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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第11章 名色を超えた洞察礼拝New!

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第十一章 名色を超えた洞察礼拝


(真−11−1)
 ゼロセクトの大道を志す者は、総てを超越した「高台」に信仰の礎(いしずえ)を置く必要が有る。しかし、相対界を完全に超越した「絶対界」に信を置こうとしても、そもそも「絶対界とはどのようなものなのか」正しく推論することも、理解することも、イメ−ジすることも、常人には到底できない。
 しかし、高慢な人々は「できない」では気が済まない。そこで、無理やりにでも「絶対界」を推論したり想像しようとする。そうして、結局は「完全なる活動停止のうつろな静態」又は「如何なる営為も全く存在しない、空虚で内実の無い静態」を思い描くばかりになってしまう(真−2−6以下)。これでは、邪見に落ちた一部の仏教徒と同じ過ちを犯すことになる。


(真−11−2)
 では、どうすれば良いか。
 ゼロセクトの大道を志す者は信仰の礎を−−−<「荘厳なる無為」という「高台」>−−−に置くべきである。これがその解答である。

 これ以上の高台を望む必要は一切ない。もしも、圧倒的な「荘厳なる無為」の活動(営為)に信を置くことができるならば、その者は自然に「ゼロセクトの信仰」へと流れ込んで行く。
 それ故、「荘厳なる無為」がどんなものか全く分からない者や、全く洞察できない者や、全く感じ取ることとができない者や、「無為」の一部分ですら理解できない者など、こうした者たちは「荘厳なる無為」に信を置くことは到底できないので、高度で精妙なゼロセクトの大道を行くことはできない。
 とは言え、心素直に謙虚に耳を傾けて、「荘厳なる無為」を深く観想できる者からこれについて良く学び、それについて深く考察し、自身の洞察力を(弱いながらも)精一杯働かせて、自分の意識をそれに注ぐように日々努めるならば、「ゼロセクト思想の扉」は自ずと開かれる。
 虚心坦懐に能々(よくよく)深慮するならば、「荘厳なる無為」の感得・観想は、それほど困難なことではないからである。


(真−11−3)
 森羅万象−−−総ての地上動物、総ての植物、総ての海中生物の、生命の精妙・玄妙・霊妙なる営みや、それらが織り成す生態系の循環や食物連鎖の中に見られる見事な調和と均衡(バランス)について思いを馳せ、また、毎日燦々と降り注ぐ太陽の光の恵みを通してそのエネルギ−が木々や草花の光合成を促し、それによって草木の中に栄養分が形成され、それが草木の成長の源となり、やがては木々の枝々に(様々な栄養素を備えた多彩な味を持つ)豊かな実を結ばせる有様について思いを馳せ、更には、地球や水星や金星等の諸惑星や、太陽や満天の星々等の諸恒星や、諸衛星や諸彗星や諸銀河の規則正しい軌道についても思いを馳せ、更には、諸星雲や諸銀河や諸恒星、諸惑星の誕生と消滅のドラマや、諸宇宙の誕生と消滅のドラマについて、宇宙物理学などを学習しながら洞察し、−−−そうやって、森羅万象の不可思議で人智を越えた営みに意識を向けること。そうして、それらの中に「人為」を超えた働きが確実に存在していることを明瞭に洞察すること。
 このようにして、「荘厳なる無為」の圧倒的な活動を洞察し、意識することができるようになれば、その者は特定宗教に囚われない、超宗教の偉大なる「無限定の信仰」を持ちながら、崇高な「無形の中道」を行くことが可能になる。


(真−11−4)
 また、根源の「大静謐音」を正しく聴こうとして、それに集中すること−−−これも「荘厳なる無為」を理解して行く上で大いなる縁(よすが)となる。
 何故なら、根源の「大静謐音」は、「荘厳なる無為」により形成・維持されている実在の、内実有る「音」だからである(音が無いのでは決してない。真−3−1以下)
 根源の「大静謐音」に「正しい集中」をすることで、「荘厳なる無為」の停まることのない圧倒的な活動を洞察・意識することができるようになれば、その者は、超宗教の信仰を抱くことが可能になる。


