宗教真理アカデミー

メールマガジン012号(2006/3/19配信)

実用的な人間たれ(その3)
〜〜「段取りの達人」を目指そう〜〜


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<宗教真理アカデミー>

 【メルマガ第12号】 タイトル 実用的な人間たれ(その3)
   〜〜〜(副題)超行為論・「段取りの達人」を目指そう

中道・中観思想を、「実生活で実践して生活して行く」 にはどうしたら良いのでしょうか? さらに続きです。

前のメルマガ11号で、「前後の欲」の呪縛から解放された「今に集中して生きる」思想を紹介したところ、
「禅宗の<而今(にこん・じこん)>の思想に通じますね」
という意見を戴きました。
「而今(ニコン・ジコン)」とは、道元禅師の著書に見える思想です。
これについて、ウェブ上には、次のような紹介が見えます。
http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/peag131.htm

「三頭八臂(さんずはっぴ)」と「丈六八尺(じょうろくはっしゃく)」
http://www.zaikebukkyo.com/zaike/c/c200106.html


ここで私は、皆様に対して、精神修行の僅かばかりの先輩として、重要な注意点を指摘しておきたいと思います。
残念ながら、実にたびたび、宗教生活の中で遭遇する人々の中に、
「悪い意味での刹那(セツナ)主義の人々」 がいます。
たとえば、ウェブ関連ページ
http://www.tomo-net.or.jp/sermon/word/34_04.html
に書かれている論旨をみると、
−−−辞書に「刹那主義=過去や将来を考えず、ただこの瞬間を充実すれば足りるとする考え方」とあるが、そういう否定的意味ではない、肯定的・積極的な意味で見直そう−−−という内容です。
上記ページは念仏宗からの意見ですが、
大抵、「良い意味での刹那主義」を主張するのは、本家本元の禅宗です。
確かに、
「積極的に今この瞬間を充実させよう」
このように言えば、それなりの体裁は付きます。

しかし、考えてみて下さい。「禅僧は気楽な稼業ときたもんだ〜」とまでは言わないとしても、彼らは「束縛」を嫌うので、「雲水」という別名もある通り、流雲の如く、流水の如く、勝手気ままの自由自在、という境遇を好みます。そんな立場の中で、「瞬間瞬間の刹那主義こそ仏教の核心! 今だけに集中して刹那刹那に生きるのだ」、と格好よく言った時に、
無明っぽい一部の在家の人々からは、
「はあ、そうですか、参考になります」
と支持されて、この言を信じた在家信者は、世俗の仕事生活の中で「その刹那主義」を実践しようとするのですが、その結果、ろくでもないことになるのがオチなのです。
なぜなら、単なる刹那主義では、ロジカルで厳しい世俗ではうまく行かないからです。

確かに、「坐禅瞑想を教えて下さい」、と言ってくる人などに対しては、
「只今だけを見つめ続けよ!」
と教えれば、何とか、格好がつくでしょう。
しかし、そのような論理では、在家の「仕事のできる社会人」 を騙すことはできません。
仕事のできる社会人は、自分の豊富な経験に照らして、上記のような「インチキ刹那主義」を聞くと、その中の「ウソ・欺瞞」を瞬時に見抜いてしまいます。
野球を例に出すならば、
いくら「ボールを良く見なさい」と教えても、バッターはボールを見つめるだけでは三振の山を作るだけです。ボールが止まって見えるほど良く見た上で、それをバットの渾身のスイングでジャストミートしなければならないのです。この点が実に大切なのです。「毎試合全打席三振」ならそのプレイヤーは「役立たず」として排除されてしまいます。そのようなリスクをプレイヤーは背負っています。
ですから、三振というリスクを回避するために、投手がボールを投げた時に、タイミングを見計らって、バット・スイングを始動して、適正な軌道でボールを迎え撃ちに行かねばならないのです。
−−−「役立たず」の状態を嫌い、無能の烙印を押されないように、「役立つために」意志的行動を取る−−−こうした意欲と行動なしに、世俗生活での「安定」はありません。

