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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第8章 涅槃とは何か?New!

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第八章 涅槃とは何か?

「本物の縁起の法」の公開と連動して、この章はリライトされます。
以下の旧版は、間もなく破棄され、お蔵入りとなる予定です。

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第八章  修行における中道の4要件
      −−−中道を行くための「四要件」、その第一、二要件


(真−8−1)
 中道は安全確実な道である。中道は祝福に満ちた道である。
 但し、この素晴らしい道に近づき、首尾良く中道に沿ってその近似値で進むには、ク−ルなマインドが必要である。
 熱し易く冷め易い、低級な衝動に翻弄され易い性格の者にとっては、そもそも、冷静な理性を働かせ、ク−ルなマインドを維持すること自体が、大変困難な事と言える。
 中道に沿って進むには−−−「毀誉褒貶は我に関せず。ただ我は、虚心坦懐に日々三省しながら一歩ずつ、犀の如く前進するのみ」−−−というような「一方で謙虚、一方で超然」といった心構えが必要である。
 隣人の無責任な言葉を気にし過ぎて右往左往するようでは、中道に近づくことはできない。また、隣人の「心有る忠言」を無視する傲慢心が有っても、中道に近づくことはできない。そのどちらにも偏らず、冷静沈着な態度と思慮深い謙虚さを併せ持つことが必要である。

 
(真−8−2)
 人から「豚も煽(オダ)てりゃ木に登る」と笑われるような軽薄人間は、冷静沈着に中道に近づくことはできない。こうした者は、人から煽(オダ)てられると、自意識を風船の如く膨らませて、猿の如き素早さで一気に木の天辺(ペテンッ)まで登ってしまう。
 「散乱した心の持主」は、肥大化した我欲に振り回されて、心を一処(ひとところ)に定めることができず、絶えず「モンキ−・マインド」(=「落ち着きの無いこと猿の如し」という状態のマインドのこと)を動かし続けている。それ故、人から煽(オダ)てられると、すぐに好い気になって図に乗ってしまい、自分を見失って、「高慢の木」を何処までもするすると登ってしまう。これでは中道を行くどころではない。

 
(真−8−3)
 また−−−(@)徒に見栄・虚栄を張ったり、頑固に、或いはヒステリックに強がったりする人間 (A)悪口、陰口等を異常なほどに恐怖して、沈鬱な気分に落ち込んでしまう人間 (B)嘘をつかなければ生きていけない人間 (C)他人と自分を比較して劣等感を増大させ、心の中で、否定的感情がブリザ−ドのように吹き荒れてしまう人間 −−−等々も、首尾良く中道に近づいて行くことができない。こうした人間は必ず、低級な衝動に押し流されて、右道か左道に逸れて行ってしまう。
 中道は、安全確実な道である一方、我欲と放縦を抑えなければ、そのコ−スに乗ることはできない細い道である。強欲者は右道か左道に必ず逸れる。業が深くて我を張らないではいられない者は、右道か左道に彷徨(さまよ)い出るしかない。

 
(真−8−4)
 中道に沿って(その近似値で)進み行くことは、大平原の真ん中に一直線に建設された舗装道路を行くようなものである。これに沿って車で走行するならば、道は平坦この上なく、そして安全確実で快適であり、短時間で目的地にまで到達する。
 一方、右道や左道を行くことは、丁度、舗装されていないデコボコ道や、道無き道を行くようなものである。この道を車で行くならば、そこは−−−小石だらけであり、パンクしかねない鋭い石あり、転倒しかねない石あり、衝突すると大怪我しかねない大石あり、水溜まりあり、泥濘(ぬかるみ)あり、落ち込むと容易には出られない泥沼あり、知らずに落ち込んだら命を落とす大沼あり−−−と危険が一杯で、ひどい思いをすることになる。この道を行くならば、安全ではいられないし、無傷でもいられない。必ずトラブルに見舞われ、(多かれ少なかれ)不幸と辛酸を嘗めないでは済まされない。
 尚、右道や左道にこうした「ひどい障害」が用意されているのは、人々が最終的には皆、中道に流れ込むようになるためである。
 右道や左道を行く時に、仮にこうしたペナルティ−が無かったならば、右道も左道も「良い道」ということになって、中道の価値は全く無くなってしまう。しかし実際には、右道も左道も良い道ではなく、悪路でしかない。このことを明確に学習するために、又はこのことを嫌というほど思い知るために、これらの道にはトラブルや不幸や針千本の辛苦が用意されているのである。

 
(真−8−5)
 こうした道理を弁えて、賢いハンドル捌(サバ)きをする者は、首尾良く中道に沿って、その近似値で走行することができ、幸福を得て微笑む。
 一方、こうした道理を弁えず、中道などにはトンと無頓着で、酔っぱらい運転の如きハンドル捌(さば)きをする者は、右道や左道を突き進み、不幸と辛酸・辛苦を得て苦しむ。
 長旅に出て、長距離運転をしなければならない場合の心構えは何か。
 賢明な者は、旅の安全を期して、道に迷わないようにと、事前に色々準備を整え、道中も色々と気配りするであろう。先ず地図を開き、目的地と其処への行き方を、予めよく確認して置く。そして運転中は、高い集中力を維持して、的確・冷静な判断を下して行く。また、近くばかり見ないで遠くにも目配りする視野の広さを保ち、「疲れて来た」と感じたら、途中で適度な休憩を取り、そうして「目覚めた感覚」を維持しながら、旅を続けて行く。
 こうしたやり方は、日々の生活の中で、又は「人生行路」において、中道を行くための心得としてもそのまま妥当する。

