宗教真理アカデミー
メールマガジン016号
正しい仏法の踏み絵としての涅槃経について

<宗教真理アカデミー >(2006/5/04/配信)
【メルマガ第16号】 タイトル 「正しい仏法の踏み絵としての涅槃経について」
      〜〜〜(副題)『中論』解釈や唯識説解釈と共に考える〜〜〜

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<<これまでのヤフー掲示板対話のまとめ>>

仏法教義は長い歴史の中で、色々な論者が好き勝手な解釈を積み重ねて来た歴史があります。こうした過去の論者の考察によって、「種々の誤解と迷宮的な難解性を助長した面」(短所)と同時に「霊的思索の深まり」(長所)という両面を見ることができます。
多くの場合、仏教初心者や机上の空論仏教学者は、短所たる「誤解の渦」に呑ま込まれて、長い期間、罠に落ち込んで停滞してしまい、今生の人生を棒に振ったりします。
しかし、信仰深い、神に帰依して良き導きを願う善男子・善女子は、神の善導を得て、誤解の渦に呑み込まれることなく、多くのニガイ罠を「魔法の絨毯」に乗って飛び越えて、一気に、深い光明溢れる認識へと進んで行くことができます。

私が見た掲示板参加者で、「仏法につまずいている人」の多くは、以下の基本ができていない人でした。

(1)仏教の聖典(正式経典)の範囲について
  単純なことですが、多数の経典のうち、どれを正式経典とするか? という問題です。
 キリスト教では、「聖書外典」問題があり、キリスト教の正統な教義決定と不可分の問題となっています。
 同様に、仏教においてもこの問題が−−いの一番−−なのです。
 簡単に言えば、天台宗の智(ちぎ)大師の五時説で「列挙された経典」は「基本中の基本」として正式経典とすべきです。(但し、五時説が正しいというのではありません。)
 ゆえに−−華厳経・般若経(大・心経)・維摩経・法華経・涅槃経−−などは基本聖典となります。
 特に、五時説では、涅槃経が、釈尊一代の長大説法の最後をしめくくる「秘中の秘義」という位置づけになりますから、涅槃経に重きをおくことになります。
 但し、ここで注意なのは、智大師は法華経の凄さを重視して涅槃経を法華経の「補記」的ものと位置づけたので、天台では法華経にばかり目が行くようになり、この弊害として、涅槃経の所説を無視する法華経信者まであらわれ、「諸法実相」の意味を誤解する人まで出て来てしまったわけです。
 智大師の「法華経・涅槃経」不可分一体の解釈に立たねば、話にならないのは言うまでもありません。

 というわけで−−−「涅槃経」を仏教の正式経典と認めるか否か−−−これが一つの踏み絵になります。

 涅槃経は四世紀あたりの成立と言われ、大乗仏教運動最後を締めくくる経典とも言えます。
 従って、「大乗仏教」と呼ぶ時、涅槃経を含めるかどうか、これも論点になりますが、普通は、後世の五時説のように、涅槃経を含めるのが−−<常識的な大乗仏教観>−−ということになりましょう。


(2)龍樹の『中論』の解釈
 『中論』を解釈する際の、解釈者の基本スタンスこそが、この問題のすべてです。
 最初に結論を述べるならば、(1)にある涅槃経の内容を認めた上での『中論』解釈が正解になります。

 龍樹が生きた時代には、まだ涅槃経は成立していませんでした。それゆえに、涅槃経の所説で中論を解釈するのは邪道だ、という論法が生まれます。
 しかし、問題の核心は、そんな事ではないのです。
 龍樹からみて後世の「涅槃経」を仏教の正式教説とするか否か? という問題なのです。
 どういうことかと言いますと、
 龍樹も「中論」その他の論書で、「戯論寂滅・涅槃入定」を最高の理想としています。ですから、
 「仏教の最高理想」と言われる「涅槃入定(ネハン・ニュウジョウ)」−−この涅槃をどのように理解する、という問題なのです。
 龍樹の涅槃理解と、涅槃経の涅槃理解が共通であるかどうか、が問題なのです。
 そして、大局観からしても、龍樹菩薩が仏教中興の祖と後世称賛され、涅槃経も大乗正式経典とされていることからして、両者の涅槃理解に共通性があることを 直観するのが、正しいのです。
 机上の空論仏教研究者の中には、こうした大局観をもたず、蛸壺的・分断的に、龍樹は龍樹で別個に研究しようとする傾向があります。 
 私に言わせれば、愚の骨頂です。

