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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第14章(第一段階)脚下を照顧するNew!

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第十四章 ブッディ・ヨーガの第一段階
     〜〜〜〜脚下を照顧する〜〜〜〜 


(真−14−1)
【第一段階】 脚下を照顧する

 「照顧脚下」(脚下を照顧せよ)−−−これは禅語である(「禅林類聚」第二十巻等々)。和文的四文字熟語にすると「脚下照顧」となる。
 先ず、「照顧」について−−−「照」は観照の「照」、「顧」は顧慮の「顧」である。
 よって、「照顧」とは、注意を集中して観察・洞察し、深く思慮・顧慮することである。
 加えて、ここでの「照」を、それまで意識せずに看過ごしていた処(暗部)に意識の光を照射することと解し、「顧」を、理性の光を働かせてじっくり顧みるという意味に解すると、一層「照顧」の意味が鮮明になるであろう。
 次に「脚下」について−−−「脚下」とは、脚跟下(きゃっこんか)とも言い、「足元」の意味である。但し、安直に「物質的な足元」を意味すると解してはならない。そのような俗的な用法と解すれば、霊的な意味(眼睛)が抜け落ちてしまうからである。

 
(真−14−2)
 そもそも、「照顧脚下」は禅道の真髄そのものである。仏陀の瞑想の手法そのものである。それ故、「照顧脚下」は「履物を綺麗に並べておけ」という意味でも、夜道を行く時に「足元に気をつけなさい」という意味でも決してない。呉々も誤解することなかれ。
 霊的な意味での「脚下(=足元)」とは、「自己の依って立つ処(立脚基盤)」「自己の存在基盤・活動基盤」という意味である。自己の存在基盤・活動基盤について無知であるならば、「灯台下暗し」との謗りを免れることは決してできない。
 それ故、「一体、自分の自我は、どのような存在基盤の上に立って存在しているのか」「一体、自分の自我は、どのような活動基盤の上に立って活動しているのか」と、真剣に思慮・観察し、自己を究明し、自己の立脚基盤について明らかに(それも明々白々に)自覚しなければならない。
 これが、脚下を照顧することである。「灯台」の真下である根っこに光を当てて観察することが、脚下を照顧することである。外界に目を向けるのではなく、自己の内心の一番深い処に眼を向けることが、脚下を照顧することである。

 
(真−14−3)
 また、理性(ブッディ)を働かせて、自我の動きについて分析・解析し、「邪心とは何か」「邪心は何故生起するのか」「邪心の根っこはどうなっているのか」等々を明らかにしようと努めることもまた、脚下を照顧することである(これにつき、第四段階「悪の発生原理を看破する」真−19−1以下参照)。
 十二因縁説について考察し、自分自身を観察・洞察することで、そうした因果の流れが本当に発生しているのかどうか、実地に深く顧みることもまた、脚下を照顧することである。「自我とは何なのか」「煩悩とは何なのか」「末那識、又は阿頼耶識に前世からの煩悩の傾向の持ち越しが有り、現在の自分の心の活動に影響を与えているとされる現象は本当なのか」等々について、自我を凝視し、観察することで、それらを明らかに知覚しようと努めることもまた、脚下を照顧することである。

 
(真−14−4)
 自分の心の動きをできる限り客観的に観察し、邪心が蠢き始めた時には、それを明確に察知して、すぐさまその邪心の動きの行く先は何処なのか、理性の光で解析する。そして、邪心の動きは「結局は実りのない動きである」「無常なものである」と正しく見詰めて評価を下す。更には「邪心の活動は悪いカルマ(業)を作り、後に悪果の苦しみを招くこと必定」という因果の法則を心に喚起する。そして「そのような悪果が自分の望みなのか」と自問する。こうした形で理性を働かせ、或る程度自分を説得することができたならば、こうした冷静な思惟作用(霊的理知力)によって、邪心の動きを止める(又は弱める)ことができる。
 このように、自己の霊的理知力を活発に働かせて、邪心と対峙して行く心の活動もまた、脚下を照顧することである。

