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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第2章 老荘的「無為/有為」が瞑想には必要New!

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第二章 老荘的「無為/有為」が瞑想には必要 

                 
(真−2−1) 
 初めに「無為」が在った。総ての物事の初めに「無為」が在った。−−−

 「無為」とは〔※註1〕、人智を遙かに越えた真理の働きです。
「無為」とは、人間の作為を遙かに越えた壮大無比なる営為です。
「無為」とは、圧倒的に荘厳なる光輝を伴った、そして無限・無量のエネルギ−を伴った営為です。
 この「無為」を知ること−−−ここに宗教の奥義があります。

 この「荘厳なる無為」について学習し、これを認識し、これに同調して行くこと
 −−−ここに「宗教の本道」があります。

なお、ここで、「格義仏教」との差異について、述べておきます。
「格義仏教」とは、仏教が中国に伝来したときに、既にある「老荘思想によって」仏教言説を理解しようとした動きのことを言います。
両者は、全く同じ思想ではありませんから、これは無理があります。特に、「空の論理」は仏教独自のの瞑想法ですから、老荘思想にはないものです。
本来の「挌義」という手偏の「挌」には、「ぶつける」という意味があります。ゆえに、「挌義仏教」とは、仏教言説に、老荘言説をぶつけて解釈したもの、と理解すれば良いでしょう。
そういう意味では、真の仏教言説を探って理解しようとする人々からすると、挌義仏教の態度は、邪道ということになります。

ところが、物事はそんなに単純ではないのです。
老子が次のように述べたこと、すなわち、
「道は常に無為にして、而も為さざるは無し。侯王若もし能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ずから化せんとする。」(老子・37章)

これは、「無為の完全無欠性」の指摘です。
そして、龍樹においても、「空の完全無欠性」が説かれるのです。

その意味で、到る道は異なれども、「完全無欠性」というゴールは同じ、とも言えるのです。
無論、両者の「完全無欠性」は異なるゴールだと解釈する人々もこれまでは、多々いたでしょうけれども、「本物の縁起の法」を知った人であるならば、両者が異なると考える人はいないことでしょう。

このように、「本物の縁起の法」自体が、「老荘の無為と、龍樹の空」を指し示しています。


(真−2−2)
〔※註1−−−「無為」概念を正しく理解しましょう。これは、宗教における重大ポイントです。
「大辞泉」「広辞苑」両者の説明を見較べてみましょう。
 【無為】(日本では三通りの意味で用いられている)
『大辞泉』 (1)何もしないでぶらぶらしていること。また、そのさま。
      (2)自然のままに任せて、手を加えないこと。作為の無いこと。また、そのさま。 
      (3)仏語。人為的に作られたものでないもの。因果の関係を離れ、生滅変化しない永遠絶対の真実。真理。
『広辞苑』  (1)自然のままで作為することのないこと
       (2)(仏教用語で)「因縁によって造作されないもの。
            生住異滅の四相の転変がないこと。特に仏法者の生活。仏門。
               ⇒「生住異滅の四相」については、「真−2−8」参照。
       (3)何もしないでぶらぶらしていること。

   
(真−2−3)
 上記のように辞書を見ると「無為」には通常、三つの意味があることがわかります。
(ア)転変のない永遠絶対の存在、の意味。
(イ)何もしないでぶらぶらしている意味。
(ウ)人為的作為が無い、という意味。


(ア)の用法は、仏教用語における「無為」です。仏教の「第一義諦=勝義諦」(「真−18−1」以下参照)の意味です。
わかりやすく言うならば、「有為転変」の反対語です。「有為転変しないもの」ということになります。次章(真−4−1)にて、「五位七十五法」を解説しますが、部派仏教では、有為転変しないものを「無為」として、その中の一つに「涅槃」を置きます。仏教のゴールがここにあるわけです。

しかし、「有為転変しないもの」って何?
テーラワーダ上座部仏教のように、神を否定する立場で、涅槃の無為をイメージすると、それは、「必ず的外れ」になるため、瞑想が進まず、一生、低い瞑想に留まってしまう危険を持ちます。

次に、(イ)の用法は、怠惰な様子を表す「悪い意味」であり、実に俗的な用法です。
日本人は同じ「無為」という言葉に対して、「究極のゴールと怠惰堕落」という「正反対の両極端」の意味を与えているのです。ご存じでしたか?