(真−11−5)
 「荘厳なる無為」の壮大さ、圧倒的な力、そして無限無量の輝きと、余りに見事で芸術的と言う外ない驚天動地の精妙さ、そうした壮観で荘厳なる有様を、或る程度洞察・感得できるようになると、こうした観想者の心中には、極自然にそれらに対する「讃美・鑽仰の念」が湧いて来るようになる。(これを無理やり止めることはできない。)
 それ故、自身の観想力により超宗教の信仰を抱くに到った者は、誰に強制されるわけでもなく、極自然に「荘厳なる無為」を<礼拝する>ようになる。(礼拝の本質と意義については、次章参照)

 
(真−11−6)
 ところで、全世界に存在する「諸宗教の礼拝」について、超宗教の見地から鳥瞰してみると、その礼拝の態様は、次の二種類に分類することができる。即ち−−−


     (T)「特定対象の外観礼拝」
     (U)「超対象の洞察礼拝」


 −−−がそれである。(両者とも本講独自の造語)
 以下、これらについて解説する。


(真−11−7)
 「特定対象の外観礼拝」とは、特定の対象に対して礼拝するが、取分け、その対象の外観に対して礼拝を行う態様を指す。〔※註1〕
 この場合、礼拝する「特定対象」として祀り上げられるものは、日本古来の民間信仰では、古木や深い山中の大岩や岩窟や滝や太陽や月などであり、キリスト教では、イエズス・キリストの肉体身や十字架、又はカトリック教会での聖人の遺物などであり、仏教や密教では、釈尊の銅像や仏舎利や仏塔や、各種の如来像や菩薩像や明王像や曼陀羅図や護摩壇などであり、ヒンドゥ−教では、カ−リ−像やヴィシュヌやシバやクリシュナ像や生きているグル(導師)などである。
 また、イスラム教におけるアッラ−を、信徒が「有形」の特定対象として礼拝するならば、信徒のそうした態度によって、アッラ−も「特定対象の外観礼拝」の対象となり得る。同様に、ユダヤ教におけるヤハウェ−又はエロヒムを、信徒が「有形」の特定対象として礼拝するならば、信徒のそうした態度によって、ヤハウェ−又はエロヒムも「特定対象の外観礼拝」の対象となり得る。
(「特定対象の外観礼拝」は、インドの「バクティ・ヨ−ガ」と同じである。)

 
(真−11−8)
 一方、「超対象の洞察礼拝」とは、有形の特定対象には一切こだわらず、あらゆる有形なる対象物を超越したスタンスで、物事の裏(又は内奥)にある「真理の働き」としての「荘厳なる無為」を洞察し、それを礼拝することである。
 諸対象・諸現象の「表層や外観」だけを見るのではなく、その諸対象・諸現象の裏(又は内奥)で機能している真理の「無為」なる働きを洞察し、それに対して畏敬と鑽仰の念を捧げて礼拝を行う態様を指す。
 そもそも「荘厳なる無為」は、物でもなければ者でもなく、対象そのものでもなく、整数で1、2、3・・・と数えることができるものでもない。
 「荘厳なる無為」とは、真理の、無形にして多種多様な、無限無量な営為である。それ故、本当に「荘厳なる無為」を洞察して礼拝する者は、自ずと「総ての対象を超越したスタンス」に立つことになる。


(真−11−9)
〔※註1−−−ゼロセクトの立場からの、礼拝態様におけるこうした二分法を聞くと、一部の思慮浅薄なキリスト者は怒りを発することであろう。イエズス・キリストに対する自分たちの信仰が「外観礼拝」と揶揄(ヤユ)されているように感じるからである。
 しかし、そうした怒りを発する前に、冷静になって、自分がどんな態様の礼拝をしているのか、真摯に自己究明すべきである。
 一口に「キリスト者」と言っても、実に様々な成熟度の人間が居る。自分の国では十字架がトレンドで格好良いからイエズスを礼拝するという人や、イエズスの像の顔が好きだから彼を礼拝するという人や、自分の罪のためにイエズスが身代わりに磔刑になってくれたと信じるが故に彼を礼拝するという人や、三位一体の教義を自分なりに消化して、イエズスの身心の内奥に有る「愛の働き・真理の働き・聖霊の働き」を如実に洞察し感得するからこそ彼を礼拝するという人まで、多種多様である。
 本講では、こうしたキリスト者総てが(全面的に)「特定対象の外観礼拝」に(のみ)該当すると指摘しているのでは決してない。イエズスの“外観だけ”を礼拝し、全面的に「特定対象の外観礼拝」に該当するキリスト者は、極端なケ−スの人々のみと言える。