 
(真−8−6)
 一方、長旅の道中を、酔っぱらいながら行き当たりばったりに進んで行くのであれば、その場合は何の準備も計算も要らない。場当たり的な衝動に任せて、好き勝手な運転をして行くだけである。そうすれば、蛇行するばかりでなく、道に迷い、あっちこっちを彷徨(さまよ)いながら、右道や左道を突き進んで行くことができる。そうして必ずトラブルに見舞われ、不幸と辛酸を嘗めることになる。
 悪酔いして我欲のままに運転している者は、短絡的で刹那的なヴィジョンに終始しているので、後の事まで冷静に考える「理性」が、麻痺して働かない。
 悪酔い運転をする者の特徴は、感覚と反応が鈍くになり、気が大きくなって、何でも「大丈夫!」と、根拠無しに「自分の都合の良いように」考えて、理性と客観的判断力を喪失して、「自分だけは事故を起こさない」と夢想しながら、無茶な運転をしたり、暴走したりすることである。
 こうした酔っぱらい運転手の特徴は、日々の生活の中で、又は「人生行路」において、右道や左道を突っ走って行く者の特徴としてもそのまま妥当する。
 人生行路において「極端と過激」に偏る傾向を持つ者は、この点を心して、一刻も早く悪酔いから醒めるように努めるべきである。ちゃんとドライブイン(=深慮・内省する心境)に入って、自覚的に酔いを醒ますべきである。これは公共上の、運転者の社会的義務である。

 
(真−8−7)
 風に舞い散る落葉のように低級な衝動に翻弄され易い凡人が、右道や左道に偏らないで首尾良く中道を行くことは有り得ない事である。そもそも、「完全なる中道」走行を達成することは、凡人には不可能なことである。これができるのは「無為」と完全に連動することを成就した偉大な聖者だけである。
 それ故、凡人の分際で−−−<「完全なる中道」を達成する>−−−という不可能な課題を掲げるならば、大きな過ちを犯すことになる。これは一つの極端である。凡人は凡人らしく、己れの分を弁えて、謙虚なスタンスで−−−
<中道に、できる範囲で少しでも近づいて行くこと>−−−だけを課題として掲げなければならない。
 大切なのは−−−無理・無茶をしない範囲で、
「無為」との連動連結の程度具合を「日々確実に高めて行くこと」−−−これである。

 
(真−8−8)
 自分の実力を忘れた「高慢な完璧主義者」は、「完全なる中道走行」を目指して無理・無茶をして、焦り過ぎて躓き、痛い目に遭う。それに、隣人にも無理・無茶や不可能を要求し、押し付けるならば、それは圧政になる。
 そうではなく、謙虚なスタンスで「中道にできる範囲で少しでも近づいて行こう」とするべきである。
 そうすれば、この目標設定は、難し過ぎるものにも、簡単過ぎるものにもならない。
 これならば、誰にとっても丁度良い−−−<中位の難易度>−−−の目標になり、やる気の有る者ならば誰であれ、地道に真面目に挑戦すれば達成できる課題となる。
 このように−−−<中道を目指す事の難易度は中位である>−−−と、はっきり認識することは極めて重要である。
 何故なら、宗教の道では、勝手に「自分には難し過ぎる」と考えて挫折してしまう者が数多く居り、また反対に、勝手に「自分には余りに簡単過ぎてやる気も出ない」と馬鹿にして、真剣に取り組まない者が数多く居るからである。勿論、この両極端の感じ方は勘(感)違いであり、正しくは、誰にあっても、簡単過ぎることもなく、難し過ぎることもないものである。


(真−8−9)
 ここで、中道を(その近似値で)行くための「必須条件」を四つ挙げる。
(ゼロセクトの大道を志す者は、皆必ずこの「四要件」を充たすように努めるべきです。
これができないと、ゼロセクトの高度な道からは脱落してしまうからです。)
 
 1) 「中道志向の渇望心」を抱き、且つそれを養成すること
 2) 自己改善の意欲を燃やし、希望を抱いて日々「適切な内省」をすること 
 3) 「中道感知のバランス感覚」を鋭敏に働かせ、逸脱具合を絶えずチェックする
 4) 結果的に「克己力」が働くように、「正しい集中」を自覚的に渇望すること 
                                           
