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本物の縁起の法2500年ぶりに明らかになる

「諸法無我」は、なぜ「真の命題」ではないのか?New!

このページ 2012年11月12日22時00分にWeb発表[Rev-0]
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(最新)2012年12月05日23時30分に更新[Rev-7]

「中国サイトで夢の永久機関が発明された?と話題に」という笑い話。
(画像引用)秒刊SUNDAY http://www.yukawanet.com/archives/3938163.html
(この絵を観て、「ギャー」と驚倒して、すべてを理解した人は、優秀な人です。)
(どういう意味かと言うと、「諸法無我は真だ」と盲信する人は、動くアートマンがないものを集めた「衆縁和合」システムを「これ動くぞ〜」と言っているのと同じなので、この絵を描いた中国人坊やと同じレベルの間違いをしている、爆笑ネタレベルの間違いだ、という意味です。) 




以下、筆者の愛称に因んで、「リュウ・ハトリックの証明」と呼びます。

私の主張は、次のようなものです。
【主張1】(全称命題としての)「諸法無我」は「偽」(の命題)である。(仏教史上「初」の指摘です)
 もう少し精密に表現すると、この命題は、背理法を使用した「間接証明」によるメタ判断なので、
「諸法無我は真(の命題)である」という判断は、「偽」であるということ(論理矛盾を引き起こす不適切で間違った判断であると)。このように仏教史上・初で、主張します。

「背理法が成立する」ための「バックグラウンド」を説明します。
(1)仏教論理は、排中律を維持していること。
(2)仏法とは、「アートマン(我)の有無」を主要論点とする排中律論理であること。
(3)西洋哲学でもインド哲学でも、存在論レベルで、「形而上的なアートマン」(いわゆる神のこと。ヘーゲルにおける「絶対精神」は神のこと。)の有無は主要問題であること。
つまり、これこそが、最も大きな論点であること。
(4)この点、従来の仏教は、「仏教はア・ナートマン(無我)の教えだから、バラモン教のブラフマンすなわち<形而上的な不生不滅のアートマン>を認めるのは「有我見」という外道である」という解釈をするのが一般となっていること。
これは、「三法印」の「諸法 無我」の「諸(サルヴァ=一切すべての意味)法(ダルマ=存在の意味)」の射程を、「形而下的存在と形而上的存在」双方の存在態様を合わせた「全フィールド」において無我だという解釈であること。
このように、存在論的「全フィールド」で無我である、という解釈(=「二諦空性説」)は、「形而上的なアートマン(=ブラフマン)」を否定するので、「ブッディズムは無神論である」と言われて来たこと。
(5)(しかし)「形而下的/形而上的」両者を含めた「全フィールド」で無我である、という解釈(「二諦空性説」)は、「判断の暴走」に過ぎないこと。判断の横暴とも言えること。もっと言えば、「バカ丸出し」の「非論理的な妄言迷信の盲信者」であること。
なぜなら、ブッダが「無我」を導き出す論理は「滅する性質のものであること」を理由にするので、「滅するものだ」と観察できるという「観測可能な事物」に関してのみ、「無我」という判断を下すことができるからであること。ゆえに、「観測可能な事物の集合」であるところの「形而下的な存在」について無我(非我でも良い)とすることは論理的にできけれど、客観的な観測が不可能であるところの「形而上的なアートマン」まで否定することはできない論理になっているのだから。

(ブッダの非暴力アヒンサーの慈悲深さが「神殺しをしない」ところにも、よく現れているという言い方も可能でしょう。逆に、従来の仏教徒は「否定する論理なし」に「神殺し」をしている「バカな暴君」という言い方もできましょう。)
ここで、一つの「定理」が流出します。(定理Vと仮称します)

・・・<定理V>「ブッダ論理で、ブラフマンは斬れない」

///////我を否定するブッダ論理/////////参考資料/////////////////////
「比丘たちよ、色(身体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また我が本体でもない」(南伝相応部22,45)(『阿含経典』第2巻、P.73、増谷文雄)
////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

(6)観測可能な「形而下的存在における諸法」という「限定的なフィールド」において無我であるとすることは、従来通り肯定します。その点に、誰も異論はないでしょう。
ゆえに、「諸法無我は偽」という意味は、部派仏教時代の「七十五法」に自性を認めるというような方向で逆戻りさせる話ではないこと。
従来通りの「諸法無我は真」という主張と、「ハトリックの証明」における「諸法無我は偽であり背理法によって不生のアートマンが肯定される」という主張との間の相違点を図で表すと次のようになります。
※※※※※※※※※※全フィールド枠※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※        ↑   ↑    ↑                  ※
※  //////////////////////////////////////////////////////////////////   ※ 
※  //////  限定フィールド内での「諸法無我」は真でオッケー ////   ※ 
※   ////////////////////////////////////////////////////////////////    ※
※        ↓   ↓    ↓                  ※ 
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
このように、「限定フィールド内での諸法無我は真」の該当エリアを拡大して行き、「全フィールド枠」にまで拡大させてしまい、「全フィールド枠で諸法無我」とした時点でこの命題は「偽」に反転する、ということ。それが「ハトリックの証明」です。

