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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第12章 「真の礼拝」〜6つの構成要件New!

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第十二章 「真の礼拝」〜6つの構成要件


(真−12−1)
 「荘厳なる無為」は、余りに壮大であり、余りに圧倒的であり、余りに精妙・玄妙・霊妙であり、無量の光輝に満ちている。これを或る程度洞察・感得できるようになると、その者は、自ずと「荘厳なる無為」に対して「讃美・礼讃・鑽仰の念」を抱き、己れの頭(ベコ ウ)を垂れてそれを礼拝しないではいられない。
 この種の「礼拝」は、人間の“本性的な”情動であり情念である。人間の心の奥底に植付けられている生来の性向なのである。

 
(真−12−2)
 では、そもそも「礼拝」、中でも「真の礼拝」とは何なのか。
 全世界の諸宗教には、多種多様なスタイルによる無数の礼拝行為がある。それらの礼拝行為の区別は、その外形に依って為される。しかし、外観に囚われない視座から万物万象を洞察礼拝して行くゼロセクトの立場からすると、礼拝行為の外形に囚われることなく、その中に有る「無形の精髄」を看破しなければならない。そうすれば、各宗教・宗派の礼拝様式に囚われることなく、ゼロセクトの立場から「真の礼拝」を実践して行くことができる。
 そこで、実際に一般的礼拝行為の中に有る「礼拝の普遍的な精髄」を深く洞察・看破し、それを一言で表現すると、こうなる。即ち−−−
<「真の礼拝」の本質は、「荘厳なる無為」の「流入と顕現」の渇望にある>−−−と。


(真−12−3)
 世間では「何事も形から入れ」と教えられることがある。(この言葉の是非は別として)こうした考え方が有るために、「特定対象の外観礼拝」をする者が、兎にも角にも一つの「儀礼、又は型」として“形だけ”特定対象に両手を合わせて頭(ベコ ウ)を垂れ、崇敬の素振りを形で表すことがある。
 確かに「何事も形から」という点では、これはこれで宗教的な一つの有意義な行為と言える。しかし、これだけでは「真の礼拝」とは決して言えない。何故なら、そうした行為をしながらも、内心では「無為」の働きが自分に「流入・顕現」することを断固拒絶しているならば、それは形骸化した儀礼になってしまうからである。〔※註1〕
 或る者が、十字架の前で跪(ひざまず)き、礼拝しているように見える場合でも、内心でキリストの霊・聖霊を断固拒絶しているならば、それは形骸化した儀礼に過ぎず、キリストを真に礼拝していることには決してならない。
 また、或る者がユダヤ教の儀式を行い、安息日を厳格に守ろうとしている場合でも、内心でヤハウェ−(又はエロヒム)の息吹の流入と聖なる啓示を断固拒絶しているならば、それは形骸化した儀礼に過ぎず、それらの行いは偶像礼拝の範疇に属してしまう。
 また、或る者が釈尊の肉体身(又は仏像)を礼拝し、五体投地している場合でも、内心で釈尊の語る「ダルマ(法)」を断固拒絶しているならば、それは形骸化した儀礼に過ぎず、釈尊を真に礼拝していることには決してならない。


(真−12−4)
〔※註1−−−形骸化した儀礼が全部一律に全く無意味というわけではない。この点は注意を要する所である。悪行に興じて放蕩しているよりは、形骸化した儀礼であっても、それに携わる方が増しである。何故なら、少なくともそれに携わっている最中は、形骸化した儀礼という悪行以上の阿漕な悪行に携わることはできないからである。それに、もしかしたら儀礼に従事している最中、突然その「儀礼の型」に真心が入り、「真の礼拝」に移行することも、絶対に起こり得ないとは言い切れない。それ故、形骸化した儀礼も「真の礼拝」を誘発する契機になり得るという意味で、有意義なものと言える。
 但し、形骸化した儀式が、(単なる礼拝というよりも)犯した罪悪の一種の「免罪の魔法」と位置付けられて執行されるようになる場合には、「形式的な儀式もそれなりに有意義」と言ってはいられない。そんな事をするぐらいならば、そうした儀式を執行しない方がずっと増し、ということになる。何故なら、空虚な儀式を行うことで「これで罪は無くなった」と勝手に勘違いしてしまうならば、その儀式の参加者は儀式終了後に喜々として社会に戻り、性懲りもなく、更なる悪事を重ねて行くことになるからである。この場合、こうした空虚な儀式が偽りの「免罪の魔法」となって、悪行を促進する機能を果たすことになってしまう。これに関しては「『贖罪』語法の否定」の章、星−11−1以下参照 〕〕


(真−12−5)
 それ故、「真の礼拝」の本質は、形式云々ではなく、実際の「荘厳なる無為」の「流入と顕現」を渇望すること、に有るのである。
 そして、この本質からして、「真の礼拝」と言えるためには、最低限、次の六つの条件(要素)が必要、と言わねばならない。


