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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第9章 「中」とは何か?New!

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第九章 「中」とは何か?

「本物の縁起の法」の公開と連動して、この章はリライトされます。
以下の旧版は、間もなく破棄され、お蔵入りとなる予定です。

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第九章  修行における中道の要件3
        −−−中道を行くための「四要件」、その第三要件 


(真−9−1)
【要件3】 「中道感知のバランス感覚」を鋭敏に働かせ、逸脱具合を絶えずチェックする 

 
 「中道感知のバランス感覚」は「自転車漕ぎの譬え」(真−7−20)の通り、万人に内在している。そして、この感覚は、如何なる聖言よりも上位のものとして優先され、大切にされなければならない(真−7−19以下)。
 中道は聖言だけでは決して達成されない。中道の絶妙な案配は、飽く迄も各人が自分のバランス感覚を駆使して探り出し、そうして成就するものである。
 聖言は“一般的な”法を語る。しかし、信仰者の抱える問題は“個別的”である。
 一人一人、右に行く傾向を持つ者もいれば、左に行く傾向を持つ者もいる。それ故、信仰者は一般的な法を学んだ上で、中道を行くためには右に寄るべきか、左に寄るべきか、自分で判断しなければならない。自分の傾向を知らず、闇雲に聖言の一つを選んでそれを盲信し、そればかりに固執すると、どんどん右や左にばかりに行ってしまう人間が出来上がる。こうして、大きな間違いを犯し、数々の不幸を招くことになる。
 有限なる聖言が、無数の信仰者一人一人の個人的バランスに携わることは不可能である。バランスを取る責任は聖言に有るのではない。飽く迄も個人個人の側に有る。
 甘えることなかれ。闇雲に聖言に頼ることなかれ。超宗教の大道を志す者は、飽く迄も各人に内在する「中道感知のバランス感覚」に頼って、自分でバランスを取らねばならない。

 
(真−9−2)
 諸宗教(宗派)によって、一口に「聖言」と言っても色々有り、戒律も様々である。「どの言葉を聖言として認定するか」についても、諸宗教(宗派)によって意見が分かれ、争いが有る。しかし、こうしたカオス的状況の中でも、超宗教の大道を志す者は決して動揺したり混乱したりしてはならない。
 超宗教の大道では、そうした“外的な”聖言の内容や解釈よりも、「中道感知のバランス感覚」が優先される。それ故、或る教団が或る一つの聖言に極端な解釈を施して教えていたとしても、超宗教の道を行く者は、特定教団の解釈に惑わされることなく、自分自身の内的なバランス感覚を駆使して、聖言を正しく解釈しようと努めねばならない。そうやって、「盲従」することなく、自己責任で謙虚に聖言と向き合うならば、その者の理解と解釈が「正解」から大きく外れることはないはずである。

 
(真−9−3)
 例えば、或るキリスト教団が「姦淫とは、他人の妻と不倫関係になること、及び他人の妻を淫らな思いで見ることを言う」と解釈し、それを前提に「未婚の女性に対して淫らな思いを抱いても姦淫には当たらないし、未婚の女性と婚前交渉することも姦淫に当たらない。それ故、未婚の男女のフリ−セックスは、姦淫に当たらず許される」と解釈して、信者に教えていたとする。そして、フリ−セックス好きの男女がそれを聞き、自分たちの猛り狂う欲望をその教団が聖書を使って見事に肯定してくれたのを見て、「まさしくこの教団の言うことは正しい」と欣喜雀躍し、早速入信して、フリ−セックスに耽る自堕落な生活をしたとする。
 この場合、信者は「自分たちの行為は、聖書の姦淫に当たらない」と信じている。しかし、だからといって彼らが姦淫の罪を犯しているという客観的事実は動かすことはできないし、彼らが犯している姦淫の罪と責任が免除されるわけでもない。
 この場合、もしも彼らが自分自身の内的なバランス感覚を行使して、聖言を正しく解釈しようと努めて、謙虚に自己責任で聖言と向き合っていたならば、教団の解釈(「既婚者を含む不倫は姦淫に当たるが、未婚者のフリ−セックスは姦淫に当たらない」)は、著しくバランスを欠いた捻じ曲がった解釈であることに気付くはずである。

