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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第20章(第四段階)罪悪の発生原理を看破する(下)New!

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第20章 ブッディ・ヨーガの第4段階
    〜〜〜罪悪の発生原理を看破する(下)〜〜〜〜
     〜〜〜人間の本当の原罪とは?
    〜〜〜〜「人志の独立騒動の譬え」の解き明かし 〜〜〜

 
 前章では、「人志の独立騒動の譬え」を学び、彼がどのように「転落」して罪を犯して行ったか、について見ました。
 この譬え話について、更に踏み込んで深く洞察できるように、この譬え話の一層の深い霊的意義について、以下、詳説して行きます。

 
 普通の法律知識によってこの譬え話を見ると、人志が社会的法規範(ここでは刑法)に違反して罪を犯すのは、「放浪の旅」に出てからの窃盗罪が最初です。
 しかし、宗教的なダルマ(法)に違反して、霊的な罪を犯すのは、それよりずっと前に遡(さかのぼ)ることができます。
 −−−では、人志の「最初(根源)の霊的な罪悪」は、何だったのでしょう?
 彼は、最初に「過失」を犯しています。彼の「根本の過失」は、鏡に映る自分の姿に「気を取られ過ぎてしまったこと」です。それに「気を奪われてしまったこと」です。それによって、彼は自分の「本分を忘れてしまった」のですから。

 
 −−−では、人志が忘れた「自分の本分」とは何でしょう?
 この譬え話において、「天野源一郎」は「真我」(絶対我=梵)の霊的象徴です。そして、生駒家の人々は、「個我」(五蘊)の構成要素である「自我意識」の霊的象徴です。
 従って、「人志の本分」とは−−−
<「個我は飽く迄も個我であって真我ではない、という個我の置かれた立場」>−−−を意味します。
 また、「真我ではない」ということは「個我には自性が無い」ということを意味します。

 
 月は太陽ではありません。月は自分の力で輝いているわけではありません。ただ、太陽の光を反射して輝いているだけです。それが厳然とした不動の事実です。にも拘らず、仮にもし、月が自分の「本分」を弁えずに「自分の力で輝いている」と思い込むならば、それは間違った思い込みであり、<愚かな認識、愚かな錯覚、軽率な錯誤であり、無知・無明>と言えます。 これと同様に、「個我たる人志」が「自力でやって行ける。無依存の自主独立でやって行ける」と考えることは、自分の本分を弁(わきま)えない(バブリ−な)考えです。何故なら、個我それ自体には「自性が無い」からです。
 個我それ自体は、真我なくして生起することも、活動することも、自身を維持することもできない存在です。孤月の如き個我は、大日の如き真我に完全に従属・依存して、生起し、活動し、存続しているものです。それが不動の事実であり、この事実を変更することは決してできません。もしも、孤月の如き個我が、自分を大日の如き真我であると思い込み、自分の力で輝いていると考えるならば、それはとても愚かな錯覚に陥ってしまったことを意味します。

 
 人志は自分の(個我という)本分を忘れて、「自力でやって行ける」即ち「自分には自性が有る」と思い込んでしまいます。
 人志は「錯覚に過ぎない(バブリ−な)考え」を抱いて、強気になるだけはなりました。
 しかし実際の処、人志には自分の思う程の実力はありません。よって、彼の(バブリ−な)考えを現実世界の中で貫徹することは不可能です。そして結局は、生活に窮して食物を盗み、そればかりか、目の前の高級車と立派な建物を“自分のものにしてしまう”「盗取」の罪を犯さないではいられなくなってしまうのです。
 −−−では、ここでの高級車や立派な建物は、何の霊的象徴なのでしょう?
 個我としての自我意識は、物質界で自己表現するには、道具(発現媒体)として、どうしても「物質的身体」が必要です。よって、ここでの高級外車や立派な建物は、両者合わせて「五蘊の肉体」を意味します。〔※註@〕

               
【※註@>>>−−−この譬え話で、高級車と建物の二つが登場するのは、高級車を「霊体」に見立て、白亜の豪邸を「肉体」に見立てていることに由来します。
 しかし、霊体そのものの構造についてはここでは触れません。重要なのは、肉体が「霊体と物質的肉体の重層体」になっているということです。このことは、肉体の死後、霊体が離脱して霊界へ行くことからも推察できるはずです。世界中で無数に語られている臨死体験を、無知蒙昧な科学者は単なる脳の幻覚と断じます。しかし、体験者の中には、幽体離脱して、自分で自分の仮死状態の肉体を上から眺めていた、と証言する者も多く居ます。これは断じて単なる脳の幻覚ではありません。
 ただ、ここでは、高級車と立派な建物の区別について深入りせずに、両者合わせて「一つの物質的身体」と考え、統合的・統一的に把握すれば充分です。何故なら、ここでの主題は「霊的盗取」についてだからです。>>>註終了】

  
 この譬え話では、高級車と建物は、二つ合わせて「個我の肉体」を象徴しています。
 この「個我の肉体」は、人志が自分で作ったものではありません。彼にはそうした偉大な知恵と力はありまんせ。「個我の肉体」は、「自性有る存在=真我」の力によって初めて生起したものです。そして、真我は不生の我(=物質的に生起していない絶対我)であり、物質的な場所に限定されず遍満しています。よって−−−


 「真我」は自力に因って出現させた「物質的なもの総て」を自己の中に包摂している。
   従って、宇宙のすべて、世界のすべて、霊界のすべてのものを、真我が ≪所有・占有≫ している。