(1)(空虚な礼拝では無い)「真の礼拝」を行うことを意欲し、渇望すること 
(2)「荘厳なる無為」に意識を向けて集中し、それを洞察すること 
(3)「荘厳なる無為」の光が差し込むように、「荘厳なる無為」に鑽仰と感謝を捧げつつ、リラックスして心の扉を開け放つこと 
(4)「荘厳なる無為」(の諸力)が礼拝者の心に流入すること
(5)「荘厳なる無為」と礼拝者との間に「感応道交」が起きること
(6)「荘厳なる無為」の中の諸美徳・諸力が、礼拝者を通して(幾許かでも)実際に顕現    して来ること 

 
(真−12−6)
 以下、各要件について少々付言する。
【要件1】 (空虚な礼拝では無い)「真の礼拝」を行うことを意欲し、渇望すること

 
 「真の礼拝」は一つの聖なる体験であり、或る種の深い味わい(法味)を持っている。従って、「真の礼拝」体験をしてその味を「味わいたい」と意欲し、渇望することが最初である。「真の礼拝」の法味を知る者は、法味の無い「形骸化した礼拝」をすると、空虚で味気無く感じ、虚しくなるばかりで、決して満足することができない。

 
(真−12−7)
【要件2】 「荘厳なる無為」に意識を向けて集中し、それを洞察すること 

 
 「正しい集中」がなければ「真の礼拝」も有り得ない(真−9−14以下)。修行者は「集中→観想→瞑想」と意識を深めて行くことを目指して、超宗教の「超対象の洞察礼拝」に勤しむべきである。心が散乱したまま「真の礼拝」を行うことは到底できない。

 
(真−12−8)
【要件3】 「荘厳なる無為」の光が差し込むように、「荘厳なる無為」に鑽仰と感謝を捧げつつ、リラックスして心の扉を開け放つこと

 
 晴天の日に、暗い部屋のカ−テンを開けて全部の窓を開け放つと、空に輝く太陽の光が差し込んで来る。これと同様に、「荘厳なる無為」という太陽から出る陽射しを自分の心の中に取り込み、爽やかな風(聖気)を通すためには、「有為」に基づく不自然な緊張を解いて、リラックスム−ドで、ゆっくり日光浴する気分になることが必要である。「春うらら」を味わい楽しむ心持ちである。南国の楽園にプライベ−トビ−チを設営し、誰からも邪魔されずに日光浴を楽しむようなイメ−ジである。こうした開放的なリラックスム−ドがないと、不自然な緊張が「荘厳なる無為」の光を遮断してしまう。「有為」に基づく緊張は、その人の心を、窓とカ−テンを締め切った暗い部屋にしてしまうからである。

 
(真−12−9)
 また、不自然な緊張ばかりでなく、暗黒の悪想念も妨害物となり、「荘厳なる無為」の光が差し込むのを遮断してしまう。悪想念は宛(さなが)ら太陽の光を遮る「黒雲」の如きものである。それ故、「荘厳なる無為」に正しく集中することで、頭の中で悪想念を巡らす暇が無いようにしてしまうこと、そして、悪想念の代わりに「荘厳なる無為」への鑽仰の念と感謝の念を心一杯に抱くことが、悪想念駆逐の要諦となる。
 但し、「鑽仰の念だけ捧げれば真の礼拝になる」とか「感謝の念だけ捧げれば真の礼拝になる」と誤解してはならない。「真の礼拝」と言えるこめには、飽く迄も「無為」の「流入と顕現」を渇望しなければならない。これなくして「無為」の流入は無いからである。(時々「自分は感謝一本槍で行くので、何を求めることもしない」と息巻く傲慢者が出て来る。これでは真の祈りにならないし、渇仰心も薄弱と言える。)

 
(真−12−10)
【要件4】 「荘厳なる無為」が礼拝者の心に流入すること

 
 「流入する」という言葉遣いに、違和感と抵抗感を覚える者たちも居るであろう。「無為」を「静態としての法(ダルマ)」としてイメ−ジしている者たちは、「荘厳なる無為」が「流入する」とイメ−ジできない。
 しかし、「荘厳なる無為」は壮大で圧倒的な<働き>であり、今現在も片時も休むことなく活動し続けている。それ故、「無為」の「流入」は、確かに起こるのである。
 因みに、インスピレ−ション(霊感・啓示)のインは入るという意味である。聖なる霊界の息吹(聖気)が個人に流入する有様を表現した言葉である。その他−−−勇気が湧いて来たり、慰めを受けたり、温かい気持ちになったり、赦す気持ちになったり、心に平安を覚えたり、広大無辺なる感謝の気持ちが湧いて来たり−−−等々、「流入」の例は数多く有る。
 しかし、どうしても、「流入」についてイメ−ジできない者は、次のように考えても良い。即ち、「流入」とは、礼拝者が「荘厳なる無為」に意識を集中した時に、それを契機にして、「無為」の偉大なる真理の働きが礼拝者の心(又は意識)に「一種の同調・共鳴・共振作用を及ぼすこと」を指しているのだと。こう理解しても大過ない。(但し、実際には確かに霊力の流入が起こる、というのが真相である。)

