本文へスキップ

レヘム総研は哲学と思想を人生の糧とするための総合サイトです。

電話でのお問い合わせは03-1234-0000

メールでのお問い合わせはこちら

梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第13章 自州・法州に到るブッディ・ヨーガNew!

無料0,000円[税込]

第十三章 自州・法州に到るブッディ・ヨーガ「8段階瞑想法」


(真−13−1)
これから、ブッディ・ヨーガの8段階について、説明して行くのですが、ブッディ・ヨーガは、高度な瞑想法なので、これまで、多くの人が誤解し、間違った手法で、迷路に入り込み、戯論を花咲かせてきました。
ブッディ・ヨーガを正しく行なうためには、1章〜12章までの事柄が「基礎」として、とても重要です。
ゆえに、
■基礎的な「第一地」(レベル1)が
偉大なる大静謐音に耳を済ますこと、ゼロセクトの道と信仰を目指すこと、
名色を超えた洞察礼拝をすること、そのための「荘厳なる無為」という営為を洞察すること、
以上の部分になります。
そして、
■基礎的な「第二地」(レベル2)が
 「真の礼拝」としての「感応道交」をしっかりできるようにすること
になります。
これらの基礎部分なしに、ブッディ・ヨーガをやると、うまく行かないので、よくよく気をつけて下さい。
 さあ、次のステップは、「邪心」との闘いです。
 聖者以外の、誰の心の中にも「邪心」が無いとは言えない。
 「邪心」とは、悪想念と悪行を産み出す心である。(「悪」の定義は真−18−30)
 邪心とは実に「心の有為なる活動」である。そして、邪心である「有為」を滅するためには、「大魚の油掛け調理法の譬え」(真−12−26)の通り、大魚(=自我)に高温の油を何度も何度も掛けて行く必要が有る。そうすることで、大魚(=自我)は油で揚げた状態に近づいて行く。そして「もう充分」という時が来ると、直接高温の油の中にポシャリと投げ入れられ、カラッと揚げられる。
 すると、「焦穀、芽を生ぜず」(焼き焦がした穀物の種子は発芽しない)という状態、即ち「邪心=有為=諸煩悩」が完全に焼却され絶滅した状態に到り、聖者と成る。〔※註1〕
 こうした状態に達すると、諸ス−トラ(経)〔※註1〕にある通り、もはや逆戻りして、邪心が発生する状態になることはない。
 従って、この状態に達することこそが「彼岸への到達」であり、真の「悟り」である。
 何か大切なことにハタと気付いて自覚が芽生える程度のことが真の「悟り」なのでは決してない。(「悟り」の概念をこうした低級なレベルに貶めて大衆に説く似非説法者には注意すべきである。)
 飽く迄も、真の「悟り」とは−−−<邪心の完全な滅却(焼却)>−−−を意味する。


〔※註1−−−パタンジャリの「ヨ−ガ・ス−トラ」の「サマディ・パダ(三昧部門)」の最後に、サマディの強烈体験を称して、「(すると煩悩として芽を出すその種子自体が全部焼けてしまう三昧、即ち)ニルビ−ジャ・サマディ(無種子三昧)である」と記されている。
 これと同義の「焦穀、芽を生ぜず」という一節は「碧巌録」第九十五則・本則の著語に記されている。
 また、原始仏典「スッタニパ−タ」にも、一度「彼岸」に到達するともう逆戻りしない旨の教えが記されている。真−24−18参照 〕〕


(真−13−2)
 ところで、修行者が(前章の六要件を充足した)「真の礼拝」を実践している時には、邪心は働かないし、働きようがない。何故なら、その時、修行者の心の中で主に働いているのは、「『無為』の流入と顕現」をひたすら「強く渇望する心」だからである。そして、この渇望心の活動の結果、「無為」との感応道交が起こり、「無為」の力と諸美徳が幾許(バイクク)かでも前面に顕現して来るからである。
 但し、「真の礼拝」時に邪心が働かないというのは、総ての「悪の要素・邪見・過誤」が完全に無くなってしまうという意味ではない。心の活動は、その者の持つ気質・性格・偏見の歪みと共に有る。よって、「真の礼拝」に基づく「聖なる流入」は、飽く迄も高温の油を少しだけ「おたま」で掛ける程度のものにとどまる。
 それ故、「真の礼拝」の力で、自我が「邪心」を離れ「善なる方向」で活動するようになる作用は、「一時的な現象」に留まる。だからこそ、毎日毎日の「聖なる流入」「高温の聖油を掛けて貰う事」が必要になるのであり、日々「感応道交状態」を希求することが重要になるのである。これ即ち−−−<毎日「真の礼拝」を行う「時間」を確保する必要が有る>−−−ということである。これを謙虚に実践する時に初めて、日々の順調な霊的成長がもたらされ、日々少しずつの聖化が行われ、自我の「性根」が「良い方向」へ変容して行くのである。(性格・性根の変容、即ち、人間の「機根三気質」に関しては、真−21−1以下)