(7)「自性」概念は、部派仏教では、「それ自体の性質」という定義なので、七十五法に自性を認める邪見となりました。
しかし、大乗八宗の祖である龍樹の定義では、「縁起するもの」を無自性とするので、自性とは、縁起以外のもの、という「縁起の反対概念」として定義されています。それが、現在の仏教の主流なので、自性の定義は、それに従い、「縁起の反対概念」として論証を構築しています。
(但し、縁起の反対概念は、「他によらず自ら生起するもの」ということになり、そのように他に依らず、無から有に生起ずくものなどありえないでしょうし、「神」ですらそんな芸当は無理でしょうから、この概念は、極めて瞑想技法的な非科学的な概念だと言えます。結論としては、そのような概念を使用して「不生常在のマハーアートマン=梵ブラフマン」の存在と働きを浮き彫りにする、という狙いがあります。)

(8)以上を前提にすると、「縁起するもの」は、「他に依らず自ら生起活動することのないもの」すなわち「自発的(内発的)運動量ゼロのもの」となりますから、
全力学的エネルギー(E)= 外力から受けた仕事量
「諸法無我」が真の場合には、中国人坊やの「磁石による永久機関完成」っていう笑い話のように、無我の集合の閉じた系は、外力から何の仕事量も受けない、「0」ですから、左右の両辺がゼロになり、エネルギー保存の法則が成立している状態で、フリーズ状態となります。
・・・・・・以上が、背理法成立のためのバックグラウンドです。


【理由】(全称命題としての)「諸法無我」は真ではないと証明される論拠は、次の3面から言えます。

1つ目は、集合論の見地から。「諸法無我は偽」という背理法は、対角線論法のバリエーションであると言えます。
「諸法無我は偽」が対角線論法のバリエーションたる背理法であることを最も単純に表現すると、こんな感じです。
「縁起するもの」を「他によってのみ生起するもの」と定義するとき、
H:ハトリック集合
H={x|xは他に依ってのみ生起するもの}
(結論)ハトリック集合Hは、生起しない。生起できない。これのみでは存在できない。なぜなら、「他の何か」が「既に」生起していることを大前提にしないでは、どんなxも数えられるものとして具体化的に生起することはないから。
これでは、ちょっと、簡潔に述べすぎて、論理が伝達されない懸念もあります。
そこで、長くなりますが、厳密な論理形式で、表現してみましょう。
職人的な形で、数学的帰納法と対角線論法を使用して、私が言わんとしたかったことを
再度、判定可能な論理的な形式にて、表現してみたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・
まず、以下のように述語関数を定義する。
Cause(a)  aの発生原因がy個あるうちの1つを出力する
出力表記は  発生原因y個の中の1つが bであるとき
b/a_y  と表記する。なお(a_y)≠ 0 の自然数とする

「存在の発生原因」概念の中に時間的順序は包含されているとする。
発生原因について、時間の経緯の概念を「t1<t2<t3・・・」を附帯表記も可能だが簡略化のために省略。もし付加するならば、発生原因は、時間を逆行させて検索するので、「t1<t2<t3・・・tn」(nの数字が小さいほど現在に近く、数字が大きいほど過去に遡る時刻とする)
たとえば、Cause(b)=a/b_y
このような関係があるとき、a_t2は b_t1よりも時間的に前であり、aはbの発生原因なので、原因関係が逆になるような、bがaの発生原因になることは有り得ない。

ここで、これに関する「次のような全称命題」の真偽を検討する。
「なんであれ、存在するものは、発生原因を有するものである。」
  ∀x( Cause(x))・・・・(x∈U) {U : 存在の諸要素の全体集合}・・・(1)

さて、この全称命題の真偽を検討するために、モデルを単純なものにして、そこから出発する。
仮に、「片方が他方の発生原因の1つになっている関係の存在物を(a,b)2つピックアップして、「特定の部分的限定フィールド内での存在の要素の集合」を「H」とし、
ピックアップした2つの存在物をこの集合Hに投入する。
こうして、出発点としての、発生原因関係がある要素2個(a,b)の集合Hができた。
{a,b}=H
このとき、仮に、次の関係が成立したとする。
Cause(b)=a/b_y
このような関係があるとき、a_t2は b_t1よりも時間的に前であり、aはbの発生原因なので、原因関係が逆になるような、bがaの発生原因になることは有り得ないことになる。

ところで、「(特定)存在物の発生原因」という概念は、「存在物bの発生原因が他の存在物aである」というように、「それ(b)自身以外の他の存在」がそれ(b)の発生原因となる関係を言う。

とすると、
{a,b}=H で、かつ Cause(b)=a/b_y
であるとき、
Cause(a)=x /a_y
となり、xは、集合Hに含まれる要素ではないことになる。
このxにaの発生原因の一つを発見して定項αとして代入したとして、集合Hを、αを含むものに拡大したとしても、
Cause(α)=x /α_y
となって、やはり、αの発生原因の一つを出力するxは、集合Hの要素から漏れてしまう。
このようにして、無限に集合Hを拡大して行き、
{U : 存在の諸要素の全体集合}=H
としたときにも、この集合から漏れてしまう発生原因要素が少なくとも1つはあることになる。