 龍樹は偉大な覚者的菩薩であると位置づけられるのですから、「涅槃経」制作者(無名の偉大な菩薩)と同等のレベルであると考えるべきなのは当然でしょう。
 
 以上からして、涅槃経の「涅槃」解釈と、龍樹の「涅槃」解釈に、大きな相違はない、とする立場が正当です。 

 ゆえに、龍樹の「中論」の「中」を、「単なる相対的概念(長い短いなど)の両端を取らない中」だとする理解は、浅墓皮相な解釈に過ぎず、龍樹本人に笑われてしまうものだと言えます。
 なぜなら、「中論」の中でも、「十二縁起の逆観」という時間軸の中の瞑想が説かれているからです。
 龍樹の言う「非有非無」というのは、「相対世界での個々の有」を問題にしたものです。
 相対世界での個体的な「有」とその反対概念としての「個体の無」−−この両者を否定しても、絶対世界の「我」まで否定したことにはならないのです!
 龍樹が生きていて、この点の確認の質問をしたら、「その通りだ」と微笑むことでしょう。
 こんな単純な道理が理解できない人々は、まだまだ子供的であり、大人の書物を読むには早い、というように言われても仕方ないでしょう。
 
 ですから、正解は、天台の「三観」的な意味で「中」を理解すべきである、ということです。これは「大乗仏教理解」から来る当然の道理なのです。
 また、それゆえに、この天台「三観」は、「涅槃経」の教説を無視した内容では邪道となることを忘れてはなりません。そもそも、三観提唱者の智大師が、涅槃経を正式聖典と位置づけているのですから。
 ゆえに、正式の天台「三観」は、涅槃経における「大我」(つまり、「常楽我浄」の宇宙的我)を肯定した「三観」でなければならないのです。
 宜しいですか? 天台「三観」を涅槃経抜きで理解している人は、誤解していますから、猛省すべきです。

 以上により−−−誤解を排除した最も正しい「中観」とは、般若宗が明示しているそれである−−−ということが多くの人にも分かるようになることでしょう。


(3)唯識関連の問題
 唯識説については、中村元博士曰く、「中観派がすべてのものは空だとするのに我々は存在していて、色々な物が出てきているのは一体どのようなことなのか、どう説明すべきか?ということが唯識説の成立した所以であった」(大意) と指摘しておられます。
 唯識大好きの人で、上記の中村博士の解釈に「いや違う」と反論する人もいるでしょうが、まあ、大体、そのようなことであったと推測して宜しいでしょう。
 ということは、彼らは龍樹の『中論』の真意を読み解けず誤解した中で、納得できない、分からないからこそ、新たな解釈を試みた−−−それが唯識説だと言えます。
 また、成立年代的に言うと、一応、涅槃経とは前後が判然とはしないような、同年代的産物とみておけば、宜しいでしょう。(詳しく突っ込めば、多少の年代の差異があるでしょうが、その詳しい年代自体に信憑性があるかどうか問題ですし・・・。)