(ウ)の用法は、アとイの両極端の中間(中道)に位置し、「人間の人為的作為だけを除外した自然法爾(じねんほうに)」即ち「純然たる神の営み」を意味します。つまり、有体(ありてい)に言うと、「動態の神」を指す言葉です。
 よって、(ウ)の意味に意識集中することが、<瞑想を進展させる上で、最も健全>であると言えます。

    
(真−2−4)
仏教的には、「仏教用語の無為」は重要だと思う人もいるでしょう。しかし、そもそも、あなたは、全然く知らない「静態の無為法」を正しくイメ−ジできますか???
 勿論、そんな事、できるはずがありません。それでも無理やりイメージしようとすれば、
<自分勝手な想像と推測>が混入して、悪魔の罠に落ちてしまうのです。

 
 たとえば、こんな具合に、勝手な推測をしてしまうのです。
 「無為(法)」は〜⇒⇒「因縁を超越した存在」イコ−ル〜⇒⇒「原因と結果の連鎖を持たない存在」イコ−ル〜⇒⇒「時間の流れを超越した存在」イコ−ル⇒⇒「時間の流れが無い状態の存在」イコ−ル⇒⇒「時間そのものが無く、変化・転変が一切無い状態の存在」イコ−ル⇒⇒「活動も無く、作用も無く、変化も無く、如何なる営為も無い状態」イコ−ル⇒⇒「完全停止の状態(静態)」に違いない、と。

 こうして、「無為」に対して−−−<如何なる営為も存在しない、完全停止状態のフリーズした絶対存在>−−−というイメ−ジを勝手に作り上げてしまうのです。そして、いつの間にか 「この状態こそ仏教の理想であり、ゴ−ルであり、彼岸である」 という「思い込み=大誤解」を抱いてしまうのです。
(ちなみに、「ブッダ論理学」という奇天烈論理学の創案者の石飛女史は、アンデルセン原作の「氷の女王」の例を出して、氷の女王によって「心をフリーズされた少年」を掲示板の返答において、出しているぐらいです。)

 このように、「何か、フリーズしたもの」として「涅槃」概念も誤解してしまうのです。
副次的要因としては、瞑想者がサマーディに入ると、身体的には、フリーズしたようになります。そこから、「滅尽定」の涅槃は、如何なる営為も存在しない絶対的な完全停止状態に入ることである」というような誤解を生じさせるであろうことも指摘でます。
 こうなると−−−<怠惰と惰眠に等しい「偽りの瞑想状態」を涅槃と勘違いする!>−−−という、世にも恐ろしい事態を招いてしまうことになります。
(本書では、これを「タマス的・荒頽的瞑想」と呼んでいます。詳細は「真−21−15」以下、「真−22−2」以下参照) 
「タマス的・荒頽的瞑想」に陥ると、瞑想は一向に進展しません。
よくよく注意することが必要です。


(真−2−5)
 霊界には、こうした勘違い(自己欺瞞)を犯したまま、勝手に「涅槃に入った」と思い込んで「いつわりのご満悦状態」という「偽りの瞑想」の中に留まり続ける者たちが沢山存在します。
彼らは、高い霊界に進み行く「健全な成長」がストップしてしまった者たちです。否、寧(むし)ろ、徐々に退化して下層界へと沈んで行くのです。ご満悦ですから、他の者の意見に耳を貸さずに拒絶するので、この状態は、自分で自分の「勘違い」に気付くまで延々と続くことになります。
 現世においても、毎日五時間以上も坐禅瞑想しているのに、一向に霊的進歩が見られない禅僧や修行者がいたとしたならば、この人たちは、「完全停止のイメ−ジの泥沼」に落ちている可能性が大きいので、速やかに、そして謙虚に自己点検すべきです。
 「無為」及び「涅槃」について、こうした予断(=勝手な決め込み)を抱いて修行するならば、その者は決して真の悟りに到達することはできません。

   
(真−2−6)
 以上のような理由があるからこそ、瞑想する上においては、「無為」を(ウ)の用法に意識集中して行くべきです。
 老荘思想の「無為」と、完全に軌を同じくする用法です。