−−−以下、各要件について、詳説して行きます。



(真−8−10)
【要件1)】 「中道志向の渇望心」を抱き、且つそれを養成すること

 
 凡人が首尾良く中道に近づいて行くためには、「中道を志向する渇望心」が是非とも必要である。この種の渇望心無しに、偶然「中道」に入る、ということは有り得ない。
 怠惰で愚鈍な精神のまま「中道」に入ることは有り得ない。何故なら、「荘厳なる無為」と連動した光輝く精神は、怠惰で愚鈍な精神の対極に有るものだからである。
 中道を渇望しない者は、右道や左道を突き進むしかない。また、右道や左道を平気で突き進み、微塵も反省しないならば、その行為自体が、中道を渇望していないことの明白な証左と言える。
 そもそも、邪教に所属している者は、最初から「中道志向の渇望心」を抱いていないものである。寧ろ彼らは、最初から「極端や過激」を好み、高慢なスタンスで、不自然な緊張、不自然な修行、そして異常な迄の性急さ、等々を好んでいる。
 それ故、「極端や過激」を好む者たちは−−−邪教に所属していないか否か、又は、邪教的色彩の強い「偏狭で極端な教え」を信じ込んでいないか否か−−−謙虚になって自己を顧みて、能々(よくよく)自己点検すべきである。そうして、「中道志向の渇望心」を呼び起こし、それを養成して行くべきである。

 
(真−8−11)
 中道を渇望しない業の深い者は、必ず「トラブルと不幸と辛酸(辛苦)」に出会わなければならない。この三つが、業の深い分からず屋の「教師」となるからである。
 「トラブルと不幸と辛酸(辛苦)」という「権威有る教師」は、或る者には、時に強烈な一撃を御見舞いして、中道の価値と重みを教え、或る者には、何回もの転生の間に渡ってじわじわと鞭をふるいながら、心に浸み込むように中道の価値と重みを教える。
 こうした体験を経ることで、初めてこれらの者に「中道志向の渇望心」が「芽生え」て来る。それ故、既に「中道志向の渇望心」が「芽生え」ている者は「めでたし」(草−六−八六)と喜ぶべきである。その者は、(記憶の有無に関わらず)過去世で「権威有る教師」の教えを受けた体験を経ているからこそ、「中道志向の渇望心」を抱くに到った、と考えて良いからである。このように認識して、「中道志向の渇望心」を抱いている自分に喜び、この心を大切に育てて行くことが肝要である。これが「受けた恩寵」を無駄にしない秘訣である。


(真−8−12)
【要件2)】 自己改善の意欲を燃やし、希望を抱いて日々「適切な内省」をすること 

  
(@)「内省」について
 首尾良く中道に近づくためには「(適切な)内省」が必要不可欠である。
 「(適切な)内省」をしない者に叡智は無い。これをしない者に、叡智は流れ込んで来ないからである。「内省と叡智」は密接不可分の関係にある。内省が無くとも叡智は有ると言うならば、その叡智は偽りの叡智でしかない。
 そもそも、中道を行くには、叡智が必要である。叡智無くして、中道に近づくことはできない。「無知と中道」は水と油であって、親和性が無い。何故なら、行動、及び思想・信条・見識・想念等々における「絶妙な案配」は、(鋭敏な感性と一体化した)叡智によって調整されることで、初めて「絶妙な案配」になるからである。
 それ故、「中道志向の渇望心」が強く真摯なものであれば、それが動因となって、人は必ず叡智を求めて「内省」するようになる。
 従って、叡智を求めて内省する者は、この点においては既に賢い。業の深い者は、「トラブルと不幸と辛酸(辛苦)」という「権威有る教師」の「鞭」を骨身に滲みて味わって驚愕・恐怖するまでは(「四馬の譬え」真−2−25)「内省」を始めない。こうした者は、「(適切な)内省」をしないために業が深くなるのであり、業が深く愚かであるために「(適切な)内省」の価値を認めないのである。

 
(真−8−13)
 「内省」は或る種の「精神力」である。内省の入口は、外に向いている意識を内に向け直すことである。外的な事柄に気を取られている者にとっては、内に意識を集中して行くこと自体がかなり困難な作業であり、かなりの苦痛を引き起こすものとなる。
 精神的苦痛や抵抗感なしに内省に入れる者は、かなりの上級者と言える。
 逆に言うと、それ以外の者は皆、内省することに「或る程度の抵抗感」を覚える、ということである。従って、この精神的・生理的抵抗感と「自覚的に闘う」意志を持つことが、重要なポイントになる。
 内省しようというのは一つの意志である。内省しようと意志しない者は、内省できない。それ故、内省しようと決意して、自覚的に内省に入ろうと努めるべきである。

 
(真−8−14)
 ところで、ここで言う「内省」とは、日常用語の「反省や省察」と同義の浅い意味から、宗教的な「内観」という深い意味までを含む「最広義の内省」と捉えて良い。
 前者の「日常的な反省や省察」は、自己の言行を客観的に見直して観察・洞察・解析しながら、じっくり点検することである。これを本講では−−−<管制的内省>−−−と呼ぶ(詳細は、真−8−36)。
 また、後者の「宗教的な内観」は、内なる自己に意識を集中し、自我意識の不可思議に触れることを渇望しながら脚下照顧することである。これを本講では−−−<瞑想的内省>−−−と呼ぶ。(詳細は、真−8−36、「脚下照顧」の詳細は、真−14−1以下)
 そして、今ここでは、「瞑想的内省」については深入りしない。何故なら、これについて詳説するならば、膨大な量になってしまうからである。(「超宗教のバイブル」自体が「超宗教の内観」を詳説・伝授する書と言うべきである。)
 よって、ここでは、「管制的内省」について詳説する。
(中道を行くには、適切な「管制的内省」が必要不可欠である。宗教の王道を行きたいと渇望する者は、このことを忘れてはならない。)