(真−11−10)
 イエズスの内奥を洞察し、「内なるキリスト(聖霊)の働き」を礼拝するキリスト者は、その度合いに応じて、「特定対象の外観礼拝」から脱却しつつある信者ということができる。
 キリスト者の中には、鋭敏な洞察力を発揮して、イエズス・キリストの内奥を「洞察礼拝」している者もかなり多い。但し、その「洞察礼拝」が「超対象」のレベルにまで深まっているかと言えば、残念ながらそうとは言えない。一般のキリスト者は、飽く迄もイエズスの肉体身に強く執着するからである。
 それ故、一般キリスト者の「洞察礼拝」は<部分的なものに止(トド)まる>と言える。
 完全なる「超対象」のレベルに到るまでイエズスの内奥を洞察し切り、寒波・照破するキリスト者は極々僅少である。そこまで洞察し切ると、もはや一般のキリスト者ではいられなくなってしまうからである。
 蛇は成長するに連れて、小さくなって来た自分の外皮の中に収まっていられずに脱皮する。これと同様に、霊的な「段階的成長」の故に、より広大な霊的ヴィジョンの信仰に導かれ、従来の古いドグマとしての「偏狭なキリスト教の枠組み」に留まっていることができなくなってしまう「霊感豊かで洞察力の鋭い、主の恵み豊かな一握りのキリスト者」が異端なのかと言えば、決してそうではない。
 こうした「超対象」の広大無辺な霊的ヴィジョンこそ、実はイエズス・キリスト御本人が抱いてヴィジョンなのである。詳細は真−25−24 〜〜〜註終了〕


(真−11−11)
 礼拝の高さ(深さ)というレベルで、「特定対象の外観礼拝」と「超対象の洞察礼拝」、この二種類の礼拝を比較すると、「特定対象の外観礼拝」は未だお子様用の幼稚なレベルの礼拝と言え、「超対象の洞察礼拝」はそれよりも成熟した大人の礼拝と言える。
 「特定対象の外観礼拝」は、見た目だけでその対象を礼拝するので、とても簡単である。
 一方、「超対象の洞察礼拝」は、対象の裏(内奥)に働く「無為=真理の働き」を洞察しなければならない。この洞察力がなければ、「無為」を礼拝することはできない。よって、礼拝者が自分の洞察力をフルに使用しなければならない点で、「超対象の洞察礼拝」は「特定対象の外観礼拝」よりも高度・高尚・精妙な礼拝と位置付けられる。
 「特定対象の外観礼拝」だけに留まる者は、(特定対象の信仰から脱却できないので)超宗教の大道を行くことはできない。飽くまでも、「荘厳なる無為」に対する洞察力を駆使して、「超対象の洞察礼拝」ができるようになって初めて、超宗教の大道を行くことが可能になるのである。超宗教の大道を志す者は、この点をよく肝に銘じるべきである。

 
(真−11−12)
 「超対象の洞察礼拝」は「特定対象の外観礼拝」よりも奥深い礼拝(態様)である。
 しかし、本当に超宗教の信仰を持つ者は、「特定対象の外観礼拝」をする者を見下したり、小馬鹿にしたりすることがない。何故なら、「荘厳なる無為」は、「特定の対象」の裏(又は内奥)にも歴然として働いているからである。
 超宗教の信仰を持つ者は、「荘厳なる無為」が働いているが故に、「特定対象」をも軽んじることなく尊重し、「特定対象」をも礼拝する(ような)態度を取る。
 これに関しては、「純白の手袋をした貴婦人の手と、跪いてそれに口づけする二人の紳士」に譬えることができる〔※註2〕。
 視力の悪い紳士は、貴婦人の純白の手袋を貴婦人の手そのものと思い込み、「何て素敵な手だろう」と誤解しながら手袋を尊び、それに跪く。
 一方、視力の良い紳士は、貴婦人が手袋をつけていると正しくありのままに見ているが、その手袋が貴婦人の手を覆っている物であるが故に、「彼女の手袋はただの手袋に過ぎない」と言ってそれに唾を吐きかけるような真似はせず、この紳士は彼女の純白の手袋をも、貴婦人の手そのものと同じように尊び、恭しく扱い、それに跪く。
 これで分かるように、視力の悪い紳士が手袋を貴婦人の手それ自体と誤解している場合も、視力の良い紳士が手袋を手袋と正しく見抜いている場合も、どちらも、手袋を尊び、恭しく扱う点では(外観上は)全く同じ振舞いになる。