(真−13−3)
 「真の礼拝」は霊的生活に必要不可欠のものである。肉体に三度三度の食事が必要なのと同様に、霊的成長のためには、「真の礼拝」を日々行い、その都度「聖なる流入」を拝領することが必要である。(「礼拝の必要性」は「真−12−20」)
 しかし、更に上の段階も有る。
 日に二度、三度、「真の礼拝」に入るだけでは物足りなくて満足できない、という風になると、「より一層頻繁な『真の礼拝』」を望むようになり、「より一層長時間の『真の礼拝』」を望むようになる。
 何故なら、「真の礼拝状態」を味わえば味わうほど、その「甘美な法味」をもっと欲しい、と思うようになるからである。また、更には−−−
<「真の礼拝」の感応道交状態から一旦外(ハズ)れると、邪心が働き始め、暗黒の想念が蠢き始めてしまう>−−−と、鋭く内省・自己観察し、「自分としては『こうした隙』を全部無くしてしまいたい」と強く考えるようになるからである。
 それ故、勇猛に「彼岸=ゴ−ル=邪心・煩悩の種子までの焼却」を目指す修行者は−−−
<四六時中「真の礼拝」状態=感応道交状態=諸美徳顕現状態にあること>−−−という、聖者の状態と同じ状態になる事を「大目標」を掲げて、一所懸命に精進するわけである。
 とは言え、人間は十人十色、千差万別なので、各人のレベルによって、努力の度合い、熱の入り方などに大きな差異が有って当然であるし、それが自然なことである。
 よって、誰に対しても、「邪心を一切働かすな」と要求するのは無茶な話である。こうした要求は、多くの凡人にとって「不可能な要求」である。
 しかし、だからと言って、「邪心を自由に働かせて良い」という法もない。
 従って、この中間を取って−−−


  誰であれ、日々「真の礼拝」に入る事(=正しい祈り)を通して、「邪心」と闘って行かねばならないし、そうして、邪心を少しずつ減殺して行かねばならない。

 −−−これが「万人共通の人生課題」ということになる。


(真−13−4)
 「真の礼拝」には、明らかに邪心の働きを凍結し、徐々に減少させ、最後には完全に滅却してしまうだけの作用と効果がある。これが諸宗教に必ず「礼拝行為」が規定されている理由である。
 では何故、諸宗教の「礼拝行為」は一つに統一されておらず、千差万別・多種多様なのか。その理由は次の通り。
 そもそも、「真の礼拝」は無形のものであり、心の内実の問題である。よって、この点を突き詰めると、外形的礼拝行為の「型・形」は、飽く迄も「副次的・補助的なもの」に過ぎない、と位置付けられ、最終的に「無形」の「真の礼拝」に入れるものであれば、外形的な礼拝の「型・形」は何であっても構わない、ということになる。
 「真の礼拝」の本質が無形・無相のものである以上、「どの型が間違い」と決めつけることなど誰にもできない。
 礼拝行為における一大ポイントは、兎に角、「真の礼拝」状態に入る事であり、聖なる感応道交が現実に発生することである。そうであれば、できるだけ多くの人間が(兎に角「形」からでも入って)礼拝の「型・形」を学び、各人の好みのスタイルで礼拝に勤しみ、そうした様々な外形的礼拝行為を通して「真の礼拝」にスム−スに入って行けるなら、それは大変結構なこと、と言える。
 こうした道理が根底に有るが故に、外形的礼拝行為は、「真の礼拝」参入のための方便(便宜・便法)と位置付けられるのである。
 従って、衆生の機根・気質・好みに対応する形で、(様々な人々の様々な思想、様々な手を介して)礼拝の「型・形」が規定されても、(霊的法則からは)当然許されることになる。
 それだから、外形的礼拝行為は千差万別・多種多様なものとして、百花繚乱、地上に咲き乱れることになるである。