別の角度から言えば、
会社の経営者であれば、絶え間なく、未来(の顧客や社会のニーズ)を適切に予測することが求められます。国家運営にたずさわる政治家・代議士であれば、自分たちの国の行く末に心を砕き、(亡国的転落の道を賢明に回避して)国家繁栄の道へと国の舵取りをして行かねばなりません。
その際に求められる資質は、「リスク・マネージメント」です。
 (懲罰委員会に付託された民主党の永田議員は、この点、全く駄目でした。)
つまり、「危機管理」業務こそ、個人にしろ、家庭にしろ、会社経営にしろ、地方自治にしろ、区政・県政政にしろ、国政にしろ、極めて重要なファクターなのです。
それは、「起こり得る危険を想像力豊かにイメージして、シミュレーションして、それに対する適切な備えをしておく」ということです。また、悪い流れを予(アラカジ)め潰(ツブ)す手を打つことであり、もっと言えば、良い流れを呼び込み創出する手段を、積極的に打つことです。

一例に、元寇の時の北条時宗の日本防衛行為があります。
北条時宗は、禅を無学祖元
http://www.shokoku-ji.or.jp/jotenkaku/person/mugaku_sogen.html
に師事して、坐禅を組むながら瞑想して、最大の国難に際してどうすれば良いのか必死に考えました。そして、考えられるだけのできるだけの防衛準備策を打ちました。その結果、「弘安の役」で蒙古が襲来しても、海岸線で数カ月防衛して食い止めていることができました。その間に、台風が来て、蒙古は壊滅し日本は守られた、と歴史は伝えています。
もし、時宗が、念仏宗に帰依していて、念仏信者によくあるアヤマチに陥り、「国難の時には、念仏してみ仏に頼って祈っていればよい」と他力本願的に思考して人事を放棄していたならば、日本は蒙古に蹂躙されていた可能性も考えられます。
「人事を尽くして(から)天命を待つ」という格言はありますが、
「人事を放棄して天命 だけ 待つ」
という格言はありません!
よくよく肝に銘じるべきことです。
(歴代の政治家ダライ・ラマにも言えることです)


禅宗の「而今(ニコン)」の意味が、多くの人が誤解している通りの、
「単発的一刹那 集中主義」であるならば、過去も未来もなく、その行為は、「無目的」的になってしまいます。
実際、禅僧(雲水)の中には、(風に吹かれるままの)「無目的行為こそ最上」というようなことを説く人もいるようです。
もしも、この「風に吹かれるまま」というのが、「神の命じるがままに」の意味で、
「主の命じられるがまま、無心に行為する」(主からの任務・ミッションをただ遂行するのみ)
というのであれば、それは正しい超行為論です。
しかし、ひとたび(そして普通そうなのですが)、「主の命じられるがまま」というのが脱落してしまえば、
単なる無目的な行き当たりバッタリの生き方、糸の切れた(=制御者のいない)「プー(風)太郎」に堕してしまいます。

ひとたび、神からのミッションが下されれば、ミッションという任務・「遂行目的」が与えれたことになります。
ゆえに、本来、「真の超行為論」は「目的的行為」と不可分一体なのです。
多くの禅僧が見落としていることですが、
「而今」思想の元になるエピソードは、道元禅師が中国で、一心に「きのこ干し」に打ち込んでいる老僧と出会っての対話にあります。この時、この老僧は、禅の食事のための「準備」として「きのこ干し」をしていたのです。

道元 「こんな炎天下で、なぜあなた様がこんなことを?」
老僧 「これは誰の義務でもなく、わが義務、私の仕事なのだ。 炎天下だって? <きのこ干し>に、こんな好機がまたとあるかね? まさに、今しかないではないか! 喝!」
まあ、二人の対話をこんな感じでご理解戴ければ宜しいと思います。

おわかりでしょうか?
「今しかできないことを、こんにち只今、一心不乱に集中して(情熱と本気を傾けて)エンジョイしてやりなさい」
もっと言えば、それを「神楽(かぐら)る」(前号メルマガ参照)ようにしてやりなさい、
ということです。

多くの「而今」主義者は、「悪しき刹那主義」の罠に落ちているがゆえに、
「適切な準備行為」を怠り、なすべき準備行為を、故意に無視しています。
「ええいっ、ぶっつけ本番でも何とかなるさ! 一所懸命その瞬間に集中すればいいんだ!」
こう考えるのです。
私に言わせれば、
「甘い、甘い、甘すぎる! 喝(か〜つ)!」
というところです。
ついつい、このように考えてしまい勝ちな人間の弱さ・怠け癖について、
ロジカルに考えれば、皆様にもおわかり戴けると思います。
「準備無しの、その場主義」で物事がうまく行くほど、この世の中は甘くありません。

「準備」とは「目的」(達成)に対する準備です。「準備」とは当然「目的的行為」です。

上記の老僧も、禅の食事の「準備行為」として「きのこ干し」をしていました。
つまり、
「今しかできない準備行為、または、今だからこそできる絶好のチャンスとしての準備行為に、
本気で集中して、且(か)つ、楽しみながら(主を讃美しながら)、取り組みなさい」
ということが、実践宗教の本旨なのです。