ゆえに、結論。
(1)のような形で、全称命題とすると、U=Hという全体集合が、
「U=Hという全体集合それ自体」が「自身の要素の条件」に合致するもの
と言えるので、その集合の発生原因が、「全体集合」以外の他の存在の集合に依存するしかなくなるため、空集合に依拠するしかなくなる、という結論になり、
(1)の命題を真とすることは成り立たず、偽である、と結論される。
//////////////////////////////////////////////////////////
この「論理」に素直になり、この論理を肯定しつつ「現実をありのままに観る」ならば、「不生常在(少なくとも宇宙の年齢以上の常在)のブラフマン(=マハー・アートマン)」を肯定するしかないでしょう。
これはブッダ(=完全無欠な梵我の化身)が使用した「完璧にエレガントな背理法論法」だと言えるだろうこと。

偽と結論される理由の2つ目は、「縁起するもの」を「従属変数」論として解析すると明らかになります。後で詳述しますが、簡単に言うと、自力では回らない歯車(完全受動性の歯車・他の回転の力の伝達を受けてのみ回転する歯車)を何個組み合わせても、100個組み合わせても、1万個組み合わせても、その「歯車システム」は稼動しないという論理的事実。
「歯車に比される縁起システムは全く稼動しない」という結論は、「一瞬も休みなく稼動している現実世界の状況」の「ありのままの事実」に合致せず、相反する矛盾です。
「縁起するもの」は、これを数値化し関数化して数式に置換すると、「従属変数」だけの関数の数式になってしまい、独立変数がない場合には、具体的数値が決まらず、抽象的なまま、宙に浮いてしまうものだ、ということが明らかになります。
この点、詳細な論証は、後述します。

偽と結論される理由の3つ目は、熱力学の法則、特に、第一法則(エネルギー保存の法則)がそれです。但し、熱力学の諸法則を一体的・統一的に捉えると、熱力学第0法則〜第3法則までが、その根拠になります。すなわち、「諸法無我」が真であるとすることは、この法則に反しています。そのことは、上記の「第一種永久機関の発明の失敗の絵」で直観的にわかるでしょう。
ですから、そのような「真」という判断は「偽」だということ。これを「真」だとするのは、上記の「永久機関の絵を動くものだ」と強弁しているのと全く同じことになるので、お馬鹿な話であること。
全力学的エネルギー(E)= 外力から受けた仕事量
エネルギー保存の法則は、両辺ともに「0」となる関係を言います。
(熱力学の法則についての証明は、偉大な先人がやってくれているので、私はそれを利用するだけで良いでしょう。)

再度、背理法が成立することを示すための図を示します。
H:全フィールド(形而上的存在と形而下的な存在を合わせたもの)
M:形而下的な存在(客観的観測可能)
Z:無我であるとされる部分
B:形而上的なアートマン(客観的観測不可能)

    枠全体を H
|−−−−−−−−−−−−−−−|
|    |−−−−−|     |
| M  |  Z   |      |
|    |−−−−−|     |
|               |
|−−−−−−−−−−−−−−−|
|      B         |
|−−−−−−−−−−−−−−−|

上で明らかにした「定理V」により、Zのエリア拡大は最大値でM止まりです。
ZエリアをBにまで拡大するのは、ブッダ論理を無視するバカ者でしかありません。
ZエリアがM未満のとき  後述する「始点の歯車」説(形而下的な我を認める見解)の余地があります。しかし、これは、仏法では「法我見」に該当し邪見となります。
ゆえに、「諸法無我」とは、Z=M を意味します。
(Zを「認識可能な範囲に限定する説」もありますが、M内に「始点の歯車」的な「我」を推定してしまえば、法我見になりますから、この説でも結局、Z=Mという立場になります。)

そして、Z=M のとき、Mは、フリーズするか、未生起の「虚」となります。

【主張2】真の仏法においては、「諸法無我は真である」という判断は「偽」であること、こうした論理判断による「ジュニャーナ(叡智の)ヨーガ」としての「背理法の瞑想法」が説かれていたのだった、と。
ヴェーダンタ密教における「ジュニャーナ・ヨーガ」は、「不生不滅のブラフマン」を瞑想する技法です。
ゆえに、ブッダの瞑想法は、高度な論理的背理法を使用しながら、同様のことをしていた、ということが明らかになったのです。

【主張3】「これ有るとき彼あり」「これ無いとき彼なし」というブッダの縁起の法は、ブッディ・ヨーガで瞑想するときの「公案」になっていること。
このブッダの縁起の法は、ブッダによる「否定神学の最終形である」「否定神学ロジックの極致」であると言える、ということ。
「諸法無我=アートマンは一切不存在」という命題を「真」とすることは、背理法によって「偽」であると証明されました。
「諸法無我」が偽であること、これは、「100%確実な」論証です。