(真−13−5)
 斯(カク)の如く、超宗教の中道を行く者は−−−
<総ての外形的礼拝行為は「真の礼拝」のための方便に過ぎない>−−−と大胆に見切ってしまう。そして、外形的礼拝行為よりも、内的な「真の礼拝」状態の実践を本道とする。
 こうした見識を持つことができた時に初めて、その人は如何なる礼拝の形式・態様にも縛られることがなく、どんな「型・形」の礼拝スタイルであっても違和感無く、それを楽しんで行えるようになるのである。〔※註2〕

 
〔※註2−−−「真の礼拝」に入れず、形だけの礼拝しか行えない者や、形だけの礼拝すらも満足に行えない者は、残念だが、ゼロセクトの中道を行くことは決してできない。外形に囚われずに「真の礼拝」状態に入れるレベルの者だけが、諸宗教総ての外形的な礼拝行為を方便として見切ることができ、自在に外形的礼拝行為を楽しむことができる。〕〕


(真−13−6)
 また、総ての外形的礼拝行為を方便として尊重する「超宗教の内心重視の立場」からすると、形骸化した礼拝行為であっても、それなりに尊重することになる。
 一般的には、行為者に或る程度問題が有ろうとも、礼拝行為は「やらないより、やった方が良い」と言うべきである。何故なら、精神が乱れていて、形骸化した礼拝行為しかできない者でも、形だけの礼拝を習って反復するうちに、徐々に「礼拝とは何なのか」考えるようになり、徐々に「もっと有意義な、味わい深い礼拝を行いたい」という意欲が頭ももたげ、それがやがて「真の礼拝」をしたいという渇望にまで高まり、そうして遂に「真の礼拝」状態を体験する日が来る、という可能性は皆無とは言えないからである。
 また、形だけの礼拝すらも満足に行えない者が、遊び半分で少しだけ上辺の礼拝行為を真似する、といったレベルでも、それでも礼拝行為は「やらないより、やった方が良い」と言うべきである。何故なら、それが如何に遊び半分であったり、冷かし半分であったりしても、或いは、最初は真面目だったが段々つまらなくなり、遂には馬鹿馬鹿しくなってやめてしまったとしても、そうした「猿真似の礼拝行為」が多少の因縁となって、後々の生々流転の中で善因として機能する時など決して来ない、とは誰も断言できないからである。
(但し、唯一、例外的に「やらない方が良い」場合も有る。真−12−4「註1」参照)


(真−13−7)
 こうした諸般の道理を深く洞察するならば、超宗教の中道を行く者は、諸宗教の無数の礼拝行為を「どれもこれも皆<方便>として有意義である」と評価して、分け隔てなく尊重する立場を貫くことができる。この立場は即ち−−−
<人智を超えた聖なる存在に対して、辛子(からし)種子ほど僅かでも畏敬・崇敬の念が含まれたものであるならば、如何なる礼拝行為であってもそれに賛意を表す>−−−というスタンスである。これが超宗教の広大な視野に立つ見方である。(けれど、悪魔礼拝に反対することは当然である。)
 但し、ゼロセクトの立場は精妙・微妙であり、ただ闇雲に外形的礼拝行為を礼讃するわけではない。この点は注意を要する。
 何人に対しても、より一層のステップアップが必要であることを教え、「型と外形」に比重がある未熟な礼拝行為から、より内的な「真の礼拝」へとステップアップすることを教え、そして更には、より一層深くて長くて全面的な感応道交状態の礼拝へと「礼拝行為を深化させて行かねばならないこと」を教え、こうして、人々の「礼拝の深化」をサポ−トするのも、超宗教の中道を行く者の務めである。(衆生の更なる霊的成長を祈る霊的働きである。)


(真−13−8)
 ところで、総ての外形的礼拝行為を(「真の礼拝」に参入するための)「方便」と見切る超宗教の視座からすると、「真の礼拝」と「外形的礼拝行為」との関係は、「演壇と階段」に譬えることができる。
 胸の高さほどの演壇に上るには、数段の階段を利用すると良い。これと同様、「真の礼拝」状態(というステ−ジ)に到るためには、外形的礼拝行為を利用すると良い。また、一旦演壇に上ってしまえば、演説中は階段を使わない。これと同様に、「真の礼拝」状態(というステ−ジ)に到ってしまえば、外形的礼拝行為は無用となる。
 また、跳躍力の有る者ならば、演壇に直接跳び乗ることもできる。これと同様に、一定レベル以上の「正しい集中力」の有る者は、外形的礼拝行為を利用せずに、「真の礼拝」(というステ−ジ)に直接参入することができる。そして、こうした場合、跳躍力の有る者が、階段を使わず演壇に直接跳び乗ろうが、階段を使ってゆっくり演壇に上ろうが、それは本人の自由と言える。これと同様に、「真の礼拝」に直接参入する力の有る者が、外形的礼拝行為を利用するか否かは、本人の自由である。どちらか一つの方法を採らねばならない、と制限すべき理由は一つもない。


