充実のシュリ・チンモイ情報(2)
presented by 宗教真理アカデミー

 宗教真理アカデミーでは、インドの諸聖者の情報やその他、ノンセクト的な広い視野で、有意義な霊的情報を皆様に提供して行きます。
 また、宗教真理アカデミー翻訳委員会では、外国語のウェブ・サイト情報を翻訳して、皆様により身近なものとして、情報を発信して行きます。

宗教真理アカデミー翻訳委員会(VAC)
【はじめに】
シュリ・チンモイが逝去なさったことで、弟子になる必然性は薄いものになったと言えるでしょう。
当サイトは、スピリチュアルな志のある皆様に、シュリ・チンモイ・センターに行くこと「も」、一つの道だとの立場を取っております。
しかし、その道を許容する以上、当然−−「許容者としての責任」−−が発生します。−−あとで、「日本センターに行って弟子になったが、そのせいで、自分の生活と人生は目茶苦茶になって、現在ひどい境遇に陥ってしまっている。一体、どうしてくれるんだ!」−−というようなクレームが来ないように、予(あらかじ)め−−
「シュリ・チンモイ日本センターの長所と短所」−−をなるべく客観的に描写して、注意を喚起して、各人それぞれ、大人の判断に基づき自己責任の原則で行動なさって下さるように、ここに情報を提供し、皆様のご判断を仰ぐものです。                       
【記号の意味】

・(VAC※)−
宗教真理アカデミー翻訳委員会が独自に付した「語の注」です。
●「シュリ・チンモイ・日本センターの長所と短所」について (必読)

■■■■【長所】■■■■
東京センターを例に取ると、センター瞑想が週に二回(日曜日と木曜日)にあります。30分の瞑想とそのあと、プラサードと呼ばれる「お菓子」などを食して、静かに雰囲気を楽しみながら霊的な会話をして解散。
このような定期的な瞑想を習慣にすることで、安定的な瞑想力がそれなりに身につく。また、最新のシュリ・チンモイ情報についても接することができます。
また、古いお弟子さんたちの経験談を聴くことで色々なことを理解することができる。
また、そうした定期的なセンター瞑想の出席という「実績」を作ることで「信用」を得ると、夏のセレブレーションの時に、ニューヨークに行ってシュリ・チンモイに会うということの許可を得ることもできる。
それによって、犠牲を払って(仕事を休むなど)大聖者と接見することが可能となります。
この「接見」(多くの場合は無言のまま、数秒でおわる)−−を霊的な「大いなる学びの機会」にするには、ニューヨークに行く前の段階での、熱心で堅実な、ポイントを押さえた「事前の学習による理解と、瞑想力の錬成」 が不可欠です。
これを怠ると、「キャー、グルと会っちゃった! ヒデキ、感激!」 みたいな、芸能人にあって感激するミーハー(ミーちゃん・ハーちゃん)と同類になってしまい、シュリ・チンモイと接見したことの意味の大半は失われてしまうので、要注意です。

■■■■【短所】■■■■
(※注意−−以下の記述は決して「悪口」ではありません。指摘した短所が改善された場合にはその短所は当然削除されます。「悪口」ではなく、「改善を期待するクレーム」だとご理解ください。)
ネット検索すればすぐに分かることですが、シュリ・チンモイの団体の活動を−−「カルト宗教」だ−−と批判する見方(評価)もあります。
正直な、そして客観的な評価として、シュリ・チンモイ・日本センターの状態や雰囲気は−−「カルト宗教的」−−だと言われても仕方がない部分が多々あると言えるのではないでしょうか。だからこそ、このセンターを推薦する者としても、責任重大だと感じ、強く強くここに皆様の注意を喚起する次第なわけです。

「カルト宗教」の大きな特徴の一つに、
「極端な考えを持ち、通常人の健全で常識的なバランスを著しく欠いていること」
が挙げられます。
そして、シュリ・チンモイ日本センターには、これに該当するようなお弟子さんたちが幹部的な立場で陣取っているために、「この極端、このアンバランスが正しい」という一種の洗脳的な雰囲気の中に居ることによって、その影響を知らず知らず受けてしまい、よほどの注意力と理性と明晰な理論を持っていないと、バランスを崩してしまい、「ひどいこと」になってしまう、という危険が常にあること、そして、そういう危険が「常にある」という意味は、センターの内部的にそれを修正してくれる「正しい弟子の勢力」が見当たらない−−−という意味で、「正しい健全な教導」ということでは、著しく大きな短所があるという指摘ができます。

ここで言う、「ひどいこと」とは、どういうことでしょうか?