 
(真−12−11)
【要件5】 「荘厳なる無為」と礼拝者との間に「感応道交」が起きること 

 
 本来「感応道交」とは仏教用語であり、人間の機根、又は信仰者の信心が「感」となり、仏がそれに「応」えて相通じ、両者が和合して一体となり「交感」することをいう。(「機根」については、「真−21−3、4」参照)
 しかし、ここでは超宗教の見地から、「仏」が「応」えると言うよりも、「荘厳なる無為」が「応」える、と見る。つまり、「荘厳なる無為」とそれを礼拝する者との間の感応道交を意味する。
 従って、本要件における「感応道交」とは−−−「荘厳なる無為」の霊妙な「働き」が礼拝者の心に「流入」し、礼拝者がそれを体験し、その法味を味わいながら、その「働き」の影響力により、礼拝者の自我意識が多少変容する−−−このような双方向の交流作用を意味するものとする。

 
(真−12−12)
 兎に角、本要件の「感応道交」は、「荘厳なる無為」とそれを礼拝する者との間の相互交感状態を指す。多少なりとも相互交感作用が発生すれば、感応道交が起きたと言える。それ故、相互交感の(前提)条件とも言える一体性(和合性・融和性)の度合いは、最初から高いものである必要はない。一体性の度合いは、飽く迄も相互交感の継続と積み重ねにより徐々に高まって行くもの、と認識して置くべきである。
 一体性の向上、相互交感の緊密度の向上のためには、双方の「親和性」が鍵になる。
 よって、もしも礼拝者が「荘厳なる無為」の霊妙なる働きと和合して一体となりたいと渇望し、自我の働きを「荘厳なる無為」の働きに委譲するならば(これ即ち「有為」生産の主体性を明け渡すことを意味するが、それは結局「有為」の停止に繋がるので)、委譲の度合いが高まるに連れて、自我の「無為」に対する親和性も高くなり、双方の交感もより一段と「(緊・親)密」なって行く。

 
(真−12−13)
【要件6】 「荘厳なる無為」の中の諸美徳・諸力が、礼拝者を通して(幾許かでも)実際に顕現して来ること 

 
 「荘厳なる無為」の霊妙な働きを「善」と呼ぶか、はたまた「善悪を超えたもの」と呼ぶかは、呼ぶ者の勝手である(真−18−31以下)。しかし、「無為」なる「真理の働き」は完全無欠であるから、その働きが人間を通してそのまま直截に現れる時には「完徳」と評価されて然るべきである。
 よって、「荘厳なる無為」の中には「諸美徳」が有る、と言うことができる。
 「荘厳なる無為」を「完徳」とか「諸美徳の宝庫」と捉えるならば、本要件の「実際に顕現して来ること」というのは、「荘厳なる無為」の中に有る諸々の美徳や霊力が、人間の「身・口・意」の三輪を通路(出口)にして顕在化し、表現されること、と捉えることができる。
 また、「幾許かでも」が括弧付きになっているのは、この「顕現」が全面的で圧倒的である必要はないことを示している。ほんの一部分、つまり幾許かでも(諸美徳・諸霊力の)顕現があれば、それは「流入」の証左となり、感応道交の証左となり、「真の礼拝」の証左となるからである。
 もし仮に、「顕現」が全面的・圧倒的・継続的なレベルで起こるならば、それは「完全なる顕現」であり、「一つのゴ−ル=彼岸」の達成と言え、聖者のレベルに達した、と言える。
 これを密教では「即身成仏」と呼び、「顕徳(得)成仏」とも表現する。(この言い回しに依れば、本要件はまさに「顕徳」要件と言える。つまり、「真の感応道交有れば、一部の顕徳有り」と言える、ということである。)

 
(真−12−14)
 尚、「諸力の顕現」の中には、「克己力」(真−9−1以下)も当然含まれる。
 つまり−−−<「真の礼拝」有ってこそ「克己力」の流入と顕現が有る>−−−ということである。孔子の教え(論語)の中には「克己復礼」という言葉がある。これは文字通り「克己して礼に復(カエ)る」ということである(この場合の「礼」は「仁」を形にした行為のことを指す)。つまり、「仁・礼」に復帰するには「克己」が必要だ、という教えである。
 しかし、これは「自力」志向の教えと言え、この点に限界がある。
 正しい宗教的視座からすると、「克己復礼」ではなく「祀神克己」である。何故なら、「神を祀る」という「真の礼拝」有ってこそ、克己力の流入が起こり、それによって現実に己れに克つことができるからである。(真−10−4)

 
(真−12−15)
 −−−以上が「真の礼拝」を構成する六つの要件である。
 尚、(1)〜(3)までの三要件は、或る程度自分の意志(又は意欲)で制御可能なものであるが、4)〜6)までの三要件は、自分の意志(又は意欲)だけではどうにもならないものである(これについての更に深い霊的意義については二−三−八以下)
 また、流入があれば感応道交もあり、感応道交があれば顕現もある、という関係が成り立っているので、(4)〜(6)までの三要件は一体不可分の(自動的な)もの、と分かるであろう。

