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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第6章 万教を梵我に帰一せしめる唯一のもの
〜〜「道において唯一絶対の型はない」と見切る明智〜〜New!

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第六章 万教を梵我に帰一せしめる唯一のもの
〜〜「道において唯一絶対の型はない」と見切る明智〜〜


 道は、道である以上、相対的な「型」を持つものです。ゆえに−−−
<「宗教の道」には「これだけが唯一絶対の型としての道である」というようなものなど有り得ない。>
−−−これが「拡然無枠・ゼロセクト」のヴェーダンタ密教における「万教帰一思想」の基本認識です。
 けれども、 「いいえ、私の信じる“この道こそ”唯一絶対の道です!」
 このように信じ込む人は多いものです。
なぜか?
それは、宗教教団の利己心が作らせた「悪いパン種の言説」に「洗脳またはマインドコントロール」されてしまっているからです。
宗教教団というのは、「うちの教団と他の教団とでは変わりません」とは決して言いません。なぜなら、他教団に信徒が流れてしまうと、教団存続が危うくなるからです。
つまり、教団存続と繁栄のためには、「うちだけが特別」と信徒に信じ込ませなければならない、という「営業上」の要請があるわけです。


しかし、「本物の縁起の法」が世に出たことで、人々は、直接的に、梵我のハタラキを瞑想することができるようになりました。
そこには、握拳(拳に握られた秘密)はありません。
まさに、誰でも、梵我のハタラキを「じか(直)見」して、梵我を瞑想することができるのです。それが高じると、「無生法忍」に到ります。
この「無生法忍」とは、大乗仏教の奥義です。龍樹は、「無生法忍」によって、大乗の奥義を得たとされます。
「無生法忍」とは、「無生法=不生不滅の法」を「忍=認識すること」です。
そして、「不生不滅の法」とは、梵我のハタラキと梵我そのものの「御いのち」であり、相対世界を超越した「絶対世界」の「生き生きとした神秘」です。


「自分の信じる特定の道だけ」が「救い」に到る道だとか、「この特別の宗教儀式に与(あずか)らなければ神の選びから漏れてしまう」とか、「この教団のこの教えだけは破ると天国に行けない」とか・・・・・
可哀相な話ですが、「正しい水先案内人」に出会わない人々は、特定教団の利己心に彩られた「洗脳言説」にいつのまにか洗脳されて、「道の相対性」を正見する「洞察力」を喪失してしまいます。
そうなると、特定宗教の道を行くしか「道」はありません。
 そうした人には、それしか「道」が無いのですから、「個人で信仰する」分にはそれを咎め立てしても仕方ありません。機会があって、洗脳を解いてあげられるようなら、それは良いことですが、洗脳されるのは、その人の「欲望」が刺激されて、その人がその欲望に飛びついてしまっていることにも原因の一端があるため、洗脳を解くのは容易ではありません。
ゆえに、寛容に、洗脳された人の偏狭な信仰をある程度認めた上で、「その人の求道心の増大、純粋性の増大・祈祷力の増大・瞑想力の増大」等々の面で支援する態勢を取りつつ、神の導きがあるように祈ってあげるべきです。
 但し、その人が「強引な布教活動」をして他者に対しても「洗脳の悪禍」を広めようとしているときには、その「高慢振り」を糾弾して厳しく鉄槌を加え、猛省を促す機縁にすることも必要です。

 
真理は既に明らかになりました。「本物の縁起の法」は公開されました。
加えて、前章にて、次のような「修行行程の俯瞰マップ」も明示されました。

   ・・・・・ < 五蘊 >・・・・・・
     人 智        増 大
      ↓          ↑
     減 少        梵 智
   ・・・・・< 気質の改善 >・・・・

つまり、「拡然無枠の梵乗仏教」においては、「人智減少↓/梵智増大↑」による気質改善をして行くための「日々の修行」としての「梵我への瞑想」があるだけです。
あまりにシンプル過ぎるように見えるかもしれませんが、宗教の本質はシンプルです。
あとの細々としたことは、付属品に過ぎず、取っ払っても、困るようなものではありません。
瑣末な付属品にしても、各種の宗教儀式にしても、それらは「梵我への瞑想」をアシストする、瞑想をよりやりやすくするための補助的なもの、だと言えます。
(但し、鎮護国家の祈祷だとか、神の色々なオカルト的な力を招請する祈祷は、また別の話です。)