  −−−このように見ることができます。

 
 そうすると、大宇宙の森羅万象、物質的なもの、形象の有るもの等々、これらすべては、真我の「敷地内」に有る「建物(及び動産)」と見ることができます。(この霊的ヴィジョンはとても重要です。)
 よって、「真我」は宇宙全土の「領主様」と言えるわけです。
 従って、人志が「自分に自性が有る」と思い込んだ後、自分の肉体を「自分のものだ」と思い込み、(それまで及んでいた「真我の支配・占有」を排除するようにして)肉体である個我を「自分のものにしてしまう」営為(=意思と行動)に出た時に、真我が所有・占有していた「物質的肉体」を人志が(霊的な意味で)「盗んだ」ことになるわけです。
 これこそが、霊的な「盗取」であり、根源的な「窃盗の罪」です。〔※註A〕

  
【※註A>>>−−−刑法では「預かっている物・レンタルしている物」を「これは自分のものだ」と意思表示した時点で、横領罪が成立します。
 こうした見地から、人間の根源的な罪は「窃盗罪」ではなく「横領罪」である、と位置付ける見方も有り得ます。しかし、この見方は、物質的思考パタ−ンに毒された評価の仕方です。というのも、宇宙の創造主を「物的で有形的な存在」とイメ−ジすると、必然的に、創造された(有形なる)世界と創造主の関係は、(物質的な)「距離が離れている」だけのようなイメ−ジになってしまいます。例えば、創造主が遠くの天の玉座に座っており、地の世界を見下ろしている、という風なイメ−ジがそれです。この場合は、人間の肉体を建物に見立てた場合、「建物の占有」は既に人間側に移っているので、「横領罪(成立)」という見方になります。 しかし、「真我」は無形にして遍満している、との見方に立つと、「建物の占有」は人間側には移転していないことになります。よって、占有は移転していないが所有権の移転は為されたと見て、「窃盗罪(成立)」という評価になるわけです。>>>註終了】
 
  
 −−−では、庭から湧き出た石油は、何の霊的象徴なのでしょうか?
 建物を見付けてそこに勝手に住みつき、建物の周囲に垣根(又は塀)を巡らせて、「この範囲内は自分のもの」とした上で、「自分の敷地としての庭」(=「個我の肉体」)を自分で掘り起こし、そこから湧き出て来るもの、というと、それは何でしょうか。
 これ即ち−−−< 「自分の努力」(=掘る行為)によって徐々に伸びて来る「@その人の才能」を、そして又、「Aその人の活力」 >−−−を意味します。
 どれだけ熱心に庭を掘っても、地底深くに石油が埋蔵されていなければ石油は出て来ません。石油が出なければ、掘る努力は全部無駄になってしまいます。つまり、「掘った時に石油が出る」即ち「才能が伸びて来る」現象を「自力に因るもの」と思うのは大間違いなのです。
(しかし多くの人は、努力にだけ意識が行き、自分の努力を誇る愚を犯します。)

 
 飽く迄も、「真我」という「大油田」がその源底に横たわっているからこそ、「掘る」という(自力の)「機」に応じて、石油が出て来るのです。
 従って、湧き出て来た石油(@才能・A活力)を、安直に自分のものだと思い込み、自分の利益のため、自分の快楽のため、自分の誉れと栄光のために、それを処分・売却(=利用・活用)して儲けるならば、それは石油(@才能・A活力)の霊的な「盗取」となります。
 −−−以上が、一般社会法規範(法律など)とは別個の、物凄く厳密・精妙な意味での、霊的な「人間の罪悪」です。(残念ながら、宗教を口にする多くの人々が、この点を明確に自覚しないまま「霊的盗取」を重ねています。「自分こそ正しい」と言いながら。)

 
 さて、「人志の独立騒動の譬え」の深い真義について、このように大掴(づか)みしたならば、今度はもう一度、「罪悪が発生して来る過程」について順を追って解析し、それらを「段階的な因果の連鎖」として理解することが必要です。
 こうした視座で眺め直すと、次の−−−<罪悪発生の四段階ステップ>−−−が明確に意識できるようになるはずです。


     ≪≪罪悪発生の四段階ステップ≫≫
【第一段階】 「根本過失」の発生−−−「偶像礼拝」の発生−−−
 最初に「根本の過失」が有ります。「根本の過失」とは、鏡に映る自分の姿に気を取られることです。「鏡に映る自分の姿」は、即ち「自性の無いもの=夢・幻・陽炎のようなもの=映像のようなもの=仮の像=一つの形象=一つの名色(みょうしき)」なので、これ即ち「一つの偶像」〔※註B〕と言えます。
 従って(詳説すると)「根本過失」とは−−−
  「偶像」に気を取られ(過ぎ)て、「自分の本分」である「個我の無自性」をすっかり失念してしまうこと。
   −−−です。「自性有る本源」を「失念すること」こそが「根本の過失」です。
 この状態がほんの少し進むと、自分という「個我=無自性の偶像」に“心奪われて”しまうようになります。これも「自性有る本源の失念」という「根本過失」の範疇と言えますが、こうなると、「偶像礼拝の発生」と言えます。

 
【※註B>>>−−−「偶像」概念については、宗教・宗派によって内容にバラツキがあります。
 古くは、ユダヤ教において「偶像礼拝」が禁止されましたが、これは、「宇宙の創造主」以外の、生命の無い「形」だけの「像」を礼拝することを禁じたもの、と解するのが一般的な解釈です。
 そして勿論、アイドル(偶像)といわれる芸能人を崇拝することも、ユダヤ・キリスト教概念からすると、偶像礼拝に当たります。
 しかし、では、宗教の教祖が、自分を「宇宙の創造主」と一体不可分であり、同一である、と主張した場合はどうでしょうか。
 ユダヤ教やイスラム教の立場からすると、こうした主張は断じて許されず、こうした主張をする聖者(?)を信徒が崇拝することは、紛れもなく「偶像礼拝」に当たります。
 しかし、キリスト教の立場では、(イエズス以外のニセグルは断じて排除しますが)イエズス・キリスト御一方の場合に限って、彼は三位一体の存在であるが故に、彼を崇拝することは偶像礼拝には当たらない、と解することになります。(つまり、ユダヤ教とキリスト教の対立は、結局の処、「偶像礼拝」の解釈問題に帰着する、ということです。)
 ところで、この問題について、厳密で正確な「偶像」概念を定義付けるなら、次のようになります。即ち−−−
<「偶像」とは、「自性」の無いもの一切合切を意味する>−−−と。
 何故なら、そもそも「偶像礼拝」概念は、「自性有る存在」への崇拝としての「真の礼拝」の反対概念として立てられたもの、と解されるからです。
 こう解すると、「偶像」の定義は「自性」概念に全面的に依存することになります。
(「自性」概念の概説版(5要件)はこちら参照。詳説版(7要件)はこちら参照)−−−>>>註終了】
 