 
(真−14−5)
 以上で分かる通り、「脚下」という言葉は霊的な意味で用いられている。それ故、禅寺の玄関に「照顧脚下」の木札が立てられているからと言って、「(玄関では足元に注意し)履物を乱雑に脱ぐべからず」という注意書きだと早合点してはならない。
 禅家では「一事が万事」「日々是道場」の精神で日常生活が営まれる。それ故、玄関の「照顧脚下」の木札は、修行者に一つの公案が示されている図と解さねばならない。
 履物の乱れは心の乱れに通じる。より正しくは、心の乱れが履物の乱れになって現れる。
 心の乱れ、即ち「散乱心」は邪心に属する。この道理を弁えるならば、履物の着脱に粗忽な振舞いがないように、との(日常茶飯事の中の些細な事柄に対する)「一つの注意事項」を、修行者の心掛け一つで、とても有意義な「一つの修行」にまで昇華することができる。

 
(真−14−6)
 ただ漫然と履物を綺麗に並べるのでは有意義な修行にはならない。綺麗好き程度の話で終わってしまう。しかし、「履物の位置を正す」という小さな行為を一つの「型」(=一つの象徴的な儀式)にすることによって、その「型」を行う時に、その時間を「履物を正すの同様、我は必ず自分の霊的な足元の(暗黒・無知による)乱れをも正します」との不退転の決意表明の「場」とするならば、毎日の玄関の出入りは、毎度毎度の「誓約確認の儀式」としての意味を持つようになる。
 こうやって、玄関の出入りの度に日々新たに「誓う」ならば、その決意通りに、日常の行為総てにおいて「自分の心の乱れと足取りの乱れを正す」べく、能々(よくよく)注意を払うようになるであろう。そうなれば、邪心は激減し、正心が増大し、日々の修行は非常に力強いものになる。
 このように、日常の小さな「型」(=象徴的な儀式)の履行を通して、その都度決意を新たにし、注意力を新たに喚起し、乱れた心で行う作業を日々なくそうと努力する。
 そればかりか、心と足取りに乱れが生じる前に、予め、乱れる「隙」ができないように注意をして気を配る。そして、こうした注意を継続し、これを習慣化する。
 これにより、「邪心生起の傾向」を漸次減殺させて行く。こうして「日常生活の総てを禅にする」ことを学んで行くのである。
 −−−以上のように、絶えず目覚めた意識を働かせつつ、「心が乱れないように」そればかりか「乱れる隙すらできないように」と注意しながら、日常生活の中で「行為している自分」「作務をしている自分」「働いている自分」「考えている自分」「妄想を展開している自分」「何かをしている自分」等々について、四六時中じっくり自己観察すること−−−これもまた、脚下を照顧することである。

 
(真−14−7)
 釈尊は、外界(の諸物)に心を奪われて「適切な内観」を失うことがないようにと、「自己を(雨期氾濫時の)『中洲』とし、自己を頼みとし、他を頼みとするなかれ。法(ダルマ)を『中洲』とし、法(ダルマ)を拠処(よりどころ)とし、他を拠処とするなかれ」(長阿含経参照)と戒めた。
 煩悩の川が氾濫した時、それに流されるままになって溺死してしまうことのないようにするには、小丘地帯である「中洲」にしっかりと立脚することが重要である。
 自分の「根本の立脚基盤」について深く洞察するならば、両足をしっかり中洲に置くことができる。しかし、自己の立脚基盤について無知であるならば、その者は煩悩と「真の自己」を峻別することができず、無意識のうちに両者を同一視し、煩悩と同化してしまうので、その者の両足は煩悩の水流の中にどっぷり浸かってしまい、濁流の流れに抵抗することができなくなり、流されるままになり、遂には溺れてしまう。
 従って、「自己を中洲とする」ために必要不可欠なこと−−−それが脚下照顧である。

 
(真−14−8)
 尚、ゼロセクトの中道においては、「自己を(雨期氾濫時の)中洲とする」ことが「禅道」以上に強く求められる。
 何故なら、ゼロセクトの立場は、「禅」とは異なり、諸宗教の総ての礼拝儀式を認容・受容・尊重して行く道なので、こうした「寛容なスタンス」に立ちながら、内観を疎かにするならば、忽ちその者はひどい混乱に陥って、正しい信仰の道を歩めなくなってしまうからである。
 よって、諸宗教の外的な諸事象・諸教義・諸儀式に惑わされで、自分を失うことがないようにするため、「脚下を照顧する」という内観の眼が超宗教の中道においては−−−<不動の基軸>−−−として必要不可欠な「中核」になる。

