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瞑想法 スートラ |
<24> 「8段階の観想法」(第7段階) |
第二十四章 超宗教の般若ヨ−ガの礼拝観法(第七段階) 〜〜〜 脚下を照破し、心源を覚知する 〜〜〜 (真−24−1) 【第七段階】 無自性自覚の瞑想の達成が即、ゴ−ルなのではない。 熱心な修行者は、「個我と諸法」の「無自性」を観想しても、それだけでは満足することができない。「自性の有る存在」を求め求めて「これにも自性が無い、これにも自性が無い」と識別の剣をふるって瞑想して来た以上、「自性の有る存在」に到達するまで、熱い究明の瞑想を止めることはできない。 弘法大師が「卑を去(さ)け尊を取る」〔※註1〕と記した通り、修行者は「無自性自覚の瞑想」を突破して「自性自覚の瞑想」へと突入することを熱望・渇望する。 〔※註1−−−「秘密曼陀羅十住心論」巻第九「極無自性住心」大意にある空海の言葉。〕 (真−24−2) 「無自性自覚の瞑想(=極無自性心)」では、「これ一道清浄なれども、未だ秘密金剛三摩地を証せず」と言われる〔※註2〕。 即ち、無自性自覚の瞑想の段階では、ハタ・ヨ−ガで言う「禅定」(ディア−ナ=静慮状態の精神統一)のレベルに留まり、「三摩地=三昧(サマディ)」の境地に参入したことにならない。(「禅定」を維持するには自覚的な努力が必要である。真−23−29) 「サマディ(三摩地・三昧)」は、「単なる禅定」「単なる精神統一」とは全く違うものである。サマディとは、個我が真我に出会う直接体験である。 サマディとは、「自性の有る存在」に「個我の意識」が触れる霊的体験である。 サマディとは、梵語で「連結・結合」の意味である。 サマディとは、それ自体では自性の無い「個我の意識」が、「自性の有る存在」即ち「全宇宙の全エネルギ−を完璧に供給している主体=無形・遍満・無辺なる純粋意識=サッチダ−ナンダ(真−23−33「註11」)」に「触れ、(又は)包まれ、(又は)没入」して、両者が連結・合一する「超越的体験」であり「霊的体験の極北」であり「至高体験」である。(「三昧」を維持するには、自覚的な努力はもはや不要である。) 故に、サマディに入定すると、驚愕し、只々圧倒され、光明の法悦に浸るばかりとなる。 〔※註2−−−「秘密曼陀羅十住心論」巻第九「極無自性住心」の中で、空海が「金剛頂大教王経」から引用した言葉。//〕〕 (真−24−3) サマディは、個我意識が不生の真我の純粋意識と「連結・合一」する超越的体験である。 但し、一口に「連結・合一」と言っても、これには、(個我が真我に)「1.触れる 2.包まれる 3.没入する」という段階的な浅深の差異がある。 よって、サマディにも、浅いサマディから深いサマディまで、様々な態様が存在する。 大乗仏典には、無数の名称が冠されたサマディが記されている。しかし、それらの名称に囚われてはならない。それらは、飽く迄も総体的なサマディ体験の中から「或る側面だけ」を取上げて、それを強調した名称に過ぎないからである。 サマディを細分化して論ずることにはあまり意味がない。どのサマディであれ、とにかくサマディに入定することこそが肝要である。 (真−24−4) それ故、「サマディ」については、重要にして基本的な次の「四つのサマディ」について、知って置けば十分である。(但し、「4」は次章で解説) (1)観仏三昧 (2)サヴィカルパ・サマディ (3)ニルヴィカルパ・サマディ (4)サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディ では、(1)〜(3)のサマディについて順に解説して行く。 (真−24−5) (1) 観仏三昧 (又は、般舟三昧・諸仏現前三昧・仏立三昧などとも呼ぶ。) このサマディは、先のサマディの定義からすると例外的態様のサマディであり、真のサマディとは言えない。 何故なら、真のサマディは無形無辺の内的意識の光明体験であるが、観仏三昧は、外界に一つの具体的形象としての「生きた仏」(又は「神や天使でも良い)」を霊視するサマディだからである。 このサマディは、「特定対象の外観礼拝」(真−11−7)の道(これをインドでは「バクティ・ヨ−ガ」と言う)を徹底的に突き詰めた時に到達するサマディである。 この時の「生きた仏」は「一つの幻影」である。しかし、ただの幻影ではなく独自に活動するし、この幻影と会話を交わすこともできる。そして、この幻影には「触感が有る場合/無い場合」の二パタ−ンがある。