一方、これによって示されることは、何かというと、それは、この論証が、同時に、
「99,999…%の神の存在証明にもなっている」ということです。

(「始点の歯車」説を可能性としては完全排除できない、という意味にすぎませんが、仏教信者は、最初から「始点の歯車説」は「法我見」に当たるので邪見として排除しています。)
(隔靴掻痒かもしれませんが、逆に、「100%の存在証明にはならない」ところにこそ、「信仰心」が必要となり要請される所以があるのであって、だからこそ、科学ではなく「宗教」となる、キリストの十字架も無効にならない、という原理があります。
覚者ブッダの「世界は空である(と観想せよ。さすれば死王を観ることなし)」という言葉を真実だと「信じて」→「形而下的な如何なる存在にもアートマン無し」と推論して、「形而下的な如何なる法我見」をも邪見として排除するとき→ そのとき即座に「ブッダの背理法」が論理的に成立するので、それにより「ブッダの(梵我)瞑想」に入る、ということです。)
////////////////////////////////////////////////////////

以下、論証して行きます。
はじめに、「熱力学の見地」からの背理法の成立を叙述して行きます。
形而下的な存在は、形而下的な法則に従うものとします。
(あとから、数学的な「従属変数論」による論証をします。)

「諸法無我」は「諸法無自性」ということです。
「無自性」ということは「完全受動性」ということで「自発的仕事量(運動量)はゼロ」ということです。
「自発的仕事量(運動量)はゼロ」のモノが「どれだけ集まって」も、上の「失敗している第一種永久機関の絵」のように、
システムはフリーズ(凍結)したまま、全体の運動量はゼロのままです。

これは、「熱力学第一法則」(エネルギー保存の法則)から説明されます。
無から有のエネルギーを創造することはできません。第一種永久機関を創り出すことはできません。このことは、「熱力学第二法則」エントロピー増大の法則(エントロピー非減少の法則)とも無関係ではありません。これは、孤立系の不可逆変化をする場合は必ずエントロピーが増大し、可逆変化をする場合には、エントロピーは変わらず、よって、エントロピーが減少することは決してない、という法則のことです。
 
「諸法が無自性」とは、「すべての存在(諸法)」が「自発的仕事量(運動量)はゼロ」ということです。

ここで、論証の都合上、「自発的仕事量(運動量)がゼロのモノの集合体」について、仮に、
「ハトリック(Hatrick)時空間」と名付けます。
この「ハトリック(Hatrick)時空間」の特徴は、あざむくモノです。
(仏教では、ハトリック(Hatrick)時空間の縁起論は「極秘の法」とされて来ました。)

(A)「ハトリック(Hatrick)時空間」が「発生存在済み」の場合l
・・「ハトリック(Hatrick)時空間」が「存在はする」のだけれども、単にそれらのモノのが「自発的仕事量(運動量)がゼロ」の場合、

上記の絵(第一種永久機関を発明したという勘違いの絵)のように、フリーズしたままになります。
このとき、背理法が成立します。
すなわち、
「自発的仕事量(運動量)がゼロのモノの集合体」=「ハトリック(Hatrick)時空間」
が「真の命題だ」と仮定したならば、
論理必然的な帰結としては、
「現実世界も完全フリーズしていなければならない」ことになります。

ところが、現実世界を観察すると、諸システムが生き生きと作動しています。
つまり、上の論理必然的な帰結は、現実世界の「ありのままの事実」には「合致しない」ので、「ハトリック(Hatrick)時空間が成立している」という命題は「真」ではなく「偽」だということが判明します。
(つまり、「無我」と言ってしまっては間違い、という現実をありのままに観るのです。)

(B)「ハトリック(Hatrick)時空間」が「未発生」の場合
もしも、「仏教の縁起論」が「生起(発生)済みの諸存在」の「活動性」のみを射程にするなら、上記(A)のみで良いわけですが、縁起の法は、「生起」自体すらも「完全受動性」で「自発的仕事量(運動量)がゼロ」だと叙述しているわけです。
そうなると、話は、もっと簡単です。
「ハトリック(Hatrick)時空間がそれ単独で、発生する余地はない」
というのが、「ハトリック(Hatrick)時空間」の特徴であり、論理必然的な帰結となります。

ところが、現実世界を観察すると、諸システムが発生存在して生き生きと作動しています。
つまり、上の論理必然的な帰結は、現実世界の「ありのままの事実」には「合致しない」ので、「ハトリック(Hatrick)時空間が成立している=諸法無我」という命題は「真」ではなく「偽」だということが判明します。
(つまり、「無我」と言ってしまっては間違い、という現実をありのままに観るのです。)


(C)「ハトリック(Hatrick)時空間」以外の「何か(something)」について
上記の(A)(B)の背理法によって、「ありのままの現実の総体」は「ハトリック(Hatrick)時空間」には合致しない、ということが判明しました。
従来の仏教では、「諸法無我」の「諸法(=サルヴァ・ダルマ)」すなむち「すべて(一切)の存在(諸法)」という「一切」の範囲について、
認識論的な、「(人間の)認識できる範囲内に限る」説 
存在論的な、「(人間が予想できる)宇宙存在全部を含む」説
などがありますが、
上記の「第一種永久機関の発明の笑い話の絵」がフリーズしているのに、現実世界がフリーズしていない、ということ(簡単に「無我」とは断定し切れない事実)は、
一体、何を意味するのでしょうか?