 
(真−14−9)
 「脚下照顧」はゼロセクトの中道の<不動の基軸>である。
 とは言え、そもそも「脚下照顧」という内観技法は、本来的にゼロセクト的な瞑想技法である。何故なら、「私はこの宗教を信じる」とか「私はこの聖典を信じる」とか「私はこの教祖を信じる」とか「私はこの教義を信じる」とか「私はこの教団を信じる」とか「私は一生涯、これに属してこれを信仰して行こう」等々と考えるのは、自我としての「私」であり、こうした信仰の大本(おおもと)の<「我」それ自体>を観察して行くのが、脚下照顧だからである。
 もし仮に、地球に百億の異なる宗教が有るとしても、百億の宗教が問題なのではない。それらを選び取り、それを信じ込んで行く「私という主体自体」が問題なのである。
 どのような心理でそれらを選び、信じ込んで行くかという「自我の動きそれ自体」を観察・調査・解析して行くことが問題なのである。教義が問題なのではない。教義を信じ込んで行く「自我それ自体」を解析して行くことが問題なのである。信じることが問題なのではない。信じるという心の動きや、疑うという心の動き等々の「自我の動きそれ自体」を洞察し把握して行くことこそが問題なのである。(真−23−14「註5」)

 
(真−14−10)
 このように、「自我それ自体」を解析しようとする透徹した内観の眼を持つならば、イエズス・キリストが処女懐胎で産まれたか否かで争う必要はない。ゴ−タマ・シッダ−ルタが産まれた直後に「天上天下唯我独尊」と言ったか否かで争う必要もない。それらは瑣末な問題に過ぎない。二次的、三次的問題に過ぎない。それらを信ずべきか否かで悩む必要はない。それよりも、脚下照顧によって「自我それ自体」の動きについて深く知ることの方が遙かに喫緊の重大事だからである。このように能々(よくよく)自覚すべきである。
 よって、最初から、禅道の「脚下照顧」はゼロセクト的な心の営為なのである。
 従って、こうした本質を持つ「脚下照顧」がゼロセクトの中道の<不動の基軸>になるのは、極めて当然であり必然である。

 
(真−14−11)
 それでは、ゼロセクトの中道と禅道との差異は何処に有るのだろうか。
 禅道は、総ての外形的儀礼を捨てて、一直線に自己の内面に突き進む道である。そして、坐禅瞑想によって、般若の智剣(否定の剣=理性の剣)によって、無常なるものを「バサバサ」と斬り落として行く。「有心」を斬り落として「無心」の現前を求め、「有所得」の心を斬り落として「無所得」の心の現前を求める。
 そうやって、坐禅瞑想の時間をたっぷり取りながら、強烈に自己の内奥に集中・観想・瞑想して行く。そうして「身心脱落の境地」−−−即ち、蝶が蛹を脱き捨てて大空に飛び立つ如く、身体という殻が脱(ぬ)け落ちた境地、そして身体に基づく「限定」や種々の「心の制約」も一切合切脱け落ちた境地−−−こうした境地に到ろうとして、身心の無駄な力みを抜き、不生の心源へと身心を放下させ、「寂静・平安の境地」を求めて修行する。〔※註1〕
 一方、ゼロセクトの中道においては、諸宗教の諸儀式を「これは方便」と見切った上で肯定し、その上で「特定対象の外観礼拝」(真−11−5以下)をも肯定する。よって、方便として、諸宗教の「諸儀式を自由に利用する」ことを、禁止するどころかこれを推奨する。この意味で、超宗教の中道は、禅よりも精妙で高度な「否定の剣捌(さば)き」が要求される。(この剣捌きについては、「イカ表面の網目切りの譬え」真−6−4以下)

 
(真−14−12)
〔※註1−−−「焦殻」とならなければ「彼岸」に達したことにはならない(真−13−1)。つまり、「焦殻」とならないまま身心の限定から完全に抜け出ることはできないのである。ところが、自分勝手にイメ−ジし、「抜け出た気になる」ことは誰にでもできる。そしてすっかり好い気になって「呵々大笑」の「高笑い」をすることは誰にでも出来る。
 しかし、これでは増上慢との謗りを免れない。こうした「呵々大笑」は、「吾我驕慢意識」(真−22−43)から生じて来るものである。禅道を正しく進みたいと願う者は、自分勝手な想像を巡らすことで自己欺瞞と増上慢に陥ることがないように、能々(よくよく)心を戒めねばならない。そのためには「謙虚で油断の無い目覚めた繊細鋭敏な注意力」が必要となる。〕〕