さて、ここで、問題になるのが、「適切な準備行為」とは、どのようなものか? ということです。
「不適切な準備」をどれだけ入念に行っても、目的達成には合致せず、失敗します。
ですから、「悟性」(目的達成の道筋を認識する合目的的理性)を駆使して、
「目的達成のための、適切な準備とは何か? 適切な段取りとは?」
というのを割り出し、適切に組み立てて行く作業が重要になります。

たとえば、野球のイチローは、「段取り魔」とも言われたぐらい、段取りにこだわる人だということです。
彼のグラウンドでの行動を見ていれば、外野の守備でも、柔軟体操を欠かさず、送球の準備をしていますし、打席に入る時も、儀式のように定まった細かい段取りがありますね。そして勿論、練習においても、色々こだわりの段取りがあるのでしょう。
こうしたことを一つ一つこなして、今のイチローがあります。
イチローはワールド・ベースボール・クラシックのアジア予選で、
「30年は日本に勝てないと思わせる勝ち方で勝ちたい」発言をして
韓国の猛反発をくらい、この舌禍事件のゆえに、日本は本気の韓国に負けた、とも言われます。
しかし勿論、イチローにしてみれば、過去の有名な舌禍事件を前提にしています。
日本シリーズ、「巨人軍 対 近鉄」の試合で、巨人が三連敗のあと四連勝の奇跡を起こしますが、そのドラマの発端となったのが当時の近鉄投手・加藤(?)選手 の、
「巨人は(当時のパ・リーグ最下位だった)ロッテよりも弱いっすね」発言
によるの舌禍事件で、これに巨人選手が猛反発して大奮起してメイク・ドラマの大逆転を呼んだという、例の有名な話です。
パ・リーグ出身のイチローがこの話を知らないわけもなく、この舌禍事件を前提にして、イチローは、わざと韓国を挑発して、「本気の韓国とガチンコ対決」をして、米国での本番準備を狙ったのでしょう。
ここにも、彼の「段取り主義」が、如実に垣間見えます。
この事前の段取りがあって、本気の韓国にガチンコ惜敗2連敗があってこそ、「三連敗はプロとして決して許されない」という日本のプライドが爆発し、準決勝でのリベンジ圧勝に繋がった、と言えるでしょう。

また、他の一例に、株の取引を出すならば、
多くの人が、「あっ、この銘柄、値上がりしそうだ! それ、買いだ」
「ええいっ、上がれ、南無さん! 」
そして、クリックで取引ゴー。
ところが、目論見がはずれて、正反対の値動きを見て、
「ああ、真っ青。どうしよう。神さま、この株が値上がりしますように」

いやはや、誰でも陥る人間の弱さではありますが、宗教的には、とんてもないことです。

神があなたの祈りを聞いて、特定銘柄を値上がりさせることはありません。
そのような祈りは、エゴの欲望から発せられた祈りであり、祈りではありません。
それは、神を冒とくするアプローチなのです。(この点、後日詳述予定)
上記の通り、私が説いている「正しい而今主義」からすると、
「株を売買する」という「クリックの瞬間」における刹那主義は、ただの賭博(とばく)と同じと評価できます。

不思議なものです。人さまのお金をあずかって運用するなら、誰でも慎重になります。
しかし、自分のお金だと、その扱い方が恐ろしく雑になるのが普通です。「減らしてもどうせ自分のお金だ」と気楽になる心理が働くのでしょうか? あるいは、「ええいっ! 遊びのつもりで、やっちゃえ」という感じでしょうか? 女性が、「ちょっとした遊びのつもりでやってみるわ」という言葉はよく見聞きしますが。

人さまのお金を運用する、銀行の資金運用部のトレーダーなどは、様々な資料を入手しつつ、経済変動に関して一所懸命に分析をして、そういう入念な準備行為があって、初めて取引になります。
あるいは、トレーダー初心者の行員の場合は、わずかの金額で、取引の練習を重ね、実績を上げるように訓練します。
株取引を賭博行為にしないためには、「適切な準備と段取り」が必要です。
目論見と逆の値動きをした時には、どのように対処するのか? 相殺的空売りをしかけるのか。やるならその分量は? あるいは、損切りするのか。
そういうリスク・マネージメント、危機管理対策もしっかり打ち出して準備しておくことが求められます。
統計学的見地や経験から、
「こうなったら、こうする。こうなったら、こうする」
というアクション・プログラムを予(アラカジ)め構築しておけば、
あとは、プログラム通りに「ただやる」のみです。
もしも、アクション・プログラムに不備があることが判明したら、一部修正してバージョン・アップすればよいことです。
このようにして、「勝つためのアクション・プログラム」を構築して行きます。
こうした「なすべき準備作業」をすっ飛ばして、「今だけのノーテンキ刹那主義」で勝負に臨んでも無駄であり撃沈するばかりであることは、誰でもわかるでしょう。
事前の「なすべきこと(義務)」を怠っているのですから。