「本物の縁起の法」によって理解されることは、「すべては梵我の手の中にある」ということです。これがヴェーダンタ密教の見地からの「万教帰一思想」です。
どこの誰が、どんな宗教のどんな方法を採用して、どんな信仰心で修行しているにせよ、
結局は、「人智減少↓/梵智増大↑ による気質改善」という一事に収束する、と「変化の核心部分」を観るわけです。
これが、寛容の精神に基づく「万教帰一思想」です。
表面の「型や式」をみるのではなく、「行為者の気質の変化」だけに注目するのです。


「気質変化の宗教思想」としては、インド・バラモン教における「マントラ(真言)信仰」について見てみましょう。

「リグ・ヴェーダ」は、紀元前18世紀にまで、その起源を遡ることができると言われています。その中の「リグ・ヴェーダV62.10」に収められているのが、「ガヤトリー・マントラ」です。
つまり、信仰深いインド人においては、紀元前17〜18世紀前から、ガヤトリー・マントラは詠唱されていたと考えることができます。そして、とりわけ、ガヤトリー・マントラだけが特別視され、宝石のようにして、熱心に詠唱祈祷されるようになったのは、ヴィヤーサ仙の影響による紀元前6世紀ごろ以降であるという指摘もありますし、そうかもしれませんが・・・・それにしても、このマントラ(真言)の起源の古さと伝統力は圧倒的であることは明白です。

ガヤトリー・マントラとは、次のようなものです。


オーム(AUM)(A生・U維持・M滅)(音を発するA・音を伸ばすU・音を終息させるM)
ブール(色・形・物)
ブワッ(想・念)
スワハー(天・空)


タッ(ト)(それ自体)
サヴィトゥール(万物・生命の根源としての太陽神サヴィトゥール神)
ワレーニャーム(敬愛され崇敬されるべき↑、という形容詞)


バルゴー(太陽のように光り輝く、霊的な光輝の)
デーヴァッシャー(至高・至福の存在を)
ディーマヒー(我々は瞑想いたします)


ディヨー(我々の理性を)
ヨーナッ(その光で)
プラチョーダヤー(ト)(どうか啓発し照らして下さい)


オーム
OM
ブール   ブヴァッ   スヴァハ
BHUR  BHUVA  SVAHA
タット   サヴィトゥル  ヴァレーンニャム
TAT  SAVITUR  VARENYAM
バルゴー    デーヴァッスヤ  ディーマヒ
BHARGO  DEVASYA  DHEEMAHI
ディヨー   ヨー ナッ  プラチョーダヤート
DHIYO  YONAH  PRACHODAYAT


**********************************
●ガヤトリー・マントラ「碧海龍雨・超訳」
**********************************
オーム
(第一段)
「三界たる三千大千世界」は、それ自体が、
心から恭敬し崇めますところの「太陽神サヴィトリー」様そのものです。

(第二段)
まぶしいほどの光輝で輝く太陽神の「光と恵み」、(溢れるほどの無償の恩寵)
を 私たちは、(できるだけはっきり如実に)観想します。

(第三段)
(汝の持てる・放てる)その光で、我らの知性を
(日々の光の恵みで、光の霊感をもたらし)
(より一層の明智へと我々の知性を 日々刻々どんどんと)啓発して(行って)下さい。(ますように)

****************



では、ガヤトリー・マントラについての偉大な覚者たちの言葉を見てみましょう。

・・・・・引用開始・・・・・・・・・・
●聖仙ヴァシシュタ
「心の弱き者、堕落した人生を過ごす者、理性に欠ける者は、ガーヤトリーの礼拝によって最高の状態を獲得する。彼の死後、高貴な霊的境地に達することは確かだ。純粋な決意と、確固たる信念を持ってガーヤトリーを礼拝する者は、魂の英知を手にする。」

●聖仙パラーシャラ
「すべてのスークタ(讃歌)やヴェーダのマントラの中でも、ガーヤトリーがもっとも優れている。ガーヤトリー・マントラを信心込めて唱える人は、解脱に至り、あらゆる面で浄化されるだろう。」

●スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
「王には、些細な物でなく、重要な物を請うべきである。それと同じように、全知全能の神には、はかない物質的な快適さではなく、純粋な知性のみを請うべきである。神を喜ばせるとき、信奉者は純粋な知性を手にできる。人は、純粋な知性によって、正しい道を歩み、あらゆる種類の快適さを味わうことができる。人が真理の道を歩むとき、彼は自動的にすべての喜びを味わうのだ。ガーヤトリーは純粋知のマントラだ。したがって、あらゆるマントラの中でも、ガーヤトリーは最高の宝である。」

