真我瞑想法教本第23章

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<23> 「8段階の観想法」(第6段階)

第二十三章 「超宗教の般若ヨ−ガの礼拝観法」(第六段階)
       〜〜〜「無自性」自覚の法門を通過する 〜〜〜
 
 
(真−23−1)
【第六段階】 「無自性」自覚の法門を通過する
 「正しい集中」こそが狭き門である(真−10−16以下)。しかし、この門を通ればそれで終わりというわけではない。修行者の行く手には、更に狭き門が待ち構えている。この狭き門こそが、狭き門の「本門」、即ち「無自性」自覚の法門である。(「自性・無自性」概念の概説は、真−15−28、29、46。「自性」要件詳説版は、空−2−20)
 「無自性の自覚」とは−−−<「個我には自性が無い」との正しい自覚を持つこと>−−−である。〔※註1〕。
〔※註1−−−勿論、正式な「無自性の自覚」には、「人無我」の他に「法無我」も含めるのは当然である(真−15−55以下)。しかし、現代においては、科学(物理学・量子力学・化学等々)の分野の業績により、「諸法に自性が無い」ことは当然の常識になっている。それ故、ここでは「法無我」を自明のこととして省略している。//〕〕
 
 
(真−23−2)
 普段、(「四源罪」の二番目の)「根本錯誤」によって「個我には自性が有る」という感覚・観念に慣れ親しんでいる人々は、次のような四つの「思い込み」をしている。即ち−−−
 
 (ア)「自分の肉体と意識の主体は、この肉体身の自分である」との思い込み。
 (イ)「個我である肉体身の個体意識こそ自分本来の意識である」との思い込み。
 (ウ)「自分の意識は、肉体身の自分が自力で動かしている」との思い込み。
 (エ)「個我である肉体身の自分こそが行為している」との思い込み。
 
(真−23−3)
 こうした「本末転倒」した「感覚・観念」を修正すべく、修行者は「個我には自性が無い」と正しく思惟する(ように努めねはならない)。
 そして、この「個我無自性」という(驚愕の、深遠なる)真理が肉体と個体意識の隅々にまで浸透するように、その意味を何度も何度も、こう反芻する。即ち−−−〔※註2〕
  
(ア)「自分の肉体と意識の主体は、この肉体身の自分ではない。真の主体は内外に平等に遍満する不生の真我である」と正しく思惟し、
(イ)「個我である肉体身の個体意識が、自分本来の意識なのではない。本来の自我意識は煩悩に煩(わずら)わされない高い波動の意識であり、不生の真我の純粋意識である」と正しく思惟し、 
(ウ)「自分の意識は、肉体身の自分が自力で動かしているのではない。個体の自意識は真我の純粋意識の活動に起因して、それに完全に依存することで初めて機能可能になっているものに過ぎない」と正しく思惟し、
(エ)「個我である肉体身の自分が行為しているのではない。肉体身の自分は、『自性の 有る真我』の働きに依存することで初めて<行為可能>になっているものに過ぎ ない」と、正しく思惟する。
 
〔※註2−−−釈尊が実践・伝授した(ハ)ンニャ−・ヨ−ガは、極めて厳格なものであり、「真我」「法身」「大日如来」「真如」「梵」等々、「自性の有る存在」に対する「呼び名」を一切使用しないものである。(真−15−2、3)
 しかし、ここでは、無自性自覚の瞑想について正しく伝達するための一つの方便(便法)として、「真我」という言葉を敢えて使用している。//〕〕
 
 
(真−23−4)
 至極大まかに言うと、(ア)から(エ)のように正しく思惟することが、「個我無自性の自覚」である(更なる詳細は、空−3−1以下)。
 斯(カク)の如く、「人間存在の在りのままの真実」を(転倒した見方をせずに)“在りのままに”認識し自覚することが、「個我無自性の自覚」である。「個我無自性の自覚」は、何か特別で新しいイメ−ジを抱くことではなく、単にそれ迄“勘違いしていた”「根本錯誤」を正した「正しい実相の自覚」でしかない。
 真摯に仏道修行に勤しむ者は、「(個我である)自分には自性が有る」との(半ば習性化してしまった)思い違いと、「個我は本来無自性なり」との正しい自覚との「二つの極」の間を行ったり来たりする。
 この動きは「両極の綱引き」に譬えることができる。
 正しく修行する者は、やがてこの綱引きに勝利する。つまり、「個我は本来無自性なり」という「無自性自覚」の極に徐々に自分の意識を引っ張って行き、そこに意識が留まる時間を少しずつ長くして行き、最後には自分の意識がこの極から迷い出ることがないように、確実に制御して行く。  
 
(真−23−5)
 「無自性の自覚」に住する時には煩悩は発生しない。何故なら、その時には、個我の自意識を主導する主体は(未だ充分ではないものの)真我に席を譲っており、(未だ充分とは言えないまでも)真我の直接統治の下では煩悩は発生しないからである。
 一方、「個我無自性の自覚」を喪失し、「個我に自性が有る」との錯覚に住する時には、煩悩が発生する。何故なら、その時には、その個我は、「四源罪」(真−20−23)を犯してしまい、よって「吾我驕慢意識(アハンカ−ラ)」(真−22−43)を生み出してしまい、それに基づいて、真我の営為とは違背する「個我自家性」(真−18−21)の思念を累々と生み出して行くからである。
 「四源罪」を犯すことで生まれる「吾我驕慢意識」は「三重の我の観念」で出来ている。
<三重の「我」の観念>とは−−−

 (1)「(我思う、という)この我こそが『我』である(と思う)」
 (2)「あれもこれも『(我思う、という)この我』のもの(所有)である(と思う)」
 (3)「<(我思う、という)この我>こそが行為主体である(と思う)」
 
 −−−と、こう考える観念である。この「三重の我の観念」で出来ている「吾我(アガ)驕慢意識」こそが盗賊(団)であり、「賊我」である。(前章参照)
                     
(真−23−6)
 般若ヨ−ガの修行者は、「個我は本来無自性なり」との鋭利な否定の剣によって、この「吾我驕慢意識」という盗賊を叩き斬り、寸断しなければならない。
 「吾我驕慢意識」を見事に叩き斬るならば、錯誤転倒した視座は修正されて、「吾我驕慢意識」とは正反対の−−−<非我意識>(本講の造語)−−−が出現する。
 この「非我意識」は、修行者の「個我無自性の自覚」の度合いに依って、浅深二つの段階に分けることができる。
 本講では−−−
 