−−−以上、まとめましょう。
世俗生活で宗教実践する時は、先手先手で、「事前になすべきこと」をしっかり的確に割り出して、
その「事前になすべきこと」に、こんにち只今、刹那ごとに集中しエンジョイして行うこと。

これだと、行為が大局的に「目的的行為」になっている一方、刹那に生きることにもなっている。
この両者を見事に両立させているスタンスである、ということです。
ここに中観思想を生活実践する極意が含まれています。


なお、老婆心ながら、注意点です。
「目的達成」のための「手段」を割り出す時、「汚い手を使って目的を達成する」ような方法は捨てましょう。
あくまでも、クリーン(汚れていない清潔)なハンド(手)で、適切な手段を選び出すことが求められます。
「目的が正しければ、達成手段は汚くても良い」というのは駄目です。

この点、「クリーンハンドの原則」を覚えておきましょう。
「クリーンハンドの原則」とは、「自分が法によって守られたいならば、自ら法を尊重する者でなければならない。自分が法を破って汚い手の状態になっているのに、相手にクレームをつけて相手だけ法に従わせ、それによって自分だけが法で保護されよう、などというのは、自分勝手のご都合主義に過ぎず、信義則に反する」
という原則です。
【民法1条2項】権利ノ行使及ヒ義務ノ履行ハ信義ニ従ヒ誠実ニ之ヲ為スコトヲ要ス
という、「信義則」条項の解釈において、「汝はクリーンハンドか否か」で、問題になります。

ホリエモン氏は、グレーゾーンの手法を好みました。限りなく黒に近いエリア、「オン・ザ・エッジ」を。
また、大国アメリカの数々の傲慢行為は世界を呆れさせていますが、今回のワールド・ベースボール・クラシックにおいても、米国チームがナンバーワンになるべき至上命題の中で、少しでも優勝する確率を上げるために、最強の呼び声高いキューバ・チームを経済制裁を理由にして、「入国不可だから今大会には参加させない」と画策してみたり、もしも、特定審判を抱き込んで、米国に有利な判定をさせるように画策していたとしたならば、「フェア・プレイの精神」に反すると言えますが、しかし、米国人からすると、「フェアじゃないのが普通だからこそ、わざわざ、フェア・プレイを強調するのだ」、「どんな手を使っても勝てば良いのだ」 という開き直り発言が返ってきそうです。
このように、我々は、「ダーティー・ハンド」渦巻く世界の中で生きています。彼らはそれを大して悪いと思いません。むしろ、それが当然だと思うのです。
ですから、そうした風潮に影響されて、「クリーンな目的のためなら、ダーティー・ハンドも良し、あるいは、やむを得ない」、と思うようならないように、自分を監視することが要求されますし、そういう圧力の中で、毅然と闘って行かねばならないのです。
この内的戦いは、浅い意味での、ジュニャーナ・ヨーガの一局面です。


−−−以上、メルマガ第11号と12号の内容を一言でまとめると、こうなります。

 目的達成に向けた「適切でビューティフルな段取りデザイン主義」 & 「段取り微分主義」

 つまり−−
 (1)「的を得た段取り」の構築それ自体を、ビューティフルにデザインしてエンジョイする
 (2)デザインされた段取りを細分化・微分して、一瞬一瞬、而今主義でエンジョイして実行する

 この(1)と(2)の意欲を日々漲(ミナギ)らせて生活するならば、必ず良い結果を招き寄せることができるでしょう。

それでは長くなりましたので、この辺に致します。
メルマガにおける超行為論は、まだまだ続きます。
 
それでは、皆様の上に主の恵みが豊かに注がれますように。
また、豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)の如く、主の恵みを豊かに受け取ることができる器となることができますように。そして、大日の恵みを受けて、豊饒なる実りを成して、それに喜び感謝しつつ、人格とカルマを成熟させて行くことができますように。 

碧海龍雨








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