 

【第二段階】 「根本錯誤」の発生−−−根本高慢の発生−−−
 「根本過失」(=個我という「偶像」に心奪われてしまうこと)を基にして、そこから「根本の錯誤」が発生します。(「錯誤」と言わず、「錯覚・誤認・誤信」と言っても同じ)
 「根本錯誤」とは−−−
  「自分(個我=五蘊)には「自性」が有る、と思い込むという錯誤 
  −−−です。
 「根本錯誤」は「自己に関する認識違いの錯覚」です。「自分という存在」は何ものにも依存しないで自力で生きており、自力で活動しており、これからも自力で活動して行ける、と思い込む錯誤。自分は自分の力で輝いている、と思い込む錯誤。月の如き「受動性・媒体性」こそが個我の本質であるにも拘らず、この本分をすっかり失念して、(そして失念するだけでなく、それを基盤として、より積極的に)自分を太陽だと錯覚してしまう誤認・妄想。
 こうした内容の、積極的な(そしてバブリ−な)「錯誤」こそが、人間の「根本の高慢」であり「根本の傲慢(増上慢)」なのです。
 この種の思い上がりこそが、霊性規範に違背した人間の「(吾我)驕慢意識の萌芽」なのです。そして、この種の思い上がりこそが、人間のあらゆる高慢・傲慢・増上慢の「根源」に横たわっている「根本高慢」だと言えます。
 
 

【第三段階】 「根本我欲」の発生−−−「有為」生産体制の成立−−−
 「根本錯誤」(=根本高慢)から、「根本我欲」が発生します。
 「根本我欲」とは、自分の誉れと栄光を求める欲望です。
 この欲望が発生すると、「自性有る本源」(真我)に対する随順と従属を嫌って、飽く迄も「自主独立」を望み、「無為」の聖なる流れより自分の「人為」を優先するようになります。つまり、自分の誉れと栄光を求める「根本我欲」に突き動かされて、「真我」の活動に違背する離反的な営為(意念と行動)が、止め処(ど)無く発生して来る流れになります。これ即ち、「有為」生産体制が成立したことを意味します。
(但し、勿論、「根本過失・根本錯誤」も「有為」です。)
 


【第四段階】 「根本盗取」の発生−−−「吾我驕慢意識」(あがきょうまんしん)の誕生−−−
 「根本我欲」から、「根本盗取=根本窃取」が発生します。
 「根本盗取」とは−−−<自分(個我=五蘊)の「肉体」を「自分のもの」だと思い込み、自分のものにしてしまう、という営為 (この場合は内的意思)>−−−です。(この内的意思が「窃取の意思」に当たることについては既に述べた通りです。)
 自分(個我=五蘊)の肉体を「自分の所有物である」と意思表明すること。
 この「根本盗取」によって、「盗むなかれ」という霊性規範に「故意」に違反したことが確定し、「(霊的)窃盗罪」が成立します。

 
 ところで、誰がそれ(肉体)を盗み取るのでしょうか?
 答えは、個我の中の限定された閉塞的な「個体意識」こそが、それ(肉体)を盗み取るのです。但し、ここで注意すべき事は、単なる「個体意識」が悪なのではない、という点です。
 即身成仏している聖者にも、個体意識は有ります。つまり、「個体意識」自体を単独で取り上げるならば、それは中性的(ニュ−トラル)なものと言え、それは「無為」に連動することも可能であるし、「無為」に違背することも可能な意識と位置付けられます。
 そして、ここでは、@根本過失 A根本錯誤 B根本我欲 の発生を基盤として、C根本盗取 の4つを犯した「(盗賊的な)個体意識」だけを−−−「賊我(ぞくが)」と呼び−−−
<「吾我驕慢意識」(あがきょうまんしん)>−−−と呼ぶことにします。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 −−−以上が、「罪悪が発生して来る過程」における段階的な「四つの過ち」です。

 
 第四段階の「根本盗取」が為されると、後は「根本錯誤」を元にして、新たな錯誤に次ぐ錯誤、誤謬に次ぐ誤謬、偏見に次ぐ偏見が連鎖的に発生して行き、誤解・思い違い・偏見・本末転倒が累積的に重なって行きます。そして、「根本盗取」を元にして、新たな盗みに次ぐ盗み、新たな罪悪に次ぐ罪悪が連鎖的に発生して行き、罪悪も軽いものから重いものへと徐々にエスカレ−トして行きます。
 こうして、個我の無知と悪業の海は広がって行き、無知の暗黒はどんどん暗さを増して行き、悪業の罪科はどんどん加算されて行きます。
 こうした罪悪の連鎖的な流れの原因にして、人間の総ての罪悪の元凶である「根本の四つの過ち」を、(ユダヤ・キリスト教の寓話的「原罪」と峻別して)本書では(そして般若宗では)−−−
<四源罪>−−−と呼ぶことにします。(又は、「源罪四羽鴉」又は「源罪四転倒」とも呼ぶことにします。)