鋭敏な人は、ここで(というか既に)、深い瞑想に突入しているでしょう。

「世界を空と観ぜよ」という覚者ブッダの言葉を「信用する者」は、
「形而下的な法我見」を邪見として排除するので、「形而下的な存在の範囲内」だが「認識の範囲外」であるどこかに「始点の歯車としての機関車的なアートマン」があるという可能性を切り捨てるわけです。
ゆえに、「ハトリック(Hatrick)時空間」を「虚なる影法師」と看破して、「真実在(形而上的な不生不滅のアートマン梵我)の活動」に目を向け、それを瞑想するようになるからです。
このときにこそ、
仏教で言われる「転倒・転倒夢想」が解消し、意識が依拠する「場」が、それまでは、「ハトリック(Hatrick)時空間」に「依」拠していたものが、「真実在」に「依」拠(帰依)する意識へと「転依(てんね)」します。
そして、「真実在」に意識を集中しているときには、煩悩は停止します。
つまり、煩悩の矢は無効化された状態となります。
あとは、この密教瞑想を深めて行くだけです。
このとき、「八正道」は、真に実践可能な道になります。
(従来のエセ仏教では、「転倒」が保存されたままなので、スタートの「正見」がそもそも無理で達成できなかったので、スタートラインにすら付けなかったのです)


さて、残余は、鋭敏ではない鈍根の人のための論述ということにもなりますが、論理を突き詰めた解説ということで、「論理の穴」についての考察となります。
以下の「歯車の写真」を観て下さい。



「ハトリック(Hatrick)時空間」を「各種の縁が歯車のように組成されている運動連鎖」とすると、「完全受動性の歯車」の集合のみではフリーズして動きませんが、「ありのままの現実」が作動している以上、
「認識できる範囲」「外」(但し「形而下的な存在」の範囲内)に「別の歯車」が接続して機関車的な役割を果たしていて、そこから「運動量を得ている」という可能性が1つ、考えられます。
これを「始点の歯車」(例外的に自発的仕事量が有るモノ=形而下的なアートマン存在)と仮に称しましょう。
しかし、その場合、「始点の歯車」はどのようなものになるか?
「宇宙の全運動量」がこの「始点の歯車」にかかってきます。これが止まれば、全歯車も止まることになります。
しかも、無数の「完全受動性歯車」がどこかで、接続されなければ、それ以降に連動している後の歯車は運動しなくなりますし、そうした微妙精妙な歯車同士の接続がどのように組成されるのか? ということも問題になります。
そういうわけで、この「始点の歯車」説は、論理可能性としては除去できませんが、実際にそれが存在するだろう確率的可能性としては、諸般の事情を勘案するならば、その可能性は限りなくゼロに近い、と判断することができます。
もっと言えば、この可能性を信奉する人は、バカしかいないだろうと推論されます。
(論理可能性としては排除できないので、「0,001%」は有り得るとしておきます。いえ、実際には、もっと圧倒的に低い確率でしょう。歯車の一つ一つが組み合わさる「歯車連鎖」を因果連鎖だとすると、確率論的に偶然にそのような連鎖が稀に発生するとすれば、歯車の数だけ、その偶然発生の確率を掛け合わせて行かねばなりませんから、現実世界に機能する歯車の数を数え上げるわけですから、実際には、100000の100000乗ぐらいと言うべきか、とにかく有り得ないほど極小微小な低い確率になると計算されるでしょう。)

このように、「始点の歯車」説が、殆ど有り得ないとした場合、
残る99,999…%の可能性は?

「ハトリック(Hatrick)時空間」を存在せしめるための
「形而上的なアートマン」を想定するほかありません。
但し、この思考順序は、非仏教徒用の思考順序です。

ここで、注意なのは、仏教信者にとっては、「始点の歯車」説という「形而下的なアートマン」を想定する見解は「法我見」という邪見に該当するので、そもそも、この可能性は最初から排除されています。

つまり、上の図でいうと、仏教信者は、「ZエリアをMにまで拡大するしかない」ので、
おのずと「Z=M」となり、このとき、従属変数論によるのでであれ、エネルギー保存の法則によるのであれ、この時空間は「偽」となり「虚」となるので、背理法が成立し、
「形而上的なアートマン」は「有る」というのが正解となります。
これが、「不生のアートマン」とも呼ばれている「不生不滅の梵我」です。

つまり、「ハトリック時空間」と「不生不滅のアートマン梵我ブラフマン」は、不可分一体である、ということになり、これを「正見」して、深い瞑想へと入って行くことになります。


///////  以下、数学的な「従属変数」論での証明をします  ///////////////////

「ハトリック(Hatrick)時空間」(無自性の縁起するものの集合)は、数学的には、その特徴から、「従属変数」に比することができます。「比する」のではなく、論証として、
論理的に「従属変数」を含む関数の数式に「置換」してみましょう。