つまり、幻影が物質化して肉体身を持つ場合と物質化はせずに単なる映像として出現する場合との二種である。 (真−24−6) こうした現象は一つの奇蹟である。これは、観想者の強烈な信仰の力に応える形で、無形の超越的な存在(=「自性有る存在」)が、大慈悲によって不可思議な霊力を行使した結果である。つまり、観想者の強烈な「見たい、会いたい」という渇望の結果訪れる「聖なる幻影」である。(霊界から大天使が出現する場合や、諸聖人が出現する場合もある。) 但し、このサマディに入ったと思い込んでいるだけで、単に本人が夢見ている場合(=聖なる幻影でなく、本人の俗なる煩悩の投影としての幻影を見る場合)や、夢でなく現実であっても、邪霊や幽霊の出現を「聖なる示現」と勘違いしたりする場合があるので、繊細な注意と鋭敏な識別力が必要となる。 (真−24−7) 観仏三昧の具体的事例として、有名なものを一つ挙げる。 近代の聖者シュリ・ラ−マクリシュナが、ニルヴィカルパ・サマディに入る以前に、カ−リ−像を熱心に礼拝し、その結果、生きたカ−リ−・マ−(「マ−」は「母」の意味)の出現を受けて、彼女と親しくま(目)見え、親しく会話し、親しく教えと導きを受けたという事例。(日本ヴェ−ダンタ協会刊「霊性の師たちの生涯」30〜33頁)〔※註3〕 〔※註3−−−偏狭な仏教徒は、カ−リ−・マ−は想像の産物に過ぎず「諸仏」に含まれない、として、これを観仏三昧とは見ないであろう。しかし、超宗教の道を行く者は、上辺の「名称」に囚われず、現象の本質を洞察する。生きたカ−リ−・マ−の幻影の出現を継続的に霊視していた時点のラ−マクリシュナは、聖なる幻影と交流していたのであるから、観仏三昧に入定していた、と見て間違いない。//〕〕〕 (真−24−8) 尚、シュリ・ラ−マクリシュナのように、カ−リ−・マ−の御姿を見続けたい余り、六年間片時も目を閉じられなかったという強烈な渇望の末、或る程度継続的に「聖なる幻影」を霊視できるに至るのではなく、純粋無垢な心と熱い祈りによって、ほんの片時「聖なる幻影」の出現を霊視する場合もある。このような現象は、「観仏三昧の一滴」の体験と言える。 その具体的事例として、有名なものを二つ挙げる。〔※注4〕 〔※註4−−−「一時的な霊視」が、偽りの「幻影」か、本物の「聖なる幻影」かは、その出来事の後の「展開=事の成り行き」を検証することで、或る程度、正しく判別することが可能である。//〕〕 (真−24−9) (ア)末日聖徒イエス・キリスト教会の創始者ジョセフ・スミスが少年の時、森に行って祈った時に「天父」(と御子)の出現を霊視したという事例。 〔ここから始まる一連の霊的現象により、(イスラエルの「塩の海」と瓜二つの)アメリカ・ユタ州のソルトレ−クにおいて、仏教の「成仏」思想に近接した教義を持つ「新興のキリスト教徒の民」が出来上がる。彼らは、自分たちの主義を「モルモニズム」と呼び、その旗を高く掲げた。そして、モルモニズムは世界に大きな影響を与えるようになった。末日聖徒イエス・キリスト教会刊「ブック・オブ・モルモン」日本語題名は「モルモン経」後に「モルモン書」と改名された。 但し、この教会派が無条件に正しいと言っているわけではない。不完全な人間が運営する以上、様々な問題点も当然、内包している。教義面にしても、運営面にしても、不完全な部分は多々ある、と言える。//〕〕 (真−24−10) (イ)ポルトガルのファティマに住む三人の子供の前に、聖母マリアの幻影が出現したという事例。 〔「聖母マリア」を霊視し、聖母から「予言」を受けたと伝えられる少女は、この霊視体験によって決定的な影響を受け、カトリックの修道女となり、霊性修行の道に一生を捧げることとなった。尚、この「予言」はロ−マ法皇に伝えられたが、一切公開されていない。〕 (真−24−11) (2)サヴィカルパ・サマディ サヴィカルパとは、梵語で「区別有る」という形容詞である。つまり、「観想」の中に「形象」や「様々な想念」が残存している「有想(有相)」のサマディ(三昧)を意味する。 サヴィカルパ・サマディには、浅いものから深いものまで、いくつかの段階がある。 このサマディに入ると、光明に包まれて、物質的な外界意識を喪失してしまう。このサマディに入った人を外から眺めると、完全に気を失っているように見える。しかし、本人は、光明に包まれた世界に参入しており、霊的な次元での意識をしっかりと保持している。つまり、個我の意識を保持しつつ、或る程度の思考作用も残存したまま、一面の光明世界の中で、大きな法悦を味わっている。 この意識次元に参入すると、その者は「光の海」の中ではすべてが完全であり、満たされている、と感じる。