 
(真−9−4)
 自分勝手な解釈は無限に捏造できる。聖言を歪めることは幾らでも可能である。聖言を歪めるのは人間の「有為」の働きである。聖言は、正しく解釈されようと、間違って解釈されようと、そうした人間の勝手な解釈に関わり無く聖言であり続ける。
 聖言を正しく解釈するには、正しい目と正しい態度、そして「中道感知のバランス感覚」が鋭敏に働いていることが是非とも必要である。その時に初めて、聖言を邪見無しに見ることができる。
 これがどんな聖言よりも「中道感知のバランス感覚」の方を優先すべき事の根拠である。こうしたスタンスを持つ時に初めて、人は特定宗教から超宗教の立場へと飛躍することが可能になるのである。こうしたスタンスを持つ時に初めて、どの宗教の聖言を見たり聞いたりしても、決して動揺することなく、混乱することなく、冷静に統一的に解釈することができるようになるのである。

 
(真−9−5)
 中道は、理解の便宜上「一直線の舗装道路」に譬えることもできる。しかし、この道は決して目に見えるものではない。よって、「無形の中道」を、目に見える舗装道路としてイメ−ジしてはならない。そもそも、中道を行くことの主な困難性は、道が「見えない」ことにある。 従って、中道は「透明な舗装道路」に譬えた方が良い。不可視の道である以上、中道は「感覚」で探り出さねばならない。右に寄り過ぎたと感じれば左に寄って調整し、左に寄り過ぎたと感じれば右に寄って調整する。こうしたバランス感覚を活発に働かせるしかない。
 怠惰に居眠りしていては決してバランスを取ることはできない。また当然のことながら、他人が本人に代わってこの感覚を使用してあげることもできない。それは、他人が本人の代わりに悟ってあげられないのと同じである。飽く迄も、「中道感知のバランス感覚」は自分で駆使し、自分で熟達して行く必要が有る。それを「嫌だ」と言っても、「うまくできない」と駄々を捏ねても、この義務から逃れることは決してできない。呉々も甘えることなかれ。

 
(真−9−6)
 或る者は、「全部の人々に<中道感知のバランス感覚>を要求するのは酷である。それを持ち合わせていない人間もいるはずである」と反論する。しかし、総ての人間にこのバランス感覚が内在している、というのが真実である。(但し、諸般の事情により、顕現の度合いに差異が有るのは当然である。)
 内在していて、使用すれば使用できるものを、使用しないで自分で錆び付かせてしまうならば、それは本人の責任である。こうした人間を「バランス感覚を生まれながらに持ち合わせていない人間」と呼ぶことはできない。こうした人間は、使用すべき感覚を使用しなかった罪、使用を怠った罪について、自分でその代価を支払わねばならない。
 もし仮に、人間が、生まれつき「中道感知のバランス感覚」を全く持ち合わせていない生物だとしたならば、どうなるか。
 そうなると、地上は滅茶苦茶な世界になってしまう。この場合、因果律は在っても無益なものになってしまい、カルマの法則が働かない世界になってしまい、右道や左道を好き勝手に行き、どんなに邪道・邪悪なこと、どんなに悪い罪を犯しても、その人間は如何なる霊的な罪も責任も問われないことになってしまう。

 
(真−9−7)
 では何故、如何なる罪も責任も問われないことになってしまうのか。
 一言で言えば、期待可能性が無くなり、非難可能性が無くなり、責任能力も無くなるからである。もしも、人間に正しい道と方向とを感知する能力が全く備わっていないと仮定するならば、そういう人間に正しい選択を期待すること自体が、そもそも無理な話、不可能な期待ということになってしまう。そうすると、「正しい行為の選択能力ゼロの人間」即ち、正しい行為を認識することも意志することもできない人間に、罪や責任を負わせるならば、それは「理不尽な非難」であり「不合理な罰」ということになる。そして、「荘厳なる無為」の働きに理不尽や不合理は存在しないので、霊的な法則の上からは、こうした状態の人間は何の罪も責任も課されないことになるしかない。〔※註1〕

 
〔※註1−−−創世記の寓話では、アダムとエバは、善悪を知る木の実を食べる以前、二人は罪も罰も無く、過誤と償いも無く、幸福であった、とされる。二人は、善悪を知ることができないのだから「善悪選択能力」も無く、責任能力も無い状態と言える。(この寓話については真−10−2「註1」、真−19−3〜5、星−11−67 註閉じる〕〕


