宗教真理アカデミー

メールマガジン011号(2006/3/12配信)

実用的な人間たれ(その2)
〜〜「ドンマイ主義」の正しい実践法〜〜


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<宗教真理アカデミー>

 【メルマガ第11号】 タイトル 実用的な人間たれ(その2)
〜〜〜(副題)超行為論関連・「ドンマイ主義」の正しい実践法〜〜〜

中道・中観思想を、「実生活で実践して生活して行く」 にはどうしたら良いのでしょうか? 続きです。

「実用的な人間となる」ためには、信仰心のある一流スポーツ選手を見ると「良いお手本になる」ことは、相談の会議室の投稿で少し触れました。なぜなら、試合でチームの勝利のために、その中で「最も実用的に活躍」し続け、すぐれた成績を残し続けた選手が一流と呼ばれるからです。
彼らは、「信仰を実生活で正しく実践する方法」「信仰を実用化する法」 を経験的に割り出し会得しているのです。

よく、シロウトの草野球などで、味方がエラーすると、、
「いいよ、いいよ、ドンマイ、ドンマイ」
などと声をかけるシーンを見かけます。まあ大体、「気にするな」という意味で使われますね。

「ドンマイ」とは 「Don't mind」の略です。和製英語とも言われますが、どうなのでしょう?
宗教においては、瞑想技法上、「マインドを止める」という大課題が俎上にのぼって来ざるをえませんから、「ドンマイ」という言葉も、その関連で、よく意識しておくべきでしょう。

「ドンマイ」が和製英語? と言われる所以(ユエン)は、現代の実際の英会話では、日本の「気にするな」という意味では普通使わないからのようです。
しかし、「一昔前の英米」ではどうだったのか? 誰か教えて戴ければ嬉しいです。
「教えて、goo」に、「ドント・マインド」に関する質問と回答があるので、リンクしておきます。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=846990

現代の英会話の中では、
「Don't mind=どういたしまして(=どうぞ、お気になさらないで=)」
という形で、今でも英会話で使われいる、という回答が出ています。
思うに、ピタリとした日本語訳としては、
「ご配慮には及びません」 というニュアンスであろうと推察します。
この事例をみると、
現代英米にも残存する「気にしないで」という意味の「ドンマイ用法」について、
「英米の一昔前の使用法が、今も化石的に残滓として残存しているのだろう」
という推察も成り立つのではないか、と思います。
「そんな些細なことまで、いちいち気にするんじゃないの!」 という感じで、一昔前の英米で使われていたのではないか・・・と。

そしてもしも、この推察が正しければ、日本の「ドンマイ=気にするな」の用法は、和製英語というより、「昔輸入したその時点の用法が今なお、変化せずにこの日本で冷凍保存されて使われているもの」 と言うべきことになりますが・・。
そこらへん、真実はどうなのか、興味あるところです。

なお、検索して笑ったのは、小学校の先生が「ドンマイ」とは「ド〜ンと、前へ」という意味だ、と教えた、という話で、それ以来、この意味が気に入ってよく使っている、というお話。
もしそうならなば、「どんまぇ〜」 になるでしょうよ! さては、「マイン(ド)と前へ」が同音に近いということは、この先生、コテコテの東北人で東北訛り? 即席うどんの「どんべえ」じゃないっつーの!
などと、思わずつっこみたくなるところですね。

▼さて、本題です。
キリスト教文化圏である英米で、この種の言葉が極めて多く使われている、ということは、イエズス・キリストの教えとの関連を認知しておくべきでしょう。
英米「ドンマイ主義」関連で、最も有名なのは、新約聖書の次の箇所です。

「自分の命のことで、(あれこれ=省略)思い悩むな。(・・・)思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。(・・・)明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで充分である。」(マタイの福音書6章25節〜34節)

締めくくりの
「明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで充分である。」
これは、不滅の名言ですね。

