宗教真理アカデミー

メールマガジン013号(2006/3/26配信)

宗教団体の政治参加の是非について
〜〜「宗教と政治」兼務で人は有能たりうるか〜〜


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 【メルマガ第13号】 タイトル 宗教団体の政治参加の是非について
   〜〜〜(副題)宗教指導者が政治指導者も兼務して両面で有能たりうるか?


「実用的な人間たれ」シリーズの途中ですが、この論旨の文脈上、不可避の論点なので、番外篇として、「宗教団体の政治参加の是非」という論点について、メルマガ配信することにしました。
 言わんとする所の要旨としては、宗教団体の最高責任者(たとえば仏教の大僧正や阿闍梨などの僧侶や、バチカンのローマ法王など)が、一国の政治の最高責任を担って大統領職を兼務した場合、
「本当に実用的な政治家たることができるか?」ということです。
政治業務はやってもやっても「これで完全」ということがありません。膨大な諸問題を抱えるこの激務を「二足の草鞋(ワラジ)」なんかして、ちゃんとやれるのか、という視点で考えれば、自ずと正解が見えてくることでしょう。

(但し、バチカン市国については、独立国ですが1平方キロにも満たない領土であり、ほとんどが出家聖職者だけの国だと言え、営利産業はなく、博物館などで働く一般職員は、領土外のイタリア国からバチカン市国内に毎日通勤している状況であり、通常の国家とは異なる「特殊国家」です。このように、通常の国家における市井の庶民生活や経済活動がありませんから、「法皇の政治業務」も特別なものに限定されるので、政治との兼務も自ずと可能な範囲となるため、本メルマガの論旨からは除外します。)
 ⇒参考 「ウィキペディア」のバチカン市国、解説。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%81%E3%82%AB%E3%83%B3


▼基礎知識としての「トマス・ジェファーソン」情報
シュリ・チンモイの言葉を信じるならば、彼の何回か前の前世はトマス・ジェファーソンであり、神の道具として、地球の政府、特にアメリカ政府を「神意」に基づいて「形作る」というミッションを帯びて生まれて来て、その義務を全うした、ということです。
このように重要なキーマンである「トマス・ジェファーソン」−−−彼はヴァージニア州知事時代に、世界で初めて「政教分離原則の立法化」に踏み切った功績があります(1786年)。
ゆえに、「政教分離原則」の事を語る時には、まず、トマス・ジェファーソンの事について押さえておく必要があると言えます。

トマス・ジェファーソンは、アメリカ合衆国第3代目の大統領です。
それゆえ、アメリカでは、『トマス・ジェファーソン』という英語の分厚い書物もありますし、ジェファーソンについての英語情報は詳しいものが沢山あります。しかし、日本では、ジェファーソンについて、ほとんど知られることがなく、インターネットが普及する以前は、国会図書館でも、五冊程度の書籍しかない状況でした。
しかし、今は、ウェブで、豊富な英語情報に触れられますし、日本語情報でも、検索してみると、良いものがありました。ワン・クリックで、アメリカ人がアメリカ人のために紹介する「ジェファーソン人物紹介」の日本語訳を読むことができます。↓
http://www.eigozai.com/LL/DAS/JEFFERSON_J.htm

上記のジェファーソン情報は日本語サイトの中では出色のものです。そして、これを提供している「エイゴザイ(英語教材)」というホームページも知ることができました。驚きました。超お勧めです。
「米国の英語放送」を英語学習教材として無料提供してくれているサイトです。
http://www.eigozai.com/index.htm
(説明の言葉−−VOA Special Englishは基本使用語彙1,500語で、やさしい文構造の英語をゆっくりと発話する英語放送です。VOA放送 がWeb上で公に供している英語音声とスクリプトを 大いに活
用して 英語を「聴きまくって」「読みまくって」ください。  あなたの英語聴解力・読解力は開眼するでしょう)
このサイトを活用すれば、駅前留学しなくたって大丈夫かも?!