  
 この「四源罪」こそが、人間の総ての罪悪の根源の罪と言えます。
 しかし、一つ一つの「源罪」について見れば、それは小さな罪に過ぎません。また、四つが結合して一体になっても、これだけならばまだまだ小さな罪に過ぎません。
 何故、小さな罪に過ぎないのでしょうか。
 「人志の独立騒動の譬え」を見て下さい。今仮に、人志が「立派な建物」を自分のものにして、そこに一週間ほど住んだとします。その時、はたと正気に戻り、自分の本分に目覚め、悔い改めて、その家を出て両親の所に戻り、天野家に奉公することを表明したとします。このようなケ−スでは、人志が与えた天野家への「損害」は大したものとは言えません。と言うか、全然取るに足りないものに過ぎません。天野氏も笑って大目に見てくれるでしょう。
 そうであれば、この場合の彼の罪は全く大きな問題にはならず,石油を売って大儲けして費消してしまった後のように、悲惨な目に遭うこともないはずです。

 
 これと同様に、もしも、四源罪だけしか犯していないならば、その罪悪だけでは大きな罪にはなりません。大きな罪になるのは、この四源罪によって、本人が何か「得をした」と思い込み、「もっと儲けたい」「もっと自分のものにしたい」「もっと欲しい、もっと欲しい」と我欲を肥大化させ、「霊的盗取」を重ねて行き、時には、それを「強取」にまでエスカレ−トさせてしまう時です。譬えて言えば、「源罪四羽鴉」よりも、それが次々に生んで行く「子鴉や孫鴉」こそが凶悪なのです。
 この点をしっかり押さえて置くことは、とても重要です。
 この点を充分に認識していないと、性急で短絡的で我が強く、偏った繊細さと過敏さを持った、内向的で陰性の性格の人は、四源罪について知った時「自分は何て罪深いのだろう」と自己嫌悪に陥り、意気消沈し、失意の底に沈み、苦悩に苛まれ、自虐的になってしまいます。
 そして、過度に思い詰めるようになり、やがてノイロ−ゼになり、そうして最後には自殺してしまう、という結末を辿りかねません。
 つまり、ここに挙げたような性格の人は、四源罪に触れることで「新たな誤解」を発生させて、愚かな悲劇へと突き進んでしまう事になります。

 
 こうした一連の愚かな流れは、何故起きるのでしょうか?
 性急で軽薄で短絡的な人は、四源罪について聞くと、「そうか。それでは早速、四つの過ちを正そう」と決意します。この決意自体は大変良い決意と言えます。しかし、四源罪を完全に正すことができたなら、その人間は即身成仏し、聖者になってしまいます。
 ところが、無論、一朝一夕に聖者になれるはずはありません。昨日の極悪人が今日突然に聖者になることなどあり得ません。それは因果律に反します。
 飽く迄も、正しい行いの集積(善徳の蓄積)があってこそ、人間は漸進的に浄化され、矯正されて行くのです。これが不動の法です。
 ゴ−ルは誰にとっても近いわけではありません。

 
 意志が弱く、不健全な繊細さが際立つ者は、少しだけ努力した後、「厳しい現実の壁」(我欲の揺り戻し)に突き当たると、「やっぱり駄目。とても無理」と、最初の決意を簡単に覆してしまいます。そして、挫折した「駄目な自分」を責め始めます。
 こうして、四源罪が「矯正不能な十字架」として、その者の肩に重くのしかかって来る事になります。否、重くのしかかるように、自分で自分を追い込んでしまうのです。
 こうした流れで、自虐的になり、自暴自棄になり、苦悩を深め、心が荒(すさ)み、ノイロ−ゼになり、最後には自殺してしまうという悲劇へと進む可能性が有るわけです。
 だからこそ、「四源罪自体は大きな罪ではない」と明確に認識し、必要以上に自分を責めないようにすることが、この種の人間には特に必要ということです。

 
 人間の総ての「有為」の活動、総ての罪悪の連鎖を断ち切るためには、四源罪を何らかの方法で消滅させる必要が有ります。四源罪をそのまま残しておきながら、そこから派生する諸々の罪悪を犯さないようにしようと、どんなに懸命に努力しても、決定的な罪障の止滅には到りません。幾ら川下に流れ出て来る諸々の罪悪を一つ一つ個別に掃除しても、一番川上に有る罪悪の源泉を破壊しなければ、限(き)りが有りません。
 このように洞察したならば、「諸悪の根元である四源罪」を狙い撃ちして、これを止滅させることで、連鎖的に、そこから派生する「末端の諸罪悪」も止滅させる方法こそが“急所を押さえた”「一番賢い修行法」と分かるでしょう。
 これは丁度、蛇を捕まえる時に、蛇の頭を一気に押さえてしまえば良いのと同じです。

 
 そして、この「根っこ狙い撃ち」の、最も賢く、最も効果的な修行法を採用しているのが、正しい仏教(特に原始仏教)なのです。
 原始仏教は、「罪悪発生の大本(おおもと)」の「根本過失」という「根っこ」を正すために、叡智の剣によって、これを「否定」して行きます。即ち、あらゆる名色(みょうしきウ)という「偶像」を礼拝することを戒め、有形にして相対的な諸事物・諸想念・諸表象を「これではない、これではない」と否定して斬り捨てて行き、「無形・絶対」の「自性ある存在」に「正しく集中」して行き、深い瞑想へと入って行きます。
 もしも、正しい剣捌(さば)きができて、「自性有る存在」への「正しい集中」に参入できたならば、その時点で「根本過失」は消滅して、その「正しい集中」が続く限り、その間だけ、罪悪の発生は見事に停止します。

 
 また、正しい仏教は、第三段階「根本我欲」、第四段階「根本盗取」を止滅させるために、その根っこの部分に当たる第二段階「根本錯誤」に狙いを定めて、「個我には自性が無い」と教えます。
 もしも、この指摘通りに、本当に「自分(個我=五蘊)には自性が無い」と納得し、それを深く自覚し、その認識と意識を片時も失わないならば、「個我独自の動き(有為)」が停止して消滅して行くので、罪悪は発生する原因を失い、それから派生する諸々の罪悪も止滅する以外有りません。
 