【悲惨な弟子の典型例】
岡田茂吉は、よく一般に、「物質偏重」という言葉があるけれども、インドの場合は、霊的事柄を重視し過ぎるあまり、「霊性偏重・物質軽視」というアンバランスに陥って、「病・貧・争」、とりわけ「物的貧困」を招いてしまっている、と指摘し、それに比べ、日本の(神道的な)「いずのめ(伊豆能売)の道」は、物質と霊性の両者のバランスを美しく取る教えである、と語ります。それが「真の豊かさへの道」だと。
シュリ・チンモイも、自分がアメリカに渡ったのは、西洋文化の物質偏重と、インドの霊性重視の思想がミックスすることによって、この相互交換により、物質と霊性のバランスを取ることだ、と語っています。
そして、シュリ・チンモイの基本教義である「サレンダー(放棄)」の本義は、幻惑・誘惑される事柄への執着を放棄して、煩悩放棄へと到る道を示すものです。
ところが、「サレンダー(放棄)」という言葉はそれ自体「強烈なニュアンス」を含んでいるため、濫用されると実に危険なことになってしまうのです。
この「放棄・放棄・放棄・・・・」といつも何度も強調されているうちに、どうしても、インド的な「物質軽視の放棄」に流れて行きます。それから、シュリ・チンモイが警告する「悪い放棄」である「安易で怠惰な放棄」に流れてしまうという傾向があります。
たとえば、週二回のセンター瞑想に出席するのは義務ですから、仕事を理由に「最低週一回というライン」もこれをクリアーできなければ、その人は「放棄が足りない」「霊的事柄への犠牲精神不足」と評価されてしまいます。それはそれで、ある意味その通りなのですが、この論理が折々に「拡大されて行く」のです。
シュリ・チンモイの弟子ならば、グルの誕生日を祝う最大のお祭りである夏のニューヨークのセレブレーションに出席するのは「当たり前でしょう?」ということになります。
ということは、行かない人は「放棄が足りない」という目で見られます。
ただ、セレブレーションは一カ月も続きますから、できるだけ長くその雰囲気に浸るには、フランス人のように、「8月一杯バカンス休暇」にしなければなりません。
仕事を理由に、「行けない」という論理は通用しないのです。但し、お金を理由に「行けない」というのは通用します(笑)。
現在の日本の労働環境の中で、「八月一杯バカンス休暇」を取ったら、確実に「クビ」でしょう。
また、理性的な人で、限定的に、一週間か二週間だけ休暇をとってセレブレーションに行く人であっても、ニューヨークでの楽しいセレブレーションを味わい、「ここに来るみんながみんな、仕事をしないで遊んでいるような、各種イベントに打ち興じている生活」 を満喫してしまうと、自ずとこう思ってしまうのです。
−−−「ああ、もう、仕事なんかしたくない! こうやって楽しく、そしてちょっとだけ瞑想しながら日々を過ごせたらどんなに楽しいだろう!」−−と。
このような「力」が働くということは、「仕事を放棄する方向での圧力がかかる」とも解釈できます。
この「圧力」を−−「きっと、グルや神様が『今の仕事を放棄せよ』と促しているのに違いない」−−と独り合点して解釈して、「ええい、こうなったら、すっぱり仕事なんかやめてしまえ、それがグル推奨の霊的修行の放棄だ」という論理を自分で構築して、先行きを考えない能天気な明るさで、一気にプー太郎生活に突入して行くのです。
こうなると、どんどん生活は貧乏になって行きます。アルバイトで生計を立てつつ、いつでもニューヨークに行けるような形にして、センター瞑想に出席しながら、「浮浪者の生活は気楽だ」と笑います。そしてやがてほどなくして、インドの行乞者のような風体(ふうてい)になって行き、そうした状態は親を嘆き悲しませることになり、結婚もしない(放棄)、中年になっても、先行き心配なフリーター生活・・・という形に陥ります。