上記のジェファーソン紹介ページの冒頭には、「トマス・ジェファーソンほど、アメリカ合衆国の政治機構に影響を与えた人はおそらくいないでしょう。」とあります。
彼はアメリカの「独立宣言」を主に一人で起草しましたが、ここには「万物の創造主」という言葉も入っていて、信仰の深さがうかがわれます。そして、ジョン・ロックの哲学に影響されたといわれますが、「政教分離原則」を法の世界で実現して、「各人の信仰の自由」をも保障する体制を固めました。
ジェファーソンは、特定宗教の信徒というわけではありませんでした。
当時の彼は、特定宗派に属しない有神論者で、独立宣言には「人間の無限の理性を信じる」という言葉を入れていたため、この点は妥当ではないと、議会で削除された経緯もある、法律畑の、「人間理性の信奉者」と言えます。彼は、「人間の無限の理性は、ただ啓発されていないだけなので、教育によって、いくらでも啓発することができる」と考えていたようです。

彼は、『ジェファーソン聖書』という聖書を編纂したことでも知られます。
『ジェファーソン聖書』とは、新約聖書の中の記述で、イエズスなどが「神の奇蹟」としてオカルト的な力を発揮する場面があるのですが、「理性信奉者の彼」としては、そのようなオカルト的な力を信じるのではなく、聖書の中の、「道徳的な教えの面」をもっと見てほしい、と願っていたため、新約聖書の中のオカルト的な場面については全部カットして編集しなおした聖書として刊行したものです。
この点一つとっても、ジェファーソンの、キリスト教に対する姿勢の一端がうかがわれます。

また、ジェファーソンは今も存続している米国の「民主党」の創設者としても知られています。
彼は政党を創りましたが、自分の政党が政権を握った時に、他の宗教を弾圧するようなことがあってはならない、と考えていました。その意味で、「各人の信仰の自由」を守るという、彼の人権保護意識は当時としては実に先進的なものでした。
ジェファーソンは、次のように考えました。
「特定宗派が一国の政権を採った場合、その特定宗派の利益のために政治が行われ、その結果、その他の宗派が著しい不利益をこうむることは必定(ヒツジョウ)だ」と。
ゆえに、政治の場には宗教を持ち込まないという「政教分離の原則」の確立に尽力しました。
この趣旨は、特定宗派が他宗派を排斥したり迫害したりすることのないように、民主主義的な機会平等という「場」を確保するためのものでした。

(一例に、アフガニスタンではイスラム過激派タリバンが政権をとったからでしょうか? 国民がイスラム教からキリスト教に改宗することは「死刑」という規定があります。それゆえ、現在、一人が死刑にされそうで、ライス国務長官が「善処を求める」というコメントを出して話題になりました。恐るべし、イスラム教)

ただ、一口に「政教分離」と言っても、政教分離原則には、法解釈的には、厳格分離説と制限分離説などの解釈立場の相違がみられます。
なぜ、それが問題になるのか、と言うと、そもそも、宗教と政治を完全に分離するのは、人間の本性上、不可能なことだからです。
「本性上、不可能」と申しましたが、その根拠は、そもそも、政治は人間の営みであり、人間は宗教(神)とは切ってもきれない関係にあるからです。
ということは、本来分離できないものをわざわざ「特定の理由で」分離するわけです。
つまり、ジョン・ロックの『寛容書簡』の影響を受けたとも言われるジェファーソンの「政教分離原則」は、特定宗派一つによる政治的横暴を阻止し、各宗派間の無益な抗争を回避して、「各宗派に平等な国家というスタンス」を取ることで、「国家の政治的安定」をもたらす−−−このような「特定目的のための安全装置」であり、一つの「方便的なロジック」である ということを意味します。
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041201