 浅い「非我意識」を−−−(ア)「深慮否我意識(しんりょひがいしき)」 
 深い「非我意識」を−−−(イ)「慮絶無我意識(りょぜつむがいしき)」
 
 −−−と呼ぶことにする。(共に本講の造語)
 
(真−23−7)
(ア)「深慮否我意識」について
 「深慮否我意識」とは、深慮によって自分の「吾我驕慢意識」の「三重の我の観念」を自覚的に否定する意識である。即ち、「深慮否我意識」とは−−−
1.「(我思う、という)この我」は「本当の我(行為主体)」ではなく「見せかけの我=仮 の我(行為主体)」に過ぎない。 
2.あれもこれも「(我思う、という)この我」のもの(所有)であるはずがない。    3.「(我思う、という)この我」が行為しているのではない。「(我思うという)この我」 は、真我の活動に依存して初めて活動できているに過ぎない。
 −−−こうした「三重の<我の否定>の自覚」を持つ意識である。
 この「三重の<我の否定>の自覚」は、飽く迄も本人が「深慮を巡らす」ことによって、吾我驕慢意識の「我」を自覚的に否定して行く処に生じる意識状態である。 
 
(真−23−8)
 典型的な事例を一つ挙げる。
  
 或る金持ちが自分の持っている多くの財産を慈善団体に寄付することにした。いざ寄付 してみると、この人は−−−「巨額の大金を寄付したのは(誰でもない)『この私』であ る。なんてったって『この俺様』のしたことである」−−−との高慢な思いが募ってしま い、ついつい得意気・自慢気になり、偉ぶってしまう「心の動き」を制御することができ なくなってしまった。(という事例)
 
(真−23−9)
 この場合、正しい思惟を巡らせようと努めないならば、この人はいつ迄も、自分の業績・事績を誇るばかりで、「自分は偉い」という幻想に囚われて一生を終えるしかない。
 しかし、その反対に、自分の「本分」を正しく思惟し、能々(ヨクヨク)深慮するならば、次のような「三重の<我の否定>の自覚」を持つことができる。即ち−−−
1.「この私」と思う私は、真の私ではない。「この私と思う私」には本来「自性が無い」ので、自身独自の活動性は無い。それ故、「この肉体身の私」だけを単独で見れば、暗黒の月の如く寂然としており、静まりかえった只の機械の如きものでしかない。
 『この私』だけを単独で見れば、まさに死骸か無生物の如きものに過ぎない。
 それ故、「私が、私が」と思うのは大間違いである。「この私」は真の私、真の行為主体ではない。私は仮の主体に過ぎない。
2.確かに大金を寄付したが、それらの財産は元々は私のもの(所有)ではない。(私はそれらを「真の所有者=万物の創造主」に返還したに過ぎない。)
3.寄付行為(又は「真の所有者」への返還行為)は、「この私」の行為ではない。
何故なら、個我には自性が無いので、「この肉体身の私」だけを単独で見れば、「この私」は死骸か無生物の如きものに過ぎないからである。私はただ「真実の行為者」が「この私」を通して活動し、行為して下さったことを喜び、感謝するばかりである。
「この私」は何もしていない。私は何もしていない。〔※註3〕
 
(真−23−10)
〔※註3−−−但し、「悪行(=我欲主導の行為=盗性の行為)」について、Bのように「私は何もしていない」と言うことは許されない。もしそのように言うならば、それは責任回避の卑劣な言い逃れとなり、強い悪性を持つ邪見に堕してしまい、全然反省しようとしない、良心の麻痺した恐ろしい人間性を形成することになってしまう。邪教教団は、往々にして、こうした論理を振りかざして、自己を正当化しようとする。
 また、タマス的(荒頽的)な人間(前章参照)は、こうした「間違った手法の瞑想法」に逃げ込んで、罪の償いから逃れようとするものである。//〕〕〕
 
 
(真−23−11)
 これが自覚的「深慮」によって「吾我驕慢意識」を否定する思惟、即ち、深慮否我意識の一例である。
 真摯な修行者は、(本事例のような)「寄付行為」の場合のみならず、「金銭を貸与した場合」にも「優秀な業績を達成した場合」にも「何であれ布施行為をした場合」にも「何であれ善行をした場合」等々にも、積極的にこれを適用し、「深慮」によって「三重の我の観念」を否定する思惟を働かせるように努めねばならない。(そうでなければ、「私がやった、私がやった」という吾我驕慢意識が肥大化するばかりで、高い意識に到ることは現世では不可能になってしまう。)
 
(真−23−12)
(イ)「慮絶無我意識」について
 「慮絶無我意識」とは、無自性自覚の智剣によって、「個我自家性」の思念を絶滅させた処に生じる無我の意識である。即ち、「慮絶無我意識」とは−−−
1.(「我思う」ということが無いので)「我」を意識せず、無我である。
2.(「我思う」ということが無いので)あれやこれを「この我」のもの(所有)とも、「この我」のものではないとも思わない。
3.(「我思う」ということが無いので)「この我」が行為しているとも、「この我」が行為し ているのではないとも思わずに、只々無心で行為する。
 −−−こうした「三重の<無我>の状態」に居る意識である。
 この意識は、修行者が(ア)の「深慮否我意識」の「我の否定」を更に一層、徹底して深めた時に立ち現れて来る意識である。
 
(真−23−13)
 修行者が「個我無自性の瞑想」に専心し、それが深まった時には、「我思う。故に我有り」という二段階連鎖の最初の部分である「我思う」という「根っこの処」を截断すべく、次のように正しく思惟する。
 即ち−−−「我思う」という働きは、「自分に自性が有る」と錯覚して、「自力」で勝手に「<思う>という思考」をしていることを意味する。この「<思う>という思考力」にも「自性は無い」のだから、「不生の真我」の働き無しに思考活動が営まれているわけではない。ということは、「<思う>という思考力」すらも、月が太陽の光を反射して輝いている如く、真我(=大日我)の力に完全に依存して初めて活動可能になっているものに過ぎない。従って、自分自身の力で思考活動しているように思うのは、愚かな錯覚に過ぎない−−−と。
 このように、自分の−−−<思考力の無自性>−−−について、本当に深く瞑想することができようになると、自ずと「個我自家性の思考=雑念=思念レベルの煩悩」が停止する。
 これが無自性自覚による「慮絶(=非思量)」の意識状態、即ち「慮絶無我意識」である。〔※註4・5〕
 