(真−13−9)
 また、「真の礼拝」と外形的礼拝行為との関係は、「普通の自転車に乗ることと補助車付きの自転車に乗ること」に譬えることもできる。
 自転車に乗れない者も、補助車付きの自転車ならば乗ることができる。これと同様に、直接「真の礼拝」状態に到れない者も、外形的礼拝行為だけならばこれを行うことは容易である。そして、補助車付きの自転車に何度も何度も乗っていると、その感覚が自然に身に付き、やがて補助車無しでも自転車に乗れるようになる。これと同様に、何度も何度も繰り返し外形的礼拝行為を反復すると、やがて「無意味な礼拝はしたくない」という意欲が頭をもたげ、それが渇望となり、自然に「真の礼拝」状態に入れるようになって来る。
 また、一旦普通の自転車に乗れる(=「真の礼拝」に入れる)ようになると、補助車(=外形的礼拝行為)は、最早その人にとっては絶対必要なものではなくなってしまう。
 普通の自転車に乗れるようになった者は、補助車を付けたまま自転車の乗ることもできるし、普通の自転車に乗ることもできる。どちらを選ぼうと本人の自由である。これと同様に、一定レベル以上の「正しい集中力」を会得した者は、外形的礼拝行為を使いながら「真の礼拝」に入ろうが、外形的礼拝行為を使わずに直接「真の礼拝」に入ろうが、それは本人の自由である。どちらか一つの方法を採らねばならない、と制限すべき理由は一つもない。

(真−13−10)
 ゼロセクトの視座から見ると、外形的礼拝行為は飽く迄も<手段>に過ぎない(これがありのままの真実である)。しかし、視野の狭い短絡的な者は、往々にして−−−<外形的礼拝行為を宗教の目的にしてしまう>−−−という「大間違い」を犯してしまう。自分の信仰する宗教の礼拝儀礼を唯一絶対のものだと思い込み(一−五−一以下)、その外形的礼拝行為に異常なまでに執着し、それを執り行う自分を自慢しないではいられない、という症状である。(これは一種の偶像礼拝の範疇に属する。偶像礼拝については、星−15−33、星−16−3以下)
 呉々も、手段を目的にする愚を犯すことなかれ。
 ゼロセクトの中道を行く者が、この種の本末転倒した見解を抱くことは決して許されない。この種の転倒した見解を抱くならば、即座にその者は特定宗教の道を行く者になってしまう。


(真−13−11)
 とは言え、この種の本末転倒に陥る可能性は至る処に有る。罠は沢山仕掛けられている。その中で首尾良く「ゼロセクトの無形の中道」を進んで行くためには−−−
<外界・外形に囚われないこと。そして自己の内面にこそ注意を向けること>−−−これが大前提になる。何故なら、「真の礼拝」ができるか否かは「自分の内心」の問題でしかないからである。
 自分の内心の問題を看過すると、「真の礼拝」の本道から外(ハズ)れてしまう。
 それ故、ゼロセクトの中道を志す者は「礼拝における内心の看過」即ち−−−
<灯台下(モト)暗し状態>−−−を大いなる恥として忌避しなければならない。
 幾ら熱心に外形的礼拝行為を執り行っても、自分の足元で(無知から来る)「暗黒の想念」が秘かに蠢いているならば、その状態を「良し」とすることは決してできない。そのような状態を放置したままで、外形的礼拝行為を誇ることなど以ての外である。


