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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第5章 高潔なる「気質漸進思想」と「拡然無枠」
    〜〜「浄土ひとっ飛び信仰」を棄却する明智〜〜New!

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第五章 高潔なる「気質漸進思想」と「拡然無枠」
    〜〜「浄土ひとっ飛び信仰」を棄却する明智〜〜

前章で、次のように述べました。――:
「本物の縁起の法」が示すように、「有為転変の輪廻世界は、純粋な虚仮」でありながら、同時に、「純虚数的な梵我」のハタラキでもあるのです。すなわち、
iの2乗= −1   i^2= −1   「−1×−1=1」
ですから、「有為転変している輪廻世界」は「虚仮であって、虚仮でない」のです。
ゆえに、これを「中」と呼びます。
――、と。


これは、「行為論」において、「自力(本願)? 他力(本願)? どちらが正しい?」
という問いにも深く関連する論点です。
上記のような「中」の立場においては、有為転変する「五蘊」という「小我枠」においては、「小我枠の自力」は「純粋な虚仮」でありながら同時に梵我のハタラキを基礎にしているので、「虚仮であって虚仮でない」となります。
ゆえに、梵我のハタラキに「反する(逆行する)罪悪」は、梵我に記録され、悪業として集積されて行きます。
「梵我のハタラキに反する罪悪」について、我々は、「孤立無縁の小我枠五蘊」が「梵我」と無縁に行なった「完全独立的な自作(自力行為)」だとすることはできません。
かといって、「小我枠以外」の「他力」たる「梵我の作為(他作)」でもありません。なせぜなら、「梵我のハタラキに逆行する悪行」と述べているからです。
「自作でもなく他作でもない・・小我枠五蘊の行為」
この辺の「行為論の深み」については、「人志の独立騒動の比喩」(本書19章以下)をご覧ください。
ただ、ヒントは、「梵我のハタラキに逆行する」という部分です。
比喩としては、「プリズム」をイメージすると良いでしょう。
Wiki解説「プリズム」


梵我のハタラキが、「小我枠五蘊プリズム」によって、方向性を変えられ、屈折させられてしまっている状態、と理解すれば、
「自作でもなく他作でもない・・小我枠五蘊の行為」
の本質に合点が行くのではないでしょうか。


「小我枠五蘊プリズム説」の比喩も良いのですが、ここでは、暫定的な説明として、
「小我枠五蘊ヒル説」の比喩を出して語って行きましょう。
「血を吸うヒル(蛭)」が「小我枠(五蘊)」です。
そして、生命に不可欠な「血」が、「梵我という無枠無形の御いのち」です。
ヒルは、血を吸って、その皮袋を肥大化させて行きます。「小我枠」とは、まさにそのようなものです。


さて、前章でも触れた通り、人類が存続している間は永遠に変わらない
<不変的・普遍的な全体構造図> として、
「無枠の梵我」vs「小我枠(五蘊)」
という対立構造が「本物の縁起の法」にて、万人に明確になりました。


キリスト教においては、
「神の御霊 vs 人の肉(欲)」
という対立構造図として、使徒パウロが提示しています。(新約聖書 ガラテヤ人への手紙参照)
なお、ここでの「肉」とは、本物の肉のことではなく、霊的な象徴として「肉」と表現されていますから、その真義は、「神霊に反する個体」の意味になります。

 
また、般若心経にこうあります。
「是故空中 無色〜無苦集滅道。無智亦無得。//以無所得故〜」


改行後の「以無所得故」は、「得る所無きを以ての故に」と読み下します。梵語原文は「タスマ−ド(=それ故) アプラ−プティトヴァ−ド(=無獲得なので)」となっています。
一語一語の語義解析については、<語義解析34「以無所得故」>を参照して下さい。
 改行後の「以無所得故」は、「是故空中 無色〜無智亦無得」までの文章全部、即ち「五蘊・十八処・十二因縁・四諦・智と得」全部を引っくるめて、「そうした個的レベルでの一般的な獲得というものは無い故に」と総括しているのです。
ゆえに、「以無所得故」は−−−<それ故に、「(個としての)獲得(一切)無し」(との一事)を以て>−−−と訳出できます。
そのあとの言葉は、「菩提薩捶 依般若波羅蜜多故〜」(菩薩たる者、般若波羅蜜多に依っているがゆえに〜)となります。