 
(真−12−16)
 以上の「六要件」は「真の礼拝」に必要不可欠の条件である。つまり、「真の礼拝」であるためにはどうあっても<六要件全部>が揃っていなければならない。従って、もしもどれか一つでも欠けるならば、それは「真の礼拝」とは言えない。

 
 第一要件が欠けるならば、即座に「真の礼拝」ではなくなる。何故なら、「真の礼拝」を行う意欲も渇望もないままに、「真の礼拝」を行うことはできないからである。
 第二要件が欠けても、即座に「真の礼拝」ではなくなる。何故なら、「荘厳なる無為」に意識を向けないでそれを洞察することはできないし、それに意識を向けないでそれを礼拝することもできないからである。
 第三要件が欠けても、即座に「真の礼拝」ではなくなる。何故なら、「荘厳なる無為」に対して心の扉を閉ざし、又は、その光が差し込むのを内心で断固拒絶したまま、それを真に礼拝することはできないからである。

 
(真−12−17)
 第四要件が欠けても、即座に「真の礼拝」ではなくなる。何故なら、「無為」の「流入」を内心で断固拒絶するならば、真心からの礼拝には決してならないからである。
 第五要件が欠けても、即座に「真の礼拝」ではなくなる。何故なら、「無為」との感応道交が起きないならば、それはそもそも「流入」が発生していないことを意味し、「流入」が発生していない以上、それは「真の礼拝」になっていないことの明白な証左になるからである。
 第六要件が欠けても、即座に「真の礼拝」ではなくなる。何故なら、「荘厳なる無為」を真に礼拝していると言いながら、その者の「身・口・意」の三輪が、悪徳を行なっていたり、社会的・法的な意味での犯罪を犯していたりするならば、その者の礼拝が真の実質を伴ったものでないことが明らかとなる。
 礼拝することを通して、礼拝者の中に「荘厳なる無為」の諸美徳・諸力が様々な形で顕現して来て初めて、その者の礼拝は実質を伴ったものであると証明される。
 −−−それ故に、「真の礼拝」を望む者は、厳格に先の六要件をしっかり充たすように、能々(よくよく)心しなければならない。

 
(真−12−18)
 「真の礼拝」を構成する要件は「六つもある」と聞かされると、煩悩熾烈な凡夫は「これではとても『真の礼拝』など無理」と不平不満や愚痴をこぼさずにはいられないであろう。
 しかし、正法を愛する者は、往々にして形骸化し勝ちな自分の礼拝行為を、日々素直に見直して反省しつつ、毎日「真の礼拝」ができるように、六要件に気を配り自己点検しながら精進する。
 この「六要件」の中に、総ての宗教の真髄・精髄が内包されている。
 宗教の重要な奥義は皆ここから流出する。それ故、「真の礼拝」の「六要件」をしっかり理解して押さえ、真摯に実践するならば、それに応じてその者は宗教の道を正しく確実に歩んで行くことができる。

 
(真−12−19)
 しかしながら、(「真の礼拝」を忌み嫌い、我欲を増大させることで邪霊になっている)穢れた霊の軍団は、人々が「真の礼拝」に勤しむことを心の底から嫌っている。
 それ故、人々が「真の礼拝」の価値に目覚めることのないように色々と妨害して来たり、人々が「真の礼拝」に入らないように気を逸らせる工作をして来たり、注意力散漫な状態に留まるように何かと誘惑して来たり、「正しい集中」している者の隙を狙って精神統一を乱すような事件を仕掛けて来たり等々、(穢れた霊の軍団は)あらゆる策略・奸計を弄して来る。
 こうした舞台裏があるために、本人の意識するしないに関わらず、「真の礼拝」をすることは「大変だ」「難しくてできない」「面倒臭い」等々の心情を抱く者が続出する。
 こうした「真の礼拝」に対する「否定的な心情」(これは邪霊の働きかけの結果である)を間違ったものとして賢く退けるには、「真の礼拝の必要性」を切実なまでに感じ、理解する必要が有る。
 −−−自分にとって何故「真の礼拝」が必要なのか、どれ程切実に必要なのか−−−これについて深い認識に達した者は、もはや「真の礼拝」が「大変だ、難しい、面倒臭い」等々とは決して言わなくなる。