 このように、正しい仏教の根幹は、第一段階「根本過失」と第二段階「根本錯誤」を狙い撃ちして、これを止滅させる修行法を伝授する処にあります。
 
 但し、この手法の全部が薔薇色なわけではありません。
 実践上の「困難な壁」があります。それを次に挙げます


 各源罪ごとの「困難な障壁」
1)「根本過失」を止滅させようとする場合
 「正しい集中」をしようとしても、それを意志した途端に、即それが達成できるわけではありません。間違いのない真実の「自性有る存在」を明確に捉えて、それに集中することは容易にできることではありません。「正しい集中」は自力の範囲を越えたものだからです。
 「自性有る存在」への集中よりも、肉欲の快楽を熱望するならば、意識は散漫になり「正しい集中」には参入できません。それ故、先ずは「自性有る存在」を探究するために、「自性」概念について深く学習する必要が有りますし、それを何処までも探究して行く「聖なる渇望心」を保持し、養成し、強化して行く必要が有ります。
 こうした日頃の生活態度の積み重ねが有ってこそ、その善徳の因果の報いとして、「正しい集中」が徐々に可能になって行くのです。日頃から、「名色」である「偶像」に気を取られたり、気を奪われたりしないように、正しい注意を常に働かせるような「性格と習慣」を身につけることが大切です。
 散漫な意識が習慣になってしまった人は、「集中力」自体を「内的な筋力」と捉えて、これを地道に(ボディ−・ビルをするように)錬成して行く必要も有ります。
 つまり、「根本過失」の狙い撃ちは、最も効果的な手法ですが、最も実践の難しい高度な手法と言え、下根の人がこれを正しく実践することはできないのです。
 正しい実践が可能なのは、上根レベルの人、既に鍛練して来て、下地が出来上がり、「正しい集中力」と「内的筋力」を強く働かせることができるようになった人だけです。
 

2)「根本錯誤」を止滅させようとする場合
 それまで「無知の海」を泳いで来た人にとっては、先ず以て「個我には自性が無い」ということの意味を正確に把握するのに時間がかかります。また、やっとの事で「正しい意味」が分かったとしても、長い間、個我である自分に自性が有るつもりになっていたので、急に「個我には自性が無い」と教えられても、それにすぐに反応することはできません。
 また、「個我の無自性」について能々(よくよく)洞察し黙想して、一瞬「あっ、そうか」と納得したとしても、多くの人は次の瞬間、すぐそれを忘れてしまい、ついつい「自分には自性が有る」という意識と思考の中に戻ってしまいます。(以前の住処に戻る習性)
 自分に染みついたこの習性(薫習)を是正するには、何度も何度も何度も何度も「個我には自性が無い」という文言を反芻し、その「真の意味」を五臓六腑に滲み渡らせるほど深く深く自覚する、という、反復的で継続的な修行が必要になります。
 無論、この作業にも、「正しい集中力」が不可欠なので、散漫な精神状態の人、モンキ−・マインドを絶えず蠢かす人にとっては、「個我には自性が無い」という文言は、理解できない外国語のように響くだけになります。日頃の霊的鍛練の積み重ねが必要となる所以です。
 

3)「根本我欲」を止滅させようとする場合
 「根本過失」「根本錯誤」の狙い撃ちによる止滅作戦がうまく行かない者は、この高度な技法を使えるほどの下地が出来ていないのだから、それよりは多少簡単な「根本我欲」の止滅作戦に挑戦すべきでしょう。(こうした地道な努力によって「下地を作る」のです。)
 自分の誉れと栄光を求める傾向を止滅させるには、「有為/無為」の二分法(前篇第二章第一節照)について深く学習し、「有為」の力の限界を悟り、「無為」に覇権が有ることを悟ることが必要です。
 そして更には、「有為」の活動を無神経に重ねてしまうと「人志の独立騒動の譬え」のように、後々の不幸と悲惨の原因をどんどん積み重ねて行くことになる、という恐ろしい因果応報の法則が霊的世界で働いている道理を(本章によって)深く学習し、「有為」の活動を野放しにすることの恐ろしさを、背筋が凍りつくほどに自覚する必要が有ります。
 そうして、「無為」の力の必要性を「痛感する」ようになったならば、「大魚の油掛け調理法の喩え」(前篇第二章第五節)を学んで、自我の変容に根気よく取り組むべきです。
 こうした霊的試練を経て、初めて「下地」が出来上がって行くのです。
 

4)「根本盗取」を止滅させようとする場合
 自分の肉体(個我=五蘊)を「自分のもの」と思い込み、自分のものとして自分勝手に取り扱うことをやめるには、「この世のすべては自分(個我)のものには非(あら)ず」との認識を自我に定着させることが必要です。
 即ち、自分の肉体を自分の所有物だと主張して、自分勝手に処分(自殺・捨身等)したり、自分勝手に傷つけたり(自虐的行為)、過食したり、拒食したりすることは罪悪である、と明確に認識して、<肉体を大切に扱う>ことが必要です。つまり−−−
<自分はこの肉体の管理補助者・占有補助者に過ぎない>−−−との見方を抱いて、「善良な管理補助者(占有補助者)としての注意義務」を深く自覚して、怠ることなく肉体(と自我意識)の動向を管理することです。そうすれば、自ずと無数の罪から脱却して行く道を歩み始めることができます。

 
 尚、四源罪全部を止滅させる為には、結果的に「個我の<全面返上=全面放棄=全面喜捨=全面委譲>」、換言すると、「個我に関する政事(まつりごと)」を奉還するという意味での「無為」への大政奉還が必要となります。(これについては、後篇で詳述します。)
 