 
(真−8−15)
 適切な「(管制的)内省」は、決して後向きのものではない。病的な回顧趣味のものでもない。これは飽く迄も、日々の、より一層の、段階的な自己向上・自己改善のために為される、実に建設的で前向きなものである。
 また、闇雲に「駄目だ、駄目だ」と自己否定の剣を振り回すことが真の内省なのでもない。否定の剣を振り回し過ぎれば「行き過ぎ」になり、中道から逸れてしまう。
 そもそも、「内省するその本旨」は「中道に近づくこと=行き過ぎの排除」にある。高い意識から自身を客観的に見渡して、「管制塔員のような目」で「過不足」を発見・是正し、適正なバランスを取ることにある。この点を決して忘れてはならない。
 尚、「適切な(管制的)内省」の入口は、「内観」の入口と同じである。即ち、静かに、客観的に自己を見つめようとすることであり、魂の静寂の中まで、深く没入して行こうとする時間を持つことである。こうした状態を確保した上で、自分の言動の省察に入るのである。

 
(真−8−16)
(A)「自己改善の意欲を燃や」すことについて
 「適切な内省」を行うためには「自己改善の意欲」を燃やすことが必要不可欠である。
 もしも、自己改善の意欲無しに内省するならば、その内省は形骸化して、堕落してしまう。それに、「正しい目的」を持たない内省は時間の無駄である。否、無駄、浪費であるばかりか、「後向きの内省」になって「有害な否定的想念」を生み出す元凶になることさえ有る。
 こうした「有害で不適切な内省」は、内省の形をしていても、断じて内省ではない。
 しかし、業の深い者にとって、自己改善の意欲を燃やすことは簡単なことではない。何故なら、業の深い者は「我」が強くて−−−<自分の非の認める素直さと謙虚さ>−−−が、通常著しく欠けているからである。業の深い者は、自己改善の意欲に燃えていないからこそ、業の深い者なのである。また、業の深い行為を平気で行う生活を積み重ねて来たこと自体が、「自己改善の意欲の欠如」の明白な証左なのである。

 
(真−8−17)
 業の深い者は「自己を正当化することに躍起になる」という(哀れな)習性を持っている。ひたすら自己弁護に明け暮れ、狂犬のように強弁し、自己の正当化に忙しい者に、真の叡智が有るはずがない。本人は賢いつもりで一所懸命に「自己正当化の論理」を考えて構築しているが、それは結局の所、単なる詭弁に過ぎない。「ウソ」を重ねているだけである。
 こうした自己欺瞞の巧妙な論理は、真の叡智から流出した「浄智(ソフィア)」ではなく、「有為」の穢れた働きから流出した「奸智」に過ぎない。
 業の深い愚か者は、自分の行く道が一番正しい道だと強弁する。まことに、「愚かな人の道は、自分の目に正しく見える(新改訳)」=「無知な者は自分の道を正しいと見做す(新共同訳)」(ユダヤ教聖書 箴言12章15節)と聖書にある通りである。
 愚か者は、自分の道が絶対に正しいと考える。闇雲に「絶対に…」という言葉を連発して強弁する。人間は不完全なので「絶対」は有り得ない、とも知らないで。
 これが愚か者ほど傲慢な所以である。これが邪道なる邪教に入信した者が、高慢で高圧的で「内省的でない」所以である。

 
(真−8−18)
 そもそも、「完全な中道」を達成できるのは、「無為」との完全連動を達成した偉大な聖者だけである。新約聖書ロ−マ人への手紙に「(完全に)正しい人(=義人)はいない。一人もいない」(3章10節)と書かれているのは、それ故である。とすれば、凡人は必ず、最も適正な中道からは「或る部分逸れている」ことになる。
 よって−−−<自分は聖者ではないから、自分の中には一部分必ず非が有る>−−−と謙虚に、在りのままに認めることが、自己改善の意欲を持つための第一歩である。
 傲慢にも「私にはもう自己改善の余地は無い。もうこれで良い。これで充分」と平気で言い放つ者や、「改善の余地はあるだろうが、もう歳だし仕方ない。これ以上どうなるものでもない」と開き直っている者は、自己改善の意欲を放棄している者である。彼らは、叡智から遠く離れた徒輩(ともがら)である。

