていれば宜しいのです。
いえ、もっといえば、寓話『蜘蛛の糸』の文章通り、
−−「そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。」−−
とあるとおり、「あ〜あ、欲望の虜となっているさまは、まことに、浅ましいことよ」という感想を抱いても、まあまあ、宜しいかもしれません。
但し、作者芥川龍之介は、この話の中でお釈迦様が「カンダタを浅ましく思し召された」と表現しましたが、真の覚者、聖者は、そういう風には思わないことでしょう。
むしろ、「そのような有り様は、昔来た道。」というような深い理解を示される部分があると同時に、そうした未熟な無知や、悪業応報の苦しみに思いを馳せて、深い憐れみの気持ちを覚えておられることでしょう。
この辺のことは、無神論者の作者芥川龍之介には、思い至らないことでありましょう。


▼さて、上記のように、布教の試みがうまく行かない場合、キリスト教では、布教者は、自分の足(靴)の塵を落とすそぶりをするように教えられています。これは、「自分には罪咎(つみとが)がない」「相手が回心しないのは、自分の落ち度ではありません」ということを表す素振りです。
まことに、なすべき正しい手順を踏んで布教しても相手が回心しないならば、悲観することは微塵もありません。なぜなら、その布教者に代わって、『別の強力な布教者』が登場して自動的にタッチ交替となる−−−−−という神の法則があるからです。
つまり、布教をはねつける業深き「分からず屋」に対しては、別の偉大な教師を神が割り当てておられるのです。ですから、後のことは、布教の初心者であるあなたなど全く問題にならないほど偉大な、この「マハー教師」にお任せすれば宜しいのです。
その教師とは、寓話的に言うならば、名付けて
−−−「忍者教師・くのむち明王(みょうおう)」−−と申します。(笑)
「くのむち明王」は、恐ろしく恐(こわ)いお顔をしています。苦み走った、ある意味非情なお顔と言えます。
昔から、女忍者のことは「くノ一(=くのいち)」と呼ばれますが、この偉大な教師「くのむち明王」は、主に『苦の鞭』を使って教鞭を取る明王です。そして、何処におられるのか、普段は全くわかりません。透明人間のようです。
地上や霊界の至る所に臨在なさり、「苦の鞭」を以(もっ)て人々に教えを垂れているのですが、それを受けている人々は、「くのむち明王」の仕業であるとはその時は露(つゆ)ほどにも思いません。全然気付かないのです。
そうして、あとあとになって、ようやく、ああ、あれは、「くのむち明王」によって教えを戴いていたのだ・・・とわかるのです。
その意味で、「忍者のような明王」であるわけです。

寓話『蜘蛛の糸』のお釈迦様は、カンダタが地獄の血の池に落ちて行くのを見ながら、きっと、後のことは、「くのむち明王」にお任せしましょう・・・・というお気持ちになられたことと思います。

▼くのむち明王、かく語りき。
くのむち明王がどのように日頃語っておられるか、ご紹介しましょう。そのお人柄、というか明王柄の一端が垣間見えることでしょう。
−−−「我は、苦の鞭を以(もっ)て汝らに教えを垂れる。我は、一切の同情をしない。憐れみもしない。そうして、一見、冷酷非情とも見える形で、苦の鞭をふるい続ける。なぜなら、我は、汝ら一人一人の個人の尊厳、そして、尊大とも言える汝らのエゴをこの上なく尊重しているからである。
神をも知らず、神を信じず、神も天地をも恐れず、神に一切ひれ伏さない、誇り高き汝らに対して、安っぽい同情など失礼であり、無用であろう。
もし、われが汝らに少しでも憐れみをかけようものなら、汝らは我に対して、
『愚かな慢心から、一方的に要(い)らぬ憐れみをかけやがって、全く失礼千万な話である』、
と気分を害するであろう。
であるから、我は、汝らに対して一切の同情や憐れみをかけない。われが憤怒の形相で、冷酷非情に見える面持ちをしているのはそれゆえである。
もしも、汝らが、われから苦の鞭を受けるならば、それは自業自得である。まさしく、自業自得、自己責任、因果応報である。我は、神の法に則ってのみ、苦の鞭をふるうからである。そこには、一点の誤りもない。
汝らが、わが苦の鞭を受けて、受けて、受け続け、汝らの、その強気で恐れを知らぬ誇り高きエゴが、やがて徐々に弱って行き、そうして遂に、苦の鞭の重い痛みに耐えかねて、到頭(とうとう)、ひざを折り、地にひれ伏して、己(おの)が慢心と己が非を悟り、滂沱(ぼうだ)の涙を流して神を呼び求めるようになる、その日その時まで、我は苦の鞭をふるい続ける。まことに、覚悟するがよい。これが我が説法の流儀なのであるから。」−−−。

このように、くのむち明王は仰られております。まこと、恐るべしです。

あなたは、くのむち明王から苦の鞭で教えを受ける道を選びますか?
それとも、賢明に、己が非を悟り、回心して謙虚に地にひれ伏して、念仏・念神しながら、進んで自己反省と自己超越の精進をしながら、ストローで甘露ハニーを吸って飲むように、神の祝福を味わい、悦びながら成長する道を選びますか?

それでは、本日はこの辺に致します。
皆様の上に主の恵みが豊かに注がれますように。


碧海龍雨






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