 そこで、龍樹の時に見たように、唯識論者たちの「涅槃」理解と、後日の涅槃経の「涅槃」理解には共通性があるか?  が論点になります。
 しかし、唯識説とは、涅槃経における宇宙的大我の存在を否定することを前提にして構築された説なのです。(但し、唯識の解釈によっては大我説に極めて近接するので、ややっこしいのです)
 ゆえに、涅槃経と唯識説の詩頌−−−どちらを正式な仏教教義と見るか、という問題になります。
 勿論、唯識説もそれなりに大きな影響を与えましたが、涅槃経を正式経典とする「華厳経〜涅槃経」という一連の流れを肯定する立場の方が実は圧倒的な主流だといえるのです。
 ゆえに、結論からすると−−−唯識説の論者は超一流の学僧とは言えない−−−と言えます。
 弥勒菩薩から唯識の教説を授かった、という「経典の設定」は、その意味で、「やり過ぎ=悪」だと評価したいと思います。
(アサンガ・ヴァスバンドゥが大悟したとの伝承を信受するなら、それを表現したスートラが言葉足らずで不備だった、という見方もできないことはないかもしれませんが、後述の通り、教義そのものに不備がある、というべきでしょう。)

 唯識説にも色々な解釈の立場があり、「これが正当な唯識だ」、ということは言えないほど、混乱しています。
 ただ、般若宗では、サーンキア哲学の紹介・解説をしていますが、唯識説創設者はサーンキア哲学的な「人間原理」とでもいうべき、奇妙な哲学から色濃い影響を受けて成立したのではないか、と考えるとわかりやすいでしょう。
http://www.hannya.net/singa22.htm#saamkhya
上記の「真−22−11」参照のこと。

一見、サーンキア哲学は唯識説とは大きく違うようですが、「個体的我執意識体」が分岐して世界すべてを形成する、という哲学なのです。サーンキア哲学の場合は、無神論的と言われますが、「純粋精神」が「静態の神」と言っても良いような位置づけにあります。また、生起した世界の物質は、唯識のいうような主観が創り出した観念ではありません。その意味で、客観的客体存在に近いものです。しかし、「個体的我執意識体」から世界物質が生起しているので、純粋客体でもありません。つまり、サーンキア哲学では「個体的我執意識体」には実体がある(とする)のですが−−−この「我」という実体が世界(物質)を創っているのです。−−−
この部分が、唯識説に引き継がれている可能性が高いわけです。

唯識説は、あなた一人一人の「分別する観念」が世界を創っているだけで、「無分別」となれば、世界も滅してしまう、という説です。そうすると、何が残るのか? 理想の「無分別世界」とは何なのか?
ここで、論理的には、一つの「インチキ」があります。
それは何でしょうか?
究極の「無分別の境地」に到ると、生死の世界も分別しないし、涅槃の世界すらも分別しないから、その中間の絶妙スタンスの自由の境涯を実現する−−−という主張がそれです。
一切は空であり、こだわりなく自由だ、万歳!  という説です。
いやはや、何でしょう? これは?
言ってみれば、諸経典の主張を政治的な妥協点を探るようにして無理に整合性を取り繕った説と言えます。
無分別なまま、相対世界で活動できるのですか? 勘弁してほしいですね。これは実に漫画的です。
無分別の痴呆的な、感受もない、想念・観念もない、そういう中で、どうして「自由な境涯として生存活動」できるというのでしょうか?
(仏の一切種智は相対観念です)
但し、ここが重要なのですが、唯識説では、「こうした理想の中空たる自由境涯」は、凡人では達成できないから、凡人では詳しいことは分からないのだ、真相は言語を絶しているのだ−−−と逃げます。
この論法は、「大我が言語を絶している」というブラフマンに関する伝統的な言辞を盗用しているに等しいものでしかありません。

唯識説では、かくの如く、「理想の究極状態」について、ある種の「神話」が形成されています。
そもそも、唯識説では、一人一人の根源にある「アーラヤ識」を、
「超個体的意識体」と解するか、「個人個人の枠内の意識体」とするか、で意見がわかれます。

