宗教真理アカデミー

メールマガジン010号(2006/3/5配信)

実用的な人間たれ(その1)
〜〜中観の理想としての『超行為論』〜〜


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<宗教真理アカデミー>

 【メルマガ第10号】 タイトル 実用的な人間たれ(その1)
            〜〜〜(副題)中観の理想としての『超行為論』〜〜〜

中道・中観思想を、「実生活で実践して生活して行く」 にはどうしたら良いのでしょうか?
信仰者の悩み所と言えます。みんな、誰でもここで悩むのです。そして間違いも犯します。
その折々に、失敗に気付き、できるだけ早く修正しながら、「より正しいバランス」という匙(サジ)加減を調整しながら、信仰者としての「行為(カルマ)の美しさ」を求めて行くべきです。

この問題は、宗教における「実践面での中核部分」に当たるので、奥が深い問題です。

そこでまず−−−シンプルに核心部分の概要を俯瞰して、それから各部分を深めて行く−−というアプローチで行きましょう。

古代のインドの聖典『バガヴァッド・ギータ』において、既に、「中観の理想」については、大聖者クリシュナが説法する形で、見事に宣言されています。
その中で、クリシュナは、アルジュナに対して、
「カルマ(行為)を超えたカルマ(行為)」すなわち「超行為」についての論説を展開します。
「超行為」とは、行為をおこなっているのですが、実はおこなっておらず、また反対に、行為をおこなっていないのですが、個体(肉体)は行為をおこなっている、という、このような「絶妙な霊的バランス」を達成した状態における「行為」を指します。それは、もはや「カルマ」であって「カルマでない」のです。

もう少し説明しましょう。わかりやすさのために、卑近な例をあげます。
たとえば、あなたが、引っ越しをして、新天地での新しい(区や市)役所に、転入届けを出しに行くとしましょう。転居・転入の届け出をしないことで住民票にそれが記入されないとマズイですよね。
区民・市民としての権利や義務や、会社への就職の際などなど・・・、後々、色々と困った事が起こるわけですから、
「ああ、転入届けをしなきゃ」
と、誰でも思うことでしょう。(義務感を感じる)
さあ、あなたは義務を果たしに役所に行きます。この時、
「私は転入届けをしに行くんだから偉いでしょう!」
と自慢する人がいるでしょうか?
思うに、ほとんどの人は、そんなことでは自慢に思わないでしょう。誰でもが当然果たす義務なので、「やって当然」 と思うでしょうし、気持ちとしては「それ以上でもそれ以下でもない」でしょう。
この時、あなたは、「何かをやった!」という偉大な達成感があるでしょうか?
「いえ、別にない」というのが、大体の人の感想だと思います。
もっと言えば、次のようなことが言えます。すなわち、役所に転入届けをしに行くのは、怠惰で腰の重い人なら面倒臭いかもしれませんが、勤勉でフットワークの軽い人なら面倒臭いとも思わないかもしれませんし、
とにかく、タマス(暗・鈍性)の少ない「優秀なあなた」であれば、こんな、余りに当然の行為について、
「いちいち、やった、やった!、というほどのことではない! 別に何もやっていないのと同じ!」
という感想を持つのではないでしょうか?
これです。ここのところに注目して下さい。

「心を動かさず、ただ義務を果たすのみ。別に何もやっていないのと同じ。眉一つ動かさず。さりとて、与えられた義務遂行という任務遂行行為は、立派に遺漏なく見事に完璧におこなっている。」
これです。
小さなことで良いのです。小さなことから大きなことが出て来ます。
あなたの上に降りかかる諸義務について、小さいことから大きな義務まで、この心境を適用するように努めましょう。

転入届けを果たしたことについて、誰かが、あなたに称賛の言葉を浴びせたとしましょう。
「あなた、すごいですね〜。転入届けをして来たんですか? いやあ、ご立派! 見上げたもんだ!」(拍手喝采)
あなたはそれに答えるのも馬鹿馬鹿しいと感じ、内心、次のように思うことでしょう。
「何言っているのだ? そんなことで・・。あなたはおかしいのか? こんなことで称賛するなど馬鹿馬鹿しい限りだ。誇るべきことは何もない。ただ義務を遂行しただけだ。いや、『義務を遂行した』、と一々言うことすら馬鹿馬鹿しい。」
と、ゴルゴ13のようなニヒルな顔、眉一つ動かさない面持ちで、少しだけ苦笑して、そんな称賛は無視することでしょう。
「毀誉褒貶(キヨホウヘン)、我に関せず」
あるいは、「木鶏の不動の如し」
です。

『ギータ』の中で、アルジュナは、武人(クシャトリア)として、一生に一度の−−まさにこの時のために武人として生まれて来て武術鍛錬して来た−−という、彼とって「最も大きな義務」を果たすため、彼はクルクシェトラの戦場へと出陣し、クリシュナが彼の馬戦車の御者をつとめる中で、大活躍し、親族をも含む悪党軍団を討ち滅ぼし、インドに正義と平和を打ち立てたわけなのです(って)。めでたし、めでたし。
なお、シュリ・チンモイの後日談を信じるならば、その後、クリシュナの一番弟子であるアルジュナは、何度かの輪廻転生を経て、トマス・ジェファーソンとしてアメリカの国の形を作るという神から託されたミッション(任務・義務)を果たし、そして更に二度ぐらい輪廻転生を経て(そのうち一度は僧侶らしい)、現在のシュリ・チンモイとして、クリシュナ的な説法−−「超行為」論に関わる霊的な瞑想の道の指導をしている、ということになります。