(真−9−8)
 兎に角、期待可能性も無く、非難可能性も無く、責任能力も無いのが人間だ、と仮定すると、罪も無く、罰も無いことになり、霊的法則の上からの「罰としての苦しみは皆無」ということになる。しかし、現実世界を見れば、そうでないのは明らかである。
 まことに、人間は如何なる行為についても、その罪と責任が問われる存在である。だからこそ人間界には不幸と悲惨が渦巻いているのである。また、だからこそ人間には、それらを超越して行くための「道」としての「宗教」が用意されているのである。
 こうしたことは、人間に正しい行為を期待するに充分なだけの基本的能力として、「中道感知のバランス感覚」が人間には生まれつき内在していることを明確に示すものである。

 
(真−9−9)
 従って、次のことが明らかになる。即ち、或る信仰者が極端な教義を持つ邪教教団に間違って入信し、その教団の極端な教義の影響で、殺人・強姦・強盗・傷害・偽証・詐欺・誘拐等々、大きな罪を平気で犯すようになってしまった場合、その罪と責任は(或る程度、教団側にも有るのは当然であるが)、(飽く迄も)信仰者本人に有る、ということである。
 何故なら、この信仰者は自分の中に内在する「中道感知のバランス感覚」を適正に働かせることを怠ったのであり、更には、その感覚を自分の浅薄な「有為」の思考によって圧殺してしまい、その結果、容易に邪教の教義を受け入れてしまった処に、大きな過ち、咎められるべき点が認められるからである。

 
(真−9−10)
 また、(前述の通り)或る者が邪教教団の一つであるキリスト教一派に入り、その中で「他人の妻への淫らな思いは姦淫の罪に当たるが、未婚の女性たちとのフリ−セックスは姦淫の罪に当たらない」と教えられ、それを真に受けて、未婚の女性たちとのフリ−セックスに明け暮れたならば、その罪と責任は(或る程度、教団側にも有るのは当然であるが)、(飽く迄も)信仰者本人にある、ということである。
 何故なら、この信仰者が「中道感知のバランス感覚」を正常に働かせる意欲が有ったならば、この教団の「教え」が「おかしい」ことは充分感知可能なことだからである。自分の隠れた欲望について教団側から「免罪符」を与えられ、喜んでそれに乗ってしまった処に「内省の欠如」があり、大きな過ち、咎められるべき点が認められる。

 
(真−9−11)
 また、或る者が、極右思想を持つ両親の子供として生まれ、幼少時からずっと極右思想を教えられて育ち、それ故にその者がテロリストになって多数の人命を殺傷した場合でも、その罪と責任は(或る程度、両親側にも有るのは当然であるが)、(飽く迄も)その者自身にある、ということである。
 このことは、泥棒の両親に育てられた子供の場合も同様である。「泥棒の子は泥棒になっても良い」という法はない。如何なる環境の中で育っても、通常人のレベルで意識が働いている限り、「全部が全部、他人の責任になる」ということは有り得ない。必ず本人の責任部分が存在する。何故なら、外からの影響とは別に、本人の中で、正しいバランス感覚が、内からの声として作用しているからである。だからこそ、行為や思想の形成と選択について、本人の罪と責任が問われるのである。

 
(真−9−12)
 いつの世にあっても、如何なる地位や肩書にある者であっても、如何なる環境にある者であっても、「中道感知のバランス感覚」を鋭敏に働かせているか否かは、常に厳しく問われる処である。まさに−−−
<例外なく総ての人間に「中道感知のバランス感覚」を「使用する責任」と「養成する責任」が課されている>−−−これが法であり、厳しい現実である。
 何人もこの責任から逃れることは決してできない。ならば寧ろ、積極的に真正面からこの責任と向き合って、この責任を正しく全うして行くことこそが正道である。
 (正法の衰微した)末法の世においては、中道を感知する能力の使用責任と養成責任は、世人から蔑ろにされ、踏みつけられ、無視され、嘲笑される。それ故、これらの責任に対する世人の認識不足によって、無数の不幸と悲惨がこの世に形成され、出現することになる。
 しかし、正法の世においては、これらの責任は人間教育の<基本中の基本>として位置付けられ、初等・中等・高等教育の課程の中で、徹底的に教え込まれる。それ故、多くの者はこれらの責任について深く認識し、これらの責任から逃避することなく、積極的にこれらの責任を全うするように努めるようになる。その結果、不幸と悲惨が著しく減少し、個人にも社会にも、正法と安全と幸福が満ち溢れることになる。