 尚、先に挙げた「広辞苑」の「無為」の項の解説にあった
 「仏教における生住異滅の四相」  の内容について、少々補足しておきましょう。
 「生住異滅の四相」とは−−−
(@)「生」即ち「物質的な生起(誕生)」が有り、
(A)「住」即ち「生起したものがその状態を維持している期間」が有って、
(B)「異」即ち「生起したものが徐々に変化・衰微して以前とは異なる状態」になり、
(C)「滅」即ち「遂には消滅・絶滅してしまう」
−−−以上の四相を指します。
物質的な生起と消滅、その転変の経緯を四段階に分類したものです。「変化の様相」であり、「停止」とは異なる状態です。

 −−−以上で、「無為」についての「註」を閉じます。
  「真−2−2」〜「真−2−6」までが注です 〕〕〕
   


 (真−2−7)
以下、老荘的「無為」を瞑想してみましょう。
太陽は「無為」の下(もと)、核融合反応を起こして連続的爆発を続け、膨大な光熱エネルギ−を放出し続けています。
 地球も「無為」の下で自転しています。その「無為」なる地球の自転によって、一日の昼と夜の区別が作り出され、また、「無為」なる地球の公転によって、春夏秋冬の区別が作り出されています。
 地球は、「無為」による絶妙のバランスによって、太陽との間に、奇跡的な丁度良い距離を保っています。今より近ければ地球は高熱の惑星になってしまい、人類の住める環境ではなくなるでしょう。また、今よりも遠ければ、寒すぎる氷の惑星になってしまい、やはり人類は住めなくなることでしょう。
 地球は、偉大なる「無為」の働きの下(もと)で、生存と活動に適した「適温」を保っているのです。

 また、「無為」の下、月は地球の周りを公転し、それによって、地球上の潮の満ち引きを演出し、延(ひ)いては、女性の生理にまで影響を及ぼしています。
 また、「無為」の重力によって、地球のマグマは高熱化しており、その地熱が温泉を作り出しています。そればかりか、「無為」の力によって、地球は時に応じて地殻変動を起こし、マグマが噴出し、山が隆起し、谷が作られ、川ができ、水が流れるようになります。

 また、「無為」の太陽の恵みによって、地球の総ての生物は、活動に必要な様々なエネルギ−の供給を受けています。植物は「無為」なる太陽光を受け、「無為」に光合成を行い「無為」に栄養素を製造し、「無為」に酸素をも製造して放出しています。
 こうして、「無為」に空気中に放出された酸素を、陸上の動物は口や皮膚から吸い込んで、肺を通して血液中に酸素を送り込み、新鮮な酸素を体中に循環させ、そうして「無為」に、身体の細胞の隅々にまで酸素を供給し、自分の体を維持しながら、活動しています。
 実に、生物は“自分の意志”というよりも 「無為」の働き に支えられて、細胞の新陳代謝を繰り返し、肉体を維持しています。
 「無為」の働きで、生物の受精卵は分裂を繰り返し、プログラムされた遺伝情報通りの形態へと分化して行きます。そして、生物の種が存続する時は、その遺伝情報が世代を経るごとに 「無為」の力で、多少の変化と分化が起こり、活動形態の多様性を更に増やして行きます。

 
(真−2−8)
 今挙げた「無為」の例は、ほんの大海の一滴です。否、一滴未満です。
 「荘厳なる無為」の働きは、余りにも壮大無比にして無量であり、想像を絶する規模のものです。
 「荘厳なる無為」の無限無量の営為が、今現在、全宇宙で“同時進行”しているのです!  
 この壮観さ、荘厳さ、圧倒的な営為の力と多様性は、到底、人智の及ぶ処ではありません。
 このように−−−
<「無為」とは、人間の想像を遙かに超えた圧倒的な真理の働き>−−−です。
 「無為」とは、人間の卑小なる「作為/不作為」を遙かに超えた営為です。
 「無為」とは、四六時中、小川のせせらぎが止まらないように、絶え間無く宇宙全土で同時進行形で展開され続けている「神の営為」であり、「神の呼吸」であり、「神の意識作用」です。