まとめると、心経によると、大乗の菩薩は、「(個としての)獲得(一切)無し」(との一事)の真理、まさにこの真理に住して、「人智を捨てて」「無枠虚空梵我という完全無欠の完璧なる梵智」に帰依帰命しているがゆえに、恐怖もなく・・・という心経の文章の流れになります。
このように、「人智が完全に捨てられた大乗の空」においては、「四諦」は既に超越されているので、無「四諦(苦集滅道)」です。


しかし、これは、あくまでも「理想のゴール」です。
そこで、ゴールを目指す我々の修行行程は、「俯瞰マップ」として、次のようなものを描くことができます。
すなわち――
修行としては、「小我枠」内で起こる「煩悩有想」を「冥(くら)くして、<無想>となる<瞑想>を行う」ようにするわけですが、しかし、それは、単なる「無想」でもなく「冥(くら)くなるもの」でもなく、「無枠無辺の大光明虚空梵我」が「小我の有想」の代わりに、「五蘊の心鏡」に立ち現れて来るような瞑想修行が正しいわけです。
つまり、「人智(奸智・驕慢智・腹黒智)を漸減・減殺して行く」のに比例して、「梵智(般若智)が漸増・顕現して行く」という「完全反比例関係」にあるような「瞑想」です。
そして、「人智(奸智・驕慢智・腹黒智)を漸減・減殺して行く」ということは、単なる瞬間的なことではありません。それによって、「性格・気質」をも改善して行きます。勿論、これと同時並行で、「梵智(般若智)が漸増・顕現して行く」わけですから、相乗効果で、「性格・気質」が改善して行くことになります。
図にすると、このようになります。


   ・・・・・ < 五蘊 >・・・・・・
     人 智        増 大
      ↓          ↑
     減 少        梵 智
   ・・・・・< 気質の改善 >・・・・


ゆえに、無枠大乗(梵乗)の瞑想法は、極めてシンプルです。
ゴールである「虚数梵我」をひたすら瞑想し、求め求めて、有想を生起させる代わりに、梵我の瞑想を行い、人智を減殺して行くのです。
梵我をしっかり瞑想して、正しく梵我のハタラキに意識を向けていることができたときには、(意識された梵我の力によって)煩悩発生が一時的に停止しますので、煩悩の矢を抜いた状態となります。
これを日々反復して、性格・気質を浄化して、習性として行くわけです。


ブラフマンを否定していた旧来のテーラワーダ(上座部仏教)では、梵我を瞑想できませんから、経典をいくら読んでも、ヴィパッサナー瞑想をやっても、「小我枠」を利して増大させるようなことにしかならないことが多く、その修行は、的外れゆえに、時間と労力を無駄にするようなものでした。
しかし、「本物の縁起の法」が明らかになった今、瞑想すべき「梵我」は明白です。
ゆえに、人々は、「ブッダの論理」を使用して、「梵我のハタラキを如実に瞑想すること」が可能になり、これによって、「小我枠の肉の動き」の暴走にブレーキがかかり、正しく瞑想する者には、「気質の漸進的な改善」という祝福が無限に降り注ぐ道が明らかになりました。


ところで、達磨大師において、「廓然無聖(かくねんむしょう)」という名言があります。
甲氏が、「100万円、寺社仏閣に寄付したよ、アッハッハ」と自慢したとします。
乙氏が、「俺なんか、1000万円、お寺に寄付したよ、アッハッハ」
それを聞いた丙氏が、「俺なんか、1億円で、寺を建てて奉献したよ、ウァッハッハ」と、このような自慢合戦になったとしましょう。
自分こそが、「聖なる行いをした」と自慢しているわけですが、誰が一番、「聖」なのでしょうか?
確かに、身銭を切っているので、善行奉仕はしているのですが、心に隙があるために、「小我枠の驕慢心の増大」を招いてしまっています。その点では、「我欲の漸減↓/梵智漸増↑」がうまく機能しない「小乗的な行い」に陥っています。
こうした心の動きに対する警句諫言が、達磨大師の「廓然無聖」です。
「廓然」とは、「拡」の意味に当てた用法で、「広がりに極まりがない様子」を表しています。「無聖」は、聖と俗の区別をしない、できない「不二」を意味しています。すなわち、「小我枠」の中での「ここだけ、自分だけの聖」という「区別」を認めないのです。
「小我枠」を観ることなく、「無枠虚空梵我」を観るのです。
ですから、単なる「小我枠の善行」に留まるのであれば、「自分が善行した、自分が、自分が・・」となって「自力作善の驕慢心」が増大してしまいますが、「無枠虚空梵我」だけを見つめて瞑想すれば、そのようなことは起こりません。そして、そのような「小我枠の驕慢心」が起こさない布施行は、「我欲の漸減↓/梵智漸増↑」修行として、大きな効果を発揮するのです。