 
(真−8−19)
 但し、総ての我の強い人間がこうした「完全無欠の傲慢」の中に住んでいるわけではない。そこまで重症の傲慢症に陥っているわけではないが、或る程度「頑迷」で気の弱い人間は、怖いものには思わず目を瞑ってしまうように、反射的に「自分の非」から目を逸らそうとして、ヒステリックなまでに自己を正当化しようとし、「適切な内省」から遁走しようとする。
 こうした反応は、心の何処かで薄々「自分は間違っている」と感じている証左である。だからこそ、それを認めたがらず必死に否定して「自分は正しい、自分は正しい」と自己暗示をかけて、自己肯定の「心地よい住まい」に逃げ込もうとするのである。これは非常に卑怯な振舞いであり、醜い保身の行動である。
 この種の者は、一度自分の非を認めてしまうと、それが「自分の全存在の否定」或いは「自分のそれ迄の大半の生活の否定」に直結してしまうのではないか、と恐怖している。
 又は、自分のプライドが引き裂かれ、自殺するほど落ち込んでしまうのではないか、と恐怖している。又は、「これ以上、人から馬鹿にされ、舐められてたまるものか」と虚勢を張っている状態が崩れて、「愚者振りが露呈」して「大恥」をかくので、これまで以上に「馬鹿にされてしまう」のではないか、と恐怖している。(業の深い心理機構)
 こうして、この種の人間は、無意識又は半意識のうちに「適切な内省」を断固として拒否する心情になる。この時の「頑迷固陋振り」は、恰もコンクリ−トの校庭が、雨水を撥ねつけて一滴も吸収しない様子の如きものである。

 
(真−8−20)
 こうした様子は、大きな「おでき」が出来てしまった患者に譬えられる。
 放置して大きくなってしまったおできに触ると、患者は激痛を覚える。それで、滅多なことでは患部に触れなくなってしまう。そして、「痛いから」と言って触らないうちに、病状は悪化の一途を辿ってしまう。早いうちに思い切って切開手術をして膿を出すか、強力な抗生物質の投与をしなければ、やがて敗血症で死んでしまう。
 確かに、「自分の非」を認めることは苦痛である。また、間違ったことを信じ込んで、それを習慣化してしまった場合には、真実に目覚めてその総ての「過ち」を自分の非として認めることは、それまでの自分を完全に崩壊させてしまうような落ち込みと激痛を引き起こす。
 しかし、過ちを犯した時には、因果律の法によって、何人もその罪と責任を負わねばならない。よって、そうした激痛から逃れることは不可能である。厳しいようであるが、慚愧の涙を通らずに、大きな罪を償う道など何処にもない。

 
(真−8−21)
 我の強い者は、皆「甘ったれ」である。苦痛無し安易に立ち回ろうとして、自分のやったことは棚に上げ、自分の都合の良いことだけを考える。それ故、我の強い者は、幼児が病院で手当てを受ける時に「嫌、嫌」をして大泣きするように、何としても苦痛から逃れようとして、もがき暴れる。そうして「自分の非」を認めることはしないで、反対に自己弁護や自己正当化に躍起になって、一歩も後には引かない態度に出る。こうして、無数の言い訳が作り出され、無数の詭弁が捏造される。その結果、ひねくれた言葉が生み出され、ただでさえひねくれた性格が更に悪化する。
 それに較べて、叡智に近づきつつある者は、自分の逸脱部分を謙虚に認める。そして、より一層の向上のために、至らない部分を少しでも矯正して行こう、と日々努める。
 「良き修行者」は、中道を愛し、「中道志向の渇望心」を燃やし、誰に強制されるわけでもなく、自分から進んで日々「内省」に励む。
 「良き修行者」にとって、自分の非に気付くことは内省の一つの成果であり、小さな達成の喜びである。何故なら、態々(ワワザザ)内省の時間を取って自分の非を見つけようとしている努力がまさに実る瞬間だからである。それ故、「良き修行者」は、自分の非を認めることに「多少の苦痛」を覚えたとしても、積極的にそれを受け入れる。そして、より一層、自己改善の意欲を燃やして、前向きに日々を過ごして行こうと、決意を新たにするのである。

 
(真−8−22)
 慚愧の涙を通らずに、大きな罪を償う道は存在しない。これが霊的法則である。
 そうであれば当然、大きな過ちを犯す前、即ち、小さな過ちの段階で早目に償ってしまった方が遙かに楽で、苦痛も少ない。これは丁度、おできが大きくなる前に早期発見できれば、治療は簡単で苦痛も小さく、治療期間も短くて済むのと同じである。
 それ故、おできが悪化して大きくならないように、日頃の点検・早期発見・早期治療、そして「普段の清潔」が大切であるのと同様、「日々の内省」が肝要なのである。
 尚、「おできの譬え」は「飛行機の舵取り」に譬え直すこともできる。
 中道という理想の飛行コ−スから大きく逸れてしまう前に、早目に軌道修正をかけた方が、遙かに楽で苦労も少ない。小幅な軌道修正のためには、小さな自己制御力(克己力)で充分である。しかし、大幅な軌道修正のためには、大きな自己制御力(克己力)が必要になり、多大な力が必要になる。(「克己力」の詳細は「真−10−1」以下)