 
(真−2−9)
 従って、この「荘厳なる無為」を知ることが、神(仏)を知ることであり、「悟る」ことです。
 ですから、「神を知る=大悟する」には、この「荘厳なる無為」の流れと共に走り、この動きと一体化しなければなりません。
 故に、僅かの停滞もあってはならないのです。停滞は「流れ」を妨げる要素でしかないからです。
 斯(かく)の如く認識すると、「有為」の正しい定義が、自ずと立ち現れて来ます。
 即ち、
 「有為」とは、「荘厳なる無為」の流れを妨げる要素、です。
 「有為」とは、「荘厳なる無為」の流れに逆行する生物の自我の作為と不作為です。
 「有為」とは、自我が無知・無明状態の時に生産して止まない−−−<「無為」に逆行する自我の営為>−−−です。

                                  
(真−2−10)
 しかし、ここで誤解してはいけません。「自我の営為の全部」が「有為」なのではありません。飽く迄も、「無為」の流れに「逆行する」自我の流れだけが「有為」と称されるべきです。
 総(すべ)ての「人為」が「有為」なのではありません。飽く迄も「無為」に違背する「方向性=逆行性」を持った「作為・不作為」だけを「有為」と呼ばれるべきです。
 また、自我意識の総(すべ)てが「有為」なのでもありません。飽く迄も「無為」の流れに離反・逆行する自我意識だけを「有為」と呼ばれるべきです。

 老荘的な「無為/有為」−−−この二分法の中に、全宗教の奥義が隠されています。

 この二分法について「理解」を深め行くならば、必ず「正覚」「大悟」に到達することでしょう。


(真−2−11)
 仏教の「無為/有為」の二分法〔※註2〕−−−は、「有為転変」現象において、「荘厳なる無為」のハタラキが見えるようになってから、これを理解するのであれば、誤解に陥ることはないでしょう。
 

〔※註2−−−「有為」の意味を二つの辞書で見較べてみましょう。
 【有為】の項
   『大辞泉』 仏語。因縁によって起こる現象。生滅する現象世界の一切の事物。
   『広辞苑』 仏語。さまざまな因縁によって生じた現象、また、その存在。
              絶えず生滅して無常なことを特色とする。有為転変。

 「無為」の反対語であれば、無為に3つの意味があったので、有為も3つの意味があるのかと思いきや、そうではなく、日本では、老荘思想の「有為」の意味はこの二つの辞書には採用されていません! 

しかし、「老荘の無為」が瞑想上、極めて重要であるのに比例して、「老荘の有為」もまた、重要不可欠の概念として、日本でも、辞書に載るようなポピュラーなものにして行かねばなりません。
 もしも、仏教の「無為」を何かフリーズしたもののようにイメージするならば、その人は決して高い瞑想に入ることができないでしょう。
 反対に、老荘の「無為/有為」二分法に従って、「無為」を瞑想し、「有為」からの脱却を渇望するならば、その人は速やかに正しい瞑想に入って行くことができるでしょう。
 まことに、老荘の「無為/有為」二分法の中にこそ、全宗教の奥義が潜んでいます。
 「梵我瞑想法十地次第」は、全編、実にこの「二分法の内実」を解き明かすことに終始するだけの書物とさえ、いえます。
 それほど、この「二分法」は奥深いものなのです。
 −−−以上で、「有為」についての註を閉じます。//〕〕
 

(真−2−12)
 試みに、老荘の「無為/有為」二分法に基づいて、「荘厳なる無為」と「人間の有為」とを比較検討してみましょう。
 「荘厳なる無為」は、全宇宙的同時進行の壮大な営為です。
 そして、総ての人間は、「荘厳なる無為」という大海に取り囲まれて、その中で誕生し、生活し、死を迎え、種を存続させています。
 「荘厳なる無為」の働きがなければ、人間は意識を持つこともできないし、思考することもできないし、生きていることもできない。
 「人間の有為」は「荘厳なる無為」の活動に下支えされているからこそ、その上に乗っかって、「我がもの顔に」活動することを得ている、癌細胞のような「営み」に過ぎないのです。
    