この事から、次のようにも言えます。すなわち−−−−「政治権力を握る特定宗派」が出た場合、その宗派のレベルが低ければ、他宗派に対するひどい横暴になるでしょうが、その宗派が極めて高度な叡智を持ち、「超宗教のスタンス」にまで達しており、他宗派をもすべて「認容・尊重する」「叡智ある寛容」のレベルであれば、それほどの横暴はおきない、ということは言えます。
(ただし、レベルが高い場合にも、エゴゼロの政党が有り得るでしょうか?)
その意味で、地上世界の宗教が低いレベルであるほど、国家運営上、政教分離原則は安定と平等のために重要であるということになります。(安全装置の必要性)

−−(ジェファーソン情報の追記)−−
ジェファーソンには6人の子供がいました。うち4人が夭折。2人が成人。そして、その妻も早く逝去。晩年は、「モンティチェリの聖者」と言われたということです。しかし、近年、晩年に、女中であった黒人女性との間に子供をもうけていたのではないか? というゴシップ話があり、子孫との間で、DNA鑑定問題云々という話もあるとか、ないとか。ジェファーソンが黒人奴隷制度に反対の人権論者であったため、黒人の女中女性にも対等に接して情愛を抱いたのでは?  という推測がなされているところです。
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-77.html

★★あおみの後日の追加情報はこちら★★

また、検索すると、池田大作氏がジェファーソンについて語っています。
http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/jyefason.htm
創価学会の場合、秘書などが情報収集してくれるでしょうから、池田名誉会長のもとには膨大な情報が寄せられることでしょう。私も国会図書館で昔、ジェファーソン情報を調べた経験があるので、池田氏の語り口を見ると、そうした収集情報を別段加工することもなくそのまま語っているように感じます。


▼チベット亡命政府を支持しない理由

上記のような「政教分離原則」についてしっかり押さえて戴いたならば、次に移ります。
宗教の歴史を見ると−−−釈尊仏陀は釈迦族の王子であり、望めば国王として政治を司ることができたにもかかわらず、あえて政治から遠ざかり宗教への専念の道を選択しました。イエズス・キリストも、ユダヤの王として担がれる勢力に乗れば国王に就任することも可能だったかもしれませんがそれを拒否して宗教改革者としての道を選択しました。

この二人の大聖者の行動をどう解釈しますか?
ヴィヴェーカーナンダは、講演録『カルマ・ヨーガ』の中で−−−「ブッダは王位を捨てて、彼の地位を放棄しました。それは真の放棄でした。しかし、捨てるべき何物も持たない乞食の場合には放棄の問題は起こりようがありません。」(34ページ)−−−と指摘しています。実にロジカルですね。

釈尊仏陀にしろイエズス・キリストにしろ、政治権力をふるうことができる「立場(ポジション)」を獲得していながら、「敢えてそれを放棄」して宗教に専念・専心したわけです。ここに、一つのメッセージがあります。
創価学会のように、仏教の大乗精神からして世の中を積極的に良くするための政治参加は必要不可欠という考え方は、世の中への善行の積極的働きかけという意味では有意義でしょうけれども、それが、「党派のエゴ」になる時、多くの弊害を生み出します。
たとえば、近年では「地域振興券」問題が世間を賑わせました。公明党発案の地域振興券は経済学の見地からはマネーサプライを増やす一つのアイデアであり、方向性は正しいものでしたし、実際に政策として実現しましたが、多くの問題点をはらみ、総じて不評で、今後は二度と行われない見通しが強いです。
(私が総理ならば、平等の見地から、国民全員の貯金通帳の残高に、プラス50万円の数字の上乗せをする、という政策をするでしょう。これならば、大きな問題はおきずに、マネーサプライを増やすことができると思いますが・・。)
地域振興券では、特に、創価学会への有利な発券が話題になりました。そういうこともあった、と私は言いませんが、そのように世間で言われても、ある程度仕方がないことでしょう。