●サットグル・サント・ケシャヴァーダス
「ガヤトリーの瞑想は、ヴェーダにおいて知られる瞑想の中で最高位の様式です。普遍的な意識と直感力の開花を求めて、ガヤトリーを唱えるのです。
 ガヤトリーはすべての迷いを断ち、生命力(プラナ)を豊かに活動させ、健康と長寿、英知と光を与えてくれます。
 ガヤトリー・マントラこそ、宇宙意識の扉を開く鍵なのです。(・・・)このマントラは、太陽の光を瞑想するものです。人類すべてを瞑想するのと同じことですから、真に普遍的なマントラなのです。このマントラによって英知・繁栄・清浄・解脱が与えられます。  座るたびに108回を唱える人は、時を待たずに人生が輝きと変わるでしょう。
 信仰心とまごころをこめ、座るたびに1,008回を唱える人は、光輝く境地に40日以内にいたるでしょう。
 ガヤトリー・マントラはすべての恐怖をはらいます。
 ガヤトリー・マントラはあらゆる病気をいやします。
 ガヤトリー・マントラはカルマを滅ぼし、解脱を与えてくれます。
 全宇宙はガヤトリー・マントラの力のあらわれです。この宇宙に、神の力のあらわれではないものはありません。
 ガヤトリーの唱名(ジャパ)にまさる唱名はありません。
 ガヤトリー・マントラにまさる富はどこにもないのです。
 朝晩、欠かさずガヤトリー・マントラを瞑想する人ならば、誰でも長寿・健康・平安の恵みが確実に訪れます。あなたの言葉が祝福となります。あなたは光明に達し、世の中と全世界に偉大な祝福を与えるでしょう。
 聖なるガヤトリー・マントラは、至高の神の光を唱えるものであり、母なる神ガヤトリーの御名とともに願うことは、どんなことでも、はやばやと実現します。
 肉体・心・感情・霊的な、どんな種類の病気でも、ガヤトリーは治します。
 ガヤトリー・マントラは神がかたちとなったものです。
 いつもこれを唱えることにより、神にまみえる(ダルシャン)経験をするでしょう。
 古代の聖典によると、神の聖なる言葉をくり返し唱える修行(プラスチャラナ)は、最低24,000回は必要だそうです。ガヤトリー・マントラには24の音節があります。だから、ガヤトリー・マントラを2万4000回唱えることには、たいへんな功徳があるのです。
 ひとりひとりのために、またそして国と世界の平和のためにガヤトリーを唱え(プラスチャラナ)、ガヤトリーの儀式(ヤグナ)〔ガヤトリー神に儀式の炎を捧げる〕を行うように、ヴェーダは常に説いています。
 宇宙の母なる神ガヤトリーがすべてに響きわたり、全世界に平安をもたらしますように。
  (サットグル・サント・ケシャヴァダス著『ガヤトリー:最高の瞑想』(1983年)P.74〜78およびP.157〜159 バンガロール地区562-123 アラシナクンテ24Km、ヴィシュワ・シャンティ・アシュラム)    

●リシケシュのスワミ・シヴァナンダ(1887〜1963)
「毎日最低1マラの唱名をしなければならない。そうすればあらゆる危険から守られる。無限の強さが与えられ、すべての障害をのりこえることができる。そして、力・安らぎ・悦びの華麗な頂点をきわめることができるだろう。
 ヴェーダの中で神が言う。
「ひとつのマントラがすべてに通ず(サマノ・マントラハ)」と。
 そのマントラこそ、ガヤトリー・マントラなのだ。
 ウパニシャッドの秘法は、4つのヴェーダの核心なのであり、
 ガヤトリー・マントラにおける3つの世界(ヴィアフィリティス)(ブールとブワッとスワハ)は、ウパニシャッド〔ヴェーダンタの文献〕の核心である。
 ガヤトリーはヴェーダの母であり、すべての罪ごとを滅ぼす。この地上でガヤトリー・マントラ以上にけがれをはらうものはない。ガヤトリーの唱名(ジャパ)によってすべての「ヴェーダ」と「アンガス」〔ヴェーダの補足〕を暗唱するのと同じ実が結ばれる。このマントラひとつを真面目で清らかな心でくり返し唱えることによって、死んではまた生まれ変わる永遠の輪からの解脱という、最高の幸運が訪れる。
スワミ シヴァナンダ著『修行について』〔サーダナ〕(1985 P.217〜220)
・・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・