現代英会話で、「気にするな」に該当するのは「Don't worry(心配しないで)」だということですが、上記のイエズスの「山上の垂訓」では、「worry」は使われていません。
英語の聖書をみると
「Take no thought for the morrow」のように、何度も何度も、
「Take no thought 」
と繰り返されています。この英語の用法には、
「思考・配慮を forの方向に向けるな」「そっち方面の思慮はやめよ」
という意味が内包されている、と言えましょう。

イエズスは、「何一つ思い悩むな」とは言いません。「明日」というまだ来ぬ「未来」について思い悩むな、というのです。そして、「その日の苦労はその日で充分である」と言うことで、
「本日は、本日分の苦労を精一杯しなさい」
と言外に命じていると解するべきです。
ところが、読み間違って、バランスを崩した「行き過ぎたドンマイ主義」
その中の一つが、「痴呆的・痴毒的なノーテンキ主義」です。
たとえば、
「ぜ〜んぶ神様まかせで、オッケー、ハッピー、万事オーライ〜。ヘーラヘラ。」
こんな感じの人がそれです。
これだと、一日二日は、「なんだか、超ハッピー。至福満杯」 という気分を「片時の間だけは」味わえるかもしれませんが、そのような気分を味わったからと言って、その教えが正しいと騙されてはいけません。
このまま行くと、「必要な義務を果たさないケース」が頻出して、「怠惰の罪」が累積して行き、後でその応報の罰を受けるケースが出て来ますので、よくよく注意しなければなりません。

では、正しいバランスとは?

この一事例について、ロッテのバレンタイン監督のブログから、彼の教えを垣間見ることで、参考にしましょう。

(注意〜〜リンクでジャンプすれば良いようにしようとしたところ、残念ながら、彼のブログでは、日にちが経過すると、過去の記事のページアドレスが変動して行くタイプらしいので、リンクしても、日数経過と共に他のページが開かれてしまうことになってしまいます。そこで、ブログ記事の日付を明記した上で、皆様に、ブログ「ボビーズ・ウェイ」の日付けで検索してもらうのが一番なのですが、それも大変でしょうから、全文引用させて戴きます。)
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「欲とプレッシャーの話」
2006年3月 1日   March 1, 2006
「欲」と「プレッシャー」の話について、もう少し僕の考えを述べてみようと思います。「欲」には2つの典型的な形があります。「何か事を成し遂げたい」という欲と「人を喜ばせたい」という欲です。どちらも競争が終わってから満たされるものです。更に言えば、真の「欲」は継続的な思い、つまり決して終わりのないもののように思います。僕はよくドッグレースで機械仕掛けのウサギを追いかける犬を思い浮かべます。ウサギを捕らえてしまえば、犬はそれ以上レースを続けられません。事実、かわいそうなことに、追いかける意欲がないため永遠の眠りにつかされてしまう犬もいます。獲物をしとめてしまうと、ずっと走ってウサギを追いかけようという意欲が失せてしまうのです。ですから、燃える欲は継続するものなのです。

さて、ここで「目標」について話をしましょう。「目標」は「欲」と密接に絡み合っています。野球でなら「1試合で4ヒット打つ」とか「MVPをとる」とかいうのは短期的な目標です。こうした目標は達成可能ですが、試合が終わって到達するものですよね。試合中にこうした短期の目標を考えてしまうと皮肉なことに、達成するのが難しくなってしまいます。それを考えることで自分の時間、エネルギー、集中力がかなり奪われてしまい、勝てる試合にも勝てなかったり、できるはずの妙技もできなかったりというふうに、パフォーマンスに悪影響を及ぼしてしまうのです。

打席に立ち感動を与えてくれた打者の多くがよく言う言葉を例にとりましょう。彼らが異口同音に口にするのは「本当によくボールが見えた。スローモーションのようだった!」です。「試合が終わったら」という思いを消し去り、まさにその瞬間だけに集中することができれば、すべてがゆっくりと見えるのです。