▼さて、以上が「イントロダクション」です。
 もっと、詳しく学びたい!  という方々には、必携の一冊をご紹介します。
 『カルマ・ヨーガ』(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ講演集)(日本ヴェーダーンタ協会刊)
 この本については、日本ヴェーダーンタ協会の以下のページで、「まえがき」と「目次」と「第一章」全文を
ウェブで見ることができます。是非、御覧下さい。
http://vivekananda.jp/contents/publishing/jbook/100101/100101.html

アマゾンならこちら。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4931148158/ref=pd_bxgy_text_1/249-2511670-0921161

上記の書物『カルマ・ヨーガ』は、『超行為論』についてヴィヴェーカーナンダが熱く語ったものです。
彼曰く、最高のカルマ・ヨーギにして『超行為』の人類最高の実践者は、ゴータマ・ブッダである、という評価です。
「ジュニャーナ(叡智の)・ヨーガ」のスタンスでないと、真のカルマ・ヨーガ、すなわち『超行為』は達成できない、ということが、この本を読めば納得できるでしょう。

この本は、ヴィヴェーカーナンダが西洋に、霊に燃えて布教に赴いている時の講演集ですから、「霊に燃えた熱い語り口」と勢いを感じて戴けることでしょう。読めば、霊的パワーが注入されるでしょう。
ここで、彼が熱っぽく語っていることの要旨を一言で言えば、
「無私の行為(セルフレス・ビヘヴィアー)をせよ」
「無執着の行為のための、欲望の放棄をせよ。」
ということになりましょう。

しかし、「放棄・放棄」と余りに強調しすぎると、色々と弊害が起こるので、この点の悪弊については、
下記の「悲惨な弟子の典型例」を御覧下さい。
http://www.hannya.net/VAC-Chinmoy2.htm#hisan


「何事にも正しい順序」があります。
「幼児に錠剤を飲ませたら一日で大人になる」という方法はありません。
積むべきプロセス(過程)、すなわち、順次、踏み越え超越して行くべき課題、というものが、「人間性の成長・成熟過程」においては、沢山あるのです。
それらを一気に飛び越えて結論だけ先取りしよう、という態度は、虫が良すぎて、間違いです。
単に、理解のために鳥瞰し眺めるのは宜しいのですが、「今すぐ到達できる」と思うべきではありません。
但し、「転入届けの事例」のように、身近に小さいことからの実践は可能です。

オリンピックでも、金メダル欲しい欲しい・・という「目標であり結果」を考えながらパフォーマンスをすれば、そこに欲が生まれ、動揺が生まれ、うまくできずに失敗するでしょう。
それと同じです。「時間的に後のこと」である「目標と結果」を、今考えてしまうヨコシマなマインドを排除して、今現在の義務課題に集中することです。
「目前の階段」だけを一段一段見ながら登って行き、結果としててっぺんに到達するのが一番なのです。
一段一段の小さな階段は、「役所への転入届け」と同じで、それら一つ一つをこなすことは、別に、偉いことでも自慢することでもありません。当然の行為の積み重ねなのです。
「この心境のまま、一千階段でも一万階段でも、いつのまにか、登り切ってしまう」
のならば、欲が原因の心の波は、ほとんど起こらないでしょう。


▼今回のタイトルを、「実用的な人間たれ」 としましたのには、大きな理由があります。
 義務の遂行の前に、「義務を発見・認識する」という段階が必要です。自分の諸義務をピックアップして認知することができたら、次に、「それを遂行するための手段を知る、または準備する」という技術論になります。
 まとめると、
1.諸義務の認知
2.諸義務遂行のためのスキル

 この2点が欠如すると、「役に立たない人」になってしまいます。
 「人の役に立つ」というのが「セルフレス・サーヴィス(無私の奉仕)」の基本です。

 宗教を信仰することで、あるいは、瞑想修行をすることで、どんどんと、役に立たない人間になって行ってしまうならば、それは、精進の方向性が間違っていると認知すべきです。
 人に役立ち、社会に役立つ、そうした実用的な人間たることが、「在家での大乗の精進」なのです。

 役に立たない人間になりつつある−−−そんな風に感じた時には、
「<諸義務の認知>について自分は間違っていないか?」
 と自問すべきです。

 あなたの上には、日々、多種多様な義務がふりかかっているはずです。また、あなた自身が自分から引き受けて「義務になったもの」もあるでしょう。
 そうした諸義務からは、たとえ出家しても逃れることはできないのです。
 本当の出家者には、出家者に割り当てられた、実に厳しい諸義務があるのです。日本仏教ではそれが「なし崩し」にされていますが・・・・。正しい出家者に求められる霊的な諸義務を 放棄不全の煩悩のゆえに果たせないならば、その出家者は、(神の目からみて)「役立たず」になってしまうこと必定(ヒツジョウ)です。
 イエズス・キリストの厳しい言葉の一つに、「塩が塩気をなくしたならば、何の役に立つだろう。それはもはや捨てられるのみである」というのがあります。
 また、イエズスは、実の成らぬいちじくの木に対して、「役に立たないから枯れてしまえ」、という形で象徴的に、霊的な道の厳しさを説いてもいます。

 以上、もうだいぶ長くなりましたので、続きは、メルマガ続編「第11号」で配信することに致します。

それでは、皆様の上に主の恵みが豊かに注がれますように。
また、豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)の如く、主の恵みを豊かに受け取ることができる器となることができますように。そして、大日の恵みを受けて、豊饒なる実りを成して、それに喜び感謝しつつ、人格とカルマを成熟させて行くことができますように。 

碧海龍雨







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