日本では、一度「正規の仕事・正社員の仕事」を辞職すると、よほどしっかりしたスキルを持っていない限り、中年から正社員になることは極めて厳しい、という現実があります。
シュリ・チンモイの弟子になって瞑想しようという人は、そうした職業スキルを磨くことには無関心で、瞑想にだけ関心があることが多いので、結局、一度、社会の職業生活を放棄して脱落すると、社会からも受け入れてもらえず、一生、フリーター的生活から抜け出せない、という状況に陥ります。
そして、まことに、日本における中年フリーターの境遇は厳しいものなので、自然に、「自分は弟子として厳しい試練を受けている」という自負心が生まれ、それが霊性生活者としての「高慢な自負」となり、「自分はこんなに厳しい修行をしているのだ、それに比べておまえらは何だ、ただの甘ちゃんか」 という態度になり、「あんたの放棄はなっていない、こっちのあんたの放棄も、てんで、なっていない」という、刺々(とげとげ)しい心理を生みます。
そして、現実生活が不幸であるため−−−つまり弟子としての内的満足には全然満ちていないため−−−世間の人々の物的幸福が内心妬ましくなり、それが(本人知らずに)「歪んだ心」を生みます。
こうして、本人だけは「立派な霊性修行者である」と自負しているものの、世間的には、「清貧の」−−−と言えば聞こえは良いですが、実態は「みじめな、生活」−−−を送りながら、年老いて、自治体から生活保護を受けるようになれば、もうニューヨークにも行けません−−そうして寂しく人生を終えます。
臨終の時には、自分はグルの教えを守ってこんなに瞑想修行したのだから、輪廻転生を三回ぐらい飛び級することができただろうな、と、自分に言い聞かせつつ、眠りにつくのかもしれません。

しかし、こうしたケースでは、客観的事実として、霊的にはさほど進歩していないし、高い瞑想もできない状態だと言うことができます。
従って、こういう「悲惨な弟子の一生」とは、ある意味−−「バランスを崩すことで霊的成長がストップ、或いは著しく遅くなるという、大いなる失敗体験を学ぶ」という人生−−−それが今生一生をかけての教訓であった、ということになります。
こうして、「安易・怠惰な放棄では駄目だ」ということを、ひどく痛い目を味わうことで学習するわけです。

当サイトでは、「神の叡智」をもって、そうした失敗を先取りして指摘し、そのような手痛い失敗に陥ることがないように、「今、正しい放棄をすべき」「正しい放棄とはこれこれ」と教示しているのです。


(短所と危険が一杯なので、まだまだ、続きます。−−後日更新して行きます)

<< 短所項目予定 >>
  ・極端偏狭な狂信、シュリ・チンモイ原理主義者が幅を効かす−−シュリ・チンモイの「インテグラル・ヨガ」哲学はどこに行ってしまったのか?  そこにみるカルト的排他主義。内向性。解釈の間違い。
  ・ニューヨーク在住日本人弟子の怠慢と小乗的エゴイズム−−日本センターを司牧するべき長兄・長女的責任の放棄。
  ・日本の弟子たちの霊性情報の飢餓・干ばつ。(2000冊のシュリ・チンモイの著書のうち、日本では十年たっても『ハイアー・メディテーション』たった一冊程度を読みまわしているばかり・・・の驚くべき悲惨な現状)