 
〔※註2−−−視力の悪い紳士は「特定対象の外観礼拝」をする者を指し、視力の良い紳士は「超宗教の信仰を持つ者」即ち「超対象の洞察礼拝」をする者を意味する。
 また、貴婦人の手自体は「荘厳なる無為」を、貴婦人の手袋は「特定対象の物質的な外観」を意味している。〜〜註終了〕


(真−11−13)
 ゼロセクトの大道は高度・精妙であるが、複雑ではない。
 ゼロセクトの大道は−−−<「荘厳なる無為」を礼拝することに始まり、「荘厳なる無為」を礼拝することに終わる>−−−至極単純な道である。
 ゼロセクトの大道を行く者は、只ひたすらこの単純性の中に生きれば良い。それだけである。
 しかし、逆に言うと、超宗教の中道から逸れないようにするには、この単純性の中から決して迷い出ないようにし、石に齧りついてもこの単純性を堅持することが必要になる。
 頭でっかちにマインド先行で考える者は、こうした単純性の中に生きる道は変化が無くて詰まらないものだと思い勝ちである。しかし、この単純性の中に生きること、即ち「荘厳なる無為」に一点集中して洞察礼拝して行くことは、単純ではない結果、霊妙で広大な結果をもたらす。何故なら、「荘厳なる無為」は「一点」という「点」ではないからである。
 ここに、ゼロセクトの大道の精妙な奥義がある。「荘厳なる無為」に一点集中して礼拝していると、その者の集中力と洞察力が強くなるに連れ、「荘厳なる無為」が「点」でないために、意識が拡大して行き、自然に「観想」になり、やがて「広大な観想」になり、「深い瞑想」になり、鋭敏な霊的感性・深い霊的理解力・広大な霊的ヴィジョンの会得へと、順次参入して行くことができるのである。

 
(真−11−14)
 或る程度集中力がつき、「荘厳なる無為」を或る程度観想できるようになると、「荘厳なる無為」には、次のような<二大特徴>がある、と識別できるようになる。
 第一の特徴は、「万事の内奥に必ず『無為』有り」ということである。即ち−−−
<諸事象(諸事物・諸現象・諸法則)の活動の裏(又は内奥)には、必ず「荘厳なる無為」が有る(働いている)>−−−と。これが法である。
 第二の特徴は、「『無為』の働きは完全無欠なり」ということである。「無為」の働きは、真理の働きであり、完璧にして欠ける所がない。老子が「無為にして為(な)さざるはなし」と表現した通りである。この言葉を超宗教の見地から、より正確に表現し直すと、次のようになる。即ち−−−
<「無為」に依らば、為されざること(一つも)無し>−−−と。これが法である。

(真−11−15)
 それ故、ゼロセクトの大道も行く者の「超対象の洞察礼拝」の「超対象」には、万事万象・諸事象の総てが含まれる。総てを包括的に見て、それらの総ての中に、分割不可能な−−−<地続きの「無為」>−−−を洞察する。これが「超対象」の視座から「荘厳なる無為」を「洞察礼拝」するということである。
 この<地続きの「無為」>を洞察できない者は、人間を超越した何らかの存在に対して信仰を持とうとしても、無数の宗教が氾濫する中で、信仰の対象の選択で悩み、困惑・混乱してしまう。
 <地続きの「無為」>を洞察できない者は、何らかの宗教に対して若干の信仰を抱いたとしても、内容の異なる多量の宗教情報に触れると、自分の信仰を動揺させてしまい−−−信じるべきなのは、イエズス・キリストなのか、ゴ−タマ・ブッダなのか、クリシュナなのか、アッラ−なのか、ヤハウェ−(又はエロヒム)なのか、信じるべきなのは、この聖典なのか、あの聖典なのか、あっちの経典なのか−−−等々と目移りして迷ってしまい、結局、何も分からないで終わってしまう。