(真−23−14)
〔※註4−−−禅文化の国際的な普及・啓蒙活動で多くの業績を残した鈴木大拙博士は、「無心ということ」(角川文庫)など数々の著書において、無心・無我の境地こそ宗教体験の極致である、との立場を取る。しかし、本講は、梵我一如の不二一元の霊的ヴィジョンへの没入、及び真我の顕示こそが超宗教の極北の体験である、との立場を取る。この立場からは、無我・無心の境地は、その一歩手前のレベルと位置付けられる。詳細は次章以下。//〕〕
〔※註5−−−「慮絶無我意識」は「超宗教的レベルの意識」である。
 何故なら、この意識の時には「<私は>キリスト教を信じている」とか「<私は>仏教を信じている」とか「<私は>ユダヤ教を信じている」とか「<私は>イスラム教を信じている」とか「<私は>ヒンドゥ−教を信じている」等々とは決して言わないし、考えもしないからである。このように「私は、私は…」と自己主張する「吾我驕慢意識」が無い状態、それが慮絶無我意識である。//〕〕
 
 
(真−23−15)
 「無自性の瞑想」に慣れていない初心者は、「思考停止」とか「思慮絶滅」などと聞くと、「それでは思考力が無くなって、馬鹿になってしまうのではないか」との恐れを抱く。
 しかし、「無自性の瞑想」は飽く迄も、「自性有る存在=大叡智=大光明」に意識を集中して行く手法である。それ故、「正しい集中」の下で思考を停止すると、個我の小賢しい部分が脱落し、個我の浅知恵が雲散霧消し、真の叡智だけが出現する土壌が造成される。
 この時には、(前々章で詳説した)荒頽的暗黒粘着性気質の活動も停止してしまうので、慰安的光明志向性気質だけが強く前面に出て来ることになる。
 よって、正しい「慮絶無我意識」は−−−<“随光的”慮絶無我意識>−−−と呼ぶべきものなのである。
 
(真−23−16)
 従って、この意識が出現する時には、その者は決して馬鹿になることも愚かになることもない。澄み切った意識の(鋭敏で精妙な)「随光性」の故に、その者には鋭い直観・洞察力・霊的感知力・霊的理解力等々の諸能力が発現するようになる。(即ち、ここでの「慮絶」は、明鏡止水の「止水」に当たり、心の明鏡化を意味する。決してタマス的なものではない。)
 しかし、「正しい集中」もせず、無自性の意味も理解せず、意識が散乱した状態のまま「思考停止」をしようとするならば、それは「タマス的(荒頽的)な思考停止」、怠惰なだけの思考停止になってしまう。このような形で思考停止を行うならば、荒頽的で鈍重な波動が増大し、無知の暗黒は深くなり、愚かさ(痴毒)も増大するばかりとなる。(下手な瞑想、眠るに似たり。総ての禅僧は心すべきである。)
 まことに、「無自性自覚の思考停止」と「散漫怠惰な思考停止」とは、似て非なるものである。道を正しく進みたいと熱望する者は、決して決して両者を混同し、糞味噌一緒にする愚を犯してはならない。            
 
(真−23−17)
 「無自性自覚の思考停止」を成就し、「(随光的)慮絶無我意識」に達するためには、強い強い集中力・瞑想力が必要になる。
 「深慮否我意識」の場合であれば、或る程度「正しく思惟する力」の有る者ならば、理性的に内省することでそれを成就することは然程(ドサ ホ)難しいことではない。
 しかし、「随光的慮絶無我意識」に参入するためには−−−<「五官から入る刺激」を遮断するほどの>−−−強い強い意識集中が必要になる。
 「五官」(眼耳鼻舌身)の「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」の刺激に気を取られていては、「不生の真我」に意識を向け、集中することはできない。
 それ故、慮絶無我意識に達するためには、「五官という大陸から離陸すること」が是非とも必要になる。〔※註6〕
〔※註6−−−「感覚器官を感覚の対象から引き離して、自己(真我)を悟る」(カタ・ウパニシャッド二・1・1)と記されている通りである。〕〕
 
 
(真−23−18)
 一部のハタ・ヨ−ガの行者など、肉体のコンディション作り(外的状況)にばかり気を配り過ぎる者は、肉体が示す生命の反発力こそ宇宙の一大心霊の現れであり、従って、「見聞覚知の作用」こそ仏性の現れである、と主張する。
 しかし、道元禅師は、正法眼蔵第五「即心是仏」巻において、次のような大証国師慧忠和尚の言葉を引用して、この問題に答えている。即ち−−−「もしも、見聞覚知(の作用)を以て、これを仏性とするならば、ヴィマラキ−ルティ(維摩)菩薩がまさに『法は、見たり、聞いたり、判断したり、知ったりされるものではありません。見・聞・覚・知を行使する者は、見・聞・覚・知を求めているのであって、法を求めているのではありません』〔※註7〕と言うはずがない」−−−と。
 斯(か)様な先達の言葉を根拠にした上で、道元禅師は「“菩提心を起こしていない”通常人の慮知念覚(作用)を仏(それ自体、或いは仏性の発現)と誤解することなかれ」と説いている〔※註8〕。
 
(真−23−19)
〔※註7−−−「維摩経」不思議解脱の法門参照。ここでは長尾雅人博士の翻訳(中公文庫)に拠った。//〕〕
〔※註8−−−ここでは、“菩提心を起こしていない”との条件付きであることに注意すべきである。道元禅師の言わんとする真意は、次の通りである。即ち、「個我自家性」の慮知念覚作用は「反転逆賊事」(真−18−22)の範疇に属するから、それをそのまま直截な(ストレ−トな)仏性の顕現作用と捉えるのは誤りだ、と指摘しているのである。
 つまり、「根本盗取」と「三重の我の観念」による「反転」が入っていることを失念するなかれ、ということである。//〕〕〕
 