(真−12−20)
 ここで、根本的な問い掛けを一つ−−−「人は何故、礼拝しなければならないのか。」
 諸宗教においては多くの場合、礼拝は「義務」である。礼拝の文言・仕草・行う時間・回数等々、形式的にキッチリ決められた「義務」である。人間は義務化された礼拝行為により、頭(ベコ ウ)を垂れることを学び、そうした「型」を通して自分の傲慢を削(そ)ぎ落とすことを学んで行くのである。
(諸宗教における「義務的礼拝」は、多くの場合、超越的・絶対的な存在が人間に平伏すことを強制するようなニュアンスで位置付けられている。そして多くの信者は礼拝行為をそうしたものとして理解している。)
 しかし、ゼロセクトの見地から「礼拝の本質」を洞察するならば、「真の礼拝」とは単なる義務ではない。また、絶対者が押しつける強制でもない。
 「真の礼拝」とは、強制や義務というよりも−−−<三度の食事と同じく、人間の霊的な成長・向上にとって必要にして欠くべからざる行為>−−−なのである。
 三度三度の食事は、人間の義務であるというより、生存の維持と成長のために不可欠の行為である。これと同様に、「真の礼拝」は、人間が霊的にあるべき正しい人間として成長して行くための必要不可欠な「食事」の如きものである。「真の礼拝」は、誰のためでもない人間自身のための、自分の健全な成長と幸福のための、不可欠な「栄養流入」条件なのである。

 
(真−12−21)
 では何故、「真の礼拝」は「食事」のようなものなのか。礼拝と人間の成長との間に、どんな相互関係が有るのか。
 森羅万象を能々(よくよく)観察・洞察するならば、「荘厳なる無為」に圧倒的な覇権が有ることは明らかである(真−2−26)。しかし、人類の中には「荘厳なる無為」に対する無知があり、「無為」以外の「有為」が渦巻いていることも明らかとなる。
 もしも圧倒的な「無為」の力が、有無を言わさず人類の「有為」を一切合切綺麗さっぱり押し流してしまうならば、「有為」は消滅する外ない。
 そして、これを実行することは、「無為」の強大さからすれば、本当に造作もないことなのである。しかしながら、現実にはそうはならず、地上には、無数の人間たちの「有為」が押し流されずに滞留し、増殖しながら渦巻いている。
 こうした観察から、次のことが明らかとなる。即ち−−−
<「無為」が、一方的に人間の「有為」を押し流すことはない。即ち、人間には「一定の範囲内」で「有為」を働かせる自由があり、そうした「場」が枠付けられている>−−−と。

 
(真−12−22)
 もし仮に、「荘厳なる無為」だけしか働いていない世界が有るならば、そこには何の問題もない。不幸もなく、人間の煩悩もない。真理の完全な働きだけが有る世界である。そうした世界では宗教すら無用である。
 ところが現実には、人間には一定の範囲内で「有為」を働かせる「場」がある。それ故、不完全な働き・無知なる働きよって「悪い業(カルマ)」が生起・形成され、その結果、際限の無い「苦と不幸と悲惨」が生起するのである。
 人間は一定の範囲内で、不完全なる「有為」を働かせる能力と「場」を持っている。
 だからこそ、人間は一定の範囲内で「荘厳なる無為」が自分に「流入・顕現」することを拒絶して「有為」の働きに従事する道を選択することができるし、またその反対に「荘厳なる無為」が自分に「流入・顕現」することを意欲・渇望する道を選択することもできる。
 この二者択一の中にこそ、人間の自由意志といわれるものを(かろうじて)見ることができる。そして、こうした観察から、次のことが明らかとなる。

 
   「荘厳なる無為」を前にして、人間の取る態度は、根本的には二つしか有り得ない。
    荘厳なる無為」の「流入・顕現」を「求めるか/拒絶するか」、二つに一つである。

 
(真−12−23)
 では、人間は「有為」と「無為」、どちらを選択すべきか。
 真の幸福を求める者にとって、答えは明白である。しかし、答えが明瞭には分からないと思う者は、正道を歩むために、次のような道筋で「自分の存在の態様」を熟慮・洞察すべきである。
 先ず最初に、「有為」を生産し続ける自分の「自我」が有ることを観察する。「有為」の生産は、「荘厳なる無為」の流れに逆行するものであるから、因果律により、悪因悪果の「不幸と悲惨と苦しみ」を自動的に呼び込むことになる。
 こうした霊的法則が厳然として存在することを理解するならば(或いは信じるか、直観するならば)、自ずと「有為」の生産を止めようと思い立つはずである。
 そして、「有為」を止滅させようと自力で色々と努力してみるならば、「自我」はそう簡単に「有為」の生産を止めようとはしないものである、と実感するはずである。自己の性向・性格・習慣・習性は、一日にして理想的なものに変えることなど決してできないからである。
 このことに気付くと−−−では少しずつで良いから「自我」を変容・向上させて行くには何を為すべきか。更に言うと「克己力」(真−9−1以下)を正しく機能させ、徐々に克己力を強めて行くには何を為すべきか−−−こうした事柄を探究するようになる。
 そうして、克己力を働かせようと色々悪戦苦闘するほどに、やがて次の法則を発見する。即ち−−−「有為」の力で幾ら「有為」を押さえつけても、それを完全に止滅させることは不可能であること、そして、「有為」の活動を完全に止滅させられるのは「無為」の力だけである−−−と。
 このように順を追って一段一段“賢く”なって来たならば−−−
<「無為」の力に頼り、「無為」の力と働きが「流入し、顕現する」ことを渇望すること以外に、正しく「有為」に勝利する道はない>−−−と痛感するようになるはずである。
 こう思うほどに“賢く”なった者は、もはや不平不満を言うことなく、<切実な必要性>を感じながら「荘厳なる無為」を礼拝する道を選択するようになる。