 日本の各センターの特徴と注意すべき点
 日本には現在、東京センターと、鎌倉センターと、京都センター、という三つのセンターがインターネットに公開されています。各センターへの「連絡先」の情報は、こちらを御覧下さい。
 私が弟子として所属していた時には、宮崎センターを開設した時でした。シュリ・チンモイの指示では、宮崎で世界マスターズ陸上でシュリ・チンモイが来日してコンサートをする時に、宮崎には2〜30人の弟子ができる、ということでした。宮崎センター創生当時は5人程度でした。以後、どうなったのでしょうか。増えるどころか、ほったらかしにして、消滅してしまったのでしょうか。悲しむべきことです。

<東京センターについて>   東京センターのリーダーは、武道館のピースコンサートを成功させて就任した人が事件を起こして解任されてから、グルの指示で、六人が2カ月ごとの持ち回り代表者になっていると、去年聞きましたが、今年もそのまま継続かわかりません。ご存じの方はご一報下さい。
このように、強いリーダーシップがない「烏合の衆」状態であること、そして、何事も「グルにきかなきゃわかんない」が口癖のような、自己判断力を放棄したような稚拙な幼児のような有り様、そして、ただ漫然と定期的センター瞑想に参加するだけの日々。  正しい情報を自覚的に収集しないと、正しい見解を確立することが極めて困難だと言えます。漫然とセンターに通っていると、徐々に「バランスを崩す悪い影響」を受けてしまう危険性は多分にあると言えるでしょう。要注意です。

<京都センターについて>  京都センターのリーダーは、シュリ・チンモイを強烈に愛する女性で、古株ですし、シュリ・チンモイの養女ランジャナさんとも交流があるので、こちらでは色々と、リーダーからは、正しい情報を得ることが可能だと思われます。しかし、アメリカに行っていることも多いでしょうから、不在の時も多いと思われます。その意味で、彼女の代理となるサブ的な弟子が育っているかどうかが問題ですが、センターといわずに、ニューヨークが、京都をグループと呼んでいることから、極めて少人数でしかないことが伺われます。
リーダーがバランスよく在家生活をしているかどうか−−これについては要チェックでしょう。

<鎌倉センターについて>  鎌倉センターのリーダーは、弟子としては古株中の古株の男性です。何しろ、前世からシュリ・チンモイの弟子であったとの話もあり、シュリ・チンモイが日本に昔来た時に、真っ先に探したのが前世の弟子であったこの人だったといわれるぐらいなのです。今生も弟子になり、二回の輪廻転生にわたってシュリ・チンモイの弟子であるわけで、さぞや「すごい弟子だろう」と誰でも思うことでしょう。しかし、私の所属していた時から、鎌倉センターには、他のお弟子さんが皆無でした。みんな去って行ってしまうのです。ほとんど必ずこの人とトラブルになってしまうのが理由のようです。20年〜30年に渡って全く発展しないセンターというのは、どこに問題があるのでしょうか。シュリ・チンモイがこのセンター・リーダーのお弟子さんについて、首を横に振って「ああ、ノー、ノー、ノー」という深く嘆いておられる素振りをしていた、という話を私は聞いたことがあるのですが、シュリ・チンモイの御名を引き受けた弟子として、シュリ・チンモイの名誉のためにも、この人には是非、「正しい反省」をして戴き、シュリ・チンモイ原理主義者的な偏狭で刺々しい信仰から脱して、インテグラル・ヨガ的な広い霊的ヴィジョンと寛容の徳を身につけて頑張ってもらいたいものです。
 従って、こちらのセンターに行く場合は、それなりの、相当な覚悟が必要だと思われます。

<宮崎センターについて>  一体どうなってしまったのか? 消滅してしまったのでしょうか?



★当サイトとシュリ・チンモイ・日本センターとの関係について (必読)

シュリ・チンモイのお弟子さんの中には、少数ながら当サイトのファンもいるようですが、今後は、当サイトで正しいアドヴァイタ哲学を学び、バランス感覚を磨いて、バランスを取る明晰なロジックを堅持しながらシュリ・チンモイの弟子の生活をする、というケースが増えて行くことでしょう。
そうなると、シュリ・チンモイ日本センターの霊的レベルが向上し、「怠惰な放棄」や「小乗主義」から脱却して発展を始めることでしょう。







ラベル1
ラベル2
ラベル3