「縁起するもの」を「数値化・関数化して数式に置換する」にはどうすれば、良いでしょうか?
「因縁起(するもの)」を関数として数値化します。

   y=f(x)   xは、独立変数
   従属変数を J で表すことにします。

「因縁起するもの」は、「自発的仕事量がゼロ」なので、専ら、他からの影響によって変化するものです。ゆえに、「従属変数のバリエーション」として関数表記できます。

複数の従属変数を J1、J2、J3、J4、J5、J6・・・
と表記することにします。
J1= f(x)
独立変数によって、決定される部分は、ここになります。
以下、独立変数を含むか、含まないか、自由に表記できます。
f(J1)とか 、f(J2)とか、f(J3)・・・などの各関数は、それぞれが「縁(縁起の要因)」として作用することを表しています。

J2=f(J1) でもよいし、J2’= f(x)×f(J1)でもよい。
J3=f(J2)× f(J1)でもよいし、J3’= f(x)×f(J2)× f(J1)でもよい。
J4=f(J1)× f(J2)×f(J3)でもよいし、
 ・・・ J4’= f(x)×f(J1)× f(J2)× f(J3)でもよい。
 以下同様にして、縁起の要素と必要条件・十分条件を考慮して、「縁起するもの」を関数表記して、数値化して表現します。
一種の「暗号化」としての記号化と考えれば、わかりやすいでしょう。

補足説明としては、上記「J2’〜J4’」のように、
最初の「f(x)」を主要因(直接要因)として、その他の関数を「間接要因」というように、仮の区別をするような右辺にしても、理解の補助になります。しかし、実際には、どれが主要要因かわからない場合には、単に「必要十分条件」を数え上げればそれで良いでしょう。
「f(J1)とか 、f(J2)とか、f(J3)」などの各関数は、それぞれが「縁(縁起の要因)」として作用することを表しています。
「何個の関数を掛け合わせるか?」という「関数の個数」については、
「左辺」(縁起したもの)が生起実現するための「原因としての必要十分条件」としての「要素の個数」を表します。

そして、それら右辺の「必要十分条件」の「要素」同士を「掛け算」の形にしているのは、各関数がそれぞれの「縁」(副次的要因)を表しているので、どれか1つでも欠けて消滅している場合には、そこが「0」になるので、必要条件を欠いた「左辺」も数値的に「0」(生起実現しないことを表す)になるように、「掛け算」を採用しています。
すなわら、「右辺」の必要条件としての縁が欠ければ、「左辺(という結果)」も生起実現しない、ということを数値的に表現しています。

★★ 以上で、「縁起」が関数化されました。
これは、何を意味しているでしょうか?
「縁起」とは、「自力回転しない歯車の集合」に比することができるので、他からの関与によって歯車がどの程度回転するなどの数値が決まるのであり、「独立変数」すなわち、ここでは、「歯車の自力回転」に比することができるとを考えてもよいですし、そこに何らかの数値が放り込まれると考えても良いのですが、そういう「独立変数」がない状態が「縁起」の本質であるわけです。
すなわち、「縁起」(「ハトリック時空間」)を関数化して表現すると、
それは、「従属変数」だけの関数になってしまい、独立変数がないので、具体的数値が決まらず、従属変数のみでは、その関数の数式の数値は具体化されず、「未だ抽象的な形に留まってフリーズのままとなります。

従属変数の関数だけでは、いくら有っても、それだけでは宙に浮いた状態です。
従属変数は、独立変数の関数として、「独立変数が具体的な値を取るとき」に、意味を持ち、システムとして機能します。

最後に、「形而上的なアートマン・ブラフマン(梵我)」は、数学的には、その特徴から「独立変数」に比することができます。
(この独立変数に、どのような数値を入るのか、そのための規則はあるのか? 云々は別論になります。)

(結論)「縁起するもの」は、「従属変数」を含む関数として記号化できる。
そして、「従属変数」だけでは、意味をなさないので、「諸法無我」を真だとする判断は誤りであって、「偽」である、ということが明らかになった。
(Q.E.D.)証明終わり
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仏教の「二諦論」もこの証明によって決着が付きました。
「世俗諦」とは、「ハトリック(Hatrick)時空間」レベルでの「虚妄なる相対的な法」を意味します。
「勝義諦(第一義諦)」とは、絶対的な「不生不滅のアートマン・ブラフマン(梵我)」を意味します。

そうすると、龍樹の「中」の意味についても、決着が付きます。
「ありのままの現実(相対世界)」は、「ハトリック(Hatrick)時空間」×「ブラフマン(梵我)時空間」両者の「ハイブリット(混淆的な)総合形式」である、ということ。
「1枚のコイン全体」を「ありのままの現実(相対世界)」だとすると、
「コインの表面」が「ハトリック(Hatrick)時空間」
「コインの裏面」が「ブラフマン(梵我)絶対界・絶対精神」
どちらか片方であっても、この世界は成立せず、この世界は両方の混成体であること。
それが「中」と表現されるものの正体だ、と判明します。