このようなわけですから、「廓然無聖」は、「拡然無枠(かくねんむわく)」と言い換えることもできます。
「拡然」は、実に「無相にして虚空の梵我」を如実に彷彿させ想起させる言葉です。
「無枠」は「ゼロセクトの絶大乗」として、かつ、「 <限定的な思惟規定による識別行為>という人智による<脳内仮設>を打破して取っ払う」という「深い意味」を示唆するものとして使用できます。
ですから、
「廓然無聖」から「拡然無枠」へ。
このように、「拡然無枠」という言葉は、「本物の縁起の法」によって「梵我」を如実に瞑想するときに、とても役立つ言葉です。


ですから、「拡然無枠」を意識しながら、以降、本書によって説かれる「ブッディ・ヨーガの各段階」を順次実践して行くならば、瞑想者の瞑想は、「小我枠」乗に堕することなく、日々の霊性修行を力強く伸展させて行くことができるでしょう。


なお、こうした「拡然無枠の人智漸減・梵智漸増」修行において、「インチキ・ズル」は決して、やることができません。
「ひとッ飛び」で一瞬一気に「人智の完全滅却/梵智の完全顕現」に到ってしまうような「甘い魔法」は存在しません。そのことは、「人の気質」というものが、一瞬で大変化するものでないことを観察すれば、わかるでしょう。日々の地道な積み重ねによってのみ、「身についた気質」というものは、変化して行くのです。
ここに、「宗教の身体性」「宗教の芸事性」という要素があります。
単なる「知」ではなく、「身につけて行くべき習い事である」ということです。


ここで、取り上げている「気質変化の法則」に関しての論点は、念仏宗やキリスト教において、片時の懺悔や一回だけの念仏だけで、「ひとッ飛び」で死後に天国や浄土に行ける、というような「エセ教義」への批判にもなっています。
念仏宗やキリスト教におけるそうした「甘い誘い言葉」を信じてしまっている人にはショックなことでしょう。
しかし、「信心さえあれば、煩悩を断滅せずとも浄土入りできる」というのは、悪魔の教義です。なぜなら、それでは、浄土は煩悩野放図地帯という漫画になってしまうからです。
また、「信心さえあれば、罪悪は、一瞬で消滅する」というのも、悪魔の教義です。なぜなら、それでは、地下鉄サリン事件を引き起こした人々なども、「一瞬の懺悔で罪悪消滅」となってしまい、それでは、被害者の苦しみも怨念も晴れることはなく、もしも「一瞬の懺悔で罪悪消滅する」が真理なら、それを活用した人々による「悪業三昧のあとに一瞬の懺悔で悪業消去」という「悪用」を許すことになり、倫理秩序が崩壊してしまうからです。


「信心さえあれば、死後、浄土へひとッ飛び」ということはありません。それは倫理秩序が要求する「神の法」です。
あくまでも、神を求める菩提心を強めて行く修行によって、「我欲の漸減↓/梵智漸増↑」を徐々に達成して行き、「性格・気質を改善して行く」ことで、徐々に、天界への上層部への「天路歴程」となるのです。
それが、ヴェーダンタ密教(の聖者)が解き明かす死後の状況です。
ブッダにおいても、「スッタニパータ」では、紅蓮地獄を語る記述がみられます。
白隠禅師のように「南無地獄大菩薩」と感謝することができるのも、この地獄の苦しみが小我枠五蘊の魂の向上に役立つとの明智があってこそ、初めて感謝が起こるわけで、秩序だった向上の道がない状態であったり、「インチキひとッ飛び」ができる状態であれば、真摯な感謝が生じる余地すらなくなってしまうのです。