別の例を挙げましょう。これはもしかしたら皆さんも思い当たるかもしれません。1対1の競争に関係したものです。テニス、ラケットボール、スカッシュなどラケットのゲームでよく耳にします。せっかくリードしていて、後で負けてしまうと、よく「勝ちが目前だったので、あの球で終わりにしたかったんだ」と言います。これは私にはこう聞こえます「試合に勝ちたいという欲が勝利の邪魔をしたんだ」と。「最初は勝つことを考えていたけど、後で試合をただ楽しみたいと思ったから負けたんだ」などと言う人はいません。

試合を楽しむことは、すべての思いとエネルギーが試合に注がれていることであり、この集中こそが最高のパフォーマンスを生み出すのです。「欲」からくる「プレッシャー」は、せっかく自分を頑張らせてくれている「欲」そのもをだめにし、自分が渦中にいる試合をだめにしてしまうのです。「ちゃんと判断する余裕がない」といったあせった感じになってしまいます。もちろん、時間には限りがあり、これは変えようもありません。しかし自分の持つエネルギーと精神力は、「行動」と「欲」とに分けることができます。ですから「気持ちがはやり始めたな」と思ったらスローダウンするのです。深呼吸しましょう。内なる小さな自分に「落ち着け」と言い聞かせます。そして思いをできるだけシンプルにするのです。打者なら「ボールがどこなのか見ろ」と自分に言います。とてもシンプルですね。投手ならこう言うでしょう「このボールをキャッチャーに投げるだけのことさ」と。

皆さんにわかってもらえると嬉しいのですが…。自分のベストの力は「本気」と「情熱」をもった時に出てくることを理解してもらいたいのです。今自分のしていることをこよなく愛し、全身全霊を注げば、それを楽しむことができるし、きっとうまくいきます。これが好循環のパターンなのです。

楽しんでくださいね。コメントもお待ちしていますよ!

今日はこれでおしまいです。
−−−−−

上記のボビー監督のお話のとおり、
実際の公式戦の試合で、ロッテの投手は、二死満塁のピンチで緊張でガチガチに硬くなっている時、タイムでバレンタイン監督が出てきて、あの明るさで、
(ヘイ、ユー と言ったかどうか?)
「打たれたらどうなる、とか、結果のことなど<考えるな>。ユーの今の仕事はボールを投げることだけだ。それだけに集中しろ。単純に、キャッチャーのミットめがけて、ボールを投げるだけ。それだけでいいんだ。」
という内容でアドバイスしたそうです。
言われたピッチャーは、呪縛がとれたように心が軽くなって、良い球が投げられ、バッターを討ち取ることができました・・・ということです。

このように、「(部外者的、傍観者的立場から)本人の欲の呪縛を解いて行く思考法」−−これがジュニャーナ・ヨーガの活躍場面なのです。

キリスト教では、「明日のことを思い悩むな、常に神のことを喜んでエンジョイしていなさい」
と教えます。
英米キリスト教文化圏で、「楽しむ」とは、
本場のバレンタイン監督が上記のブログで教えているように、
「試合を楽しむことは、すべての思いとエネルギーが試合に注がれていることであり、この集中こそが最高のパフォーマンスを生み出すのです。」
このような意味で、彼らは「エンジョイ」という言葉を使っているのです。

ボビーのような、こうした宗教文化的教養のない日本人の年配者の多くが、以下のような感想を述べるのを昔からよく聞きます。
−−−日本の選手はおしなべて覇気や勝負への執念に乏しい印象を受けた。なぜかオウム返しのように「楽しみたい」「楽しみました」と語る言葉が場違いの感じで、「楽しむだけなら自前でやれよ」とテレビに向かって言いたくなった。(・・・)「楽しむという言葉は、結果を出してから言うこと」と女子フィギュアの解説者も荒川の健闘を称えながら付け加えていた。−−−(中高年の元気が出るページ クラブ65・エッセイより一部抜粋)
http://www.genkigaderu.net/contents/essay02/main/index.html

まことに、情けない話です。文化の違いです。
「楽しむ」の意味内容に関する理解度合いに天と地ほどの隔たりが有るのです。漢字文化圏の日本では、「たのしむ」に「ラク」の字を当てるから「誤解が生じる」という事は、多分にあると思います。