 −−−以上、一言で言うと、凡人はどうしても「四源罪という自分の住処」に戻ってしまうという「強い傾向」を持っています。これが「四源罪滅却の困難性」です。
 ついつい四源罪に立ち戻ってしまう動きは、無知の中で長く暮らした人間の「癖」です。
 習慣であり、性癖であり、習性であり、薫習です。
 自分に染みついたこの間違った傾向を、何度も何度も修正し、矯正して行くこと。
 そして、めげずにしつこく何度でもそれを反復して行くこと。これこそが正統派の仏教修行と言えます。

(真−20−37)
 では、まとめとして、古くから指摘されている「仏教の四転倒」と、「超宗教の源罪四転倒」−−−
この両「四転倒の異同」について概観する。
 「仏教の四転倒」とは、「常・楽・我・浄」である。即ち−−−
(a)本来、無常なるものを「常住不滅」と思い込んでしまう転倒(錯誤)を「常」と呼ぶ。
(b)本来、苦である無明の生活を「安楽・歓楽」と思い込んでしまう転倒(錯誤)を「楽」と呼ぶ。
(c)本来、無我(=自性が無い)はずの個我と万物を「自性が有るもの」と思い込んでしまう転倒(錯誤)を「我」と呼ぶ。
(d)本来、不浄であり、醜悪である肉体と人間社会を「清浄で美しいもの」と思い込んでしまう転倒(錯誤)を「浄」と呼ぶ。
 つまり−−−
 「仏教の四転倒」とは、真実の実相は「無常・苦・無我・不浄」であるのに、正反対に(反転させて)見誤り、それを「常・楽・我・浄」と思い込む錯誤のこと を言う。


(但し、如来蔵系経典では、絶対法身の特性を「常・楽・我・浄」とする点も押さえておくことが肝要である。この場合の「常・楽・我・浄」とは、「真我」は常住不滅にして歓喜法悦の法楽の中に在り、「我=自性」有る存在にして、本性清浄なる存在である、との意味である。)

 
(真−20−38)
 両「四転倒」の異同について、結論から先に言うと、両「四転倒」は完全に同一とは言えず、若干、双方の内容(概念範囲)には差異が認められる。そしてこの差異は、理解と洞察の精妙さの違いである。つまり、「超宗教の源罪四転倒」の方が霊的に深くて精妙な洞察に基づく解析になっており、その分、「仏教の四転倒」は内容が広範で大雑把と言える。
 実際、「仏教の四転倒」を基にして瞑想しても、それだけでは高い瞑想に到ることは困難であるし、この方法では諸煩悩の止滅は覚束ない。しかし、「超宗教の源罪四転倒」を基にして瞑想するならば、的確、且つ速やかに高い瞑想に到り、諸煩悩を止滅させることができる。
 こうした効果の違いは、偏に「ピントの差」に由来する。
 錯覚の対象がくっきり浮き彫りになるのと、曖昧にぼやけているのでは、瞑想の実践においては、大きな違いが生じて来るからである。

 
(真−20−39)
 では、両「四転倒」の異同の詳細について、順番に見て行く。
(1) 四源罪の「根本過失」は、仏教四転倒の「常」に半ば該当する。理由は次の通り。

 
 そもそも「根本過失」とは、自分の個我という「偶像」に気を奪われることである。この過失の中に、その「偶像」を刹那においては「常住不滅」と思ってしまうことも含まれる、と見ることができる。何故なら、もし偶像が速やかに崩壊・消滅する無常なものと如実に見えていれば、無常な偶像に気を奪われていることはないはずだからである。つまり、「根本過失」の中には「常」の要素も多分に含まれている。
 一方、仏教の「常」は、「本質的に無常なるもの」を「常住不滅」と見ること(=常見)である。そして「常見」の対象となる「本質的に無常なるもの」とは、片時の「仮象=名色」であり、結局の所、「偶像」を意味すると解することができる。但し、この場合「常」は、自分の個我に限らず、広く外界の「名色」に向けられた「常見」も含むものである。
 よって、四源罪の「根本過失」と仏教四転倒の「常」は、自分の個我に対する「常見」の範囲に限れば(つまり内外に二分した時の「内」なる半分に関しては)、完全に同一の概念と言える。

 
(真−20−40)
 しかし−−−である。残念ながら多くの仏教徒は
−−−<仏教四転倒の「常(見)」が偶像礼拝に当たる>−−−
とは殆ど考えない。それだけ「常(見)」に対する理解が浅くて曖昧なのである。
 よって、「常見」という「転倒した夢想」を正して「無常の瞑想」をしようとしても、これをうまく実践することができない。多くの仏教徒は、正しい「無常の瞑想」がどんなものだか、よく知らないのである。
 正しい「無常の瞑想」とは、「無常な『仮象=名色=偶像』」を「これもこれも真に非ず」と次々に「般若の智剣」で斬り捨て行き、最終的に『自性有る存在』を究明して、これに意識集中して行く礼拝観法である。
 本当に正しく「脚下照顧」して、「個我」に対する「常見」を斬り捨てるならば、それによって、四源罪の根っこである「根本過失」も消滅する。

 
(真−20−41)
(2) 四源罪の「根本錯誤」は、仏教四転倒の「我」に半ば該当する。理由は次の通り。
 
 「個我には自性が無い」−−−これが本当の真実である。しかし、これを見間違い、転倒・錯誤して、「個我に自性が有る」と思い込むことが「根本錯誤」である。
 つまり、「根本錯誤」は「我見」の中でも「人我見」という錯誤に絞ったものであり、「法我見」を含まない。
 一方、仏教四転倒の「我(見)」は、本来「無我(=無自性の意味)」であるはずの個我と万物に「自性が有る」と思い込んでしまう転倒・錯誤を言う。つまり、四転倒の「我(見)」には、「人我見」と「法我見」の両者が含まれる。
 よって、四源罪の「根本錯誤」と仏教四転倒の「我」は、「人我見」の範囲に限れば、完全に同一の概念と言える。
 しかし、従来の仏教徒は、「我」の四義(一−十五−二八)について明確な理解がなかったために、言葉の多義性に躓いて、思考と議論が滅茶滅茶になり、「正しい無我説」を正しく把握することができず、無数の誤解に陥っていた。それ故、「我見」の転倒を修正して「無我の瞑想」をしようとしても、これを適正に行うことが全然できない有様であった。(「間違った無我説」の誤解の坩堝(ルツボ)については、真−15−33以下)