また、公明党が大臣ポストを厚生労働大臣職から国土交通省職を希望したということも、一部では問題視されました。というのも、国民の個人情報や、公共事業に関する情報が創価学会に全部流れてしまうのではないか?という懸念が指摘されているからです。
実際、創価学会の元幹部によるヤフーの個人情報漏洩事件もありました。
創価学会批判の急先鋒でもあった新潟の白川義彦(元)議員は、「交通事故もみ消し事件」をめぐり、同議員らは「事件は自分を陥れるための謀略であり、その謀略を仕掛けたのは創価学会」とする抗議をしたそうですが、真実はどうであれ、とにかく、彼は落選しました。
http://www.sokagakkai.or.jp/SITE1PUB/sun/13/news/report224.html?t=1118881605809
http://www.asyura2.com/sora/bd5/msg/798.html

とまれ、国家の政治権力の一部または全部を特定宗派の教団が掌握し始めると、それだけで大きな弊害が各所に顕在化して来るということは、冷静に見て、言えるでしょう。
そのことは、善行を行う目的で政治の世界に手を染めたけれども、政治の世界という特殊性の故に、当所の「善行目的」という大義名分は変質して、結局、特定団体のエゴによる利益追求とそれによる他宗派への不利益、つまり、大局的には「悪行」に手を染めるということにつながりかねない、という危険が、政治の世界には沢山ある、ということを意味します。

また、「二兎を追うもの、一兎も得ず」の格言通り、政治と宗教の二兎を追うと、両方がなおざりになってしまうということがあります。
チベットがそうです。ダライラマという、特定宗派の長が大統領になるという「祭政一致体制」(=政教分離の反対の体制)にあっては、ダライラマは宗教の修行に専念することができないため、宗教面で神の御心を伝える道具になりきれません。その上、宗教的な瞑想をやろうとすれば、山積する政治問題の解決が先送りになってしまいます。
また、たとえば、「時輪タントラの大規模な宗教イベントを行なう」ということになれば、政治の仕事はなおざりになってしまうことでしょう。
そんなわけで、チベットでは、ヴィヴィットな政治がなくなって死んでしまい、長い間の「政治不在」状態の中で、「正しい政治が行われない罪」が増大して行き、亡国的な事態を招いてしまった、という評価も可能です。
(勿論、中国による侵略を正当化するものではありませんが、仏教諸聖典には、国家的罪悪が高じると他国からの侵略を受ける、という「法」が記されており、日蓮がこの点を重視して『立正安国論』を執権政府に提出したことは日本では有名な話です。)

チベットにおいては、ダライ・ラマなどの「生き仏(=活仏)」は人間を超えた全智のスーパーマンと信仰されているのかもしれません。全智のスーパーマンなら、右手で宗教活動、左手で政治活動をして両方完璧、という離れ業も可能だ、という信仰かもしれません。
しかし、実際は、釈尊仏陀にしろイエズス・キリストにしろ、「人の子」としての限定の中で活動しており、それゆえに、二足の草鞋は履きませんでした。
その意味で、チベットのダライ・ラマは、まず、「いくら仕事をこなすにも自ずと限界がある」という意味での「人間宣言」をすることが必要なのかもしれません。
もしも、人々が、チベット亡命政府を支持して、その流れが大きくなり、そのまま、中国からチベットが返還されて、ダライ・ラマがチベットのポタラ宮殿で再び政治を行うという体制が復活したと仮定しましょう。
しかし、この時、同じアヤマチ(政治不在)が繰り返され、国民は塗炭の苦しみをなめることになるでしょう。
「祭政一致体制」では駄目なのです。この返上こそが第一の段階なのです。
いま流行(はや)りの言葉で言えば、「選択と集中」ということになります。

個人レベルでも然りです。
たとえば、創価学会の会員を見ると、「公明党万歳政治運動」に熱心な学会員ほど、宗教それ自体の勉強をする時間がなく、瞑想の時間もなく、その人の人格や霊的に疑問があるというケースが見受けられます。
政治運動自体、それが善行ならば、それなりの布施の功徳積みにもなりましょうが、「政治運動による布施」というのは、それ単体では「ちゃんとやる」ことがむずかしいので、功徳も少ないと言うできでしょう。
但し、大乗的には、そうやって一歩一歩「薄い功徳」を積んでようやくレベルをあげて行く人も沢山いると言えますので、そういう道を用意してあげるのも、ある意味大切という面はあるでしょう。