 
(真−9−13)
 では次に、実際の霊性修行において、「中道感知のバランス感覚」を養う上で役に立つ「チェックの仕方」を次に示す。
 「霊性修行における中道」を「透明な舗装道路」に譬えた場合、縦軸に「前方への進み具合、及び、前進の速度」を取り、横軸に「方角のブレ」を取る。
 第一に、縦軸として、「前方への進み具合」についてチェックする。
 即ち、目的地に向かってちゃんと「前進しているか、それとも後退しているか」を自己点検する。「順調に進歩前進しているか」「段階的に自己改善・自己超越がなされているか」「魂は向上しているか」「自己の純粋性は向上しているか」「意識が散漫になっている時間が少しずつ着実に減少しているか」「日々集中力は増進しているか」「我欲が減少し、ついつい放縦に身を任せてしまう性向から徐々に脱却できているか」等々、これらの点を謙虚に内省すれば、自ずと進歩の程度が或る程度感知できる。
 「順調に前進している」と手応えを感じる者は、一層のやる気と決意を新たにして道に励めば良い。「以前より後退してしまった」「以前より堕落してしまった」「集中力も減退し、散漫になることが増え、不純な想念と行動も増大して来た」と感じる者は、大いに自分の生活を悔い改める必要が有る。そうして、新たに仕切り直して、強い決意で再挑戦すれば良い。何度でも何度でも、再挑戦すべきである。できる範囲で頑張れば良いのだから、決して途中で諦めてはいけない。

(真−9−14)
 次に、縦軸のもう一つの局面として、「前進の速度」についてチェックする。
 即ち、「十年前の自分と較べて、今の自分はどう変わったか」「五年前と較べるとどうか」「三年前では? 一年前では? 半年前では? 三ヶ月前の自分と較べるとどうか。どれ位進歩しているか」等々、これらの点について謙虚に内省すれば、自ずと進歩の速度が或る程度感知できる。
 「十年前と今では内的に殆ど変わっていない」「ここ数年間、遅々として進歩していない」と感じる者は、その状態に甘んじないように、向上心を掻き立て、渇望心を燃やし、決意を新たにして、これ迄以上に精進すべきである。
 一方、「確かに少しずつ進歩している」「以前より意識が高くなっている」「どんどん霊的視野が開けて来た」「霊的静寂を感じる機会が多くなり、平静なマインドを保てる時間が長くなって来た」「祈りの熱意が増して、祈る内容も充実して来た」「少しずつ瞑想というものが分かって来た」「聖言の意味が以前より明瞭に分かるようになって来た」「以前より多くの聖言に触れるようになって来た」「聖言を味わうのが楽しみで仕方がなくなって来た」「聖言を以前より深く味わえるようになって来た」「日々の生活に聖言を有効に活用できるようになって来た」「毎日祈らないではいられなくなって来た」「無私の気持ちでする行為が多くなって来た」「叡智と光が増して来た」「確実に肉欲が減少して来ている」「確実に想念面でも純粋性が増して来た」「以前より肉欲的想念を楽しむことが少なくなって来た」等々、と感じる者は、たとえ向上の速度が自分の希望よりも遅いものであったとしても、確実に進歩している事実を確認して、意を強くし、志を更に強くすべきである。

 
(真−9−15)
 そもそも、何事も一つの状態に完全停止していることは有り得ない。万物万象総てが絶え間なく活動している。ミクロのレベルでは、絶え間なく原子核がスピンしており、その周りを電子が回転している。マクロのレベルでは、絶え間なく小宇宙が発生する一方、他の小宇宙は消滅している。そして身近なレベルでは、太陽が絶え間なく核融合爆発によって多量のエネルギ−を地球まで送り続けており、地球では無数の生物がその恩恵を受けつつ、絶え間ない生と死の壮大なドラマが展開している。
 まさしく、活動こそが宇宙の基本法則である。それ故、修道者も一処(ひとところ)に完全停止していることは有り得ない。一瞬一瞬、前進しているか、後退しているか、二つに一つである。修道者は、このことを肝に銘じて置くべきである。