 
(真−23−20)
 「不生の真我」に強く強く意識集中し、「個我(五蘊)に自性が無い」ことを深く深く自覚すると、「脳幹網様体」(これは五官からの刺激情報を受け取り、その情報を選別して大脳皮質に伝達する機能を有する)が、五官からの刺激情報を「重要でない情報」として扱い、そこで情報をカットし、大脳皮質への情報伝達を停止してしまう。
 このような強い集中が実現すると、五蘊の肉体は、本来の完全な依存性・受動性に留まり、「個我自家性の動き」が消え去って寂滅し、(月は月であることに徹して)寂々とした状態になる。これが「心は木石の如し」と言われる「木石禅」の「無自性自覚の寂静(空寂)状態」である。
 ゴ−タマ・シッダ−ルタが菩提樹の下で悟りを開いたとされるのも、(鼻先に月輪を観想しつつも)「菩提樹が寂々として立っている状態」を手本とし、身心をそれと同様の状態にする瞑想法(即ち「木石に比する無自性の瞑想法」)から来ている。
 また、禅家では「心頭滅却すれば、火自ずから涼し」〔※註9〕と言う。
 これは、強い集中で五官を遮断した瞑想に入れば、酷暑も火炎も熱いとは感じない(はずである)、という五官超脱を目指す(精神力至上主義とも言える勇ましい)「掛け声」である。これも、個我無自性を自覚する瞑想法の流れの中から生まれた言葉である。 
 
(真−23−21)
〔※註9−−−この有名な一句は、中国の詩人、杜荀鶴(864〜904)の七言絶句の結句である。死心悟新禅師の愛誦句と伝えられる(「碧厳録」第四十三則「洞山無寒暑」の評唱参照)。日本では、織田信長による「恵林寺焼き打ち」の折り、この寺に居た快川禅師が焼き打ちの火炎の中においても泰然自若としてこの句を絶唱したと伝えられ、有名になる。
 但し、この句をそのまま真に受けるべきではない。
 強烈な瞑想ができる者は、生きたまま焼かれても平然としている、と解するのは行き過ぎである。また、大聖者であれば、十字架に両掌を釘で打ち付けられても平気の平座で陽気に微笑んでいられる、と解するのも行き過ぎである。また、大聖者ならば、悪化した虫歯の痛みが四六時中襲って来ても平然としていられる、と思うのは間違いである。
 無論、幽体離脱や、ニルヴィカルパ・サマディ(真−24−17以下)の時には、肉体感覚から離脱するので、肉体的痛苦は感じなくなる。しかし、肉体意識に戻り、肉体感覚を取り戻した時には、痛苦も随伴して来る。この時には、決して火炎が涼しいと感じることはない。
 それ故、飽く迄もこの句は、五官を完全に超越するほどの強烈な集中を目指す一つの「心意気」と解するべきである。或いは、「身心脱落」ならぬ「身心(の限定意識)からの離脱」による「ニルヴィカルパ・サマディ」への没入を目指す「気魄を込めた掛け声」と解すべきである。//〕〕〕 
 
 
(真−23−22)
 禅家では、「大死一番、大活現前」又は、略して−−−<大死大活>−−−と言う。
 五蘊の無自性をありのままに自覚し、この正しい本分の中に完全に留まること−−−これが「大死」である。何故なら、「無自性の自覚」に住することは「我欲の死滅」を意味するからである。そして、この時には、(真我に対する)完全な依存性と受動性が実現するので、「不生の真我」が個我(五蘊)を統治・支配するようになり、真我の大いなる活(はたら)きが個我(五蘊)を通して顕現するようになる。−−−これが「大活現前」である。
 
 1.「個我の無自性」を深く自覚することで、「個我自家性の動き」を停止させる。
 2.すると、「自性有る存在」の働きが(個我の)前面に出て来るようになる。
 
 −−−この順番(この道理)にこそ、宗教の真髄がある。
 これを真言密教では「極無自性心を経て、秘密荘厳心に到る」という形で説く(空海著「秘密曼陀羅十住心論」参照)。無自性の自覚を極めた心が原因となり、秘密荘厳心(=荘厳なる光明世界に没入した心)という結果が得られる。この秘密荘厳心こそがゴ−ルであり、悟りであり、真の三昧(サマディ)である。
 このゴ−ルに到達するには、誰でも例外なく「無自性自覚の法門」を通らねばならない。
 
(真−23−23)
 但し、(「大活現前」の為には「大死・思考停止・慮絶」が何より重要であると考えて)単純に「死んだ真似」をしたり、意識的に思考を止めようとして、何も考えないように努めるならば、邪道に逸れてしまう。こうした場合の過ちは、次の点にある。
 第一に、「死んだ真似」をすることは、「死んだ状態」を自分勝手に想像(イメ−ジ)し、思い浮かべていることになる。よって、そうした「一つの思考」(それも愚にも付かぬ思考)を“している”ことになり、「大死」とは全然言えない。これでは「タマス的(荒頽的)な瞑想」に転落してしまうばかりとなる。
 第二に、「思考を止めよう」「何も考えないようにしよう」と努力することも、そのように「思考している」ことになる。これでは<「無思慮状態」のイメ−ジ化>という間違ったヴィジョンを目的として、それに意識集中することになる。よって、これも「タマス的(荒頽的)な瞑想」に転落するばかりとなる。
 飽く迄も、意識集中すべきものは、自ら光輝く力を具備した「自性の有る存在」である。
 そして、それに対する完全な依存性・受動性を自覚するのが、個我無自性の自覚である。
 そうして、個我の無自性を正しく自覚する“結果として”自然に思考が截断され、思考停止の「慮絶」に到り、「大死」の状態に到り、「木石」の如き状態に到るのである。 
 こうした正しい経過(プロセス)を踏まずに、結果だけを勝手にイメ−ジするならば、邪道に落ちて行くこと必定である。
 
(真−23−24)
 ところで、禅家で言う処の「大死大活」の道理は、禅だけに留まらない−−−<超宗教的・普遍的な道理>−−−である。例えば、この道理はキリスト教の中にも鮮明に表れている。
 そのことをざっと概観してみる。
 心有るキリスト者の「遠大なる理想」は、総ての生物(又は被造物)が全知全能なる天父によって「直接統治」されることである。それ故、キリスト者はこの願いを「(天父が直接統治して君臨なさる)主の王国が来ますように」「御心が(そのまま)天で行われているように、地にも行われますように」「私の望むようにではなく、御心のままになりますように」という祈りで表明する。(「主の祈り」の詳細は「星−26−19」以下)
 しかし、現実を見ると、「地」には御心が行われているとは言い難い。
 何故なら、「人間の我欲」と「聖霊の活動(はたらき)」とは、全く相反したものだからである(新約聖書ガラテヤ人への手紙5章17節参照。この聖句の解説は、星−4−5以下)。
 この辺りの事情は、「三グナの盗賊団」である「吾我驕慢意識」が、真我に違背した動きをすることに因る、と理解すれば良い。そして、この道理は「人間には一定範囲で肉欲(煩悩)を抱くことが許容されている」と約言できる。(真−12−21、22)
 