個人の枠を超えた「宇宙に遍満する超個人的アーラヤ識」を想定するならば、涅槃経の「大我肯定説」に近接します。しかし、「個々人の枠内でアーラヤ識が各人各様で存在する」というアーラヤ識多元存在説だと、世界は個人個人の主観が生み出したもの、という極端な観念論になります。
後者の極端な観念論で行く場合、「アーラヤ識が行使するシャクティ(ある種の造成力)」をどう見るか、問題になります。
各人のアーラヤ識から発せられるシャクティ(造成力)が観念分別をさせる力となり行動を生み、輪廻を生み、世界物質も生んでいる、ということになり、ここに各人の「我」があるのではないか、という問題です。唯識説では、「いいえ、アーラヤ識のそれは我ではなく、無分別になれば消えるもので、空性です」と答えますが、ここは重要な突っ込み所です。
「おいおい、究極無分別のまま活動するのは、誰なんじゃ? 大我ではないのか?」と。

唯識説は、この突っ込みには答えられません。
もし、究極無分別という理想状態で、活動性もなく自由でもないならば、忌まわしい死も同然です。
こうした忌まわしい死の状態は否定されますから、どうしても、「無分別のまま生きて自由活動する」という主張をせざるをえません。そうなると「(最終活動)我」の問題が再びここで登場するのです。
(ズバッと言ってしまえば、唯識説は、仏教の「我見」問題に関する「理解」が浅墓なのです。)

そもそも、因縁起でいうならば、「どうしてアーラヤ識が存在するの?」ということにも、因縁起で答えなければなりませんが、それはできないのです。
出発点を、「はじめにアーラヤ識ありき」でこれを第一原理にしているからです。

こうした色々な不備に対する一つの回答として、
第八識アーラヤ識が捨てられると第九識「清浄な意識」が顕れる、とする説もあります。これは個体を超越した生きとし生けるものが一体の意識と言われます。
もう、こんなことまで言い出すならば、「大我」を認めたのとほぼ同じことでしょう。

また、「識転変」という概念を使い、無分別の境地に入ると、アーラヤ識に不可塑的変移が起き、この識が変容して仏陀の意識になるのだ、という説もあります。
この場合も、その仏陀の意識が活動性があるものなら「我」があるのか? 問題とならざるをえません。
結局、「大我」を認めないと、苦しくなるしかないのです。

唯識における三性説でも、三つ目の「円成実性」とは何なのか? その内容を詳しく語ってほしい、と問うならば、その人の理解度テストになります。結論から言えば、「大我」とは違う「非我のもの」として、これを説明することは極めて困難なはずです。

というわけで、唯識説も、実は揺れているのです。
ズバッと言ってしまえば、論理基盤が極めて脆弱なのです。
ですから、もっとズバッと言ってしまえば、唯識説を信仰しこれを標榜している人は、中途半端な信仰と理性で、「なんとなく納得」しているだけであり、「ギリギリ精密に突き詰めた哲学的考察をしていない」という意味で、
「求道・求法が甘い御仁(ごじん)」と言うことができます。

國學院大学の宮元啓一教授が、唯識説の不備に論及し、見分(見る者)と相分(形相として見られるもの)の関係について突き詰めるならば、「大我を究極の見分(見る者)とするほかない」、と書いておられますが、実に正鵠を射た指摘だと言えます。

以上により、
正解は、涅槃経を正式経典とし、「常楽我浄の大我」を認める、般若宗が主張するような「(神の)唯心法界」
すなわち、大我の意識作用として=神の夢として、世界は生起している、という霊的ヴィジョンなのです。

謙虚にして賢明な諸氏は、いたずらな知識の増大の知高慢の中で仏教を語ることなく、

涅槃経を正式経典として、「涅槃寂静」という「大我」と一体の境地を目指して
尚且(なおか)つ、中道と中観のスタンス配分を心掛けながら修行して行くことが「王道」だと知るべきです。

あなた方より少しだけ瞑想修行の先輩であり経験豊かな一人として、以上のアドヴァイス致します。
くだらない誤解の落とし穴にはまりこみませんように。
光の王道を堂々と歩むことができますように。
  
それでは、皆様の上に主の恵みが豊かに注がれますように。
また、豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)の如く、主の恵みを豊かに受け取ることができる器となることができますように。そして、大日の恵みを受けて、豊饒なる実りを成して、それに喜び感謝しつつ、人格とカルマを成熟させて行くことができますように。 


碧海龍雨(あおみ りゅう)






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