 
(真−11−16)
 ウインド−ショッピングする女性は、色々な品物を見て目移りし、「あれが良いかしら。やっぱりこっちの方が素敵ね」などと、揺れ落ちる木の葉のように心を動かす。
 これと同じく、一つの宗教を信仰しても、他の宗教・宗派の礼拝の対象の方が良いかも知れないと心を動揺させ、いつまで経っても堅固な信仰を持てない人間は多い。或いはその反対に、そのような動揺を嫌い恐れて、頑なに自分の殻に閉じ籠もり、(浅墓にも)自分の決めた宗教・宗派の教えだけしか見ないようにして、他の情報をシャットアウトしようとする人間もいる。
 しかし、ゼロセクトの中道を目指す者は、このどちらの症状にも陥ることがないように自分自身を整え、どの宗教・宗派に対しても「不偏」の眼差しを向けなければならない〔※註3〕。
 そして、こうした芸当は、「荘厳なる無為」という分割不能の−−−<地続きの「無為」=「超対象の無為」>−−−を「洞察礼拝」し、万物万象の内奥を観想することで、初めて可能になるのである。

 
〔※註3−−−但し、全宗教(宗派)に対して「不偏」の眼差しを向けるということは、全部の宗教(宗派)を無条件に正しいと評価して全肯定するという意味では決してない。真−5−19参照〕

 
(真−11−17)
 「荘厳なる無為」一本を洞察礼拝すると、その者には、信仰の持ち方に関して、真の自由がもたらされる。何故なら、その者は自分の信仰を保持するためには「兎に角闇雲に何かを信じ込まなければならない」という強迫観念から解放されるからである。
 超宗教の中道を行く者にとっては、どの教祖・どの聖典・どの教義・どのマントラ(真言)を信じようと信じまいと、それは大して重要なことではない。
 第一に重要な事は、飽く迄も「荘厳なる無為」一本を探究・洞察・知覚・感得し、これを観想・礼拝することである。「荘厳なる無為」を真に礼拝しているならば、様々な聖者・教祖・聖典・教義・マントラ(真言)等々のどれかを信じないとしても、それ故に大きな罪を犯すことには決してならない。また、そのどれかを信じないからといって、「絶対に救われない」ということにも決してならないし、大きな罰を受けるということにも決してならないし、無間地獄に落ちるということもにも決してならない。(何故なら、この者は「荘厳なる無為」を真に礼拝しているからである。その上での多少のミスは「成長過程での御愛嬌」という程度の事に過ぎない。)〔※註4〕

 
(真−11−18)
〔※註4−−−邪教教団の典型的な手口として、「これこれを信じないと大変なことになる、無間地獄に落ちて永遠に苦しむぞ」等々と脅迫する手法が有る。これは下劣で低俗な脅しである。しかし霊的に無知な人々は、元々ちゃっとした信仰を持っていないので、その弱みに付け込まれ、悪の手下になった邪教教団の信徒たちから「これこれを信じないと−−−病気になる、早死にする、家族が離散する、家族に不幸が来る、子供が死ぬ、子供が非行に走る、天罰として無間地獄に落ちる」等々の脅し文句を吹き込まれると、どうしても恐怖心を抱いてしまい、そうして邪教教団の術中に嵌まってしまうのである。
 そうして、「信じなくちゃ駄目。疑う心は罪。信じなくなったら天罰を受けて大変なことになる」と思うようになり、それが強迫観念にまでなってしまい、恐怖心の故に、もはやその教団の教義を否定する「NOと言う力」を喪失してしまうのである。これが恐怖心に付け込むマインド・コントロ−ルの一つである。〕〕


(真−11−19)
 ゼロセクトの信仰を持つ者は、徒に罪や罰や地獄を恐れることなく、自由な立場で、健全な懐疑的精神を活発に働かせながら−−−教祖の行状や聖典の内容、先輩信者の見解や行動、マントラ(真言)の内容や儀式の意味−−−等々について、徹底的に調査・検討・吟味し、それらについて洞察・深慮することができる。
 では,何ゆえに、こうした自由を得ることができるのか。
 それは、「荘厳なる無為」一本を洞察礼拝しようと決心し、それに勤しむようになった者は、「荘厳なる無為」の反対物(敵対物)である「人間の有為」(=人為)を、この上なく邪魔な障害物として排除しようという気持ちになるからである。
 そうすると、人間の「有為」から発せられたと思われる、如何なる偏見や圧力をも嫌うようになり、それを排除しようとする気魄が湧き出て来るのである。この気魄、この力は「聖なる力」である。そしてこの力は「荘厳なる無為」を洞察礼拝することを通して流入して来るようになった「荘厳なる無為」の偉大なる無限力のほんの一雫なのである。