(真−23−25)
 そうだとすると、もし仮に、天父と聖霊が、その圧倒的な御力を断固行使して、人間の肉なる個我を強制的に支配しようと意志されるならば、いとも簡単に、人間の肉(個我)は聖霊の直接統治下に置かれることになり、その結果、めでたく、天父の(聖霊を通しての)直接統治が実現するはずである。(こうした強引な手法を望む者も、人間の中にはいるであろう。)
 しかし、こうした強制的な方法を、天父は選択なさらない。
 それよりも−−−「人間の肉(個我)が、自ら進んで『自分の本分』を自覚して、天父(又はイエズス・キリスト)に自分自身を進んで献上し、(天父への愛故に)自ら進んで「大死」を選ぶようになる時が来るのを、愛を持って忍耐強く待つ」−−−こうした道を、天父は選択なさるのである。だからこそ、この自発的な「愛」に基づく「献上と融合の道」を自ら進んで「模範として象徴的に示そう」として、イエズス・キリストは十字架に付いたのである。
 
(真−23−26)
 イエズス・キリストが「自ら進んで磔刑になったこと」に籠めた、こうした霊的メッセ−ジを、聖霊を通して直観し、主の深い深い愛に感応するキリスト者は、イエズス・キリストの模範に倣って、自分も十字架に付くこと(=「我欲滅却の大死」)を願うようになる。
 それ故、キリスト教における「十字架」は−−−自分の「肉」(個我=五蘊)を天父に全面的に「献上する」ことで、「個我自家性の動き」である「我欲」を完全に滅却し、天父が自分の「肉」である「個我=五蘊」を直接統治して下さるように、「個我の総て」を「真我である天父」に「布施する」ことを意味している。(「人の子」が磔刑にされる事と「青銅の蛇」との関係については「星−11−63」以下参照)
 −−−以上の通り、「キリストの十字架」と「復活」のドラマには、「大死・大活」の流れが見事に象徴的に表現されている。これは明白な事実である。
 
(真−23−27)
 ところが、(正法の衰微した)末法の世では、「大死を通して大活に到る」という「超宗教的な救いの普遍的真理」を無知の黒雲で覆い隠し、「大活を目指せばそれで充分。大死は無用なり」と教える邪教教団が多数出現する。
 こうした邪教教団は大体、次のような手法で人々を惑わす。即ち、「あなたは特別に選ばれている」と持ち上げて高慢心をくすぐり、信徒を「高慢の美酒」に酔わせて良い気分にさせ、謙虚な反省心を消し去るように誘導する。そうして、教団独自の間違った教義を植え付けて行くのである。
 「我欲を滅却しなくとも救われる」と教えられると、我欲を「楽」と見る未熟で転倒した感覚に馴染んでいる者たちは、欣喜雀躍、諸手を挙げて喜び、その「悪しき教義」に飛びついてしまう。
 これで明らかなように、自分自身の我欲の故に、邪教の淫靡な勧誘と感応し合い、それと連動・結合して、邪道へと落ちて行き、悪業を深める結果になるのである。(これは「類は類を呼ぶ」原理である。)
 
(真−23−28)
 それに較べて、正しい宗教教団は、信徒に「正しい<帰依=帰命=献身>」の仕方について教える。また、謙虚で鋭敏な「反省心(内省力)」を育成する方向で教育し、そうした訓練を奨励して行く。そうして、「正しい祈りと瞑想」「より高い祈りと瞑想」ができるように、信徒たちを導いて行く。
 このような正しい思想に支えられた「正しい宗教の道」は、(前向きで陽性の、建設的な)反省の日々であり、祈りの日々であり、自己鍛練の日々であり、新たな挑戦の日々である。
 つまり−−−<我欲の段階的超越を目指し、その滅却を目指す日々>−−−なのである。
 この道は、我欲との絶え間ない葛藤・闘争の道である。よって、決して容易な道ではない。だからこそ、我欲を「楽」と見て、これを愛する者は、正しい道を好まないのである。
 
(真−23−29)
 −−−以上のことから明らかな通り、「良い教え/悪い教え」を見分ける、一つの大きなポイント(メルクマ−ル)は、次の見方である。即ち−−−
 「無自性自覚の大死=我欲の滅却」を肯定し、それに到る道を“中道を基軸に”しっかりと説示しているものは、「良い教え」である。
 一方、それと反対に、「大死や我欲の滅却などは無用なり」として、これを否定し、それに到る道を全然説かないものは、「悪い教え」である。
(また、一見「大死・我欲の滅却」を教えているようでも、その手段が「過激」であって「中道」から逸れている場合は、邪道であり、「悪い教え」である。)
 
(真−23−30)
 「個我無自性の大死」を教えない「悪い教え」の典型例を幾つか挙げてみる。
 「<自分を太陽だ>と思いなさい」とか「<我は即ち大日如来なり>〔※註10〕と百万遍唱えなさい」とか「<我は全知全能なり>と百万遍唱えれば、やがて必ず全知全能者になれる」とか「<我は仏なり>と常に反芻しなさい」とか「『既に悟ってしまった』と思えばそれでよい。既に得ているのだから」等々の教えが、それである。
 こうした教えに、直ぐ様、飛びつく者は「思慮浅薄」「我欲深大」との誹りを免れない。
 こうした教えを実践すると、確かに一時的には気分が良くなり、何でもできる気持ちになり、積極性も出て来るし、元気にもなり、「高笑い」さえ出て来るようになる。
 しかし、これと不可分に連動している「悪しき高慢心」である「吾我驕慢意識」の肥大化も不可避となる。よって、この手法によって我欲である煩悩を制御し、超越することは不可能である。そればかりか、こうした手法によって出てきた「悪しき積極性」によって、罪悪を累々と重ね行く事態をも招くことも無いとは言えない。
 