 
(真−9−16)
 それ故、「向上の速度」を自己点検して、「二歩進んで一歩退がる」状態であれば(それは「十歩進んで一歩退がる」よりはずっと遅々とした進み具合であるが)、或る程度「良し」としなければならない。何故なら、元来、一歩も後退せずに、ひたすら進んで行くことは不可能なことだからである。必ず、小さな挫折、小さな失敗は常に付き纏う。寸毫の後退も無く一直線に前進することは自然に反する。何故なら、生命の進化の過程は<螺旋状>に上昇して行くものだからである。
 余りに性急な態度で、目的地に着こうと躍起になり、速度を出し過ぎると事故を起こしたり、躓いたりする。安全運転するためには、<中位の速度>が丁度良い。それ故、焦り過ぎず、怠惰過ぎず、ほど良い精進の速度を保つために、鋭敏な「管制的内省」を絶えず働かせているべきである。

 
(真−9−17)
 次に、横軸として、「方角のブレ」についてチェックする。
 即ち、自分は「右側に偏っているか、左側に偏っているか」を自己点検する。偏りが無いという人は無い。偏見が微塵も無いという人もいない。想念も言動も完璧という人はいない。であるから、修道者は、自分の行く方角が正しい目的地の方角から逸れて、偏った方角に進んでいないかどうか、謙虚に絶えず自己点検すべきである。
 縦軸の問題は進歩の遅速の問題に過ぎないので、煎じ詰めれば、「渇望の熱さ」の問題に過ぎない。しかし、横軸の問題は、思想又は見解の問題であり、「自分の非」を認めて行くのが相当困難な分野と言える。特に、業の深い者は容易にそれをすることができない。我を張る者は、自己肯定・自己弁護・自己正当化の動きに走る「強い習性」を持っており、一朝一夕には健全で適度な自己否定の感覚を会得できない。

 
(真−9−18)
 また、業が深くない者でも、一向に「自分の非」を認めようとしない一つの類型が有る。
 それが−−−<「正しさ自慢」の短絡人間>−−−である。
 「正しさ自慢」の短絡人間は、それ程悪気が有るわけではない。ただ単に、短絡的で知恵が無いために、自分の正しさを自慢しないではいられないのである。こうした人間は、「中道感知のバランス感覚」を鋭敏に働かせて自分の偏りを謙虚にチェックする、という義務をついつい蔑ろにしてしまう。人からは「猿もおだてりゃ…」と揶揄されているとも知らず、好い気になって木に登り、高慢の美酒に酔いながら、正義の旗を振ってしまう。この得意満面の態度の中にこそ、(霊的法則上)非難されるべき落度が潜んでいる。
 その落度とは−−−<自意識過剰の高慢>−−−である。
 これは、厳正な眼で見れば、「有為」の塊である。よって、このままでは「荘厳なる無為」との連動という輝かしい成就に到ることは不可能である。ここに、深い内省が求められる理由がある。

 
(真−9−19)
 正しさ自慢の短絡人間は、厳しく評価すると落度が認められるが、人目を気にしてかなり努力するタイプなので、社会生活の態度は、往々にしてかなり立派である。
 我欲と闘い、我欲をできる限り抑制して、なるべく正しい行ないをしようと日々努力している。(ここが自慢の種であり、自慢しないではいられない点なのであるが)。
 それ故、我欲と放縦の生活に耽る自堕落な者たちと較べるならば、比較にならないほど、正しさ自慢の者たちの生活は善なる行為で飾られている。(これは大変立派なことである。)
 しかし、はにかみながら僅かに自慢しているうちは良いが、やがて図に乗って、自慢に歯止めが効かなくなる。というのも、このタイプの人間を他人が叱るのは難しいので、適切に叱ってくれる人が現れないのが通常だからである。そこで、正しさ自慢の短絡人間は、すっかり有頂天になって、「我こそ正義なり」「私には一点の非も無い」「私には立派な人間で罪など無い」等々と、高らかに胸を張って宣言するようになってしまう。
 こうなると重症であり、非常に危険である。「大いなる艱難」は目前まで迫っている。
 何故なら、このように自慢した途端、その思い自体が、業が深くて罪深い者たちと大きな違いが無いものに、否、全く同じものになってしまうからである。業が深くて罪深い者たちは、突然大きな罰を受けると「自分に何の非が有るというのか」「自分には罰を受けるような罪は無い」と開き直って喚(わめ)き散らすのが通常であるが、「正しさ自慢の短絡人間」もこれと同じ反応を示すからである。