 
(真−11−20)
 霊感に満ちた鋭い洞察によって−−−教団の中の「嘘」「偽善」「悪事」を見抜き、聖典や経典の中の過ちを見抜き、教祖の言葉の中の間違いを見抜き、教祖や教師の振舞いの中の「偽善」を見抜き−−−等々、こうした真摯なる探究心が罪になることがあるだろうか。
 否、否、否。断じて罪になることはない。何故なら、こうした燃え立つ探究心は、偏に「本物の純粋無垢な真理」を真剣に渇望する心の現れに他ならないからである。
 つまり、このように「聖なる渇望心」を抱いて(これこそが真の信仰と言える)、自分の見解の中の偏見を削ぎ落とし、一歩一歩段階的に自分の霊的ヴィジョンを純化し、高めて行くことこそ、聖なる「法」に適(カナ)った態度と言えるのである。それ故、こうした態度を貫くならば、天罰どころか、大いなる祝福が待っているのである。

 
(真−11−21)
 このように、ゼロセクトの大道は、古いドグマや罪や罰や地獄などの脅しに恐怖することなく、自由に真理を探究する「熱い求道精神」を活発に働かせることができる道である。
 超宗教の大道を行く者は、「どの宗教が一番正しいか」で悩む必要は全くない。「本当に信じなければいけないのは、どの教祖・どの対象・どの教義・どの聖典なのか」で悩む必要も全くない。
 ゼロセクトの大道を行く者は、「荘厳なる無為」一本だけを礼拝して行けばそれで良い。
 それを実践しつつ、総ての宗教を調査・検討・吟味し、それらについて洞察・深慮するならば、自ずと総ての宗教に精通することができるようになるのである。

 
(真−11−22)
 ところで、「荘厳なる無為」を「洞察礼拝」しながら超宗教の大道を行く者がいたとして、その者が、例えば、イエズス・キリストについて勉強し、彼を信じるようになった場合、それによって「荘厳なる無為」への信仰が動揺したり混乱したり悪影響を受けたりすることはあるだろうか。
 その答えは「否」である。(その者の「超対象の洞察礼拝」が本物であれば)そういうことは全く起こり得ない。その者の「無為」への信仰はそれまで通り不動である。
 これと同様に、(その者の超対象の洞察礼拝が本物であれば)その者が、釈尊に帰依するようになっても、アッラ−に帰依するようになっても、ヤハウェ−(又はエロヒム)を信じて礼拝するようになっても、その者の「無為」への信仰が動揺したり混乱したり悪影響を受けたりすることは全く起こり得ない。その者の「無為」への信仰はそれまで通り不動である。

 
(真−11−23)
 何故か。               
 超対象の「無為」を信仰する道は、他の宗教の信仰とバッティングすることがないからである。では何故、バッティングしないのか。
 第一に、ゼロセクトの信仰を持つ者は、「万事の内奥に必ず『無為』有り」と洞察する(一−十一−十四)ので、イエズス・キリストであれ、ゴ−タマ・ブッダであれ、クリシュナであれ、アッラ−であれ、ヤハウェ−(又はエロヒム)であれ、「それら(又は彼ら)」の中に「荘厳なる無為」が働いていないと見ることは決してできない。
 そして、分割不能の<地続きの「無為」>が、イエズス・釈尊・クリシュナの中にも共通して「働いている」という事実を明確に洞察するならば、この三者を<統一的に理解する>ことは、然程(さほど)難しいことではない。
 第二に、ゼロセクトの信仰を持つ者は、「『無為』の働きは完全無欠なり」と洞察する(真−11−14)ので、イエズス・キリストであれ、ゴ−タマ・ブッダであれ、クリシュナであれ、アッラ−であれ、ヤハウェ−(又はエロヒム)であれ、「それら(又は彼ら)」の中に「崇高なる完全性」が顕現しているならば、それは「荘厳なる無為」の働きそのものと見ることになる。また、万が一、「それら(又は彼ら)」の中に、(伝承違いではないのに)不完全な部分(=人間の弱さの部分)が見出されるならば、それは「荘厳なる無為」に属するものとは言えず、そこには人間的な「有為」が働いていると見る外(ホカ)ないことになる。