(真−13−12)
 一部の仏教徒は、ゴ−タマ・ブッダその人と「彼の説いた法」と「帰依者の集団の戒律」と「儀式」を誇りにする。しかし、そんな事を誇る暇が有ったら、自分の足元で「暗黒の想念」が蠢いていないか、厳正に自己糾明すべきである。その方が遙かに重要であろう。
 一部のキリスト教徒は、イエズス・キリストや「キリストの十字架」や「彼の体としての教会」や「新約時代における新規の礼拝儀式」を誇りにする。しかし、そんな事を誇る暇が有ったら、自分の足元で「暗黒の想念」が蠢いていないか、厳正に自己糾明すべきである。その方が遙かに重要であろう。
 一部のヒンドゥ−教徒は、クリシュナやシヴァやヴィシュヌやカ−リ−やシャクティ−等々を礼拝し、その礼拝儀式と数々の祭りを誇り、膨大な聖典群の存在を誇り、諸聖者を輩出していることを誇る。しかし、そんな事を誇る暇が有ったら、自分の足元で「暗黒の想念」が蠢いていないか、厳正に自己糾明すべきである。その方が遙かに重要であろう。
 多くのイスラム教徒は、アッラ−とその預言者ムハンマドと彼の書いた聖典クルア−ン(コ−ラン)とモスク(会堂)と、断食月と日毎何度も行う礼拝儀式を誇る。しかし、そんな事を誇る暇が有ったら、自分の足元で「暗黒の想念」が蠢いていないか、厳正に自己糾明すべきである。その方が遙かに重要であろう。
 多くのユダヤ教徒は、ヤハウェ−(又はエロヒム)と諸々の預言者の記した聖典とその解釈書であるタルム−ドと律法学者(ラビ)と、自分たちの選民としての「苦難と奇跡の歴史」と定期的祭りと、多岐に渡たる厳格な戒律を誇る。しかし、そんな事を誇る暇が有ったら、自分の足元で「暗黒の想念」が蠢いていないか、厳正に自己糾明すべきである。その方が遙かに重要であろう。
 このように−−−
<灯台下暗し状態>−−−を放置したまま、即ち「暗黒想念が蠢いている」状態のまま、自分の信仰や礼拝行為や、中途半端な観想や瞑想を誇ったり、「良し」と自己評価することは、自己欺瞞でしかない。こうした自己欺瞞の罠に陥らないためには、自分の足元で「暗黒の想念」が蠢くか否かを、厳正に自己観察・自己糾明し、それを「鋭く自覚する」必要が有る。


(真−13−13)
 多くの特定宗教の礼拝手法は、このように「外に意識を向けるもの」であるが故に「灯台下暗し」に陥り勝ちである。しかし、超宗教の中道は「内心重視」なので、根っこ部分の「灯台下暗し状態の解消」にこそ、ピンポイントで狙いを定める。
 但し、「灯台下暗し状態の解消」のために「外よりも、意識を内に向けて行く」−−−この手法は、ゼロセクトの中道の専売特許ではない。この手法は、既に釈尊によって大成されている手法であり、弟子たちにより、プラジュニャ−・ヨ−ガ=ハンニャ−(般若)・ヨ−ガ=ブッディ・ヨーガとして、確立されているものである。(真−7−14以下)
 従って、「灯台下暗し状態の解消」という目標を掲げる「超宗教の礼拝手法」は、伝統的な仏教の「般若ヨ−ガ手法」を踏襲した上で、それに(意識の焦点を「無為」に絞った)「超対象の洞察礼拝」を加味したもの、と言える。
 これぞ、最も強力で、最も安全な「新世紀のブッディ・ヨーガ」である。
 「否定の智剣」を「中道の剣捌(さば)き」で使いこなし、その上、「名色を超えた洞察礼拝」を縦横無尽に駆使して、足元の「暗黒」、「悪しきエゴ」を斬り裂き、滅却して行く。
 それが「ゼロセクトのブッディ・ヨーガ」である。


(真−13−14)
 そもそも、どんな特定宗教であっても、外形的礼拝行為は礼拝のホンの入口にしか過ぎない。それ故、「外形的礼拝行為」を真に深めて行くならば、どんな特定宗教であっても、やがては必ず「灯台下暗し状態の解消」という大問題に突き当たらざるを得ないのである。
 そして、心底、霊的探究心に燃えて、この大問題に真正面から取り組もうとすると、誰であれ、「外形的礼拝行為はひとまず脇に置き、この大問題に意識集中しよう」という気持ちになって来る。「足元の暗黒の打破」こそ、喫緊の大問題、何にも増して優先して取り組む「優先順位第一番の問題」と感じるようになるからである。〔※註3〕
 こうした問題意識に目覚めた者は誰でも「超宗教の般若ヨ−ガ」を学び、「真の礼拝」を深めて行くことができる。
(そして、これを学んでも「特定宗教の否定」には繋がらないし、「外形的礼拝行為」の否定にも繋がらない。それまで「絶対視」していたものを、今度は一つの「方便」として尊重し、大切にするようになるだけだからである。真−6−3以下)