 
(真−8−23)
 自己制御力(克己力)の弱い者が、いきなり大幅な軌道修正をしようとしても、それをするだけの自己制御能力が備わっていないのだから、それは無理である。
 地道な精進を毎日重ね、自己制御力(克己力)を一歩一歩増大させた結果として、強い自己制御能力を得ているのでなければ、大幅な軌道修正はできない。
 それ故、できるだけ早期に、つまり、大幅な軌道の逸脱として固定的になる前に、軌道の逸脱を感知して、速やかに軌道修正することが肝要である。だからこそ、日頃から怠りなく「内省」をすべきなのである。
 この「早期発見・早期治療の原則」を能々(よくよく)理解する者は、自ずと「毎日」内省するようになる。(第二要件の中に「日々適切な内省をすること」とある。この「日々」という文言は「早期発見・早期治療の原則」と直結したものである。)

 
(真−8−24)
(B)「希望を抱いて」という要素について
 「適切な内省」のためには−−−<「必ず改善できる」という希望>−−−を抱くことが必要不可欠である。「内省しても、どうせ改善なんてできるはずがない」と「静かな絶望」を抱くならば、内省の意志だけでは内省を続けられず、やがて内省しくなってしまう。
 内省するほどに暗くなり、落ち込んで行く者がいる。これは「光の信仰と希望」を持っていないことが原因である。
 徒に自分を否定するだけの「後向きの内省」(マイナス思考)は、真の内省ではない。前向きの建設的な、自己改善の希望や、祝福に満ちる希望を抱いての「内省」こそが、正しい内省である。
 尚、不信仰で我が強い者は、いつも絶望と隣り合わせの状態に居る。何故なら、絶望は不信仰と悪行の結果到来するものだからある。それ故、業の深い者にとって「自分の非を認めること」は「絶望のどん底への転落」に直結するので、断固「非を認めない」のであり、そもそも「内省」しようとしないのである。従って、こうした業の深い者も、「希望を抱く術(スベ)」さえ持てば、こうした悪循環から脱出することが可能になる。

 
(真−8−25)
 いつの時代でも、穢れた霊の軍団は、人々を何とか「中道」から脇道に逸らせようとして躍起になっている。穢れた霊の軍団は、自分たちが邪道に落ちているために、同じ仲間を増やすことに喜びを見出しているのである。彼等は、人々が邪道に方向に進むように様々な働き掛けをして、それが上手く行くと大喜びする。彼等は「自分たちと同じ境遇」に人々を引きずり下ろすことで、低級な満足を得ているのである。
 そして、穢れた霊の軍団の大きな仕事の一つは、人々から希望を奪い取り、代わりに「失意と絶望」を置いて行くことである。それ故、(第二要件の文言のように)「希望を抱いて」内省することは、容易なことではない。
 「不屈の希望」を抱き続けるためには−−<自覚的に希望の油を汲み上げて>−−−自己改善の意欲という「聖火」の燃料にする必要が有る。何故なら、こうした自覚がない人間を相手にすると、穢れた霊の軍団は、いとも手易(たやす)く希望を絶望にすり替え、意欲を失意にすり替えて、修道者を挫折させることができるからである。

 
(真−8−26)
 そして、「自覚的に希望の油を汲み上げる」ためには、「荘厳なる無為」の力に意識を向ける必要が有る。
 「荘厳なる無為」は、霊性修行の道を行く者に、無尽蔵の「希望の油」を供給できる「大油田」である。何故なら、「荘厳なる無為」は、太陽を燃やし、惑星を公転させ、無数の生命を育み、四季を作り、万象を転変させ、宇宙全体を支えている圧倒的な営為だからである。
 今現在も、この力は圧倒的に壮大なスケ−ルで作用している。よって、この力に信頼を置くべきである。そして、この力に希望を置くべきである。「荘厳なる無為」の力が総てを好転させてくれる、という熱い期待と希望と確信を持つことである。
 真理の力を侮るなかれ。「無為」なる真理の力の方にこそ、覇権が有るのである。(真−2−26以下)

 
(真−8−27)
 「有為」の穢れた力にこそ覇権が有る、という「転倒したヴィジョン」を綺麗さっぱり捨て去って、「無為の偉大・壮大な力」の覇権を信じて、これに信頼を置くことができるようになりさえすれば、この者は、太陽のように輝く建設的で眩しい程の−−−<陽性の内省>−−−ができるようになる。(よって最早、暗く落ち込むことはない。)
 斯(か)様に、「荘厳なる無為」から自覚的に希望の油を汲み上げつつ、自己改善の意欲に燃えて、日々「陽性の内省」をするならば、この者の前途はまことに明るい。
 但し、「陽性の内省」が、本人がそれと気付かぬうちに、いつしか不適切な内省・誤った内省に陥ってしまうことも有り得る。こうした事態を防ぐためには、「適切な内省」を司る「中枢」について押さえて尾くことが肝要である。そこで、「適切な内省」について付言する。