(真−23−31)
〔※註10−−−善無畏の「大日経疏」に「我即大日」との表現がある。これは、ウパニシャッドの「梵我一如思想」を別角度から表現したものと解さねばならない。即ち、「我即大日」の「我」は「真我」を、「大日」は「梵」を表している。
 しかし、宗教で金儲けをしようと企む「無自性」概念に無知なる者が「我即大日」という言葉を見ると、「自分の賊我は即、大日如来なり」という意味だと誤解してしまう。そして、信徒たちに「賊我」の意味で「<我即大日>と唱えなさい」と教えることになる。
 自分の本分を弁えず、「賊我」を「大日」と思い込み、「無自性自覚の法門」を通らずに、四転倒の邪見を放って置いたまま、「悟りの境地」に到ろうとするのは、まことに烏滸(オコ)がましい振舞いである。盗人猛々しい、厚顔無恥なる行為である。
 確かに、後に示す通り、「個我」は「大日」の変化身である。その意味では「個我、即、大日」である(空−七−八十以下)。しかし、「四源罪」を犯して「反転逆賊事」を生産し続けている「我」は「賊我」であり、この「賊我」が「大日」なのではな断じてない。
 この理を悟る者は、軽々に「我即大日」とか「我即全能者也」などの呪文を唱えることはない。それよりも、「個我無自性」の法門を通ることこそ、熱望するからである。//〕〕
 
 
(真−23−32)
 但し、「<我即大日>と唱えよ」というような教えが、プラスに働く場合も無いわけではない。例えば、余りにレベルの低い者たち、取分けタマス的(荒頽的)で鈍重この上ない波長の中に住み、怠惰の上に、否定的・消極的な想念で凝り固まっており、殆ど無活動状態に近いような者たちに対しては、一時的なカンフル剤として、彼らの高慢心を刺激して「やる気」を起こさせ、自信を持たせ、活動のために立ち上がらせる、という効果が、確かに有る。
 しかし、既に充分な活動性を得ている者たち、即ちラジャス的(矜恃的)な者たちが、自分を「全能者」と思い込んだり、「太陽」だと思い込んだりすることは、大きな災いとなる。
 何故なら、「人志の独立騒動の譬え」(真−19−11以下)を見れば一目瞭然、「吾我驕慢意識」が有るまま、即ち「根本盗取」を犯したまま、石油(である自分の才能と活力)を自分のものとして汲み出し、売却して利益を上げれは上げるほど、行為の悪性も増大し、悪業である負債も増大し、後の不幸も増大してしまうからである。
 例えば、「凄い霊力が獲得できる」という邪教教団の甘い誘いに乗って、「超能力開発」のヨ−ガに日夜励み、そうした修行に没頭するならば、その者は、無自性自覚の修練を積んでいないので、開発した超能力を「我欲の満足のために使いたい」という誘惑に襲われると(そして、穢れた霊の軍団の影響力により、必ずそうした誘惑に襲われる)、必ずそれに負けてしまい、恐るべき大罪を犯す羽目に陥らないではいられない。〔※註11〕
 
(真−23−33)
〔※註11−−−ヒンドゥ−教の中には、「私はサッチダ−ナンダである」と反芻する手法が有る。これは自分を「全知全能なるブラフマンそのもの」と思い込む手法とは微妙にニュアンスの違うものである。この点、注意を要する。
 サッチダ−ナンダとは、サット(不滅の実在)・チット(純粋意識)・ア−ナンダ(歓喜法悦)の三語の連結語である。そして、サッチダ−ナンダは、ヒンドゥ−教では、ブラフマンを構成する不可欠の基本三要素とされる。
 ここで重要な点は、このサッチダ−ナンダという言葉には、「全知」とか「全能」という概念が“意図的に排除されている”ことである。
 「圧倒的な歓喜法悦の中で<ただ在る>という純粋意識」−−−これがサッチダ−ナンダである。
 斯(カク)の如く、この言葉の意味を正しく理解するならば、修行者が自分自身を「私はサ−チダ−ナンダである」と思念しても、邪道に逸れることはない。何故なら、「チット」という「純粋意識」には、妄念・妄想・愚痴・不平不満・怨念・憎悪・疑念等々の雑念である「煩悩意識」は一切含まれないので、「自身を純粋意識と覚知する」ためには、自身の総ての妄念を綺麗さっぱり捨て去ることが要請されるからである。
 つまりは、「純粋意識(チット)」の一語の中に、「大死」の概念が既に含まれているのである。(勿論「チット」を正しく捉えない者は、躓いて霊的傲慢の大沼に落ちる。)//〕〕〕
 
 
(真−23−34)
 以上で明らかな通り、教団を挙げて(又は誰に対しても)「大死無用。大活一本で良し」という内容を教えている場合、そうした教えを説く人間に宗教を教える資格は無い。
 この点、しっかり見分けることが必要である。
<「無自性自覚の大死門」という「狭き門の本門」を通ることを教えず、我欲の肥大化を教える者>−−−こうした輩は、邪教の煽動者であり、罪深き者である。
 こうした輩は、キリストの十字架を無意味・無用にして自身を誇っているに等しいので、傲慢な愚者でしかない。
 こうした輩は、空海の「即身成仏義」にある「加持」〔※註12〕の教えを無意味・無用にしてしまうに等しいので、外道である。
 こうした輩は、空海の「秘密曼陀羅十住心論」の第九住心「極無自性心」の教えを無意味・無用にしてしまうに等しいので、破戒者である。また、「極無自性心」を通らずに「秘密荘厳心」に到ることができると説いているに等しいので、邪悪な立川流と同流の者である。
 こうした輩は、クリシュナの「我だけの器具となれ」(ギ−タ11章33節)(この句の詳細は真−22−50以下)の言葉を無意味・無用にしてしまうに等しいので、ニセのグルの類であり、霊的な詐欺師である。
 こうした輩は、道元禅師の「身心脱落」の「脱落」を無意味・無用にしてしまうに等しいので、似非(エセ)瞑想者であり、「タマス的(荒頽的)瞑想」を行い奨励する者であり、穢らわしい自己欺瞞に塗れた者である。
 こうした輩は、ヒンドゥ−教のサンニヤ−シ(放棄者)の「サンニヤ−サ(放棄)」を無意味・無用にしてしまうに等しいので、我欲に塗れた大泥棒・大盗賊である。 
 
(真−23−35)
〔※註12−−−「加持とは、如来の大悲と衆生の信心を表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といひ、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。」(空海「即身成仏義」より。尚、ここでの「影」は「光彩」の意味。但し、「影」を「彰」と読み換えて、道元禅師の「正法眼蔵」『海印三昧』巻の『海印』の「印」に比すること可。)
 つまり、大日如来の大慈悲・大光明が衆生の信心の心水に照射されることを「加」と呼び、信者の「止水となった明鏡」がその大光明をよく受け止めて反射することを「持」と呼ぶ、という言うのである。(大日如来の光明を十全に受け止めない場合は、笊で水を受け止めようとする時のように、その殆どが零れてしまう。)
 それ故、「加持」が十全に成立するためには、信者の心が「明鏡止水たる宝鏡」(大円鏡=孤月我)という「無自性の本分」に留まることが必須の条件となる。
 これで明らかなように、飽く迄も、自身(個我)の本分を無自性の「鏡」(=孤月我)と自覚することが即身成仏に繋がるのであって、その自覚も無しに、自身(個我)を大日如来そのものだと思うことが即身成仏なのでは決してない。本章「註10」(真−23−31)参照。//〕〕
 