以上で、「リュウ・ハトリックの証明」(背理法証明)はQ.E.D.です。

(このことは、約10年前のサイト開設時から、「般若心経マスターバイブル」において、
「無自性存在群単独成立の幻想(妄想)」という表現で指摘していたことです。ただ、背理法を用いるということを述べていなかったため、盲信者を打破できませんでした。)

(結論)
「リュウ・ハトリックの証明」(背理法証明)は「99,999・・・%の神の存在証明であること」と同義です。それは、ブッダが示したものです。そして、この価値は甚大です。
ブッダも龍樹も、その「大悟」とは、ヒンドゥーのヴェーダンタ密教の真理を悟ったということであったのです。
真の仏教は、ヴェーダンタ密教に包摂されます。
しかし、真の仏教の「本物の縁起の法」による「背理法」は、これを使用して熟慮哲学するものに対して、即効的に、真理の深みへと瞑想をさせ、瞑想を深化させて行く技法です。
ゆえに、ヴェーダンタ密教における「最高・最良・最強の瞑想法」として、真の仏教を位置づけることができますから、真の仏教徒は、胸を張って良いのです。
タントラ・ヨーガ的に言うならば、真の仏教の「本物の縁起の法」による「背理法」は、
「前戯なしのいきなりの挿入」
に比することができる、密教の瞑想法だと言えます。
普通の修行者が、10年かかってやっと気付くかどうかという真理について、
瞬時に気付いてしまうものだからです。

「本物の縁起の法」が地上に登場したことによって、
従来の大乗仏教が正しく把握され直し、
「梵乗仏教」運動として、世界に展開されて行くことになります。
そして、それは、仏教が無神論ではないことを意味するので、他の宗教によっても、「本物の縁起の法」は採用され、地上の多くの信徒が、転倒を解消して、深い瞑想へと、入って行くことができるようになり、地上人類の意識は、大変容の進化を遂げることになります。
「本物の縁起の法」を理解する人は、「不生不滅の法を観る」ことになります。
そうして「無生法忍(認)」へと流れ込んで行きます。
ゆえに、世界の仏教界は、大激震して、「仏教大革命」となります。
無神論ブッディズムは、駆逐され、新たに、真の大乗すなわち、ブラフマ・ヤーナ(梵乗)仏教が勃興します。

しつこいですが、再度、今後の展開を予想しましょう。
仏教は、ヴェーダンタ密教に包摂される「ヴェーダンタ密教の最高奥義」としての瞑想法であったこと、これが証明されたことにより、「仏教は「バラモン教のブラフマンを否定したものではないこと」が知られ、真のブラフマンへの一気呵成のジュニャーナヨーガという強力ジェット機で「神を瞑想する技法」であったことが万人に知られるようになります。

これによって、ユダヤ教の中で、仏教の瞑想法で神に近づきたいけれど、「無神論の瞑想法をやるのは背教だ」と悩んでいた「JUBU」と言われるユダヤ教内の仏教愛好者が、ブッディ・ヨーガをやるのは、神に近づく最高最短の方法だ、と知ることで、続々と、ユダヤ人が仏教瞑想法を実践するようになります。
こうして、仏法は、ユダヤ教にも包摂されてしまい、やがて、キリスト教徒もそれに追随し、イスラム教徒も追随することで、仏教は、独自性を消滅して、他の宗教に包摂されるのですが、それによって、真の空として、他宗教の最高の瞑想法として君臨することになります。
そのようにして、人類は、神に近づくブッディ・ヨーガを皆が実践するという、新たな、そして強力な霊的な進化の段階へと入って行きます。

そうして、以下のような人類の祈りが、天に立ちのぼることになります。
「祓いたまえ、清めたまえ、霊幸(たまち)栄えませ」
「主の王国を、もたらしたまえ」
「我々の知を啓(ひら)きたまえ。」

以上で、「本物の縁起の法」の「背理法」の解説を終わります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(付録1)
石飛道子著「ブッダ論理学」「ブッダと龍樹の論理学」は、トンデモ縁起論の代表です。サル系縁起論の白眉です。トンデモ仏教論理としては、長くイジラレ笑われ続けるでしょう。
彼女のホームページ」の「新マジカナ道場」という掲示板にて、批判をしてあげて下さい。

中沢 中(みつる)氏によるチャンドラキールティの「入中論と自注」とその中沢評釈も、トンデモ縁起論として、自己欺瞞の盲信と不誠実の典型例として、他山の石となるでしょう。
チベット仏教では、「二諦空性論」が圧倒的主流であるので、僧侶は「悪いパン種」を食べて信じて、腐敗迷妄の中にいます。
中沢 中 氏に、次のように問いただしました。
「諸法無我は熱力学の法則に反していないから真の命題だとするのか、熱力学の法則に反しているが、そんなのはオレサマは気にしないとして、真の命題だとするのか?」と。
彼は、返事ができず、根拠がないまま「諸法無我は偽であるなど妄想だ」と言うだけの一点張りでした。(上記の石飛女史掲示板参照)
チベット仏教の僧侶や学者が、従属変数のことやエントロピーについて理解できる日は来るでしょうか。
日本人の知性派人材が、チベット仏教の浄化と「立て替え・立て直し」に貢献しましょう。