 
(真−8−28)
(C)“適切な”内省について
 「適切な内省」は「ヘッドワ−ク」即ち「マインドの力」によるものでは決してない。
 「適切な内省」は「ハ−トの力」によるものである。泥の中でも猶穢れ無く清浄な花を咲かせる白蓮の如く、人の心中の奥底に埋蔵されている「純白の良心」が陰に陽に作動して、「適切な内省」を形成するのである。(如来蔵の働きと言っても良い。)
 (正法の衰微した)末法の世においては、悪行をしても何とも思わない人間が数多く発生するが、平然と悪行ができるのは「良心が麻痺」しているからである。良心が「無い」からでは決してない。
 或る者は、「大部分の良心が麻痺している人間の良心は穢れており、その者の良心は信じるに値しない」と言う。しかし、「適切な内省」とは、完璧な内省を意味しない。飽く迄も「純白の良心」が「満月」の如くに立ち現れるのを助けるべく、穢れた良心・麻痺した良心をリハビリして、鋭敏に作動するようにして行くことを意味する。(よって、三日月の如き良心であっても、それなりの内省は可能である。大切なのは、内省を継続することで、その力を育成して行くことである。)

 
(真−8−29)
 或る者は、「良心の総てが完全に麻痺してしまった人間は、もはや『適切な内省』はできないのではないか」と問う。
 これに関する答えは、一つの奥義であり、告げられる奥義が真実か否か、凡人には確かめる術(スベ)が全く無い。よって、徒にこの問題だけをあれこれマインドで考えても、時間の無駄になるだけである。釈尊が瞑想の実践に直接結びつかない「枝葉末節の教義」の質問に対して沈黙を守り通したこと〔※註1〕は、至極道理に適った振舞いであった。あれこれマインドで雑念を巡らすことが釈尊の教えなのではない。それを停止した瞑想の実践こそが、釈尊の教える道だからである。
 「無為」と連動した正しい瞑想が一つもできないまま、徒に様々な枝葉の教義を詮索し、それに詳しくなっても、全く無意味である。(否、無意味以上に有害でさえある。何故なら、瞑想力が無いままにマインドの働きだけを強めようとすることは、「有為」の増大を招き、霊的穢れの増大を招くからである。)
 それ故、修行者は、マインドであれこれ無益な詮索をして時間と勢力を浪費しないようにすべきであり、そうして、気を散らさずに、日々「適切な内省」に集中し、「管制的内省力と瞑想的内省力」の両者を共に強化して行くように、懸命に精進することが大切である。

 
(真−8−30)
〔※註1−−−釈尊は信徒たちから受けた「枝葉の教義」に全く取り合わなかった(無記を通した)のであるが、こうした質問を仏教では「十難=十の難問」又は「十四難=十四の難問」と称する。しかし、それらは「難問」なのではない。「真に高い瞑想」に入る「強い内観力」を会得した者にとって、それらの質問に答えることはいとも手易(たやす)い事である。
 しかし、事の真偽を確かめる術が無い以上、信徒はそれを「信じる」(といっても、この場合は単に「正しいと思い込む」)しかない。しかし、こうした振舞いこそが「正しい瞑想行」に逆行する「有為」なのだと知るべきである。「真の瞑想」とは「我の思い込み」と「有為」を抛捨して行く道である。//〕〕


(真−8−31)
 とは言え、超宗教の無碍自在性からすると、マインド単独の詮索は「有為」であるが、「無為」と連動した「無為」主導のマインドの思弁は「有為」に当たらない。よって、この見地から敢えてこの問いに答えて置く。
 その答えは「然り」である。即ち、良心の働きが「完全な麻痺」によって作動不能になってしまった場合には、もはや「適切な内省」はできない。やりようがないからである。
 但し、現世であれ、霊界であれ、人間として生きており、意識がある以上、「トラブルと不幸と辛酸(辛苦)」という三人の厳しい教師が鞭をふるうことから逃れることはできない。
 それ故、この三人の教師の強烈な鞭を受けて、麻痺した良心が作動するようになる可能性は常に存在する。
 しかし、こうした強烈な鞭打ちを与えても猶、良心が全く作動しないほど極悪な状況に立ち至った場合、つまり、良心が完全に凍結し、自己制御の可能性を完全に喪失した人間は、生物としての存在理由・存在価値をも喪失してしまうので、霊界の最下層の底にまで降下して行き、そこで遂には「魂の解体・抹消」という末路(真の霊的な死)に至る以外に道は無い。
 何故なら、総ての生物は、「荘厳なる無為」との連動性の中で生み出され、それとの連動のために存在し、「無為」との連動性を増大させて行くことの中に、その存在価値があるからである。これが「見えざる奥義」である。

 
(真−8−32)
 さて、本題に戻る。
 「適切な内省」は、ハ−トの力による。決してヘッドワ−ク、マインドの力によるものではない。それ故、単に学校で勉強のできる者が「適切な内省」をすることができる者なのではない。上辺の頭の良さだけでは「適切な内省」は決してできない。「有為」なる「奸智」に依って「適切な内省」ができるはずがない。
 心無い「機械的な冷たい内省」は、マインドで形成される。これは「適切な内省」ではない。一方、心有る「温かい内省」は、ハ−トで形成される。こうした内省こそ「適切な内省」である。思いやり、親切、愛情、友情等々は、ハ−トから流れ出るものである。同様に、悔いる思い、慚愧の念もまた、ハ−トから流れ出るものであり、真の叡智もまた、ハ−トから流れ出るものである。
 世の中には、勉強はできるが内省力に欠けており、すぐに自分を見失って罪に走ってしまう(その意味で)愚かな人間がいる。一方、勉強はできなくとも内省力があり、容易には自分を見失うことがない誠実で謙虚な(その意味で)賢い人間がいる。