(真−13−15)
〔※註3−−−「足元の暗黒打破」を「優先順位の第一番」にすることに関連し、禅僧が医学部で勉強する事の是非について触れて置く。「禅僧が医師をめざす理由」対本宗訓著(春秋社刊)参照。その問題の是非の正解は「空−七−百六十」参照。世俗を放棄した出家の禅僧が、社会奉仕のために「支持者のお布施で医学部に行き、僧侶兼医者、即ち『僧医』になります」と言い出して医学の勉強を始めた場合、釈尊ならば何と言うであろうか? 
 釈尊に内弟子が十人居たと仮定した場合、選ばれた内弟子がそういう行為に走る事は許さないはずである。何故なら、真の聖者は選んだ内弟子には「悟りに一直線の行法」を教えて特訓し、精進させ、寄り道している暇など与えないからである。但し、在家の信徒にはこうした厳しい姿勢は取らない。なお、対本宗訓氏は、妻子居る身であるため、世俗知識を超越した「究極叡智」を目指してのブッディ・ヨーガの模範を要求するのは、酷だとも言える。〕〕


(真−13−16)
 「ブッディ・ヨーガ」は、多くの人々から「単に坐禅瞑想しているだけ」だとか「頭でっかちで理屈っぽい手法」と思われ勝ちである。
 しかし、「真のブッディ・ヨーガ」は、「天与の叡智を働かせ、否定の剣で、自分の思考作用までも斬り捨てて行く手法」である。よって、このヨ−ガは「理屈っぽい」ものではなく、本当は「理屈を無くす=理屈を超越する」ものである。「理屈で出来た想念」を冥(くら)くするのが、真の冥想だからである。〔単に「目を瞑(つぶ)る」のが瞑想なのではない。〕
 「銀幕の上に展開する暗黒想念」という「悪い映画」を止めて、冥(くら)くすることが真の冥想である。そして、「悪い映画」を止めて冥(くら)くするのは、「暗黒の中」に落ち込むためではない。「悪い映画フィルム」抜きの、「映写機の大光明」を渇望するが故のことである。
 つまり、「真のブッディ・ヨーガ」は、単に理屈っぽく想念を巡らせてウジウジ物を考えるヨ−ガではなく、「大光明を求めながら考える」ヨ−ガであり、それも「悪い考え」を次々に力強く斬り捨てて行くヨ−ガであるから−−−「般若ヨ−ガの実践としての考える行為」は、それ自体が「最もラジカルな真の礼拝行為」なのである。(各種の礼拝行為中「最高峰の礼拝行為」と言っても過言ではない。)
 従って、「真のブッディ・ヨーガ」を実践すればするほど、その者の「真の礼拝」は深化して行き、「感応道交」も密になり、諸美徳・諸霊力も一層顕現して来るようになる。また、そうならなければ、それは真のブッディ・ヨーガとは言えない。


(真−13−17)
 さて、こうした「ゼロセクトのブッディ・ヨーガ」の瞑想法、暗黒映画たる妄想全般を悉く斬り裂いて行くための「内観礼拝を深めて行く法」について、これを便宜上−−−
<八つのステップ>−−−に分けて解説することにする。
 では、「足下の暗黒打破」のための「八段階の瞑想法」を、ここに示す。
      
 【「ゼロセクトのブッディ・ヨーガ」の「八段階瞑想法」】


(1)脚下を照顧する (十四章)   
(2)「我」の構造と意味に通暁する (十五〜十七章)
(3)「世界を構成する四要素」と「善悪の本質」を看破する (十八章)
(4)「罪悪の発生原理」を看破する (十九・二十章)
(5)「超宗教の機根三気質」に通暁する (二一・二二章)
(6)「無自性自覚の法門」を通過する (二十三章)
(7)脚下を照破し、心源を覚知する (二十四章)
(8)心源と融合し、真己を顕示する (二十五章)
 
 −−−次章より、各段階について、順次詳説して行く。
 

;;も

梵我瞑想法十地次第 目次に戻るNew!

0,000円[税込]


ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。

予備

ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。


予備

ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。


予備枠

ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。


予備枠

ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。

解説

ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに

紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。

その他の論

ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。


この商品について

サイズ ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
材質 ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
重量 ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
備考 ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
ブランド ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。

サイト情報

レヘム総研

〒163-0000
東京都○○区○○○1-2-3
TEL.03-1234-0000
FAX.03-1234-0001
info@builder**.jp
→ショップ案内