 
(真−9−20)
 「完璧でないのにも拘らず、完璧だ、完璧だ」と内外に自慢して触れ回っていると、穢れた霊の軍団がこの「愚か者」を見逃すはずがない。早速、邪霊軍団の標的になる。
 その上、「自力の正しさ」を自慢しているために、その点において「神を不要とする不信仰の中」に居るので、その不信仰の故に「神の守護としてのバリア−」が消えてしまう。
 よって、とんでもない「大きな不幸・艱難」が到来することになる。
 こうした「大不幸・大艱難」は、日頃から絶えず「自己の非」と「逸脱具合」を謙虚にチェックして、虚心坦懐、自己反省に勤しんでいたならば、充分回避できるものである。回避可能な不幸を自分から呼び込む者は、愚かで短絡的であり、その無知故に哀れである。
 どうしても正しさ自慢をしたくて仕方がない短絡人間は、ヨブが病気を患って死ぬ思いをするエピソ−ドを熟読し、そこから教訓を得るべきである。(ユダヤ教聖書「ヨブ記」参照。尚、ヨブ記についての解説は キ−15−13以下)
 行き過ぎた自慢・高慢の故に、自分から艱難を態々(わざわざ)呼び込むことのないように。 謙虚さと素直さを保持して日々三省し、自ら進んで軌道修正する者は、幸いである。その者はその賢さの故に無用な艱難を回避して行くことができるからである。

 
(真−9−21)
 ところで、中道からの逸脱具合を点検する意欲も充分有り、尚且つ「自分の非」を認める意欲も充分有るにも拘らず、自分の偏りに気付かない場合が有る。
 それが−−−<目的地の取り違え>−−−のケ−スである。
 そもそも、正しい方向を見定めるには、「正しい目的地」が分かっていなければならない。しかし、往々にして「間違った目的地」を「正しい目的地」と取り違えてしまうことがある。「中道感知のバランス感覚」は、「正しい目的地」の方向を「微細な声」で囁いている。しかし、我欲の衝動が「大きな声」となって、その「微細な声」を掻き消してしまう。
 それ故、バランス感覚を鋭敏に働かせられずに、本人は目的地に向かって真っ直ぐに中道を行っているつもりでも、客観的に見ると、極端な右道や左道を突き進み、大きな過ちを犯している、という事態が起こる。

 
(真−9−22)
 そこで参考までに、「我欲の大声」に引きずられて目的地を取り違えてしまう例を、三つ挙げる。
(ア)「目先の目的」を「最高の目的」と取り違えてしまう過ちの例 
 或る一人の祭司が儀式を執行するために「主の宮居」に出勤する途中、大怪我をしている人に出会ったが、「主の宮居」の聖なる儀式に遅刻したら大罪を犯す事になると恐れて、大怪我した人を助けずに、目を背けてそそくさと通り過ぎてしまう、という事例がそれである。
 宗教の真の目的が、儀式にあるのか、人類の相互扶助にあるのか、普段からしっかり押さえていないが故の愚行の例である。
 これは、イエズス・キリストが教えたエピソ−ドの一つである(新約聖書ルカによる福音書10章31節以下)。これはユダヤ教の祭司が「主の宮居」の定時のお勤め(=儀式)を第一の優先事項、目先の一番重要な目的にしてしまうことから起こる、本末転倒の事例である。

 
(真−9−23)
(イ)邪教教団の誘いに無思慮に乗ってしまう例 
 (正法の衰微した)末法の世では、邪教教団が必ず次のような宣伝をする−−−「この世はもう滅びる。救われたい者は全財産を教団に布施してここに集まれ。そうすれば、ここに集まった者だけは救われる」−−−と。そして、その宣伝に乗って<自分だけの救い>を求めて、至極利己的な所に「宗教の目的地」を設定した人々が、その教団に集まって来る。
 しかし、全財産を放棄しただけで救われるならば、町の浮浪者も救われていることになるのではないか(しかし、実際は救われていない)。また、特定の教義を信じた時点で即時に救われるならば、「中道感知のバランス感覚」を駆使する必要も全くないことになり、人格の錬磨も自己の性癖の改善も無用のものとなってしまうではないか。
 また、この世を捨てて出家するだけで救われるならば、ゴ−タマ・シ−ダ−ルタも、王宮を捨てた時点で救われているはずではないか。そうであれば、出家後六年間にも渡る彼の苦しみもナンセンスなものになってしまうし、その後の悟りの価値もなくなってしまう。

