特長その6

万教帰一思想


▼ 万教帰一思想 (不二一元論哲学の当然の帰結)


 
万教帰一思想とは、すべての、八百万(やおよろず)の宗教は、結局、唯一の根源超越神に帰一する、という考え方のことです。
 
≪密教の一大曼陀羅観≫については、次の「特徴の7」で述べますが、根源の第一原因から万物・万象が流出する、という霊的ヴィジョン−−−それが曼陀羅観であり、インドの不二一元(アドワイタ・アドヴァイタ)哲学であり、ウパニシャッド思想の中核思想です。

 もしも、宇宙人が存在し、宇宙人に宗教が有ったとして、それが真理を洞察したものであるならば、彼らの宗教は必ずや「根源の第一原因としての超越神」に帰一するような思想であることでしょう。何故なら、宇宙人ですら、我々と同一の根源から流失している生物だと見ることになるからです。 
 こうした、
「宇宙全体」までも視野に入れた「超越神への帰一」を想定するのが、万教帰一思想です。

≪ 相対界の諸々の多様性は、根源の単一性から流出したものである ≫

 とするならば、それをさかのぼれば、必ず、根源究極の単一性に帰一するはずです。
 こうした密教の一大曼陀羅観こそ宇宙の究極の真理であると、仮定して、話を進めましょう。

 そうなると、たとえ地球上に無数の宗教が有ったとしても、それらの各宗教が「本当の究極の真理」を把握してそれを教えているのならば、結局、「根源の第一原因への帰一」を教えているはずです。
 もしも、このことを教えていないのならば、
その宗教は「未だ究極真理を把握するには至っていない宗教」と位置付けられることになりましょう。

 ただし、万教帰一思想では、すべての多様性は、根源の単一性から流出していると観想しますから
、万教帰一思想を教えない宗教があったとしても、それを「間違っている」とか「悪魔の宗教だ」とは決めつけません。その中に含まれる「真理の萌芽」を尊重します。未熟なものも、成長すれば、やがて成熟し、レベル・アップし、完全に近づきます。
 その意味で、地上の諸宗教に対して「それらはどれも未熟な部分を抱えた宗教」として、慈悲深く、温かい目で眺めるスタンスこそが、帰一思想です。

 この地上には、末日聖徒イエス・キリスト教会のように、
「我々の教義は完全だ」と主張する教団もあります。しかし、その教義が本当に完全か否かは、厳しく審査されなければなりません。
 『般若心経完全マスター・バイブル』の中で指摘されている
−−−「人我見」という誤解が「その教会」には存在しないのか否か−−−についてなど、無知で高慢の美酒に酔って「自分たちは完全だ」と主張する人々は、深く検討すべきでしょう。

 万教帰一思想の信奉者は、こうした不完全な教団についても、温かい目で眺めて、別に敵対することなく、その教団がゆっくりゆっくり成熟への道を一歩一歩確実に歩んで行くことができるように、陰に陽にサポートして行きます。

 とはいえ、間違いがひどい教団や、
故意に虚偽を教えている教団などについては、厳しく叱責して行くことも重要であり、その意味で、真理のために闘うスタンスも、時と場合によって、取ることもある、とは言えます。


▼ 真の聖者は皆、万教帰一思想を説く

 「根源の第一原因」と内的に一体化することを達成した「聖者」は、当然のことながら、万教帰一思想を説くようになります。
 本当に「究極の真理」を求め求めて、その求道心を決して捨てずに修行し続ける修行者がいたならば、たとえ途中で回り道や蛇行を繰り返したとしても、大局的に見れば、正しいゴールの方向に進んでいるはずですし、この修行者の≪内的な純粋性≫は徐々に高まっていることでしょう。
 つまり、蛇行を繰り返したとしても、その
苦難が精錬の炉の役割を果たし、やがて「内なる金塊」が顕現してくることでしょう。
 
 その意味で言うと、
正しい修行をしっかりと積み重ねて行くのであれば…どの特定宗教であっても良いのです。
 これが、万教帰一思想の
「寛容で広大な」スタンスです。
 
 それゆえ、聖者は皆、特定宗教の枠組みを超えている、という意味で≪超宗教的≫であると言えます。
 
 しかし、聖者といえども、「無個性」ではありません。
 従って、
「得意なヨーガ」にしても、各聖者では違いがあります。音楽が得意な聖者もいれば、絵画が得意な聖者もいるでしょうし、哲学的な思索が得意な聖者もいるでしょう。
 愛の光がとりわけ強い聖者もいれば、理智の光がとりわけ強い聖者もいるでしょう。
 このような
聖者の「個性の相違」によって、同一の真理に立脚していたとしても、聖者の語る教えには、色合いに違いが出て来ます。
 このことが理解できたならば、諸聖者の教えを、混乱なしに、楽しみ、味わうことができるようになります。

 尤(もっと)も、バクタ、すなわち、バクティー・ヨーガという特定の師匠に対して限定的に、みずからの愛情と信仰を捧げて行くヨーガで修行するのが得意な修行者−−−−にとっては、多数の聖者について考えるのは、苦痛でもあり、混乱のタネにもなることでしょう。
 修行者によって、個人的能力の差として、
≪情報の受容能力(器)の大小の差≫ も有ります。
 その意味で、本当に心から、多数の聖者、諸仏の教えを、混乱なしに、苦痛なしに、楽しみ、味わうことができるのは、特定対象への礼拝を行わない 
≪叡智のヨーガの行者(=ジュニャーニ)だけである≫ と言えます。



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このページの最終更新日 2003/12/10

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