紀元前のユダヤ教においては、サドカイ派という宗教儀礼を取り仕切る派閥が、「死後の生命はない」という教義を掲げていました。しかし、現世で幸せに生きるためには、神への宗教儀式が欠かせないとして、信者からの貢ぎ物と神殿儀式で、金儲けをしていました。
「死後の生命がない」とき、現世での善行は、現世で報われないときに、損したような形になってしまいます。宗教儀式も、多くは無駄ということになります。


これに類するものとして、仏教の解釈の中には、死後、「仏の御いのち」に溶け込み、元に還るだけ、と信じる人々も多少います。しかし、現世での善行や悪行に関係なく、みな平等に、死後、無のような「御いのち」に還元される、とするならば、倫理的な秩序が破壊される、と言えるのです。地下鉄サリン事件を起こした者も、比叡山で千日回峰行をした人でも、平等に「御いのちに還元」されるならば、どのように現世を生きても現世かぎりの問題だ、ということになってしまうからです。


「善行には善なる報い、悪行には悪なる報い」という因果応報の法が貫徹されないところには、正しい宗教はありません。
神が存在するならば、この「倫理秩序の法」が貫徹されていなければ、ならないのです。
ヴェーダンタ密教(の聖者)が解き明かす死後の事情は、人間は死後でも、現世と、小我枠五蘊の気質には寸分の違いもないゆえに、自分の気質に応じた階層で暮らすことになります。
あくまでも、神を求める菩提心を強めて行く修行によって、「我欲の漸減↓/梵智漸増↑」を徐々に達成して行き、「性格・気質を改善して行く」ことで、徐々に、天界への上層部への「天路歴程」となることは、現世・死後の霊界でも変わらない、ということです。
但し、地上に再度、輪廻転生して、地上独自の困難性の中で、「我欲の漸減↓/梵智漸増↑」の修行をしなおすことは、魂の成長にとって、とても大事なことである、ということになります。


正しい「倫理秩序の法」が厳然として存在するがゆえに、「日々の修行」というものが、存在意義を持つのです。前者が崩れたとき、後者も崩れてしまい、様々なインチキの横行となり、サタンの跳梁跋扈となってしまうので、そのような教えは、明智によって排除して行かねばなりません。

禅家には、「漸悟と頓悟」論争があります。禅家においては、伝統的に「悟り」概念を、本来の「ブッダの大悟の悟りレベル」から大幅に「ハードルを下げた意味」で使用しています。
すなわち、「転倒していたものが、転倒だったと悟る」レベルです。
これは、「本物の縁起の法」において、明確に示されたものです。
ですから、「本物の縁起の法」を理解した人は、伝統的な禅家の用法で言えば「悟った」ことになります。
しかし、真の修行は、そこからです。
禅家では、「悟後の修行」と呼びます。
ヴェーダンタ密教では、「ブッダの大悟のレベル」を「真の悟り」としますので、必然的に、「悟後の修行」の意味が禅家とは、異なっています。
これについては、本書の最後の方で明かされますので、それまでお待ちください。


「本物の縁起の法」を理解して、転倒を解消して、禅家的な悟後の修行を開始すること。
これが、「真の八正道の実践の道」ということになります。
これまでのように、転倒を保持したままでは、「真の八正道の実践」は無理だからです。


そして、前章で述べた通り、小我枠五蘊のヒル的な動き・・・すなわち、
(A)小乗的溜め込み型「得た穢田」信仰  
を脱却して、

拡然無枠の大乗の道である
(B)梵乗的無所得型「じか見の無生法認」信仰 
へと、信仰を浄化させて行くのです。

この信仰の道は、小我枠五蘊の「性格・気質」と不可分一体です。
ゆえに、「倫理的な秩序」と因果応報原則に則った「漸進的な道」として、
「人智我欲の漸減↓/梵智漸増↑」という「五蘊の変化現象」として、「梵智顕現↑した五蘊」という「即身成仏」の道へと流れ込んで行くのです。





 
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