それゆえ、結局は、「選択と集中」のバランス問題という事になります。
低いレベルの布施・功徳に一生従事して終始する者もいれば、どんどん高度な布施と精進行へと歩を進めて行く者もいる。
宗教の比重が高まれば、結果、政治活動への比重は少なくなる。
こうした個人のバランスは、その人の魂(のレベル)が要求するものです。
 
 
▼選択と集中のバランス

さて、創価学会がモデルにして真似たと指摘される米国のモルモン教でも、十二使徒の一人がユタ州の議員になる、ならないで昔、議論があったそうですが、結局、議員になることで承認され、それ以降、モルモン教では、政治参加が認容されています。
(−−しかし、私はおそらくイエズス・キリストが生きていれば、十二使徒の一人に、州議員や国会議員になることを認めることはなかったと思います。そんな暇があったら、宗教活動に専心せよ、と叱ったことでしょう。)

(このことは、パラレルな話として、「禅僧が医者になる」ことの是非にも通じます。これについては、心経マスターバイブル後篇「空−7−116・117」で触れている通りです。)

おそらく、創価学会でもモルモン教のこの考えが手本になっているものと思われます。実際、モルモン教の大管長であったエズラ・タフト・ベンソン氏は、米国の農務長官でもあったということです。
また、米国大統領就任式か何かで、大規模の聖歌隊が活躍しますが、これはモルモン教の「モルモン・タバナクル・クワイアー」であるということで、特定宗派の聖歌隊が国家行事の一端を担っているという現象が見られます。その意味で、米国では政教分離原則が厳格ではなく「緩やか」に解釈されているということです。
この事は、米国がそもそも発足当時からアングロサクソン系プロテスタント・カルチャーに基づくキリスト教国家であることと無縁ではありません。


---そもそも「政教分離原則」があるというのは、黙っていると、人間の本性として、「政治と特定宗教はくっついてしまう」という傾向が強くあるからだと言えます。
そこで、厳格分離か、緩やかな分離か、という問題になりますが、「厳格分離」をすると、国家は無宗教的・共産主義的な方向に傾き、色々と支障が出てきます。
そこで、「厳格分離」を諦めて、「緩やかな分離」をどの程度許容するか、という問題になります。
各国民の見識が問われるところでしょう。


もしも、宗教団体が一国の政治を取り仕切りたいと願望するのならば、
バチカン市国方式が宜しいかと思います。どこかの土地で、「独立宣言」をすると宜しいでしょう。
それで、「祭政一致体制で、ちゃんと運営できるのか?」、その実力をしっかり内外にアピールすることが大切だと思います。
バチカン市国のように、末永く永続する国家となることができれば、おのずと人々の尊敬も集められるでしょう。しかし、チベットのように没落して行けば、その祭政一致体制や教えの不備は嘲笑の対象になるでしょう。
イスラム世界のように、教条解釈の硬直性から、先進国の進歩性から遅れが出た場合、どのようにそれを修正して行くのか、なども注目して行く必要があります。


−−−以上、宗教団体に関する政治参加について論じました。
結局、この問題は、「選択と集中」論の延長線上にある「宗教的な放棄」に深くかかわる問題だということを認識して戴ければ宜しいかと思います。

それでは長くなりましたので、この辺に致します。
メルマガにおける超行為論は、まだまだ続きます。

それでは、皆様の上に主の恵みが豊かに注がれますように。
また、豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)の如く、主の恵みを豊かに受け取ることができる器となることができますように。そして、大日の恵みを受けて、豊饒なる実りを成して、それに喜び感謝しつつ、人格とカルマを成熟させて行くことができますように。 


碧海龍雨







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