 
(真−20−42)
(3) 四源罪の「根本我欲」は、仏教四転倒の「楽」に或る程度該当する。理由は次の通り。
 
 「根本我欲」は自分の誉れと栄光を求めることである。これを求めるのは、本人にとってそれが「喜び・歓楽・安楽」だからに他ならない。
 何かを獲得して所有すると「儲けた。得した。もっと得をしたい」と喜々として思う。つまり、(肉欲的=我欲的)「獲得」を「楽」と見る。これが「根本我欲」と言える。
 一方、仏教の「楽」は、この世の生存生活全体が本来「苦」であるのにも拘らず、肉欲(我欲)に塗れて悪業を重ねることを「楽」と感じ、喜ぶことである。
 よって、四源罪の「根本我欲」と仏教四転倒の「楽」は、「肉欲=我欲」の範囲に限れば、殆ど同一の概念と言える。肉欲に流されることを「楽」と感じてしまい、だからこそ肉欲を求めてしまう、という点では、同じだからである。
 但し、その他の部分では、両者は大きく異なっている。
 仏教の「楽」は、人間の生存生活全体を「苦」と見る嫌いがある。総ての宗派がそうだというわけではないが、(例えば真言密教においては、理趣経を信奉し、そこでは本性的に「楽」である生存状態の称賛が語られている)、初心者的な顕教的な浅薄な理解の中では、現世を厭い、生存を厭い、輪廻転生を厭う、といった厭世的・逃避的な心が霊性修行の道に入って行く「発心の発端」になっているケ−スが多い。このように、生存生活全体を「苦」と見ると、否定の剣を振り回し過ぎてしまう事態に陥り易い。〔※註5〕


(真−20−43)
〔※註5−−−超宗教の「有為/無為」の二分法(「真−2−1」以下)からすると、「無為」に随順した生存生活は「苦」ではない。「無為」は本性的に「苦」ではないからである。(この見方は、絶対法身の特性を「常・楽・我・浄」と理解する如来蔵系・密教系仏教の見解でもある。「真−20−37」参照)
 しかし、顕教的理解に留まる従来の仏教徒は、生存生活自体を「苦」と見るばかりか、輪廻転生全体を「苦」と見て、霊界・天界の高い処での生活すらも「苦」と見る。何故なら、彼らは、霊界・天界の高処での生活を「歓楽と享楽に耽る怠惰な生活」とイメ−ジし、次のように分析するからである。即ち−−−「確かに其処では地上で積んだ善業の御褒美として、そうした幸福な生活が送れるはずだ。しかし、正気になって冷静に考えてみると、そうした天界での安楽な生活は、過去の善業の集積を徒に消費するだけの生活でしかない。よって、善業の集積を使い果たすと地上に転生して来てしまい、又々苦しむことになるではないか。これでは手放しに喜んではいられない。何とかこれを阻止しなければ…。それ故、天界の幸福な生活もまた『苦』なのである」−−−と、小賢しい仏教徒は考える。(チベット仏教も然り)
 こうした見方はヒンドゥ−教の中にもあり、インドの伝統的な輪廻転生「忌避」思想と言える。


(真−20−44)
 しかし、超宗教の「有為/無為」の二分法からすると、天界を、徒に善業の集積を浪費するだけの怠惰一辺倒の世界と見ることは断じてできない。
 何故なら、高い天界に行き、「無為」に随順した生活を送るようになればなるほど、壮大無比なる「無為」の強烈な火炎の如き作用がその者の個我を通して顕現するようになるのが理の当然であるからである。そうして顕現する「無為」の活動は、恰も太陽の表面が核融合爆発によって一瞬毎に猛烈な変化をしているような、猛烈に激しい活動ですらある。
 つまり、天界の上方に行けば行くほど、高速・膨大・壮大なる真理の活動性に随順する傾向を強めて行くのである。
 これは「荘厳なる無為」を深く洞察すれは、自ずと明らかになる真理である。


(真−20−45)
 それ故、天界の高処での生活は、善業の集積を浪費するだけの「有為の生活」では有り得ない。寧ろ、善業・善徳を加算して行く「無為の度合い」の高い生活と言える。従って、より一層高い天界への転生はあっても、悪趣(地獄のような悪い環境・苦界)への逆戻りは有り得ない。(但し、特別の使命を受けて、地球に来る場合などは除く。)
 こうした道理からすると、(死後霊界に行っても「性格・人格」が地上の時と全然異なったものに急変する事は有り得ないので)、地上に輪廻転生するのは、「無為」との連動性を低レベルでしか実現していない者だけ、と言える。「有為」が多いから、「根本我欲」の流れに乗ってしまう傾向が強いからこそ、地上に輪廻転生するのである。過去の善業の集積を使い果たしてしまうと天界から追い出され「地上へ落とされる」ということではない。-->>註終了〕〕