 
(真−11−24)
 −−−以上の二点からして、ゼロセクトの信仰を持つ者は、「それら(又は彼ら)」の中に「崇高なる完全性」が顕現していればいるほど、「荘厳なる無為」が如実に顕現している、と理解することになるので、「それら(又は彼ら)=特定対象」に対する「外観礼拝」に堕することがない。
 従って、「無為」を礼拝する「超対象の洞察礼拝」の場合には、「特定対象」を尊重しつつも、その「外観礼拝」に陥ることなく、「それら(又は彼ら)」の内実・内奥を看破しながら礼拝する、ということになる。
 こうした道理があるからこそ、「荘厳なる無為」を「洞察礼拝」する道を進み行くと、自ずと総ての宗教を(それが正しいものである限り)、無理なく統一的に理解することが可能になるのである。〔※註5〕

 
(真−11−25)
〔※註5−−−(正法の衰微した)末法の世に於いては、「過去の聖者の活動は総て失敗であった」と主張する宗教教団がぼうふらのように発生する。これらの教団は、「イエズス・キリストは世の救い主として活動したが、結局社会を変革しきれずに死んでしまったではないか。だから彼は失敗者である」とか、「ゴ−タマ・ブッダは、苦しみからの解脱を教えたが、いつになっても世界には苦しみ悩む人間が絶えない。よって、ブッダの教えは不十分であり、失敗である」等々の指摘をする。
 しかし、超宗教の信仰を持つ者は、彼ら聖者の中に「荘厳なる無為」が顕現していた事実を洞察する。また、そうであるならば、「無為」の「崇高なる完全性」から言って、彼らの活動もまた完全であったはずであると洞察し、そのように確信する。

 
(真−11−26)
 正しい霊感の流入を受けている謙虚にして清廉潔白なる者にとって、イエズス・キリストの十字架は、決して布教の頓挫・失敗を意味するものではない。彼の十字架は、全世界に向かって高く掲げられた「宗教の奥義・救いの奥義」を暗示・象徴する「光」である。
 人の子イエズスは、「無為」の流れに逆らうことなく磔刑にされる道を選んだ。しかし、これによって「無為」の流れが中断したわけでは決してない。過去・現在・未来の三世に渡って「荘厳なる無為」は不断に活動し続けており、それに応じてイエズス・キリストの十字架も、三世に渡って不断にその「暗示・象徴」機能を果たし続けているのである。
 見る目の無い者、聞く耳の無い者だけが、その影響力を感じ取ることができない。それだけのことである。
 釈尊の教えと思惟法や瞑想法についても、事情はこれと全く同じである。それ故、そこには失敗はない。勝利と覇権は最初から「荘厳なる無為」の方に有る。人類向上の不断にして壮大なドラマは現在もまだ進行中、というだけのことである。
 短絡的に、聖者に対して失敗者の烙印を押す−−−これこそ邪教の印である。〕〕


(真−11−27)
 以上のような道理があるので、「荘厳なる無為」だけを単純に礼拝する道(=「荘厳なる無為」一乗の道)を歩むならば、結局総ての正しい宗教の神髄に精通することになる。
 それ故、超宗教の大道を行く者は、寝ても覚めても「荘厳なる無為」に意識を集中(又は観想・瞑想)し、それを洞察礼拝するべきである。
 また、「正しい集中(観想・瞑想)」ができるようになると、「荘厳なる無為」の感動的な荘厳さは“目を閉じている時”でも十分に「見ること」ができ、感得できる。
 よって、目を開けている時は勿論のこと、目を閉じている時でさえ、「荘厳なる無為」に意識を集中(又は観想・瞑想)し、それを洞察礼拝することに励むべきである。

 
(真−11−28)
 とは言え、四六時中「荘厳なる無為」に意識を集中(又は観想・瞑想)し、それを洞察礼拝し続けることは、凡人には不可能なことである。これは丁度、(無謀にも)修錬無しに突然、百キロメ−トルのマラソンに挑んでも、無事完走できる人はいないのと同じことである。最初はみんなできないのである。しかし諦めず、根気強く継続して努力し修錬して行くならば、目標達成する者は必ず出て来る。
 それ故−−−<四六時中「荘厳なる無為」に意識を集中(又は観想・瞑想)し、それを洞察礼拝すること>−−−という遙かなる正しい目標を掲げて、一歩一歩「亀の歩み」のように精進することが肝要である。(過不足のない中道の霊性鍛練を心掛けるべきこと)