 
(真−23−36)
 −−−以上、詳細に検討して来た通り、本当に「無自性自覚の大死門」を通り抜けたいという「正しい願い」を抱く者だけが、邪道に逸れることなく、真っ直ぐに正しい道を進むことができる。
 「この狭き門」を通ることを嫌い、他の入口を探し、「正規の切符」を買わずに、不法に柵を乗り越えて中に侵入しようとする者は、盗賊一味として悪業悪果の厳しい罰を受けること必定である。
 
(真−23−37)
 では、ここで一度、これ迄の処をまとめてみる。
 「無自性自覚の大死門」を通り抜けようとする修行者の前には、(既に見た通り)主に「四つの壁」が立ちはだかっている。
 
(1)自分の「本分」を「正しく思惟」「深慮」して、「賊我」を否定して行く意識が必要 である。
(2)単に「思考しない」ように「思考“する”」ことでは、決して「慮絶」に到れない。 (「自力」で頑張ることの限界については真−7−8、真−10−10以下)
(3)五官(の刺激)を遮断するほどの「強烈な集中力」が必要である。
  (「内的筋力」については、真−10−30)
(4)我欲を「楽」と見ないで正しく「苦」と見て、大死(我欲滅却)を願い、我欲と闘争 する「克己の道」を選び取って行く必要が有る。〔※註13〕
 
(真−23−38)
〔※註13−−−この四つ目の壁をキリスト教の立場から表現すると−−−「霊性修行の道を志す者は誰でも、<自分自身のゲツセマネの園>を通らねばならない」−−−となる。
 イエズス・キリストは十字架に掛かる前に、ゲツセマネの園において「聖霊に従順な道」と「我(欲)を通す道」の両者の間に挟まれて葛藤し、猛烈に苦しんだ。しかし、彼は強烈な祈りと瞑想を通してその葛藤に勝利し、我欲を滅却することができた。
 これと同様に、キリスト者は、自身の十字架の道(我欲滅却・大死献上の道)を進むために、<自分自身のゲツセマネの園>において−−−我欲に身を任せるか、はたまた、我欲の滅却を目指して超越の道を行くか−−−この両者の狭間で葛藤し、悶々と苦悩しないでは済まされない。これは「克己の道」を行く時の「不可避の通過儀礼」なのである。
 こうした見地に立つと、「イエズス・キリストがゲツセマネの園で一回だけ苦しまれたので、我々自身が“各人固有のゲツセマネの園”で苦しむ必要はもはや断じて無いのです」と教える(一部の)キリスト教の聖職者の考えが間違っていることが明らかになる。詳細は、星−4−14〜16を参照。//〕〕〕
   
 
(真−23−39)
 ここの挙げた「四つ壁」はどれも、簡単には乗り越えられるものではない。
 中でも特に「4)の壁」には、多くの者が躓いてしまう。我欲との闘争が苦痛であるが故に、ついついそれを回避して、「大死無用の道」を行こうとしてしまうのである。
 しかし、「大死無用」という考えを抱きつつ、どれだけ巧妙に「自己正当化の論理」を組み立てても、それは邪見でしかない。このことは、既に具(つぶさ)に見て来た通りである。
 では反対に−−−「大死無用」とは考えず、兎に角、只単に「大死」を願う−−−それで良いのかと言えば、勿論そうではない。
 「大死」を願っても、邪道に落ちることは大いに有り得る。
 例えば、かなりヒステリ−気味に、性急にゴ−ルを狙って行く短気な者は、屡々、4)の壁で躓くものである。彼らは、勇壮に「我は必ず大死に到る」と決意する。ここまでは良い。しかし、そのために、「捨身の荒行」と称して、過激な断食をして衰弱死する行動に出たり、生き埋めになって窒息死する行動に出たり、断崖絶壁から投身自殺したり、路上で焼身自殺したり等の挙に走る。こうした行動は、「間違った形の大死」である。
 
(真−23−40)
 「正しい形の大死」を達成するには、次の「三つの意識」が是非とも必要である。
 
 <「正しい大死」実現のための「三要件」>
 (ア)深い礼拝意識 
 (イ)(「自性の有る存在」への)絶対的信頼 
 (ウ)「個我」の明け渡し(=個我の主導権の委譲的放棄・奉還)
 
 −−−この三つである。〔※註14〕
 以下、順次説明して行く。 

〔※註14−−−この「三つの意識」は、誰もが通る「各人固有のゲツセマネの園」での霊的葛藤(霊的闘争)に勝利するための「必須の三要件」でもある。//〕〕 
 
 
(真−23−41)
(ア)深い礼拝意識について
 「礼拝意識」なくして「無自性自覚の瞑想」なし。
 何故なら、「無自性自覚の瞑想」は「真の礼拝」の深化形だからである。
 従って、「荘厳なる無為」の力が流入するように、「真の礼拝」成立のための六要件の充足が必要である(真−12−5以下)。これが「無自性自覚の瞑想」を行う上での「基本中の基本」(=大前提)である。
 もしも、無自性自覚の智剣を<自力で>振り回すつもりであれば、その者は真の無自性の自覚に到ることは決してできない。真に正しく深い「個我の無自性の瞑想」への参入を望む者は、根っこの部分に当たる−−−<(自身の)思考力の無自性>−−−をも深く自覚する必要が有る。
 そして−−−「本来的に、自身には(自主独立・無依存の)思考力は一切備わっていないので、自分の個体意識それ自体には、礼拝する力も瞑想する力も、本来的に備わっているわけではない」−−−このように「無自性の自覚」を「礼拝と瞑想」にも及ぼして徹底する必要が有る。
 