 人間は、「荘厳なる無為」という「大海」を泳ぐプランクトンの如き存在に過ぎません。
 壮大なる「無為」の営みに較べれば、「人間の有為」は余りに僅少なものである。地球全土の総ての人間が、自分たちの「有為」の力を全部結集しても、宇宙全土の壮大なる「無為」の営みを破壊することも、ゼロから創り出すこともできはしません。
 「荘厳なる無為」は、余りに壮大で、余りに圧倒的で、人智を遙かに上回っています。
 一方、「有為」は、余りに微小で、余りに愚劣で、余りに取るに足りないものです。

 西遊記には、「釈尊の掌(て)の上の孫悟空」の譬えがあります。しかし、「荘厳なる無為」と「人間の有為」との差は、この譬えの比ではありません。全宇宙の「無為」の壮大無比な働きは、余りにも壮大で圧倒的であり、「有為」の力は余りにも僅少微細なものです。
 両者の力の格差がどれ位大きなものか、骨の髄まで能々(よくよく)感じ取ることこそが、仏教の「正見・正思惟」のための重要な鍵です。
 もしも、人間が「有為」の力で「荘厳なる無為」に闘いを挑むならば、それは太陽に闘いを挑む「一個のばい菌」の如きものと言うしかないでしょう。〔※註3〕

 
(真−2−13)
〔※註3−−−我欲が肥大して「無為」の偉大さが全く見えない、無明の中に居る人は、愚かにも「荘厳なる無為」に戦いを挑んでしまいます。こうした「神の御意志=神の流れ(法)に逆らう者」を「修羅道に生きる者」と言います。ただし、永遠に「修羅道」に生き続けることはできません。やがて、天罰の苦しみ故に、自分の無謀な愚昧振りが骨身に滲み、懲り懲りする時がやって来ることでしょう。
 では、「いつその時がやって来て、軌道修正するのか??」。
 これは結局、「無為」の流れに反している時の「逆行の感覚」が鋭敏か否か、の問題と言えます。
 これについては、仏教に−−−<四馬の譬え>−−−が有ります。御者の鞭と馬の関係に見立てたもので、鞭の影を見ただけでぞっとして御者の意に従うのは感覚鋭敏な「一番賢い馬」です。
「二番目の馬」は鞭が自分の体毛に触れた時に驚愕して御者の意に従います。
「三番目の馬」は鞭が自分の肉に触れた時に驚愕して御者の意に従います。
「四番目の最も鈍く鈍感な馬」は鞭が自分の骨にまで食い込むほどに打ち下ろされて初めて苦痛に身を捩って我に返り、やっとのことで御者の意に従います。
四馬の比喩
http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/133shouji.html


 この譬えで分かる通り、霊的に愚鈍・鈍感・粗雑で下根の者ほど「恐れを知らず」、よほどの酷(ひど)い目に遭(あ)わないと分からない
(他に「ラクダは血を流しながらサボテンを食べて懲りない」という譬えも有ります)。
これに較べて、聡明で感性鋭敏の上根者は、僅かな事からも事の本質を洞察し、その中に含まれる「神のメッセ−ジ」を正しく読み取り、素早く軌道修正します。
 その他、「修羅の道」を歩んでいた者としては、キリスト教のサウロの例が有名です。伝道者パウロとなる以前の彼は、熱心過ぎて偏狭なユダヤ教徒であり、イエズス・キリストの迫害にも熱くなっていました。しかし、或る時「棘(トゲ)の付いた棒(鞭)を蹴れば、ひどい目に遭う(=あなたが痛いだけである)」(新約聖書 使徒言行録 26章14節)との天声を聞き、疑う余地のない天罰などの霊的体験をして劇的に改心し、「キリストの律法」を説く使徒に変身しました。〕〕〕

                                  
(真−2−14)
<圧倒的な覇権は常に「荘厳なる無為」の方にある>−−−これが不動の法です。
 「有為」が「無為」に代わって覇権を握ることは、決して有り得ません。「この道理」を深く洞察し、心から納得する者は幸いです。その者は「圧倒的な勝利と光明」を見詰めるようになり、暗黒の絶望から脱却して、「無為」に希望と信を置くようになり、尚且つ、「有為」に頼るのを止めるようになるからです。