このように、実に古代「リグ・ヴェーダ」の時代から、インドでは、マントラ(真言)の霊的効能が述べられ尊ばれ、実践されて来ました。
このたび、「本物の縁起の法」によって論理的側面からも明らかになったことは、「すべてはブラフマンなり」ということです。これは、ガヤトリー・マントラが唱えられているときからのヴェーダの見識であり、ヴェーダンタ密教の見識でもあります。
つまり、いかなるものであれ、背後にブラフマンが控えておられる、ということです。


仮に、石像の地蔵様がいて、偶像礼拝のようにして、この石像地蔵様を礼拝していたとしても、神は、礼拝者の心の真実を観察される、ということです。石像の地蔵様という存在は、単なる1つの「モメント(契機)」であって、その「契機としての物的刺激」を通して、その背後におわします真の神への信仰心としてつながっているならば、その礼拝は神へと通じる、ということです。


たとえば、カーリー女神は、三つの目を持ち、四本の腕を持ちます。それは、実在の神というよりも、「象徴的な意味を持つ形態」のフィクションであることは、誰の目にも明らかですが、ヴェーダンタ密教の見識からすると、
/////////////「諸々の神様はフィクションであっても一向に構わない」/////////////
のです。なぜなら、「すべてはブラフマンである」からであり、「フィクションの神であってもその背後にはブラフマンが存在する」と知っているからです。
ゆえに、問われるのは、礼拝者の「真心」だけです。外形や偶像うんぬんは、礼拝者が「なんだ、フィクションに過ぎない」と侮蔑するときにだけ、その信仰が機能しないのであって、そうではなく、礼拝者が、フィクションの背後に真実のブラフマンがあることを信仰しながら礼拝すれば、フィクションであること自体は問題ではないと言えるのです。


そして、このヴェーダンタ密教における「諸々の神様はフィクションで構わない」というおおらかな理論は、インドにキリスト教が伝来したとき、それへの対抗的な意識から、インド人仏教徒が考え出した「浄土三部経」において、「阿弥陀仏信仰」を生み出し、新たなインド的「虚構の物語」がここに結実したのを我々は観ます。
しかし、「こうしたインドの宗教的な内情」を知らない、中国や日本の人々は、「阿弥陀仏」を虚構ではなく「真実の仏」として信仰するようになりました。
つまり、中国や日本の阿弥陀仏信仰者は、インド人がいかにも虚構的風貌のカーリー女神を信仰するよりも、もっと真実味を抱いて(というか、仏教徒らしからぬ態度で、もっと実体的に実在視して)信仰しているように見えます。
しかし、実のところ、阿弥陀仏信仰も、カーリー女神信仰と、本質は何も変わらず、「背後におわしますブラフマン」に通じる信仰として機能しています。それゆえ、阿弥陀仏の存在自体は、フィクションである、と述べて、何ら問題はないのです。


すなわち、どのような神々を信仰しようが、どのような諸仏様らを信仰しようが、どのような菩薩様たちを信仰しようが、どのような地蔵様たちを信仰しようが、はたまた、どのような宗教儀式の型を執り行っていたとしても、そうした「外形と形象」というのは二次的問題に過ぎず、「インド的な信仰心の霊的分析」からすると、問題となるのは、それらを契機にそうした霊的刺激を通して示される「真の礼拝心がどの程度のものか」ということに懸かっているわけです。
(これよりももっと突っ込んだ詳細は、●章を参照して下さい。)


ゆえに、結論としては、こうなります。すなわち―――
神々や礼拝対象や執行儀式の形式などの問題は二次的問題でしかなく、一番重要なのは、「真心」すなわち「求道心」すなわち仏教用語では「菩提心」、一般用語で言えば、「神を求め信仰する渇仰心」の「質(純度)と量(熱度)」こそが問題なのである、と。