 
(真−12−24)
 とは言え、斯(カク)の如く「正思惟」を重ねて来たとしても、「一つの落とし穴」が待ち受けている。それが往々にして多くの修行者の心中に湧いて来る、或る一つの「愚かなる思い」である。即ち−−−「有為」よりも「無為」を選び取って、これを「真に礼拝」したならば、その途端、一瞬にして「無為」の「無際限の流入」が起こり、礼拝する自分の「有為」を一気呵成に全部押し流しては呉れないものか、できれば是非ともそうして欲しい−−−という幻想である。
 もしこれが実現すれば、一回の「真の礼拝」でゴ−ルに到達でき、「顕徳成仏」を達成できてしまう。とっても楽で、こんなにうまい話はない。
 つまり「真の礼拝」に日々勤しむことが面倒臭いと感じる者は、自分の怠惰なる性格の故に、ついついこうした「楽な道」を勝手に夢想してしまうのである。そしてそれが実現しないと大きな不満を抱くのである。


(真−12−25)
 しかし、ただ一回の「真の礼拝」で「無為」の「無制限流入」など起こり得ない。
 次のような「二つの法」が有る。
 
   A.「荘厳なる無為」を求める「渇望」には、強弱の差異が有る。
   B.「無為」の「流入」は、礼拝者の「渇望の強さ」に正比例する。即ち、礼拝者の渇望の力が弱ければ「流入」もそれに比例して弱く少ない。礼拝者の渇望の力 が強ければ、「流入」もそれに比例して強く多い。

 
 「荘厳なる無為」の働きは完全無欠である。それは丁度、コンピュ−タが百万桁の計算を瞬時のうちに僅かの狂いもなくやってのけるのと同様、完全無欠で厳密・精妙なものである。
 それ故、「無為」の諸力は、「礼拝者の渇望の度合い」に完全に呼応して、完璧なまでに厳密・精妙に比例して「流入」する。従って−−−
<礼拝者が「無為」の「流入・顕現」を希求する渇望の力の強弱と継続度合いに正確に比例する形で、徐々に「自我」の性質も変容する>−−−これが法である。

 
(真−12−26)
 こうした霊的法則は、「大魚の油掛け調理法」に譬えることができる。
 高温の油の中にポチャリと大魚を入れてフライにすれば、すぐに魚の油揚げは出来上がる。しかし、高温の油の中に大魚を入れると、魚の組成が急激に変性してしまう。そこで、これを避けるために、油に入れずに大魚を少しずつフライにして行く一つの方法として、おたまで高温の油を吊るした大魚に何度も何度掛ける調理法が有る。
 高温の油をおたまに取って、それを何度も何度も吊るした大魚に掛け続けるならば、大魚は徐々に油で揚げたのと同じ状態に近づいて行く。(しかし、完全に揚げた状態にするには、やはり最後にその魚を高温の油の中にポチャリと落とした方が良い。魚全体を高温の油の中に入れることの霊的な意味については、真−13−1、真−24−18参照)
〔ここでの大魚は「自我」を意味し、高温の油は「荘厳なる無為」を意味する。また、おたまで何度も茄子に油を掛けることは「自我」に「無為」の諸力が少しずつ「流入する」ことを意味する。〕

 
(真−12−27)
 「大魚の油掛け調理法」で示される「自我の段階的変容の原理」は、超宗教的な、普遍的な原理である。何故なら、(先の)「『無為』の『流入』は礼拝者の渇望の強さに正比例する」という法則が総ての人間に当て嵌まる普遍的な原理だからである。
 この見地からすると、「大魚の油掛け調理法」で示唆される普遍的な「自我の段階的変容の原理」がユダヤ教及びキリスト教の宗教儀式になって現れたものこそ、「聖油を注ぐ儀式」だと分かるであろう。即ち、「聖なる油」に象徴されるヤハウェ−(又はエロヒム)の息吹、又は、キリストの霊・聖霊が礼拝者に注がれることで、その礼拝者は自我を徐々に変容させて行くのである。そうして、時に癒され、時に他者を癒し、時に知恵を得、時に他者に知恵を与え、時に様々な霊的能力の恩恵に浴し、時に様々な霊的能力を使用することになる。
 また、この「自我の段階的変容の原理」を、キリスト教の中で具現化したものが「聖体拝領の儀式(又は聖餐会)」である。そして、ヒンドゥ−教や仏教の中で具現化したものが、プラサ−ド(供饌)のお下がりを皆で食する儀式である。 