 正法の世が来た場合、「この道理」は幼少の時からの霊性教育で、念入りに根気よく教え込まれることでしょう。しつこいほどに、また、愛ある形で、自然に浸透するように徹底的な指導が行われることでしょう。これぞ、正法の世です。
 正法の世の人々は、圧倒的な覇権が「無為」に有ることを深く理解しているので、「この真理」を教えないことで子供たちが「大きな勘違い」を犯してしまうならば、それは親たちの罪でもある、という自覚を持っていることでしょう。   

 一方、(正法が衰微した)末法の世では、「荘厳なる無為」についての教育は(教育機関でも家庭でも)全く為されません。故に、「無為」の覇権について、末法の世の人々は無関心になり、無知のままで居ることになります。
 すると、自分の「有為」だけが重要な力だと思い込むようになり、「有為」に頼り「有為」を信奉する人間が出来てしまいます。「有為」に信を置くと、我欲はどんどん肥大化して行きます。
 やがては、<「無為」の働きなど存在しない>と言い出す徒輩(ともがら)も出て来ます。
 こうして、地上界で「無為」の流れに逆行する「有為」勢力が増大し、乱れた世となるのです。
 つまり、「有為」の悪業の結果的反作用として、貪欲・混乱・争乱・悲嘆・苦悩・不幸・悲惨・残酷・災厄等々が止め処(ど)無く発生するのです。

    
(真−2−15)
 末法の世では−−−<覇権は「有為」の方に有り>−−−と勘違いする者共が続出します。
 これこそ、本末転倒した見解であり、大きな誤解、勘違いです。
 反対に、もしも世の人々が「この本末転倒」を自覚的に是正するならば、速やかに正法の世が到来するでしょう。だからこそ、誰もが「諸悪の根源」とも言える「この本末転倒」について、思いを馳せるべきなのです。
 正法の世を到来させたいと心から渇望する人は、先ずもって、「自分自身のこの本末転倒」を速やかに是正することです。
 その上で、隣人、取分け「聞く耳の有る隣人」が、自分と同じように「この本末転倒」に気付いて、自分で是正するようになることを熱く強く祈念し続けるべきです。そうすれば、祈りに感応する隣人には、無理なく自然に、それこそ「無為」に、伝達できるでしょう。

 ただし、聞く耳の無い人に、「この本末転倒」について無理やりに伝達する必要はありません。愛ある勧告を拒絶する者の処遇は「荘厳なる無為」に任せて置けば良いのです。
 聞く耳の無い者は、「有為」の奥山に迷い込み、幻惑的な美しさの<「有為」の蝶々>を追い駆けるのに夢中になっている者たちです。

     蝶追うて 春山深く 迷ひけり       (杉田)久女

 この句は誘惑に負けて罪を犯した後の悔悟から出たものですが、聞く耳の無い者は自分が「奥山に迷っている自覚」すらないでしょう。
 実に、聞く耳の無い者は、短絡的で刹那的・享楽的な日々を過ごして、悪業の累積を続けている。そうしてやがて、悪業の自動的反作用で「悪い運命」が到来し、痛苦と不幸と悲惨の泥沼に引き込まれ、そこから脱出できずに長い間、地獄のような苦しみを受けることになるのです。
 これが厳然とした因果律であり、愛の鞭であり、「荘厳なる無為」による「穢れ浄化のためのサンドペ−パ−掛け」なのです。

                                  
(真−2−16)
 人間たちが、「荘厳なる無為」の流れに逆らって、どれだけ正法に蹴りを入れ、正法を足で踏み躪(にじ)っても、「荘厳なる無為」の覇権は寸毫も揺らぐことはありません。結局、損をして苦しみ、傷付き、痛い目に遭うのは、無謀な戦いを挑み“逆走した”本人たちだけです。

 「この道理」に一早く目覚める者は幸いです。その者は賢明な道を歩むことができるからです。
 これが祝福の道、光の道です。
 くれぐれも、「無為」と「有為」、どちらに覇権が有るか、本末転倒することなかれ。

                                  
(真−2−17)
 まとめに、本章を約して一句−−−
 
     都機(つき)冴ゆる 有為の奥山 今宵(けふ)越えて
 
                  (「都」は「全」の意味。「全機」は禅宗用語)
 

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