 
(真−8−33)
 どんなにマインドが発達していても、だからといってそれが即、清廉な道徳観に直結するかと言えば、そんなことは全くない。
 例えば、百手、二百手もの先を読み通すマインドの発達した囲碁や将棋の達人(その意味で、傑出して頭の良い者)であっても、千人斬りを自慢してみたり、風俗嬢の所に入り浸ったり、不倫の泥沼に嵌まって胎児を堕胎させたり、不倫相手を自殺未遂に追い込んだりすることも有る。この例で分かる通り、真の内省は、囲碁や将棋の手順を読むようなヘッドワ−クとは全く異質・異次元の心の営為なのである。
 他にも、上辺の知識量だけが多い「偽りの叡智」と、「適切な内省」による「真の叡智」との異質性を如実に示す例は沢山有る。例えば、エリ−ト官僚の接待汚職事件や、警察キャリアの怠慢と不正の数々などがそれである。
 日本国民の多くは、メディアを通して、エリ−ト官僚(彼らは最高峰の大学を卒業し、上級職試験を合格した、一応頭の良い人間たちと言われている)の多くが、清廉な信条を持たず、恥も知らず、平気で保身のために嘘をつき、詭弁を弄し、国民を愚弄して平然として微笑む姿を、何度も目にしている。
 日本国民の多くが度々目にする光景は、小さい頃からマインドだけを主に信じて受験勉強に励み、エリ−ト街道を登って来た人間たちが、「悪しきエリ−ト意識」の虜となり、「傲慢で醜悪な天狗」と化し、人間として最も大切な「良心」を失い、「恥」を感じる良心を麻痺させて堕落した「ゾンビの如きおぞましい姿」である。

 
(真−8−34)
 日本国民の多くは、こうした光景を嫌と言うほど見ることで、勉強ができるだけの(制度上の、一応の)エリ−トたちが、本当は決して「賢い人間ではない」ことを、何度も何度も繰り返し学んでいるはずである。
 この学び、この教訓はまことに重要である。正法の世をもたらすためには、こうした認識が国民総ての認識になる必要があるからである。
 勉強の出来る者が賢いのではない。奸智に長けた者は賢者ではない。こうした者は、ただ小賢しく狡賢く、「有為」の肥大化した醜悪でおぞましい、厚顔無恥の「外道の輩」に過ぎないのである。
 こうした「内省力の欠如した人間」が国政を担当するのは、(正法の衰微した)末法の世だからである。末法の世は、価値観の本末転倒した世の中であるから、ハ−トの教育よりも、マインドの教育に価値を認め、マインドの長けた者に地位と権力を与える。
 しかし、(来るべき)正法の世では、ハ−トの教育が優先され、鋭敏なバランス感覚と豊かな人間性と清廉な道徳観に裏打ちされた「内省力に長けた者」が、国政を担当するようなシステムが構築されるであろう。何故なら、正法の世では、無知で無恥なる醜悪な破廉恥な輩による国家統治など、(レベルの高い)国民世論がこれを断じて許さないからである。

 
(真−8−35)
 −−−以上、正しい道を志す者は、「適切な内省」を保つために、常に「良心」を研磨して「鳩の如く鋭敏な状態」であるように努め、加えて日々更なる「良心の鋭敏化」に努め、やがて「満月の如き欠ける処なき良心」が現れ出るように努めるべきである。そして、そのためにも、「心有る内省」に日々努めなければならない。
 呉々も、マインドだけの冷たい内省に陥ることなかれ。

 
(真−8−36)
 最後に、第二要件(「内省」要件とも言える)を纏(まと)めよう。
 「心有る内省」、建設的で陽性の「管制的内省」が大切である。
 「管制的内省」とは、内なる鋭敏な「良心」の声に基づき、自己を省みて良く点検し、客観的に見つめながら、適切に自己制御するために「管制する意識」を働かせる内省のこと。
 この「管制的内省」を続けると「心有る正しい内省力」が養成され、深い意味での「内観」即ち「瞑想的内省」の道が開けて来る。
 「瞑想的内省」とは、内なる方向、内なる自己に意識を集中し、自我意識の不可思議を明らかにすることを渇望しつつ、「脚下照顧」することである。そして、「無為」と「有為」との関係を明らかにすることを渇望しつつ、自分自身の精神状態やその動きを観察・分析して、自我についての理解を深めて行くことである。そして更には、「荘厳なる無為」との一層の連動を渇望しつつ、「荘厳なる無為」に意識を集中し、「無為」の流れに乗って瞑想して行くことである。
 ここに挙げた「管制的内省・瞑想的内省」の内容は特に新しいものではない。どの宗教であれ、名称に差があっても、様々な形で「内省」は行われていたし、これからも行われて行くであろう。
 まことに、「内省」は、諸宗教の中の「普遍的、超宗教的な営為」であり、霊性修行の道をしっかり進んで行く上で、不可欠の営為である。
 −−−以上で、中道を行くための「四要件」、その第一、第二要件の解説を終了する。
 

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