英語の「enjoy」は、「en(〜の中に入れる)+joy(喜び)」という言語構造なので、「喜びの中に入り込む」ことをを意味します。これが「楽しむ」ことの本質だと、彼らは自ずと体感しています。
その上、キリスト教では、「真の喜び」とは「聖霊(ホーリー・スピリット)本有の法悦」と位置付けられています。いえ、もっと言えば、「真の喜び」とは「神の御身体そのもの」だとさえ言えるわけです。
従って、「エンジョイ」とは、最も深く高い意味においては、「神の中に入ること」(仏教用語では「入法界」)までを射程に入れた言語表現であるわけです。

ピアノなどの音楽の楽器プレイヤーなどなら、このことは、一層よくわかるでしょう。
真に「エンジョイ」したプレイと感じるのは、集中が極まってインスパイアーされ「神憑り的になった状態」の時なのです。

−−今回の基本ポイントは以上です。

なお、ここで、蛇足ながら、日本人が英語の「エンジョイ」の意味で「ラク」とは違う正しいニュアンスで、そのように表現する新しい方法を提案してみたいと思います。
「はい、楽しみました」と答える代わりに、
「はい、充分、神楽(かぐら)って来ました」
と答えてみては如何でしょうか?(笑)

かぐら(神楽)る」という動詞を作るのです(笑)。
最初は、みんな、「はっ?!」と、呆然(あぜん)となるでしょう。
「かぐら(神楽)」の語源は、「神の来る処」の意味で、「か(神)ぐ(来)ら(処)」と思われます。
 (神楽とは何か?の説明ページの一つにリンク


「皆様の期待に応えられるよう、オリンピックで、かぐらって来ます。」(笑)
「オリンピック本番では、すっごい、かぐらりましたので、金メダル獲得できました。」などなど。

動詞 「かぐら(神楽)る」 が、「最高度の集中で、最高度の神憑(かみがか)った神わざ的パフォーマンスをしながら存分に楽しみ、ハイ・パフォーマンスを堪能する」、という意味だとわかれば、誰も文句は言わないし、言えなくなるのではないでしょうか。(メルマガ第8号で触れた「ドゥエンデ」も、これに通じるものです。)

ただ、くれぐれも、「かぐらりって来ました」みたいに、「ラリッて来る」というニュアンスにならないように、お願いしたいところですが・・・。(笑)


▼以上、まとめましょう。
  未来や過去について思い悩まず、「今現在・今その瞬間」の(単純化された小さな)「義務や任務」にのみ、シンプルに集中すること。そして、その義務や任務を、「エンジョイ」して「情熱と本気」で「なす」べきこと。それも最高度に遺漏なく、パーフェクトに。
 その際の「エンジョイ」こそが、あなたの行為の報酬であると知りなさい。
 それ以上の報酬を求めることなかれ。
 「行為の結果(成果)」についてはすべて神に捧げ、自分のものだと主張して鼻高々になることをせず、恬淡(てんたん)としている、そのような「謙譲の美徳」のスタンスを保つべきこと。
 陰気なつまらなそうな顔でではなくて、行為自体を十二分にエンジョイし堪能し尽くした満足感に包まれた明るい笑顔と、ハイ・パフォーマンスを発揮する自信の光を放ちながら、
「いえいえ、自分は只(ただ)、なすべき時に、なすべき事をしただけです」
と、気負わない虚心坦懐な笑顔で言えること。
 そして、神に感謝し讃美すること。


−−以上、もうだいぶ長くなりました。「実用的な人間たれ」(超行為論)シリーズはまだまだ続きます。

それでは、皆様の上に主の恵みが豊かに注がれますように。
また、豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)の如く、主の恵みを豊かに受け取ることができる器となることができますように。そして、大日の恵みを受けて、豊饒なる実りを成して、それに喜び感謝しつつ、人格とカルマを成熟させて行くことができますように。 

碧海龍雨








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