ガヤトリー・マントラにしても、この「求道心」の「質と熱度」こそが、その効力発揮されるか否かの鍵になります。


ここで、日本人の多くが誤解している「二分法」について触れておきます。
「浄土三部経」が制作されたのは、インド伝統の「マントラ行のみで解脱悟り可能」という思想に基づくものですし、前述の通り、背後には常にブラフマンが存在する以上、どのようなフィクションの仏を構築しても構わない、というインド思想が背景にありました。
こうして、仏教の中にヒンドゥー(バラモン)教的な「マントラ行」が持ち込まれることによって、それまでの従来の仏教の方法は「難行道」と分類されることになり、南無阿弥陀仏マントラ行が「易行道」と位置づけられることになりました。この点は、龍樹も「十住毘婆沙論」にて指摘しているので、この「難行/易行」二分法の起源は古いと言えます。
そして、日本においては、法然が『選択集(せんちゃくしゅう)』のなかで「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」=「捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、抛(なげう)て」と説き、浄土三部経以外の一切経は必要ない、という「単純明解な態度」を打ち出しました。
これは、マントラが「総持」のハタラキを持つこと、すなわち、全部の教えを包摂している、という理解に依るもので、法然の洞察は正しいものでした。


しかし、本場インドのガヤトリー・マントラなどを知らない中国や日本の念仏信徒は、「南無阿弥陀仏マントラ」「たった1つだけ」が救いのマントラであると誤解してしまいます。
このような判断は、煩悩熾烈な末法の凡夫に有り勝ちな、極めて無知蒙昧な態度です。
本当は、インドにおいては、その1800年も前のヴェーダ時代から
/////////////////ガヤトリー・マントラ1つで良し、その他は「捨閉閣抛」で良し /////////////
と言われていたわけですから、的確な祈りのマントラであれば、実は、どんなマントラでも「それ1つだけで良い」という話なのです。だからこそ、その後に、真言宗が多様なマントラを使用する宗派として登場するわけです。


確かに、一見、マントラ行は、易行であるように見えます。しかし、すべての宗教に共通する一番大事なものは、何だったでしょうか?
既に述べた通り、「求道心」です。「菩提心」と言っても良いです。
つまり、易行道としての「マントラ行」は、その動因に「菩提心」が働かなければならないのです。そして、「菩提心」は、「行為者の気質(機根)」と密接不可分なので、「行為者の身体性」に関わるものなのです。
すなわち、前章で述べた通り、「漸進的な気質改善」と不可分の問題なのです。


マントラ行は、ベッドに寝ていても行じることができる簡易なものですが、その動因となる菩提心の炎を吹き消そうとして、行為者の気質から来る煩悩が、それを邪魔します。ベッドに寝ていても、テレビでお笑い番組があれば、そちらに目が行くでしょうし、ポルノがやっていたらそれを観てしまうかもしれません。マントラ行を捨てて・・・です。
このようなわけですから、菩提心の炎によって気質を改善して行く道は、漸進的なものであって、根気が要る道です。
むしろ、テレビやその他の邪魔が入らないように、山の峰々を巡礼しながらマントラ行を唱える方が、一見、難行のように見えますが、実際には、気が散らずにマントラ行に集中できる、という意味においては、こちらの方が「集中することにおいて易行である」とすら言えるのです。


というわけで、「浄土ひとっ飛び魔法はなし」(前章参照)そして「気質改善にもひとっ飛び魔法なし」ということを知るならば、マントラ行だけを特別に易行道とすることは正しくないのです。
にもかかわらず、「他力易行道」として宣伝されるのは、このマントラ行を普及させたいという「伝道上の方便」によるものであるわけです。
つまり、「難行/易行」の二分法は、幻の二分法であって、「菩提心の炎の道」においては、両者の区別はない、と知ることが大切です。


ゆえに、前章にて提示された「修行行程の俯瞰マップ」には、次の要素がプラスされます。。

   ・・・・・ < 五蘊 >・・・・・・
     人 智        増 大
      ↓          ↑
     減 少        梵 智
   ・・・・・< 気質の改善 >・・・・
       ↑  ↑  ↑  ↑
        菩提心の熱い炎   
     (カイゼンサイクルの肝)


まさに、五蘊の気質を漸進的に改善して行く「カイゼンサイクル」を回すのは、菩提心の熱い炎である、ということです。これこそが、宗教の肝(キモ)なのです。
そして、これは、無形であるがゆえに、本章冒頭で述べた通り、
<「宗教の道」には「これだけが唯一絶対の型としての道である」というようなものなど有り得ない。>
−−−これが「拡然無枠・ゼロセクト」のヴェーダンタ密教における「万教帰一思想」の基本認識
ということになります。



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