(真−14−13)
 禅の手法はまことに簡潔明瞭。自己の内面に突き進む「内観の瞑想」一本槍である。
 しかし、ゼロセクトの中道は、特定宗教の道を遙かに超える高い道であるが故に、総ての手法を含むおおらかなスタンスを取る。確かに、脚下照顧は超宗教の中道の「不動の基軸」である。しかし、「脚下照顧」が超宗教の中道を行く手法の全部であると限定してしまうならば、最早それは超宗教の道ではない。(それは禅の道である。)
 それ故、混乱しない程度にしっかりと「自己を中洲とする」スタンスが保てるならば、後はどのような手法を使っても良いというのが超宗教のスタンスになる。
 理解の便宜の為に一つの目安を挙げるならば、六割程度の比重を「脚下照顧」に置いて内観を基軸にできるならば、後の四割は外に眼を向けて、外形的礼拝行為を自由に楽しんでも一向に構わない、ということである。方便としての外形的礼拝行為を行うことで「真の礼拝」に到ろうとすることは、禁ずべきことではないばかりか、推奨すべきことでさえある。どのような入口を通ってでも、「感応道交状態=諸美徳顕現状態」に入れるならば、それで良い。これを禁じ、限定するのは、ゼロセクトの道ではない。

 
(真−14−14)
 禅道では、他の手法を排除して、只ひたすら一直線に自己を観想し、坐禅瞑想に専心する。そのため、受容能力の少ない者は、能力以上の瞑想が強いられる結果となり、禅病(一種のノイロ−ゼ症状)に陥ってしまう。誰も彼もが強烈極まりない手法に馴染むわけではない。
 確かに、巨大な受容能力を具(そな)えた偉大な禅師は、霊妙多彩な感受性が発達しているので、脚下照顧一本でも奥深い瞑想、高度で精妙な瞑想ができ、多様な観想が楽しめるので、一本調子に陥ることはない。しかし、受容能力の少ない者は、言われる儘(まま)に余りにも脚下照顧にこだわり過ぎると、一本調子の観想になり、やがて不毛な単調さの中に落ち込んで行ってしまう。(下手な瞑想、眠るに似たり。)
 この点を換言すると「同一音程ばかりでは音楽にならない」ということである。同じ音程ばかりに固執していてはメロディ−を奏でることができない。多様な音階を過不足なく自由に組み合わせるた時に、初めて美しい音楽が成立する。
 それだから、ゼロセクトの中道においては、脚下照顧一本槍ではなく、修行者の趣向・気質・能力・レベルに応じて、自由に外形的礼拝行為を組み合わせることを推奨する。
 脚下照顧の観想に疲れたと思った時には、気を転じて気晴らしをしつつ、自分の好きな外形的礼拝行為を行うことにより、違った意識を使用しながら、新たなアプロ−チによる礼拝行為に勤しんでみる。集団の礼拝行為も結構である。そうやって、多種多様な波動に触れることで内的バランスを保ちながら、「精神の健全な育成」「多様な人間性の開花」を目指すのが、ゼロセクトのス−パ−大乗の道の理想である。

 
(真−14−15)
 ゼロセクトの中道は「荘厳なる無為」一本を洞察礼拝する道である(真−11−9)。それ故、この精神態度が保持されている限り、如何なる外形的礼拝行為に携わっても全く問題ない。
 ハタ・ヨガをやっても、逆立ちのポ−ズをしながら洞察礼拝しても一向に構わない。ミサに出ても、讃美歌を歌っても、マントラを唱えても、諸聖典を静かに熟読しても、騒がしく皆でバジャン(宗教歌)を歌い踊っても、踊り念仏に参加しても、(鑽仰の念を抱きつつ)阿波踊りに参加しても、各種土着の祭りに参加しても一向に構わない。
 但し、ゼロセクトの中道を行く者は、外形的礼拝行為一本槍になってはいけない。そうなれば、その者は特定宗教の道を行く者になってしまうからである。よって、飽く迄もそれらを方便として使いこなす態度を堅持しなければならない。そしてそのために、何よりも優先して、「脚下照顧」にこそ充分な時間を費やさねばならない。
 これらの諸点を鑑みると、ゼロセクトの中道は、基軸は禅と同一であるが、禅と同じスタンスにあるものではなく、敢えて表現するならば、「ス−パ−ZEN」(超禅)の道と言える。