 
(真−12−28)
 では一例として、超宗教の見地から、キリスト教の「聖体拝領の儀式」について、その内実の作用を見てみる。
 キリスト者は「聖体拝領の儀式」中、物質としての本物の「パンとブドウ酒(又は水)」を飲食する。こうした「型」の中には、次のような霊的な意味が含まれている。
 信者は「聖体拝領の儀式」に参加することで、「聖霊を受けたい」という「流入の渇望」を態度で表明する。そして、物質としての本物の「パンとブドウ酒(又は水)」を口に入れることで、自身の中への「聖霊の流入」に対する「同意(了承)」の意思を表明するのである。
 聖霊を拒絶する者に聖霊は流入しないので、この同意には決定的に重要な意味が有る。
 礼拝者がこうした客観的な形で「聖霊の流入」に対する「渇望と同意」を明確に表明することにより、この儀式は単なる「型」を超えて、真実の感応道交の「場」となる。つまり、その「型」を通して、実際にキリストの霊である「聖霊」の「流入」が起こる。そうして、拝領する聖霊の力により、礼拝者の自我は徐々に変容し聖化されて行く。
 −−−これが「キリストの御体」(=神霊)を「食する」(=自己の一部として内化する)ことの霊的な意味である。

 
(真−12−29)
 ところが、不信仰なキリスト者の中には、儀式に参加しているものの、内心では聖霊の流入を全然渇望していない者もいる。肉欲への執着が強いために、それを妨害されたくないと思っているのである。こうした場合は、たとえその者が「聖体拝領の儀式」に参加していたとしても、実質たる「渇望」が伴わないので、それは「形ばかり」の参加になる。
 よって、儀式で皆と同じように物質としての本物の「パンとブドウ酒(又は水)」を飲食しても、その者の内心には実質たる(聖霊の流入に対する)「渇望も同意」も無く、寧ろ、聖霊流入に対する「拒絶の意思」が有るので、実際の聖霊の流入は起こらず、その者にとって、儀式は形骸化し空虚なものとなる。
 こうした観察から分かることは、儀式を外的にどんなに忠実に執行しても、実質(=「真の礼拝」の六要件)が伴わないならば、霊的には殆ど意味の無い儀式(但し、僅かな意義については真−12−4)に堕してしまう、ということである。
 ここにこそ、「真の礼拝」のためには外的行為が重要なのではなく、内的行為(としての六要件)が重要だという所以が有る。

 
(真−12−30)
 キリスト教に入信したばかりの一部の初心者は−−−「何故、パンとブドウ酒を飲食しないと信仰の道を無事に進むことができないのですか。ブドウ酒無しではいられずに、年がら年中『ブドウ酒下さい。ブドウ酒下さい』と懇願してばかりでは、一種のアルコ−ル中毒患者のようなもので、到底「自由な境涯」とは言えないのではないでしょうか。キリスト教は何故こんなに不自由で面倒臭いのですか」−−−といった疑問を抱く。
 しかし、「段階的な自我変容の原理」としての「大魚の油掛け調理法」の譬えを理解するならば、そうした疑問は氷解するはずである。そして、深く納得した上で、「もっと、もっと、パンとブドウ酒を下さい。日々それを下さい。私にはそれが是非とも必要なのです」と言うようになるであろう。また、是非ともそうならねば、立派な一人前のクリスチャンの仲間入りはできない。〔※註2〕

 
(真−12−31)
〔※註2−−−1部の者は、「『もっとパンを。もっとブドウ酒を』との渇望は、一生の間続けなければならないものなのでしょうか」という疑問を抱く。(「段階的な自我変容の原理」から考えれば明白な事だが)、その答えは「然り」である。それも、「一生の間」などという短い期間ばかりではない。この世でも、あの世でも、地上に転生して来ても、いつでも何処でもパンとブドウ酒に象徴される「聖霊の流入」を渇望し続ける必要が有る。それが真のキリスト者である。キリスト者の道は「パンとブドウ酒」の飲食の儀式を通して、聖霊の流入を定期的に拝領して行くことで、一歩一歩自我を変容・聖化させて行く道である。


(真−12−32)
 但し、一般の(そして本講を学んでいない従来の)キリスト教徒は輪廻転生を認めないので、「この世でもあの世でも」というのは良いが、「地上に転生して来ても」とは言うべきではない、と異議を申し立てるであろう。
 この問題は感情的に議論すべきものではない。冷静沈着に深い瞑想に入るように努めながら、沈思黙考すべきものである。
 ただ、一つの助け船を出すならば、この問題は「聖霊の流入に基づく段階的な自我の変容・聖化の道にゴ−ル(終点)は有るのか」という問題と密接不可分の問題だということを押さえて置くべきである。それ故、「転生の有無」について議論する前に、キリスト教徒はゴ−ルの問題について深く洞察すべきである。「聖者に成る」という個人のゴ−ルについてである。
 そして、キリスト教徒は、密教の「即身成仏」の原理について謙虚に研究し、熟慮すべきである。そして、そこから示唆を受けるべきである。これに関わる「具我」の問題については、真−25−10参照 〕〕