(真−20−46)
(4) 四源罪の「根本盗取」は、仏教四転倒の「浄」に少しだけ該当する。理由は次の通り。
 「根本盗取」とは、自分の「個我(=五蘊)」を「自分のもの」と考えて「自分のもの(所有)」にしてしまうことである。
 「人志の独立騒動の譬え」で言えば、個我(五蘊)を表す「高級車と豪邸」を誰の物でもない(無主物)と考えて、自分の物にしてしまうことである。これは正当な権利無しに、財物を盗取することである。つまり、個我(高級車と豪邸)に対する「所有権発生に関する錯誤」である。
 この場合、冷静に考えればこうした錯誤に陥ることはないので、違法性の認識の可能性が無いとは言えず、盗取の故意も無いとは言えない。にも拘らず、本人は自分の盗取行為を「正当な行為」と考えている。これは丁度、政治家が癒着絡みの黒い献金を受けて、それを自分の懐に入れているのに、「いや、これは浄財だ」と言い張る態度に似ている。つまり、本来、個我を自己所有にしてしまう行為は「不浄」なことなのに、これを「正当な行為」として「浄」と見る、これが「根本盗取」である。 
 よって、この部分だけに絞って見るならば、四源罪の「根本盗取」は仏教四転倒の「浄」に該当する。

 
(真−20−47)
 しかし,仏教の「浄」は、これよりも著しく広い概念である。即ち、本来不浄なもの(と仏教では考える)「肉体や人間社会」(=俗世間=煩悩世界)“全体”を「浄」と見る、そういう錯誤である。
 先に、仏教の「楽」が往々にして広義に解され過ぎ、本来「苦」ではないものまで「苦」と見てしまい、結果、本性的に「楽」であるものまで、転倒錯誤した「楽」だと評価する過ちに陥り勝ちであることを指摘したが、これと同様のことが「浄」にも言える。
 即ち、顕教的理解に留まる従来の仏教徒は、五蘊全部を本来不浄と見て、更には、人間社会全体をも本来不浄と見る。しかし、超宗教の「有為/無為」二分法からすると、五蘊(肉体)も人間社会も、「無為」の働きによって存続していると看破する。
 よって、本来不浄なのは−−−<@意念としての「有為」 Aその「有為」なる「意念」によって生み出される(「無為」に違背した)「行為」 Bその結果付着する霊的穢れ>−−−だけと看破する。(これらを総称して「反転逆賊事」と呼ぶことは既に一−十八−二二で見た通りである。)
 従って、従来の仏教とは異なる、正しい「浄(見)」の概念は、(不浄である)「反転逆賊事」を「浄」と見ること、この範囲だけ、と理解すべきである。
 これよりも広い範囲に解すると、間違いの上塗りになる。〔※註6〕

 
(真−20−48)
〔※註6−−−一例を挙げると、美しい異性を見て「浄」と感じ、その異性を求めて色欲に溺れそうになる場合、顕教部の仏教では、その美しい異性も本来は「不浄な存在」である、と観想するように勧め、「不浄」と見抜けば色欲に溺れることはない、と教える。或いは、上辺の魅力的な肉付きや顔形に囚われることなく、深い洞察力を働かせて、相手の肉を取り除いた骸骨部分のみを見るようにする「白骨観想法」を実践すれば、美しい異性をも本来「不浄」と分かり、煩悩も起こらない、と教える。
 つまり、このように、美人女性の五蘊全体を本来「不浄」と見るように教え、これが異性の実相であるかのように説くのである。(但し、煩悩制御の一便法と知った上で行うことまで否定しているのではない。)

 
(真−20−49)
 しかし、超宗教の深遠玄妙な「無為」洞察の霊的ヴィジョンからすると、異性の五蘊に「無為」の輝きが如実に顕現しているのであれば、在りのままに「浄にして美」と見る。このように見ても、自分自身の意念に「有為」が無ければ、色欲は起こらない。つまり、「根本過失」「根本錯誤」「根本我欲」「根本盗取」という根元の四源罪を止滅させているならば、美しい異性を在りのままに「浄にして美」と見ても、何ら問題は起こらない。そして、事実、そうした美の均衡と形態は、「無為」顕現の雫なのである。
 そして、この道理は、人間社会全体に対しても当て嵌まる。従って、人間社会“全体”を本来不浄と捉える見解は過ちであり、真の実相に反している。〕

 
(真−20−50)
 以上、両「四転倒」の異同について、まとめると、こうなる。
(1)仏教の「常」の概念範囲を大円で表すと、それと同心円の、半径が半分の中円が、四源罪の「根本過失」の概念範囲と言える。この分だけ重なり合っている。
(2)仏教の「我」の概念範囲を大円で表すと、それと同心円の、半径が半分の中円が、四源罪の「根本錯誤」の概念範囲と言える。この分だけ重なり合っている。
(3)仏教の「楽」の概念範囲を大円で表すと、それと同心円の、半径約三分の一(と言っても大まかな目安に過ぎない)の小円が、四源罪の「根本我欲」の概念範囲と言える。この分だけ重なり合っている。
(4)仏教の「浄」の概念範囲を大円で表すと、それと同心円の、半径約十分の一(と言っても大まかな目安に過ぎない)の小円が、四源罪の「根本盗取」の概念範囲と言える。この分だけ重なり合っている。
 これで明らかな通り、「超宗教の源罪四転倒」は、どれも「仏教の四転倒」の各概念の「中核部分」を構成する概念である。従って、「源罪四転倒」をしっかり押さえれば、忽ち「仏教の四転倒」の真髄を押さえたことになり、自ずと「仏教の四転倒」全体を正しく理解することができるようになるのである。

 
(真−20−51)
 −−−以上、人類の普遍的な「罪悪発生原理」である「超宗教の四源罪」について詳しく見て来た。
 宗教の道を正しく歩もうと熱望する者は、徒に神話に惑わされることなく、「普遍的な罪悪発生原理」について「脚下照顧」しながら、自分自身で真理を究明して行き、「我」を見詰めて正しい自覚を深めて行くことか肝要である。
 
 これで、ゼロセクトのブッディ・ヨーガの「第4段階」の解説を終了する。
 

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