 
(真−14−16)
 禅と超禅とでは、瞑想の「型」に、若干の差異が生じて来る。
 禅道では「坐禅」(蓮華座又は結跏趺坐の姿勢)を重んじる。しかし、超禅では、最低限、背筋を伸ばすことだけが必要であり、それ以外の形には一切こだわらない。(背筋だけは延びている必要がある。そうしないと強い集中ができなくなってしまう。瞑想の達人以外の者が寝た姿勢で瞑想すると、意識が弛緩し過ぎて、惰眠の方向に落ち込んで行ってしまう。)
 超禅では、椅子に座って背筋を伸ばした姿勢を基本姿勢とする。何故なら、椅子に座ったままだと瞑想できないとか、脚下を照顧できない、ということは有り得ないことであるし、これが一番自然な姿勢だからである。
 禅のように蓮華座(又は結跏趺坐)で瞑想すると、その姿勢に安住し過ぎて、活動性が著しく削がれるという短所が生じる。一方、椅子に座った姿勢での瞑想は、何か有ればすぐに立って行動することができるので、瞑想に専念しても機敏性が維持できるという長所が有る。
 在家の修行者にとっては、「瞑想における機敏性」は特に重要である。何故なら、坐禅瞑想し、その姿勢に安住し過ぎて活動性が著しく減退すると、俗世で働く気力(意欲)がどんどん萎えて行くからである。これでは、瞑想によって高い意識に登り、その聖なる波動を俗世に還元するという貴重な奉仕の機会(善徳を積む機会)を喪失することになってしまう。
 インドでは、坐禅瞑想にこだわり続け、十年〜二十年と殆ど立つことなく過ごしているヨ−ガ行者もいる。このような者は足の筋肉が萎えてしまい、ろくすっぽ歩き回ることもできなくなってしまう。こうした修行のやり方は正しいものとは言えない。(故に、達磨大師の「面壁九年」という逸話についても、超宗教の見地からは、それを「見習うべき」と推奨することはできない。)

 
(真−14−17)
 ゼロセクトの中道は一切の偏向を嫌う「精妙な均衡」の道である。即ち、「中道感知のバランス感覚」を働かせて、絶えざる内省をして絶えず修正しながら、バランスを取って進んで行く。そして飽く迄も、人間の諸能力が「千弁の花弁」となって豊かに、多彩に開花するという方向性を重視するのが、ゼロセクトの広大無辺なる道である。(これこそ、真の大乗=「絶大」乗の道である。)
 坐禅のやり過ぎで足を萎えさせてしまったり、膝を傷めてしまうよりも、ジョギングや競歩やマラソン等をして足腰を鍛え、体全体を鍛えつつ、その上で椅子に座って脚下照顧に専心し、瞑想に励むことの方が、「より人間的で、自然であり健全である」ことは論を待たない。
 それに、強烈な集中力を会得し、それを正しく行使するためには、どうしても強靱な肉体が必要になって来る。軟弱な肉体のまま強烈な集中力を会得して行使すると、それに肉体が耐えられず、肉体が著しく蝕まれ、夭折することにもなりかねない。
 従って、肉体の鍛練と、瞑想における集中力の強化は、是非とも平行して行なうべきものである。

 
(真−14−18)
 このように二兎を追う方法は、一見時間がかかって遠回りのように見えるが、実は一番確かで早い道である。瞑想にだけ偏って修行すると、結局は精神のバランスを欠き、肉体のバランスを欠き、病に倒れて、道半ばで矢折れ力尽きることになってしまう。
 呉々も、焦ることなかれ。しかし、日々の精進を怠ることなかれ。そして、中道を保つように、常々注意して目覚めているように。
 以上の通り、「脚下照顧」を「不動の基軸」に据えつつも、人間の健全なバランスを重視しながら、外形的礼拝行為も自由に織りまぜて楽しみ、そうして各種聖典を自由に味わいながら、日々より一層の霊的ヴィジョンの拡大を希求して、焦らず怠けず、じっくり確実に進んで行く−−−これが無形のゼロセクトの中道である。
 
 −−−以上で「脚下照顧」についての解説を終了する。

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