(真−12−33)
 ところで、超宗教の信仰を持つ者は「荘厳なる無為」を信仰するので、キリスト者のように物質的な「パンやブドウ酒」に制約されることがない。
 「荘厳なる無為」の流入を受けるには、祭司も神父も牧師も神権者も絶対に必要というわけではない。いつでも何処でも、「正しい集中」ができ、「真の礼拝」の六要件のうちの初めの三要件を充たすならば、「荘厳なる無為」の「流入」を「拝領」することは可能である。
 つまり、いつでも何処でも、礼拝者に「純正なる渇望と集中」の力が有るならば、「荘厳なる無為」の流入を受けることができる道理である。
 従って、「無形の無為」を信仰する者は−−−<「真の礼拝」を行うに当たり、決まった形式を必要としない>−−−という自由を持つ。
 但し、だからと言って、形有る礼拝様式を軽蔑したり、侮蔑したり、嘲笑したり、見下したりすることは決してしない。そうではなく、そうした儀式を「補助的なもの」として大切に尊重する。〔次章「演壇と階段の譬え」や「自転車と補助車の譬え」(真−13−8、9)〕

 
(真−12−34)
 ゼロセクトの道を行く者が、補助的な外的儀式を使わないで「真の礼拝」を行おうとする場合、頼りになるのは自分の(正しい方向での)「渇望の力と集中の力」だけである。
 この場合、穢れた霊の軍団は、礼拝者の「正しい渇望と集中」だけを狙って、ピンポイント攻撃して来ること必定である。
 穢れた霊の軍団は礼拝者の「渇望と集中」を破壊するために、行く手に「ソドムの果物」を沢山蒔いて来る(真−9−35以下)。ソドムの果物は、食すると口に甘く、腹に苦い。
 ソドムの果物には−−−<二種類の毒素>−−−が入っているため、食べた後になって腹が苦くなり、苦しむことになる。


(真−12−35)
 「第一の毒素」は、肉欲を喚起して強め、興奮し易くする作用があるので、服毒者は煩悩の炎を燃え上がらせ、「火宅の人」になってしまう、そういう毒である。
 「第二の毒素」は、「この毒無しではいられない」という強い依存症を引き起こすものである。それ故、殊勝にも意志の力を行使して、この毒を服用しない決意をすると、強い禁断症状に襲われて苦しむことになる。
 そして、この禁断症状には二つの顔が有る。一つは「やっぱりこの果実の快感が欲しい」という欲望で胸が掻き毟られるような苦しみを覚える症状である。もう一つは、それが止んだ時に生じるもので、罪を犯した後悔の念、強い自責の念が湧き起こり、その自己否定の想念で胸が掻き毟られるような苦しみを覚える症状である。
 良心の呵責としての自責の念は、(精神的に)ひどい「嘔吐・苦痛・痙攣」を引き起こす。ひどい自己嫌悪の嘔吐感に苛まれ、正しい集中をしようとしても清澄な集中ができない状態が暫く続く。こうした「痛苦の罰」を避ける特効薬は存在しない。
 それ故、ソドムの果実に含まれる毒の後遺症として、それを食した後、もう食べるまいと本当に決意すると、その者は(精神的な)嘔吐感・苦痛によって暫くの間、病床の人になってしまうのである。(尤も、この苦しみは浄化の一過程と捉えるべきものである。)


(真−12−36)
 「ソドムの果物」には、こうした二種類の毒素が必ず含まれているので、その相乗作用により、これを食する者は、純粋な渇望と清澄な集中力が弱められ、妨害され、一部圧殺され、一部破壊されてしまう。また、容易にそれを食する生活習慣から脱却できない。
 そして、ソドムの果物を継続して多量に食して「慢性中毒症状」が進行してしまい、これへの依存が強くなって脱却が困難になると、その先行きには悲惨な末路が待ち受けている。(真−7−27)
 従って、賢明な者は、こうした「ソドムの果物」の身震いするような恐ろしい特徴を深く洞察して、これをできる限り忌避して行かねばならない。


(真−12−37)
 ソドムの果物の「毒入りの身心に悪い、安っぽい甘味」を食することを選ぶのか、それとも「真の礼拝」の微妙精妙・霊妙多彩な「奥深い法味」を味わうことを選ぶのか、二つに一つである。前者はそれを食する者の身心を蝕んでズタズタにするものであり、後者はそれを食する者の身心を健全に成長させ、強壮にして行く作用があるものである。
 −−−こうした霊的な意味での「食物に関する二者択一」問題は、人生行路を進む間中、ずっと突きつけられている問題である。
 人は意識有る限り(そして正しくゴ−ルインするまで)、ずっとこの二者択一試験を受け続けなければならない。つまり、人生では、「正しい取捨選択ができるか否か」、その者の「自我の質」が嫌でも試されるシステムになっているのである。
 これこそが、自動的な「自我の精錬システム」である。
 それ故、超宗教の中道を進み行く者の要諦は、これである。

 
     立ち戻れ 立ち戻れ 「真の礼拝」に立ち戻れ 法味三昧に到達するまで  
 
   −−−以上で、「真の礼拝を構成する六要件」の解説を終了する。

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