 
(真−11−29)
 以上をまとめると−−−「荘厳なる無為」の「分割不可なる地続きの壮大さ」を「洞察礼拝」し続け、それを感じ取り続けること。また、そうできるように熱心に渇望すること。そして、そうした内容の渇望を常に抱き続けられるように常に祈ること。これこそ、如何なる宗教・宗派にも偏らない、偉大なるゼロセクトの覚醒の道である。

一、「無為」の「荘厳」を洞察・感得したい、と渇望する者は、幸いである。その者は、徐々に「無為」の「荘厳」を洞察・感得することができるようになり、それによって意識が確実に正しく拡大し、深まって行くからである。
二、「荘厳なる無為」に意識を向け、意識を注ぎ、それに集中(又は観想・瞑想)する鍛練に勤しむ者は、幸いである。その者は、そうする毎に確実に「荘厳なる無為」の光明の流入を受けて、霊的に成長して行くからである。
三、「荘厳なる無為」を熱心に「洞察礼拝」する者は、幸いである。その者は、心中の「悪の生産力」を確実に減少させて行き、「有為」の減少と共に、確実に悪の力から解脱して行くからである。
 

(まとめノート)第八〜十一章についての要点メモ
 
 第八〜十章では、ゼロセクトの「無形の中道」を進み行くための「必須の四要件」が挙げられ、各要件ごとの具体的な説明や注意がなされています。その四要件とは−−−
【要件1)】「中道志向の渇望心」を抱き、且つそれを養成(強化)すること
【要件2)】自己改善の意欲を燃やし、希望を抱いて日々「適切な内省」をすること
【要件3)】「中道感知のバランス感覚」を鋭敏に働かせ、逸脱具合を絶えずチェックすること【要件4)】結果的に「克己力」が働くように、「正しい集中」を自覚的に渇望すること
 
 こうした一見「当たり前のこと」の中に実は奥義が隠されており、般若心経をいくら読んでも、聖書をどんなに長期間勉強しても、この四要件を全然実践していない人や、こうした事を教えない人には、全く信用が置けないことなどの指摘がなされます。
 また、「当たり前」に見える四要件ですが、「適切な内省」や「中道感知のバランス感覚」や「正しい集中」は、実に実に奥深いものなので、日々それを深め、錬磨して行く必要が有ることも指摘されます。(また、何が「正しい集中」か、についても語られます。)
 また、第四要件では、普通の「克己心」という言葉を避けて「克己力」と称す、その理由として、「己れに克つ力」は自力ではないし、他力でもないし、敢えて言えば「中力」から出て来るものだから−−−という指摘がなされます。(ここで、「自力」概念の範囲について厳密な問題提起をし、あわせて「他力本願/自力本願」の二分法の間違いも指摘されます。)
 また、「集中力」については、その深さと継続時間の長さこそ問題で、ボディ−・ビルの訓練で筋肉が増強されるのと同様に、集中力は日々の鍛練によって増強されて行くものなので、これを本書では新たに「内的筋力」と呼ぶことが示されます。
 そして、「内的筋力増強のエクササイズ」を日々励行すべき事、また、このエクササイズはボディ−・ビルと同様、こつこつと規則的に少しずつやるべきで、衝動的に一気呵成にやろうとするならば、その衝動は低級なエゴから来るものと言え、こうした動きは避けなければならない事が指摘されます。
 
 次に、このページの第十一章では、重要な二分法が語られます。
世界の「諸宗教の礼拝」について、ゼロセクトの高みから鳥瞰すると、その礼拝の態様は、次の二種類、即ち−−−
(T)「特定対象の外観礼拝」
(U)「超対象の洞察礼拝」 に分け得ると指摘され、
 「特定対象の外観礼拝」とは、特定の対象に対して礼拝するが、取分け、その対象の外観に対して礼拝を行う態様を指すものとし、
 「超対象の洞察礼拝」とは、有形の特定対象には一切こだわらず、あらゆる有形なる対象物を超越したスタンスで、物事の裏(又は内奥)にある「真理の働き」たる「荘厳なる無為」を洞察し、それを礼拝する態様を指す−−−こうした用語として本講が提案する名称であることが語られます。
 そして勿論、(本書が教える)超宗教思想や般若ヨ−ガは、「超対象の洞察礼拝」という高度な礼拝手法であること、及び、「特定対象の外観礼拝」レベルに留まっている者はゼロセクト思想を理解する事は到底できないことが語られます。 
                 (以上)

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その他の論

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