(真−23−42)
 首尾良く、このように自覚し得たならば、その結果−−−「自分は<自力で>礼拝や瞑想をしている」−−−という転倒した錯覚・迷妄から脱却できる。
 つまり、「自力ではない礼拝や瞑想」を自覚的に実践することが可能になる。
 そうすると、「自分が、自分が…」という「我の強い、無理やりの礼拝行為」が消滅して行き、自然な形の「力みのない礼拝」が実現する。
 こうした「正しい礼拝意識」に進み入るならば、もはや常軌を逸した「捨身の荒行」などに突き進む衝動が立ち現れて来ることはない。
 こうした「正しい形の、自力ではない礼拝意識」を深めて行くと、「礼拝する者」と「礼拝される自性有る存在」との区別が、徐々に不分明になり、やがて消滅して行く。
 こうした過程の途中で、「(随光的)慮絶無我意識」が出現するのである。〔※註15〕
 
(真−23−43)
〔※註15−−−本講では「慮絶無我意識」を、極めて特殊な、不安定で一時的な意識状態、と位置付ける。何故なら、もしも、修行者がニルヴィカルパ・サマディ(次章)に入定するならば、それを「無我の状態」と称することは相応しくないからである。
 サマディ体験の真只中にあっては、「真我」の意識の中に没入しており、「真我」と不可分一体の意識に浸って居る。つまり、「大我」としての「我の意識」が有るのである。
 このように見ると、「慮絶無我意識」は、次の二つの場合だけに限定される。即ち−−−
(@)サマディに入る直前の「無自性の自覚」が極まった状態での「自我が空寂となって脱落   する状態」に限りなく近接した時点の意識 
(A)サマディから出定したばかりの、物質的次元の意識が充分に回復する前の、茫然自失と   も言える状態での意識 
 −−−この二パタ−ンである。
 ただ、もしも、「無我」の概念をとても広く解し、総てのサマディの状態をも含める、とするならば、(鈴木大拙博士のように)「無我・無心」状態を宗教の極北の境地と見ることもできないわけではない。しかし、そうは言っても、サハジャ・サマディ(次々章)を達成した大聖者に「個体意識」としての「我の意識」が無いと見るのは、正しい見解とは言えない。詳細は、真−25−10以下参照。//〕〕
 
 
(真−23−44)
(イ)(「自性の有る存在」への)絶対的信頼について
 「真我=大我=梵=法身=真如」である「自性有る存在」に対する「絶対的信頼」がなければ、「個我自家性の動き」を鎮静させ、放棄することは決してできない。
 「自性有る偉大な存在」を認めて、それに絶対的信頼を置くことができないならば、受動的立場に留まって安心することができない。
 よって、個我が「自力」で思いを巡らし、「何とかしよう」という焦りを止めることはできなくなってしまう。そうすると、「個我自家性の動き」が活発に働いて、様々な不安・心配・疑念・不満等々が噴出して来るようになる。
 こうした心の動きを止めるには−−−「自性有る存在」が如何に偉大で強大であり、如何に完璧な叡智に満ちているか、どれほど桁外れの能力を有しているか等々−−−を能々(ヨクヨク)洞察し−−−<「荘厳なる無為」に覇権が有る>(真−2−26)−−−という真理から目を逸らさないようにすることが必要である。
 これが出来れば、自ずと「自性有る存在」への「絶対的信頼」が涌いて来るはずである。
 「絶対的信頼」が涌いてくれば、自力による「浅知恵」の活動も自然に停止して「大安心」の心境になり、自ずと適切な行為が流出して来る。
 斯(カク)の如く、「超対象の洞察礼拝」(真−11−1以下)に進み行く「正しい集中」を続けて行くことで、「真の礼拝・感応道交」(真−12−5以下)の結果としての「恩寵としての平安」を増大させて行くことが必要である。
(「真の礼拝」の「感応道交」なしに「大死、大死」と口走っても邪道に陥るだけ。)
 
(真−23−45)
(ウ)個我の明け渡し(個我の主導権の委譲的放棄・奉還)について
 (ア)の「乱れなき深い礼拝意識」と、(イ)の「絶対的信頼」に基づくことで、初めて「個我(五蘊)の(真我への)明け渡し=引き渡し=放棄(サンニヤ−サ)」を正しく行うことができる。
 ここで注意すべき点は、「個我の放棄」と言う時、それは、ゴミを捨てる時のように、個我を放棄して捨てること意味するものではない、ということである。
 ここでの「放棄=抛捨」は、飽く迄も「自性の有る偉大な存在」に対する個我の「献上=委譲=奉還」を意味する。
 無信仰な者は、「四源罪」を犯しながら、「三重の我の観念」である「吾我驕慢意識」が、自分の肉体を主導している。しかし、こうした「悪しき主導権」を放棄して、「真我」に肉体の主導権を明け渡し、委譲するのである。
 すると、個我が「真我」に「預けられる」ことにより、個我の価値は飛躍的に増大する。
 
(真−23−46)
 この現象は、楽器と演奏家に譬えることができる。
 どんなに素晴らしい楽器も、音楽の才能の無い者が演奏するならば、麗しい音色で奏でられることはない。よって、名器を所有していても宝の持ち腐れになってしまう。しかし、その名器が、音楽の巨匠の手に委ねられ、適切に演奏されるならば、それは名器本来のパフォ−マンスを発揮し、素晴らしい輝きを放ち始める。
 これと同様に、個我が「不生の真我」に全面的に委譲され、主導権の交代が為されると、個我は「不生の真我」の「黄金の道具」(宝鏡・宝鋤)に一変する。この時、個我は、その身そのまま、「不生の真我」の「顕現媒体」に変化する。〔※註16〕

〔※註16−−−但し、顕現媒体としての性能は、一律に同じわけではない。完全な明け渡しを実現し、「黄金の道具と化した個我」が複数有った場合、それぞれの顕現媒体としての性能には差異が生じる。何故なら、「顕現媒体」の性能も因果律の法則の下にあるからである。だからこそ、小乗思想よりも、大乗思想に基づく大乗行によって、千弁の花(=才能)を開花させる道が勧められるのである。//〕〕
 
 
(真−23−47)
 斯(カク)の如く、真摯な修行者は、「深い礼拝意識・絶対的信頼・個我の委譲」という三要件を充たして、「正しい形の大死」を実現し、首尾良く「無自性自覚の法門」を通り抜けて行く。

 最後に、本段階を約して一句−−−
 
   望月や 心水にう(受×浮)く 寂円光  
 
 −−−以上で、超宗教の般若ヨ−ガの礼拝観法の第六段階の解説を終了する。
    
 

真我瞑想法スートラ 第23章



このページの最終更新日 2004/3/20

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