 
(真−9−24)
 バランス感覚と理性を冷静に働かせたならば、「救い」とは、インスタントラ−メンのように三分間で完成するようなものでないことは明らかであろう。
 それ故、「インスタントな救い」を売り物にする教団の甘言に乗って騙されるが如きは、詐欺師から「医師の資格をお金で売ってあげる」と言われてその気になり、全財産をはたくのと同様の愚行である。少し考えれば、否、殆ど考えなくても、本人の勉強なくして、医師の資格がお金で買えると本気で信じ込む者は、「非常識な者」「極端に利己的な者」と非難されても仕方がない。これと同様に、インスタントな救いを求めて、全財産をはたくのは、非常識で異常な行動と言える。

 
(真−9−25)
 「真の救い」は「外」に有るものではない。極めて内的なものである。外に目的地が有ると思う無知なる者は、様々な売り込みに動揺して右往左往してしまう。しかし、「真の救い」が自分の「内」に有ると知る者は、外からの売り込みを受けても微動だにしないし、どんな脅しにも動揺しないし、屈しない。
 何故なら、「特定教団に所属する」という外的事象に「真の救い」が有るとは寸毫も考えないからである。それ故、ただ不動の心構えで、平静に自分の「内」に心を向けて、「管制的内省行」と「瞑想的内省行」に熱心に励むのである。(勿論、この二種の内省行は、どの教団に属していても、或いは、どの教団に属していなくても、実践可能な行である。)

 
(真−9−26)
(ウ)大乗仏教思想から見た小乗思想の例 
 釈尊の死後暫くすると、彼の教えを信仰する修行者の多くが、自分だけの利己的な「悟り」を求めて、洞窟や密林に籠もるなどして、「社交性の無い世捨て人」として生活をするようになってしまう。こうした修行者の姿に利己的な目的を感じた人々が、それを修正するために起こした在家信徒による新興仏教運動が大乗仏教運動である。
 その思想の根幹は、次のようなものである。即ち−−−<「悟り」の果実は俗世に還元されるべきである。救いは万人のためにある。真の修行者は、自己の気高き発心の意欲が一人でも多くの人の発心を喚起する縁(よすが)となるように祈念しながら生きるべきである。先を行く者が後に続く者を助けるのは当然である。互いの菩提心で互いの菩提心を強め合うべきである。そして、修行の成果は、発心した総ての者が分かち合うべきである。>−−−と。

 
(真−9−27)
 こうした基本思想からすれば、「個人の悟り」だけを一番の目的として、社交性を持たず、ひたすら利己的に、世捨て人として修行する者は、「目的地の取り違え」をしていることになり、そうした考えが「小乗思想」と名付けられ、非難の対象になるのも当然と言える。
 但し、より精密に表現するならば、大乗の目的だけが正しく、小乗の目的は全面的に間違っているという二者択一的な、短絡的な図式化は間違っている。何故なら、小乗の利己的な修行者も、業の深い、放縦と堕落の生活に耽る者たちと比較すれば、遙かに優れた道を行く者と言えるからである。
 大乗の「衆生救済」の理想が(生前の釈尊も目指した)真の目的地だとすると、小乗の思想はその部分的堕落形であり、目的地がより利己的方向にズレて偏ったものである。(しかし、だからといって完全に頓珍漢な目的地として、全面的に糾弾されるべきものではない。)

 
(真−9−28)
 −−−以上の三例を見ても分かる通り、「目的地の設定」は常により利己的方向に偏る危険を孕んでいる。それ故、真の目的地を正しく見定め続けるためには、基礎的教養として「世界認識の仕方(又は『空』の認識の仕方)における中道」(真−7−14以下)についての概略の知識を押さえて置くことが重要になる。
 (正法の衰微した)末法の世においては、多くの邪(よこしま)な教えが社会に出回り、人々を混乱させる。しかし、人間には「中道感知のバランス感覚」が内在している。
 超宗教の大道を志す者は、それをフル活用し、磨きをかけて行かねばならない。それが人間に課された霊的責任である。邪教教団の甘言に惑わされることなく、また、特定の幾つかの聖句に引っ掛かって振り回されることなく、自らの知性と感覚で「真の目的地」を選別して行くことこそ、重要なのである。
 −−−以上で、中道を行くための「四要件」、その第三要件の解説を終了する。
 

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解説

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その他の論

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この商品について

サイズ ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
材質 ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
重量 ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
備考 ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
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ブランド ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。

サイト情報

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