光の海の中は、静寂と平安と高い喜びが満ちている。その中を自身の思考が横切っても、それは深海を小さな魚群が通り過ぎるに等しいもの、と感じる。即ち、それらの思考の動きが、大いなる静寂と平安と高い喜びを乱すような影響力を持つことはない。 (真−24−12) しかし、このサマディにいつまでも留まっていることはできない。やがて下降して来て、再び低い物的個我意識を取り戻すことになる。 通常の地上意識に戻ると、この者には高い喜びと光明の体験が強い印象として残存し、それがより一層の高い瞑想を渇望する潜在的な影響力(薫習)となる。 とはいえ、サヴィカルパ・サマディの光明体験では、この者の悪しき薫習を完全に焼き尽くし、一掃するには不充分である。よって、このサマディから降りて来ても、聖者になったわけではない。それ故、その後、我欲に身を任せ、大死献上の道を望まないならば、そのまま堕落して行く危険も無いとは言えない。〔物凄く悪いグル(導師)になる場合もある。〕 (真−24−13) また、このサマディにどっぷり入定できるわけではないが、幸運にも「サヴィカルパ・サマディのほんの僅かな一滴」を味わう体験をする人も居る。 例えば−−−突然の光の閃きを感じ、それが辺りに広がって行くような体験をする場合や、ほんの数瞬、光に包まれ圧倒され、その光に身を任せる以外にないと感じる場合や、突然意識が上昇・拡大し、辺りの自然環境が生き生きとリアルで崇高な意識の息吹として自分に迫って来て、それに伴い強い霊的歓喜を感じる場合等々−−−がそれである。 こうした霊的体験が原因となって、宗教的な方向性を志向するようになることも多い。 (真−24−14) また、サヴィカルパ・サマディの体験が詩頌として表現されている場合もある。 心月孤(ひと)り円かにして、光は万象を呑む。 光、境を照らすに非ず。境も亦た存するに非ず。 光と境と倶(とも)に亡ぶ。復(は)た是れ何物ぞ。」〔※註5〕 〔※註5−−−「碧厳録」第九十則の「評唱」において、圜悟克勤禅師が引用している盤山宝積禅師の詩頌。次の二点の故に、サヴィカルパ・サマディ体験の表現と言える。 第一は、光明が横溢し、照らされる客体である「境」がそれに呑み込まれていること。 第二に、結句で「一体これは何だ」と突然の体験に驚愕していること。これは、サマディに入った時、この光明体験を充分に消化・受容・理解することができず、その理解を超えた体験に当惑していることを表している。ニルヴィカルパ・サマディでは、その正体と合一するので、深い確信と完全な理解に達し、戸惑いは生じない。 尚、この詩頌につき、圜悟禅師は第八十六則の「評唱」で、これ即ち「真常独露」と評している。「真常独露」とは、「常恒なる(如来)真(法身)」が独り露(あらわ)になることである。//〕〕 (真−24−15) サヴィカルパ・サマディの具体的事例として、有名なものを二つ挙げる。 (ア)ナレンドラ・ナ−トの場合 ナレンドラ・ナ−トとは、後にシュリ・ラ−マクリシュナの思想を世界に伝える役目を担う(一番弟子と言って良い)スワミ・ヴィヴェ−カ−ナンダの俗名である。ナレンドラが、シュリ・ラ−マクリシュナに会いに行った二度目(及び三度目)の訪問の時のことである。 シュリ・ラ−マクリシュナがナレンドラに一触れすると、彼はサヴィカルパ・サマディに導き入れられた。「眼は開いたままで、私は四方の壁および室内の一切のものが急速にうずまき消えてなくなるのを(…)見た」(日本ヴェ−ダンタ協会刊「霊性の師たちの生涯」221ペ−ジ参照)と、ヴィヴェ−カ−ナンダは後にその体験を語っている。 (真−24−16) (イ)イグナチオ・デ・ロヨラの場合 イグナチオは、マンレサで修行中、近くの教会に出掛けた時、カルドネル河畔で暫く腰を下ろしたところ、不意に光明に包まれて、魂に大きな照明が与えられ、別の知性を得たように思われるほど一気に多くの霊的な事柄・信仰と学問に関する事柄について悟り、偉大な明晰さを得た事例。(『ロヨラ・のイグナチオ−−−その自伝と日記』桂書房、『聖イグナチオ・デ・ロヨラの道』新世社刊参照)(因みに、イグナチオの一番弟子は、日本にも馴染みの深いフランシスコ・ザビエルである。) 尚、この前段階として、イグナチオも「観仏三昧の一滴」を味わう体験をしている。「ある夜のこと、目を覚ましていると、幼きイエスを抱いた聖母の姿がくっきりと眼前に現れた。それがかなり長く続いたが、その間言い知れぬ大きな慰めを覚えた」との述懐が残っている。 ★★★ 注意 ★★★
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