(付録2)
エントロピーについて、頭の体操をしてみましょう。
コップに入る程度の小さな氷の塊が一つあったとします。
この氷一個に、「魔法がかけられて」「自発的仕事量」を無限に放射できるものと仮定しましょう。つまり、氷の冷却力がずっと無限無量に放射され続ける、と仮定します。
すると、熱湯の湯船にこの魔法の氷一個を入れても、溶けずに、逆に、湯船を凍らせることができるでしょう。そのまま放置すると、どんどん周囲を冷却して行き、やがてお風呂場は、この氷より高い温度のものが存在しなくなるでしょう。外部からの熱量の供給が大きければ、凍りつかないで済みますが、密室的な環境であれば、この氷一つで、その密室内は、凍りついてしまいます。もしも、こうした冷却力がずっと無限無量に放射し続ける氷が沢山あって、太陽が地球に降り注ぐ熱エネルギーよりも、冷却力の方が強ければ、地球は凍りついてしまいます。しかし、そういうことは、物理的に有り得ません。

(付録3)
私の愛するアニメ・ソングに、「No Buts!」というのがあります。
「異議なし」という意味でしょう。
歌詞には、
   ♪♪ そう いつだって、神は背(はい)で歌う
とあります。事象の背後で神が歌っている、という意味かもしれませんが、
この部分は、
   ♪♪ そう いつだって、神は背(背理法)で歌う
と解釈し直しましょう。
そうすれば、「今すぐ」に「現実に異議なし」と力強く述べて、
「現実を超越して行く道」を歩んで行けるようになります。

No Buts 
http://www.youtube.com/watch?v=I6koZNu1WaQ

セリフ付き動画  No Buts
http://www.youtube.com/watch?v=LcIfrYReiCs




このページ 2012年11月12日22時00分にWeb発表[Rev-0]
2012年11月13日12時30分に更新[Rev-1]
2012年11月16日20時30分に更新[Rev-2]
2012年11月18日22時30分に更新[Rev-3]
2012年11月23日23時30分に更新[Rev-4]
2012年11月25日13時30分に更新[Rev-5]
2012年11月30日22時30分に更新[Rev-6]

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以下は、他ページの紹介


梵我瞑想法十地次第New!

無料0,000円[税込]

かっての「真我瞑想法スートラ」をバージョン・アップさせたものです。ヴィヴェーカーナンダの世界宗教者会議での講演録が「ギャーナ・ヨーガ」として出版されていましたが、その後「アートマン」というタイトルに変更されました。
ジュニャーナ(ギャーナ)・ヨーガが結局、真我を瞑想するものであることを端的に示すためでしょう。
それを受けて、更に、「真我」と呼ぶよりも、「梵我」と呼ぶことを提唱します。
梵我を瞑想するための具体的な方法を十地(10のステージ)に分類して、わかりやすく説いて行きます。


空の階梯/三段階に深化する空の認識論

上座部仏教の「半端な空性」から始まり、
「大乗の空」の認識へと深化し、
最後には、「密教の空」に到ります。
三段階に深化する「空」の認識は、そのまま、人間清新の進化の道であり、自由から無我への、そして、大いなる秩序と力と幸福と平安への道筋になります。


ヴェーダンタ密教 A to Z

ヴェーダンタ密教について、縦横無尽に、徹底的に、解説します。
かつて、これほど、詳細に、ヴェーダンタ密教の真実が明らかに説かれたことはありません。
日本人が、世界一、ヴェーダンタ密教について、深く知る民族になる、という効果もあります。
それにより、インドのみならず、この思想をよく受容するならば、この思想に共感してそのように祈る日本人たちが増えるに連れて、日本人大聖者を降誕させる素地が醸成されるになります。将来が楽しみだと言えます。


実践/祈りと行為のバランス論

宗教の実践において、一番重要なのは、まさに、祈りと行為のバランスです。
これに尽きる、とも言えます。
大乗のスタンスにおいては、世俗でいかに、有意義に霊性修行と、世俗生活を両立させるかが、大問題になります。
そうした問題意識で、その解決を探って行きます。
模範は、すでに、あります。
キリスト教においても、ユダヤ教においても。
そうしたことを深く勘案しながら、美しいバランスをスムーズに維持して行くことを目指しましょう。


論点タルムード

宗教思想と実践面における「論点ごと」に、徹底的にその解答としての注釈(タルムード)を付して行きます。
ユダヤ教の思想の要綱をズバリ解説します。
顕教部と、密教部がありますので、その両者を見て行くことになります。


キリスト教思想要綱解説

ユダヤ教に何か欠陥があったのか?
キリスト教は、なぜユダヤ教と派違うのか?
小乗仏教と大乗仏教の差異と比較対象しながら、その本質的な再論について迫ります。


「<主の王国>召喚魔法」祈祷次第(この世で一番大切なこと)

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